【風流仏・五重塔】幸田露伴【運命・露団々】 [転載禁止]©2ch.net
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幸田露伴(ウイキペディア)
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作家別作品リスト:No.51 幸田露伴
今現在50作品がアップロードされています。
『露伴全集』全41巻・別巻2巻・附録1巻計44冊 岩波書店刊行
随筆や俳句の作品などもあり、非常に多彩な露伴。読まないのはもったいない。 (~)
γ´⌒`ヽ
{i:i:i:i:i:i:i:i:}
( ´^ω^) 明けましたよおめでと〜♪
,-∪::::c'"゙`っ
く ミし´彡‘ ェ‘〉デトー
`ー'''"''ー''ー'´
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
昼寝しよう…zzz
<⌒/ヽ-、___
/<_/_____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏を決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしけれ
ば、刑獄に於て宥め軽めらるゝこと多かりき。太子亡せたまいければ、太孫をして事に当
らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に
請いて、遍く礼経を考え、歴代の刑法を参酌し、刑律は教を弼くる所以なれば、凡そ五倫
と相渉る者は、宜しく皆法を屈して以て情を伸ぶべしとの意により、太祖の准許を得て、
律の重きもの七十三条を改定しければ、天下大に喜びて徳を頌せざる無し。
太祖の言に、吾は乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、汝は平世を治むるなれ
ば、刑おのずから当に軽うすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌を平ら
げたる呉の元年に、李善長等の考え設けたるを初とし、洪武六年より七年に亙りて
劉惟謙等の議定するに及びて、所謂大明律成り、同じ九年胡惟庸等命を受けて釐正
するところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰を経て、終に洪武の末に至り、
更定大明律三十巻大成し、天下に頒ち示されたるなり。呉の元年より茲に至るまで、
日を積むこと久しく、慮を致すこと精しくして、一代の法始めて定まり、
朱氏の世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、
後人をして唐に視ぶれば簡覈、而して寛厚は宗に如かざるも、
其の惻隠の意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦に及び、
徳川期の識者をして此を研究せしめ、
明治初期の新律綱領をして此に採るところあらしむるに至れり。
支那の性向が残忍であることは我々も輸入している漢字を見れば一目瞭然だ。
部首にりっとうがある。刑罰の刑の字に使われている部首(右側)は刀を意味するそうだ。
凌遅刑(りょうちけい)なんぞは日本ではなじみがないだろう。漢籍を読めば当然わかる
はずだけれど、日本では普及しなかった。?(鼻にりっとう)なんて字はあまりお目に
かからないだろうが、この字が刀を使った刑罰だということがわかれば、どんなものかは
想像できるだろう。民族が〜、という表現を使うと差別助長なんぞと言われるけれど、
少なくとも状況証拠を見る限り、支那の性向が〜、は妥当だと思うけどね。
もっとも、残忍性と高度な文明は矛盾はしていないところは見るべきだと思う。 漢文の読み下し文そのまま、みたいな作品がいくつかある。 随筆ではやわらかいのもあるな、ってところじゃないか?
自分の場合、正直、しっかり読もうと思ったら漢和辞典が手放せん(笑
最初は中島敦と似ているかな、と思ったんだけど、全然違った。
むこうの歴史書とどこが違うの?ってところもあるし。
まあ、そういうもんなんだろうね。
漢文をもっとしっかりやっておけばよかったと思う今日このごろ。 |::::::::::| |ミ| |::::/ ヽヽ
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もう一度、政権をとらせてください。今度は上手くやって見せます。 >61
で、その中の誰が幸田露伴?
