【魂の】蓮實重彦3【唯物論的な擁護のために】
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
左右のバランスを欠いたスレタイかと思われるかもしれないが、「魂の」、で切って、バン!と「唯物論的な擁護のために」、を出す感じにしたかった スレ立て早すぎて勢いダダ下がりしてもうた
申し訳ない オコチャマくんはコテつけろよ
おれが命名してやる
田崎存在感(たさき・そんざいかん)
↑
尾崎世界観インスパイア 書き写しさんのコテは、
DJ脂ギッシュ騎士(でぃーじぇい・あぶらぎっしゅ・ないと) このスレ馬鹿しかいないのな
今時、浅田や柄谷ってw 国家観のない哲学者など無意味
プラトンやソクラテスに鼻で笑われるレベル >>5
もしくは、
江崎門外漢(えざき・もんがいかん)
あるいは、
井崎硬骨漢(いざき・こうこつかん) 延々とスベり続けても平気ってどんな感じなんだろう
街中にいたら即通報する程度には迷惑だな >>11
かぶったな
ってかかぶって当然なんだけどさ
普通に蓮實の話したい人には迷惑だよね
何十年と板に居着いているコテハンがこのスレだけキャラ変えてんだろうけどさ Yoチェック
これが “現在(いま)” 鳴らされるべきポップでありロック!
“心のツレ” のバンドなんで4649
ダンカンバカヤロー! ‐ 海がきこえる
https://youtu.be/AVIzQjV5xUI わざわざHNまでつけてるってことは構ってほしいんでしょ
こんな過疎スレで承認欲求は惨めすぎる おれがいるからこのスレ盛り上がったんじゃん
前スレ勢い50 Overキープで、前々スレも前スレも速攻埋まったじゃん
おれがくる前は勢いれーてんいくつの超クソ過疎スレだったぞ 前スレは2週間ジャストで埋まったのか
おれが来なかったら立って5年後でも300レスいかねーだろうな >>16
お前とおべんきょの復習を続けるだけの糖質の書き込みがほとんどじゃん
そこに批評空間を懐かしむようなオジサン連中がチャチャ入れてただけ
廃棄物処理場で今は亡き昔を再現するかのようにゴミがはしゃいでいたのが前スレね
スレに無関係な音楽だ映画だ哲学だと話し相手がいないジジイどもの繰り言は見てられん
おのれらの趣味なんか知らんがな >>18
そういうオコチャマくんもいつも廃棄物処理場(笑)に張り付いてるなw もうなんでオコチャマくんはいつもおれに喧嘩ふっかけてくるんだよー
めんどくせーなー
ここはおれのSNSなんだからおれのアンチは来るなっての! 2ちゃんねる=5ちゃんねるって日本最初のSNSなの知らなかった?
ここってTwitterとかと同じなんだよ 甘やかすのもここまでとする
おれって優しいから相手してたけど、今後オコチャマくんらしきIDは速攻あぼーんする オコチャマくん世代だと友達に映画やら文学やら哲学やらに興味がある人なんかあんまおらんやろ
オヂサンたちのよもやま話に興味津々でしょっちゅうこのスレ覗いてしまうんやろ “今(いま)” 、われわれが必要としているのは、手塚治虫の作品はつまらない、過大評価である、と啖呵を切ってみせる批評家
つまり、若い頃のハスミンのような批評家 しかし手塚治虫の息子はなんなんだよ
あいつ気持ち悪すぎる 夏目漱石の孫?もそうだけど、莫大な印税だけで満足してりゃいいのに、チョロチョロ前に出てきすぎだわ
ああいうのこそ承認欲求って言うんじゃねえの
無償で大人気連載を執筆してるおれなんて可愛いもんだわ 画像見たら若い頃と較べて普通っぽくなってた>手塚ジュニア むかし手塚眞との対談で黒沢清が発した
「プロレスの実況の要素を映画に導入できないかと思ってます」
という言葉は単行本ではカットされてた。 >>32
わたしとしては、夏目房之介の漫画評論は、好きだし、勉強になった。 否、
サザンオールスターズ=手塚治虫=黒澤明=夏目漱石
↑
日本芸術界の害悪BIG 4 ちなみに、
真性の浜崎あゆみとサザンオールスターズファンの千葉雅也は、芸術方面の美的感覚はきわめてズレている 動きすぎてはいけないに浜崎あゆみが出てきたのは、ずっとジョークかイロニーだと思っていたのだが、マジだった ↑
こんなんじゃ映画がわかる人なわけないし、ハスミン批評がわかる人なわけがない »手塚治虫=黒澤明=夏目漱石
≫↑日本芸術界の害悪BIG 3
これはたしかに当たっている感じだ。 サザンもですよ
なにかのジョークみたいな下品な歌詞(シモネタ満載)、変な声を出して変な歌い方
作曲能力は多少あるのかもしれないですが わりかしすぐに和解する殿が、桑田佳祐とだけは絶対に和解しない
桑田のほうから折れてくれば和解すると思うけどw
桑田も頑固だよね 青山真治が今一つパッとしない、垢抜けないのは、ロック・ファンだからである
真剣にニルヴァーナやジョニー・サンダースを引用してしまうセンスは、いただけない
カラックスの作品を軽くしてしてしまうのは、デイヴィッド・ボウイなどを、大々的に鳴らしてしまうナイーヴさがあるからである
かといって黒人音楽にすればよいかというと、タランティーノに顕著なように、やたらと土臭く、生々しくなりすぎてしまうので、駄目である
最善策は、ゴダールのように、テキトーにクラシックかそれに類するようなスコアを、鳴らしておけば、いいのである ハリウッド作品の、どれも全部おんなじのオーケストレイション音楽は論外
あれって全部同一人物が書いてるんだっけ? ジョン・ウィリアムズとかいう奴?
こいつは全部同じ曲しか書けない スピルバーグいわく「音楽は映像無しでも聴けるが、
音楽のない映画は観れたものではない」
(ウイリアムズと一緒に出演したアクターズスタジオのインタビュー番組) 音楽の使い方が最もひどい映画は、
「夢の果てまでも」ではないか。 ヴィム・ヴェンダース監督のサントラ盤。
J.クルーズによるE.プレスリーのカヴァーや,E.コステロによるキンクスのカヴァーも収録。
Graeme Revell: "Opening Titles" (Revell) (Solo cello performed by David Darling) 1:59
Talking Heads: "Sax and Violins" (David Byrne, Chris Frantz, Jerry Harrison, Tina Weymouth) 5:18
Julee Cruise: "Summer Kisses, Winter Tears" (Jack Lloyd, Ben Weisman, Fred Wise) 2:37
Neneh Cherry: "Move With Me (Dub)" (Cherry, Cameron McVey) 2:58
Crime and the City Solution: "The Adversary" (Bronwyn Adams, Simon Bonney, Chris Haas, Alexander Hacke, Mick Harvey, Thomas Stern) 5:32
Lou Reed: "What's Good" (Reed) 5:07
Can: "Last Night Sleep" (Malcolm Mooney, Jaki Liebezeit, Michael Karoli, Irmin Schmidt) 3:35
R.E.M.: "Fretless" (Bill Berry, Peter Buck, Mike Mills, Michael Stipe and featuring Kate Pierson) 4:49
Elvis Costello: "Days" (Ray Davies) 4:49
Graeme Revell: "Claire's Theme" (Revell) (Solo cello performed by David Darling) 0:51
Nick Cave and the Bad Seeds: "(I'll Love You) Till the End of the World" (Nick Cave) 4:38
Patti Smith and Fred "Sonic" Smith: "It Takes Time" (Smith, Smith) 5:00
Depeche Mode: "Death's Door" (Martin Gore) 3:53
Graeme Revell: "Love Theme" (Revell) (Solo cello performed by David Darling) 0:45
Jane Siberry and k.d. lang: "Calling All Angels" (Siberry) 5:11
T-Bone Burnett: "Humans from Earth" (Burnett) 3:07
Daniel Lanois: "Sleeping in the Devil's Bed" (Lanois) 3:50
U2: "Until the End of the World" (Bono, The Edge, Adam Clayton, Larry Mullen, Jr.) 4:33
Graeme Revell: "Finale" (Revell) (Solo cello performed by David Darling) 0:58 >>56
ヴェンダースは素晴らしい監督ですけど、音楽のセンスは、サイアクですね
ライ・クーダーに依拠したパリテキあたりから、雲行きが怪しくなってます
パリテキとベル天は傑作ですけど、夢の涯てと時の翼には絶句するほどの失敗作です
まあそもそもキンクスの作品でデビューしたわけですがw(←未見) >>47
小谷野敦みたいなやつだな
時代錯誤も甚だしい ■□日本芸術界の害悪BIG 4□■
●文学界の害悪 夏目漱石
●映画界の害悪 黒澤明
●漫画界の害悪 手塚治虫
●ポップ・ミュージック界の害悪 サザンオールスターズ >>60
それは、かっこよかったなw
さすがゴダ様w ヨン様だG DRAGON様だBTS様だより大和美少女はゴダ様だべ トム・ウェイツならまだしもU2(笑)はナンパすぐる ヴェンダース,ジャームッシュの年代は、なんだかインテリぶっていていやですね。
ヴェンダース監督「ハメット」「と「パリ・テキサス」はいいと思うけれど。
ジャームッシュ監督でいいと思うのはないな。
ところで、この人たちが人気のあった時代は、日本のミニシアターブームと重なっていませんか。 ヴェンダースは最初から微妙。
蓮實も常に持ち上げていたわけではなく、人生の幻影やアメリカの友人を語るときには通常なら悪口としかとれないような言い回しを使ってアクロバットのように褒めていた。
スピルパーグのジョーズを褒めてた時と似た感じ。
「ショットが撮れない」作家の一人としても挙げている。
パリテキサスは黒沢清の、これまた褒めているのか貶しているのかわからない文章が印象ぶかかった。
ベル天は蓮實浅田らも含めた持ち上げキャンペーンが気色悪く、これがヴェンダース(作品)自体への悪印象の原因になってる者は多いだろう。
しかし小林信彦のような奴に「僕はこの人はインチキだと思ってる」などと片付けられて済むような存在ではもちろんない。 ハスミンは、ジャームッシュを、ゴダールとかトリュフォーとかベルトルッチとかヴェンダースとかアンゲロプロスとかド(ドゥ?)・オリヴェイラとか侯孝賢とか楊徳昌とかキアロスタミetc.の系統(仲間)に入れるんだけど、おれは入らないと思う おれは「光と陰と音の映画」の系譜と呼んでます
まあ、簡単に言うと、「ショットの映画」であり、「ソニマージュ」ですがw 正直言えば、ド(ドゥ?)・オリヴェイラも、身始めた時期、ソフトが完全に全て廃盤で、高い金出してオクで購入した作品を、何作も見たんですが、正直どれもビミョーだった ベルトルッチ監督も音楽の使い方がひどい。
また、ラストエンペラー以降は、音楽自体に問題があった。
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は音楽自体は最高なのだが、
遣い方はよくなかったと思う。
レオーネ、フェリーニ、ヴィスコンティ、
考えてみれば、イタリアの巨匠の多くが、音楽の使い方が良くないですね。 >>67
おれは、なりきりさんに(ハスミンにも?)異論を覚えることは、まずないのですが、これには肯定できません
ヴェンダースは、NV以降の、最高/最大の映画作家(の一人)だと思います(ただしベル天まで) 「荒野の用心棒」「ウエスタン」音楽ならしすぎ。
とくに「ウエスタン」、ハーモニカがしつこすぎて、
名作の興をそぐ。
「ルードウィヒ」は、ワグナーを聴きながら巡るバイエルンのお城、
のイメージビデオみたいだ。むかしむかしなんでこんな映画に感動したのか、
「チゴイネルワイゼン」とともに、くだらん、
とうじは子供だったんだなー、としかいえない。 >>73
書き写しさん改め引用さんもけっこう毒吐きますねw 正直、キアロスタミも、ほぼ完全なショットだけで成立しているオリーブの林以外は、どれもビミョーだ カサヴェテスも、一時期ハマってほぼ全ての作品を見たけれど、過大評価かと思う
評価の高いラヴ・ストリームスのVHSを、尼のマケプレで3万くらい出して買った時は期待して見たのだけれど、ガッカリした
もうちょい画質のいいソフトで見直したらわからんのかもだけど ジャームッシュは、アメリカからも1人入れとかねば、みたいな感覚かな?
あとほかにはメジャー系ばかりでインディー系というかアート系みたいなのはめぼしいのいないものな >>60
久しぶりに見たけど、やっぱ痺れるね〜
これなんだよな〜 わたしは、カルメンから右側までのころのゴダール監督作品が好きですね。
「パッシオン」が一番好きかな。 そういえば「ベニスに死す」もいやだね。
「クラッシックの名曲」を
鳴らしすぎるようになってからのヴィスコンティ監督はダメだな。
ヘルムート・バーガーはいまでも好きですけれどね。
ドイツのバラエティー番組に
おばあさんみたいなおじいさんになったバーガーがたまに出ていたのですが、
そういうのをネットで見ると感動します。 >>80
いいね
デッケネだっけ?
>>81
かっこいいけど、曲がかっこよすぎてかっこわるいシークエンスを撮るのが難しいパターンだな
これらが本当に映画に必要だったかというと疑問が残る
前スレで出ていた、80年代の漫画家がやたらと自分の作品に好きなロック・バンドやアイドルを出していたのとどう違うのか
中でも、ゴダールはやはり別格 カラ様だと、やっぱ汚れた血のModern LoveとポンヌフのTime Will Crawlはグッとキテしまう ボーイ・ミーツ・ガールとデッケネはほぼ同時期?
カラックスは、ずんぶんトンガってたんだな わたしは、カラックス監督もいやだったね。
なんだか、カッコつけてんなー、みたいなかんじしかもたなかった。
同時期のフランス映画でいいのは、「ディーバ」だけですね。 蓮実重彦は、ポランスキー監督については何か書いてますか。
それと、デビッド・リンチ監督は、私の知る限り、完全無視だった思うのだが。 とつぜんだが、蓮実重彦は、アメリカのホモ系の雑誌の人気投票で上位に入るような映画を
嫌う傾向があると思う。もしかして生理的に合わないのではないか。 ポンヌフはこのトレイラーも素晴らしい
https://youtu.be/9o41cyfTK94
ビノシュはドブスだから嫌いだけどw
ジュリー・デルピーがヒロインだったらよかったのに >>90
ポランスキーはほぼ個別の論は立ててないんじゃないでしょうか
たまに駄目な例として引かれるくらい? なんかわりと後期の作品は黒沢清と一緒に褒めてたかな?
よくわからないですスンマソン 蓮実重彦はなんだか、リンチ監督作品を、生理的に嫌いみたいですね。
ちなみに、わたしは、生理的に好きなんです。 『プラーグの大学生』、『カリガリ博士』、『ゲニーネ』、『巨人ゴーレム』、『死滅の谷』、
『吸血鬼ノスフェラトゥ』、『ファントム』、『メトロポリス』、『M』
↑の作品群については、蓮実重彦は何か書いていますか。 リンチは、ちゃんとまともにヲチ(結末)をつけてるのはブルーベルベットくらいで、あとは完全ブン投げなので苦手です
WATHも一応ヲチがあって(最低のヲチですがw)、ストレイト・ストーリーはわざとウェル‐メイドを狙いにいったので(それはそれで一種のジョーク? それともマジだったのか?)、省くとして
おれはツイン・ピークスのドラマを全部レンタルで借りて見るくらいにはリンチ・ファンだったのですが、あの終わりはガキんちょ心に怒りを憶えました エレファント・マンは、今となっては信じがたいですが、日本での公開当時、「泣ける感動的なヒューマン実話映画」的な宣伝をされて、少年ジャンプの巻頭で、大々的にカラー頁で紹介されたのです
映画館で見たガキんちょのおれは、当然のことながら、これなんかちがくない?と、ワケワカメでした Jimmy Scott-Sycamore Trees (Twin Peaks)
ツインピークスは、シリーズのすべてが、↑のシーンのためにあるのです。
なお、ジミー・スコットの来日公演は、わたくしは、おふくろと一緒に行きました。 もうそれ以来ヲチブン投げのリンチと庵野秀明は大大大大嫌いになりましたね 映画っていうのは、すべからく、ゴダールみたいに、ラストが、ビシッと、かっこよく、キマって、なくっちゃ >>105
それに、怒りを覚えたんですよw
延々積み重ねてきたのに、コレ何?ってw Vampire!
ところで、京都のセミプロバンドなのですが、↑を知っている方はいませんか。
リーダーの方の亡くなった奥さんとは、いささかご縁があり、また、
京大出身者の間では、「レジェンド」らしいバンドなのですが、
私は聞いたことがないのです。 テレビ版も映画版もオチ放棄というのがリンチと庵野の共通点
普通、映画版はテレビ版でつけられなかった決着をつけてくれるのかな、って期待するじゃないですかw
しかし、ツイン・ピークスは、テレビ版も映画版も同じオチだったw ツインピークスは、リンチ監督の「悲劇の大歌手」ジミー・スコットへの敬愛の表現なのです。 ラストがキマっているいう点では、殿のソナチネは評価できる
HANA‐BIも、ラストのところだけはいい おっと30レスもしてもうた
さすがにヤヴァい
今日はこのへんで! たけし映画はラストはよくない。
その男〜は、フリードキンのパクリとか言う以前にダメ(終盤の失速含めて)だし
3-4〜は比較的悪くないだけで、本人が言うように無理やりオチをつけた感じ(その消極性がかろうじて救いとなった)。
あの夏〜は逆に、本人が言う「羊羹の隅っこの砂糖が固まった部分、あれがうまいんだ」という感じにはなってない。
ソナチネの意味ありげな余韻のつけ方。全体的な不穏さでごまかせてるが、珍しく久石譲の音楽に救われてる。
みんな〜はたけしのお笑い映画のパターンで、途中から投げ出してるのに真の「いい加減さ」に達してないという悲劇。
キッズはリリーフランキーがなんて言おうと、安部公房か遠藤ミチロウみたいなセリフは要らない。 作品の順番や内容など忘れたのであとは適当に。
「座頭市」マイク水野をバカにできない、どうでもいい真相の暴露が続くのはなんなの?七人の侍をさらにダサくしたタップ祭りも興醒め。
「アウトレイジ」三浦友和の存在は最高だったのに、最悪なオチのつけ方をした。続編での扱いも、映画撮る前のたけしなら「あんな立場になってあのカッコで出てきただけで展開が読めちゃう」と斬り捨てたはず。 「HANA―BI」のラストカットは忘れた。
ここまでのたけし作品「みんな〜」以外は封切り時に観てきたが、リアルタイムで観に行って否定的に思ったのはこれが初めて。
菊次郎やブラザーなどはレンタル待ちで充分と思ったし、それがずっと続いてる。 キネマ旬報とユリイカのたけしムックがHANA―BIと同時期で、こういうキャンペーン張れた?のは森が有能だったのかもしれないし
金獅子受賞後は芸能メディアでの語られ方が露骨に変わったけど 映画史上で特筆すべきカッコイイラストの映画、ラストタンゴ・イン・パリ
ずっと、つまんねーなと思いながら見てたんですよ
じじいとブスがエッチしてるのなんて興味ねーよ、と
そしたら、ラストで、度肝を抜かれましたね
この上なく惨めでこの上なく崇高な死
ああいうのを、地の果て 至上の時、って言うんだろーな ラストを知ってから遡行して見ると退屈だったところもカッコヨク見れる
しかしブランドってあの映画の時48歳くらいか
子供の頃あの映画を見た時はずいぶんジイサンに感じたけど自分がオッサンになってみるとブランドけっこう若かったんだなって まだ勃つモノも勃つ年齢ですヨ
オレが勃たなかったらたいしたモンですヨ
by 長州小力 俳優たちが激怒! 映画『ラストタンゴ・イン・パリ』のレイプシーンは本物だった
1973年の映画『ラストタンゴ・イン・パリ』。
ベルナルド・ベルトルッチ監督がこの映画のレイプシーンが本当にレイプだったことを告白、
セレブたちが怒りの声を上げている。
いま初めて知った。↑の記事は衝撃的です。 >>121
うわあ......マジですか...... これは今の時代、いや時代関係なく、シャレにならんなあ...... 監督の釈明の記事もありますね。
1972年の公開当時から性描写が議論になった映画「ラスト・タンゴ・イン・パリ」の撮影で強姦場面の撮影が女優の同意を得ていなかったのではないかとインターネットで騒ぎになったことを受け、ベルナルド・ベルトルッチ監督(76)が「ばかげた誤解だ」と反論した。 2007年の英紙インタビューで、シュナイダーさんは問題の場面は「最初の脚本にはなかった」と話している。
デイリー・メールに対してシュナイダーさんは、「本当のことを言えば、思いついたのはマーロンだった。撮影する直前になって初めて聞かされて、私はものすごく怒った。エージェントに電話するとか、弁護士にセットに来てもらうとかするべきだった。脚本にないことをゴリ押しするのは許されないので。でも当時の私は、そんなこと知らなかった」と話した。
「マーロンは私に、『マリア、心配しないで。ただの映画だから』と言った。でも場面の間中、マーロンのやってることは本当じゃなかったけれども、私は本物の涙を流していた」 いろいろ読んでもこの映画についてシュナイダーが悩んでたのは事実だしそれはベルトルッチも認めてるからあかんわ わたしも、ほぼ同感です。
つまり「本番」ではなかった、というだけである。
監督の釈明どおりだとしても、事前の同意をとることなく、
ブランドは、強引に指を入れてシュナイダーの性器にバターを塗った、
ということではあるのだから、セクハラとしてもひどい部類だろうし、
監督と主演男優が示し合わせての強制わいせつ行為にあたると指弾されても仕方がないであろう。 ハリウッド映画では死亡事故など珍しくはなく
ホークスだろうがイーストウッドだろうが現場で死者は出している。問題があったかどうか、責任を問われたかどうかはともかく。
亡くなったのが有名人の時だけは「悲劇」として語られる。
日本映画では若松孝二や井筒和幸の現場での死亡事故(ともに水死)が知られるが、むかし映画秘宝で読んだのは
「ベイシティコップ(いかりや藤竜也のバディ物の連ドラ)の現場なんて、毎週のように死人が出ていて驚いた」
という関係者の文章。 ラスト・タンゴ・イン・パリでは、肛門にバターを塗ったので、正規に塗ったのではありませんでしたね・
wiki「ベルトルッチ」から
2018年11月26日、癌のため[2]ローマ市内の自宅で死去。77歳没[2][3][4]。
第91回アカデミー賞の、逝去した映画人に哀悼を捧げる“In Memoriam”
(イン・メモリアム)のコーナーで追悼された[11][1]。
その後、さしたる非難を受けていないところをみると、
真相は、それほどのことでもなく、誇張された報道だった、
ということなのでしょうか。 ≫「ベイシティコップ(いかりや藤竜也のバディ物の連ドラ)の現場なんて、毎週のように死人が出ていて驚いた」
これは事実だったとしたら、恐ろしいことだが、どの程度まで信頼できる記事なのだろうか。 裏刑事(特撮を使わない和製ロボコップ)はたまに観てたけどベイシティ刑事は番宣以外未見。
藤竜也と世良公則のコンビだった。CMでは藤竜也といかりやの二人がバーンと出てたから間違えた。 秘宝に寄稿するのなんて「話は盛ってナンボでしょ?面白けりゃ些細な事なんかどうでもいいよね?」と思ってるやつばかりな印象あるからな。 ラスト・タンゴ・イン・パリの問題のシーンを見てみたが、
肛門に指を入れてバターを塗ることまではしていないようだ。
バター塗りも「本番」ではなかった、ということで、
非難をかわせたのだろうか。 演出は村川透や黒沢直輔ら。
アテネフランセでの黒沢清との対談の前フリとして観客に「クロサワは三人いるのは知ってますか?」みたいなことを言っていた記憶がある。 >>135
性器に挿入はなかった
それはシュナイダー氏も証言していた
それでギリギリ批判を鎮静化できたんでしょうね
にしても、当日いきなりバターを使うのは、じゅうぶん暴力だと思います ×性器に挿入はなかった
○性器に男性器の挿入はなかった
それはシュナイダー氏も証言していた 座頭市の勝新のジュニアのアレもあったしなー
マッドマックス2なんて、むしろ死人が出てたのがウリになってませんでしたっけ >むかし映画秘宝で読んだのは
>「ベイシティコップ(いかりや藤竜也のバディ物の連ドラ)の現場なんて、毎週のように死人が出ていて驚いた」
>という関係者の文章。
これはさすがに与太でしょうw どこかに感じの良い風貌と理想的な人格と愉快なエピソードを持った好人物がいて、たまたま映画であったり文学であったりする作品を提供したらそれがまた素晴らしいもので…とか
どう生まれ育ったらこんな最低人間になるのかと思われてるとんでもない厄介な人物がいて、しかし彼がさほど思い入れもせずに撮った映画や書いた文章は悔しいほど素晴らしい…とか
そうであったなら納まりがついて気持ちよいだろうし、場合によってはそうしたイメージづくりに加担するような事も辞さないけれど
「そんなものはやっぱりメロドラマだよ」と誰もが気づいてはいる。しかしわかっちゃいるがそういう物語に乗っかる快感には抗えない。 先日、時代劇専門チャンネルで故福本清三氏のさだまさし氏との対談を放映していた。
福本氏によると、切られ役は、ほとんど使い捨てみたいなものなんだそうですね。
運悪く怪我をして入院などということになると、仕事が来なくなる、
ということでありました。
福本氏は、自分が長年やれたのは、幸いにして骨折しなかったからだ、
と言っておりました。
骨折すると、入院しなければならないので、そうすると、
その後の仕事がなくなるのだそうです。 「座頭市」の雁龍太郎の事件は、勝新太郎が、未熟な息子に、ステンレス製ではない
本身の刀を使わせたから起こった、と記憶しています。 マッドマックスでスタントマンが死んだという話は、
言われて,そういううわさがあったことを思い出しました。 70〜80年代って、今の感覚すると、シャレになんないことがけっこうあったような気がする
90年代もオウムとかあったし
00年代くらいから均質化というか平和になったのかな? ところで、「洒落になんない」という造語?を作って流行/定着させたのって殿ではないかと思うんだけどどうだろう? マッドマックスシリーズの監督って、マッドマックス/サンダードームと怒りのデス・ロードの間なにやってたのかとWiki見てみたら、ほぼなにもやってなかったw たけしは薩摩剣八郎をしきりに叩いてた。
「ゴジラの中に入ってた奴がでしゃばるのは違うんじゃねぇの?」と言う。 それは言いたくなるのはわかるけど、営業妨害ですよね
誰だって活躍したいもの ポランスキーはチャイナタウンが好きですね
退廃的なムードがたまらん
今日のラストがキマってるか論で言うと、ばっちりキマってます
衝撃の秘密(だいたい読める)、取り返しがつかないという悲劇性、ニコルソンの狂気すら感じさせるニヒルな私立探偵像
傑作でおま
しかしハスミンの好みではないかなあ わたしは、ポランスキー監督作品は、ほとんど好きなんです。
チャイナタウンが一番いいとおもうけれど、フランティツクも好きです。
蓮実重彦はなぜポランスキー監督作品を評価しないのでしょう。
あの先生も、好みがよくわからないところがある。 蓮実重彦は、もしかして、ギリアム監督も無視していませんでしたか。 今日も “魂(テャマスィー)”(by ブルック)を唯物論的に擁護していきますか! >>154
ああいうガチャガチャしたのには何の興味もないかと思われます 釣りバカの西田敏行はミスキャスト
あの役はデブのイメージじゃない
もっと貧弱 西田はクッキングパパがジャストだった
ドラマ化あるいは映画化すべきだったが、もう年齢的に遅い...... 来月の「群像」誌さんに、本名の飯塚実名義で、「死と絶望についての七つの断章」という詩が載るんでよろしくお願いします! え? まさかこのダンカンって本人なの?
割とファンなんだが つかこれって役所広司だったっけ?
なんか違う気がする... >>160
いちおう荒地派とか入澤康夫とかの匂いを狙ったんだけど “練り” が足りなかったかな... 「おホモたちの挽歌」シリーズに主人公のメンター役で出演してもらうダイアナ・エクストラバガンザはチャイナタウンがフェイヴァリット・フィルム
映像作品で演じたい役は細雪の雪子 >>67
> しかし小林信彦のような奴に「僕はこの人はインチキだと思ってる」などと片付けられて済むような存在ではもちろんない。
どこがおかしいの? ビート一族[BEAT TRIBE]からの三人目の刺客、ビートつよしを名乗りたい
それすなわち、北野流お笑い術の正統伝承者を継承することを意味する 浅草の2人が二代目ツービートを襲名してるから5人目か 兼子二郎=ビートきよし
北野武=ビートたけし
小野正芳(水道橋博士)=ビートあつし
赤江祐一(玉袋筋太郎)=ビートひさし
飯塚実(ダンカン)=ビートつよし >>165
中学生の文学少年が気取って書きそうな
今時そんな文学少年いるのか知らんがw 蓮實はポランスキーやワイダを落としてムンクやスコリモフスキらを上げた。
ポロンスキーを評価する時に「ポランスキーではなく」と強調した。
黒沢清はポランスキーを「ヒッチコックより好きかも」と言い、フランティックやローズマリーの赤ちゃんなどを評価。
青山真治も、「テス」が嫌いなだけでポランスキーは面白いと語る。
俺は苦手な作品だが「テナント」を愛好するマニアは多い。
役者としての見た目が苦手。 塚本晋也の演技を、真面目な役柄の時の木梨憲武みたいに思ったり
役者(コント含め)内村光良が苦手というのと共通する。 言語センスの無さを補って余りある「詩は表現である」ってことで熱き心をぶち撒けろ!
死と絶望についてw 河合ブックレット14『映画からの解放』って本の冒頭近くにある「作家」って誰のことかわかる人います?
河合塾が嫌っていて、蓮實氏もその作家のことを軽蔑しているとかなんとか。。
1988年当時、誰かが河合塾と敵対したことがあったんでしょうか? 入沢康夫以降、
詩は表現ではない
というのが原理原則になってるからな〜 とんねるずはコメディアン(芸人ではないよね)としていちばん脂が乗る時期に何十年も一つの番組(みなさん?)に引きこもっちゃってたのが痛い
若い人で、あの番組を見てなかった人はとんねるず知らないんじゃない
最近ミューステとかに出てくる木梨のハシャギっぷりと “ズレ” が痛々しい… 忘却と廃滅により凍てついた
ひとつの星座
とはいえこの星座は
高い空ろな空のおもてで
作られつつある総決算の
連続な瞬きを
星の相で
数え上げる
徹夜し
疑い
ころがり
輝き、瞑想しながら
それを聖別する究極の地点で
停止するまで
やむことなく作られる総決算
すべての思考は一振りの骰子を投げる 「田舎者が考える都会のイメージ(石野卓球)」が言い得て妙なとんねるずにはとにかく逆撫でされていたし嫌いだったけど、ミスチルとB'zとシャ乱QとTUBEを足したよりサザンの方が偉いと思うように
ナイナイとかロンブーよりは良くも悪くも記憶に残った。
石橋よりも木梨が苦手。枯れた感じを出そうとしてブザマなのはどちらも同じだが、石橋には滑稽さがある。
下世話さで押しきれない年齢になるとキツい連中。本人たちよりも「長年のファン」に対して憎悪を抱いている。
流行ってる時だけタカさんノリさん言って盛り上がってた奴らは、つまらない人間かもしれないが仕方ない。 兵舎ではみんな腹をすかせている――
その通りさ...
飛び散り、爆発。精霊が言う。
「僕はグリュエールチーズさ!――」
ルフェーブルが言う。「ケレール!」
精霊、「僕はブリチーズ!」
兵士たちはパンを切り、
「これが人生さ!」
精霊「、僕はロックフォールチーズさ!」
――「もうすぐ一巻の終わりだろう!」
――僕はグリュエールチーズさ
そしてブリチーズさ...など。
–– ワルツ ––
僕たちは一緒にされた、ルフェーブルと僕など。 いつのまにかTVタレントの話になるのが不思議ですね。 >>187
陥没地帯を読んだ時は神は二物を与えないんだな〜と思いました(与えられた人もいるんだろうけど)
オペラ・オペラシオネルと伯爵夫人は読んでないんですよ >>181
Mステをミューステというのは50代以上かな
同時代のやや年長のスターに対する凡庸な妬みの表現ですね >>189
大台にはまだ乗ってないですよ
実は、人生においてミューステって20回くらいしか見たことないんですよ
見ざるをえない環境にいたんで 延々と「成美さん」というフレーズをリフレインするのはまじヤヴァかった
放送事故レヴェルの気持ち悪さで見てて顔が真っ赤になっちゃいましたよ
本人全然気持ち悪さに気づいてなさそうでケロっとしてたのが不気味でした なんかあんま “アウェー感” も看取してなさそうだった
みなさん?に引きこもる前の知名度と人気がまだあると思ってそうな鈍感さが異様だった 自覚症状がないようですが木梨の1万分の1の規模でいまここで似たようなことをやっているのでは?不気味さも1万分の1程度の小物なので特に何の影響もございませんが 誤解されると困るんですがおれは元々そこそことんねるずファンだったんですよ
貴明派で木梨にはなんの興味もなかったけど
番組を一本に絞ったのは明らかにミスだったかな〜
ダウンタウンと比較しても戦略ミス…
まあそれはいいか、 つか木梨の為にキレるファンがいることに若干感動した 筑摩書房のマラルメ全集て生きてるんだ
詩が全部入ってる第@巻だけ欲しいけど税込み20900円か
高すぎ無理 >>159
「死と絶望に関する七つの断片」に改題したい
推敲は大事 形式が意味に優先するつっても形式がいい作品はたいてい内容も面白いんだわ >>202
内容(意味)が面白くても、形式がいいとは限らない、という意味です 木梨憲武はのちに浜田の嫁になるオナッターとシックスナインして互いの性器をペロペロ舐め合っていたなんて、元マネージャーから暴露されてた。 とんねるず自伝の、石橋の家の夜逃げ経験を読んだ信者(小学生だが)が本気で幻滅していた。
彼は夜逃げを批判しているのではなく、あの石橋の情けない過去に心底ガッカリしていたのだ。
矢沢永吉の信者ならたとえエーチャン家が夜逃げしてたとしてもそんなリアクションはとらないと思う。 とんねるずはオールナイトニッポン初体験をしくじった。
無軌道に暴走したのではなく、単に(とんねるず用語でいう)「深みにハマった」のだ。
大舞台で大いにハズしながらも、それはなかったかのように盛り返して(かなり薄っぺらくはあるが)傍若無人キャラで徹した事は
本人達にそんなつもりはなかった(特に石橋はたけしに従順)にせよ、たけしの古めかしさや説教臭さ(ノリの悪さ、文学臭)にそれなりの異議を唱えた形となった。 ハッテンババズーカには「こんなの、バカ大学の学園祭」と無慈悲だったビートたけしも、夕ニャンの「ロッキー」などの勢い(俺にはただひたすら不愉快だった)には無闇に口を挟んだら負けな勢いを感じていたのではないか? たけしとの濃密な関係と、たけしに「懲りた」経験から
小林信彦はとんねるずへの評価を実際より上に持ってきたと思う。
自分が言ってる事を理解出来る(と錯覚させる)芸人がサイコパスのような存在だと知ってうろたえた結果、最初から知的コミュニケーションが無理な(勝手に持ち上げてられる)存在に乗り換えた感じ。 それでも小林は愚かなので、上岡や爆笑問題を必要(あるのか?)以上に評価してしまい… 小林信彦の怪物がなんたらって殿がモデルなんでしたっけ?
読んでないなあ 作者は否定してる。モデルと指摘されるビートたけしも尾崎豊も関係ないと。
しかし、どう考えてもこれはたけししか言わないと思わせるセリフ(事実かどうかは知らないし、細部は変えてあるとしても)がいくつかあり、そこだけは大笑いしながら読んだ。
作者自身を思わせる(考え方の)語り手のナルシストぶりは相変わらずで辟易させられるし、モダンホラーとしても失敗しているけれど… 神保登が途中から幼少時からの性格異常者と確定され、しかも安易かつ早急に政治と結託するなど、そうなってしまったら(語り手が言うように)「それがわかれば怖くはない」
そこまで突き抜けないまま曖昧にのさばるからこそたけしは気持ち悪いのだが。
しかもラジオのヘビーリスナーの愚かさや醜さの描写、暗い歌をリリースする神保とリスナーの反応、「現代のカリスマ」神保があっけない死の後に軽薄な都市伝説となる流れも。 これ「純文学書き下ろし作品」(うろ覚え)なんだよ。 サイコパスの神保より語り手の方が読者から鼻持ちならない人物と思われてしまいそうな点も失敗。
正義側?に感情移入させろと言ってるのではないし、「悪の持つ抗しがたい魅惑」なんてものが神保登に備わっているわけでもない。 >>215
そうでしたね確か
箱に入ってた気がする >>205
なんであのブ○がモテるのかよくわからないな〜
よほど名器なのか 「詩は果たして表現であるのか。詩は作者の表現したいものを表現する手段なのか。詩人はまず表現したいもの(ヴィジョン・感情・思想・体験・その他)を持ち、次にそれを読者と共有するために作品化しようとして、表現に努めるものなのか。この素朴な、だからこそ根本的だと思われる問いに、否と答えるところから、ぼくは詩を書いてきたし、これからも書くだろう」
「詩人がいて、その詩人が何かその人独自の伝えたいことを持ち、それが実現されて作品が産まれ、読者はその作品を読んで、作者の伝えようとするものを正確にキャッチし、そしてそれを十全に共感する、という図式を、詩に関してはぼくは信ずることができない。」(『詩の構造についての覚え書』入沢康夫) サザンの桑田も、「女なのにザ・バンドやリトルフィートを好み」「電話でよく恋愛相談とかされてた」けど「ブスだなぁ」と思ってた「原坊がたまにキョンキョンに見える時がある」と語る(本音かどうかはともかく)ように
オナッターにも何かは備わっていたのだろう。
たけしの前妻がまるで北野家の血筋を受け継いでる者のように見えたのは何故なのか? タカちゃんと『ドヤ顔コンツェルン』という漫才コンビを結成して “天下” 狙っていきたい
60過ぎたら “夢” に向かって動き出したらいけないん?
ジジイは引っ込んでないといけないん?
そんなこともないだろうと
もう一花も二花も咲かせたい フライングキッズの賑やかし役の女は、いっけん原由子のような立場にも見えるが浜崎貴司と肉体関係はないと断言出来る。
それでバンドの命運が分かれたわけでもない事も。 >>220
おかみさん(殿の元嫁)の顔見たことないんですよ
検索してまで見たいという発想がなかった 横浜銀蝿と言うより米米クラブに近い氣志團がそれほどでもなかったのは
フロントマンしか「個性」を発揮出来なかった事よりも
「妹役」とかシュークリームシュ的なメンバーを加入させてなかったのが大きな要因。
メジャーデビュー前から評論家たちに絶賛されていたクレージーケンバンドの場合、横山に対する佐々木小次郎(見た目だけでもアオレンジャー)的なメンバーがいなかったこと。 あの嫁の顔で満足できる桑田と浜ちゃん、“国民の負債” とまで言われたTAWARAちゃんを引き取ってくれた谷は根源的には良い人なんだろうなと 満足できるというのは、億万長者でいくらでも美女を狙いにいける桑田、浜ちゃん、谷選手たちなのに、という意味 ブサイクではないけど鼻の筋(鼻梁って言うの?)が太く、娘がデビューしたときは獅子っ鼻のアイドルなんて絶対ダメだとすぐに思った。
メイクやら髪型やらで「竜二」(嫌いな映画)のカミさんを思い出す。 んーなんか検索するのに抵抗あるな
今までしなかったのは、オイディプス的な何かがあるのかもしれない 浜ちゃんは松ちゃんの父親が亡くなった時に人目もはばからず号泣したというし、松本より先に死にたいと言ってるらしいしいい人なんだろうなと 谷も柔道エリート内のスワッピング世界では普通にモテてたと言われるし、自分からYAWARAを名乗る図々しさとそれに勝る実力を兼ね備えていたので(しかもバックは闇が深い)
クローネンバーグ世界のナンシー関がいくらヤバさを指摘しても世間には通じなかった。 好感度を求めての処世術などではなく、顔があれな女と末長く付き合う事は本人たちにとって不名誉な行為でもなんでもない。
打算でブスと幸せ夫婦を演じようとしてもすぐにボロが出る。 今月の新潮で「飛ぶ孔雀」について書いているが
結局のところ今まで山尾悠子を読んだことなかったっぽいな。 たけしがゆらゆら帝国のヴォーカルみたいな顔したなでしこJAPANを笑ってもウケなかったのはわかる。 「さんざやりまくった末に、あえてブス嫁」という補足は世間が勝手にしてくれるものだ。 >>231
>柔道エリート内のスワッピング世界
笑
そんなのあるのかw
>バックは闇が深い
お父さんの関係でしたっけ
あんまディスるとこわいから控えよう そういや(コラムニストとしては)故ナンシーフォロワーのマツコ・デラックスが柔ちゃんをネタにいろいろ書いてたな
なんでそんな文庫本を読んだのかというと、 國分が言うように趣味の時間は必要だろうけど
その趣味が
教養主義にとらわれ批評性が先走り対象をとことん味わうことができなかったところに
あるいは趣味がマウンティングや鍔迫り合いのツールに堕してしまったところに
進歩派インテリの限界があるのでは?と大月は言ってる
それ系の進歩派インテリとハスミが一線を画するのはハスミは映画がガチで好きなところなんだよな
宮台が「ボクの生活には映画以外にも楽しいこといっぱいありますので」なんて言ってたけど
シネフィルを牽制してるようで実際は映画をただ楽しむことがもはや出来てないという自白に過ぎないんだよな >>239
大月は正論だけど
マニアもオタクもマウンティングから完全に抜け出すのは難しいんだよな そうか?
マニアやオタクの牙城に乗り込んでいって返り討ちに遭って発狂するまでが口先だけの意識高いフリ系左翼のワンセットなんじゃないの?くだらん怨恨が10年20年と煮詰められている間に人生もいつの間にか斜陽にさしかかっている小汚い廃人どもが日陰でぶつぶつと昔話に明け暮れている。このスレに張り付いているのもそんな連中じゃないか。 逆に言えば映画にしろ小説にしろ音楽にしろ
趣味による差別化、権威化の道具という側面を抜いたらはっきり言えば不要なものであるのも確かなんだよな それはオタクになりきれなかった人の言い分でしょう
オタクには逆はないんですよ チェックシャツにリュック、メガネというオタクの典型ファッションをメタレベルに立って嘲笑する人はすでにオタクではないのです
チェックシャツは近所のジャスコの2階で安く買えるから着ているだけ、リュックはいつも手荷物が多くなるから背負っているだけ、メガネは目が悪いからかけているだけ
どれもオタク活動にとって全く支障とならないものです
中途半端な文化系の方々は自分も込みでどうしても俯瞰から物事を見てしまうから自嘲やマウントによって自己批評を下すのです
そこからはオタク活動すら自己表現のツールのように見えてしまうのでしょうが、大きな間違いです
自称シネフィルとマジもんのシネフィルの違いもそこにあるわけです
オタクは自分のことなんてどうでもよろしいのです
しかし昨今はインターネットのせいで若者から中年まで自己愛が強くてどうしようもないですね
つぶやき一つ書き込み一つまで自己表現にしたがるのですからね マニア/オタクとサブカルの違いかな
マニアやオタクにとって好きな対象はそのまま享楽
役に立つとかブランディングは二の次
サブカルはハナから目が効いてしまうのかその対象が好きか嫌いかは重要ではない
だからかその対象の流行が終わったり、年頃が過ぎると鬱になったりする方が多いような
批評性が高く抽象的思考力に富むインテリはナチュラルにサブカルで
マニア/オタクになるのは難しいのだろう 魂(テャマスィー)の恋愛論(by スタンダール)的な擁護のために 魂(テャマスィー)の正論(右翼雑誌)的な擁護のために フジテレビは右翼テレヴィ局なのに80年代は一番ラディカルだった 魂(テャマスィー)の一般相対性理論的な擁護のために 魂(テャマスィー)の私小説論(by ヒデ)的な擁護のために 気持ち悪い連レスしてんなよクソニート
お前のレスなんて哲学専攻してる人間からしたらFランの論文レベルなんだよ
邪魔だから消えろ イデオロギー装置というと、
アルチュセールの「国家のイデオロギー装置」というものをすぐに思い浮かべる。
しかし、今となっては、国家のそれよりも、
市場化されたイデオロギー装置の役割が、大きいだろう。
ロラン・バルトの「損話作用」「モードの体系」などには、
その市場化されたイデオロギー装置の批判をいう面があったし、
また、日本では、たんに消費主義のイデオローグとしてのみ受容されたかような感のある
ボードリヤールは、じっさいには、その市場化されたイデオロギー装置の批判について、
もっとも意をつくして論じた思想家だったと思われるのである。
おそらく、ボードリヤールの一番の関心事は、アルチュセールとおなじく、
再生産の問題だっただろう。
「趣味」を重視するのはよいとしても、その「趣味」の領域が、消費社会のイデオロギー編成に、
容易に組み込まれてしまいやすいことについても。敏感でなければならないのではないか。 間接的に多様な仕方で働く国家のイデオロギー諸装置は相互に矛盾をきたしながらも国家イデオロギーを現実化する。
学校・教会・メディア…等々で教え込まれるノウハウとイデオロギーは
それぞれの社会階級に応じて配分され社会階級を再生産する。
(またの名さん、アルチュセール「再生産のついて」への書評から) 「システムの唯一の
論理は生き残ることであり,この意味でのシステムの戦略は,人類の社会を不安定な状
態,絶えざる欠損の状態に保つことなのである。生き残り復活するために,システムが
伝統的に戦争を強力な手段としてきたことはよく知られているが,今日では,戦争の機
構と機能とは日常生活の経済システムと機構のなかに組みこまれてしまっている」
(ボードリヤール「消費社会の神話と構造」
「コロナ禍」でもって、先進国は、財政ファィナンスとペリコプター・キャッシュ政策に踏み込んだ。
それでも、いまのところ、物価は安定し、資産価格は上昇を続けている、という状態である。
今後多くな問題が生じなければ、資本主義は、そのシステム維持のための戦争は(ほかの理由での戦争はあるとしても)、いよいよ全然必要としなくなったといえる。 ×多くな
〇大きな
なお、少し前、蓮実重彦が、9・11事件のニュース映像について、「映画的ではない」と述べたということが、
このスレッドで話題になった。
湾岸戦争に際して、ボードリヤールが、ぎゃくに「映画」の喩えをだして、
「湾岸戦争は起こらなかった」と述べたことを、思い出させるものだ。 >>260
傷ついた!
おれはもうこのスレに書き込まない!
ばいびー! ボードリヤールの著書に再生産について書いてあることがけっこうあるのだが、
Jボードリヤールは,消費とはひとつのま とまった価値システムであり,システムとして の機能を全て有していると分析する。
彼によれ ば,生産と消費は,生産力とその統御の拡大再 生産という唯一の巨大な過程のことである
(藤井友紀「ボードリヤールと他者性」)
ボードリヤールの著書に「再生産」について論じているところが結構あり、
また、吉本隆明との対談でも触れていたのであるが、
それらの本は、いまやダンボール箱の中なので、ひも解くことができない。
それで↑を引用しました。 ↑
一行目の
「ボードリヤールの著書に再生産について書いてあることがけっこうあるのだが、」
これは書き間違いで、引用ではありません。 ある種の知識人の「サブカル重視」というのは、プロレタリア芸術運動への反感含みではあるが、
やはり一種の文化革命思想にもとづいていたと思われる。
ハイデガーが,ナチズムに期待したのは主にそこだし、
三島由紀夫、また、かつての吉本隆明もおおむねそうで、
蓮実重彦にも、ぬぐいがたくそのにおいがあった。
そして、もっとも大規模な文化革命といえば、
毛沢東思想、プロレタリア文化大革命ということで、
ある時期のコダール、ということになる。 「美しいものに対する喜びはいっさいの関心を離れたものである」
(カント「判断力批判」)
上記引用の関心を離れること、無関心性とは、所有したり、ほしいままにしたり、利益を得たり、用立てたり、
といったようなことを「目的」とする思考態度をとることがないということだ。
そういう意味で、245さんのレスは、筋が通っているものだと思われる。 ≫オタク活動すら自己表現のツールとしてみてしまう
「自己表現のツールとする」というのは、無関心とははんたいの、
対象を「用材」(ハイデガー)として認識する態度である。
オタク文化におもねるような、ある種の知識人が、
本当のオタクには嫌われる傾向があったのは、
いやしい底意を見透かされていたから、ということなのだろう。 ヲタが対象に無償の愛を捧げているとか無私無欲だとかナルシズムが存在しないとか幻想。
アイドルがイケメンとハメたらヲタだってキレる。
自分はヲタではないから知らないが、彼らにも(モードに基づいた)ヒエラルキーがあるんだろう。
しまむらで買ったチェックのシャツよりダイエーで買ったそれのがイケてるとか。 ダンロップやブリヂストンのベリベリスニーカーよりアシックスのがイケてるとか。 顔はイタリア人俳優のようにハンサムなのに、常にアディオスのジャージで授業してた先生もいた。
オタクでもなんでもなく、服装に無頓着なだけなんだろうけど。
小中学生の頃、親がプーマのパチモンのパンチとかいうロゴが入ったトレーナーを買ってきた時に俺は真剣に怒った(優しい母親なのに)が
あとで考えたらそっちの方が面白いし俺も「土人」なのだなと悟った。 ニューバランス履いてる友人に「ああ、月星の」と何の気無しに言ったら(日頃はおっとりしたそいつから)ムキになって否定された記憶がある。
正確には知らないが、ニューバランスを日本で販売してるのが月星らしい。 大神源太のような人物が映画を製作し主演したがる欲望は何なのか?
大神源太の映画はサブカルでもメインカルチャーでも芸術でも娯楽でもないような気がする。 ヒップホップの人(失念)も「俺たちにとって(ハリウッド)映画に出る事はアガリだ」と公言していたが、(ロッカーにありがちな)質の高い作品に出たいというのとも違うようだし
(捻くれ者を気取るロッカーのように)わざと変なのに出てみたいなんて気持ちも持ってない模様。 ヲタクの方たちが着ているというチェックのシャツとはかつてグランジャーの代名詞だったネルシャツとは別の物なのか?
自分はどちらも着たことがないのでわからない。
同じものなら、ヲタクの方たちもロックなのではないか。 >>280
その人物は知らなかったのですがネットで見たところ千葉の土着のロッカージャガー氏と同じような存在なのでは。
「小金があるから映画スター(ロックスター)になってみようか」という。 ジャガーはみうらじゅんにいじられても平常運転だったが
大神源太はサブカルから片思い的に面白がられてもそっち方面(今なら吉田豪に「理解」されるとか)に対する承認欲求はまるでなかっただろう。
ならば大神は誰に認められたら満たされたのか?ハリウッド?欧米人?評論家? ジャガーは犯罪者ではないし、キチガイ転がしの達人を自負していた根本敬があんだけ持ち上げてたのに「しくじった」在日不動産屋歌手のような人物でもない。
氏神一番とどちらが格上なのか訊かれたら、ジャガーと答える。 だいたいの映画は絵画のサブで
一部が名誉絵画となってハイカルチャーになった感じかな ダンカンって、あの元フンコロガシのダンカン本人なの? そりゃ映画はメインたりえないし、メインになる必要もない
サブで十分 劇映画は、日本においても、とっくに主流の文化だろう。
国立大学に映画関係学科があり、どこの土地の文化センターにも映画上映設備があり、
映画関係者が文化勲章の類を受賞し、などなどと、たくさんあげられるだろう。
なお、マンガもそうなりつつあると思う。
とっくにそうした、いわば「文化体制」に組み込まれているのに、
その認識のない人たちがいるのが問題である。 Wikiから
ハイカルチャー(学問、文学、伝統的美術、クラシック音楽など)であり、
ブルジョア階級や知識人、教養ある人々に支持されるもの
蓮実重彦が映画評論を始めたころは、
まだ↑の様な考え方が、そこそこつよかった。
だから、映画評論に、カウンターカルチャーの面があったが、
1980年代には、かんじんな「ハイカルチャー」のほうが、瀕死の状態になっており、
抵抗文化のほうがすでに「主流」になっていた。
そして、蓮実重彦は、官学の先生の頂点の地位に就くことになった。 いまさら言うまでもないけど蓮實がやったのは分かりやすくあえての例で高級なヨーロッパ芸術風映画と低級なハリウッド娯楽映画の価値逆転じゃなくて二項対立の無効化だからね 『「知」的放蕩論序説』
じっさいには、とっくに権威的な立場にあるのに、↑のように「放蕩」などと言ってしまうところが、
蓮実重彦の自己認識の変なところであろう。
とうするに、まだ気分だけは「闘っている」ということであって、
これは、石原慎太郎、田原総一朗、などといった、かつてはたしかに「闘っていた」
のかもしれない権力的権威的な人たちとも共通する、ズレた感覚だといえる。 カウンターカルチャー的な意匠を纏った映画やニューロックより大衆娯楽的な映画やポップスのほうが凄いと言ったわけではなく メインカルチャーとサブカルチャーというのは、
日本以外では、マジョリティーの文化とマイノリティーの文化の事でしょう。
日本の場合は、ハイカルチャーに対するところのサブカルチャーという位置づけでしょう。
また、映画批評の類は、ヨーロッパ映画を対象にしようが、アメリカ映画を対象にしようが、
むかしは「学問」ではなかったですよ。 学問の対象になってハイカルチャー化か
一つの目安になるね
今義務教育で映画を見る授業なんてあるのかな?
見せるなら『極楽特急』を見せたい
いきなりサイレントはハードル高いしルビッチを堪能して欲しい
仮にみなさん中学教師で授業で映画を見せるとなったら
何を見せます?(2時間以内ですかね)
『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』もいいな 映画の授業はなかったけど
山田洋次監督の映画は学校で見せられたな 日本の「サブカルチャー」は、本来は、ローカルチャーのことなのでしょうね。
蓮実重彦が映画評論を始めたころ、
映画はローカルチャーで、
ヨーロッパ文学者がそのローカルチャーを研究することが、
アカデミズム内では、カウンターカルチャーの意味合いをもったでしょう。
そういうわけで、本人としては「闘っている」という気分があったので、
闘争とか、放蕩とか、狂人とか、といった題名をつけたがった、と。 映画狂人は、葛飾北斎の画狂人にあやかったのでしょうけれど。 『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』
加藤幹郎氏は、↑の本を書いたとき、
「一本の映画について本を一冊書くことなど、正気の沙汰でない、
と周囲の人に言われた」と述べていた。
しかし、わたしとしては、正気の沙汰でないのは、
そんなブログででもやっていればよいことを官学の先生をしながらする人に
結構な金額の給料を払っている日本国で、
加藤氏のことは、「正気の沙汰でない」どころか、
すごく要領のよい世渡り上手なお利口さんだと思ったわけである。
つまり、私の様なものが、「要領のよい世渡り上手なお利口さん」だと思うことをしていたご本人は、
「正気の沙汰でない」という周囲の人の言葉を本気にしていたらしいのである。 加藤幹郎のブレラン論のアプローチはブロガーっぽいね
しかし枝葉が面白くて『故郷の便り』はこの本で知った >>278
ウィキを見たら確かに大きく関与してるみたいですね。
自分は買ったことがないのですが、街中で履いてる人が多いので日本のシューズブランドなのかなと思ってました。
自分は高校時代サッカー部だったのですが、そのン十年前、走り込み用のランニングシューズにニューバランスをチョイスしている同級生がいて、当時ほとんど見かけることがなかったそのシューズを初めて見てかっこいいなと思ってました。 >>299
カラーじゃないと若い子は見ないよ
最低でも90年代以降かな >>306
だから先生が授業で見せるのは
自らは見ないであろう作品でしょ >>299
日本の学校教育なんかで生徒に映画を見せてもどうせつまんない無難な映画になるだけ。
山田洋次とかね。
※個人的には山田洋次は一般的にイメージされる良心作家では実はないと思うが、
もし学校で見せるとなるとそうした凡庸な文脈に乗せられるだけ。
>>306
これはもう30〜40年ぐらい前にはそうなっていたけど、一般日本人は(いずれも悪い意味で)
TVドラマ的・アニメ的・ハリウッド的なものしかもう受け付けないね。
ここ20年程はハリウッドさえキツくなってきた。
(悪い意味で)TVドラマ的・アニメ的なものしかもう駄目。
小中高大の映画教育なんかに幻想を持つより、日本はもっと映画館市場を拡大させた方がいい。
いまだに日本人の映画館利用回数1年=1回でしかないから。
※他の先進国2〜4回 アメリカ人・韓国人=4回
根本の市場が拡大すれば、「たまには変わったものも観てみようか」という客も自ずと
増えて「通好み」の映画や上映の客も増えるだろう。
そういうマスの市場拡大もナシに映画教育だの啓蒙に幻想を持つのは止めた方がいい。
当の映画人たち(是枝みたいな奴)じしんがそういう啓蒙幻想が大好きだけどな。
もうそれ自体が幻想だから。もう無駄な事は止めなさい。
蓮實の東大・立教講義じたいが10〜20代の「若者」たちに所詮は偏ったシネフィル
史観を植え付けてただけだろ?、、自分はナマの蓮實講義なんか行ったこともないけどw ところで鴨下信一死んだな。蓮實重彦がたまたまTVで鴨下のドラマを観て「これは
普通のTVドラマとは違う」とビックリしたんだっけ?
山根貞男や山田宏一も一時期はやたら「鴨下、鴨下」言ってた。
実際、鴨下の演出ドラマを観るとやはり一般的なTVドラマとは少し違う。
特に80年代〜バブル期の大作時代劇ドラマなどは通常のTVドラマでは有り得ない
規模の壮麗なセットが建っていた。この辺はさすがに森一生を尊敬する監督らしい。
鴨下はたぶん往年の大映京都映画に負けたくなかったのだろう。
全然関係ないが最近たまたま澤井信一郎の『17才 〜旅立ちのふたり〜』03を観たら
これが良くてビックリ! 個人的に澤井作品は実は余りちゃんと観ていなかったがラストは
成瀬巳喜男の『秋立ちぬ』60の如きほろ苦い味わい。
シンプルな話を力強く撮れるのはやはり澤井の力量なのだろう。
澤井だと公開当時に一部の批評家(上野昂志wなど)が絶賛した『日本一短い「母」への手紙』95
なども気になっているが観てないな。
前に近場のレンタル屋で見つけて「おっ」と思ったが結局は観ないまま、その後、その
店は潰れてしまった、、(´・ω・`) 森喜朗、川淵三郎、蓮實重彦・・・森世代の老人は元気だなぁ モノクロの古い映画を無理やり見せたところで生徒の昼寝の時間になるだけだよ 日本にはブーム・バップもトラップもエモ・ラップも合わない。
日本でやるべきなのはポコチンラップ。
筋少やLA‐PPISCHやBUCK‐TICKをサンプリングすればよい。 せがれが有名になってBUCK‐TICKは再評価されているな。 表象文化論は、「表象」(representation)の分析という観点から、文化事象全般に対して批評理論に立脚した学術的アプローチを行いつつ、大学における研究と社会での文化創造のアクチュアリティとの間の架橋を企ててきました。哲学においては「再現=代行」であり、演劇では「舞台化=演出」、政治的には「代表制」を意味するこの「表象」という概念が、さまざまな文化的次元の関係性の核を表わすキー・コンセプトとしてきわめて有用かつ生産的であることは、すでに十分に証明されたと言えるでしょう。
表象文化論は、文化的事象を孤立した静的対象として扱うのではなく、それが生産され流通し消費される関係性の空間、すなわち、諸力の交錯する政治的でダイナミックな「行為」の空間の生成と構造を考察しようとするものです。こうした志向性から表象文化論は、アート・マネージメントや文化政策、さらには芸術作品の制作それ自体にまで及ぶ数々の実践的課題にもまた積極的に取り組んできました。それは、文化と芸術の諸問題を緻密に分析しながら、みずから実践的なネットワークを形成しそれを内にも外にも繁茂させてゆく、実験精神に富んだ創造と実践の学なのです。
(表象文化学会設立発起人一同) 「表象文化論は、文化的事象を孤立した静的対象として扱うのではなく、
それが生産され流通し消費される関係性の空間、
すなわち、諸力の交錯する政治的でダイナミックな「行為」の空間の生成と構造を考察しようとするもの」
初めて読んでみて、2006頃の発起人方の考え方が、
いがいに、社会思想寄りだったということが分かった。 Wiki「表象」から
クリスチャン・ヴォルフは、ラテン語のperceptioのドイツ語訳としてVorstellungを当てた。日本における哲学用語としての表象は、一般に、ドイツ語の Vorstellung、 フランス語のreprésentationの訳語として認知されている[5]。この意味での表象は、外界にある対象を知覚することによって得る内的な対象をいう(「知覚表象」)。外界の対象が現に存在せず、知覚対象を記憶に保ち、再び心のうちに表れた内的な対象を知覚対象と区別する意味で「記憶表象」といい、同じく人の思考作用によって心の内に現れた内的な対象を「想像表象」という。
表象によって得られた内的対象は、外界の対象が現に存在するか否かにかかわりなく、人の意識のうちに現れ出でるものであり、外界の対象を象徴する記号的な意味をもつ観念でもある。ルネ・デカルトはこの内的対象を示す語としてidéeの語を充てていたが、カントはデカルトを厳しく批判し、Vorstellungを自己の哲学大系の中心に置いた[6]。フランスでも、idéeの語に代えてreprésentationの語が広く用いられるようになった。知覚表象の場合と異なり、記憶表象および想像表象の場合は、外的対象が現に存在せず、心の内に「再び―現れる」(re-présentation)ので、記憶表象と想像表象のみを「表象」ということもある。 >>288
Duncan Is Dead
ダンカンは心無い読者に殺された。 >>289
Duncan Is not Dankan
「鈴木五喜朗/脈打つダンカン/Throbbin' Duncan/Duncan/ビートつよし」は「飯塚実/立川談かん/ふんころがし/ダンカン/Dankan」とはなんの関係もない。 サッカー部時代のニックネームは「ゴキロー」(50m6秒7の “やや俊足” だった)。 奈落の底に陥された脈打つダンカンは復讐に燃え、鉄仮面を纏った在日朝鮮人コテハン金玉痒(きん・ぎょくよう)として甦るであろう。 昔表象関連のイベントの最後に「表象ってなんですか?」と質問した人がいて
「そんなこともわからず話聞いてたのかよ」と返したのは東浩紀だっけ? ポスト構造主義は表象批判をやっていたのにポスト構造主義を日本に輸入した連中が作った学科が表象文化論なんてことになってしまったところにどっちつかずのねじれがあるのよね >>275
【話題】声優ガチ恋オタクさん「ある女性声優を推してたけど、裏の性格が悪すぎて嫌いになった。男匂わせ発言が本気で気持ち悪い」 [Anonymous★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1613106380/ >>326
それは対象が偶像破壊されてすでに対象じゃなくなった後の話だな
自分でもうファンじゃないって言ってんじゃん >>308-309
この「独り言」って奴も、「映画は映画館で観るもの」という固定観念にとらわれているからねぇ……。 新嶋良恵
マス・メディア表象研究における カルチュラル・スタディーズの意義 —スチュアート・ホールの文化的アイデンティティ理論をてがかりに—
スクリーン研究 マス・メディアにおける表象をめぐる主体の問題は映画雑誌『スクリーン』などで活躍 した研究者によって盛んに議論された。映画教育者のための雑誌『スクリーン』は,フラ ンスの(ポスト)構造主義理論(特にラカン派の精神分析)を,1970 年代のイギリスで 最初に紹介したものの中の一つであるという(粟谷 2002: 30-31)。スクリーン理論の論者 としては,スティーブン・ヒースやコリン・マッケイブが象徴的で,ヒースによる Question of Cinema(1981)が代表的な著作としてあげられる。 彼らはルイ・アルチュセールの「国家のイデオロギー」論やラカン派の精神分析など構 造主義理論を積極的に援用した その目的は,主体の位置の生産を通じてフィルムの語り の中に観客を縫いつけながら,彼らのうえに映画のテクストが主体性を授ける象徴的メカ ニズムを暴露することであったという(Moores 1994)。こうした研究において,主体化 の過程を考える際に重要とされてきたのはアルチュセールの「イデオロギー装置」と「呼 びかけ」の概念である。これによるとテレビや映画のスクリーンはイデオロギーを伝達す る「装置」として「呼びかけ」を行い,「呼びかけ」られることによって観客は「主体」 となるというのである。そしてイデオロギーは「主体」への「呼びかけ」によって成り立 つとされる。 蓮実重彦インタビュー「リアルタイム批評のすすめ」
──日本の大学における映画研究というものについてはどうお感じでしょうか。
蓮實:そんなに詳しく知りませんけれども、アメリカの悪い面だけは学ぶなよ、というのが唯一いえることだと思います。しっかりしたひとはみんな知ってると思いますが、批評性を欠いたひとはあれが唯一の映画研究だと思ってしまう。この傾向は、カルチャー・スタディーズと手を組んで、東アジアの大学全体に拡がっています。
──ただ、先生はかつて、映画というものは制度化されざるものであり、であるがゆえに、アカデミスムに偏ることは好ましくないと述べておられましたが。
蓮實:今でもそう思ってます。個々の作品は生きものであり、その新鮮さが社会に投げかける思いもかけぬ刺激に触れたとき、それをどういう文脈で伝えるかが批評の問題です。ところが、それに触れるのをあえて自粛することがアカデミスムだと思われているのは、映画にとっても大学にとってもよいことではありません。映画産業の現在とはおよそ無縁のところで形成されてゆくアメリカのフィルム・スタディーズは、そこに形づくられる言説が社会に広く触れようなどとははなから思っていない。アメリカの大学特有のこのシニシズムを世界が模倣する理由はまったくありません。 (中略)
じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。ですから、許せないのは、私ひとりが許せないっていったってどういう意味もないんですが(笑)、ジジェクの書いている映画論なんか読むと、腹が立ちます。世界も、映画も、それほど単純なものではない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、「réel」という殺し文句を口にしてしまう。 「17才 旅立ちのふたり」
上映時間もフレームもカッチリしている。ロケーションも絶妙。
雑巾がけをする松田聖子に尻を使わせたり、パンティ(アンスコ)が見えてハッとする女宇宙刑事アニーの恥じらいを演出(他の演出家により速攻で崩壊)するなど、マキノ譲りの「自分でやってみせる」芝居をちょっとキモい形で継承している澤井だが
必ずしもアイドルに甘いわけではなく、藤本美貴のアップはほとんど撮っていない。
反面、「母親の喘ぎ声聴いて育った気持ちがわかるかよ」と言わせ、「らしさ」を強調。
もう一人のモー娘。は映画のフレームには合わない丸顔だが、それも踏まえて演出。
まだ男性漫画家も少女マンガを描いていた頃のような古めかしいお話。
阿部和重が「交通事故の場面が凄い」と評していたが、大島渚「少年」、ゴダール「ヌーヴェルヴァーグ」のそれに次ぐ巧さは感じた。
「生意気な悪ガキ」を演じる子役の演技は拙いが、小沼勝「ナギサ」にも通じる、ベタな子役演技なりの奇妙なリアリティはあったかも。 「仔犬ダン」の方も悪くはないが、唐突に現れヒロインにエールをおくる兵藤ゆき姐の存在しか覚えていない。
澤井は筒井武文の「福沢諭吉」論が、持ち上げ過ぎてて面白いのと
梅本洋一が澤井を「ワイラーの足下にも及ばない」と断じていたなど
蓮實重彦の影響下にある者でも賛否分かれる微妙な人。
蓮實重彦も野菊の墓を観て丹念な批評を書いてはいるものの、「将来性はゼロ。それ故に貴重で最高傑作」 稲川方人はレピッシュを評価していた。トンチンカンな文章だったような記憶がある。
ポコチンロック勢は
アンジーはミューマガで2点つけられ
ニューエスト中川からはポコチンロック全般がダメ出しされ
バクチクの桜井(ほんまもんの美形)は全裸で演奏するコンセプトのヌーダーズに(レピッシュから)勧誘されていた。
遅れてテクノにハマったバクチクが、ソニー資本に物を言わせて海外大物にリミックスさせたのを石野卓球(たけし信者)はバカにしていたが、のちに… 芸人なのに、彼らなりにあったピークを世間からはほとんど知られていない者たちが、中途半端な立場のまま年老いてゆくのが不憫でならない。
…なんて本当はまったく思ってない。
現在の芸人=「車両用の歩行困難者ステッカーをなぜか持っている者たち」ではないのだろうか? 『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』(The Pervert's Guide to Cinema)は、2006年のドキュメンタリー映画。
精神分析家のスラヴォイ・ジジェクが精神分析学的観点から40本以上の映画を解説する。
これをみた方は、いらっしゃいますか。 蓮実重彦と接点のある「お笑い」テレビタレントというのは、
ビートたけしのほかにも、そんなにたくさんいるものなんでしょうか。 芸人でないがフランクチキンズとわずかに関わり有り。 「芸人」の話は、しかるべき板ですればいいんですね。
それから、文学板ですから、ただ映画の話をするのではなく、
映画評論に関連付けた話をしないと、場違いになるでしょう。 >>331>>332
さすがハスミ先生だ
素晴らしいね
ID:gNeVimpA さん
適格な引用ありがとうございます かつてこの “邦(くに)” にも “舐めること” に懸命になっていた若者たちがいたという そんな時代を切り取って映画にしてみせなければならないのが山田洋次だと思うんだが...... クリスチャン・メッツについて蓮実重彦はどういう風に言っていますか。 『風櫃の少年』みたいな作品が撮れないから山田洋次は駄目なんだろう。 反応がないが、そもそも『風櫃の少年』を見たことがない人たちがこのスレを見たり書き込んだりすることには疑問が残る。 >>260
お前もだよ。
脈打つダンカンの悪口を書き込むだけで具体的な事は何一つ書き込まないな。
常に。 詰まらない一般論を書き込むだけで、個別の小説や映画作品について書き込む奴はなりきり氏と脈打つダンカンしか居ない感じだな。
もうこのスレ、“散開(さんかい)” しちゃった方がいいんじゃない?
小説を読んで映画を見てる奴は2、3人しかいないみたいだし。
あとは適当にネットでググッてる奴しかいなくて、自分の知識で “勝負” してる奴はいないっぽい。 ID:FpxuUE/4=コテハンニートは散々コピペおじさんに話し相手になってもらってたくせに恩知らずだな
ゴミニートならでは
自演するほど必死なら" "で括るクセやめろw
お前がゴミから脱却できないのはそういうとこだぞ 自演なんかしてねえよ。
俺は脈打つダンカン/金玉痒(きんたま・かゆ ではなく きん・ぎょくよう)だ。 コピペ男はいい人だが、いつかは誰かが言わなければならんだろう(そういう空気はあった。俺が “汚れ役” をやらざるをえなかっただけ)(コピペを控えるかほとほどにすればいてもよい)。 引用符とルビを多用するのは『疾風(かぜ)伝説 特攻(ぶっこみ)の拓』の佐木飛朗斗先生と「ジョジョ」シリーズの荒木飛呂彦先生の影響である(荒木先生お得意の傍点は使えないが)。 復讐鬼金玉痒は6の月と9の日(シックスナインの日)に “Second Coming” する。 蓮実批評対カルチャル・スタディーズ・映画研究(フィルム・スタディーズ)
蓮実表象文化論対カルスタに接近していた表象文化学会
蓮実的カント主義美的判断解釈学対ジジェクのポストラカン派的カント主義解釈学
などの「対立」をはっきりさせるための引用です。 いちおう文学板は学問板なので、いちおうそれらしい話をしたほうがよいのでは、
と思うのですよ。 >>358
失礼なこと言ってサーセンでしたw😅
引用さんはこのスレの良心ですお ≫個別の個別の小説や映画作品について書き込む
蓮実重彦は映画監督ではないし、蓮実作の小説は3つでしょう。
蓮実重彦の小説については、これスレッドでは、
もう何年も前に十分語られたのではないですか。 キモニートの自分語りは飛ばしますが
コピペさんのコメントはいつも読ませて頂いております
これからも楽しみにしております アメリカは分析哲学が隆盛だから、その分析手法が映画や小説にまで及んでる 『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』
↑を、ユーチューブでですが、最初の30分くらいみました。
ジジェクが、「鳥」やら「エクソシスト」やら「マトリックス」やら「ブルーベルベット」やらの
映画のワンシーンの中にいるかのような演出があって、そこは結構面白かった。
ジジェクはそれなりに「演技」をしており、思想家が演技をする、ということに、
なんだか。科学者カール・セーガンが、わりとちゃんと演技していた「コスモス」を思い出した。 >>360
ハスミンが論じてる小説や映画についてですよ。 チャールズ・サンダース・パース[注釈 1](英: Charles Sanders Peirce、1839年9月10日 - 1914年4月19日)は、
アメリカ合衆国の哲学者、論理学者、数学者、科学者であり、プラグマティズムの創始者として知られる。
ドゥルーズは、「シネマ」で、↑の理論を援用して、
ロラン・バルト系だと言われる自国のクリスチャン・メッツをさんざん批判していたのではなかったか。
蓮実重彦は、そのドゥルーズの「シネマ」を絶賛しました。
同先生も、なんだか立ち位置がよくわからないところがある。 ホウ・シャオシェンとヴェンダースとキアロスタミの代表作を一通り見てないとハスミンが何を言ってるのか理解出来るわけがないんで話にならないんだなこれが。 蓮實はジジイになって古典的なおフランスに回帰した印象 >>366
まあフォードとブニュエルとブレッソンでもいいけど。 大体このスレに俺みたいにオクで3万円使って『マルメロの陽光』のDVDを購入して見た奴はいるのか。
WikiとYouTubeで得た知識しかない奴ばかりなんじゃなかろうか。 アドヴァイスすると『マルメロの陽光』は傑作。
1万円ぐらいだったら出しておくことを勧める。
劇映画というより(ほぼ)ドキュメンタリー映画だが。 マルメロはタダで友達に借りてDVD焼いたわ
そういうもんでしょ 5ちゃんなんかやってないで
もっと
小説を読んで
映画を見ることを
薦める
俺は “上がった(リタイアした)” 人間なんでもう本読まなくても映画見なくてもいいんだよw😅 マルメロとりあえず見たい人はニコ動で見れば良いよ
https://www.nicovideo.jp/watch/sm2158983
オークションで3万で買ったとか聞かれてもないのに語るじいさんにならずに済むよ 暇つぶしに5ちゃんねるに書き込むよりも、
過度に小説を読み映画をみるほうが、よほど「廃人」になるでしょう。
そもそも、文学の本などを読む時間を、法律学や経済学の本、あるいは、
ノウハウ本や自己啓発本を読むのに費やせば、
今ほど知力の無駄づかいをしないですんただろうに
そうしなかったのは、一体なぜなのかを考えてみればよい。
ステマ、プロ固定などの筋金入りの5ちゃんねらーに共通しているのは、
ことあるごとに、5ちゃんはやめろ、といい、
ときに、5ちゃんねるの言説を「便所の落書き」なとといって貶めることだ。 「承認欲求」であるとか「オナニー」であるとか「自己顕示欲」であるとか「シコシコ日記」であるとか「ボクちゃまくんを見て!症候群」であるとかは何も固定ハンドルの専売特許ではないのである。
名無しで書き込む人もある程度は同断なのである。
そういうものが全くない人はそもそも5ちゃんねるなぞ見ないし書き込まないのである。 >>379
文学の本を読まない人が蓮實重彦スレに居る必要はないでしょう。
蓮實重彦は文学者なのだから。 5ちゃんねるはやめなさい、とかいうのは、ID:FpxuUE/4さんで、
わたしは、そんなことは言っていないし、
そもそも、やめたほうがよい、とも思わない。
また、わたしは、文学の本を読まないほうが良い、とも言っていないし、
そもそも、そう思っていない。 ≫「承認欲求」であるとか「オナニー」であるとか「自己顕示欲」であるとか「シコシコ日記」であるとか「ボクちゃまくんを見て!症候群」であるとかは何も固定ハンドルの専売特許ではないのである
たしかに、それは固定ハンドルに限らないだろうが、その種の言葉で、他の住民を中傷するのは、
5ちゃんねるに四六時中いる人のよくつかう手口だ。 かつてのこのスレッドの固定ハンドルでは、ムー大陸、Nなどというのが、
よくそういうことを言って、他の住民を中傷していた。 兎に角、「『風櫃の少年』を見ずしてハスミンを語る事は可能か?」と云うテーゼに真っ向から反駁出来る者が出現しない限り、己(おれ)は己の “大義” を貫く他ない。 んーあまりにも “荒らしてる感” が強くなってるんで頭冷やします。
今月一杯は書き込まずに来月の1日に戻ってきます。
でわ👋 秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。 俺の哀れな心臓が船尾でよだれを垂らしている
タバコの脂がまとわり付いた哀れな俺の心臓
その上に奴らがげろを浴びせかけて
俺の哀れな心臓は船尾でよだれを垂らしている
船員たちはそんな俺の心臓をからかい
大笑いに囃し立てるが
俺の哀れな心臓は船尾でよだれを垂らすばかり
タバコの脂がまとわり付いた哀れな俺の心臓
怒張してそそり立つ偉大な男根が
奴らの罵り騒ぎで萎縮した
舵の柄に描かれたフレスコの絵
怒張してそそり立つ偉大な男根よ
おお波よ! アブラカダブラ!
俺の汚れた心臓を洗い清めてくれ
怒張してそそり立つ偉大な男根が
奴らの罵り騒ぎで萎縮した
奴らが噛み煙草をかみ捨てたら
次は何が起こるんだ 盗まれた俺の心よ
バッコスの巫女たちの乱痴気騒ぎか
奴らが噛み煙草をかみ捨てたら
とりあえず酔い止めの薬でも飲もう
俺の心が再びおかしくなる前に
奴らが噛み煙草をかみ捨てたら
次は何が起こるんだ 盗まれた俺の心よ ポール・ヴァレリーのエセー《ドガ・ダンス・デッサン》に出てくる話だが、ある日マラルメと一緒に夕食をとっていたら、ドガが詩を書く際の苦労を訴えて「何たる職業だろう! たかだか一篇のソネットを書こうと思ってまる一日かけて一歩も進まない。
イデーがないわけじゃない。それどころかイデーは掃いてすてるくらいあるんだ。だが書けない」と言ったら、マラルメがいつもの穏やかな口調で「でもね、ドガ、詩はイデーじゃなくて、言葉でつくるものなんだ」と応じたという。 今は徹頭徹尾放蕩に身を持ち崩してやろう。なぜって?わたしは詩人になり度いと思い
そこで見者たらんとして刻苦しています。貴方にはその意味が皆目お分りにならないでしょ
う、わたしにしても、それは殆ど説明いたしかねます。あらゆる感覚を不羈奔放ならしめる
ことによって、未知のものに到達することです。並大抵の苦労ではありませんが、しかし、
そのためには強者であり、生まれながらの詩人でなくてはなりません。そしてわたしは自分が
詩人であることを確認したのです。これはわたしの手落ちでもなんでもありません。吾れ思う
と云うべきでしょう。洒落など申して、相済みません。
わたしというのは一人の他人です。自分をヴァイオリンと思い込んでいるとうへんぼくなど、
お生憎さま、皆目知りもしないことについて御託を並べ立てる無自覚な連中など糞くらえ! >>357
こういう交通整理どんどんしてくれ
大変参考になる
ID:FpxuUE/4
渡部直己って↑こんなタイプかな 詩は・・・一つの漂流瓶であるのかも知れません、どこかにそしていつかは陸地に、ひょっとすると心の陸地に辿り着くかもしれないというーーいつも希望にみちてばかりいるとはいえませんがーー信念において流される漂流瓶。・・・それは何かを目指します。 ブレヒト劇やべケット劇やゴダール映画よりジョン・フォードのほうが偉大なんですか? 浅田彰 他方、どこまでも先鋭化していくジャズと較べると、ロックはとにかく下手でうるさいだけ、白人のバカなガキがやっている単純きわまりない四拍子のドミソの音楽というので、ぼくはずっと嫌いでした。
でも、T・レックスというグラム・ロック・バンドが七三年に日本に来て、それをたまたま聴きに行ったとき、マリファナを吸ってだらだらしながら下手なギターをやる気なしに弾く、そのダウナー系のだらしなさこそロックのカッコよさなんだということがわかった。
以後、 ローリング・ストーンズまで遡って聴くとなかなかいいし、のちに出てきたパンクも好きになった。他方、技術的にがんばろうとするタイプのロック・バンドはダサいと思っていましたね。
―プログレッシヴ・ロックなどはいかがでしたか。
浅田彰 おおむね大嫌いだったし、プログレッシヴ・ロックが高度だとか言っている連中はバカじゃないかと思っていました。
もともとジャズのほうがはるかに高度だし、むしろ高度なものへのプログレスを放棄するところがロックのカッコよさじゃないか、と。 坂本龍一
「ジャズなんて単純過ぎて聴けたもんじゃない。いまだに聴いてる奴は耳が悪いと思う」 ようやく丹野達弥再評価の季節がやって来たのではないだろうか 村上龍がキューバ音楽にハマってた頃の対談。
坂本龍一は別な場で「ヒップホップはデブにも表現の機会を与えた。ファットイズビューティフル!」みたいな事も言ってた。
ついでにキムチの赤をトマトの赤と並べて絶賛してた。
高橋幸宏「ファンの女の子たちはみんな坂本龍一が八等身の美形みたいに解釈してるけど、頭がデカくて尻もデカい」 他にも「J POPなんて全部ダメ」とか、公の場でそう言いきってしまえばそれなりに気持ちいいんだろうけど
根拠のないハッタリや放言の面白さもなく、音楽を抜きにしてのエンターテイナーの才能は無いんだろうな。
アホアホマンなんて見た目だけ(「リアル山上キャラ。あれをやるだけでも凄い」という事に甘んじてる事にも自覚がない)だったし。 いっときの近藤等則が、ドゥザライトシング観て興奮したアホ学生みたいなテンションで捲し立ててたのは滑稽だったけど、そっちの方が面白いオッサンみたく思えた。
「俺たちにはイエロー特有のノリが、例えばビートたけしの…」とか。
そのビートたけしからは、国際ジャーナリストがCMキャラのアサヒスーパードライの音楽を「屁みたいだな」と斬り捨てられていたが
ビートだって、同じアサヒビールのCMではダサいトレーナー姿で中途半端な醜態を晒していた(宮沢りえとのエースコックスーパーカップも)し
あとになって「あの不味いビール!」なんて言っても汚名挽回にはならなかった。 エースコックスーパーカップCMでグラッツェグラッツェ言ってた女がシングル「私はグラッツェ」でデビューしたという話はうのせけんいちによるガセ。 ジャズマン特有の笑いというので本当に面白い例が有れば教えてほしい。
こんな場所で言葉にしてしまうと面白さが喪失されるとしても。
ヤンキーにさえギャグセンスあるやつはいたが、ジャズマンは身近に3人しかいなかったし彼らはギャグを飛ばすタイプではなかったので。 ヤンキーにさえと言うけど
ある時代まではヤンキーは文化資本ある側でしょ
坂本龍一の「修行しろ」は
細野晴臣の「わからないけどナンカできてしまった」よりはいい 田中 純 / TANAKA Jun
@tanajun009
ボウイ論が本日刊行されました!
田中純『デヴィッド・ボウイ──無(ナシング)を歌った男』、岩波書店、A5判640頁。
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b555709.html(試し読みあり) 役者としてのボウイは、シャーロットランプリングがいれば要らない程度の存在。
プリファヴのヴォーカルも若い頃あんな顔してた。綺麗なギャオス? 暴力大将や熱笑!花沢高校あたりが日本のヒップホップの規範であったなら、まだ良かった。
今からそんな輩が現れてもとうに手遅れだが。 ヒップホップ応援団というマンガの内容ではなくタイトルに感化されるような、勘の鋭いバカがいれば…
学ランの導入までも黒人に遅れをとって、情けなくないのか? 服部幸應や伊丹十三らのマオカラーでも良かった。
屁のつっぱりは、要る。 愛川欽也は「開け、ゴマ!」とは言わず「オープンセサミ」と言った。
それで世間に通じないとしてもおそらく構わないのだろう。 五大映画評論家
淀川長治
小森和子
水野晴郎
荻昌弘
蓮實重彦
蓮實重彦は知名度低くて世間的な影響力は低くて第五の男扱いだったが精進して立派になってよかった 映画を語る文章そのものが面白いのが蓮實重彦。
文芸批評は丹念ではあるけれど、自分のやり方をアピールする道具みたいに思ってそうな疑念もある。 喋りも面白いのに、滅多に出ないテレビではそんな一面は見せない。 吉本隆明は電波少年だか雷波少年だかに出て、スガ秀実から遠回しにバカにされていた。
柄谷は村上龍の番組でいとうせいこうに接待持ち上げされていた。 蓮實重彦にもテレビの洋画番組の司会を務めてもらいたかった! 蓮實が選んでかけたい映画をやる「蓮實ロードショー」という番組をやる勇気がある局はないかな? ジョン・フォード論刊行記念に「荒野の女たち」リバイバルを期待したいのだが
暗黒大陸中国の話なのでタイムリーでもあるぞよ ほんの一瞬だけサトウタダオ枠を受け継いだ?四方田の人相の悪さは印象深い。 わっちゃ朗報なので限定復活。
『牯嶺街(クーリンチェ )少年殺人事件』の
エドワード・ヤン監督
世紀の大傑作にして最後の完成作
『ヤンヤン 夏の想い出』
Bunkamuraル・シネマにて4/2(金)より35mmフィルムで特別上映いたします!
https://twitter.com/bunkamura_info/status/1361604373181124608?s=21
by Bunkamura公式ツイッター on Twitter
ヤンヤン 夏の想い出 | ル・シネマ | Bunkamura
http://www.bunkamura.co.jp/s/cinema/lineup/21_yiyi.html
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 古いハリウッド映画ばかりやってるシネマヴェーラもフォードは全然上映されないな
最近だとサイレント映画特集で一本あったくらいかなあ https://youtube.com/watch?v=y_WVb1mb3Yw
これは先ほどの話とは逆の現象で、誰もが見ていたはずなのに、見たことを誰も十分記憶していないし、画面を見たことから受けた感動を言葉にしていません。それへの苛立ちがわれわれの世代の映画批評家たちに共有されていました。それが40年後に悪いシネフィルを作っちゃったのかなあという気もしますが(笑)、
ただ、たとえば鈴木則文を見ると、これはまずいぞと思うでしょ。こんな作品が現在の日本に存在していいのだろうか、やばいんじゃないかと、それをなんとかして言葉にしておかねばという気持から、われわれがいろんなこといっちゃったわけです。消費されているはずのものが、消費とは違う力学をわれわれに波及させていたということですかね。
もちろん映画は消費されるんですけれども、でもある種の作品は、こういうものが今の日本にあるとまずいぞ、という脅えに似た気持ちに引きずりこむので、私はつい言葉につまって「鈴木則文は美しい」などと大袈裟にいってしまったのです。 エロ将軍と21人の愛妾なんて、まともな神経の持ち主なら耐えられない無神経な描写が続く。
仮に蛭子能収(根本敬でも山野一でも誰でもいい)が描いたソドムの市なんてものが存在するとしても、ここまで不快な作品にはできない。
しかし監督の則文には偽悪とか露悪とかアングラ趣味とか前衛とか挑発めいた気持ちはない(浮浪者の大奥襲撃と「タネづけ」は除くが、これは単純な「反権力」として受け入れられる)。
エロ本文化からは「徳川SEX禁止令」がやたらと持て囃されたが、蓮實重彦は「エロ将軍」と「SEX禁止令」を同じようには観ていない。
町山には両者が同じようなものにしか見えてないか、SEX禁止令に軍杯を上げるだろう。 お笑いマンガ道場の川島なお美は「温泉みみずく芸者」と言い、車だん吉を「わかって言ってるんだかどうだか」と喜ばせた。 東映の岡田茂って良くも悪くも商売のためなら何でもやるっていう活動屋魂の塊とも言えるが蓮實重彦はどう評価してるんだろう? 東映は蓮實が嫌いなアニメ興行を安定させた立役者だからなあ
今は東宝が持っていってる形だけど >>434
スレチだが岡田茂が「活動屋魂の塊」なんて、それ自体が晩年の岡田茂が自己神格化の為
に作り出した虚像だよ。大下英治に伝記を書かせたり茂本人も著書を出したり講演したり
必死だったもんな。
偉大なる父親・岡田茂を業界の内外に神格化させる事で息子・裕介への東映世襲をスムーズに
行う為に作られた虚像。
上辺は無頼ぶっていた癖に息子の祐介を東映に中途入社させて世襲させた処に岡田茂の
本性は現れている。岡田父子で東映を乗っ取り私物化した。
虚心坦懐に岡田茂を眺めるとせいぜい「乗っ取り屋」「恫喝屋」程度の人物でしかない。
岡田茂の様な輩が延々と「ドン」気取りしていたお陰で日本映画は世界から50年は遅れた。
インテリは「岡田茂はセックスと暴力を臆面もなく描いて凄い」と露悪的に褒めるが、
所詮は「裸」「暴力」しか理解できなかった人物という事でもある。
マキノ雅弘は「岡田茂は役者の息子の祐介にはヤクザはやらせんやろ? 本音では
ヤクザ映画なんかバカにしてるんや」とか言ってたらしいね。
マキノは岡田茂は大嫌いだったみたいね。マキノは任侠を描いても斬り合いは必要最小限、
血を出すのも好きじゃない、裸も露骨には描かないと「品」を心掛けていたが、
岡田はまさにその流血と裸をどんどんやれだからね。
山根貞男はチョーチン持ちだから岡田茂も「評価」するだろうが、蓮實はさすがに
そこまでバカじゃないだろ?
「岡田茂みたいなゴロツキと関わるとやばい」と何も語らない、黙っているだけでは? >>429 >>431
それコピペ?
ただ釈迦に説法とは思いますが、まず60年代後半に石井輝男のエロ東映映画があり、
その延長に70年代に鈴木則文がそういう映画を撮る様になるわけで、余り鈴木則文ばかり
突出させて語るのもどうなのかなあ?
しつこいけど岡田茂については個人的に世話になってるから(監督としていろいろ撮らせてもらったから)
中島貞夫あたりもいまだに悪くは言わないよね。
ただ東映の人の言ってる事を細かく見ていると随所でポツポツ「でもホントは岡田茂なんか
好きじゃなかった」みたいなのが見えてくるんだよなあ、、
>>435
東映アニメは大川博時代は東洋のディズニーを目指した大作路線だったが赤字。
宮崎駿・高畑勲などの古参が抜けた後の岡田茂体制下の東映アニメなんて大半は安く
作ってるだけ。だがそれで儲かってしまうので、、
東映は日本アニメの低予算化と現場の貧困を常態化させた元凶だよ。 70年代日本映画も斜陽で日活はロマンポルノになっちまったし東映は任侠映画が飽きられて集客を図るためにエログロヴァイオレンス路線に走った
結果岡田茂が後ろ盾になって笠原和夫なんかがかなりきわどいテーマの脚本好きに書けたって功績はあるんじゃないかなあ
しかし蓮實さんの映画の見方からしたら関係ないんだろうけど蓮實さんも不良番長とか東映のキッチュで猥雑で下世話な娯楽映画も劇場できっちり観てたんだろうなと思うとなんかホッコリするw 書いたのが四方田かアベカショウか樋口尚文だか忘れたが
70年代後半辺りから「まともな日本映画」はヤクザやらポルノやら世間体の悪い分野の作品ばかりになってしまい
そのことに「映画評論家」としての面目が立たないと不快に思った連中もおり、その末裔がおすぎなのだと。
当時から現在まで日本映画の問題点など腐るほどあるが、彼らは年間ベスト作品がヤクザとかポルノであること自体に不服なのだ。
映画評論家なりの文化的ステイタスが潰れ、一般人から笑われるから。「傑作」ロマンポルノでも地上波では放映できない。
蓮實は暴力やエロや「不良性感度」「バッドテイスト」などを例によってカッコに括った上で評価している。 「トラック野郎・度胸一番星」のマドンナが佐渡島の女で
桃次郎の愛読書が三島の「サド公爵夫人」だったなw 時代劇から任侠映画への路線変更に成功した岡田は、その成功要因を"不良性感度"にあると考えた。「急速なテレビの普及で女性・子供層はお茶の間のテレビに奪取された。
それなら〈ご家族そろって東映映画〉の看板を降ろし、テレビからこぼれ落ちた不良的な成人男性に狙いを絞った企画を中心に据えよう」と考えた岡田は、
「任侠映画だけでは彼らを満足させきれない、"不良性感度"の強い任侠映画に善良な映画を付けても観客は戸惑うだろう。成人男性が喜ぶ不良性のあるものは...エロだ!」と、新たなメイン観客層を想定した。
杉作J太郎が「当時、東映の映画館に女性は皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画を作ってきたから。そういう『男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。
それは岡田さんの大いなるギャンブルが残してくれた遺産なんです」と解説する極端な"男性路線"の始まりであった。結果、東映の専属女優は次々に東映を去っていった。
岡田が指示した好色路線としてのスタートは、山田風太郎原作の映画化で、エロ忍者映画『忍びの卍』(鈴木則文監督、1968年)だったのだが、これも東映の女優が脱がなかった為に興行的に失敗した。
東映専属の女優はなかなか脱いでくれなかった。この反省から好色路線をエスカレートさせ、石井輝男に作らせたのが1968年の豪華絢爛たる色欲大絵巻『徳川女系図』であった。
『徳川女系図』製作発表会見で岡田は「人間の二大欲求である食と性、とりわけ性愛を正しい方向へ持って行くことこそ、娯楽映画製作者に課せられた重要な義務である」と抱負を述べた。
本作はメジャー映画会社として初の成人指定映画で、本作の企画もタイトルも岡田の考案によるもので、石井に充てた企画書には「群小ピンク映画を撃滅せよ」と書かれ、この作品からノースターでピンク女優を大量投入、実質的な「エロ映画路線」は本作からであった。
石井は当時『網走番外地』という高倉健主演の超人気シリーズを手掛けていたが、もう飽き飽きしていて「何か別の事をやりたい」と岡田の要請に応えた。
『徳川女系図』は1968年のゴールデンウィークのメイン映画として封切られたことでピンク映画界を震撼させた。しかし結果的に話題にもなり奇跡の大ヒットを記録、3000万円の製作費でたちまち一億円以上、三億円稼いだといわれる。 "東映のピンキー&バイオレンス"のスピードアップは、映画界全体を揺るがす衝撃と集客力だった。性の自由化の風潮のなかで、エロスが映画の救世主となっていく。岡田の先見の明は特筆される。
岡田は続く『徳川女刑罰史』を「異常性愛路線」としてシリーズ化、『徳川女刑罰史』は1968年の年間配収ベストテンにランクされこれを受け、岡田は"エロ映画"を"任侠映画"と並べて興行の重要週間に配置していく。
当時の映画は二本立てが一般的であったので、こうした"エロ映画"が"任侠映画"と二本立てになることで、ストイシズムを謳う"任侠映画"の魅力が際立つという一面もあった。
1968年秋に岡田が製作から営業までを一貫して統括する営業本部を新編成しその長となると"エロ路線"が本格化した。岡田は"不良性感度濃厚な東映映画"と明快に東映カラーを打ち出して適確に観客を掴まえていく。
"岡田チルドレン"鈴木則文、中島貞夫、内藤誠、関本郁夫、牧口雄二らも流れに加わり、多くのエロ映画が量産された。石井や鈴木、中島の作品が雑多なのは岡田のせいである。これら作品のタイトルバックの多くに岡田の名前を出し、東映全体でこの路線に力を入れていることをアピールした。
また岡田自ら凄まじい「映画タイトル」を編み出し観客を呼び込んだ。"東映ポルノ"は大半が岡田命名によるこのタイトルが醍醐味の一つである。『エロ将軍と二十一人の女妾』『徳川セックス禁止令・色情大名』
『現代ポルノ伝 先天性淫婦』『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』『ポルノの帝王』『ポルノの女王 にっぽんSEX旅行』『温泉ポン引き女中』『色情トルコ日記』『未亡人ごろしの帝王』など。『エロ将軍と二十一人の女妾』も最初はエロは付いていなかった。
岡田が付けた"エロ"という言葉は倖田來未が2004年頃から人気が出て、"エロカッコいい"とか日常的に使われるようになったが、当時は口に出す言葉でなかった。『徳川セックス禁止令・色情大名』はポルノ大作と銘打たれ、1972年のゴールデンウィークに全国200館以上の映画館で封切られた。 1960年代末の日本映画は瀕死の状態で、暴力とエログロに特化した映画作りに邁進する東映だけがかろうじて映画製作で黒字を出していた。不動産やレジャー産業で損失を補っていた東宝や松竹に対して、大映と日活は製作本位に偏重していて落ち込みが酷く1970年4月全面提携してダイニチ映配を設立した。
大映が渥美マリや八並映子、川崎あかねらで『十代の妊娠』などエロ映画を量産し、15歳の関根恵子を『おさな妻』でヌードにして人気を上げ、松坂慶子が『夜の診察室』(監督:帯盛迪彦)でスターになりかかったところで倒産した。
日活も『ハレンチ学園』や夏純子主演の『女子学園シリーズ』などのエロ要素を含む映画を製作した後、1971年11月「日活ロマンポルノ」をスタートさせ成人映画路線に転じた。
東映、日活のなりふりかまわぬポルノ路線により、ピンク映画に大きな打撃を与え、弱小"エロダクション"は淘汰された。 今更で申し訳ないんだけどハスミンってポン・ジュノについて言及した事有る?
ホン・サンスとかは話題になるけど眼中に無いのかな 子猫をお願いの監督を現代韓国映画の中で本当にすごい唯一の存在と言ってた。
山田宏一も金井美恵子もこの作品をベタ褒めしてた。
話だけなら普通なのに、描写力がある。
昭和のソフトボール部の副キャプテン(だが補欠)みたいな風貌の女性監督。
以降のキャリアがなんかうまくいってなさそう(よく知らないが)だけど… 蓮實
撮影所システムが壊れることは、一九五〇年代のハリウッドを見ていたら誰でも分かっていたはずです。一九五〇年代のハリウッドは、独占禁止法の問題や赤狩りの問題やテレビの影響等々によってガタガタになって、契約監督なんてものが成立しない時代になっている。
日本で最も早くそれに反応したのは黒澤明で、黒澤プロを作って『用心棒』を撮ったのが六〇年です。そのように、プロダクションにして、五社体制のものとは違ったかたちのものを創り始めざるをえないというのは誰め知っていたわけです。
だけどそれが生き延びて、たまたま偶然ー必然といわれるでしょうから嫌なんですがー、何人か優れた人たちが日活にいた結果、細々とそれが続いて、五〇年代のハリウッドのような壊滅的な打撃がなかったかのごとくに七〇年代を過ぎてしまったわけです。しかし、せのため事態の直視ができず、一〇年遅れたというべきでしょう。
事実、その間、七〇年代の黒澤は日本で撮れなかった。吉田喜重も、上野さんがかかわられた『戒厳令』を撮った七三年以降、一〇年以上も映画から離れる。大島渚も外国で撮っている。
にもかかわらずにっかつロマンポルノが結構質的にも高い作品を作っており、それはそれで評価すべきではあるのですが、産業としての映画をオルタナティブとして創りあげようという人々の意識が一〇年間止まってしまったわけです。
ハリウッドの場合も、一九七三年の周辺に産業としては末期的な症状が出たのですが、ロジャー・コーマン系のB級インデペンデントのようなオルタナティブがあったから何らかの形で生き延び、今日まできたわけですが、それをにっかつロマンポルノの相対的な成功が一〇年遅らせたというのは間違いないことです。
新たな製作形式の中で作家が生まれ始めたのは、黒沢清にせよ、北野武にせよ八〇年代の終わりですからね。 子猫をお願いはタッチの映画だったね
あんな映画久々に見た
井口奈己監督のニシノユキヒコも良かった
人のセックスは長すぎた 蓮實はロシアフォルマリズムのシクロフスキーのバチモンじゃないか。
蓮實の伯爵夫人は「知的操作だけで書けた」とか、「文章を書くには
運動神経が必要だ。」とかはもろに、シクロフスキーの真似だ。
蓮實のビリーバーのアホさ加減も目に余る。
そういう阿保共の上に君臨して恥じるところの無蓮實は痴呆レベル以下。 金井美恵子は浅田彰の「土人」の意味が全然分かってないが、
土人は天皇崇拝者のことに限らず、偶像崇拝者一般のことを
指しており、その土人には金井美恵子自身も含まれてることを
彼女は分かってないw 浅田彰ってアイドル好きじゃなかったっけ?
浅田も土人だろ >>450
個人的なアイドル好きと、芸術理念として偶像崇拝を認めることは
全く違う。 蓮實ビリーバー映画評論家「理由は分からないが、蓮實に魅せられる」とか、
こんな白痴同然の奴らが多いんだよw 蓮實はハリウッドにしろ東映にしろ映画全般の通俗過ぎるストーリーはひたすら我慢して見てるんですかねえ?
批評では全く触れないのはそれが理由?それか批評の方法としてあえて触れないけどそれなりに楽しんでるのかしらん? ALWAYS 三丁目の夕日に涙する人だからね
近松物語だってお話は通俗でしょ、描かれ方がシブいのであって
凡庸なストーリーを最後まで見せてしまうって何かの力であって
その力を言葉にするのがハスミの映画評 ムルナウの『サンライズ』最高と言ってんだから通俗プロットはむしろ好物 ご都合主義は許すが、それを隠蔽しようとする「リアリズム」を敵対視。
毎度バレバレの嘘をつきまくる事で定評ある者を一種の正直者のように扱う事と似ているがそれとは異なるのだろう。 ゴリラーマンを、その無類の強さとは違った点においても認めるツッパリ風の男(名前忘れた)みたいな存在がガダルカナルタカ。
スレた世知には通じており己の実力の限界もわきまえているが、今いる環境から超越的なものを求めて逃避する事もなく、そこから逸脱した世界(ゴリラーマン)もうけいれられる優良な不良の凡人。
だからこそ我々は(タカが実際にはどんな人物か知らないが)微かなシンパシーを感じる。
この手のキャラクターでは、「暴力大将」からようやく更新された。
時代劇、西部劇、ヤンキー漫画。
根本敬が実在するヤンキーに言わせた(本当の話かもしれないが)「(ヤンキー漫画?)あれは嘘ばっかだからつまらない」というのもつまらない。 ハスミンが映画制作の実情を理解せずに評論しているのは事実だな
場末の中華料理屋に北京ダックやフカヒレがないからクソと言ってるようなもの 東映の岡田さんも実録ヤクザ映画が下火になって時代劇や戦争映画の大作路線でヒットは出したけどもう80年代にはもう嗅覚は衰えちゃったよな
東映は80年代はやはり「不良性感度」なビーバップハイスクールシリーズや極妻シリーズでヒット飛ばしたが岡田さんが推進したわけじゃないしね ヤクザ映画と若手俳優やトレンディ要素をミックスさせようとしてすべて外してた印象。
映画の良さもなければヤクザ的な享楽もなく、目新しいものだらけだった現代風俗からも悪い意味でズレまくっていた。
世評高い「竜二」含む金子正次関連作品は苦手だが
長渕ドラマやら日常系(予算かからない)ヤクザVシネの祖「ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ〜」(の成功による哀川翔の台頭)に大きな影響を与えているので無駄だったとは言わない。 結局、蓮實って自分の太鼓持ちが地位を利用して若い女に「おれの女になれ」と強要したことについて
どこかでまともにコメントしたんだっけ 蓮實はグリフィスも好きだしトランプも好き
そういうやつ トランプ好きと言ってた?
さすがにKKKの描写を持ってグリフィスを否定するシネフィルなんていないからな 川上未映子はなんかぐだぐだ長文書いてたよ
「もしかしたら知らない間に荷担してる形になっちゃってたかも??」みたいなふざけた弁明で
こいつこれで終わりだなとおれは思ったんだけどなぜか許されてたw
蓮實は縁故と派閥の人だっていう認識はおれの中ではあるんだがそうとはいえど
渡部直巳みたいなどうしようもないのを側に置いてたまには持ち上げてやったりしてたのは
数だけ多いマンモス早稲田のOBを抑えとかないと色々具合悪かったのかね >>459
馬鹿なのか?
脚本は監督のものでも脚本家のものでもない、プロデューサーのものだ
映画制作のイロハくらい勉強しろ 蓮實さんジョン・フォード論完成したら次はやはり蓮實さんの監督・脚本・主演の映画作って欲しいよなあ
先達のシベリア超特急を超える映画を作って貰いたいね! プロデューサー、ひいては撮影所システムの力学が「ハリウッド映画」を可能にしたってのが『ハリウッド講義』の核だった
1970年以降でもコッポラの『地獄の黙示録』を50分カットさせたプロデューサーがいたんだもんな
ゴッドファーザー1、2で世界的に評価された監督に、長いから切れと言ったPがいたわけでしょ、凄い話だ
実際『地獄の黙示録』もカサヴェデス監督映画も短い版の方がいいんだよな 自由に映画が撮りたきゃノーランやスピ、リドスコみたいに自分で会社作ってプロデューサーも兼ねるしかない それでも没になることが数多あるんだから映画制作は難しい
撮影の現場なんて雰囲気ほぼ肉体労働みたいなもんだしな 映画監督なんて監督というより
親方と呼んだほうが実態に近い 蓮實さんスターウォーズシリーズも一応劇場で欠かさずチェックしてるんかね? >>470
大学退官後に映画監督へのレールを敷かれることを恐れて
アカデミズムで大出世する道を選んだ人だからw 小説は書いてるのだし撮ってしまえばいいのにね
今からだってあるかもよね
80分くらいの順撮りで3本くらいプログラムピクチャーのノリでw 96年頃だったか、蓮實重彦監督作品として予定されながら東大総長就任で潰れた夏目漱石原作のソフトポルノ「秘本・草枕」について、蓮實本人が女優がいない云々という内容の中で海外から借りてくることもという言葉の後に伊能静が良いと言っても限界があると語っていたが、一瞬伊能静主演で「秘本・草枕」を撮るのかと思い込んだものだが。
実現していれば今頃監督業が楽しくなって、シリーズ化されて舞台版もできていたりして。しかし、96年は「シベリア超特急」が公開された年でもあるから、重鎮批評家が二人も監督業に進出していたかもしれない可能性の映画史を考えると、妙に恐ろしくなる。 やっぱり、映画評論家って蓮實含めて馬鹿が殆どだなw 水野晴郎だって戦後浴びるようにハリウッド映画見てヒッチコックが好きでいち早く加藤泰を評価したり単なるジョークじみた存在ではない 芸人やサブカル勢から揶揄されるばかりでなく、黒沢清からも「奇特な御仁」と書かれていたりしたが
評論家としてはともかく水野晴郎は「映画人」だった。
蓮實も「あの水野晴郎氏でさえ」と前置きしたうえで、彼の功績をそれなりに認めていた。
黒沢清「カリスマ」が日テレ深夜に放映された時の解説は水野晴郎だったが、いつも通りいい加減だった。 まあハスミンの言説で一番気になるのはキャメラを監督の手柄のように書くことかな
フォードはもちろん素晴らしいが、キャメラを褒めるときはフォードではなく撮影監督を褒めるべきでは?
しかもそのショットは撮影監督ではなく助手に任せている可能性もあるし ↑は例えばの話ね
映画はチーム力だし監督ひとりが良くてもクルーがダメダメだったら良い作品になりようもないし あとハスミンは映画祭を「映画に順位をつけることは馬鹿馬鹿しい」とよく批判するけど、それはトニスコを持ち上げるためにリドスコをこき下ろしたり、暗黒街の顔役を持ち上げるためにスカーフェイスを馬鹿にするハスミン自身にも当てはまるのでは? 昔のフィルムノワールなんかはよく撮影監督の功績が称えられるよな ちなみに俺もスカーフェイスはつまんなと思ったけどね 水野晴郎
まあそういう事で二十五年間金曜ロードショーやっちゃったわけだね。二十五年半くらいやってるわけです。それでいろいろ長い間やってるうちに今度は、最近のテレビ、視聴率競争だよね。もう視聴率、視聴率中心でしょう。ちょっといやになってきた。
それで映画のほうも水曜ロードショーの時は『風と共に去りぬ』やったり『アラビアのロレンス』やったり『ドクトルジバコ』やったり『ゴッドファーザー』やったり、兎に角良い映画を一番に最初にテレビでやってくれたわけです。
ところが金曜ロードショーになってからはどうしてもそうはいかないんだね。視聴率だからって『釣りばか日誌』ばっかりやったり『あぶない刑事』ばっかりやってるわけだよ(笑) そうするとねえ、「いやー映画ってほんとにいいもんですね」って言えなくなってくるの、正直言って(笑)
ねえ、やっぱり嘘を言っちゃいけないもんね。だからねえ、最初はね、実は分けてたんですよ、「映画ってほんとに面白いもんですね」「たのしいもんですね」そして最高点が「いいもんですね」だったの、分けてたんですさり気なくね。見てる人は分かるなと思ってね。
ところがそれももう行き詰まってしまってねえ、もうこれ以上は言えねえやという事で、一応卒業させてくださいってお願いしちゃったんだね。その代わりみんな知ってるとは思うけども、今月曜日の深夜に『麹町名画座』っていう番組を作ってもらってね、わざわざ。
そしてそこで僕の好きな映画だけをやってるわけだね。勝手にちょっと古い映画、クラシックだけども名作だけを選んでやってるわけです。だからまあ自分自身に忠実であるのが必要じゃないかなあってそんな感じもしてね、
えー時々バラエティーの変な番組も出てるけども、それはともかくとしてやっぱり映画の分野においてはきちんとやってきたいなあ、っていう感じがしてね、えー現在を迎えちゃったわけなんですよ。 相対的な批判(あるいは擁護)は
対象への愛ではなく批評家として政治してるだけなんだろうね
宇野常寛を腐すのに町山智浩をアゲたりもしてた
一方を腐すことがメインで、他方をアゲてるのは結果的なもの
キャメラマンだとヒッチコックのルドルフ・マテや小津の厚田雄春は褒めてた
スカーフェイスは、現在の2時間超えを前提とする映画の先駆けだった
情報量がありすぎて長くなったわけではなくゆるく引き伸ばされたMTV的な感じの映画 こないだテレビでまたダーティーハリーやってたけどさ、この頃、既にクリキントンは41歳だぜ!
まだ映画撮ってるってすごくね?
人生って、思ったより長いな?! 最近の清の芦澤を褒めてる時点でハスミンはカメラのセンスはねえなあとは思う まあ、あんだけ人を小バカにして
ご飯食べてるようなやつはろくな
死にかたしないよ。 水野晴郎
だからそういうことで日本映画界にも優秀な人たちがどんどん出てらきてんだからその頃の良い映画をたくさん見て、それ以上のお手本はないと思うんだな僕は。勉強の道具はないと思う。だからそれこそその宝物を自分のものにして欲しいなあと僕は思う。
シベリア超特急って言う映画をなぜ私が撮ろうとしたか。やっぱりね、あのー僕は最初監督やる気は毛頭なかったんだね。だけどもやっぱりいろんな事をやってるうちにね、やっぱりそういう最近の日本映画に不満を感じるわけですよ。
どうしても不満を感じてきて、なぜ昔そういった良い映画、面白い映画、いっぱいテクニックいっぱいあるのに、なぜそれを再現して見せてくれないだろうかなあっていうところから始めてみたわけなんですね。
それでまあいろんな人たちに騙されてね、えーお金巻き上げられて、制作費を随分かけられてしまったわけだけども、まあそれはともかくとして、自分のとりあえずは八十パーセントは思う通りに撮ったんでいいじゃないかな。今その続編を作ろうって考えてるけどね。
それはともかくとして、えーお手本にして逆に僕はヒッチコックをお手本にして吉村公三郎だとかそういった監督の作品の名場面を全部入れてるつもりなんです。えーだからもし見るチャンスがあったらなるほどここはヒッチコックだなと思って見てくれればいいんじゃないかなと思うんですけどね。 有名映画評論家が自分で監督してあんな作品に仕上がったら、まともな神経の持ち主なら発狂するか鬱になるのではないか?もともとみくびられているから平気というわけか?
水野晴郎にとって映画とは既にどうでもよい物になっていたのではないか?
マイク水野は活字だけでなくテレビでも笑い者にされたけど、松本人志にはほとんどの人がダンマリ。
芸人じゃない者の方が洒落が通って、芸人にはそれが通じない(タブー)という事実。 水野晴郎はヌーヴェルヴァーグ的というかポストモダン的な人だったんだな 松本人志は大日本人(大佐藤)を
ヴィジュアルバムのようなテレビ以上映画未満の形態に編集し直してYouTubeにばら撒いて欲しいな
カンヌは『大日本人』を招待までしたのに吉本はパーティすら打たないんだもんな
興行できない事務所が興業名乗っててる
ハスミが5億?10億あれば北野武を世界の監督にできると言って実際森社長と手を組んで実践しちゃったもんな
オフィス北野がジャジャンクーを配給するようになったり、活動屋ハスミによる「賞」より素敵な商売はないだった 水野晴郎はシネフィル的ではないけどひとしなみに映画は見てるわけだ
蓮實重彦だっていざ監督してみたら糞みたいなショットしか撮れず無残な珍作になったかもしれない
小説なら原稿用紙ゴミ箱に捨てればいいだけだけど映画は金かかるからねー
お蔵入りにして莫大な負債抱えるより泣く泣く珍品を公開するハメになったかもしれん 意外や意外、大江健三郎。
好きな作品は「同時代ゲーム」と
「雨の樹を聴く女たち」
昔は漱石と思ってた。 それいっときの判断で、結局古井由吉に落ち着いたはず
あのセクハラじいさん その作家の書いたもの全てを肯定するような存在はいない。
漱石は自分のやり方を示すためにうまく利用した感じ。
志賀直哉という人物と暗夜行路を持ち上げてたけど本気かどうか疑わしい。
取り巻きでさえ「小僧の神様をどう思います?と訊いてみたい時がある」と。
谷崎という人物を好意的かつ例外的に語り一部の作品を絶賛してたけど
ほとんどの作品には興味がないと思う(事実、それに近いことは言ってる)。
評価はともかく大江ともこのまま一生すれ違ったままだろう。
中上がいなかったら、文芸批評に関してはマイナーに淫してるとか屍体を弄ぶのが好きなイメージがついて回ったかも。
古井のことは大いに評価するけどこんなことしてちゃいかんという矛盾した感情を抱いていたはずだが、だんだんそういう言い方はしなくなっていった。 ニューアカの人達はほぼ全部がtheorist理論家であってcritic批評家
ではないよ。
彼等の殆どは小説が読めない人達だ。
蓮實もその一人。 後藤明生は生前併走していた印象があるな
大学を退官後だけど、笙野頼子や松浦理英子も評価していたね
なにかで金井美恵子が20世紀の作家で蓮實が本当に好きなのはプルーストとシモンだけみたいなことを言っていたが 四谷シモンは人形作家
あ、クロード・シモンのことか
そう言えば
蓮實はロブ=グリエ好きだろ? 後藤明生については福田和也がスガに「ユーモアっていうけど笑えないでしょ?」「あとはおんなじ事を延々繰り返して…」
と問いかけ、スガもそれを(この時どんな気持ちだったかは知らないが)認めてる。
蓮實も世渡りしたたかだけど、広告代理店上がりの後藤もしたたか。それが世間一般が目もくれないような場であっても。
金井美恵子はそうしたズルっぽさにはまるで目もくれず、文学者の不毛なロマンやナルシシズムに抵抗する(もっさい味気なさもまた味なのか)後藤には肯定的。
本業を持つ藤枝とは別な意味で、マイナーながらも筆一本での食い扶持は上手に勝ち取った人。 Tha King Iz Baaaaaaaaaaaaccckk!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! どうもこんばんわ
脈打つダンカンこと怒りの復讐鬼金玉痒(きん・ぎょくよう きんたま・かゆし、ではない)です
これからもブリブリ「死と絶望」について語っていきますんでよろしくお願いします! 後藤明生ですか?
文体が凄い、っていう作家ではないですし下手ですけど奇妙な面白さはありますよね
ベケットの長編小説みたいな(などと言うのは褒めすぎかもしれないが) そのラインだと渡部直己(だったかな)が小島信夫の『美濃』を激賞してましたね
あれは後藤っぼかった 国書刊行会から『シリーズ : 後藤明生コレクション』が出ててこれは全5巻で2016年から17年にかけて出てる
編集委員が
いとうせいこう/奥泉光/島田雅彦/渡部直己
と完全にかつての蓮實・柄谷グループ(草野球チーム「枯木灘」の残党たち)の顔触れでわりと最近の刊行なんでこの人たちは35年も同じメンツ(党派)で同じようなことやってるんだなあとその律儀さというか忠誠心に半ば感心しますねw
https://www.kokusho.co.jp/sp/result.html?ser_id=188 で、渡部直己をバカにする風潮があるけども、確かにとんでもないおチョーシ者で性格もめちゃくちゃ悪い男かもしれないけど文芸批評家としては “マブ(本物)” なんで生きてるうちに復権させてやりたいよね(もう69なんだし)
告発されてすぐに大学辞めたのは潔いやん
グダグダとゴネる男が多いなかで どおくまん先生の作品だと『暴力大将』も凄かったけどバトル漫画(?)化してからの『熱笑!! 花沢高校』も凄まじかったなあ
本宮ひろ志先生の古典『男一匹ガキ大将』、雁屋哲先生・原作、池上遼一先生・作画の傑作『男組』と並んで「日本三大番長漫画」を形成してると思いますね 「おホモたちの挽歌」シリーズのここまで
犯罪シンジケートの首領 マツコ・デラックス
マツコの恋人 リル・ナズ・X
主人公の殺し屋 氷川きよし
組織の雇われ弁護士・氷川の親友 レイザーラモンRG
主人公のメンター・伝説的な殺し屋 ダイアナ・エクストラバガンザ
対立する組織のボス IKKO
運転手 槙野智章(浦和レッズ)
寡黙な殺し屋 クリス・ロウ(ペット・ショップ・ボーイズ)
教会の神父 美輪明宏
教会のシスター 久本雅美
主人公の弟 志尊淳
オカマバーのママ カルーセル麻紀
ヒロイン・ホステス 槇原敬之
マンションの隣人夫婦 阿川佐和子/檀ふみ
哲学者・特別出演 千葉雅也
スニッチ・特別出演 ダンカン 主人公の弟役はユヅ・ハニュウを考えていたんですがビッグ・ネイム過ぎて断られましたw >>503
志賀直哉の短編はどう思いますか?
芥川や小林が心酔したのは志賀の短編ですよね 俺は昔は古井を崇拝してたけど『槿』で別々に知り合った女2人が知り合いだったてのを読んで一気に冷めた
そんな偶然ないでしょ
あれは失敗作やね
中上の小説に存在しない植物が出てくるのを理由に谷崎潤一郎賞を与えなかった丸谷才一はよくあのミスに目をつぶって『槿』に谷崎賞を与えたなと
中上憎しだとしか思えんわ
それはともかく、ハスミンが大絶賛した『仮往生伝試文』はまだ読んでないからいずれ読まなきゃとは思ってる 小説でやると作為的かもしれんけどそういう偶然はあるよ
女の経験が少ないとピンと来ないのかもしれんが 蓮實が本当に本当に好きなのはラオール・ウォルシュとマキノ雅弘 >>520
人数を憶えてないくらいヤッたっての!
3人か4人か憶えてないっての!
ジャンジャン! >>522
あれから何回図書館行った?
古井の本を一冊も読んでないであろうゆとりおこちゃまくんはこのスレ出禁な というかおこちゃまくんはたまにたった一行ボキャ貧な悪口を書き込むだけであとはひたすらじっとこのスレをロムってる(読んでる)のが不気味だ
たまにには自分の文学や映画(漫画でもいい)についての意見を書いたら?
スレ違いなのは、俺ではなく、君だ >>523
す、すくね〜
もう増えることもない50代かなし〜 古井由吉は『楽天記』なんかは面白く読んだけど
徳田秋声の『黴』をマニエリスムしてるような勿体ぶった文体に見えてしまってからは読めなくなったな
ウネウネと持って回った言い方に惹かれるときってあるね
『東京物語考』や『漱石の漢詩を読む』は単純に勉強になった
又吉が古井を敬愛してたな
渡部直己の推し作品は何?
ハスミの推しは『ボヴァリー夫人』でしょ 花沢高校はバトル化する前の泥臭いギャグ漫画時代も面白い。大枠ではダメオヤジのヤンキー版みたいなものだが。
「映画館の大惨劇の巻」は、仮にこの内容を思いついても描こうとは思わない事(特にクライマックス)を平然とやってのけた。扉絵で中盤をダイジェストしてしまう(フラッシュフォワード)のも大胆。 ダンカンいらないよマジで
いないときのスレの穏やかさを見直してみたまえ 数年前に蓮實関連のスレにいたバルダミュって奴と同じレベルのウザさ >>528
ウィキであらためて著作リスト見てみたら巫山戯た(チョーシにノッた)タイトルの本ばかりだなあとw
今となっては入手が難しそうなのが多いのかな(知りませんが)
比較的真面目に書いた『谷崎潤一郎 擬態の誘惑』なんかかな
これから企画本みたいなのを省いた『日本近代文学と〈差別〉』、『中上健次論 愛しさについて』、『不敬文学論序説』の4連発はどれもお薦め
チャーシコキ路線の本はどれも読み物としては面白いですよ >>530
あー映画館のあった気がするなー
『代紋(エンブレム)TAKE2』の初期にも雲母(うんも)の笑えるエピソードがあったような >>516
抜けてた
歌手・特別出演 松平健
この作品のクライマックスは「映画史上最も撮るのが難しいと言われるコンサート会場での銃撃シーン」なんで 代紋の原作者が「地獄の警備員」を批判していたのは覚えてる。
今言うと「まさか」と思う人もいるだろうけど、平山夢明(筆名はデルモンテ平山)も「コンニャクいかがっスか〜」という題で「地獄の警備員」を叩いていた。
リリーフランキーが是枝・青山・黒沢に対して舐めてる文章を書いていながら、役者転向してからは黒沢以外には出演している事もつけ加えておく。
たけしはリリーを起用しないという俺の思い込みはなんなのだろう? 黒沢清は竹中直人を使わないだろうというのに似ている。 哀川翔は「青山が俺を呼ばないのは、助監督の頃にスケジュール管理の事でかなり厳しく言ったせいかな」と語る。 リリー・フランキーはサブカル臭があってタトゥー刺れるようなオサレ臭さというかロックを匂わしてる感があるから殿は嫌いなんじゃないですか
ピエールはミュージシャン(?)といえどもだらしない体つきで極道っぽいといえば極道っぽいんで しかしリリー・フランキーを語る時の紋切り型で申し訳ないんですが自分もリリーはクロスビートで小汚い絵を描いていた人、というイメージなんだなあ、いまだに 電気グルーヴが定期的にツアーをやってたころ
「僕ならあなたを年収億単位のタレントに出来る。条件としては音楽活動をやめる事」
とマネージャーになるのを申し出た者がおり、瀧は電気を優先したいので断った。
そのマネージャー志願者は、電気よりはるかにマイナーなバンド「ビンゴボンゴ」のフロントマンのマネージメントを務め、ユースケサンタマリアを売れっ子タレントにした。 リリーは景気悪い時代の糸井重里という印象だが
糸井でも「成り上がり」「ペンギンごはん」「Mother」など評価すべき仕事はしてるし、初期のたけしについて鋭い事も言っている(本当はそれがカンに触ってたけしは糸井批判したと思う)。
対人方面でのバランスが良い人物だから重宝されるのだろうけど、貧乏臭い見た目だし面白い事もしてない。 文章では過剰に小心者のように振る舞いつつ、冷笑と毒舌は欠かさないスタイルを保っていたが
そうしたスタイルが通用しない世の中になるやスッパリ切り捨てて役者に転向した(そして成功した)あたりは聡明なんだろう。 >>545
脚本や映画の現場をやってるやつなら当然の感想だな
俺も美学校やらに入ったときは真っ先に「蓮實重彦の本を参考に映画を作るな」と叩き込まれた
もちろん批評家としての蓮實はみんな評価していたけれどね
実際に作るとなると別だよ 巖谷國士
@papi188920
東松原駅。かつては歩道橋などなく、踏切からじかに入れた。ある日、ホームに中井英夫、佐藤忠夫、蓮實重彦が間をおいて佇んでいて、たがいに知らんふり。同じ電車に乗って渋谷へ行き、みな雑踏に消える。乗りかえて銀座の試写会へ行ったところ、なんと4人ともそこにいた。不思議。★ 蓮實の批評はストーリーやイデオロギーや道徳つまり意味を切り捨てたことが衝撃だったからね
真善美の美だけを見てれば良い >>533
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どれも電子書籍化はしてないね、久々に図書館かな 【評論】
蓮實重彦「ジョン・フォード論 終章 フォードを論じ終えぬために」
翻るエプロンの白さが性差の境界線を崩壊させる。著者のライフワーク、完結! 蓮實はcritic批評家ではなくて、theorist理論家であって、
自分の理論にジョン・フォードを押し込めてるだけだと思う
がw ふと思ったんだけどさ、文学は文字だから古くなっても新しい紙に印刷すれば新しいじゃん?
でも白黒の映画って、100年後の人もずっと白黒で見るわけだよな。 勝手にカラー化させたりジョルジオモロダーなどの音楽つけたりして蓮實たちが憤慨してた頃もある。
白黒ってだけでその映画を敬遠する者は昔からいた。
3Dなんて数十年に一度盛り上がるけど、結局定着しない。 >>481
カリスマはBlu-rayで出して欲しいな ジム・ジャームッシュやら見てない人がハスミスレにいるのか サンダンスでのビデオ実習で撮った断片
架空の企画会議などの文章でたびたび語られるカリスマ
「英雄計画」もプレ・カリスマのような作品だった
役所が冒頭で死んで生き返ったりする案など、現行版とは異なる複数のシナリオ候補があった
だから本編には「他にやりようがあったのでは?」と思いつつ嫌いではない。 DVDクリちゃんしちゃいましたよ、カリスマ。
回路のDVDも。 >>542
ユースケは朝倉義景役で麒麟がくるに出ててけっこうよかったです。
下手でしたけど、息子が死んで取り乱す演技は迫真でした。
自分はテクノという音楽がサッパリなんで電気はテレ東だかの深夜の番組をやってたコメディアンの印象しかないですね。
下手な芸人より面白いですよ、とくに卓球は。
その番組でやった「高速道路には軍手が落ちている説」という企画が彼らの代表作だと思います。
いまだにパクられてるし。 その番組はダウンタウンのブレーンだった(今も?)高須光聖が出てたなー。 ジャームッシュも過去の人間になっちまったよな
当時はあの自主映画なかんじが良かったんだろうけど ハスミンはなんでトルストイじゃなくてフローベールなんだろう?わけわからん ?
フランス文学者がなぜトルストイなの?
意味わからん。 蓮實はサランボーと聖アントワーヌに感受性ないからボヴァリー夫人、感情教育、紋切り型辞典(あと論はつまらんけどブヴァールとペキシェ)の人 蓮實はジャンル映画好きなのにジャンルフィクションはバカにする。SFとファンタジーも一段低く観ているからドイツ文学やロシアの寓話的な小説への感受性もない ハリウッド映画は好きでもハードボイルド小説は興味ないんだろうな >>562
パターソンはかなり良かったし、ジャームッシュはまだまだやっていけると思う
ヴェンダースの方が遥かにヤバい >>570
生きてるし、新作も撮ってるけど全然話題にならない
しかもドキュメンタリー映画ばかり たけしチルドレンとかたけしイズムとかいう恥ずかしいフレーズを照れもせずに使えるのが浅草キッド。
かつてはその盟友だった石野卓球らの方が、自分の仕事はこなしつつたけしの影響モロに受けてるという二刀流を使いこなし、浅草キッド爆笑問題らより確実に面白かった。
ラジオなら彼らが尊敬するダウンタウンよりずっと上。
しかしその限界にも早々と気づいたので、「電気が出るテレビ」みたいな事はやらなくなった。 オールナイトのハガキ職人にペンネーム「ビートたけし」というのがおり、それを読む時の卓球はちょっと居心地悪そうだった。
「当たり前のようにそんな態度とってるけどお前、たけしの影響丸出しじゃないか」という意地悪な指摘のように感じたのか? 確かに昔芸人みたいなことやってた時期の卓球は浅草キッドと太田よりも全然面白かったですね
彼らの100倍シニカルだったし
そっちでも成功できるとは自分でも思ってたんでしょうけど四つ打ちテクノビートに対する愛着のほうが大きかったからそうそうに見切りをつけたんでしょうな
パターソンていう映画知らなかったから調べたらメソッド・マンが出てたw
https://youtu.be/CydbA3ellvg 今日たまたま群像立ち読みしてフォード論の終結部読んだ
ラストが非常にキマってた 本人が「タレントとしてやってくつもりはない」と明言していたのと、デーモン小暮のような存在をバカにしていた手前もあってあれ以上お笑い側に踏み込む可能性はなかった。
それ以前に、芸能界の上下関係を厳密に守る必要がなかったからこそああいう風に振る舞えたのであり
テレビでミュージシャンがへんに面白いと視聴者から支持される前に勘繰られ浮き上がることなど経験して
ファンから見れば「テレビだとおとなしい」態度に方向転換。
当時ならテレビタレントは稼げただろうが、無駄な待ち時間などで肝心の音楽制作が疎かになる。
そうなると強気に出れない。
「とんねるずの石橋の歌声が何より嫌い」「SMAPは大の大人がユニゾンだぜ?」と笑っていたが、彼らとの共演はなんのトラブルもなく無難に済ませ
「海外有名テクノアーティストにリミックスを依頼したバクチク」「小山田をモロ意識した歌詞と歌声のエレグラ杉浦」
をバカにしてたのに後にコラボしたり仲良くなるなど
何やらかすかわからない危険性はあまり無いのだが… まあ水道橋はそんなに太田とは差がないから気にするなと言いたい
売れてる度合いほどは太田は面白くない
むしろ水道橋のほうが上 思い返すと太田が話すことで笑ったことって一度もないような気がする
水道橋で笑ったことは、10回くらいは、あるのか? このスレッドでも、ダンカンさんなどが整理したように、映画をおよそ一人の作り手の表現だとし、映画の「文体」を創造する映画監督を「作家」とみなす、というようなのが、映画論的「作家主義」の主張だと思う。
蓮実作家主義も、おおむねこの線だろう。それは、たとえ文学的作家主義ではないとしても、せいぜい、万年筆=カメラが、絵筆=カメラ、あるいは、カンバス=フィルムにかわるくらいのもので、絵画的作家主義あたりのところでなのではないか。
三島由紀夫は、「鏡子の家」の中で、ボディビルダーの登場人物に、人間の肉体が最高の芸術である、とのことを語らせた。その作中人物のいうところでは、文学などは芸術として最低のもので、それよりは美術がよく、美術の中でも彫刻がよく、生身の肉体を表現に使用する演技がそれよりずっとよい、ということだった。
たちえば、このような三島美学的「感覚の論理」と比べると、蓮実的映画論の「感覚の論理」は、「官能美学」としては、ずいぶん中途半端だというような気がするのである。 >>550
ストーリーでは見てると思いますよ
でなければ感動なんかできないし泣けない
ストーリー「だけ」ではないということ
形式がたるんどるストーリー「だけ」は「ふざけんなよお前!」というのがハスミン批評 ハスミンがストーリーを捨象してるという読みは誤謬です
彼はメロドラマチックな男です
そこを間違えるとハスミンは論じられない >>550
真善美の美だけを見てるんだけどその美にストリートは含まれてるんですよ 自分ではストーリー「も」見てるのは恥ずかしい(?)のかわざわざ言わないんでしょうけれども、別に隠してないですよね
映画作品を論じた文章で普通にストーリーに言及してるし 単純な話で、ストーリーをカッコよく語るのが「形式」です。
ストーリーをダサく語ってしまうのが「形式」が伴っていないと言うのです。
ここが日本でハスミン批判をする2千人ぐらいの人が勘違いをしている点です。
彼らはハスミンが見ている「表層=画面」にはストーリーは含まれていなく映像のみだと思っているのです。
「表層=画面」にはストーリーも映っているにも関わらず。
ハスミンは映画論でたいていの場合ストーリーに言及してから(言及を省略する場合もある)いかにそのストーリーを語っているかの形式への言及に筆を進めるのです。 >>580
下手したら爆笑問題のエースは田中で太田は田中よりつまんないんじゃないかと思う。 ここまで説明さすなよw
ほんまこつ世話のかかるボクちゃんたちやなあw 俺となりきりさんが頑張らないとこのスレは際限もなく “ラヴェル” が下がっていくからしゃーないか。 芸人として面白いかどうかはともかくとして、田中は経歴も含めてマンガの登場人物みたい。
チビで冴えない風貌では一緒の水道橋博士が、他人まで利用しておのれを物語化しなくては気が済まない(鬱屈した俺が殿のラジオに衝撃受けて上京し…とか)凡人であるのとは対照的。
ファッションデザイナーが親族に複数(本人もファッションには精通)
学生時代は校内で知らない者がいない人気者(なのにアイドル気取りで「俺はみんなのものだから」と童貞を保つ)
大学生にもなって自分を「ウーチャカと呼んでくれ」と言う無意識過剰さ
マニアックではあるがチョイスがごく平凡な音楽やマンガの趣味、食えなかった時代も大好きな草野球でのんびり、カタキン、アイドル?との結婚…
最初はおちょくり甲斐のある奴だ(たけしにとってのきよし役?)程度に思っていた人も、だんだん田中の異様さに気づいていった。 つまり、すがりついたり屈折を競ったりセンスを誇示したり互助会を結成するための「サブカル」なるものを必要としなかった、凡庸さギリギリの強靭さが備わっている。
原秀則のマンガで海賊放送するのが趣味の主人公たちがサザンなどの曲を得意げにノリノリでかけている姿を見てものすごく恥ずかしいと思った事がある(今ではこの迷いのなさが素晴らしいとは思うが)が
即座に連想したのは田中だ。 クイックジャパンが田中特集した時も、雑誌が要求していた以上に平凡なる異人だったと証明されたが
こういう雑誌相手だと「やっと本音が言える」とばかりに「意外にマニアックな趣味や経歴」やら思想やらをアピールしたがる中途半端な芸人たちとは大違い。
ピンでは絶対に売れなかっただろうけど。 >>576
近年の文学界で定期的に載せてきた分で言うと「序章」と「第一章」のみだよね
今回いきなり「終章」だったけど間は過去に発表済みの批評で埋めるのかな
それとも「フォードを論じ終えぬために」残りは書けなくなるまで書き続けるつもりなのか 全3章で、2章3章は発表済みとあるからやはり完結か
序章と1章だけで400枚近くあったみたいだけど2章と3章に当たる既発の批評がどれか分からない
文学界2005年2月号「身振りの雄弁--ジョン・フォードと「投げる」こと」と
アテネ・フランセでの講演「「ジョン・フォードと『投げること』 完結編」」
文学界2005年3月号「「囚われる」ことの自由--ジョン・フォード論(2)」で全部かな? 作品の背後に作家性を見いだす際の根拠が「文体」=スタイルということだろう。
そういった「文体」というのは、構造、あるいは、本質、記号、
といったような一種の抽象概念と同様のものであって、直接的にあらわれることはなく、
じつは「表層」にはない「深層」のものではないのか。
つまり、作品の背後の作家性、を感知するということは、
感覚的な「美」についての判断には属さない、むしろ「真」についての判断だといえるのではないか。 いえるのではないか?あらゆる批評もフィクションだからね
バカが勝手に袋小路に迷い込むのは自由だけど
「真」と言いたければ蓮實にとってのと付け加えるべきだね 文体ってもっと単純な話で、一行で言ってしまえば「ショットにおける構図および編集のテンポ・タイミングのその作家のクセ」であって深層になんかなくて今見てるここに存在するものです。
普通に見てれば見えるもの。
例えば大江の文体(文章)はきわめて特徴的であったりするし、よくミュージシャンが書く曲はその人の特徴的なコード進行があってそれをを「手クセ」とかって言うじゃないですか。
それと同じようなもの。 フォスターは、「王妃が死に、一月後に王が死んだ」といえば、ヒストリーで、
「王妃が死に、悲しみのあまり、一月後に王が死んだ」といえばプロットだと述べた。
しかし、「悲しみのあまり」のような言葉は、たいてい味けしになるので、小説では省かれる場合が多い。たちえ省かれてもプロットとしての性格を失わないのは、そのたぐいの意味は共通の了解のようなものとして依存できることが、暗黙に前提されているからだ。
映画のプロットの成立の場合は、小説以上に、言葉による説明が少ないので、そうした暗黙の了解への依存度が強い面がある。
ところが、そのような暗黙の了解、哲学思想的に言えば、全存在論的な存在了解、というのは、蓮実重彦の批判してきた「物語」の作用だろう。 600の訂正
たちえ→たとえ
全存在論的→前存在論的 まあ、あんまり深読みして画面を見たり文章を読まずにちんちんの力抜いてそこにあるものを見て読めってこと
ハスミンが大昔に唱えた表層批評ってそういうこと プロットとストーリーの区別については、イギリスの作家 E・M・フォースターが1927年に発表した『小説の諸相』での解説が有名である[11][12]。フォースターによれば、「国王が亡くなった。そして王妃が亡くなった」はストーリーである。それに対して、「国王が亡くなった。そして王妃は悲しみのあまり亡くなった」はプロットである。(wikiプロットから)
ふと調べたところ、正確には↑だったようだ。
したがって、600には記憶違いがあり、王と王妃の位置があべこべで、ヒストリーは、ストーリーの誤りだった。 600の
「『物語』の作用」も、
「物語類型」の作用、もしくは、説話(ナラティヴ)の作用、
に訂正する。 例えば、逆に、「夫が死に、妻は喜んだ」
というのがプロットとして理由付けが成立するような場合は、
不倫・家庭不和、犯罪、財産がらみ、といったものが前提的了解としてある場合、
または、すくなくとも、ヒューマンドラマではない、ということが前提的了解としてある場合だろう。
そして、「王妃が死に、王は喜んだ」といえば、そこだけとれば、政争やら陰謀やらの渦巻く宮廷ものかな、と大半は思うわけである。
蓮実「物語批判」というのは、大きな「構造」は問題にしているが、
いがいに、そういう細かい?ところには無頓着だった。 表層批評も今では時代錯誤かミスリーディング
学問が発達して、技術、演出、演技、俳優などシナリオに還元できない映画の要素を研究するのは当たり前になっているから
わざわざ「表層批評」を掲げる意味がなくなっている で、「ショットにおける構図および編集のテンポ・タイミング」をさらに要約するとドゥルーズ的な語彙になってしまうけど「運動と時間」ということ
運動と時間を見ずに(見る才能がなくて)映画に「意味」やら「社会性」やら「作家の伝えたかったこと(メッセージ?)」やらを見ようとするのは頭が悪い人(例えば映画に物質性ではなく左翼的な教条の発露を求めるような人々も含めて)の逃避に過ぎないのではないかということ ところで近々『3人のJについて──ゴダール、デリダ、ジェイ-Z』という本を河出書房新社から上梓するのでよろしくお願いします
税抜き2200円とお求めやすい価格となっております おまいら
Philosophy Overdoze
というyoutubeのチャンネルを
知ってる? 題名で検索しても出てこないです。
著者名をおしえてください。 「運動と時間」というのは、ベルクソンだと「持続」
ハイデガーだと「テンポラリテート」、
などといったものの言い換えといえると思う。
そして、これはもっと心理学的に「ゲシュタルト」といってもいいだろう。
人はそういったものを感得している、といえるのは、抽象概念を見出した結果なので、
やはり「美」にかかわるというよりは、「真」にかかわる問題だ。
また、作品の「文体」を、たとえそれが、監督の「手くせ」程度のものを指しているとしても、
「作家」の固有名という記号に属させてしまうという語り口にしても、
感覚的なものというよりは、制度的なものだといえる。
たんじゅんに、長谷川一夫の目つきが好き、であった私の祖母のほうが、
蓮実重彦よりも、よけいなことに邪魔されないで映画をみていた、かもしれない。 蓮實か誰かの本で、昔は映画館の席が男女で左右に分かれており、長谷川一夫は女性席の方に流し目が向くように考えながら演技していたというエピソードを読んだ。 殿が軍団を捨てたとか森さんを切っただとか冷たいだとか義理人情がないだとか馬鹿が言ってるみたいだけどそんなアホな話があるかっての
弟子を面倒見るのに何十億、森さんに払った給料がこれまた何十億、これまでどんだけ費やしたかっての
何十年も莫大な金を掛けてチャンスを与えたのに売れなかった弟子が悪い、何十億も給料払ったのにさらに会社を私物化して私服を肥していた森さんが悪い、違いますか?
確かに森さんは大きく貢献したけどそれに見合った、いやそれ以上の報酬、いや金なんかじゃなくて感謝を与えましたよね?
2010年代後半まで面倒見たのにまだお願いしますってか?
それはいくらなんでもおんぶに抱っこすぎやしませんか?
甘えてんじゃねえよ
男だったら自分で生きろ
殿ももう74歳で終(つい)の支度を始めたい時期
しがらみから解放してやろうや
旦那と同じように浮気した元妻も離婚せずにしっかり老後まで贅沢させて食わしたし莫大な慰謝料も払ったし弟子にも森さんにも元妻にも子供にも十分義理は果たしたよ
残る余生は惚れた女と幸せに過ごさせてやろうや
文句がある奴は、俺が喧嘩を買う サーセンw
初めて映画作品板の殿のスレ見たら見当違いな殿の悪口書いてる馬鹿がウジャウジャいたんでw そのような板があるならば、ビートたけしさんにかかわる話題は、そこでやったらいいのではないですか。
何らかの情報操作の意図などがないならば、ことさら文学板でやる理由もないでしょう。 “殿(との)” と云う “存在(そんざい)” が文学なんで ステマのたぐいは、たいがいやめたらどうですか。
その「終の支度」としてるような人の宣伝をしても、たいした意味はないでしょう。 異様に力んでいるのは、プロ5ちゃんねらーとして収入を得ているであろうID:8jA8+PJ8さんではないのでうsか。 そういうのではないですよ
これが金になったら嬉しいんだけど
ならねーかな?w かつては、プロ5ちゃんねらーは、月に数万円程度はもらえる、という話でしたがね。 プロ5ちゃんねらーって本当にいるの?
いるとしたら昔の栄えてた時代かな
今は過疎すぎてそんな者雇っても焼け石に水でしょ
知らないですが >>622
数万円ですか
そんなもんですか
プロっていうから生活できるぐらい貰えるのかと思ったw
小遣い程度ですね
まあ欲しいですけどw 歌舞伎が映画に大衆娯楽の王座を奪われた時芸術化された
映画がテレビに大衆娯楽の王座を奪われた時歴史の偶然で蓮實が映画を聖化した その段でいくとネットに王座から引き摺り降ろされたテレヴィが...... ビートたけし
野暮ったいロック歌手時代のアルバムジャケットなんて、こんなひどい顔がタレントにいるのか?と思わせる貧乏臭い忌み面で
それが小悪魔(加賀まりこ)から「ギリシャ彫刻みたい」と評される顔に磨きあげられるのだから、テレビ様々じゃ〜!
明らかに汚かった歯を治しただけで整形はしてないと言われるが、それを報告したのが水道橋博士なので信憑性は薄い。 ジャケットのたけしの顔は、ノリアキ「アンストッパブル」で浅薄な受け狙い的にインサートされるのが興醒めな冴えない笑顔と酷似している。
しかしたけしやスタッフはウケを狙っているわけではない。 まさか文学板でノリアキの名前をみるとは思わなかった
俺は今とても感動している
ありがとう。 >>なりきりさん
映画作品板での訂正どうもです!
テキトーぶっこいて書いたので内容は出鱈目でした
騒動の時は全くフォローしてなかったので暴露された?オフィスK野の内情はよく知らないんですよね ノリアキくらいでテンション上がるのダセえのよ
ごちゃごちゃ言ってても結局サブカルかよ オフィス北野の成り立ちは90年代初頭の「噂の眞相」に書いてある通りで、「オイラと軍団のための事務所」なんかじゃない事は本人が痛いほどよくわかってる(痴呆でなければ)はず。
役員はほとんどヤクザかそれに近い連中。
彼らが甘い汁を吸えるシステム。FRIDAY事件のツケである。
森だって、たけしと旧知の間柄で芸能関係のノウハウを知る彼に頼んで「社長になってもらった」のだ。乗っ取りもクソもない。
当時売れっ子の山田邦子や鶴太郎より更に売れてたたけしが太田プロを「円満退社」して自分たちの為の事務所なんて作れるわけがない。
近年のインタビューで「ソナチネの頃はヤクザに金を吸われてて死にたかった」と洩らしている。 つまりたけしが無理してまで「食わせてる」(過去形だが)のは軍団や家族ではない(なかった)のだ。
表向きは「今どきの芸能人には珍しい」美談になっていたが、そうでも言わないと不自然に見えたかもしれない。
オフィス北野を辞める前後には「もうヤクザに金を払う事もなくなったし」とあんがいケロリと述べていた。 森を善人だと言っているのではない。
芸能事務所の社長よりも海外でも知られる映画プロデューサーという肩書きの方が彼のプライドを満たしたのだろう。
たけしのために色んな人物と関わり、汚れていきもしただろう。
有名人が自分のところで映画製作をやりだすと、経済的に破綻するか人間的に壊れてゆく(晩年の伊丹十三)場合が多いが
たけしに負担がかからないように森があれこれ背負ってきたのは確か。
それもこれも、たけしが映画監督にのめり込んだ結果なのだが、軍団らは張本人のたけしを責めるのではなく
事務所をどんどん映画方面にシフトさせてゆく森を怨み、責め立てた。
ファンも「森さん。たけしが撮りたい企画をたけしの好きなように撮らせてあげて」というレベルの認識しかしてない者が多い。 事故後、監督・ばんざい!、TAKESHIS'を撮りたがって武に
まずはリハビリとしてキッズ・リターンを撮らせたのが森なのにね 松竹の奥山父子と北野監督の関係について、
なにか話のタネになるようなことはありませんか。 奥山和由
たけしさんに新作のタイトルを聞いたら誰もいないところへ呼び出された。
たけしは何故かタイトルを言い渋っていたがようやく「ソナチネ」と呟いた。
「素晴らしいじゃないですか!」と言ったらたけしさんは
「その男」の時にみんなの前で(たけしが提案したタイトル)「灼熱」が僕にダメ出しされたことをずっと気に病んでいた(だからみんなの前では言いたくなかった)ともらした。
たけしさんがラジオで映画の話題をしてくれるのは宣伝になるので非常に大助かりでした。
できればテレビでも宣伝してくれたらありがたいのですがと森さんに提案したら
「そういう下品な事は奥山さんたちにお任せします」と言われ、それを聞いた宣伝部の人たちもやる気を無くしてしまいましたね。 当時の「噂の眞相」誌に載ったのはオフィスK野はRジング系列という記事でしたっけ
それは自分も読みました
元々相当きな臭い方面が関わってたんですね
>近年のインタビューで「ソナチネの頃はヤクザに金を吸われてて死にたかった」と洩らしている。
“マブ(真実)” ですか...... でもまあそれでも弟子と社員を何十年間か養った事実は揺るがないと思いますよ
俺が考えていたよりは殿は能動的ではなく少ない額で8○3が抜いたあとの残った金かもしれないけど、それが嫌なら芸人の道を志すのやめて堅気の職に就けばよかったんだし
森さんを切ったのも悪いこととも思えません
殿は雇用主なんだし
雇用主は被雇用者を切る権利があるし、人間は人との付き合いをやめる権利がある
誰でも普通にあるでしょ、もうこの人とは付き合いたくないなとか、もう一切の人付き合いを初期化したいとか
上でも書いたけど殿は79歳なんだしおそらくそういう気持ちになってもわかる
もう責任は果たしたし十分ですよ 俺だって金があったら一切の人付き合いを初期化して惚れた女とどっかの田舎に引き篭もってのんびり暮らしたいですよ 殿はもう晩年なんですよ
いつまでも、いてくれると思うな、ハスミンとたけしと大江とゴダール
字余り
残った数少ない巨人たちも遠くない未来に地球上から絶滅する 惚れた女って言うけど
海千山千のタカは「あの女はヤバいです」と忠告して、たけしの告げ口を聞いた愛人嫁から疎まれ(枝豆は愛人嫁とうまくやってるらしい)
ハウスキーパーという名目で家に置いていた義太夫(人工透析患者)を追い出し
たけしの姉も「下手なこと言ったらあたしも出て行かなきゃならなくなるので…」とコメントを控え
森を悪者にして追い出すプランを先導して得意げだった水道橋博士は
お前は息子と親しいのだから前妻と離婚させるよう説得しろという命令を果たせず愛人嫁から無能と恫喝されノイローゼになり入院。
しかもたけしからは「水道橋はキチガイ病院に入っちゃった」と他人事のように言われる始末。
今は回復したようだが、この時の問題についてはまったく言及していない。
これは愛人嫁のエピソードのごく一部。
キドカラー大道は「確かに問題のある女性だろうけれど、殿が選んだ女性につべこべ言う権利は俺たちにはない」 ハスミンや殿を気軽に批判する人たちって相手が47歳ぐらいの感覚でやってるように見えて仕方がない
彼らはもう、常人では何一つ達成できないようなことをすべて成し遂げ、代表となる仕事すべてを世に出し終え、さらに力が衰え始めてから何十年も経って人生の最晩年にさしかかった “敗残の巨人”(ミルトン・ヒンダス)たちであることが見えてないように思える
彼らが死に絶え、この地上から消え去ったあとに、この世界にゴミのような者たちしか残されていないのを眺め、その光景に唖然とし(唖然とする才能があるならば)、やっと自分たちがどんな人たちを批判したのか気づくのではないか 肩の荷をおろして愛する人と余生を…
と言うには仕事詰め込まれ、それまでは縁のなかった類のトッパライ風の地方営業までやり
映画の新作はご無沙汰。コネがないのと金銭的デメリットを恐れる愛人嫁。
「今は小説書くのが面白い」と言うが、その才能は予想以上になく、経費はかからないが権利は得られる内職をやらされてるだけではないのか?
高くてダサいファッションブランド「キタノブルー」は愛人嫁の浅薄さと欲深さと悪趣味さを物語ってはいないか?
昔しつこく上原謙と愛人の話題をし「よほどテクニックがあるんだろうな」と笑っていたが
自分はそんな色ボケ老人ではないと主張するかのように「もう勃たない」「やってない」と繰り返すたけしは「だから不倫だけどオッケー」という結論を導いて共演者からドン引きされた。 >>646
面白いですけどキドカラーに同意ですね
恋愛は自由なんで
悪女と結婚するのも自由だし、その悪女の口車に乗るのも自由でしょ
なぜそれが悪いことのように言われるのか自分にはちょっと理解しかねます 殿はアーティスト=表現者なんで作品(芸、映画)はいくら批判されても仕方ないですけど、人格批判はあまり意味がないかな
ゴシップとしては面白いけど
なりきりさんはしっかり殿の作品を論じることができる人だから俺の批判の対象ではないです 北野監督の「人格問題」のレスは、614がはじまりなので、
それを始めた当の人がいうのはおかしいです。
以降、ビートたけし関係の話題は、しかるべき板もしくはスレッドでやるということで、
終わりにしたらどうですか。
計画されているという「ソナチネ」の続編にかかわることで、
問題発言が出てくる可能性もあるし、たいがい、やめませんか。 ついでに、TVタレント関連の話題もやめにしませんか。 >>652-653
ここはハスミンスレでしょ
ハスミンは映画批評家で殿は映画作家なんでスレ違いではないです >>658
蓮實ごときをそんなに尊敬できるおまえは幸せ者だな。おれも大学時代くらいまではそうだったわ。でも、いろいろ勉強すればするほど蓮實の存在なんて小さく小さくなっていったよ。たかが映画の話で夢中になれるような年齢で死にたいもんだな。 ヴェンダースなんて元から大したことないだろ
アメリカの友人と精々パリテキくらいしか良い映画撮ってないし >>647
晩年の黒澤を気軽に批判してたハスミンへのブーメランになってて草 北野監督について書き込みたい人は、
その監督作品についての批評をすればいいでしょう。 >>657
君は都会のアリスとさすらいを見てないのかね
見てないなら、お薦めする
>>658
アキラちゃんは巨人ではないんで
小粒
殿も映画作家としては小粒だけどw あ、あとことの次第も
ベル天もいいけど、これはさすがに見てるか
アリス
さすらい
ことの次第
パリテキ
ベル天
真の傑作を5本撮ってれば十分偉大な映画作家と言える
ゴールキーパーの不安
まわり道
アメリカの友人
も “真の” はつかないかもしれないが十分傑作 アキ坊は過大評価
時代劇作家でしょ
テレヴィで暴れん坊将軍とか桃太郎侍とかの演出してる人と同レベルの存在
そういう匿名的な記号の人が、看板背負(しょ)っちゃったような感じ
つかさ、まさかこのスレにアキ坊の映画にじーんっとなっちゃうような人はいないよね?w
もしいたらなぜそういう人がわざわざ蓮實スレを見にくるのか理解に苦しむw ところでシン・エバつーの?
ちゃんとヲチがついたって噂を聞いたんだけどマヂ? 映画や文学に関してはじゅうぶん君たちのラヴェル以上のものを “与(あた)えて” るんだからちったあ俺の興味のある話もさせろっつう話だよねえ
このスレには俺に知的刺激を与えてくれる人はなりきりさんしかいない
自ら給さず、与えてくればっかじゃしょうがないでしょ
もっと!もっと!ってかっ(by 片岡鶴太郎)
甘えん坊さんすぎる ところで、「てかっ」の語源となった人物は鶴太郎師匠なのか吉幾三なのか......?
石橋も使ってたような気がするんだよなあ マンブル・ラップを経た今だとノリアキは普通に正統派で上手いラップに聴こえるんだよなあw
お、こんなにスピットしてたの?ってw わたしは、ビートたけしさんのことを好きでも嫌いでもない。
しかし、ビートたけしさんなどの話というのは、いつもながら、
その種のエージェントやらのネット宣伝工作のたぐいだから、うんざりするわけだ。
ほかにもその種の工作を委託している著名人はいるだろうが、
ビートたけし氏関係の話題でのネット工作が、おそらく最も多いだろう。 そんなことやってるんですか?
にわかには信じられませんが
5ちゃん見てると殿は若い世代には今はあまり人気ないみたいだし
5ちゃんの印象だと松本はまだ人気ありますね
芸スポのスレを見てても、若い世代は松本が衰えたとは考えてないみたい
全盛の時を見てないから知らないのかも
殿に対しては、老害とかフガフガ(w)とか酷いもんですわ >>640
『灼熱』って素晴らしいタイトルじゃないですか
ナボコフですね
その男、より全然いいですよ
奥山はセンスねーな >>642
❌“マブ(真実)”
⭕“マブ(事実)” 殿の映画は全部森さんがゴーストで監督してるつー書き込みを見てこれはさすがに唖然とした
全然リスペクトがないんですよ、若者からは
若い世代が全盛期を知らなくて得をしてるのが松本で損をしてるのが殿
5ちゃんで殿のファンらしき人のレスを見るとおそらくおっさんみたいなのばっか ビートたけし氏に、人気のあったときなどあるのですか。
ごく初期の活躍を除けば、日本のマスコミ商売に特有の情報操作の成功の結果だとしか思えないです。
映画監督としての国際的評価、というものにしても、
フランス人などヨーロッパ人の関係者を買収したり、あるいは、
それらに何らかの便宜を図ったりといった取引の結果ではないのですか。
そういえば「批評空間」も太田出版から出ていましたね。 いくらなんでも、北野氏を、黒沢監督と「同等」に扱うということが、
正常な評価の結果とは考えられないけれどね。 引用さんはお笑いにはまったく興味がない御仁のようなのでたけしはわかりませんよ
おれが昔は芸人としては凄かったとか言ってもなりきりさんがいろいろ説明してもチンプンカンプンだろうし
ま、それが利口だと思います
お笑いなんて本質的には下らないですよ
興味を持つと、俺やなりきりさんみたいになってしまうので関わらないが吉です 俺はアキラはまったく興味がないというか理解できない存在なんで語る(=論じる)言葉を持ちません
引用さんにとっての殿みたいな存在ですね あなたのいう「芸人」というのは、
バラエティー番組などの出ているようなテレビタレントのことでしょう。
ビートたけしさんのおばあさんは、たしかに「芸人」だったかもしれないが、
お孫さんのほうは、有名テレビタレントでしょう。 俺はシンプルで師匠がいる人はどんなにつまんなくても芸人、いない人は面白くてもTV・パーソナリティですね
俺は「テレビタレント」という和製英語も嫌いで、奴らに “タレント(才能)” なんてないですよ
「TV・パーソナリティ」ないし奴らにはもったいない言葉ですが「エンターテイナー」です
現在まかり通ってる “芸人” の概念は死語と化していた化石語をややロマンティックな味つけをして殿が復活させ、松本が剽窃/敷衍/陳腐化/流布させたものです(むろん殿も敷衍/陳腐化/流布は行なっている) 浅草で師匠に付いて修行した殿は芸人、師匠がいない松本はTV・パーソナリティです >>660
殿が小粒と暴言を吐きましたが、さすがにアキラには勝ってますよ
芥川は
人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない
と “吼(ほ)えて” 魅せましたが、
俺は
黒澤の全作品は北野の一作にも若かない
と “吼えて” 魅せたいですね >>662
時代劇作家で思い出したんですが、金井美恵子が溝口を「チャンバラ」と呼んでハスミンが激怒→決裂って話が昔なかったですか?
あんまりチェックしてなかったんで知らないんですがどうなったんでしょうか たけしにあやかろうとしたせいで人生棒に振った知人・バーゴン純露(仮名)と、そいつによって人生を終えたゲイモス小村井(同)のことを北野武の過去スレに書いている。
何もできない奴に妙な夢を持たせるのは有名人の特権なれど罪深いものだ。 たけしさんの新作がもしかしたら最後の監督作になるかもしれない
時代劇らしいのですが、座頭市は超えてほしいですな 日本映画からチャンバラをとったら、ほとんど何もなくなるじゃないですか。
チャンバラの何が悪いのです。
しかし、漫才はよくて、チャンバラがダメ、というのもおかしなものだ。 だいたい、まともな時代劇映画を作れる人が、もはやいないでしょう。
なーんもわからんような人たちが「製作委員会」やらという名目であつまって、
それらが内輪のみで面白がっているような企画が通り、
歴史的な言葉遣いがでたらめな人が脚本を書き、
基礎的な知識のない人が監督している、というようなことではないでしょうか。
わたしが最後に見たまともな時代劇が、藤沢原作・山田監督の作品で、
それ以降はみたことない。 ハスミが黒澤明は超一流の作家ではないけど勿論一流ではあると
批評家同士の牽制で厳しくは言ってきたが映画監督として認めてる的なこと言ってたけど
これは本音だよね
金井美恵子が日本でクロサワと言えば黒澤明ではなく黒沢清だ
アキラを上げるなんてフジヤマ、ゲイシャで喜んでる類の人間だ
とまで言ってて
これにハスミは同意しないだろうと思ったけど
本音はハスミも金井美恵子と同じなのかな? 俺がハスミンの考えを代弁できるわけがないのであくまで予想ですが
才能はめちゃめちゃ認める!
でも作品はめちゃめちゃ嫌い!
こんなとこじゃないですか
ハスミンがこんな口語で思考するとは思えませんが
ハスミンは思考も(初期の)蓮實文体 >>682
読みたいです!
浪人ひと月だけ買おうかな 蜘蛛巣城は超名作だと思うので黒澤さんの事はあまり悪く言いたくない バーゴン純露かゲイモス小村井をコテにしたいw
ツボったw
純露ってなんて読むんですか? 金井の糞みたいな小説読むよりは黒澤明の映画のほうが比べようもなくマシ フランスで制作した「乱」のメイキングビデオの日本語版ナレーションは、
蓮実重彦ではなかったかな。 黒澤明で戸惑うのは
世間の評価する作品とおれが評価する作品が違うから、おれの目が節穴なのかと不安になる。
誓って言うが逆張り的にカッコつけて言うわけじゃないぞ。よくいるじゃん、わざとマイナーな作品挙げるやつ。そういうスノッブなやり口じゃないんだよ。素直に自分の胸に手を当てて考えただけ。
まず「七人の侍」と「生きる」の高すぎる評価の意味がわからない。
あと、 「フジヤマ、ゲイシャで喜んでる類の人間」
フジヤマ、ゲイシャ、あるいは、サムライ、のほかに、世界に誇るべき風物というのがあるのでしょうか。 フジヤマ、ゲイシャにかわりうるのは、いまだ、トヨタ、ソニーあたりでしょうかね。 金井美恵子という人は、前に引用したように、
「去年マリエンバードで」の宮殿でたむろしているシャネルブランドの服を着た女たちについて、
「優雅」といってしまうような人でしょう。
それって、フジヤマ、ゲイシャをみて、「オー、ビューティフル」とかいったような
昔のアメリカ人の観光客なんかと、たいしてかわらんのではないですか。 >>660
蓮実のことを批判するやつは云々と言っておいて、自分は黒澤を批判することの矛盾に気がついた方がいい まあ時代劇なら黒澤よりも三隅や伊藤、池広とかの方が素晴らしいもんな
黒澤は時代劇よりも現代劇の方が優れてると思う
天国と地獄や野良犬、悪い奴ほど〜、酔いどれあたりは普通によく出来てる
あと映像よりもシナリオ的に優れている作品が多い
蓮實スレでシナリオのことを書いても理解はされないと思うが(笑) そもそも蓮實スレに時代劇をちゃんと見てる人が何人いるのか甚だ疑問だが(笑) 現にスレをいくつか遡っても三隅に言及しているレスはほとんどないもんな
二流作家のヴェンダース(笑)は腐るほどあるけど 黒澤明は蜘蛛巣城、椿三十郎、夢(たけしのdollsに近いよ)が好きかな
わたしの中で黒澤明は宮崎駿のように絵の人になるかな
黒澤明のシナリオか、どういうお話なのだろう?笠原和夫が北野武に厳しかったのは知ってる
理解できるかわからないがどんどんレスして蒙を啓いてくれ >>698
だからAKIRAは巨人じゃない──つまり小者──だから批判されても仕方ないと云ってるだろ
理解力なさすぎ
しつこいよ 中学生の時の殿主演で『毎度おさわがせします』観たい
殿が無理なら中学生の時の小磯勝弥で
ヒロインは中学生の時の若尾文子
効果音と共に股間を抑えて前傾姿勢になる殿は一見の価値がある なりきりさんは内田裕也の娘がたかが芸能人の家族の分際で偉そうに上から目線で人生語ることについてどう思いますか?
やはりあいつ頭おかしいんですかね? 日本一白いブリーフが似合う漢(おとこ)がビートたけし(殿)だと思うんですが? >>706
なぜコイツがイキナリ国民の前に「人生の語り部」として出現したのか、唐突すぎて、意味不明
お前のカアちゃんとトウちゃんは知ってるけど、お前誰だよwwwという >>709
CMで人生語らすバカ企業とかあるし。
ほんまこつこの “邦(くに)” は “白痴の王国” になってしもうたなあ。 バカ企業の重役は東大慶應早稲田出てる筈なのになぜその異様さに気づかないのか ブリーフとステテコとフンドシしかなかった時代は
実録ヤクザ物で松方たちも履き込みの深い白ブリーフだったが童貞臭さは微塵もなく、生地が薄いためもあってか精力旺盛な雄の匂いをプンプンさせてた。
結局は履く人間の度量なのだ。
若手芸人は白ブリと学校指定風のジャージが基本なんてのはおかしい。愛嬌はあった方が良いが訳知り顔の媚態など要らない。
かつて浅田彰を「童貞御用達の白ブリーフ履いてそう」と評した女性がいるが、今ではそんな発言さえ災いの元となる。
柄谷はかなりの時代までステテコ派だったと思うが、蓮實の下着は昔も今も予想すらできない。
ちなみに、自分が(スペオペや寺沢武一などではなく)下着としてのTバックを初めて意識したのはピートバーンズだった。 純露(じゅんつゆ)は、ロングセラーの飴。
べっこう飴と紅茶飴の二種類が封入されており、圧倒的に割合の少ない紅茶味が貴重とされている。
選民意識の高いバーゴンはおのれを紅茶味とみなしている。 映画「静かな生活」で、今時こんな白ブリーフあるかよ?と思わせる見せパンで強引に大開脚させられた佐伯日菜子。
ちょっと文系オシャレなイメージの澄みきった美少女のはずが、「毎日が日曜日」でも(金子修介なので)無理矢理なパンチラをさせられ、映画デビュー早々にヨゴレまくる。
黒井ミサ(原作だと地味な娘なのに映像化の際は美形が担当)になる過程を思い知らされた感じ。
藤山寛美の娘が「うちの父は映画ではいい思いしてまへんので」と言ったのを何故か思い出した。 武田泰淳百合子夫妻と村松友視がサービスエリアで必ず行う儀式は、ジャンボフランク(村松は「ソーセージ」と言うが)に辛子つけて食べる事でした。 内田裕也は我々に違和感を提供してきた。
しかしそれを(それが)ロックンロールと呼ぶ事には断固として抵抗せねばならない。
「ロックンロールはこれでいいのさ」という思考停止(内田裕也にそれはない)を笑うのも、「このままではいけない」「今は惚けていられる時代ではない」と深刻になる(これも内田裕也ではありえない)のも、大間違いである事に変わりはない。
しかし「内田裕也を嫌う者は、何か後ろめたい事があるからだ」と断言する湯浅学には同意できない。 このスレッドの特徴は、洋風の下着の種類については区別を認識しているのに、
和風に下着、ふんどしの種類については区別を認識していないかのようなレスに
終始することにあらわれているだろう。
また、蓮実スレであるにもかかわらず、白ブリーフにかかわる話題ばかりで、
かの先生もやったのではないかと思われる赤ふん遠泳の話題は、
けっしてなされないのである。 内田裕也はフラワートラベリンバンドやロックフェスのミュージシャンというより
ミュージシャンと任侠系の折り合いをつけた人、仲介した人 また、文意から察するに、「ステテコ」は、サルマタの誤記だろう。 ところで、いまどきの男優さんも、時代劇の撮影のときには、
衣装の下には、やはり昔と同じく褌をつけているのでしょうか。 いうなれば、蓮実重彦やビートたけしは、おばあさんがかつての芸能村の出の人だが、
蓮實・たけし信奉者は、高度成長期にその村のちかくにできたニュータウンの子供なのだ。
そして、両先生の長所にして短所は、実は村のことなど、
知的にしかわかっていないニュータウンの子供たちにおもねすぎることだ。
例えば、津川雅彦のような村の庄屋の家の人のほうが、
そうした自分たちを村の一員だと錯覚したがっているニュータウンのサラリーマン家庭の子供たちに対する媚びへつらいがないだけ、
誠実だと思われる。 なりきりさんと呼ばれる方などは、知的水準はひじょうに高いんだが、
それでも、私の時代には、進学校ではクラスに一人くらいはいたようなタイプに
属していて、私としては、やはり、村人ではないニュータウンの子、という感じしかしない。 村近くのニュータウンの子の特徴というのは、
たとえば、落語の話題になると、おまえ寄席に行かないだろう、
俺は行っている、というようなことで、鬼の首でもとったような態度をとることだね。
ところが、そういう人からは、爺さんがお座敷に落語家を呼んだとき小学生の俺は…、
というような話はでてこない。もしかすると、そういう話を想定すらしていないのだ。 時代劇専門チャンネルで新作の時代劇を作ろうとすると、
高齢者でなく、中年の俳優が主演級を務めなければならない場合は、
中村梅雀あたりに頼らざるをえない、というような実情がある。 俺は内田裕也派だとくどいほど表明している近田春夫でも
「ユーヤさんはロックではなく芸能界側の人でした」
「正直言って樹木希林さんは嫌いでした」
以前、内田裕也絡みのイベントに出演したニューロティカのルーフ(この名で呼ぶ者はほとんどいない)は
「すげえ怖い人たちがいて、ポチ袋くれんの。中身は勿論お金」
今では映画秘宝あたりが「内田裕也映画」という括りを設けているが、存在としての内田裕也について的確な表現をした杉作J太郎以外は不毛な事しか言えず
蓮實重彦は、大槻ケンヂが「こんなロックミュージシャンの世界なんて存在しない」と笑った「猥歌」を、かつてない不愉快さの記念碑だか何だか言って褒め称えつつ
ここでも女性が疎外されている事は指摘。 日本にロック(ヒップホップでもいい)ムービーなんてあるのか?
なんてのを問題にすること自体が「だから日本はダメなんだ」という紋切り型の言葉を導く近親相姦のような悪循環。
あなたたちを男性と決めてかかった上での質問だけど、ゆるやかに転がり続ける巨大な球体の中でシックスナインの相手してほしい男性を何人挙げられる? ロックを匂わせる映画や監督が苦手と、菊地成孔。
映画評論でも安井豊とかはなんでも轟音期ニールヤングとかブライアンウィルソンらの話にしてウザかった。 菊地成孔は端的に反左翼、反カウンターカルチャーなだけ。蓮實も一緒ですな 「えっ?蓮實さんがウエスタンカーニバルに行ったんですか?」
と言われ、柄にもなく冷やかされる状況が続いたのち
「行かねえ奴はバカよ」 ユーヤ・ウティダってそんなヤヴァい人だったんですか!?
単なる畸人だと思ってました
殿があんなにペコペコするのはおかしいなーと思ってたんですよ
掌(てのひら)返しが得意な殿が絶対悪口言わなかったし
そんな御方の娘を悪し様にディスリスペクトした俺って......
“特定(とくてい)” されて “拐(さら)われ” たら “洒落(シャレ)” になんないじゃないですか......
いや、有り難いお言葉の数々は人生の指針になるなーと思ってたんですよ
“お言葉ポエマー” こと “お言葉メッセンジャー(Ocotova Messenjah)” 様のお言葉もっと聞きたいっす!
毎朝有り難いお言葉で朝を迎えたいんで365日分の “お言葉ポエム日めくりカレンダー” 発売して欲しいっす!
ジャー・ラスタファーライ! >>735
❌“お言葉ポエム日めくりカレンダー”
⭕「お言葉ポエム日めくりカレンダー」
これは引用符ではなく鉤括弧
美は細部に宿る >>721
おお!
白ブリーフ界の東西の両雄!
トムはなんか詰めてモッコシ作ってますね
“ハリウッド俳優の意地” を感じます >>720
赤ふん遊泳ですか?
そんなのあったんですか
なんか聞いたことあるような気がするけど
ハスミンは東京の学校ですけど東京の学校でそれがあったのか
疎開はたしかしてないですよね
なぜか『冬冬(トントン)の夏休み』的な世界を連想しました >>717
『静かな生活』は読みましたが、確かに大江(?)の娘が襲われる(未遂)シーンはありましたがそんな過激ではなかったような記憶があります
伊丹は映画用に膨らまして姪(に当たる登場人物)のパンツシーンを撮ったんですかね [乃木大将が学習院院長だったころからの伝統の赤フン遠泳] 「遠」泳か
男塾的な世界ですかね
「儂(わし)が学習院院長乃木希典である!!」的な ちなみに “不転向左翼” 絓秀実は学習院中退
渡部直己(わたなべなおみ)の父親は陸上幕僚長(陸自の制服方トップ)、統合幕僚会議議長を歴任。戦争に負けなかったら華族になっててもおかしくなかった家 大江の作品だと長男を主題とした作品はあまたあるけれど長女と次男を主役にした作品もある
前者が静かな生活、後者がキルプの軍団
どちらもけっこう好き
大江は初期・中期のネットリした文体も好きだけど後期のある種さっぱりしたノーブルな文体もすげー好きなんですよ
同じようにハスミンも初期・中期のヌメヌメした作風も好きだけど後期の読みやすくなった文体も嫌いではない あの古代ローマの政治家みたいな名前のアンちゃん、近頃のTV・パーソナリティにしては珍しく “気骨” があるから、殿のT.Nゴンで拾ってくんねーかな 菊地成孔って週プレに “タトゥーの怪人” だか “魔人” だかって書いてあったから見てみたらジョボっ、一個かよwって
KOHHぐらいのを予想したらw 佐伯日菜子はレイプ未遂で済んだが
伊丹十三作品の常連・朝岡実嶺がレイプされる場面も念入りに撮られており、企画と内容がちぐはぐであった。
伊丹は大江を映画化するのは無理だと思っていたけど「静かな生活」を読んで「映画にするならこれだ!」と思ったそう。 佐伯日菜子の大開脚白パンツ姿見たいなと思って検索したけど出てきませんでした
しかし元旦那の奥が死んでたのは知らなかったんで少しショック...
朝岡実嶺!
懐かしい...
たぶん借りて見たことあります 伊丹映画では蘊蓄や教習ビデオめいた要素にエゲツない瞬間や妙なしつこさがインサートされるのが常だけれど
こんな女いないだろうと思わせる普段着の佐伯日菜子(だが可愛い)の設定と変にエロい水着の矛盾(そうでもないかも)など
渡部篤郎がイーヨー役という事の違和感など吹っ飛ぶような、伊丹十三の抑圧された何かが苦々しく噴出した問題作。
ヒューマンな文芸作品でも「ヒット作ばかり望まれる映画監督が本当にやりたい事をやった」アートでもない。
たけしの「アート三部作」とやらより惨たらしくて、誰のために存在するのかさっぱりわからない。 >誰のため
自分のためだったんでしょうねえ
見てないですが 350 : ◆SWAGGA/vZ. :2012/02/04(土) 19:28:21.26
>>336
真・柏木です。
各所で公表していますが、SMAGの活動理念は
平成維新→王政復古→天皇親政→富国強兵→核武装→人型戦闘車輛開発→WW III→地球帝国樹立
です。
平成維新の第一段階として吾が邦(くに)の文化〈カルチャー〉を著(いちじる)しく低俗たらしめている
「吉本興業」、「ジャニーズ事務所」、「ロッキング・オン」、「エイベックス・グループ」、これら
“痴の枢軸”の撲滅を実行します。
そして吾が邦(くに)の文化〈カルチャー〉の高度化を図るべく本格的〈ハードコア〉な芸術家(哲学者、
作家、映画作家、ミュージシャン、漫画家等)の育成、映画製作及びゲイム・ソフト開発等を行います。
351 : ◆SWAGGA/vZ. :2012/02/04(土) 19:30:06.87
SMAG La Familia 「サーーッ! サァーーーッ!!(イッちゃウ! イッちゃウゥ!!)」 カリスマと回路のDVDが届いたからAmazon Hub ロッカーに取りに行かないと >>754
勝手に何処へなりとも逝けっての
とっつぁん坊やみたいな顔したブスが >>753
平成維新
王政復古
天皇親政
富国強兵
核武装
WW III
地球帝国樹立
はどうでもいいけど、
人型戦闘車輛開発
はなんとか実現したい
外周りの設計は大河原邦男先生で 脈打つダンカン、癌駄無、出るっ(Amazon Hub ロッカーにDVD取りに行く) 渡部 そこで福田さんのご意見を聞きたいんだけれど、松浦寿輝の『折口信夫論』はどう思いますか。
福田 それについていうと、蓮實スクール全般に対する軽蔑みたいなものが出てしまうんだけれど(笑)。
渡部 それはぼくも入っているわけね(笑)。
福田 いや、入れて欲しければ、入れますけど(笑)。ぼくは、松浦さんが大嘗祭の問題を表象として扱ってしまったために、シェイクができなくなってしまったと思っています。世代的な問題もあるんでしょうけれど、
ぼくには蓮實さんが導入しようとしたブロンヴェールとかのネタ本全般に対する強い反感があります。好むと好まざるとにかかわらず、ぼくも修士のときにフローベール読みだったので、蓮實さんがいかにみっともない博士論文を書いたか知っているわけですよ(笑)。
渡部 ぼくも、いくつか蓮實さんの紀要の論文に接する機会があって、その一本でたしか『サランボー』を扱ったものがリシャールそっくりに始まるものを読んだことはあるけれど。
福田 それは、いいんですよ。だけど、蓮實さんの博士論文って、マダム・ボヴァリーの精神分析ですよ。
渡部 それは読んでません。
福田 フロイト流のね。そのように大時代的な論文を書いている横で、紀要ではちゃんと「マダム・ボヴァリーの手」とか書いているんです。江藤さんにその話をしたら、感心して「蓮實君はやっぱり立派だ」とかいっていたけれど(笑)。博士論文では硬いところをやって、紀要では遊んでる。先生、逆でしょう、と(笑)。
肝心なところでは羽織袴を着てるじゃないか、というような、つまりはなにをやっても遊びでしょう、安全なんでしょうというテマティックな批評に対する反感で出てきたところがあるので、テマティシズムはけっきょくなにもしなかった気がしているんです。 坪内 映画って、基本的に一回性≠フものでしょう。そのとき映画館にいた自分の記憶の中の映画を批評してゆく。そういう評論を映画的に書ける人なんて、蓮實さん以外いなかったんだよ。ほんとに、そのとき観たものを、自分の中のスクリーンに再上映する天才だったね、うん。思想とか関係なくて。
福田 ただ、あれ、やり方自体は、以前からあるフランスのヌーベルクリティークの手法なんですよね。あの人は東大仏文で、ずっとフローベール研究やってるんだけど、博士論文はフロイト式分析で書いてんですよ。ちゃんとパリ大学に留学してカネかけてるし、かっちりした論文で。一方で、紀要(学術雑誌)とかには「『ボヴァリー夫人』における白い手のイメージ」みたいな批評を書いて、その手法を、映画評論に使ってるわけ。
で、ワタクシもフローベール研究やってたから、その乗り換えっていうか······いや、いいんだよ、「アカデミックな論文はちゃんと出して、あとは最先端で遊んでる」みたいなのは、学者としては正しいんだけど。ただ、その手法が、そのまま映画に来たんだなあって見えちゃったから、ワタクシは最初からノレなかったんだよ。
坪内 でも、大学院で学者として残っていくためには······。
福田 いや、いいんですよ。だから正しいんです、正しいんだけど。
坪内 大学院生が、学者として大学に残るためには、学問的な論文だけでなく、目立つ成果も必要なんだよね。蓮實さんには、そうせざるを得なかった部分もあるの。修士論文なり何なり、学者≠ニしての覆面をかぶって発表する研究論文と、マスクを脱いで自分のやりたいことを書く文章の両方を。
福田 だから、いいんです。正しいんだよね。でもファンキーではない。 もう少し人が悪いのもいます。こうした政治的な自覚の欠如を、「荒唐無稽」とかいってスリリングに見せる、「知の技法」で楽しい大学生活、みたいな脳たりんを使役している人です。まぁ蓮實重彥氏のことですが。
昔ヌーヴェル・クリティクの紹介をしておいて、今は旧態依然とした文壇的時評をやる、といった程度の「政治」ですけれども。要するに若手の時には横紙破り、出世したら清濁あわせ呑むという高級官僚みたいな。
元はフランス文学者でフローベールが専攻なんだけど、この分野で書いていることはものすごく地味なんだよね。昔、院生の頃友人が蓮實がフランスで提出した博士論文をコピィしてきたんで、ざっと見たことがあるんだけど、おそろしく古風なものだったと云う印象がある。
なんでそんなものを見たかというと、私も一応フランス文学徒だった時代があって、今をときめく蓮實センセイがどんな論文を書いていたのか興味があったから見せてもらったわけ。そうしたら拍子抜けというか、日本で見せている顔と全然違うなぁ、と若かりし私は思いました。
日本に帰ってきてから紀要なんかに書いたフローベールについての論文は、博士論文と打って変わった、当時流行の最先端で、今もセンセイの手法の中心になっている、リシャールとか、ルーセといった新批評(ヌーヴェル・クリティク)をそのままパクったような代物で、まぁよく勉強しましたね、という有り様のものだった。 福田の有名なハスミンに対する言及ですね
何度も目にしたことあるけど、面白い 蓮實のボヴァリー夫人論って福田のくさしを上書きするために書かれた? 蓮實重彦
いま、「世界には」といいました。それは、あなた方が実現するだろう研究成果を期待をこめて見守っているのは、東京大学の指導教授だけではないということを意味しています。大学院に進学されたことは、それ以後の研究のことごとくが、世界の視線にさらされることを受け入れたということにほかなりません。
ここで個人的な過去を告白するなら、いまから四○年前に私が人文科学研究科に提出したフランス文学の修士論文は、ひどく評判の悪いものでした。私の研究方法は、当時の東京大学の審査基準からすると、アカデミズムを大きく逸脱するものであり、研究者を続ける意志があるなら、考え方を変えねばならないと指導教授からひどくお叱りを受けました。
しかし、若さからくる過剰な自信からでしょうか、 私はまったく考え方を変えませんでした。私は東京大学を捨てる決意を固め、フランスに行き、時間をかけて博 士論文を仕上げました。パリ大学に、私の研究方法を評 価する指導教授がおられたからです。
日本の大学に就職するという点では、それは長い迂回であり、逸脱だったというべきでしょうが、自分のことを見ていてくれる人がこの世界には必ず存在すると、そのとき確信いたしました。
いまでは、四○年前の東京大学大学院の教育が、方法に対する寛容性をやや欠いていたものの、フランス文学研究の本場で充分に勝負できる若い日本人を着実に育てていたという事実の方が重要だと、反省をこめて考えています。
ここで申し上げたいのは、世界にはあなた方の研究を理解する人が必ず存在するのだから、迂回や逸脱を怖れてはならないということにつきています。時間の無駄であるかにみえる迂回や逸脱だけがもたらす豊かさというものがあるのだと、申し上げたいのです。 中森明夫が「柄谷行人や蓮實重彦がいくらカッコいい事言ってても所詮は公務員じゃないかと思うと…」
とか言ってたのと変わらない。長ったらしいだけで。
福田は「残る」仕事ひとつもないまま死んじゃったけど。 福田がファンキーだと思ってたのは石原慎太郎とかでしょ。
今東光なんてのを持ち上げてみたり。 福田はわりと最近読んだ皇室についてのゴシップみたいな文章で「様」をつけて謙譲語?で書いていてなるほど、「保守」というのはこういうものなのかと思った >>587
いかに表現するか批評はあっという間に行き詰まったね >>607
それを監督に還元するのはおかしくないか? >>770
ても「ファンキー・ジャンプ」(笑)っていう短編を書いててそれは “マブ(本物)” モンの “ファンキー” だったけどね
それ以外は...... 浅田彰 孤独な「蛮人」>について
シネフィルに代表されるような限定された興味と趣味の共同体の内部で、
最新流行の「センスのいい映画の見方」(蓮實重彦経由の古い映画の見方も含めて)を、
あるいは「天皇の語り方」を追いかけていこうとするスノビスムが、
作品に負のバイアスをかけているということ、むしろ、作家はそういうスノッブであることをやめ、
孤独な「蛮人」になるべきだということである。
金井美恵子がこう言った、浅田彰がそれにこう反応した、
などという根も葉もない下らぬ噂話にうつつをぬかすのは、
閉ざされたスノッブ村の「土人」でしかない。 >>772
M様は病気が治られて公務に復帰してM様のような国民の母とならせられるでしょうみたいなかなり “ファンキー” な文章だった 福田も宮台なんかに「対談でブルセラの事で僕にやり込められて、それを掲載前にまるで対等に語り合ってるように直してた。無頼派ぶってるけどすごく気が小さい」
と言われたりしてたが
蓮實叩きのときはイキイキしてる。
しかし持ち上げられたり貶されたりしてる柄谷の方がダメージがデカそう。 福田はビートたけしのつまらん短篇小説を大仰な表現で褒めてみたり、社会時評本は「むかし小学校の校長をしていた女性がホッとするような内容」とバカにしてみたり ダーフクはいろんな作家に点数つけた本があったじゃないですか
あれまあ絓と渡部のパクりですけどね >>764
> まぁよく勉強しましたね、という有り様
福田和也がセレクトしたパンクCD一覧を指して、町田康が同じこと言ってたね、勉強してますね、と
福田のグルメの志向については、島田雅彦が広告屋喜ばせてるだけでは?と言ってたし
そしてハスミには「放蕩から見放されてる」と言われたんだっけ?w
趣味判断の領域を「お勉強」「ミーハー」と片付けられるのツラいよね しかし、坪内祐三が書くと言ってた文壇史を福田和也が書くらしいから
まだ殺さないようにw 「あの人に勝ちたい」つーてもアムロはシャアに負けたことあるのか?
シャアは一番人気でデカいツラしてるけど、宇宙(そら)デビュー戦のアムロとの初顔合わせで殺(と)れなくて逃亡、2戦目以降も常にアムロにボコられて半壊のシャア専用(笑)機で逃亡してた記憶がある(ジャブロー、テキサスははっきり憶えている)んだが記憶違い? 福田さん どうなんでしょうね。僕自身は学者になろうと思って大学院に行って、修士課程が終わった時、指導教授がほんとにいい先生だったのですが、「君は学者に向いてないからやめておいたほうがいい」と言われて、ガーンとなって。
その当時、自分自身の結婚問題があって、大学院に行っている間はいいけれど、完全にプー太郎になったら、相手の親が黙ってないだろうと思って、父親がやってた鉄工所に就職しました。
2年ちょっと働いたところで、父親から「お前が会社にいると雰囲気が悪くなるからやめてくれ」って言われた(笑)。その頃はかみさんが働いていたからいいけど、これはまずいなあと思って。
それでずっと前から本を書けと言ってくれていた編集者がいたので、それから1年ぐらいかけて『奇妙な廃墟 −−フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』というのを書いて出したら、江藤淳さんが評価してくれたんですね。
本を出すとうれしくて、いろんな人に送るでしょ。でも返事をくれたのは江藤さんだけで、あとは書評も出なくてね(笑)。そこから「諸君!」とか「新潮」に書くようになって、書けばお金になるとわかったので、もう必死で書いているうちに、どうにかなったんですよ。 話は逸れるが、柄谷行人などもその線をとっていた
カントの「趣味判断」をアプリオリな綜合判断だという主流?の理解は、よくない。
カントの「可能性の中心」ではないと思う。
ポストモダニズムに対する反省から、もとの理解に戻ってしまった面があるわけだが、
やはり、趣味判断、ことに美的判断の「主観的普遍性」というのは、
(蓮實の理解する)ドゥルーズのように、自己もなければ他者もない、ということだとするほうがよいと思う。 カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ:東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/414929
「私たちは『大事なのは事実や真実ではなく、何を感じるかだ』という考えを浸透させすぎたようです」
「誰もが感じたいことを感じて、それが真実になる、という考えは非常に危険なものです」
議会における弾劾裁判では上院で弾劾決議が否決され(つまり法的には「無実」ということである)にもかかわらずトランプ前大統領がふたたび大手SNSを利用することができず、
イシグロのような人が上のようなことを書くのを読み、
先日のメーガン夫妻の発言についてアメリカ人の多くが好意的に反応するような状況を見るに、
「誰もが感じたいことを感じて、それが真実になる」というポストモダニズムが一応の達成したことすら、
昨今の風潮のなかで、根こそぎパーにされそうな感じをおぼえる。 [自分と違う考えの人を「断絶」することが当たり前となってしまった。]
イシグロ氏は、上のような世相を憂いているらしいが、
英国の有名キャスターのモーガン氏は、
メーガン妃を辛辣に批判したことがバッシュの対象になって、
番組を降板しする羽目になった。
モーガン氏の古巣のCNNも、同氏を非難している。
そういうことをよかれとする風潮が、「断絶」であり、換言すれば「排除」なのではないか。 吉本隆明「試行 NO.73」(試行出版部、1995年5月)「情況への発言 ―徒党的発言の批判―」
「またぞろスターリン芸術政策やプロレタリア文学運動の亡霊が顔や形を変えて蘇ってきたとおもった。柄谷や浅田から絓秀実や金井美恵子にいたるまで、
一斉に文学の「差別」などといいだして、本や座談を出しはじめたのには、びっくりした」〔wikiから)
蓮実重彦の賢明さは、上のようなことには、一切参加しなかったということに表れている。
なお、今の言論の風潮は、むろん「プロ芸政策」ですらなく、
労働問題にはほぼ無関心な人たちが主導しているという、もっとひどいものだ。 >>427
なんとか時間と金を工面して、行くつもりだ いつの時代の話をしてるんですかw
吉本の「95年」の発言なんてどうでもいいでしょw
“届いて” ないしw
もっとアクチュアルな話題をやりましょうw
引用さんも百の駄文をコピペするより『ヤンヤン 夏の想い出』を見に行くことをお薦めしますw 雷波少年で水への恐怖を克服した(という設定の)吉本隆明の姿は気取りがないと言えば聞こえは良いが
視聴者からすれば馴染みのない老人が水中で笑顔見せたって当惑するだけで笑えない。
蓮實がみたと言う「吉本さんの夢」は、吉本とそのシンパの関係をほのぼのかつ揶揄的に寓話化していた。 イシグロのちょっと前の発言、
メーガン(あちらでは、メガーンのようだ)とモーガンは時の人、
ということで、「いつの時代の話」というのなら、ただ今の話です。 イシグロ
「私たちは『大事なのは事実や真実ではなく、
何を感じるかだ』という考えを浸透させすぎたようです」
これは、このスレッドでもあるハスミイズム批判と、だいたい同趣旨でしょう。 俺は極力、「真実」について、つまり「死と絶望」について語るように頑張ってるんですが「趣味の話だろ」としか評価されないのは哀しいですね [本作は、「奴隷制度を正当化し、(オハラのような)白人農園主を美化している」ため人種差別を助長するとして根強い批判と抗議を受け続けている。特に黒人奴隷の描写を非常に強く批判されており、
また白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(KKK)を肯定している点等も強い批判を受けている(主人公スカーレットの周囲にいる白人男性たちは、
レット・バトラー以外のほぼ全員がクランのメンバーである)]
(wiki「風と共に去りぬ」から)
アメリカでは、「風と共に去りぬ」の小説は、公立図書館に置くな、とか、
映画は、公的なフィルムセンターみたいなところに置くな、とか、
黒人の映画関係者などがワーワー言っています。
わたしは「風と共に去りぬ」は、歴史的傑作(小説のほうは特に)だと思うので、
もし公的な文化施設におかれなくなるようなことになったら、それはひどいことだと思う。 「趣味」がすなわち「真実」だ、
というのが、「可能性の中心」的理解では、カント「趣味判断」の肝でしょう。
たとえば、ハイデガー「カントと形而上学の問題」、ドゥルーズ「カントの批判哲学」
どちらも、こまごまと批判してはいるが、基本的にはその線で理解していると思う。 つまりこれからも「死と絶望」についての話かましてもよかですか? ❌つまりこれからも「死と絶望」についての話かましてもよかですか?
⭕ つまりこれからも「死と絶望」についての話かましてよかですか? すべての概念的表象作用は、その本質から見て図式論である。しかるに、すべての有限な
認識は思惟的直観として必然的に概念的である。それゆえに、ある眼前にあるもの、例えば
この家の直接的な知覚のうちにはすでに
、、、、、、、、、、、、、、
、家というようなもの一般への図式化的な予見が必
、、、、、、、、、
然的に含まれており
、、、、、、、、、
、この予見的な表象(Vor-stellung)からのみ遭遇するものは家として自
らを示し、「眼前にある家」という形態を呈示しうるわけになる。(§21. 強調は引用者)
2)想像力=構想力を猛り狂わせる forcener(ドゥルーズ)――ドゥルーズが次のように書くと
き、彼が上述のハイデガー的解釈のことを念頭に置いていたことは明らかであるように私たち
には思われる。
空間−時間的諸関係が概念的諸関係に(本性上、互いに異なっているにも関わらず)適合し4
うるということ、そこにこそ、深い神秘と秘められた巧みさがあるのだ、とカントは言う。しかし
そのように述べたテキストを盾にとって、図式機能=図式論は構想力の最も深い作用である
とか、このうえなく自発的な巧みさであると考えるわけにはいかない。図式機能は構想力に
独自の作用には違いない。構想力のみが図式化を行なう。だが、構想力が図式化を行なう
のは、悟性が取り仕切るとき、あるいは立法的権限をもつときだけである。構想力は思弁的
関心の中でしか図式化を行なわない。悟性が思弁的関心を引き受けるとき、つまり悟性が規
定的となるとき、そのときに、そしてそのときにのみ、構想力は図式化するべく規定される。 日本のドゥルージアンなどは、すぐにこういうことをもって、
ハイデガーは、カント的な「感性的直観の形式」について、批判しようとしていながら、けっきょくは元の木阿弥で取り込まれている、というかのようなドゥルーズからの受け売り的なことをいい、それにくらべて、ベルクソン→ドゥルーズは違う、というかのようなことを言いたがる。
しかし、そういうのは、非常に一面的な理解だと私は思う。
ベルクソン→ドゥルーズは、「形式」を、ある意味で(よくいう「メタレベル」に)隠しつつ確保したところから語っているのだが、ハイデガーのほうはそうでないところから語っているから、どうしても哲学の宿命として、カントの「形式主義」から出ようとして、はたせずに絡めとられているかのように見えてしまうだけのことだと思われるのである。 803は、「図式論の問い(カント、ハイデガー、ドゥルーズ)」という論考からの引用だが、
著者名は不明。 803の引用の続き(貼り忘れていました)
おそらくドラマの続きは予想通りである。すべては、『判断力批判』がやってくると変わってしま
う。「構想力は、ここでは、「概念なしで図式化している」(§35)と言ってしまってもいいかもしれ
ない」(ibid., p. 71. 邦訳 101 頁)。図式論が常に、もはや自由ではない構想力の行為であると
すれば、第三批判において問題となるのは、悟性を重荷から解き、構想力を解放し、さらには
「猛り狂わせる」(forcener)ことである。構想力はもはや、図式論の力によって、悟性の立法
を転覆することを企むのではなく、彼らとともにフリーセッションに入る。
実のところ、構想力はここで図式化とは別のことを行なっているのである。構想力は、対象の
形式を反省することで自らの最も深い自由を表し、「形象の観察において、いわば、戯れてい
る」のであり、「可能的直観の恣意的な諸形態の原因としての」産出的で自発的な構想力に
なるのである。これがつまり、自由なものとしての構想力と、無規定なものとしての悟性との
一致である。これが、諸能力間の、それ自身で自由で無規定な一致である。この一致につい
て、それは本来的な意味で美的な共通感覚(趣味)を明示するものであると言わねばならな
い。(同上)
私たちの知る限り、ハイデガーは構想力の問いに関して、第三批判のなしうる貢献を本質的
に考慮に入れていない。未規定的な悟性と自由な一致をもつ自発的で産出的な構想力のこ
の再発見は、私たちに真の時間性を明らかにしてくれる。それは記憶の問いである。 じっさいには、ハイデガーも、構想力が自由なふるまいをする、
ということを言っているのだ。
例えば、シュピーゲルに掲載のインタビューなどでも、
はじめにそういうことを言っている。
日本のドゥルージアンのちょっと何とかしたほうが良いところは、
ハイデガーやらほかの人がすでに書いてしまっている、
ということを無視して、さもドゥルーズの独創のように言いたがることだろう。 むしろ、構想力が「彷徨う」「戯れる」などという日本ドゥルージアン好みの
やわらかめの言い方は、ハイデガーに由来するもので、
ドゥルーズのほうは、上記引用にあるように「猛り狂う」とかというふうに、
どっちかといえば、ものものしいのではないか。 ハイデガーは、概念の創造である哲学は、「未規定的な悟性」によるものとして、
詩と同様に、自由な構想力の発現なのだ、ということが分かっておらず、
そのでは、本来の美的判断をなしえない、という風に早合点して、
哲学に見切りをつけてしまった、ということがドゥルーズの言わんとするところだろう。 ハイデガーは、概念の創造である哲学は、「未規定的な悟性」によるものとして、
詩と同様に、自由な構想力の発現なのだ、ということが分かっておらず、
そのでは、本来の美的判断をなしえない、という風に早合点して、
哲学に見切りをつけてしまった、ということがドゥルーズの言わんとするところだろう。 しかし、未規定的な悟性と自由な構想力の「概念の創造」であるはずのドゥルーズ哲学にしても、
けっきょく、教授科目のなかのものとして「学問」になってしまっている現状を見るにつけ、
とくにハイデガーが「はやまった」ということもないのではないか、というのが私の感想。 「(難しいことばかり喋る絓秀実について)難しすぎるからなんとかしてw」と言った(福田和也の証言)という “整理の天才” 浅田彰のような気分ですw ハイデガーが、ダンカンさんとおそらくおなじ場所から書いていますよ。
ハイデガー「芸術作品の根源」
[美とは真理が不伏蔵性としてその本質を発揮するひとつの仕方である] ハイデガーは「死と絶望」についての哲学者ですからね(知らんけど) 浅田彰氏と同程度(おなじくらいテキトウに、ということ)には、
「整理」しているつもりです。
だから「難しい」のは、コピペ部分でしょう。 概念や数式がどうなっていくのか何をなせるのか何を呼び出すのか何に敗北するのか、何に死ぬのか大人は知っているはずだ。だから根本的な
若いのには哲学教育の上物が大事。殺伐としたな。闘争心は数学で補填される面。
頭の概念のエゴが悟性、それが崩れることが美。それを失い惜別することが死。他者も自己においても。 810、811の訂正
×「未規定的な悟性」によるものとして
〇「未規定的な悟性」とともにあるものとして そもそも「未規定な悟性」とは悟性といえるのか?
悟性とはセンスデータに基づく印象(感性)
を論理形式で整理したものだからね
ようするに整理不十分な造語の段階にすぎない
詩的表現ならそれでもいいだろうけど哲学には該当しないよ ドゥルーズの言う「未規定的な悟性」というのは、何かの認識、ではない、その前の
認識一般の在り様、における悟性のはたらき、ということなのではないかと思う。
その認識一般というのは、適切かどうかわからないが、
あえていえば、「純粋認識」というようなものだろう。
その「純粋認識」の現れが、上記引用の「真の時間性」であるところの
ベルクソン的な「純粋持続」ということなのではないか。
ただ、そういうことがいえるのは、すでに超越論的主体性に当たるものが、
天下り的に先取られているからではないかと思うものだ。
ハイデガーと比べると、ドゥルーズは、そういうところが安直な感じが昔からしていた。
フランスの哲学者なんで、よかれあしかれ、
ドイツの哲学者ほどカント哲学に対するこだわりがないからではないだろうか。 ダンカンさんが前に言った「時間と運動」、
ようは「シネマ」にあるベルクソンに由来する運動図式的なものというのは、
ハイデガー的には、その実は空間であるような頽落的時間(幾何学的時間)の上を動くものであって、
わたしはそのハイデガーの説は正当だと思う。
だから、ドゥルーズの哲学のある種のアイデアを、
理系っぽく力学系理論などのアイデアに「翻訳」して理解する、というのは、昔流行って、
それはどうやら今もやられているようだが、
それは当然のことで、いうなれば正解しているわけだ。 >>820
>何かの認識、ではない、その前の
>認識一般の在り様、における悟性のはたらき、
>ということなのではないかと思う。
いやいや「悟性」とは各外部情報が
肉体的属性による認識のカテゴリーを介して論理的に構成されるが故に
「時間」と「空間」をともなった現実把握を可能とするんだよ?
もちろん認識者たる人間的諸個人の人格的統一性と連続性も保障する
ただ、悟性哲学の鼻祖ともいうべきカント哲学の問題点は
この認識構造も論証過程においては再編可能としている所だね
とはいえこの種の論理操作なしに、
つまりいわば「未規定」の段階では悟性の再編は無理なのね 822は、悪いが、とんちんかんで、哲学をした人でないのは、
はっきりしているものだ。
≫各外部情報が
≫肉体的属性による認識のカテゴリーを介して論理的に構成される
外部情報、肉体的属性、認識のカテゴリー、そんなものは、
カント哲学に出てきませんね。
カントの本に出てくる言葉で言ってもらいたい。
そもそも、ハイデガーの「カントと形而上学の問題」やドゥルーズの「カントの批判哲学」は。
癖が強いとはいっても、れっきとした研究論文なんで、
専門的におかしいというような言葉遣いなどしていません。
その翻訳は 認識のカテゴリーというのは、認識の枠組みとしての純粋悟性概念としてのカテゴリー、
というのならわかる。 しかし、ずっとなりをひそめていたが、822のような、いかにも5ちゃんねるらしい
名無しのレスが出てきた。
数年前には、この種のレスが、しょっちゅう出てきたものだが、
この3か月はなぜかなかったから不思議だった。 竹山重光氏の論文から
カントにおいて、一般に反省とは概念形成の働きのことを意味するが、
美感的判断の場合は何か特定の概念が形成されるわけではない。
しかしそこでは与えられた特殊と未規定性一般という次元の概念性との強制のない統一が成就されているのである なお、ベルクソン、ハイデガー、ドゥルーズらが、いうなれば「真の時間性」といったものとしているのは、
いうまでもなく、カント哲学の感性的直観の形式としての時間性ではない。
その時間形式のほうは、ハイデガーの言葉では、「頽落的時間」である。 「趣味判断の対象は,概念的な規定を受けつけない」
(「判断力批判」第1部末尾近く)
こういうのは、知っているからどうした、というものではあるが、
いちおう常識なんで、5ちゃんねるだからしょうがない、とはいえるが、
そこから話がなんら発展しないようなレスをつけられるのは、面倒なだけだ。
なお、カント、フィヒデ、ヘーゲルなどの時代のドイツの哲学の翻訳の訳語で、
「規定」というのは総て概念的な規定のことで、ほかの意味はない。 (自分でしっかり歩けるから歩いている時の)屁の推進力は要らんですYo! 美的基準と言っても性欲がわく汚い醜いものにという悟性にカントがなっているか。 カント的な時間形式と図式機能のかかわりについては、下記引用にある。
ハイデガー「カントと形而上学の問題」
超越論的時間規定は、それが普遍的であり、ア・プリオリな規則にも
とづいているかぎりにおいて、カテゴリー(時間規定の統一をなす
ところの)と同種的である。しかしこの時間規定は、他方では、時間
が多様なもののあらゆる経験的表象のうちに含まれているかぎりにお
いて、現象と同種的である。……この超越論的時間規定が、悟性概念
の図式として、カテゴリーのもとへの諸現象の包摂を媒介するのであ
る。 ≫美的基準と言っても性欲がわく汚い醜いものにという悟性にカントがなっているか
これはひじょうに重要な問題提起だろう。 ベルクソン→ドゥルーズのいうイマージュ(「シネマ「」の中心的アイデア)と
カント→ハイデガーのいう図式=シェーマ(スキーマ)が、
「科学的」に理解しようとすればほとんど違わないものになる、ということは、
イメージスキーマという認知科学用語を検索してみれば、わかるだろう。
そして、それと蓮実映画批評の手法との関係もわかるはずだ。 スレ違い
哲学板に行ってください
そんな暴走されたら、ぺんぺん草一本生えないスレになっちまいますよ 俺が集めて大事に育てたオーディエンスが寄り付かなくなってしまった 蓮実映画評論における「時間と運動」の位置づけについて書いたので、
このスレの趣旨に合っています。
蓮実映画評論と認知科学、みたいなことを書いている人もいるのです。 蓮實における演奏-翻訳技法から、翻訳不可能性ゆえの可能性(デリダ)へ接続する1
蓮實はどこかの対談でこんな感じのことをいっている(出典失念)。
「すでにコードによって画面を回収する視線ではなく、原始人のように初めてスクリーンに出会ったかのような視線を向けることはできないか。たとえば、レヴィ=ストロースが書くところによると、アフリカのある部族にあるドキュメンタリー映画を見せたところ、作品を分節化して理解せず、そこに映っている鶏や人物の動作にまず凝視してしまうし、その「ありよう」に衝撃を受けるという。このような視線からはじめることはできないか」。
便宜的に、これを蓮實テーゼ1とする。 さて、この視線を忠実に導入した場合、どうなるか。コードによる分節化のカッコ外しをしつつ、細部への観察を続けていくと、ショットがショットとして認知上輪郭付けられていること、人物と背景の分節化の困難さ、さらには、そもそも直前のショット、もう少し前のショットとの連関をどこまで認知できるのか、また、そうした認知をもたらしている記憶は、どこまで高精度にできるものなのか、いや、そもそも記憶におけるショットは単に高精度であるべきではなく、読解による恣意性は不可避ではないのか…といった疑問や混乱に直面することになる。
つまり、分節化のカッコ外しは、文節における恣意性/非恣意性という区別をも絶えず揺さぶってしまうため、人工知能論で言うところの一種のフレーム問題が生じてしまうわけだ。これは、テーゼ1の徹底は底なしのカオスに近づいていくことを意味し、個別の「作品」という境界や、作品評価の指標を立てること、その指標に基づいて下される判断も成立しようがなくなってしまう。「語りようも無くなっちゃう」。
したがってここで、蓮實の他のテーゼの作動が要請されてくる。フレーム問題に陥らないためのテーゼ1への歯止めが必要になってくるわけだ。(なおこれは、東近辺の言葉で言うと、認知限界→複雑性の縮減 という論旨と結構似ているが、それ以上の刺激を彼らはあまり与えてくれない。) 「フレーム問題」というのは、もとは人工知能科学の用語なのだろうが、
認知科学でもつかうだろう。 「東近辺の言葉で言うと、認知限界→複雑性の縮減」
これはもともと、ベルクソン→ドゥルーズの(「シネマ」における「イマージュ」)が、
実在→イマージュ→概念、という
複雑さの減少過程(本質的な違いがなく程度問題だということ)の真ん中のもの、
という考え方を東氏が、いまどきの「知的」な人たちが受け入れやすいように、
「テクノサイエンス」っぽく言い換えたことからきていると思う。 学問板である文学板でバラエティー番組の話をしている人に、
批評理論の話をしているほうが、スレチといわれるのが、ふしぎなことだ。 脈打つダンカンです
現在『純粋闘争論叙説』という本を書いてます
あと去年出た『このクンニャーがすごい! 2021年版』(宝島社発行)で東の大関(総合4位)に選ばれてるんでチェックお願いします あと来年『運動と時間──イマージュの果てにあるもの』という本が日本の出版史上初めて “いきなり” 岩波文庫で(岩波文庫書き下ろしで)出るのでそちらのほうもチェックお願いします 出た瞬間クラシック化(殿堂入り)の金字塔的な凄い本になるんで期待してください >>799
3回くらい読んだことありますが、面白いのは滅法面白いですが、そんな大層な本でもないでしょう
差別に無自覚──嬉々として、ではなく「無自覚」。キャッキャとはしゃがないぐらい差別することがニュートラル(常態となっている)作者と作品──な作品は入手するのにワンクッション置かれるべきでしょう
ちびくろサンボとかダッコちゃん人形と同じです
少なくともフォークナーは──白人の立場からであれ──差別/差別することに自覚的でした 差別することがニュートラル(常態となっている)
これは作者と登場人物両方です 差別とは差別する側──この場合は白人と引用さん──がどう感じるかよりも差別される側がどう感じるかを重要視するべきでしょう
引用さんが「「ワーワー言ってい」る「黒人」「など」」と呼ぶ人々が感じる “Pain” を考えるべきでは? >>853
差別に無自覚──な作品は入手するのにワンクッション置かれるべきでしょう
なんて酷い文章ですが、自分は5ちゃんでは推敲五割方で〔書き込む〕ボタンをクリちゃんして酷いままにしておく場合が多いです
文章の勢い(スピード)と口語的なノリを重視したいので >>851
『運動と時間──イマージュの彼方に』に改題します >>857
自分の文章に「勢い(スピード)」があるなどと大それたことを言ってるのではなく、できるだけ思いついたままを書きたい、という程度の意味です ドゥルーズ「差異と反復」での需要な考え方に、「多様体上の微分」というのがあるのは周知だと思う。
当時から新カント派などにあったらしいその種の考え方が、ハイデガーにとっては、頽落的で受け入れがたいものだったのだと思う。
[現代数学において、ユークリッド空間はほかのより複雑な幾何学的対象の原型を成している。
例えば、可微分多様体は局所的にユークリッド空間に微分同相であるようなハウスドルフ位相空間である〕
(wikiユークリッド空間)
日本のドゥルージアンなどは、現代数学によってカントの「直観の形式論」を過去のものになった、
という「俗論」を信じているケースが多い。
「俗論」といっても、ヒルベルトでさえそういうことを言っていたから(「ライバル」のブラウエルなどは、ぎゃくにカント主義者を自認していた)、どうでもいい考え方ではない。
しかし、上の引用を見れば書いてあるように、肝心な「局所」的には「直観の形式論」というのは、
現代数学によって、むしろその説得力を増したのである。
「微分」というのは、ドゥルーズにとって、晩年に至るまで、最重要概念の一つだった。
けっきょく、ベルクソン→ドゥルーズは、カント哲学を超える、といいながら、主要なところでは、
カント哲学体系の部分体系を考案するにとどまったにすぎない、というのが、私の理解。 純粋文学や純粋哲学のほうがカントの悟性よりどうもいい気がする。 ハスミン畢生の大作ボヴァリー夫人論てあんま話題にならないね
やっぱり相当期待ハズレだったの? 福田和也「20世紀小説ベスト10冊」
@ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』(講談社文芸文庫)
Aレイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
Bマルセル・プルースト『失われた時を求めて』(集英社文庫)
Cルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』(中公文庫)
Dトーマス・マン『魔の山』(新潮文庫)
ED・H・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』(新潮文庫)
Fイーヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』(ちくま文庫)
G川端康成『雪国』(新潮文庫)
Hエリオ・ヴィットリーニ『シチリアでの会話』(岩波文庫)
Iナギーブ・マフフーズ『バイナル・カスライン』(河出書房新社) 他人が称賛する小説で自分も感心する小説は、だいたい3割くらいだ。 ジョン・フォードもハワード・ホークスの存在も知らない今のマーベルファンはかわいそうだよな
ジョン・フォード、ハワード・ホークス、アルフレッド・ヒッチコックはアメリカの映画監督の中でも別格だと思う 蓮實が高く評価してる監督
アメリカ=ジョン・フォード、DWグリフィス、ハワード・ホークス、アルフレッド・ヒッチコック、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ラオール・ウォルシュ、ジョージ・キューカー、ニコラス・レイ、アンソニー・マン、ドン・シーゲル、リチャード・フライシャー、ロバート・アルドリッチ、クリント・イーストウッド
フランス=ルノワール、ゴダール、トリュフォー
ドイツ=フリッツ・ラング
イギリス=ジョセフ・ロージ
イタリー=ロッセリーニ、ベルトリッチ
日本=小津、溝口、成瀬 蓮實のテマティックな批評には興味ないが蓮實が評価する映画は確かにいい
しかし小説はボヴァリー夫人を普通に読んで腑に落ちない人は多いんじゃないかな? じゃないかな?じゃねえよ堂々巡りの話に終始する駄スレ 池田信夫
@ikedanob
返信先:
@ikedanob
さん
日本のポエムの元祖は吉本隆明、その次が蓮実重彦だろう。読んでいて「わからない自分の頭が悪い」と思わせるのがコツ。実は書いてる本人もわからない。 ハスミンがわからない人に「わからなくていいんだよ」と言って安心させてる──その実媚びてる──だけの不快な文章 いや、というより自分がわからないから同調者を募りたいだけか 池田信夫の知的水準に照らして、
蓮実重彦の書いたものの理解可能な部分を理解できない、
ということはまずありえない。
だから、蓮実重彦の書いたものに、
じっさい理解不可能な部分が散見するのは事実だ。 初期(70年代)はね(かなりこねくり回した文章(文体)で書いてたから) だからこそ読めと言いたい
理解可能な文章ほどつまらないものはない むつかしいものはダメ、という風潮こそがあらゆる芸術の敵 日本の政治と知識人が目指している1億3千万総白痴化に歯止めをかけなければこの “邦(くに)” は亡びる 理解可能な文章は概してつまらない、というのそのとおりでしょう。
問題は、その種のものを、わかりやすく解説したような本が、けっこう売れることだ。
その代表は、やはり「構造と力」だろう。レベル的には、格段に落ちるが、
「存在論的、郵便的」もその類だ。 池田信夫さんが言っていることは、ぎゃくに、日本で「真の思想家」といえるような人は、
この二人だけ、ということになると思う。 デブ福田が「フーコーなんて文体だけでしょ。なんだかんだでずっと出世コースだし」
と言ってるのと変わらない。 知識人の書くものがポエム、というのは誉め言葉だろう。
ポエムはダメ、というのは、プラトンがそう言った、ということで、
プラトニズムということになっている。
ニーチェによれば、プラトニズム=ルサンチマンだ。
ルサンチマンから遠いというのは、いいことではないか。 散文の極致であるはずのヌーヴォー・ロマンもポエムちゃーポエムですしね ホメーロスはじめ、多くの詩人を我々はポリスから追い払わなければならない。
(プラトン「国家」) 木村敏、中井久夫、加賀乙彦らは、「反精神医学」的な思想家には、評価が辛かった。
レインもあまり評価していなかったし、
ガタリに至っては、かなり腐していた。
木村、中井、加賀、このあたりの誰かが、ガタリが来日したときに、
あなたは精神医学者としての実務経験をどこで積んだんですか、
というような、とりようでは「失礼」に当たるかもしれない質問をしたはずである。 木村敏は、「反精神医学」的性格のある現代思想(もっぱらレイン、フーコーの思想)が、
レーガン政権、サッチャー政権の、
財政負担を抑えるための
精神病入院患者をどんどん退院させる政策の遂行を後押ししてしまった、
といったことを述べて批判したことがある。
ほんらいは入院治療を続けなければならない患者を、
軽々しく退院させたことにより、
その患者が社会で忌み嫌われたり(例えばチンピラに食い物にさfれるなど)ひどい目にあったりしている、
といった内容のことだった。 そういう経緯があったのか
神谷美恵子をフーコーが小馬鹿にしたからって話も聞いたことある ゴダールもフーコー批判してた。
「自分で見てきたわけでもないくせにどうして言いきれるのだ」と。 ゴザがここまで詰められた今回は川上未映子も鼻息が荒い
先日渡部直己の復権を願い書籍の情報交換してた(まだ読めてないが)このスレがいかに風通しがいいかだ
https://i.imgur.com/KXuqgnP.jpg wikiから
(神谷は)翻訳後にフーコーと面会した際に著書で理解しがたかった箇所について尋ねたところ、
フーコーはあれは若書きであり云々と語り、美恵子はその言葉に驚いている。
美恵子と同じく文学の素養を有する精神科医である中井久夫は、
フーコーの思想は神谷美恵子が取り組むほどの価値を有していなかったのではないかと記している。
中井氏の批判というのは、これですか。 そのエピソードです
中井が厳しく怒ってた記憶があったけどそんなに批判してませんね
神谷美恵子は『自省録』『生きがいについて』の人でデモーニッシュな系譜ではないから
フーコー的な文脈とは合わない、、くらいの意味だったのかな 三野 宏治 2009/06/07 「アメリカにおける脱入院化――ケネディ教書以前とその後」 佐々木慈子「フーコーの反精神医学」
レインとクーパーの運動にもっとも強い影響を受けたフランスの反精神医学運動の
根本的な主張は, ≪狂気を疾患とは見倣すべきではない》 ということにある。(中略)
レインにとって《狂気〉 とは,家族・労働・医療といった諸制度が個人にもたらす
耐え難い圧迫的状況に,個人が応えようとして創出する特有の戦略に他ならない。こ
の戦略は,狂気の主体を,時に非-狂気の主体が行こうとしても行けないような,内
面の時一空間の深みにまで連れて行く。そこに狂気の創造性がある。したがって,彼
らに必要なのは,抗精神病薬や時には電気ショックによって彼等を強制的に現実に復
帰させようとする医学的治療などではなく,むしろ,彼らがこの内面の旅を極限まで
遂行して,そこから別人になって回帰して来るのをサポートする空間と体制なのであ
る。
フーコーがレインのこのような考え方に全面的に同意しているかどうかは必ずしも
確言はできない(14)だが,この考え方が精神医学に対するまったく新たな視点を可能
にしたことについては,フーコーは称賛と同意を惜しんでいない。 今のヨーロッパの惨澹たる情況を見ると
フーコー、ドゥルーズ、デリダらが偉大な思想家とは
とても言えないだろう
ニーチェとマルクスのごった煮ではねw
蓮実さんとかの権威の源泉が涸れてしまって
おフランス系知識人もつらいよね 木村,中井両先生は、もともと「現代思想」に好意的だし、
ご本人たちも思想的には、初期の西田哲学の系統だから、
ジェイムスやベルクソンは結構好きなはずで、
だからドゥルーズとは親和性があってもおかしくないのだが、
相棒のガタリには厳しかった。
本当にところはわかりませんが、推察するに、
やっぱり、精神医学者としての実務感覚との乖離がおおきいんでしょうか。 蓮實はヌーヴェルクリティックが御法度のソルボンヌに留学して将来の生活のこと考えてヌーヴェルクリティックの信念を貫かず裏切った博論書いちゃったんでしょ?賢明な選択ではあるけど福田はそこを馬鹿にしてんでしょ?
赤狩りの時代のハリウッドに例えると蓮實はある意味カザンの道を選んだわけだ ようするに、スキゾ賛美というものは、
実際には悪い結果しか生まない、ということでしょうか。
スキゾ賛美のもとをたどれば、
カントの美的判断の「構想力の戯れ」のハイデガー的解釈で、
それは、構想力の戯れやらその図式機能の彷徨いが、共通感覚=超越論的統覚を惑乱させる、
ということに理性の支配の閉塞状態を脱する可能性を見出すということで、
統覚の惑乱=統合失調症(スキゾ)的ということなわけです。 蓮実重彦の博論は、福田氏によれば、精神分析的なものだったというのでしょう。
そのときは、クランイン派やラカン派みたいな批評も悪くないと思っていたのかもしれないので、
精神分析的批評でも別にいいのではないですか。
蓮實重彦は帰国後にも、
クリステヴァみたいな構造論的「図式的」なことを書くことがありました。
そういうのをやめたのは、「現代思想ブーム」が起こって、
だれもかれもやるようになってからです。 テリー・イーグルトン「精神分析は、知識人にとっては、どぎつい通俗小説のような魅力がある」
そういうわけで、90年代には、精神分析的批評の何度目かのブームが起こったんでしょう。 ハスミンがフランスに滞在していた60年代前半はラカン派はよほどハイカラ(アヴァンギャルド)でしょう
博士号取得が65年で同年に帰国しています
ラカンの諸論考を纏めた最初の書物『書き物〔Écrits〕』が出版されたのが翌66年なのでハスミンがラカン派精神分析に通暁していたとは考えられません
福田が読んだという精神分析に基づいた論文というのは、それが事実であれば古典的なフロイディスムのそれでしょう そして福田は精神分析理論を骨子に書かれたという論文を莫迦にしているようですが、それはその福田の発言の時点の90年代?00年代?からの視点であって、60年代前半のフランスではラカン派はおろか古典的フロイディスムですら白眼視されていたという歴史的視点を欠いています
当時の共産党の影響が強かったフランスでは精神分析の需要が遅れていたのです そんな真面目な話より今(いま)“時代(じだい)” に求められている新ジャンル “ポコチン映画(ぽこちんむーゔぃー)” の話しよーぜ❣ 大槻ケンヂとかMAGUMIとか巻上公一とか辻仁成とかに映画撮ってほしいよね ジョジョに出てくるエコーズというスタンドはずっと辻のエコーズだと思ってたんだよね
フロイドからというのは最近知った
ほかのは全部洋楽からなのになんで?とは思ってたんだけど フランス系知識人にかぎらず、「現代思想」系は全滅でしょう。
民主政治、市場経済、市民社会、この枠組みの中でしかものを言えないですから、
けっきょく左派リベラルとおなじことになるでしょう。
あるいは、良心的なネオコント大してかわらん、ともいえる。
いまどきの日本のドゥルージアンなんかにしても、
実際問題については社民主義みたいなことしかいえないので、
思想は学問の上の専門分野で、それで給料もらっているだけです、
みたいなことにしかならない。
ただ、むかしからそうだった、ともいえますが。
かえって、ワシントンの議事堂乱入事件起こしたような連中のほうが、
思想的には真摯だといえてしまう。 蓮實さんには古色蒼然たるソルボンヌの教授連を相手に無鉄砲な野蛮さゆえ喧嘩を売ってアカデミズムのキャリアを棒に振っちゃったというヤンチャな武勇伝を聞きたかったな
もちろん国家権力の弾圧で亡命したり獄死したり沈黙を貫いた先人の苦労と比べたら屁でもないと自身の誇らしさを包み隠した謙遜の弁を添えて 中井久夫はプルースト、ヴァレリーが好きでラカンはワカランと韜晦してたけど
臨床医として己を制限して思弁的になることを禁欲してたところはあるね
斎藤環は「箴言知的」と言い表してた 大臣だったかが「同性愛は非生産的だ」とかといって、問題になったことがあったでしょう。
はたしてそれがけしからん発言なのかといえば、私はそうも思えない。
同性愛は非生産的だからこそ、再生産の仕組みには簡単には属さないので良い、というのが、
「現代思想」的な考え方だったはずだからです。
しかし、そういう意見を述べた知識人はいなかったのではないですか。 まあシネフィルが好むような映画はもう終わりですね
ハスミンスレにすら俺以外はアンチハスミンしかいないし「59年以後」の映画に興味のある人も俺以外はゼロだし
やはりみんなラングとかヒッチコックとかの黄金期ハリウッドクラシックの映画に興味があるしそれ以外は結局山田洋次的なるものとアニメが勝利を収めたと言える これからは──ノるのが遅いがw──エンタメ映画の時代や!
ポン・ジュノとシン・エヴァ最高!
ファックゴダール!
ファックアンゲロプロス!
ファック侯!
ファック黒沢! 「リゾーム」(地下茎)というのだって、本当の意味は、前衛等党中央の指導によらず、
地下組織のネットワークで行こう、ということですよ。
蓮實「ドゥルーズは、ファシズムということはないですか」
浅田「パデゥなんかは、ジャガイモのファシズムといっていますね」
(批評空間の座談会)
ジャガイモというのは地下茎の瘤でしょう。
蓮実の浅田への問いは当然、あらかじめ答えを知っていてのものです。
しかし、いまどきの日本のドゥルージアンは、むしろこの手のことを隠すでしょう。 もう一人で突っ張らかるのは疲れたねや......
なんで俺一人があっちゃこっちゃでハスミンと殿を擁護して廻らにゃいけん......?
懇切丁寧に説明しても全く理解しないアホばっかだし......
俺はもう山田洋次とポン・ジュノとディズニーアニメしか評価しないよ!
ジャンジャン! だから、リゾーム的というのなら、アルカイダなんかはそうだったのです。 >>925
よく憶えてないですけど千葉の動きすぎてはいけないにドゥルーズはファシズムに通底する的なことは書いてあったような もはやお役人にしか見えない松浦寿輝氏でさえ、
若いころは「気狂いピエロ」について、
逃走線が南へ延びる、とかかっこいいこと言っていたのです。 というか、ドゥルーズはファシズム的だくらいのことは千葉だけでなく日本のドゥルージアンは全員書いてるような気もする 千葉雅也さんはたしかに、おお、と思うこと言うことがしばしばある。 日本のドゥルージアンが、一時期と違って、かつてのようになっているなら、それはいいことだ。 >>922
千葉雅也がその話題のときではないけど
非生産的なことや無駄なことを肯定する話を
Twitterか『勉強の哲学』かで言ってた気がする
ファッションや筋トレを例に出しながら 黒沢清よりポンジュノの方がずっと上、それは韓国には蓮實がいなかった幸運による 津川雅彦ではないけれど、映画というのはお客さんがたくさん入って、喜んでくれて、儲かってまた次の映画が作れてナンボなんだよ
面白くなければ映画ではない!
芸術的な映画なんて存在しないし、もしそういうものを目指してるならそれはつまらない映画 お客さんが入らないのに高評価にあぐらをかいて作品を作り続ける人は志が低い人 >>924
すべてのゲージツ映画の祖たるファックブレッソン!追加 これからはエンタメ映画まんせー、アンチゲージツ映画でいきますんで ですよね
アリストテレスも奴隷持ってたから焚書にせよ 禁煙ファシズムとキャンセルカルチャーは、たいがいにしてもらいたいね。 >>945
じゃあ奴隷時代の文化は差別的な風習だけじゃなくて全て抹消しなくちゃいけないの? 公人なり有名人が失言すると、そこだけとらえて、
やめろやめろというでしょう。
それとおなじ理屈で、アリストテレスの本は書店に置けないでしょう。
それどころでなく、むかしの文学作品なんて一つも置けません。
言論の自由は憲法に明記されている権利ではありますが、
権利を制限することが人類普遍の原理、すなわち正義にかなっている場合は、憲法の規定を無視してもよいのです。 ですから、差別表現のある本を出版している出版社やそういう本を置いている書店は、
政府が営業停止にすべきですね。
映画会社や映画館もおなじ。 っていう思考実験の入り口ですよね?そこで話が終わったらアホすぎますよ べつに続きはないよ。
ただ「思考実験」でなく、過去に差別発言をしたようなメディアパーソナリティーは、
糾弾したほうが良い。 個人的には、公立の図書館には、
差別表現がひどいので、漱石全集と三島由紀夫全集は置かないようにしてもらいたい。 >>944と>>947が同じ方からのレスなのだから暗黒の中世はもうすでに再来してるのだね
暗黒欧州に
アリストテレスのほぼ全著作に注釈をつけて逆輸入したイブン・ルシュドはスペイン人だったけど
第二のイブン・ルシュドはどこから生まれるだろう
差別というより無差別が酷い(慈悲的差別がない)永井荷風も
公立図書館には置かないでもらいたい まあまともな人は馬鹿だと思われたくないから差別的なことは言いたくないしやりたくないもんなんですよ
そういうことをなんの疑いも持たず言ったりやったりする人はどこか抜けてる人なんです 差別したくないからというより馬鹿だと思われたくないから、というのがポイント
他者への思いやりとか以前にまず自分ありきです
他者へのまなざしはそのあとですね もう次のスレは立てなくていい
気狂いピエロが湧くだけだ 晩年は失われた時を求めてを読みながらゴダールではなくトリュフォーを見て過ごしたいと考えているんでトリュフォーの作品リスト作ったんだけど誰もが代表作の一つに挙げるであろう大人は以外にもけっこう評が割れるというか代表作?評価の高い作品?がたくさんあるね 恥ずかしながら脈打つダンカン、カミング・アウトするけど失われた時を求めて読んだことないんだよねw
それでイキっていたというw
トリュフォーも4、5本しか見てないしw >>961
君よりははるかにましだけどねw
ボキャ貧の1行レス君w 次スレは要りましぇえええ〜ん
あだだたちが嫌いだかだぁあああああ このスレッドは1000を超えました。
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