第一次世界大戦について語るスレ 5 [無断転載禁止]©2ch.net
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E' A` E` U` A^ E^ I^ O^ U^ E" I" U" C, OE
e' a` e` u` a^ e^ i^ o^ u^ e" i" u" c, oe デイリー・テレグラフが一次戦時の新聞を全公開してる
The Daily Telegraph Day by Day
http://www.telegraph.co.uk/news/ww1-archive/ 写真特集:「幽霊船団」で自然が復活 米マローズ湾
米東部メリーランド州を流れるポトマック川沿いのマローズ湾に、「幽霊船団」がある。
船の多くは第1次世界大戦で連合軍を助けるために建造されたもので、使われないまま廃船となり、沈められた。
かつて船員や乗客が立っていた場所は今、動植物であふれかえっている
http://www.cnn.co.jp/photo/35077821.html datが存在しません。削除されたかURL間違ってますよ。ってエラーが出るな心配 >>14
ドイツは西ヨーロッパで最も人口が多く出生率が高い国だったし兵士の降伏率も最も高かった 1916. March
この間もヴェルダンでは激戦が続いている。
ヴェルダン要塞右翼において大幅に侵入したドイツ軍は、要塞左翼からの妨害砲撃に
悩まされていた。
参謀総長ファルケンハインはこれに対してあえて反撃しないという方針だったが、
前線指揮を担当する第5軍(司令官はヴィルヘルム皇太子)はこれに反し、
要塞左翼への攻撃を企図した。
総予備から2個師団をもぎ取った第5軍は、3月6日に攻撃を開始した。目標は
ヴェルダン要塞左翼前進陣地を構成する高地線。
一時的に戦域の全砲兵火力が高地線に叩き込まれ、目標のひとつ、304m高地は
標高が4m低くなるほどの砲弾を浴びた。
次いで突撃が行われ、1週間の激戦の末、「死者の丘」と304高地、そして南麓にある
二つの村がドイツ軍の手に落ちた。
しかしフランス軍の砲兵陣地はさらにその先、要塞本体陣地にあることがわかった。
ドイツ軍の確保した高地線とフランス軍の保持する要塞本隊との間の丘で激戦が
繰り広げられ、3月22日のドイツ軍の攻撃によって304高地の左翼(西)の陣地が
ドイツ軍の手に落ちたが、ドイツ軍はそこで釘付けになった。
要塞主陣地からの砲撃と、死力を尽くしたフランス軍の反撃にあって、ドイツ軍は
「その場にとどまるためには攻撃し続けなければならない」という苦境に陥った。
今やファルケンハインがもくろんでいた「限定的な攻撃と猛砲撃によってフランス軍の
消耗を誘う」という状況が裏返しにドイツ軍に襲いかかっていた。 ところで、ヴェルダンの戦いはファルケンハインがフランス軍の消耗を意図して始めたという定説は現在の研究では否定論の方が強い
仏独共同通史 第一次世界大戦のような最近の本には明確に書かれている >>22
ほんとだw 買ったのに読んでなかったテヘ
「仏独……」によると、ヴェルダン攻勢におけるファルケンハインの意図は、
・西部戦線における主導権を取り返すための限定的攻勢を行うこと
・サン・ミーエル突出部に対する脅威を取り除くこと
にあったとされる。(下巻p80〜)
ただ、ヴェルダンが1916年を象徴する消耗戦の戦場のひとつとなったことに
ついては、「仏独」も同意している。(p86) 1916. 3. 26-28
パリ連合国会議
パリにおいてフランス、イギリス、ロシア、セルビア、ベルギー、ポルトガル、日本、
イタリアの政府代表が会合。
アスキス(英)とブリアン(仏)などが顔を合わせたが、特に成果はなかった。 ドイツ兵はすぐ投降するってヘイグにいわれてたが、
あれは戦線がボロボロになってきた18年からだろうから仕方ない。 すまんまだロンドンじゃない
最初の空襲
Bury St Edmunds Zeppelin terror raids remembered 100 years on
http://www.bbc.com/news/uk-england-suffolk-35938019 >>25
ドイツ軍捕虜が増大した1918年8月8日のドイツ陸軍暗黒の日ですね
ただドイツ軍全体の士気が低下したわけではなくて。士気の高い組織だっ
た戦闘を継続してる部隊もあれば、戦闘ストライキ状態の部隊もいるし、
前線への再配備を拒んで遊民化した兵士が推定100万人とかこの時期の
ドイツ軍は混沌としててまだ研究が途上だとか。 1916. 4. 6
第3次クート救援作戦発動
メソポタミア戦線、クートに包囲されたイギリス=インド軍への救援作戦は続いていた。
1月の大損害のあと、ガリポリから撤退した兵力(インド軍部隊)を増援された
イギリス軍チグリス軍団は、3月8日に一度オスマン軍の戦線に攻撃をかけたが
撃退され、指揮官エイルマー中将は解任された。
新たに司令官となったゴリンジ少将は、3月の洪水期間を再編成に費し、4月に
再び攻勢をかけることにした。
前線にはチグリス川をさかのぼって有力な砲兵も到着し、ゴリンジは4月6日に
攻勢を発動した。
4日間の戦いで、イギリス軍はオスマン軍の陣地を第二線まで破ることに成功したが、
主力の英本土第13師団はもはや攻撃力を失っていた。
先鋒をインド軍師団に譲り、さらに攻勢は続くこととなる。 /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
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https://www.youtube.com/watch?v=dFj6B-dIKY8 【日本の金正恩】 安倍寛信 【安倍晋三の兄】
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信 三菱重工の重役でもあるらしい
これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある 書けばツイッターで速攻削除されている
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272
どうも日本人のレベルの低さというのは、第2次大戦において、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、
日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。核兵器自体が今の世界では使いものにならないのです。
宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ、宇宙人の存在を公表しなさい、60年の猶予を与えましよう。
ロシアという大国の首相がね、あれは冗談だよでは済まないですね、しかも2回も言ってるんだからね。
https://www.youtube.com/watch?v=FIRXKetUkq8
【天才!志村どうぶつ園】 なぜハイジは動物と話せるのか? 【マイトレーヤの世界演説】
テレパシーによる世界演説は英国BBCが放送
https://www.youtube.com/watch?v=6cOvo6n7NOk
マイトレーヤが世界に向かって話をする準備は良好に進行している。この時、初めての本当の身分を明らかにされます。
25分か35分くらいかもしれませんが、歴史上で初めて、世界的規模のテレパシーによる接触が起こるのです。
いかに距離が離れていてもコミュニケーションができるという未来の能力を暗示するもので、動物も共に持っています。
嘘をつくことは不可能となり、徐々にテレパシーは同じ進化の段階の人々の間でコミュニケーションの手段となるでしょう。 1916. 4. 7
フランチェスコ・バラッカの初撃墜
フランチェスコ・バラッカはイタリアのトップ・エースである。
1916年4月7日、新しく受領したフランス製のニューポール11型「ベベ」戦闘機に
乗ったバラッカ中尉は、イゾンツォ戦線のメデウッツァ(サン・ジョヴァンニ・アル・
ナティゾーネ市内)上空でオーストリア軍のハンザ・ブランデンブルクC.I型複座機を
撃墜した。
実にこれが参戦以来イタリアが挙げた初めての敵機撃墜であった。
バラッカは大戦を通じて34機の敵機を撃墜したが、1918年6月19日に対空砲火に
よって撃墜され、戦死した。 1916. 4. 12
ゴドヴィン・フォン・ブルモフスキの初撃墜
ゴドヴィン・フォン・ブルモフスキはオーストリア・ハンガリー帝国のトップエースである。
彼の出身はオーストリア領ガリツィアのヴァドヴィツェであり、1921年の国境で分けた
出身地で区別するならば、ポーランドのトップエースということになる。
家系的な出自はポーランド系ともドイツ系ともいえる。自身の母語はドイツ語であった。
第二次大戦のポーランド人トップエース、スタニスワフ・スカルスキのスコアは約19機
なので、ブルモフスキはポーランド史上最高のファイター・エースということもできる。
ちなみにロシア領ポーランド出身のトップ・エースはドナト・マキヨネク大尉でスコアは
8機、ドイツ領ポーランド出身のトップ・エースはミエチスワフ・ガルシュトカ少尉でスコアは
6機である。
ややこしい前置きはさておき、ブルモフスキ大尉は東部戦線で航空偵察員として
アルバトロスB.I型に乗っていた。
4月12日、爆撃任務を帯びて西ウクライナのホチン上空へ侵入したブルモフスキたちの
編隊は、ロシア軍のモラーヌ・ソルニエ単葉機の迎撃を受け、ブルモフスキはそのうちの
1機を旋回機銃で撃墜した。
ブルモフスキの機のパイロットは中隊長のオットー・インドラ大尉であった。
インドラ大尉はチェコ人で、戦後はチェコスロヴァキア空軍に入隊し、空軍参謀総長に
まで昇進した。
ブルモフスキはこの後パイロットとなって35機を撃墜し、イタリア戦線の航空隊総指揮官と
なった。戦後は不遇で、1936年に飛行機事故によりオランダで死亡した。 おつ
ハンザ・ブランデンブルクwiki日本語作ってないんだな
まあ英語でいいけど 1916. 4. 15
クート救援作戦再開
メソポタミアのクートに包囲されたイギリス=インド軍の救出作戦は続いていた。
4月9日からのチグリス左岸の攻撃は突破に至らず、攻勢主力であったイギリス
本土第13師団の戦力は消耗した。
チグリス軍団指揮官のゴリンジ少将は、攻勢主力を第7インド師団に替え、第13師団の
砲兵をもって支援させることにした。
15日に再開した攻勢はチグリス右岸に移り、バイト・アシア(バイト・イサとも)の陣地の
争奪戦となった。イギリス軍の攻撃は成功し、右岸での前進は左岸陣地の翼側を
露出させることとなって、オスマン軍の防御は危機に瀕した。
ここでオスマン軍の司令官ハリル・パシャは予備を投入して反撃を行い、大損害を
被りながらもイギリス軍をバイト・アシアから追い出すことに成功した。
この一連の戦いの後、イギリス軍の攻勢は手詰まりとなってしまう。
クート包囲陣内の補給状況は極度に悪化しており、さらなる救援作戦が必要であった。 1916. 4. 17
ロシア軍、トレビゾンドを攻略
カフカス=アナトリア戦線では、ロシア軍の進撃が続いていた。
エルズルムの攻略後、陸海の二方面から黒海沿岸の要衝トレビゾンド(トラブゾン)に
迫っていたロシア軍は、ついにこの日トレビゾンドを占領した。
北部方面の戦線はこれで安定し、ロシア軍の攻勢は続いて南方、アナトリア半島の
脊梁山脈を越えてチグリス川上流地方へと向かうことになる。 UFOや核エネルギーの放出を見ることはエーテル視力を持つ子供たちがどんどん生まれてくるにつれて次第に生じるでしょう。
2歳を過ぎたころ「放射能があるから砂は触れない」「葉っぱは触っちゃだめ」 / りうなちゃんは去年の暮れ、脳腫瘍のために亡くなった。
https://twitter.com/Tom oyaMorishita/status/648628684748816384
宇宙人側からの申し入れは、とにかく核の利用と戦争をやめなさい、もう一つは宇宙人の存在を公表しなさい。
つけ足したのが、60年の猶予を与えましよう、2014年には発表しなければならなかったんですね、宇宙人の存在を。
ロシアという大国の首相がね、あれは冗談だよでは済まないですね、しかも2回も言ってるんだからね。
https://www.youtube.com/watch?v=FIRXKetUkq8
UFOの発見事例ない 中谷防衛相
以前、空自の元空将が、自衛隊機の戦闘機が何度もUFOに遭遇していると書いたことがある。
それ以来、まともな雑誌や新聞のコメントは同氏のインタビューを掲載しなくなった。以前から、色々と問題のある空将だった。
以前、私も空自のパイロット数名にUFOの取材を行ったが、目撃情報は皆無だった。
http://www.kamiura.com/whatsnew/continues_3604.html
どうも日本人のレベルの低さというのは、第2次大戦において、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。
「第二次世界大戦が終わったあと、ドイツ人が戦時中に反重力装置に関する秘密実験を行ってきたことを示す明白で実証可能な証拠が見つかりました。
同時に、アメリカ人とロシア人も反重力を実現するために同様の実験を秘密裏に行っていました。」
テレパシーによる世界演説は英国BBCが放送
https://www.youtube.com/watch?v=6cOvo6n7NOk
マイト★レーヤが世界に向かって話をする準備は良好に進行しています。この時、初めての本当の身分を明らかにされます。
25分か35分くらいかもしれませんが、歴史上で初めて、世界的規模のテレパシーによる接触が起こるのです。
14歳以上のすべての人々はマイト★レーヤの言葉を彼らのマインドの中で、自国語で聞くでしょう。 1916. 4. 19
ゴルツ将軍死去
ドイツの高名な軍事理論家であるコルマール・フォン・デア・ゴルツ元帥は、
オスマン軍の軍事顧問としてメソポタミア戦線を査察していたが、バグダードにて
伝染病(腸チフスともコレラとも言われる)にかかり急逝した。72歳であった。
彼の死については、外国の干渉を良しとしない青年トルコ党一派による毒殺で
あるといううわさが流れた。 1916. 4. 22
第4次クート救援作戦
メソポタミアのクートに包囲されたイギリス=インド軍の状況は風前の灯であった。
これを救うべく、イギリス・チグリス軍団は最後の力をふりしぼって解囲突破を試みた。
攻撃目標はチグリス左岸のサニヤート陣地、4月9日に攻撃して突破できなかった
場所である。作戦当初より戦力は消耗していたが、他に取りうる策はなかった。
攻撃先鋒はインド第3師団、これをイギリス本土第13師団の砲兵と機関銃が支援した。
しかし攻撃は多大の損害を出して失敗し、オスマン軍陣地の奪取も、クート包囲陣
内への連絡もかなわなかった。
チグリス軍団は消耗の極に達し、もはやこれ以上の攻勢は不可能であった。 1916. 4. 24
アイルランドのイースター蜂起
1800年に連合王国に合併されたアイルランドでは、再独立を求める人々がいくつかの
組織を作ってそれぞれ活動を続けていた。
大戦の勃発とともに、そのうちのひとつ、IRB(アイルランド共和国同盟)は、ドイツの
援助を得た武装蜂起を計画した。
その目的は、この蜂起で一挙に独立を達成することではなく、アイルランドの中の
独立の機運を高めるところにあった。
1916年4月、ドイツからの武器を積んだ船がイギリス海軍に発見されて自沈したことから、
計画の発覚が独立運動弾圧を引き起こす前に、先んじて蜂起しようという勢力が
同盟内で優勢となり、4月24日の復活祭月曜日、独立派の軍事組織であるアイルランド
義勇軍は武力蜂起に立ち上がった。 1000人の武装した市民からなる義勇軍はダブリン市内で兵営などを襲い、中央郵便局
前で独立宣言書を読み上げた。
イギリス軍はただちにこれの鎮圧に向かい、1万を超える兵力で義勇軍を攻撃した。
義勇軍は衆寡敵せず追いつめられ、土曜日の4月29日に降伏した。
アイルランド側の死者は82人、負傷者1600人、市民の死傷者800人。イギリス軍は
死者157人、負傷者300人であった。
首謀者は逮捕され、軍法会議にかけられて15人が処刑された。その他、ドイツからの
武器搬入の首謀者も死刑となった。
反乱そのものは速やかに鎮圧されたが、アイルランド独立の機運は、計画者たちの
もくろみ通り大いに高まり、1919年のアイルランド独立宣言と独立戦争につながって
いくことになる。 bbcでちょうどそこのところのドキュメンタリーやってた 1916. 4. 25
ドイツ偵察艦隊のローズトフト・ヤーマス砲撃
2月に司令長官として新たにラインハルト・シェーア大将を迎えていたドイツ外海
艦隊は、優勢なイギリス艦隊勢力を漸減させるべく、巡洋戦艦戦隊によるイギリス
沿岸砲撃作戦を立案した。
夜陰に乗じてイギリスに近づき、未明に都市を砲撃して、迎撃のために出港する
イギリス軽艦艇部隊を、巡洋戦艦の火力で撃滅しようというのである。
もし有力なイギリス艦隊が出撃してきたら、北海中央までおびき寄せてドイツ艦隊
主力によって撃破する手はずであった。
襲撃部隊は巡洋戦艦「ザイドリッツ」(旗艦)、「リュッツォー」、「デアフリンガー」、
「モルトケ」、「フォン・デア・タン」を主力とし、ベーディッカー少将が指揮をとった。
ドイツ艦隊は4月24日午後に出撃し、イギリス海岸をめざした。しかし、まだ大陸の
海岸が見えるところで、「ザイドリッツ」が触雷損傷してしまう。
「ザイドリッツ」は護衛をつけてドイツに帰すことになり、ベーディッカー少将は
「リュッツォー」に移乗した。
イギリス海軍は無線解析によってこの出撃を察知しており、19時過ぎには戦艦
部隊がスカパ・フローを出港した。ハリッジ基地駐在の軽艦隊(軽巡3、駆逐艦18。
指揮官ティリット代将)は深夜0時に警戒のため出撃した。 速力を調整したドイツ艦隊は、翌25日未明にイギリス沿岸に到達した。
3時50分、ティリットはドイツ艦隊を発見、大艦隊司令部に「巡戦4、軽巡6発見」を
急報。
ドイツ側もティリット隊を発見したが、かまわず午前4時10分からローズトフトに
向けて砲撃を開始した。もとより砲撃の効果はそれほど期待しておらず、10分間の
砲撃ののちヤーマス(グレート・ヤーマス)へ転針したが、ヤーマス沖は視界が悪く、
数発の射撃を行ったのみでドイツ艦隊はティリット隊へ向けて針路を取った。
圧倒的劣勢にあってティリットは退避したが、巡戦の砲弾が降り注ぎ、1発は旗艦
「コンケスト」の上構に命中して38名が死傷した。
ベーディッカーは、他の敵情が不明なため深追いはせず、戦艦部隊との会合点へ
向けて舵を切り、戦闘は終わった。ティリットは距離をとりつつ明け方まで追跡を
行ったが、帰投命令に従って帰港した。
最終的にイギリス全艦隊に追跡中止の命令が出た時点で、スカパ・フローから
急行中のイギリス巡戦部隊はまだ2時間以上の航程の地点にいた。
こうして、双方ともに実りのない戦闘は終わった。イギリス側の損害は死者38名と
家屋損害200棟、ドイツ側の戦死者は触雷した「ザイドリッツ」の11名のみであった。
ドイツ側の作戦は成功しなかったものの、「イギリス沿岸の作戦でも、俺たちは
けっこういける」というような戦意の向上の効果はあったようである。この自信が、
来るべきジュットランド海戦につながることになる。 1916. 4. 27
英戦艦「ラッセル」触雷沈没
この日の朝、地中海艦隊所属の英旧式戦艦「ラッセル」は、マルタ島港外を
航行中に2発の機雷に触れた。
機雷は爆発し、後部主砲塔が誘爆するとともに大傾斜を生じたため、総員退艦が
命ぜられた。転覆までの20分間に艦長と座乗していた司令官を含む625名が救助
された。戦死者は125名だった。
救助された中には、のちの地中海艦隊司令長官・第一海軍卿のカニンガム提督
(当時少佐)もいた。
「ダンカン」を沈めた機雷は、4日前にドイツの機雷敷設潜水艦「U73」(艦長ジース
大尉)が敷設したものであった。ジース大尉の機雷は、大戦中にさらなる戦果を
挙げていくこととなる。 1916. 4. 29
クート籠城軍の降伏
4次にわたる救援作戦は失敗し、メソポタミアのクートに包囲されたイギリス=
インド軍の運命はきわまった。
世界初の飛行機による補給物資投下作戦も行われたが、包囲陣内に届いた
物資はわずかであった。
装甲輸送船によるチグリス川の強行遡上も試みられたが、オスマン軍に阻止され、
成功しなかった。
包囲陣内の食糧は尽き、疫病が蔓延していた。
ここに至り、包囲陣内の司令官タウンゼンド中将は降伏を決意した。
4月26日から降伏条件の交渉に入ったが、オスマン軍の求めたのは無条件降伏
のみであった。
タウンゼンドはやむなくこれを受け入れ、29日に無条件降伏した。
147日間の包囲の末、生き延びていた1万のイギリス・インド兵は捕虜となった。
救出作戦における損害は死傷2万3000に達した。
ここにイギリス軍によるメソポタミア作戦は一大頓挫をきたしたのである。
ガリポリの撤退に続く、東方戦線での協商軍の大敗北であった。 1916. 4.
ヴェルダンの戦況
ヴェルダンの戦闘は続いている。ドイツ軍はミューズ両岸において攻撃をくり返し、
フランス軍はそれを逆襲で追い返し、双方とも攻撃・反撃において敵の砲兵火力に
さらされることで多大な損害を出し続けていた。
つまり、3月中旬からの状況がほぼ1ヶ月間続いているわけで、その間に地理的目標は
双方とも確実な奪取・奪回はほとんどなく、死傷者だけが積み重なっていった。
ファルケンハインはすでにこの状況に嫌気がさしてきていたが、攻勢発起点まで
後退して敗北を認める踏ん切りもつかず、人命の大量消費はさらに続いた。 ヴェルダンとか聞くだけで挽き肉が脳裏に浮かぶ…。
そん中を実際に戦った兵士たちの苦労は考え等れないほどだったろう。 >>50
これはすごいなあ。
しかし手書きの横文字を読めるというのもすごいな。 1916. 5. 4
「サセックス」誓約
前年以来、ドイツのUボートはイギリス近海で商船への攻撃を続けていた。
しかし、1916年3月24日、英仏海峡連絡船「サセックス」号が無警告で
Uボートからの攻撃を受けた際、乗船していたアメリカ人3人が負傷した
ことから、アメリカ政府はふたたびドイツ政府に対し強硬な抗議を行った。
アメリカの参戦を恐れたドイツ政府は、5月4日に「サセックス誓約」と
呼ばれる声明を発表した。内容は以下の通り:
1.客船は攻撃目標としない。
2.貨物船は兵器を搭載しているのでなければ撃沈されない。確認のためには臨検を行う。
3.貨物船であっても、その乗組員や便乗者の安全が確保されない限り撃沈されない。
これは実質的に潜水艦による通商破壊戦の停止宣言であった。 別宮氏の本ってアマゾンであんまり評価高くないけど、
WW1の旧サイトの文章も史料や考証としては怪しいのが多いの? >>56
珠玉混合
海外サイトから無断でパクってるところはいいけど、自分で書いているところは論外。 >>50
当事者の回想や、公式記録の類いは多いけど、当事者のリアルタイムでの発言って、
貴重だな。
これは興味深い。 >>50
>フランスのこの時期の葉書の文面の解読・分析を試みたものは、書籍・インターネットを問わず、日本語で読めるものとしては本サイト以外には存在しないのではないかと思われる。
仏国戦死軍人絶筆集があるだろ
あれは遺書だけじゃなくて普通の手紙も含まれてる
あとバロン滋野他のパイロットとか在仏画家の戦中フランスから日本に送られた葉書をまとめた本も俺は持ってる
どちらにせよどんなに文章が偉大でもこういう思い上がった書き方は好みじゃないな 第二特務艦隊が単独で連合軍の海上護衛にあたった回数は350回に及び、護送した軍艦、
輸送艦合わせて787隻、乗組人員総数75万人 うち643隻がイギリス船であった。
この他連合軍海軍と協力して護送した商船の数を加えると膨大な量に上り、第二特務艦隊の
1ヶ月の行動日数は26日 航程6000海里にも及んだ。この間、ドイツ潜水艦との交戦は36回、
少なくとも13回は有効な攻撃を加えたものと認められた。損害は駆逐艦2隻損傷、戦病死者78名で、
うち73名はマルタ島のイギリス海軍墓地に葬られた。
http://holywar1941.web.fc2.com/kindai-nitidoku2.html
1914−1917年、ロシアは日本における軍備品買い付けに約8千万ルーブルを費やしたが、
これは外国から買い付けた軍備品の総額の3分の1を占める額だったと思われる。パヴロフ氏
の著書では日本があたかもロシアに対し、自国に必要のない、時代後れの軍備だけを供給した
といわれていることに対し、これが作り話だとして否定されている。
「ロシアの砲兵らは日本製の大砲が軽量で使用しやすく、射撃速度が速いと評価していた。
有坂銃は信頼性が高く、これに類似した米国製の銃の半額でロシアは買い付けることができた。」
http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2014_04_20/271449284/ >>51
ある程度の量を読むとその人の筆記体の癖が分かって何とか解読できるようになるけど、
いくら専門家の力を借りてるとは言え、たったはがき一枚分で理解できるのはすごいわ。
「筆者が趣味で個人的に集めている葉書の中から」って書いてるけど、一体どうやって
集めたのか気になるw 1916. 5. 15
オーストリア軍のトレンチノ攻勢
前年のイタリア参戦以来、オーストリア軍は受け身の姿勢で度重なるイタリア軍の
攻勢に対し続けていた。
しかしオーストリア国内には三国同盟を裏切ったイタリアへの敵愾心が強く、
参謀総長のコンラート・フォン・ヘッツェンドルフ上級大将もイタリアへの「懲罰攻勢」を
考えていた。
そのプランは、南に突出したオーストリア領南ティロール(トレンチノ)から攻勢を
発起して一気にアドリア海へ進出し、東に突出しているイタリア全軍を包囲殲滅
しようという雄大なもので、コンラート・フォン・ヘッツェンドルフはそのためにドイツ軍に
助力を依頼した。
しかし1916年前半においてはまだドイツとイタリアは戦争状態になく(この年の8月
28日にイタリアから宣戦)、ドイツ軍参謀総長ファルケンハインは助力を断った。 そのため、攻勢はオーストリア軍のみで行うこととなった。
オーストリア軍は、一時平静となっていた東部戦線から兵力を移動し、2個軍
約30万の兵力を集結した。兵力比は2倍弱であった。
攻撃は5月15日に開始されたが、険阻な地形と残雪のために速やかな前進は
不可能だった。
イタリア軍は初動こそ遅れ、大量の捕虜を出したものの、予備を速やかに集結
させて新たに第5軍を編成し、オーストリア軍を迎え撃った。
攻勢はアジアーゴ盆地を占領し、さらにヴェネト平野から20キロあまりの地点
まで達したが、そこで手詰まりとなった。
さらに、6月4日に東部戦線でロシア軍の大攻勢が開始されたため、オーストリア軍は
攻勢を中止して兵力を東部へ向けざるを得なくなった。
6月18日、正式に退却命令が出され、攻勢は終結した。オーストリア軍は自らの
損害10万に対しイタリア軍に14万余りの損害を与えたが、地理的獲得はわずかで
あった。 「歴史群像」6月号のジャットランド海戦記事、なかなか面白い。 1916. 5. 16
サイクス・ピコ協定
開戦当時から、「欧州の病人」オスマン帝国を協商国の間で分割してしまおうと
いう構想があった。
この件に関しては1915年から英仏露の間で協議が行われ、ガリポリ・メソポタミア・
カフカス戦線の作戦もその構想の上に行われていた。
1916年になって協議はおおむねまとまり、大ざっぱに言ってシリアをフランスが、
メソポタミアとヨルダン川流域をイギリスが、アルメニアとボスポラス海峡地域を
ロシアが得、パレスチナは国際管理地域とすることとなった。
協定は、5月16日にイギリス側代表のマーク・サイクスとフランス側代表フランソワ・
ピコの間で調印されたが、外交上の秘密として公開されなかった。
その後、ロシア革命に伴ってボリシェヴィキ政府がこれを公開したため、アラブの
独立と統一を求める勢力は憤激することとなる。 1916. 5. 16
アルバート・ボールの初撃墜
のちに通算撃墜数でイギリス4位の撃墜王となるパイロット、アルバート・ボール
少尉は、1916年2月に航空隊に配属になってから、複座偵察機に乗って撃墜される
など苦労を重ねていた。
5月にボールは単座機の部隊に配属替えになり、ブリストル・スカウトに搭乗する
ことになった。
16日の出撃で、ボールはドイツ軍のアルバトロスC型複座機を発見し、これを撃墜した。
これが彼の初撃墜となる。
ボールはこの年の8月〜9月にソンム上空で次々と敵機を撃墜し、国民的ヒーローと
なるが、1917年5月にドイツのエース、ロタール・フォン・リヒトホーフェンに撃墜されて
戦死した。 ガチおすすめ
Verdun 1914-1918 Alain Denizot (Auteur)
https://www.amazon.fr/dp/2723305147/
Les fortifications de Verdun (1873-1918) : Strate'gie et tactique
https://www.amazon.fr/dp/2361720094 母国のフランスでさえレビューがついていないような本を、なぜ日本人のワイらに勧めるのか。。 第1次大戦激戦地で式典=独仏首脳、欧州統合訴え
ttp://www.jiji.com/jc/article?k=2016052900059&g=int 1916. 5. 31 - 6. 1
ジュットランド海戦
英独主力艦隊全力が激突した大戦中唯一の大海戦。デンマーク北西沖、
スカゲラック海峡の出口付近で戦われた。
イギリス側戦力は、巡洋戦艦9隻、ド級戦艦28隻、装甲巡洋艦8隻、軽巡洋艦
26隻、駆逐艦78隻。
ドイツ側戦力は、巡洋戦艦5隻、ド級戦艦16隻、旧式戦艦6隻、軽巡洋艦11隻、
駆逐艦61隻。
戦闘は決定的な勝敗がつかず、数で劣るドイツ側の撤退で終わったが、イギリス側も
かなりの損害を出した。
沈没艦は、イギリス側が巡洋戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、駆逐艦8隻。ドイツ側が
巡洋戦艦1隻、旧式戦艦1隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦5隻。
イギリス巡洋戦艦3隻の爆沈など、その後の艦艇設計思想に大きな影響を与える
戦訓を残した。
詳細についてはとてもここでは書ききれないので、「歴史群像」誌の最新刊の特集
などを見てほしい。
http://amazon.co.jp/dp/B01DE0B5MY Guide: The Battle of Jutland
ttp://www.bbc.co.uk/newsround/36412404 1916. 6. 4
ブルシーロフ攻勢発動
前述の通り、1916年夏季に連合軍が西部・東部・イタリアで同時に攻勢をとることは
既定の計画であった。
その計画にのっとり、ロシア軍は主に南西方面、ガリツィアのオーストリア・ハンガリー
軍を攻撃することにした。
オーストリア軍がティロール方面で攻勢をとったことから、前線の兵力比が有利に
なっていたからである。
攻勢主力はアレクセイ・ブルシーロフ大将率いる南西方面軍、兵力は55個師団。
対するオーストリア軍は48個師団、しかし充足率はロシア軍の方が上であった。
ブルシーロフは攻勢にあたって奇襲効果を重視した。
そのため、西部戦線では数日にわたるのが常であった準備砲撃は5時間にとどめ、
また、狭い正面に兵力を集中して突破を図るのではなく、なるべく広い正面で同時に
攻勢を発起し、敵の対応が遅れた地点から味方の兵力を流し込んで、敵の全面崩壊を
誘うことにした。
砲兵は敵の対応を妨害するために、後方の連絡結節点を狙って砲撃を行うこととした。 6月4日に攻勢は開始された。その幅は480キロメートル、北はプリピャチ湿地から
南はカルパチア山脈に及ぶ広い正面での攻撃であった。
オーストリア軍はこの攻撃に耐え切れず、戦線はブルシーロフのもくろみ通り
全面崩壊の危機に瀕した。
ロシア軍の前進は迅速で、取り残されたオーストリア軍の部隊は次々と降伏した。
攻勢開始1週間でロシア軍が得た捕虜は20万に及んだ。
オーストリア軍はやむなくティロール方面での攻勢を中止し、兵力を東部戦線に
転用することとなった。ドイツ軍も西部戦線からの兵力転用を考え始めた。
ロシア軍は大勝利をつかみつつあった。 1916. 6. 5
キッチナー元帥戦死
準備進行中の連合軍の夏季攻勢の調整のため、イギリス陸軍大臣キッチナー
元帥はロシア軍首脳との会談を行うこととなった。
キッチナーは装甲巡洋艦「ハンプシャー」に乗り、海路ロシア北洋のアルハンゲリスクへ
向けてスカパ・フロー軍港を出港した。
6月5日19時40分、港外に出てオークニー諸島の沿岸を回り始めたところで、
「ハンプシャー」は触雷した。触雷によって艦の前部に大破孔が生じ、「ハンプシャー」は
わずか15分で沈没した。
折からの悪天候の中、脱出と救出は困難を極め、乗員と便乗者662人のうち、生存者は
たったの12人であった。キッチナー元帥もサヴィル艦長もその中にはいなかった。
「ハンプシャー」を撃沈した機雷は、ドイツ潜水艦「U75」が5月28日に敷設したものだった。
これはジュットランド海戦に先立って、スカパ・フロー軍港から出撃するであろうイギリス
主力艦隊を狙って敷設されたものだったが、結果としてイギリス海軍ではなく陸軍に
大きな損失を生じさせることとなった。
陸軍軍部を代表する閣僚であるキッチナーの戦死によって、内閣では文民政治家の
勢力が強まり、陸軍大臣職は軍需大臣のロイド・ジョージが兼任することとなった。
この動きはこの年の暮れのロイド・ジョージ戦争内閣の成立に結びついていくことになる。 1916. 6. 10
アラブのフサイン挙兵
1908年の青年トルコ人による革命以来、オスマン帝国の中ではトルコ民族主義に
基づくトルコ人至上主義が力を増し、帝国内の他民族への待遇は悪化していた。
この政情は帝国内の諸民族の民族意識を刺激することとなり、中でもアラブ人は
オスマン帝国政府への不満を募らせていた。
イギリスはこの状況を利用し、オスマン帝国内に混乱を生じさせるべく、アラブ人
有力者に対しオスマン帝国からの離反を誘う工作を開始した。
この工作に応じたのが、アラビア半島南部ヒジャーズ地方の太守で名家ハーシム
家の当主であるフサインであった。
フサインはイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンと1915年から
数度にわたり書簡を交わし、イギリス軍の援助のもとオスマン帝国に反旗を翻す
ことの見返りに、戦後はアラビアにアラブ人の独立国を建国することを認めさせた。
フサインは1916年6月10日、「ヒジャーズ王国」の建国を宣言してオスマン帝国から
離反した。同時に紅海岸のジッダ港に兵力を進めてこれを占領した。
その後もフサインはアラビア半島においてオスマン帝国軍と戦い、帝国の戦力を
誘引し続けることとなる。 今度発売される、第一次大戦を舞台にしたFPSゲーム『BattleField 1』のマルチプレイモードで、どういう
わけかフランス兵とロシア兵ではプレイできない仕様であることが判明したため、両国のゲームユーザを
中心に改善を求めて署名活動を開始。
Russian Empire and France in Battlefield 1
https://www.change.org/p/russian-empire-and-france-in-battlefield-1 >>86
アメリカ兵プレイすらできるのに!というのは本当に怒っていいな。 >>86
えぇ…フランスもロシアも当時の戦争のメインプレイヤーでしょうに… 1916. 6. 18
マックス・インメルマン戦死
ドイツの撃墜王マックス・インメルマン中尉は、この日までに15機の敵機を撃墜し、
同僚のオスヴァルト・ベルケと撃墜競争を繰り広げていた。
この年の1月には両者ともプロイセン=ドイツ最高の戦功章、「プール・ル・メリット」を
受章していた。
6月18日の夕刻、フォッカー単葉機に乗ったインメルマンは、北フランス、パ・ド・
カレー県のサロミーヌ上空でイギリス軍のF.E.2b複座機の編隊と空中戦に入った。
インメルマンは僚機と共同で敵の1機を撃墜したが、混戦の中でプロペラに被弾し、
機体は制御不能となって墜落、インメルマンは戦死した。
イギリス軍はG・R・マッカビン少尉とJ・H・ウォーラー伍長のペアの機による撃墜だと
主張したが、インメルマンが空中戦で負けたとは信じられなかったドイツ側では、
友軍の地上砲火が誤って命中したものである、あるいは機銃の同調装置が誤作動して
自機のプロペラを打ち抜いたのである、と主張した。
インメルマンの遺体は地上部隊によって回収され、故郷のドレスデンに護送されて
ザクセン邦国の最高の栄誉によって葬送された。
プール・ル・メリット勲章を俗に「ブラウアー・マックス」(青いマックス、英語では
「ブルー・マックス」)と呼ぶのは、マックス・インメルマンの受章に由来すると
いわれている。 インメルマンの撃墜スコアは公認15機、非公認2機。 中黒がandの意味なら何歳だよって感じだし、第一次大戦自体が趣味ってならルーマニア首相的なアレかな? 1916. 6.
ヴェルダンの戦況
5月の末からドイツ軍は再び攻勢主軸をミューズ東岸に変え、要塞主陣地である
ティオーモン堡塁からヴォー堡塁のラインに攻撃を行った。
猛烈な砲撃の下、6月初旬にドイツ軍は堡塁ラインに突入し、7日にはヴォー堡塁を
奪取した。
要塞主陣地の陥落の報を聞いて、一時フランス軍は恐慌に見舞われたが、すぐに
立ち直って予備の陣地を強化し、ドイツ軍のさらなる攻撃に備えた。
ここで天候は豪雨となり、ドイツ軍の前進は一段落した。フランス軍はさらなる予備を
投入し、ここでも反撃と再反撃が繰り返され、両軍の損害はうず高く積み上げられた。
天候の回復を待ち、ドイツ軍は6月22日に攻勢を再開した。
この時ドイツ軍砲兵はフランス軍砲兵陣地に対して大量のジフォスゲンガス弾を使用し、
一時的にフランス軍の防御力は弱まった。
ドイツ軍はそれに乗じて東岸陣地西翼のティオーモン堡塁と中央のフルーリー村を
占領した。時に6月24日、ヴェルダン市の城壁まであと5キロメートル。
――しかしここで、北方のソンム戦線で英仏軍の攻勢準備砲撃が始まった。
英仏軍の大攻勢に備えるため、ドイツ軍は兵力を、特に重要な砲兵戦力を北転させる
必要に迫られた。
フルーリーを巡ってまだまだ激戦は続いたが、ドイツ軍はこれ以上大規模な攻勢を
かけることはなかった。
フルーリーはヴェルダンにおけるドイツ軍の最大進出点となった。 第1世界大戦ソンムの戦いから100年 近代戦争の分水嶺
第1次世界大戦で多数の死者を出した激戦「ソンムの戦い」からちょうど100年がたった。
1916年7月1日にフランス北部を流れるソンム川近くで始まった会戦は同年11月まで続き、英仏などの連合国軍とドイツ軍双方で100万人以上が戦死したとされる。
人々がそれまで知らなかった機械化された戦闘という、近代戦争の始まりも象徴するソンムから、アラン・リトル記者がリポートする。
動画 翻訳付き
http://www.bbc.com/japanese/video-36680965 1916. 7. 1
英仏軍のソンム攻勢始まる
1916年夏季において西部戦線で攻勢に出ることは、すでに1915年12月に協商軍
首脳部の間の協議で決まっていた。
攻勢をかける場所については、英仏軍の双方が参加できるよう、戦線の英軍担当部と
仏軍担当部の連接点、北フランスのアミアン東方、ソンム川の両岸と定められた。
折悪しく2月にはドイツ軍のヴェルダン攻勢が始まり、フランス軍は膨大な消耗を
強いられた。そのため、フランス軍がソンムにおける大攻勢に割ける戦力は少なくなり、
結果としてソンム攻勢の主力はイギリス軍となった。
6月には東部戦線でロシア軍によるブルシーロフ攻勢が始まり、オーストリア・
ハンガリー軍は崩壊の危機に瀕した。これを支援するためにドイツは東部戦線へ
増援を送る必要が生じたが、英仏軍のソンム攻勢はそのための対応戦力を西部戦線に
引きつけておく役割が期待された。
結局はドイツは、「総力戦」体制の確立によって、西部で守りを固めると同時に
東部へ送る戦力を作り出すことに成功するのであるが。
ともあれ、西部・東部・イタリアの3戦線で同時に攻勢をかけるという戦略方針は
実行に移される。攻勢発起は7月とされた。 攻勢を担当するイギリス軍は、この1年に膨大な規模に拡大していた。
開戦時に7個師団にすぎなかったイギリス遠征軍(BEF)は、陸軍大臣キッチナー卿が
推し進めた大拡張政策によって、1916年には60個師団にまで膨れ上がっていた。
短期間にここまで拡大した軍の実力はだれにもわからなかった。
攻勢第一波は英軍13個師団+仏軍6個師団、攻勢正面は約30キロメートル。
攻勢のために、イギリス陸軍飛行隊から185機、フランス陸軍航空隊から201機の
飛行機が集められ、敵後方の偵察や砲兵観測任務についた。
7月1日の攻撃開始に先立って、5日間の準備砲撃が行われ、150万発の砲弾が
ドイツ軍陣地に降り注いだ。この砲弾量は1915年に消費した全砲弾量を上回るもので
あった。
英仏軍の攻勢準備は極めて大規模で、ドイツ軍に対し隠蔽することは不可能だった。
ドイツ軍は攻勢を受け止める戦域に3重の塹壕線を設け、砲撃に耐える地下壕を増設し、
膨大な量の有刺鉄線を張り巡らした。
6月24日にはヴェルダン方面で砲弾の節約が命じられ、前線から予備兵力の抽出が
始まった。攻勢正面には6個師団が配備された。
航空戦力も次第に集結し、6月末までに129機の飛行機が展開した。 そして7月1日。猛烈な砲撃がドイツ軍陣地を叩いた。轟轟たる砲声は英本土からも
聞こえたという話がある。
朝日が戦場を照らすとともに歩兵が前進を開始した。身を隠す物とてない塹壕線の
間の「ノー・マンズ・ランド」を進むうちに、地下から這い出してきたドイツ兵の機関銃の
銃火は、攻撃軍の兵をなぎ倒した。死傷者はまたたくうちに膨大な数となった。
それでも攻撃軍はドイツ軍の戦線に殺到し、いくつかの陣地に突入した。ドイツ軍の
反撃はある個所では成功し、ある個所でははね返された。
全体として、この日のうちに前進がドイツ軍の予備陣地に達した個所はなかった。
そして、そのわずかな前進の代価として、この日一日だけで戦死者2万、負傷者6万
以上が生じた。これは今なお破られることのない、イギリス軍が1日でこうむった最大の
損害である。対するドイツ軍の損害は死傷・捕虜合計1万2000であった。
この損害を見て、攻勢を指揮するイギリス遠征軍総司令官ヘイグ大将は――さらなる
攻撃の継続を命じた。この日は141日に及ぶソンム攻勢の最初の1日にすぎなかった
のである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています