最善論とか弁神論が成り立つためには条件があるじゃないかな
それはきっちり規則どおりにする神がいること
だって今あるあり方が最善(または最悪)であるならば例外は許されなくなってしまう
だけどドストエフスキーは、神は人格を持った神としていると思うんだ
人格神であるからそれは可能だし、そもそも愛という概念もこの上なく例外的な行為ではないだろうか
神(人格神)はやろうと思えばなんでもできるがやらずに置いといてくれることもあるんじゃないかな
まさに慈悲とか慈愛を人間に与えてくれている、と理解すれば最善論も悪くはないと思うよ