なぜそう思うのかというと、罪と罰のソーニャがそう言えるんじゃないかと以前から思えるところがある
売春婦として家族の貧困を支える彼女は果たして罪なのだろうか?
これはドストエフスキーの壮絶な読者への問いでもあるし、当時の教会観に対する一つに反抗じゃないかな
彼は多くの姦淫を犯すことで生活を支える彼女(ソーニャ)を積極的な聖女として書いている
彼女は売春婦ではあるが、その行為ゆえに罰せられるのではないだろう、むしろその行為によって救われるんじゃないだろうか
彼女の禁止(罪)とは人を助けないということだから
ラスコリニコフにとっての罪とはまさに反対だ