誰でも露伴みたいなところがあるが。
幸田露伴に関して言いたいことは、子に厳しく接したように見せかけて、
じっさいは「五体不満足」の親と同程度だったということ。 高木 卓(1907年1月18日 - 1974年12月28日)は、小説家、ドイツ文学者、音楽評論家。幸田露伴の甥である。
ヴァイオリニストで、女性初の文化功労者に選ばれた安藤幸と、英文学者・安藤勝一郎の子として東京に生まれる。本名・安藤煕。
東京帝国大学独文科卒。水戸高等学校教授などをつとめながら小説を書き、同人雑誌『作家精神』による。
1936年「遣唐船」で芥川賞候補、1940年(昭和15年)、大伴家持を描いた歴史短篇「歌と門の盾」で芥川賞を授与されるが辞退する。
菊池寛は、恥を掻かされたと言って怒っている。
高木は、自分が辞退すれば『作家精神』の桜田常久がくりあげ受賞すると誤認したという説もある(桜田は次回受賞)。
そうではないと分かり、自分が辞退したことで『作家精神』の同人が候補から外されることを恐れ、菊池に謝りに行った。
戦後は東京大学教養学部教授、67年定年退官、獨協大学教授。古典の子供向け翻案などの仕事をするに留まった。
次女に、児童文学作家、作詞家である高木あきこがいる。
『ムツゴロウの青春記』によると、
畑正憲が東大でドイツ語の授業を受けている(本文中では、実名は表記されず「Tという芥川賞を辞退した教官」となっている)。
授業や試験については、かなり不愉快なものだったらしく、
サ行、とくに「せ」の発音が「しぇ」になってしまう畑正憲は、それをからかわれるような扱いを受けたと書いている。
戦後の活動で最も重要なものは音楽関係の仕事であり、ワーグナー(ヴァーグナー)の楽劇作品の殆どを翻訳し、
作品の上演やレコード解説にも数多く携わり、日本でのワーグナー受容史に於ける重要な存在である。 文学は作品論と作家論、って分類がある。
むろん、本道は作品論であって、作家論は所詮刺し身のツマ。
しかも、時代が過去に遡れば遡るほどにツマの妙味も失われてしまう。
それは当然のことであって、たとえば、作家の一日をもれなく記述できるか、と考えて見ると、
ビデオテープを24時間回しっぱなしで追跡すればいいか?イヤ、電話の内容は?
書いている原稿は?雪隱の状況は(笑 その日の日本の状況は?世界の状況は?…
となり、作家の一日なんぞと言いながら、所詮は激しくダイジェストなわけ。
じゃあ、頭の中はどうか?あるテーマについて書かれたので残っているのは10代の若書き。
そのテーマを、老年も同じように考えている、ほうがまれなのではないか?
百歩譲って、同じように考えているとして、紆餘曲折はなかったのか?
類推に次ぐ類推、憶測に次ぐ憶測で、結論を出すしかない、んだけれど、これって単なる偏見の塊では?
したがって、本質は作品のみ。書かれたもの以上でも以下でもない。 太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、亦人君の度ありて、
明律因りて以て成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位に即きたもうや、刑官に諭したまわく、
大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、朕に命じて細閲せしめたまえり。
前代に較ぶるに往々重きを加う。蓋し乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。
朕が前に改定せるところは、皇祖已に命じて施行せしめたまえり。然れども罪の矜疑すべき者は、
尚此に止まらず。それ律は大法を設け、礼は人情に順う。民を斉うるに刑を以てするは礼を以てするに若かず。
それ天下有司に諭し、務めて礼教を崇び、疑獄を赦し、朕が万方と与にするを嘉ぶの意に称わしめよと。
嗚呼、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、誰がこれを然らずとせんや。
是の如きの人にして、帝となりて位を保つを得ず、天に帰して諡を得る能わず、廟無く陵無く、西山の一抔土、
封せず樹せずして終るに至る。嗚呼又奇なるかな。しかも其の因縁の糾纏錯雑して、果報の惨苦悲酸なる、
而して其の影響の、或は刻毒なる、或は杳渺たる、奇も亦太甚しというべし。
民人は「たみひと」と読んでも「みんじん」と読んでもよさそう。
ひっくり返した人民(じんみん)は、明治期の日本が、西欧文化を翻訳するために作った、
いわゆる和製漢語のひとつ。peopleの概念の由。
中華人民共和国のうち、「人民」と「共和国」は毛沢東が和製漢語を援用して作った国名だそうだ。
支那は易姓革命の国で、王朝交代=全とっかえ。連綿とひとつの王朝が千年以上の歴史を持つ、
なんてのは世界でも今では日本だけ。
だから、歴史は現在の王朝を優れたものと書くのが当たり前。しかし、現実はどうだったか?
毛沢東は二千万人殺したと言うし、今の習近平もウイグル統治=弾圧と虐殺、で出世したそうだ。
未だに侵略を続けている支那が、和をもって貴しとなす、を国訓とするような我が国を理解できるか、
は難しいだろう。
国家間のおつきあいは、親日反日のような、単純な二極構造で理解してはならないが、
支那は基本的に同化政策を今でも取っている国。満州人はほぼ雲散霧消。チベット人やウイグル人
は現在進行形で抹殺されつつある。日本も沖縄から同化政策が進んでいる 建文帝の国を遜らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、
権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋元傾覆の所以を考えて、宗室の孤立は、
無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以て帝室に藩屏たらしめ、
京師を拱衛せしめんと欲せり。是れ亦故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、
将帥外に傲り、奸邪間に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能わず、宗廟祀られざるに至るべし。
若し夫れ衆く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣勢を得るの隙無し。
こゝに於て、第二子※[#「木+爽」、U+6A09、252-3]を秦王に封じ、藩に西安に就かしめ、
第三子棡を晋王に封じ、太原府に居らしめ、第四子棣を封じて燕王となし、北平府即ち今の北京に居らしめ、
第五子※[#「木+肅」、U+6A5A、252-5]を封じて周王となし、開封府に居らしめ、第六子※(「木+貞」、
第3水準1-85-88)を楚王とし、武昌に居らしめ、第七子榑を斉王とし、青州府に居らしめ、第八子梓を封じて潭王とし、
長沙に居き、第九子杞を趙王とせしが、此は三歳にして殤し、藩に就くに及ばず、第十子檀を生れて二月にして魯王とし、
十六歳にして藩に※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)州府に就かしめ、第十一子椿を封じて蜀王とし、成都に居き、
第十二子柏を湘王とし、荊州府に居き、第十三子桂を代王とし、大同府に居き、
第十四子※[#「木+英」、U+6967、252-11]を粛王とし、藩に甘州府に就かしめ、第十五子植を封じて遼王とし、
広寧府に居き、第十六子※[#「木+旃」の「丹」に代えて「冉」、252-12]を慶王として寧夏に居き、
第十七子権を寧王に封じ、大寧に居らしめ、第十八子※(「木+(にんべん+哽のつくり)」、
第4水準2-15-14)を封じて岷王となし、第十九子※[#「木+惠」、U+6A5E、253-2]を封じて谷王となす、
谷王というは其の居るところ宣府の上谷の地たるを以てなり、第二十子松を封じて韓王となし、開源に居らしむ。 第二十一子模を瀋王とし、第二十二子楹を安王とし、第二十三子※[#「木+徑のつくり」、U+6871、253-4]を唐王とし、
第二十四子棟を郢王とし、第二十五子※[#「木+帚」の「冖/巾」に代えて「(米+扮のつくり)/廾」、U+237D7、253-5]を伊王としたり。
藩王以下は、永楽に及んで藩に就きたるなれば、姑らく措きて論ぜざるも、
太祖の諸子を封じて王となせるも亦多しというべく、
而して枝柯甚だ盛んにして本幹却って弱きの勢を致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝を授けられ、
歳禄は万石、府には官属を置き、護衛の甲士、少き者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服車旗邸第は、
天子に下ること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、亦至れりというべし。
且つ元の裔の猶存して、時に塞下に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中に専制し、
三護衛の重兵を擁するを得せしめ、将を遣りて諸路の兵を徴すにも、必ず親王に関白して乃ち発することゝせり。
諸王をして権を得せしむるも、亦大なりというべし。太祖の意に謂えらく、是の如くなれば、本支相幇けて、朱氏永く昌え、
威権下に移る無く、傾覆の患も生ずるに地無からんと。太祖の深智達識は、まことに能く前代の覆轍に鑑みて、
後世に長計を貽さんとせり。されども人智は限有り、天意は測り難し、豈図らんや、
太祖が熟慮遠謀して施為せるところの者は、即ち是れ孝陵の土未だ乾かずして、北平の塵既に起り、
矢石京城に雨注して、皇帝遐陬に雲遊するの因とならんとは。 この辺のくだりは、旧約聖書のようでもあり、
「皇族を尊くし」
「必ず親王に関白して」
などと言うのはわが国の戦国時代みたいな雰囲気もある。 幸田 露伴(1867年8月22日 - 1947年7月30日) 幸田露伴は商売堅気の変質をかぎとり、相互扶助こそ社会の原理であるべきと説いた。
資本の圧力に対して個人の自体をたもつことになんの危険思想があるのかといっている。
帝国主義への批判もおこなっている。
http://ueshin.blog60.fc2.com/?mode=m&no=2020
井上哲次郎(1856年2月1日 - 1944年12月7日)『日本精神の本質』大倉広文堂、1934年7月
筧克彦(1872年12月28日 - 1961年2月27日)『国家の研究』清水書店、1913年。春陽堂版、1931年。
紀平正美(1874年4月30日 - 1949年9月19日)『日本精神』岩波書店、1930年。
紀平正美『日本的なるもの』目黒書店〈教学新書〉、1941年。
倉田百三(1891年2月23日 - 1943年2月12日)『出家とその弟子』岩波書店、1918
賀川豊彦(1888年7月10日 - 1960年4月23日)『死線を越えて』(改造社、1920年)
加藤弘之(1836年8月5日 - 1916年2月9日)『国体新論』谷山楼、1874年12月
穂積八束(1860年3月20日 - 1912年10月5日)『愛国心』 八尾新助、1897年6月
徳富蘇峰(1863年3月14日 - 1957年11月2日)『皇道日本の世界化』民友社、1938年。
徳富蘇峰『皇国必勝論』明治書院、1945年。
西村真次(1879年3月30日 - 1943年5月27日)『大東亜共栄圏』(博文館、1942年)
石原莞爾(1889年1月18日 - 1949年8月15日)『世界最終戦論』立命館出版部、1940年9月10日
作田荘一(1878年12月1日 - 1973年2月9日)『大東亜戦の意義』同志同行社、1942
幸田露伴(1867年8月22日 - 1947年7月30日)『修省論』(1914年、東亜堂)
幸田露伴『努力論』(1912年、東亜堂)
エルンスト・ヘッケル(1834年2月16日 - 1919年8月8日)『宇宙の謎』 岡上梁・高橋正熊訳、加藤弘之閲、有朋館、1906年3月。
エルンスト・ヘッケル『生命の不可思議』上,下巻、後藤格次訳、大日本文明協会事務所〈大日本文明協会刊行書 第3期〉、1915年。
幸田露伴
http://tanemura.la.coocan.jp/re2_index/K/koda_rohan.html
Yu.K
石川健治「権力とグラフィクス」奥平傘寿所収を再読してて、ふと小野清一郎『法律思想史概説』(一粒社、1961年)に
ディルタイの影響を受けた筧克彦の考えを高く評価する旨の記述があったことを思い出した。
石川先生は小野との関係は特に指摘していないが。
23 May 2016 敬愛する露伴の作品は、それなりに読んできたつもりだったのに、明の永楽帝が登場する『運命』という作品が存在することを知らなかったのだ。
こういうことよく書けるなあと思ったわ 寺子屋で素読の口なんだろうな。
あ、塾か。ウィキに書いてあるね。
江戸時代生まれの、文才がある人の漢籍の素養は、現代の軟弱根無し草教育とは違うだろう。
素読って、意味もわからずに読むだけだけど、
我々の言語習得も、最初は辞書引いて意味調べたわけではないから、
素読を否定する必要はない。 太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙に之を論じて、然る可からずとなせる者あり。
洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其歳閏九月、たま/\天文の変ありて、
詔を下し直言を求められにければ、山西の葉居升というもの、上書して第一には分封の太だ侈れること、
第二には刑を用いる太だ繁きこと、第三には治を求むる太だ速やかなることの三条を言えり。
其の分封太侈を論ずるに曰く、都城百雉を過ぐるは国の害なりとは、伝の文にも見えたるを、
国家今や秦晋燕斉梁楚呉※(「門<虫」、第3水準1-93-49)の諸国、各其地を尽して之を封じたまい、
諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜ぎ、之に賜うに甲兵衛士の盛なるを以てしたまえり。
臣ひそかに恐る、数世の後は尾大掉わず、然して後に之が地を削りて之が権を奪わば、則ち其の怨を起すこと、
漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則ち険を恃みて衡を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、
甚しければ則ち間に縁りて而して起たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景皇帝は漢の高帝の孫也、
七国の王は皆景帝の同宗父兄弟子孫なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。
晋の諸王は、皆武帝の親子孫なり。然るに世を易うるの後は迭に兵を擁して、以て皇帝を危くせり。
昔は賈誼漢の文帝に勧めて、禍を未萌に防ぐの道を白せり。願わくば今先ず諸王の都邑の制を節し、
其の衛兵を減じ、其の彊里を限りたまえと。居升の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。
其の説くところ、正に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中に終るに至らしめ給いぬ。
居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験ありて、
漢の七国の喩、眼のあたりの事となれるぞ是非無き。 >>41
「魍魎の匣」とか「匣の中の失楽」とか、いくらでも思い浮かぶが。 >>74
評釈七部集と國譯水滸伝は文庫にすれば絶対に売れると思いますね。
七部集は、序や跋、解題の長いものは別冊付録にして、索引もつけて。
だめなら蝸牛会と岩波で、バラで全集を増刷してくれたっていい。
どうせ雑纂とか
個人的には少年文学と全集15〜17巻の史傳も。
ほかのアンソロジーには入らない、日本武尊や将門、頼朝、為朝みたいな
いろんな読物との関連にふれたものが文庫になるといいと思いますね。
澁澤榮一とかも意外にウケるかも。 七国の事、七国の事、嗚呼是れ何ぞ明室と因縁の深きや。葉居升の上書の出ずるに先だつこと九年、
洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂というを建てたまい、古今の図書を充て、
儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注の魏観字は杞山というもの、太子に侍して書を説きけるが、
一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、
太子、昨日は漢書の七図漢に叛ける事を講じ聞せたりと答え白す。それより談は其事の上にわたりて、
太祖、その曲直は孰に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対う。時に太祖肯ぜずして、否、其は講官の偏説なり。
景帝太子たりし時、博局を投じて呉王の世子を殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯の説を聴きて、諸侯の封を削りたり、
七国の変は実に此に由る。諸子の為に此事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓を撫し、
国家の藩輔となりて、天下の公法を撓す無かれと言うべきなり、此の如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦し、
親しきを親しむの恩を隆んにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼し、君臣の義を尽すことを知らん、
と評論したりとなり。此の太祖の言は、正に是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、夙くより此意ありたればこそ、
其より二年ほどにして、洪武三年に、
※[#「木+爽」、U+6A09、257-9]、棡、棣、※[#「木+肅」、U+6A5A、257-9]、※(「木+貞」、第3水準1-85-88)、
榑、梓、檀、杞の九子を封じて、秦晋燕周等に王とし、其甚しきは、生れて甫めて二歳、
或は生れて僅に二ヶ月のものをすら藩王とし、次いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、
而して又夙くより此意ありたればこそ、葉居升が上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。
しかも太祖が懿文太子に、七国反漢の事を喩したりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。
然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、斯ばかり思いしことの、其身死すると共に直に禍端乱階となりて、
懿文の子の允※(「火+(吝−口)」、第4水準2-79-61)、七国反漢の古を今にして窘まんとは。不世出の英雄朱元璋も、
命といい数というものゝ前には、たゞ是一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。 血沸き肉躍る小説といえばAlexadre Dumas だが
露伴大人の「いさなとり」ほどデーモンに満ちた小説はない。
善悪を超えたすざまじい人間の生き方。もちろん五重塔に
勝る傑作は明治以降の日本にはないのだが。
なに?
漱石が国民的大作家だと?笑わすな、赤日新聞と赤波書店
の宣伝だけ。ボチャーンなんかふざけたもの。草枕はまあまあ。
鴎外と違って、Londonでシコシコと下宿に籠って、国費留学の
無駄使い。「心」だと?いつの世にもある女の取り合いで、そもそも
自殺するほどのことではない。しょせん五十歳で死んだちんぴら。
人生についてどれほどのものを語れるのか。
しかし
一葉女史は惜しいことをした。せめて四十歳まで生きてほしかった。
斜に構えたおもしろい小説が書けただろうに。 露伴子は江戸の水を文に写して秀逸。
ウッチャリ拾ひ
は主題とは別に江戸の海の描き方が
余人にはまねし難い。 蒲生氏郷読んだ。それにしても政宗は二十代にしては
梟雄の名にふさわしい悪人(良い意味での!w)。
それを手玉にとる氏郷。悪人の上行く大悪人。
長生きさせたかった戦国武将の一人。 南が丘文庫
http://www.minamigaoka.info/BOOKS/
Official Homepage
横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。
横浜市立南が丘中学校OB会 内田魯庵が「都の花」を出版していた金光堂に遊びに行くと、そこに山田美妙がいたそうで、
しかもその美妙が何ともテンションが高かったとのこと。
魯庵が「何か嬉しいことがあったのですか?」と尋ねると、「いやね、すごい新人が出たんですよ」と美妙。
その「すごい新人」こそ、幸田露伴なのでありました。
ちなみにそんな露伴、デビュー作を美妙の「胡蝶」の批評もしていた依田学海先生の元へ持っていき、
是非帯文を書いてくださいと頼んだところ、
「あなたの作品がそんなにいいものなら、私の帯文なんていらないでしょう」と意地悪を言われ、
「だったら好きにせいっ」と怒ってその本を置いて帰ったのだそうですね。
で、この学海先生が露伴が帰った後に本を読んでみると、これがとんでもなく面白い。
学海先生、露伴のところへ行って「この度は大変失礼いたしました」と詫びを入れたのだとか。すごいですね。
http://iceteamilk.hatenablog.com/entry/2017/03/24/020009 「露団々」を読みたいんだが、どこから出ているのか? 谷崎が饒舌録で小説家として露伴は漱石を
凌ぐと云っているが、漱石や鴎外中心の文学が
どれだけ小説をつまらなくしたか、反省しろ。 >>92
「露團〃」「雪紛〃」は、岩波の新版露伴全集七巻、小説七に収められて
います。露は1〜144ページ、雪は145〜334ページ。80年代以後にできた
新しい町の図書館はわかりませんが、それ以前にあったところならたいてい
所蔵しているベストセラーですから、とりよせなどで借りられると思います。
固有名詞にはカナ、発音を指定したい語や慣用的当て字にはかながふって
あって読みやすいです。おすすめ。戦後岩波のふりがな増強がよく作用した例。
この直後、新書判寅彦選集のように全面新かなづかいにされる恐怖の展開や、
鴎外選集や茂吉選集のようにルビがほとんどなく地名にさえカナがないような
フテクサレ編集のものがワラワラ発生したのですが、露伴全集はすべりこみ
セーフ。作品の傾向に応じて総ルビ、一部ふりがななどが施されています。
私は持っていないのですが30年版の旧版全集では第四巻に入ってます。
こっちは、私も読んだのがコドモ時代でしたので記憶が曖昧なのですが、
ふりがなが新版より少なかったように憶えています。辞書を引いても
わからなくて泣きながら読んだ記憶がある♪露伴の本は古いほうが総ルビ率が
高い傾向にあるのですが、この旧版はちょっと作りがインテリ向きなんでしょう。
ネットで調べたら、前世紀に岩波から篠田一士編「露伴小説」という
アンソロジーの一巻にも入っているようです。これは図書館で背表紙を
見ただけで手に取ったことがないのでわかりませんが、
同時期に出ました石川淳編「露伴随筆」は、かなりふりがなが少なくて
(うわ、このジジイほんとに意地が悪いなあ…)と思ったほどでしたので、
或はこちらも読みづらい作りかもしれませんね、想像だけど。
どちらも当時の小説としては少し量が多めなせいでしょう、よくある
「にほんのぶんごうだいずかん」シリーズみたいなやつには、露も雪も
入っていませんよね。私も見たことがないです。
とまれ、今から読むなら新版全集を探すことを私はお奨めします。タマが多い。
何かで見たのですが、岩波の70年代の全集の中では、驚くほど売れたものの
ようです。全国の中学高校図書室も買いまくったらしい。おかげでこんにち
古本もたいへん探しやすくなっています♪ >>94
ていねいな回答ありがとうございます。
暫く根を詰めて露伴小説を楽しんでみたいと思っており
手許に置く手段を考えています。
Kindleで容易に手に入る50作品はあらかた読むことができました。
ヤフオクでは「露伴小説」として岩波から全集6巻(篠田一士 編)が出回っていますが
奥付頁の画像もなく、いつ発行されたものか(80年代のように推察)確かめたいのですが
心当たりはありますでしょうか?
さしあたり、「露團々」と「いさなとり」を読みたく、それはこの「露伴小説」第1冊に収録されているように思われますが
確証がもてません。
94氏の謂いの通り、相当にルビが入り、かつ仮名遣いであるちょうど良いところの編集であると望ましい。
「露團々」と「いさなとり」を「購入して読む」のに最も適した書籍が何に中るのかわかればどなたかお教え下さい。
また「露團々」および「いさなとり」の感想などあれば、それも知りたいと思います。 >>95
ミスりました。
→○相当にルビが入り、かつ歴史的仮名遣いであるちょうど良いところの編集であると望ましい 度々失礼します。よく読んだら>>94ログに言及されていました
>前世紀に岩波から篠田一士編「露伴小説」という
アンソロジーの一巻にも入っているようです。
前世紀の幅は広いですが、
>同時期に出ました石川淳編「露伴随筆」は、かなりふりがなが少なくて
こちらは奥付の画像をネットでたしかめ、1980年代刊行のようですので
篠田一士編「露伴小説」も80年代の書籍と考えると、少し心が軽くなりますが
石川淳のように意地悪くルビが少ないと、素読み音読で楽しむ文語が、俄に字引仕事に転じて骨が折れそう。
情報があればお知らせ下さい。 「露團〃」は、とても面白いスタイルの読み物です。
登場するにんげんの多くはその名前が英語人ふう、その口調は三馬や鯉丈、魯文のような
江戸東京はなしことば。会話の表記は古代ギリシャ賢人の対話のような配置です。
地の文は漢文訓読調で、詩経から漢唐〜宋詩、史記や十八史略、明末清初に至る伝奇白話小説まで、
中華のあらゆる文章を引いて喩え要約解説する形をとっています。
ニンゲン以外にも動物が登場し語らうのですが、この名が道家の門人下僕といった気配。
各章アタマには毎回まず五七五の芭蕉の句、つぎに各回の内容に応じた題があらわれます。
また、活版印刷時代になっていた当時に、物語に対応させるかたちで図案口絵
(筮竹でなく銭を投げて易占をしたその相を星に描いている)が文中に配置されている。
……でもって、全編の底を流れるドローンは何かというと、真宗なわけでw。
古今東西のスタイルがちりばめられた、相当にぜいたくでにぎやかで、おなか一杯の、
これでもかの冒険心にあふれた作りなのです。
こんにち私たちは、賢治や白秋、劉生なんかをみて「オッシャレ〜♪」とか云うわけですが、
そんなもんの比じゃない豪華18段おせち料理みたいな小説が、明治22年に、23才の
ハイパーおしゃれ作家さん露伴によって書かれていたわけです♪
これをやろうとしただけでもすごいのに、ちゃんと完成されているという。
デビューなのに考証も技術もすでに大先生格。バッハが幼稚園に入園してきて、
サアお遊戯ですよ、むすんでひらいてをやりまちしょうねくらいの余裕綽々ぶりなんです。
はじめてお読みになるときには、ぜひ勉強机の正面に、マジックで画用紙に大きく
「これ、露伴23才の小説デビュー作だよ!」と書いて貼っとくことをおすすめします。
どんだけわかったつもりでいても、数行読むともう忘れちゃうんですから。ほんとに。
いさなとりのほうは、スタイル的にはかなり削ってシンプルにしてあります。
人物と舞台は現代明治日本。話しは括弧で括らずに表記されてます。
きっと読み手のレベルに合わせて手加減したんだろうな…と、私は個人的に思ってます♪ いま年譜を見ていましたら、
「いさなとり」が昭和29年8月、
「露團々 他三篇(一刹那、是は〃〃、あやしやな)」が昭和30年9月に、
どちらも岩波文庫に入っているようですよ。
私は見たことがありませんが、よおく探せば或は見つかるのかしら…。
戦中の、藁半紙でインキのノリが悪いやつほどまで貧乏ったらしくはないけど、
背が低くなってからでは最もボロっちい時期の岩波文庫のお終いあたりですね。
古本屋さんで探そうにも背表紙が読めない、表紙がクレープ状態に風化して
落ちてる率が高いw。
昔の古本屋さんは、表紙が無きゃ手製で帯や貼り紙をして売ってくれましたけど、
今は汚い文庫本なんて燃やすゴミ直行の時代ですからねえ…。 >>97
石川淳編の露伴随筆が意地悪なわけではありません。
露伴随筆は、版面は全集と同じで、ノンブルを付替え篠田一士の解説を加えたものです。
露伴小説は手元にありませんが、多分同じ造りなのでは。
全集でのルビの多少は、ばらばらです。少年文学や水滸伝などは総ルビですし、随筆では少ない。
底本に従ったのでしょう。全集本の「露團々」には、かなりルビが振ってあります。
なお、昭和五十年代に刊行された全集は、昭和二、三十年代に刊行されたものに別冊と付録の巻
を追加した第二刷で、第四一巻までは基本的に同じものです。 作家の読書道 第192回:門井慶喜さん
門井:キェルケゴールは好きでした。薄いから(笑)。でもマルクスの『共産党宣言』とかも読みましたよ、一種の歴史ものとして。
あれは大学の3回生か4回生の時かな、岩波文庫で近代文学を読んでいって幸田露伴が面白いなと思っていた時に
古本屋さんの店頭に幸田露伴の全集全44巻が並んでいるのを見まして。
さんざん迷った挙句、無理矢理買いました。たしか24万円で、当時の仕送りのほぼ2か月分でした。
それから向こう1か月半は食パンとマーガリンと塩だけで過ごしたんですよ。
――買った価値はありましたか。
門井:ありました。もう、読みまくりました。あんな幸せな読書はないですね。いまだにあれを超える読書体験はないくらい。
幸田露伴は最初ノンフィクションが好きで、小説はやっぱり『五重塔』から入ったんですけれども、
『ひげ男』という、ひげを生やした男が戦国時代に捕虜になって今にも首を斬られるという時に、
自分の弁舌の力だけで斬られるのを先に延ばす話があるんです。
でも彼は「自分は命なんか惜しくない」というのを、手を変え品を変え言っているだけ。
文体は古風なんだけれども内容は意外と現代的なところがあって、フィクションとしてはそれが好きでした。 雁の下たる筏ながるゝ 其角
これを鴈のさげたると訓みて、鴈の啣みたる木を落したると解せる曲齋の曲説陋釈に至つては、
如何に俳諧の式法沙汰をのみ恃みて、反つて詩の精神を尋ぬるに疎く、
格物の功たらずして、世の真実を把握するに遠しとは云へ、呆るゝのほか無し。
評釈炭俵/幸田露伴 努力論
幸田露伴著 和田宗春訳 (著), 街から舎 (編集), 赤松陽構造 (イラスト)
出版社: 街から舎; 四六版 (2012/11/25) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています