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○ ロラン・バルト Roland Barthes ○
0058吾輩は名無しである垢版2013/04/25(木) 13:27:51.17
その死んだという意味がちゃんと理解されないわけだ。
理解されないで何周もしている。
そのまえは実存という言葉が理解を離れてはびこったようにね。
0059吾輩は名無しである垢版2013/04/25(木) 14:27:01.33
いやけどよお、「作者の死」つうならよお、少なくとも、
その「作者の死」といわれる「死」の直前までは、作者は生きていたんだろ?
いったい、いつまで生きていて、いつ死んだんだよ?そうだろ?

作者の死とか言うんならよお、「風の歌を聴け」の作者、村上春樹とかは、「作者の死」では、どうなってんの?
もう、「作者の死」つうことで死んだことになってんのか?(ぷ
「作者の死」で死んだことになってんなら、「多崎つくる」とか誰が書いたことになるんだよw
あれは村上春樹の幽霊でも書いたんか?wそうだろ?w

ま、バルトは、そういうことを言いたいわけじゃねえんだろが、
とにかく「作者の死」とかよ、俺にとってはかなり懐疑的な思想だな。
こんな思想は、あれだ、売れねえ小説家がエクスキューズに使う程度の安っぽい屁理屈でしかないだろと思うよ。
所詮、フランス人の言い出したいつもの屁理屈だろ。こんなのをよお、なんか、金科玉条的に、頑なに信じ込んでるアホ学者が多くて
なんか笑えるんだよねえw
0060吾輩は名無しである垢版2013/04/25(木) 14:59:38.15
てかよお、結局よお、「テクスト優位(あるいは優先)の原則」とか、あるいは、
「テクスト優位の原則」から導き出される「読者による解釈多様性の尊重」とか
「作者の死」つうのは、その程度のことでしかないだろ。

作者は死んでないだろ、既に世に出たテクストについては、そのテクストより優先順位が劣後になったというだけの話だろ。
作者は、テクスト論によって、既に世に出たテクストとの関係については、「影響力のある読者」としての地位あたりまで、優先順位が劣後したと、
その程度の意味合いしかないだろと、俺は思うんだがね。
0061吾輩は名無しである垢版2013/04/25(木) 20:06:37.71
そらま批評空間において死んだってことだよ
意味とは解釈に過ぎないと
作家の意図という中心を措定して周りを回っているだけだと
0062吾輩は名無しである垢版2013/04/26(金) 01:40:10.20
>>61
てか、なんでよお、批評空間において死んだヤツの意図を、再度、
同じ批評空間において、措定してやんなきゃならんのだよwそうだろ?

いや、おめえにいちゃもん付けてるわけじゃねえんだ。

俺はバルトに言ってるんだよ。つっぱるな!とね。

読者が単独で何ができるつうんだよ。てかよお、
テキスト論なんて、所詮、王様をギロチンにかけて殺しちまうような
西の朝鮮人であるフランス人の屁理屈だろと。

東日本大震災の3日後によお、まだ被災地で人がゴロゴロ死んでるときによお、
それを人形劇にしてお笑いのネタにして、日本の外務省がクレーム付けたら、
表現の自由だから問題無い、とかいうアホだろフランス人w
そんなヤツの理屈なんて、到底信用できんのよ。
0064吾輩は名無しである垢版2013/04/26(金) 20:31:39.82
>>62
いやいや、だからさ
どっちが正しいかで互いの解釈を闘わせてクルクル回ってるやつらに「お前ら不毛なんだよハゲ」って言ってるわけだよ
そのくらい読み取れよ
0065吾輩は名無しである垢版2013/04/30(火) 12:17:19.26
>>64
退場!あたま悪すぎ!(笑
0066吾輩は名無しである垢版2013/04/30(火) 19:09:59.09
構造主義およびポスト構造主義ほど、不毛なものはないね。
無論、日本の柄谷、浅田、蓮見は不毛を通り越してるがw
0067吾輩は名無しである垢版2013/06/29(土) 05:45:09.49
映像の修辞学/ロラン・バルト著(蓮實重彦・杉本紀子訳) [本]

「映画について」ではルイス・ブニュエル監督の「皆殺しの天使」を例に引き、
映画冒頭の『私ブニュエルはこの作品には何の意味もないと申し上げておきます』
という通告がまさにこの映画の定義であるとしながら、映画における「意味の宙吊
り」技法について考察を加えていく。

The Exterminating Angel Trailer
http://www.youtube.com/watch?v=ERHL5nzEMmM

参考:
<『皆殺しの天使』では、悪しき反復の法則が、、、、部屋の中に招待客をとどめる
のに対し、良き反復は、それらの限界を消滅させて招待客を世界に開く、、、、>
(ドゥルーズ邦訳シネマ1、233頁)
0068吾輩は名無しである垢版2014/04/23(水) 04:27:14.97
ここ食いに行ったことある
新子安が職場の先輩がマニアックな汚い店好きで連れられて行ったんだがスゲー汚い
テーブルも椅子も拭いてないのか、油でヌルヌルで店内も異様な油臭さ。サワー頼んだら変な脂が酒に浮かんでた
例えるなら水に石油垂らしたようなアレな

先輩とハヤシライス注文。皿には沈着した黄色のシミがあった
味はクサイ。洗ってない台所みたいなニオイがして味のうまみは解らん
二口食って残したら店主に残すのか聞かれた。
体調不良だけど美味いですとお世辞を言ったら
風俗行くか聞かれたぞw興味ないと言ったら引いたが、滑舌が悪くて何を言ってるか時々聞きとりにくい人だった
子供が来る場所じゃないからクーポン客はどうたら言ってたっけ
去年だから半分忘れたが店の汚さと臭さは最悪で覚えてる
店出たあとも服にニオイが移って臭くてたまらんかった
怒り狂うレベルではないが高圧的で口汚い店主だと思ったよ
0069吾輩は名無しである垢版2014/05/03(土) 10:41:57.13
Le Degré zéro de l'écriture suivi de Nouveaux essais critiques, Éditions du Seuil, Paris, 1953
Michelet par lui-même, Éditions du Seuil, Paris, 1954
Mythologies, Éditions du Seuil, Paris, 1957 - rééd. augmentée, 2010

Sur Racine, Éditions du Seuil, Paris, 1963
Essais critiques, Éditions du Seuil, Paris, 1964
La Tour Eiffel, Centre national de la photographie/Éditions du Seuil, Paris, 1964
Éléments de sémiologie, Denoël/Gonthier, Paris, 1965
Critique et Vérité, Éditions du Seuil, Paris, 1966
Système de la mode, Éditions du Seuil, Paris, 1967
S/Z essai sur Sarrasine d'Honoré de Balzac, Éditions du Seuil, Paris, 1970
L'Empire des signes, Skira, Paris, 1970
Sade, Fourier, Loyola, Éditions du Seuil, Paris, 1971
Nouveaux essais critiques, Éditions du Seuil, Paris, 1972
Le Plaisir du texte, Éditions du Seuil, Paris, 1973
Roland Barthes par Roland Barthes, Éditions du Seuil, Paris, 1975
Alors la Chine ? , Christian Bourgois, Paris, 1975
Fragments d'un discours amoureux, Éditions du Seuil, Paris, 1977. Existe également en livre audio, lu par Fabrice Luchini, paru aux éditions Audiolib.
Leçon, Éditions du Seuil, Paris, 1978
Sollers écrivain, Éditions du Seuil, Paris, 1979

La Chambre claire : Note sur la photographie, Gallimard/Seuil/Cahiers du cinéma, Paris, 1980
0074吾輩は名無しである垢版2015/12/08(火) 00:25:38.20
ロラン・バルト(Roland Barthes, 1915年11月12日 - 1980年3月26日)

フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書) 新書 - 2015/1/23
岡本 裕一朗 (著)

ロラン・バルト -言語を愛し恐れつづけた批評家 (中公新書) 新書 - 2015/9/24
石川 美子 (著)

ロラン・バルト 喪の日記 【新装版】 単行本 - 2015/12/11
ロラン・バルト (著), 石川 美子 (翻訳)
0075吾輩は名無しである垢版2015/12/08(火) 07:02:48.82
日本の大学のシステムが死んだ思想を温存してしまう。
多分、研究者間の連携が密な欧米や近東の大学と、日本の大学の事情は
違う。
日本の大学の研究者は比較的に個人が孤立してる分、自由なんじゃないか?

そう感じるのは大学関係者ではないアウトサイダーの俺から見てのことだが。
0076吾輩は名無しである垢版2015/12/08(火) 08:44:06.27
なにをエラそうに、おまえなどアウトサイダーって言うより三ツ矢サイダーだろうが(笑
0079吾輩は名無しである垢版2016/05/09(月) 15:35:38.41
【考察】私たちはなぜ”藤原紀香”という存在を受け入れないのか?
2016.04.23
http://dailynewsonline.jp/article/1120041/

紀香は無邪気なのだろう。悪意は無い。ただし彼女自身の内側から滲み出てくる表現や意思も、無い。
あっても、まるで伝わって来ない。誰かが「藤原紀香」という空き瓶にいろんなドリンクを入れ、ラベルを貼ったりして20年以上も使ってきただけ。
しかし彼女自身は、自分が空き瓶だといまだに気付いていない……。

 ────フランスの哲学者ロラン・バルト(注2)は東京について、「中心に皇居という、空虚な、何もない森だけの空間が広がっている」ことに着目。
欧州と違い<意味>から解放された日本独自の自由さを肯定的に説いた────。

 紀香に意味はなく、紀香という記号(表徴)があるだけ。そこに意味があると見せようとするマスコミや本人に対して、
我々は違和感やイラ立ちを感じてしまうのだ。心穏やかに過ごすには、ぬるく見守るか無視するしかない。

(注1) 割合…筆者の独断による。
(注2) ロラン・バルト…著作に『表徴の帝国』『神話作用』『零度のエクリチュール』など。

田中ねぃ
東京都出身。早大卒後、新潮社入社。『週刊新潮』『FOCUS』を経て、現在『コミック&プロデュース事業部』部長。
本業以外にプロレス、アニメ、アイドル、特撮、TV、映画などサブカルチャーに造詣が深い。
Daily News Onlineではニュースとカルチャーを絡めたコラムを連載中。愛称は田中‟ダスティ”ねぃ
0080吾輩は名無しである垢版2016/05/12(木) 21:13:53.15
60年前に発表!ロラン・バルトの『レッスルする世界』はプロレス論の古典
2015.06.12
http://nikkan-spa.jp/870908

「プロレスのよさは度を超えた《見せ物》であることだ。プロレスは下劣なスポーツだと信じている人たちがいる。
その人びとはプロレスが八百長スポーツであると――そうだとしたらその下劣さが失われてしまうのに――憤慨するが、
観客にとっては闘いが八百長かどうかを知ることなどまったくどうでもいいのだ。そして、彼らは正しい。
観客はこの《見世物》の第一の美点に身をゆだねる。それは動機も結果もすべて廃絶することにある。
大事なのは観客が信じるものではなく、観客が観るものなのだ」

「プロレスは苦痛を恥とせず、泣くことができ、涙を流すことが好きだ。プロレスのどの《身ぶり》もその場で理解しなければならないものであるから、
全面的な明晰(めいせき)さを備えている。レスラーたちがリングに上がるやいなや、観客にはそれぞれのレスラーの役割の明白な意味が示され、
それぞれの肉体的タイプがレスラーたちに与えられた仕事を過度に表現する」

「修辞学的誇張――情熱の強調、絶頂のくり返し、(観客を含めた)レスラーたちのやりとりの激昂、異様な混乱への到達、最後の大騒ぎ――である。
規則も形式の法則もレフェリーの制止もリングの限界も廃止され、客席にはみ出し、
レスラー、セコンド、そして観客をもごちゃまぜに巻き込む、一種のはめを外した大狂乱である」

「プロレスの試合では、いかなる象徴、いかなる比喩もなく、すべてが余すところなく与えられる。《身ぶり》はすべての余分な意味を切り払い、
観客に対して儀礼的に、自然と同じようにきっちりとした、純粋で充実した意味を提供する」

「リングの上で、その自発的な下劣さのどん底で、このドラマの主人公、
または《げす野郎》――つまり形而上学的な表象の一種にまで拡大された男たち――は神がみである。
なぜならば、彼らは何秒かのあいだ、自然を開くカギであり、善を悪からへだて、
ついに明らかとなった正義というものの様相をあらわにする《身ぶり》だからである」

「プロレスがレスラーたちの《身ぶり》によって示すものは、事物の理想的な明白さであり、人間であることの幸福感」 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:847cfeaf6f31691a42c25abc56bd4433)
0081吾輩は名無しである垢版2016/05/15(日) 11:30:30.54
透明ランナー
写真論の偉人で打線組んだ
(中)スーザン・ソンタグ
(二)ジェフリー・バッチェン
(三)ヴァルター・ベンヤミン
(一)ロラン・バルト
(左)ピエール・ブルデュー
(右)ジョン・バージャー
(指)ジョン・シャーカフスキー
(捕)ジャック・デリダ
(遊)ヴィレム・フルッサー
2016年5月13日
0082吾輩は名無しである垢版2016/05/18(水) 01:04:23.16
鈴木 康之
ロラン・バルト「モードの体系」はいかにもフランス的。副題ーその言語表現による記号学的分析。最近<記号学>はどうなったんだろう。
わが我流哲学で「料理の記号学的分析」を企て、結論、mc²=Eを得た。食材を調理・味付けすればお料理のできあがりと。
レシピ30万種集めた村上祥子さん、凄い!
2016年5月16日
0083吾輩は名無しである垢版2016/05/20(金) 18:30:32.80
陸 天 眞 三 郎 ™ ®
文化学の観点から絵本の表現様式・意味内容・機能作用を研究していると、
ヴォルターベンヤミン、エルンストゴンブリッジ、ロランバルト、ミシェルフーコー、
ジャックラカン、ジャックデリダ、ウンベルトエーコ、W.T.Jミッチェルあたりは、必ず避けて通れない理論になる。

ロラン・バルトの著作は、読んで納得しましたという系統のテクストではない。
バルトのテクストは、書かれた途端、また違う議論へと移行していってしまう。
「物語の構造序説」や「明るい部屋」は、前半の議論が、後半で覆される典型的な書かれたものであり、型にとらわれないバルトの人間像を象徴する。
2016年5月18日

モン・サン=ミシェル三太夫@カクヨム
「ピカチュウ、ロラン・バルトだ!」
「エクリチュー!」
2016年5月19日

ロラン・バルト『テクストの出口』
愛する者たちを語るということは、彼らが生きたのは(そして、多くの場合、苦しんだのは)《無駄》ではなかったことを証言することです。
たとえば、すばらしいエクリチュールを通して、プルーストの母の病い、
ボルコンスキイ老公爵の死、その娘マリアの苦しみ(いずれもトルストイ自身の家の人々です)、
マドレーヌ・ジードの悲嘆(『今ヤ彼女ハ汝ノウチニアリ』の中の)は、「歴史」の虚無に埋没することはありません。
これらの生、苦痛は、拾い上げられ、正当化されます(そのように、ミシュレの「歴史」における「復活」というテーマを理解すべきでしょう)。
[……]私は言述についての言述をやめます。世界はもう対象の形では私の所にやってきません。
エクリチュールの形で、つまり、実践の形でやってきます。
私は知の別のタイプ(「アマチュア」のタイプ)に移ります。そして、その点でこそ、私は方法的になるのです。
0085吾輩は名無しである垢版2016/05/27(金) 11:27:40.80
「1953年は『消しゴム』が刊行された年であり、ヴィアンの最後の小説『心臓抜き』が出た年でもある。
つまりこの年に、ヴィアンからロブ=グリエへの世代交代が行われたという印象があります。
「小説的=ロマネスクなもの」がヴィアンの作品とともに途絶えて、ロブ=グリエの「アンチ・ロマネスク的なもの」に移った年とも言えるのではないか。」

そして、ロラン・バルトの『零度のエクリチュール』が刊行されたのも同じ1953年。
ヴィアンが小説を書くのを辞め、ロブ=グリエが小説を書き始め、ロラン・バルトが小説のあり方の新しさを提示した重要な年。」
0086吾輩は名無しである垢版2016/06/02(木) 11:47:20.01
語彙集[レクシック]とは何だろうか。
それは(言語活動の)象徴的なレベルの一部であって実用と技術のコーパスに対応しているものである。
イメージのさまざまな読み取りに対応する場合がまさにこれである。
『映像の修辞学』
0087吾輩は名無しである垢版2016/06/20(月) 00:43:42.95
復刊情報
〈書物復権〉2016

モードの体系その言語表現による記号学的分析
[著者] ロラン・バルト [訳者] 佐藤信夫

モードとは、予想外の動きを示すくせに、しかも規則的なもの、つねに新しいものでありながら、知的な理解を越えたものではない
――モードがいつも心理学者や美学者や社会学者たちの関心を惹きつ ...
0089吾輩は名無しである垢版2017/02/04(土) 15:40:54.63ID:SIzLhrXP
テクストの楽しみ
ロラン・バルト (著), 鈴村 和成 (翻訳)
出版社: みすず書房; 新訳・新版 (2017/1/26)
0090吾輩は名無しである垢版2017/02/21(火) 17:13:12.27ID:6pNKvi3z
「バルトを翻訳で読んで何になる」(松浦寿輝/『ユリイカ』2003.12)
0092吾輩は名無しである垢版2017/11/02(木) 15:00:26.73ID:UHBbS+zX
ロラン・バルト『零度のエクリチュール』の一考察
―サルトル「アンガジュマン」概念への傾斜と差異化
折居耕拓(同志社大学)
http://www2.kokugakuin.ac.jp/bigaku68/0813.pdf

『文学とは何か』の第 1 章「書くとはどういうことか」において、サルトルが「散文 prose」と「詩
poésie」という作家が選びとる言語における2 つの範疇を提示し、後者に対して前者を称揚したのは、後
者(詩)が作品の意味内容に対して不透明だからである。それに対し前者(散文)は意味内容に対して透
明であり、その実用性を理由に作者の「アンガジュマン」に適しているとされる。
本発表では、上記のようなサルトルの理論を、バルトがいかに修正したのか、ということに焦点を当て
る。ジョナサン・カラーやスティーヴン・アンガーらの先行研究では、サルトルが言語による直接的なコ
ミュニケーションを重視するのに対し、バルトは言語それ自体がもつ間接的なメッセージに着目すると
される。すなわち、バルトは、政治的な効力をもつ言語は透明であるというサルトルの考えを拒絶し、作
品の内容ではなく「形式forme」が社会的状況を反映するとして、「形式」による作者の社会への関与を
求める。発表者は、カラーやアンガーの議論を踏まえた上で、バルトが作品の形式的側面に見出した「ア
ンガジュマン」が、カミュの『異邦人 L’Étranger』(1942)が評価の対象となった所以を明らかにするも
のであったことを主張する。
0093吾輩は名無しである垢版2018/03/29(木) 17:40:48.18ID:qWvnYIs/
noburin
ロラン・バルトのゼロ度という考え方は、ヴィゴ・ブレンダルの中立項の概念に由来するらしい。
意外とコペンハーゲン学派ではイェルムスレウだけでなく、もっとブレンダルに注目してもいいかもしれないですね。
2011年7月2日

和久田ョ男
「物語」という言葉を批評で有効に使うためには、蓮實重彦『物語批判序説』をはじめ、
ウラジーミル・プロップ『魔法昔話の研究 口承文芸学とは何か』や
ロラン・バルト『エクリチュールの零度』などは押さえておいてほしい。
ヨーロッパの中世を志向した歌詞を物語的とするのであればなおさら。
2013年5月18日

橋本陽介
そうですね、物語論関係はあまり分かりやすい本がなくて、だから書いたのですが、
やはりロラン・バルトとジュネットに挑戦するのがいいと思います。
哲学系の本になれてないと最初はちょっと難しいかもしれませんが。
言語学よりではリーチ&ショートの『小説の文体」がお勧めです。
2017年7月12日
0094吾輩は名無しである垢版2018/04/07(土) 16:11:32.30ID:QcFy6Dt2
『たった一人の反乱』(講談社文芸文庫)

 酒を飲むときはたいていそうなのだが、運転して来た自動車は駐車場にあずけたままでゆくことにした。
それを聞いて小栗は、人影がまばらになった宣伝部を出ながら、
いかにも役人らしい実直さだとからかったし、娘たちもくすくす笑う。たしかにあれは滑稽だったろうと思う。(p.18)

 ぼくは〔野々宮教授に〕思わず大きくうなずいたのだが、うなずきながら、
これはまるで教室のいちばん前の席で講義を聞いている学生のようだと反省したし、
このまま進めばどうも相手の調子に巻きこまれてしまいそうだと心配した。
彼が煙草を一本、白墨のように右手で弄びながら、そのくせいっこう火をつけようとしないことに、
ぼくはかすかに苛立っていたようである。野々宮教授はつづけて、〔……〕(p.109)

「異議なし!」
 とたちまち声がかかった。今までのどのときよりも盛んな拍手が湧いたし、
人々はどっと歓声をあげて席を離れる。こうして、まことに奇妙な授賞式はおかしな具合に終ったのである。(p.538)

negitet
昨夜、丸谷才一の「今は何時ですか?」(『丸谷才一全集』5巻・文藝春秋)を読んでいたら、
今、話題の平田篤胤の『仙境異聞』が出てきた。
http://pbs.twimg.com/media/DZ-VSuEUwAAG5Ri.jpg
2018年4月4日
0095吾輩は名無しである垢版2018/04/10(火) 00:11:22.10ID:4npWOSaa
平田篤胤ってブームなの?
ただのカルト爺じゃん。悪影響しかないでしょ。
0097吾輩は名無しである垢版2019/01/01(火) 22:51:26.18ID:ARk1oLha
skks
ロラン・バルトのS/Zとかはもう自己解体し始めてる辺りなので・・・
それまで一応客観的な構造の抽出に装っていたバルトが、
どう見ても客観的には見えない構造をテクストに適用して
客観的な構造や読みの存在自体に疑問を提起するという、
文脈に依存したパフォーマンスじゃないかなあ

「作者の死」自体もニーチェの「神の死」の変奏ですね。
背景に戦後フランス文学の実験的なヌーボーロマンをどう捉えるかみたいな話もあって、
それを捉えるために生まれてきた理論が古典に適用できちゃったりするみたいな現象も起こるんですよね・・・

スピヴァクなんかはインタビューで後期ロラン・バルトが好きみたいなこと言ってたと思う。
スピヴァクはバトラーに比べるとだいぶ無邪気にポストモダン受容してるところあると思う。
2018年12月31日
0101吾輩は名無しである垢版2020/11/20(金) 23:01:42.61ID:8+EAeI6m
あげ
0104吾輩は名無しである垢版2023/04/16(日) 16:26:47.89ID:w1/q5D9M
光文社古典新訳文庫で出してくれないかな
0106吾輩は名無しである垢版2023/04/18(火) 05:51:13.67ID:zphxsGOg
でも誰が訳すかが問題か。
0107吾輩は名無しである垢版2023/06/13(火) 18:17:13.10ID:Zc3uIriT
「象徴の帝国」はずっと前に読んだけど、
若い子がテーマパークで遊んでいるみたいに日本で遊んでいる感じがよかった記憶がある。

ほかは「ミシュレ」がいい。
0108吾輩は名無しである垢版2023/06/28(水) 01:33:40.17ID:XkcQk0xi
sekibang 3.0
Nouvelle茶人、あるいは勉強家によるブログ
2023-06-09
ロラン・バルト 『表徴の帝国』

一箇所気になったのは、うなぎの天ぷらに関する記述。
「(少しも煮炊きをしない)料理人が生きたうなぎをつかまえて、
頭に長い錐を刺し、胴をさき、肉をはぎとる。
このすみやかで(血なまぐさいというよりも)ななましい小さな残虐の情景は、
やがて《レース細工》となって終る。ザルツブルグの小枝さながらに、
天ぷらとなって結晶したうなぎ(または、野菜や海老の断片)は、
空虚の小さな塊、すきまの集合体、となってしまう」。
ここででてくるうなぎは、うなぎじゃなくて鱧なんじゃないか。
骨切りされた鱧をレース細工に見立てたんじゃないか、と思う。
あと「野菜や海老の断片」、これはかき揚げのことだろうか……。
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