柄谷行人の晩年をひっそりと見守るスレ
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わかんない起源を妄想してもしょうがないよ
無料でツッコミ入れてるお前も暇人なんだろうね 948の訂正
×柄谷行人のいう交換様式Bの発生の要因
〇柄谷行人のいう交換様式Bが支配的になった要因 何かをストイックにやっている人は反復強迫によって
そうしている。反復強迫とは例えばそういうもの。 「モーゼと一神教」 小山尚之による要約
a.モーゼはユダヤ人ではなく,エジプト人である。しか
も王族のなかの高位のものであり,おそらくアメンホ
テプ 4 世の側近である。
b.モーゼがユダヤ人につたえた一神教は,アメンホテプ
4世 ( のちにイクナートン ) と名乗るファラオが,実
現しようとした一神教である。しかしイクナートンの
宗教改革はそのあまりに激しい偶像破壊ゆえに,のち
の時代には受け継がれなかった。モーゼはイクナート
ンの一神教を実験するためにユダヤ人を砂漠に連れ
出した。
c.ユダヤ人はモーゼの要求する一神教の峻厳さに耐え
切れず,彼を殺害し,その肉を食べた。ユダヤ教にお
いて供犠の子羊を食したり,キリスト教においてイエ
スの聖体(パンと葡萄酒)を拝領するのは,はるかに
遠い過去のモーゼ殺害の無意識の反復である。
d.しかし『旧約聖書』にはモーゼの殺害について一行の
記載もない。彼を殺害した記憶はユダヤ人たちのあい
だで「抑圧」されている。
e.この記憶の「抑圧」ゆえに,ユダヤ人は反復強迫症に
陥っている。この反復強迫は,個人のものではなく,
集団としてのアイデンティティーに関わるもので,世
代から世代へと何世紀にもわたって伝えられる。そし
て預言者があらわれるたびに(たとえばエレミヤ,ゼ
カリア,イザヤ,そしてイエス)ユダヤ人は抑圧して
いる過去の行為を無意識に反復し,彼らを殺害する。
f.ユダヤ人がかくも長きに渡ってモーゼの一神教を
守ってこれたのは,モーゼ殺害にたいする集団的「抑
圧」あるいは「忘却」による。 柄谷行人「交換様式論入門」
「フロイトの(「原父殺し」に関する)仮説は、今日ではまったく否定されています。しかし、
私はフロイト自身が活用しなかった彼の理論にもとづいて、互酬交換の起源を
説明できると思います。それは「死の欲動」を導入した後期フロイトの理論です。」
と柄谷は言うのだが、1938年に書かれた「モーゼと一神教」は、
後期フロイトの理論に基づくものだろう。 「向こうから来る」と柄谷は言う。
どうやら柄谷はこの言い方を比喩として言っているのではない。
「向こう」が実体化されてしまう限り、チカコーは
核心に錯誤を含むと見ざるをえない。
ちなみに我々が「何々せざるを得ない」と言う時、その
「何々」は「向こうから来る」ということが比喩としては言える。 >>916
「負債・人間・贈与−負債経済論とマルクス経済学」
大澤弘慈
新自由主義は、「資本家/労働者」「福祉国家/利用者」「企業/消費者」といった権
力諸関係の多種多様性を通して統治しようとするのだが、しかし「債権者/債務者」関係はそれ
らの関係を横断的に貫いて労働者、利用者、消費者を「債務者」に仕立て上げるもっとも普遍的
な権力関係(あるいは統治技術)である。
マルクス「信用と銀行」
「信用システムにおいては、外部からの物質的力は断ち切られ、自己疎外の状態は廃棄され
て、人間は再び人間との人間的諸関係のなかに置かれる。(中略)しかし、この疎外の解消、
この人間のおのれ自身への ― したがって他者への ―回帰は、錯覚にすぎない。それは、
信用なるものが金属や紙などといった商品ではなく、人間としての道徳的存在、社会的存在、
人間の奥深い精神そのものであるがゆえに、いやまして忌むべき非人間化であり、自己疎外
なのである。この疎外は、人間の人間への信頼という見かけを持ちながら、これ以上ない不
信、完全な疎外にほかならないのである」 哲学板の「柄谷行人を解体するスレ」で速読をほぼ一方的に貶すレスが幾つかあるようだが、
簡単なもの、難しいものを問わず、読解、或いは知性の煌めきにはどうしてもスピードが付き
まとう。全体的な一冊の読書に掛かる時間が、読解で躓いた箇所を繰り返し読むことによって
長大になることは一般にはよくあることだろうが、極めて優秀な読者の場合は柄谷の新著チカ
コ―をあっという間に読み切ってしまうこともあり得るだろう。俺は柄谷のイソノミアの英語
版を読んでみたが、なるほど、これは一気に読み切ってしまった。イソノミアにおいては柄谷
自身が古代ギリシャの哲学や政治学の発展経過を端折って書いてるのだから、簡単に読まざる
を得ないという事情もあると思う。
チカコ―も多分そういうように、速読者向きに書かれてるのではないかという気がする。
いわゆる、虎の巻とか、アンチョコとチカコ―の語感の類似もある。 頭悪いから蝸牛読みで妄想して補助線引かなきゃ理解できない
またその妄想がトンデモだから困ったもの
そんな運動神経0のじいさんがmovementでゲバるんだよ >>959
> 哲学板の「柄谷行人を解体するスレ」で速読をほぼ一方的に貶すレスが幾つかあるようだが、
> 簡単なもの、難しいものを問わず、読解、或いは知性の煌めきにはどうしてもスピードが付き
> まとう。全体的な一冊の読書に掛かる時間が、読解で躓いた箇所を繰り返し読むことによって
> 長大になることは一般にはよくあることだろうが、極めて優秀な読者の場合は柄谷の新著チカ
> コ―をあっという間に読み切ってしまうこともあり得るだろう。
そういう考え方はまた君も柄谷の思考のタイプを全然把握できていない
ことを意味している。
柄谷の思考のタイプとは、スピードに乗るというよりも、
いつもスピードを殺すことにあって、柄谷的明晰さとは
事象のスピードを殺すことによる明晰さなのだ。
それに対して世の中には、スピードに乗るタイプの思考というのもある。
浅田彰の思考がそうである。
また、村上龍もスピード系である。蓮實重彦もそうだろう。。。。 >>960
ちなみに私はチカコーは敢えて遅いスピードで読み終わったが
本の中には一切傍線を引かない主義で、
基本的に本を汚す読み方は嫌いであり、
線ではなくて付箋で印をつけている主義である。
速く読む奴と遅く読む人で、どちらが頭悪くて運動神経悪いかといえば
頭よくて運動神経がよい人は、その両刀遣いするものであって
どちからかに傾いてるものは、何はどうあれ不器用なのだろうとは言える。
問題は本の種類によって読み方を使い分けられない人間。
速読に頼る人間は、柄谷行人は間違いでさっと読めても
同様の読み方で、デリダ、ドゥルーズ、ラカンの本を読むことは
全く不可能である。 >>959
この人の正体も、柄谷行人は偶々読めたが、
デリダ、ラカン、ドゥルーズのテキストは、とても無理と見たww 要するに、微分して読むか、積分して読むか、
というそのスタイルの違いでしょう。
答えは、場合に応じて、両方使い分ける人が、正しい。
頭よい。 それで、改めて言うけど、チカコーの読み方とは
「微分」
が正解ですね。 哲板で批判されてるのは、馬鹿な人間特有に見られる現象で
速く読んだら優越感に浸る妄想系が叩かれてるだけでしょw
そういう妄想優越感系は小学生で終わりにしてほしいということ。
ちなみにそういう卑屈な振る舞いで自我の優越感の源泉にしてる人間とは
点取り虫で受験の点数は取れても、
まず運動神経はゼロという、
運動劣等感タイプの裏返し現象ですねww こんなところでしか語れないならどっちにも何の生産性もない
魅力的な人間ではないからその発言も必要とされない、で終わり >>967
じゃあなんでおまえはここで語ったんだよ?
全部悪いのはおまえじゃないかwww いやおまえの全ての発言と>>967は同レベルにして同等の価値しかないってことでしかない
良いも悪いもない >>967
いや単におまの価値が低いだけだよww
悔しかったら、何か少しでも言い返して証明してみろ 柄谷行人「力と交換様式」
【たとえば、マルクスは『資本論』において、貨幣や資本を“神”として見たのだが、このような見方は、マルクス主義者の間では、たんに冗談と見なされた。
その典型的な例は、ここまでに何度も言及したように、ルカーチの『歴史と階級意識』(一九二三年)において、『資本論』でマルクスが「物神化」と名づけた事柄が無視され、それが「物象化」という言葉に言い換えられてしまったことである。
物象化が意味するのは、人間と人間の関係が物と物の関係として扱われる、すなわち人間が物として扱われる、ということである。
一見すると、物神化が観念論的な見方であるのに対して、物象化は唯物論的な見方であるようにみえる。そして、そのような資本主義経済における物象化からの解放にこそ共産主義があると、ルカーチは考えた。
したがって、彼は物象化を、『資本論』がもたらした科学的認識の核心
であると見なしたのである。
しかし、そのような理解は、『資本論』の画期的意義を見失わせるものだ
といわねばならない。ルカーチがいう「物象化」はむしろ、史的唯物論以前のマルクスが『経済学・哲学草稿』で論じた「自己疎外」という概念に近いものだ。
(中略)しかし、われわれにとって重要なのは、"初期”でも“中期”でもなく"後期”の、というよりむしろ『資本論』にのみ見出されるマルクスの考え方である。そして、彼がそこで強調したのは、「物象化」ではなくて「物神化」なのだ。
いいかえれば、彼がそこに見ようとしたのは、“生産力"ではなく、交換様式Cから生じる“力”であった。】
マルクスの思想において、物象化論と疎外論は、(たとえば廣松渉がいうようには)切り離せないというのは、じっさいそのとおりだと思う。物象化というのは、疎外された人間労働によって媒介されて起こるものだろうからだ。
しかし、柄谷がおかしいのは、疎外論を物象化論と一緒くたにしつつ批判しながら、じつは疎外論そのものである物神性論のほうをよしとしていることである。
この物神性というのは、疎外された抽象的人間労働のことなのである。 それと、ルカーチは、土台(下部構造)と上部構造の関係を、
可能態と現実態の喩えで説明している。これはサルトルも踏襲していたはずだ。
柄谷行人は、マルクス主義哲学者たち思想の理解が、ほとんど新聞あかはたの読者向けの解説記事くらいのレベルなのだ。
ちなみに、ドゥルーズが、ベルクソンに由来する潜在態の概念でもって解体しようとしたのは、
ルカーチそしてサルトルのような、マルクス主義哲学だっただろう。
ドゥルーズは、可能なものは現実に対立する(この「対立」はヘーゲル弁証法的な意味だろう)
しかし、潜在的なものはそれ自体で現勢的である、というようなことを述べた。
可能態などというものはなく潜在態があるだけだ、
というとすれば、これはいわば形相などというものはないという質料一元論、
自由意思などというものはないという土台一元論なのであって、
いうなれば唯物論のスピノザ的な徹底化ということになると思う。 >>963
デリダ、ラカン、ドゥルーズのテキストは、雰囲気で読み飛ばすべきものだもんね。 >>975
それはまた駄目な読み方で正しい読み方ではないでしょう。
それは雰囲気で読むというよりも、
ああいう形で難解な書き方されてるテキストの場合は
「乱読」
という方法が正しい。そして唯一のもの。
つまり、偶然的な飛ばし読みを何度も繰り返すことによって
次第にテキスト一冊の本を全体化して像を掴むというやり方。
これは、速読とも遅読とも異なる
最も高度な読み方であり、
かつ最もダイナミックで面白い方法である。 それから、レヴィ=ストロースのモースの「呪力(霊的な力)」論についての批判の趣旨は、
霊的な力(のように意識されるもの)は構造に規定されている、
ということであって、これはようするに、社会的存在が意識を規定する、
というマルクス的な考え方にもとづくものだろう。 >>976
大体、浅田彰や蓮實重彦が日常的に使ってる読み方は、この方法だね。 >>976
デリダ、ラカン、ドゥルーズは難解なんじゃなくて、自分の思いを他人とは違う言葉で表したかっただけ。
詩的と言えば聞こえはいいが、内容が無いことはとくにデリダとドゥルーズに著しい。
君は現代詩でも読んで、難解耐性をつけた方がいいかもしれない。 >>979
> 詩的と言えば聞こえはいいが、内容が無いことはとくにデリダとドゥルーズに著しい。
おまえその発言
他の場所でも通用すると思ってるの?wwww >>980
いまはなきドゥルーズスレでさんざん言ったけど? 文学板とは恐ろしい無知蒙昧者の集合だということが、分かったw >>979 >>981
だったら君は、
哲学のテキスト読んで未だ意味というものを理解したことがないんだと
自分で自覚したほうがよいww >>982
実は、吉本先生が似たようなことを指摘して、同席していた国分先生がしょげ返っていた記憶があるな。
人違いだったらごめんね。 >>983
そういえば意味の論理学、というドゥルーズの本があって、意味はどこから来るのかとか言ってたけど、結局意味不明で終わっちゃってたな。
存在と時間で、ハイデガーが空中分解してたのとよく似てる。
その点、サルトルは存在と無で舌足らず(舌多すぎ)ながら、存在をきちんと浮かび上がらせてた。 「資本論」第一部
第十一二章「およそ資本主義生産様式は、労働条件と労働生産物とに、労働者に対して独立化され疎外された姿を与えるのであるが、この姿はこうして、機械の使用とともに完全な対立に発展するのである。」
第二十一章「彼がこの過程(生産過程)に入る前に、彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家の ものとされ、資本に合体されているのだから、その労働はこの過程の中で絶えず他人の生産物に対象化されるのである。」
第二十二章「生きている労働過程で生産手段の形で協力する過去の労働の重みが益々大きくなるということは、この労働を過去の不払い労働として行った労働者自身から疎外されたその姿、すなわち資本というその姿のおかげだといわれるのである。」
第二十三章「資本主義的体制のもとでは労働の社会的生産力を高めるための方法はすべ て個々の労働者の犠牲において行われるということ、生産力の発展のための手段は、すべて、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具にして部分人間となし、彼を機械の付属物に引き下げ、彼の労働の苦痛で彼の労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程に合体されるにつれて、労働過程の精神的な諸力を彼から疎外するということ、これらの手段は彼が労働するための諸条件を歪め、労働過程では狭量陰険きわまる専制に服従させ、彼の生活時間を労働時間にしてしまい、彼の妻子を資本のジャガノート車の下に投げ込むということ」 >>986
こういう文章は、しっかりと読み込まないといけないね。 >>989
暇であることはとても良いことだと思うよ?
僕自身は結構忙しいけどw 「暇であることはとても良いことだと思うよ?
僕自身は結構忙しいけどw」 だらだら書き込んでるくせにスレも立てられないとか無能すぎません? >>961
お前はマジで馬鹿だな。
俺は速く読むことを一概に誉めてる訳ではない。
お前らは畜生以下。 柄谷の本を愛読する者にはまともな頭の奴はいない、少なくとも今は。 ボードリヤール「消費社会の神話と構造」
「未開社会の特徴である集団全体としての『将来への気づかいの欠如』と『浪費性』は、真の豊かさのしるしである。われわれには豊かさの記号しかない。……だがサーリンズもいうように、貧困とは財の量が少ないことではないし、目的と手段の単純な関係でもなく、なによりもまず人間と人間との関係なのである。未開人の信頼を成り立たせ、飢餓状態におかれても豊かに暮らすことを可能にしているものは、結局、社会関係の透明さと相互扶助である。……贈与と象徴交換の経済においては、ほんのわずかの、つねに有限の財だけで普遍的富を生み出すのに十分なのだ。なぜなら、それらの財はある人々から他の人々へと絶えず移動するからである。富は財のなかに生じるのではなくて、人々のあいだの具体的交換のなかに生じる。したがって、富は無限に存在することになる。限られた数の個人のあいだでも、交換の度ごとに価値が負荷されるので、交換のサイクルには限りがないのだから。この富の具体的で関係的な弁証法が、文明化され、かつ産業化されたわれわれの社会を特徴づける競争と差異化のなかで、欠乏と無限の欲求の弁証法として逆転されてしまっているのである。」 引用は「消費社会の神話と構造」から
「使用価値・ 有用性そのものは ,商品の抽象的等価関係とまったく同様に,
フェティシュ 化された社会的関係である」
ボードリヤールによると使用価値と交換価値、
これらがともに有する物神性が商品にそなわる「呪力」というわけである。
そして、これに関連して、マルクス主義については↓のような批判をする。
「使用価値を 等価関係のこの論理に徹底的に 従属させずに,
また,使用用価値を「比較できないこと」のなかに支えることによって,
マルクス主義の分析は,使用価値として考えられている 物に対する個人の関係を,
人間に固有な必要と, 物に固有な機能とのあいだの具体的で客観的な関係,
要するに「自然な」関係であ るとする神話に役立ってきた 」
ボードリヤールにいわせれば、消費の場面での商品の「物神性」を論じなければ、
ちゃん論じたことにはならないということになるだろう。 このスレッドは1000を超えました。
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