羽生善治は大山康晴を超えることができるのか?★18
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数字の上では歴代1になったが、何か足りないモノがあるもの事実。
名実ともに文句の付け様が無い地位まで登り詰める事が出来るのか?
これからも目が離せない。
前スレ
羽生善治は大山康晴を超えることができるのか? 17
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/bgame/1568511584/ でも今日の羽生ー渡辺は本当に素晴らしい勝負だった。
羽生も大山も渡辺も本当にプロ中のプロだよ。 「無礼不遜な態度」
https://books.google.co.jp/books?id=nCNvlH51ZeAC&pg=PP11
> ところが、この名人挑戦対局に至って、いちじるしい変化が起った。
> 彼の重厚な人柄が一変していたのである。
> 倉島竹二郎君の語るところによれば、ただ、呆れるばかりであったというが、
> 不遜とも何とも言いようがなく、すでに自分が名人にきまったかの如く塚田をなめてかかり、
> それが言行の端々に露骨に現れ、正視しがたい生意気、無礼な態度であったということである。
> 塚田がよく奮起してこの思いあがった小僧をひねりつぶしたのは大手柄であった。
> 大山の無礼不遜な態度は観戦した人々によって厳しく批判された。
> 敗れた彼に同情した者は――ヒイキは別にして、公平な将棋ファンには殆どなかったようである。
> 彼の敗北を惜しんだ者もいなかった。
> 思いあがった小僧が名人にならなくて良かったというのが万人の胸のうちであったのである。 「家族的な雰囲気」
https://books.google.co.jp/books?id=Zyi3CwAAQBAJ&pg=PA34
> 大山先生はタイトル戦では自分のペースに巻き込み、
> 家族的な雰囲気でやっていた。私はそれほど気にならなかったが、
> これに調子を狂わされた挑戦者も多いはずだ。 「対局する棋士は、熱海に出かけた」
http://textview.jp/post/hobby/4386
> 当時は岡山に住み、対局のたびに東京に来ていたが、交通が不便な時代
> だったので、頻繁に行き来することができず、東京に出たときは、数か月熱海の
> 旅館に滞在し、そこで対局をこなした。
> つまり大山と対局する棋士は、タイトル戦以外の場合、熱海に出かけたのである。
> 当時の名人の日常はそのくらい優雅なもので、特権階級と言えた。だから
> 私などは、大山が対局しているのはもちろん、姿を見ることもできなかった。
> そのころの大山は、常宿の美しい娘さんとよい仲になり、まるで新婚気分である、
> との噂があった。これが後年、スキャンダラスな小説を書かれる原因になった。 「福田家事件」
昭和49年、棋聖だった内藤は、挑戦者に大山を迎えた。
そのときのたぶん第1局だったと思うが、東京四谷「福田家」での対局前夜、ちょっとした事件が起こった。
その日、内藤は東京につくのが少し遅れた。待っていた大山は、新聞社の設営担当者に、時間に
なったから会食をはじめるよう、うながした。大山が言うのなら仕方ない。担当者は従った。
大山の食事は早い。出される料理を片っ端から平らげ、一通り出て終わると、すぐ御飯を頼んだ。
対局前夜の宴会だから、ゆっくり酒を飲みたい人は多かったが、そんなのはお構いなし。
早々に食事を済ますと、すぐ麻雀の用意をさせる。これがタイトル戦での大山ペースだった。
ちょうどそのとき、内藤が着いた。すぐ宴会場に行くと、もう膳はすべて下げられていた。
それを見て、内藤の顔色が変わったそうである。物も言わず、荒々しい足取りで部屋を出た。
麻雀を打っていた大山は、ちらっと内藤を見た。それはぞっとするほどの、軽蔑のまなざしだった、という。
自室に入って、内藤の憤懣はますます嵩じた。
内藤が関西を立つときは、主催誌の担当者がつきそっていて、やむを得ない事情があって、少し遅れるのは
伝えてある。なら、少しくらい待っていてくれそうなものではないか。タイトル保持者の面目は丸つぶれだ。
こらえられなくなり、銀座に出て、その夜はしたたかに飲んだ。それに付き合ったのは、芹澤博文だった。
翌日の対局は、もう書くまでもない。内藤は惨敗し、そのシリーズは、1勝3敗で内藤はタイトルを失った。
内藤は、中原と並んで、大山を倒す有力候補だったのである。それが、この時の棋聖戦を境に、内藤は
大山に全く勝てなくなり、これ以後十年以上に渡って、肝心の順位戦では一度も勝っていない。
大山は、自分の地位を脅かすような後輩すべてに、このような仕打ちをし、そうして勝ち続けたのである。 「大山は対局中、内藤先生の考慮中に、
『内藤さん、テレビに出ると、いくらもらえるの?』
なんてことをぼそっと聞いてきたんだそうだ。
カチンと来て集中できなくなったとか。」
「封じ手を2時過ぎにやって、すぐ麻雀にしようとか」
「福田家には、お手つきの仲居さんがいたしね」
「大山はそういった対局中の雑談攻撃が大の得意だった。
名人戦でも山田さんの考慮中にパチンコ談義を続けて山田さんブチ切れ。
大山は密室時代の最後の大物棋士で録画録音を嫌ってた。
還暦で名人戦に出たときはマイクを切ることに異様にこだわるし。」
現代の感覚で判断すると、大山の盤外戦術は常軌を逸していましたから。 「麻雀旅行 ― 対局場を仕切って自分のペースにする」
大山は全盛時代、タイトル戦の対局で全国を転戦していたが、まるで麻雀旅行みたいな有り様だった。
対局場に着くと麻雀卓をすぐ用意させ、立会人や記者などの関係者と麻雀を打った。
それは対局前夜、1日目の夜、2日目の終局後と、3日間に及んだ。対局中には自ら関係者を指名して
控室で打たせ、たまに立ち寄って観戦した。大山は麻雀を楽しむために対局しているようだった。
だから麻雀をしない者は疎んじられ、「立会人は麻雀を打てる人にしてほしい」と関係者に注文をつけた。
私は修業時代、大山のタイトル戦の記録係を何回か務めたが、不思議な光景を見たことがある。
1日目の封じ手時刻(当時は6時)を2時間前に早めることを、大山が相手の挑戦者にじかに
持ちかけたのだ。その2時間分は折半し、両者の直前の指し手に1時間ずつ加えて「みなし長考」に
するもの。大山のこの不可解な申し出に対して、若くて従順な挑戦者は断りきれなかったようだ。
まだ陽の高い4時に封じ手となり、1日目が終わった。
私は先輩の記録係から聞いて、その事情を知った。
大山は対局を早く切り上げて麻雀を打ちたかったのだ。
やがて控室から麻雀パイの音が響いてきた。
大山はタイトル戦の対局で、なぜあれほど麻雀三昧に過ごしたのか。
大山にとって麻雀は、スポーツ選手の軽いストレッチ体操みたいなもので、頭をほぐして
気分転換を図ったと思う。それと、別の大事な理由があった。
大山は盤上の戦いだけでなく、対局場を仕切って自分のペースにするのも戦略だと思っていた。
麻雀はその小道具だった。ひとつの盤外戦術といえる。 「宴席出席を強要」
羽生善治がまだ駆け出し(C1級で高校に通学中)の頃に、大山康晴との対戦
(1988年5月王将戦二次予選)の前後に過密スケジュールを大山に組ませられ、
しかも大山は途中で対局を一時中断すると羽生を青森県百石町まで連れ出し、
そこで対局の再開を強いた上に後援会の宴席まで出席を強要した。 「将棋界はこれでいいんだ」
まず気になる文章は「超一流料亭なら…当然」というくだりである。この断定はいただけない。
遅れたといっても6時半を少し回った程度で、これはまだ夕食の時間内である。
一応は酒も出る「前夜祭」が、こんな時間で終わりになるというのは常識では考えられない。
超がつけば尚更のこと、来ると決まっている主賓の食膳を麻雀のために片づけるという
無法なことはしないもの。しっかりした仲居なり女中がいたら、こんなことはしなかったろうと思う。
しかしこの場合は無理のない事情もあった。第一人者が、人を集めて早く麻雀をしたいという。
周囲が顔色をうかがうのは、まあ自然といっていいことで、責める気はない。
この料亭はそれまでに幾度も使っているから、将棋界は(升田さんが出た時以外は)これで
いいんだという、一種の慣れ、あえて言えば、ワル慣れが出来ていたこともあったと思う。
https://shogipenclublog.com/blog/2015/04/29/ 「これ(覚せい剤)は、いくらですか」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43166_23712.html
> さすがに若さは別で、四十ちかい連中以上が十二時すぎると
> ノビてしまふのにひきかへ、大山、原田、碁の藤沢などは、翌朝の五時になつても、
> 目がパッチリと、疲れの色がほとんどなかつた。
>
> その大山でも私のゼドリンの小箱を物珍しさうに手にとつて眺めて、
> 「これのむと、ほんとに、ねむくないのですか」
>
> 「さうです。だけど、君や藤沢君の顔を見ると、ちッとも疲れたやうぢやないね。
> 対局になると、やつぱり、疲れるの?」
>
> 「ええ、十二時前後から、頭脳がにぶつて、イヤになります」
>
> 彼はいつも話声が低く静かである。そして、
> 「これは、いくらですか」
> と、いかにも大阪人らしく、値段をきいた。
>
> 「この薬はね。もう薬屋では販売できなくなつたから、お医者さんから貰ひなさい。
> 名人戦だの、挑戦者決定戦だのと、大切な対局だけに使ふ限り害もなく、
> まるでその為にあるやうな薬だから」
>
> と、私は大山に智恵をつけておいた。私は実際、彼らこそ、この薬を服用すべき
> 最も適した職業の人と考へてゐるのである。名人戦といへば死生を賭けたやうなもの
> でもあるし、覚醒剤の必要な対局は、A級棋士で年に十回、挑戦試合が五回、それだけ
> しかないのである。我々のやうにノベツ用ひて仕事をするから害になるが、彼らは年に
> せゐぜゐ二十回、そしてそこには、元々、死生の賭けられてゐる性質の対局なのだ。 「盤外で様々な出来事があったのは平成の始めぐらいまで」
https://www.shogi.or.jp/column/2019/03/post_509.html
盤外で様々な出来事があったのは平成の始めぐらいまでだったと記憶しています。
昨今の対局室はいつも静かで私語も憚られる雰囲気ですし、感想戦も落ち着いて
あっさりと終わるようになりました。文字通り、平らに成った時代だったと思っています。
※大山が死去したのは平成4年 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています