0001革命的名無しさん2018/12/01(土) 21:37:40.09
んな事書いてあるけどホンマか?
http://news.livedoor.com/article/detail/15675065/
「徴用工」の賃金は共産党に流れていた
(前略)
2004年に刊行された『朝鮮総連』(金賛汀・著)。金氏はノンフィクション作家で内容紹介によれば
「かつて組織内に身を置いた著者が、痛恨と義憤の思いで綴った」一冊だ。
「最大の財源になったのは帰還していく強制労働者の未払い賃金等であった。1946年末までに
朝連(朝鮮総連)中央労働部長名で強制連行者を雇用していた日本の各企業に未払い賃金の請求が出された。
その請求額は4366万円に達し、朝連はかなりの金額を企業から徴収し、それらのほとんどは
強制連行者の手には渡らず朝連の活動資金に廻された」
(中略)
そして同書はこの莫大な金の行先について驚くべき指摘をしている。
「これらの豊富な資金は日本共産党再建資金としても使用された。1945年10月10日、
連合国最高司令官・米国太平洋陸軍司令官総司令部(GHQ)は府中刑務所に収容されていた徳田球一、
金天海ら16名の共産主義者などを釈放した。彼らを府中刑務所門前で出迎えたのは日本の各地から
トラックに分乗して集まってきた数百人の朝鮮人だった」 >99
北海道に17万の朝鮮人
1945年の11月1日と2日、金は札幌で3千人規模になる統一同盟の結成大会を開催しようとしていた。当初、GHQは協力的で、
金らの移動のためにパスポートを与え、軍の運転手付きジープや特別列車を用意し、地元の北海道新聞に同胞への告知を行う
便宜も図った。準備は万事順調に運んでいたが、突然、在北海道朝鮮人労働者の優先的計画輸送が打ち出された。
「我われの意図とは反対に、占領軍当局は当時二五〇万名もいる在日朝鮮人を本人たちの意志にしたがって故郷へ帰すことが、
占領地日本の治安上便利であったし、しかも北海道には石炭を掘るために十七万名もの朝鮮人がいたが、
占領後は、石炭一かけら掘るどころか争いばかりおこして厄介であったことから、積雪となれば輸送も困難となるので、
無料で在北海道朝鮮人労働者を優先的に計画輸送するように日本政府に命じたのであった。
今日まで働いた賃金は奇麗に支払ったうえ本人の故郷まで無料で優先的に返すという計画に従って、...
もっとも勇敢にわが朝鮮民族統一同盟のために、共に闘った人々も我々に断りもなく帰国してしまうのであった」
(金興坤「怒りの海峡―ある在日朝鮮人の戦後史」「季刊人間雑誌」草風館)...
産炭地は戦後の朝鮮人共産主義者と日本共産党の活動拠点だった。...
炭鉱では朝鮮人たちがさまざまな活動を繰り広げていた。...
「北海道では、金日成将軍指揮下の祖国光復会の工作員が、各炭鉱に潜入、解放直後直ちに全道的組織が結成され、
帰国船の要求や天皇制廃止の目標が出されている」...
だが、産炭地の朝鮮人労働者の多くは次々と帰国していった。1945年8月末までに10万2千人、9月末に6万7千人、10月末に
3万7千人、11月末に1万7千人、12月末には773人と、この年に22万4千人近くが帰国の途についたのである(「石炭労働年鑑」)。
炭鉱の賃金体系
この朝鮮人労働者たちが帰国する際、「未払い賃金」があり、それを補償しろというのが、近年、韓国が主張し始めた「徴用工問題」
である。この未払い賃金はどのように発生し、どう処理されたのか。実はここに朝連が大きく関わっていたのである。...
>100
問題が多かったこの常磐炭鉱でも、当時の朝鮮半島では大人気だったようで、磐城炭鉱株式会社が「慶尚南道の四つの郡で募集
をしたところ、五百名募集のところに十倍の応募があった」(同)とも記されている。...
高給取りだった炭鉱夫
それでは、ほかの炭鉱はどうだったか。
韓国映画「軍艦島」で「地獄島」として描かれた長崎県の端島について、朝鮮人坑夫は、こう語っている。「私共の仲間のうちには一年に千円位の貯金をする者はザラにあります」...
当時の巡査の初任給は45円だった。また会社の事務職は75円程度だ。常磐炭鉱を別にすれば、炭鉱では月収100円前後になるから、当時としては高給だったといえよう。...
炭鉱会社の給与台帳などを見ると、賃金は職能給がほとんどで、朝鮮人徴用工にも日本人徴用工にも、平等に支払われていた。...
支払い方法は、... 一団に朝鮮人の班長がいて、班の給料をまとめて受け取り、班長が各人に配布することが多かった。
この仕組みが、各地の炭鉱、金属鉱山でしばしば問題を生じさせている。...
田中章委員長は、戦前の名前を田中長求と言い、樺太人造石油株式会社内淵鉱業所へ朝鮮の大邱地区から働きに来た100名
の朝鮮人徴用工の一人だった。... 長求が賃金の一部を送っていないことが露見した。寮長が問い詰めると田中はあっさり白状して、
みなにボコボコに殴られたという。ちなみにこの人物、戦後に勤労奉仕を金銭で賠償しろと会社に迫り、朝鮮民族の英雄として再評価されている。...
こうした朝鮮人班長による着服が常態化していれば、「未払い賃金」の一因にはなったであろう。...
日本政府は、... 次のような方針を通達していた。
(略
未払い賃金はどこへ?
小遣い程度の現金を本人に手渡し、残りは本人名義の貯金を事業主が保管、帰国の際に金は必ず本人に渡す。しかも休業補償をするともある、かなり手厚い措置である。
しかしながら、戦後の混乱期である。... そうした「未払い賃金」は確かにある。
ではそれはそのままなおざりにされたのか。否、そうではなかった。未払い賃金は企業から公的機関などに供託されたのである。そして、その供託先のリストがあったのだ。
(抜粋)
>102
そして「附記」として、
「死亡者、行方不明者及び既帰国者に対する支払いは在日本朝鮮人聯盟中央総本部に委託し、各人の本籍地、遺家族又は本人に伝達することを一任すること」
とある。つまりは、後は全て朝連に任せろ、ということだ。
この雛形に基づき全国の支部が活動を繰り広げた結果、
「件数 三四〇件
関係人員数 四万三三一四名
解決金額 二六八七万六八四四円」
を回収したことも報告されている。これは労働省の「調査集計」とも田駿の著作とも一致しないが、当事者の記録であるから、
この時点の数字としては信頼に足るものであろう。ちなみに日銀の企業物価指数で現在の金額に換算すると、約800倍の215億円以上になる。
釜石製鉄所の対応
こうした朝連の回収作業を記す事業所側の資料がある。旧日本製鉄釜石製鉄所の業務部労務課長を務めていた林泰の回顧録である。
朝鮮人労務者の送還を担当していた林は当時をこう振り返る。
「戦時中に朝鮮人を徴用していて……その労務者と家族、この人たち八百人位いたんだけど、終戦と同時に、一夜にして戦勝国民
のように威張りだした。(略)その頃、所内は朝鮮人からの要望、対応に大変な騒ぎです。彼らは、朝鮮人連盟という組織を各県ごとに
結成して、岩手では盛岡に県支部があって、県庁内をわがもの顔にのし歩き、食糧事情が極端に悪いとき、白米はもちろんのこと
酒などの食糧をはじめ、ガソリンの特配を受けるなど、ずいぶん威張っていたんじゃないですか」(『林泰回顧談』私家版)
そこへ朝連盛岡支部の本部長、外交部長が訪ねてきて、こう要求したのだという。
「日本はわれわれが嫌がるのを徴用し、連行して強制労働をさせた。そのうち故国に帰ろうと逃亡した仲間がずいぶんいた筈だ。
この逃亡前まで働いた分の未払い賃金があるだろう。それを調査の上、われわれに全額払って貰いたい。さらに公傷者に関する
ことだが、指一本のケガに千円、腕一本一万円、死亡五万円。名前と補償金額を計算してわれわれに差出せ」(同)
金額は違うが、朝連の雛形に沿った要求である。そして彼らはこうも言ったという。
「いずれ、県本部は領事館になる筈であり、われわれがそれまでこの全額を受取り、保管する」(同)
>103
おびえて頼りにならない役人
林はこう回想する。
「製鉄所だけでなく、こういう要求を、彼らは県内のあちこちでやり出した。...
外交部長というのが、立派な腕章をつけており、額に向こう傷があって、その上、話すときには、持って来た手錠まで眼の前に
出してね、脅迫するわけですよ。凄かった。
『日本人は……われわれ朝鮮人を強制労働させたんだぞ』
このようにして、県内のあちこちで金を出させたそうで……ついに大橋の日鐵鉱山でも、当時の金で三十万円位出したのですよ。
だから、東北でもっとも大きな企業の釜鐵に金を出させなかったら『話にもならん』とそう思ってるわけです。
額?たしか百何十万円か……を要求したね」(同)
だが、林はそれを拒絶した。
「『日鐵は公傷者に対する慰労金は日本人も徴用労務者も、全部同一の規則、同一の規準で支払っている。朝鮮人なるがゆえに
差別して払っていたわけではないから、そういうことはできない』
若かったんだな、僕はそう言った。
だが、それでも彼らはあきらめずに毎月、一、二回は団体交渉にきた」(同)
林は県に相談するが、「役人はおびえていて頼りにならない」。「そこで、日鐵本社や労働省……いや当時はまだ内務省だったかな。
いろいろ相談の上、結局、裁判所に何十万円だったか供託したんだが、それが日本での供託金第一号だった」(同)
組織を潰すための策略
未払い賃金をめぐっては、朝連以外の組織も目をつけ、争奪戦が行われていた。北海道の朝鮮民族統一同盟(朝連の一組織)の
創立メンバーで、共産党でも活躍した金興坤が「怒りの海峡―ある在日朝鮮人の戦後史」(「季刊人間雑誌」草風館)に記している。
帰国する同胞を援護するという触れ込みで、「朝鮮建国準備委員会」という団体が北海道にやってきた。
彼らは、金から炭鉱の使用者や朝鮮人組織、そこで働いていた朝鮮人の情報などを聞き出した上で、
「夕張、美唄をはじめ歌志内、赤平など大小の鉱山を訪問した。が、同胞を訪ねるのではなく会社側の事務所を訪ねては、死亡者、
逃避者その他の労働賃金、傷病者手当金、保険金など、さまざまな名目で取れるだけ金を会社側から取り、
同時に旧協和会系幹部から多額の寄付金を集めていた」
>104
金はだまされたのである。その上、
「我同盟関係者の欠点を探し集め、統一同盟はアカだのギャングだのと司令部に密告したため、安先浩委員長はじめ、強制連行で
連れてこられた家族のいない幹部八名が強制送還されてしまった。一時期に八名もの幹部を失った我統一同盟は、
まったく手足をもがれたのと同様であった」(同)
金は、一連の動きは、組織を潰すための策略だったと考えている。
回収した賃金の行方
さて、朝連は回収した未払い賃金などのお金を、帰還していった労働者に届けたのだろうか。
朝連の集計だけでも4万3314名もいる。しかも社会は混乱し、その後、朝鮮半島は分断されてしまうから、容易なことではない。
当時のことを知る人々を訪ねて歩いたが、なかなか明解な回答はいただけなかった。その中で、
「帰郷した同胞にお金を返金しようにも居所がわからなかったので朝連に留保され、一部政治活動に運用したのであろう」
と、かつて在日本朝鮮人連盟支部と共産党支部を掛け持ちしていた人物が語った。
返還されたと考える朝連関係者も研究者もおらず、記録もない。それどころか田駿は『朝総連研究』でこうも書いているのだ。
「帰国者の不動産を管理するという名目でその権利書を引継ぎ委任され、これを処分して朝連財政に投入した。...
その額は巨額に達した」
公安調査庁の坪井豊吉も、帰国していった同胞の財産を朝連が管理処分したことについて法務研究報告書で触れている。
戦前から長年日本で暮らした朝鮮人は、多くの財産を日本に残したことだろう。それを管理し、資金としたのも朝連だった。
そして彼らの活動と一体化していた日本共産党をも支えたのである。
(抜粋)
>106
張錠壽は当時の様子をこう書いている。
「一九四五年から朝連大阪本部のなかに共産党のフラクションがあったが、... 四六年になって、朝連の各支部にまで
日本共産党の細胞が置かれるようになって、連絡体制が完全に確立され(中略)
この時期わたしは、共産党の細胞会議と朝連の会議と両方に出席していた」(張錠壽・同前)
日共はこの後、1946年8月の第4次拡大中央委員会で、いわゆる「8月方針」を決定、朝連の共産主義者に対し、
日共の日本人党員と一体となって活動するよう要請するのだ。...
(略
「朝鮮人の利益は、日本人、朝鮮人大同のもと」
これには相当な反発があったようである。だが朝連は、同年10月の第3回大会で8月方針に沿うよう宣言や規約、綱領などを改正。
一方、日共は1947年1月、党内に朝連フラクション中央指導部を設置し、朝鮮人部の指揮下に置いた。
そして3月に「朝鮮人間における活動方針」を決定する。
ここで日共は、朝鮮人党員最大の任務を、民族の解放のために反動勢力と闘うこととし、...
「朝連のみでは到底日本における朝鮮人の利益を正しく且つ徹底的には保障する事が出来ない」
「朝鮮人の利益は、日本人、朝鮮人大同のもとで、その支柱たる日本のプロレタリアートとその党たるわが党によって正しく保障され
擁護されるだろう」(同前)
と、記した。さらに、
「とくに来る選挙は、日本の平和革命を遂行する上において最大な意義を有するものである(中略)朝鮮の党員は勿論のこと、
朝鮮大衆をもこの選挙に対して積極的に協力、参加せしめるよう、大衆に働きかけなくてはならない」
それが奏功し、共産党は同年4月の参議院選挙、総選挙で、それぞれ4名ずつ当選を果たしている。
朝鮮民族への特別待遇を求めていた朝連
こうして力関係は逆転し、朝連は「日共の前衛的実力行動部隊」(同前)となっていったのである。...
もっとも朝連が一枚岩であったわけではない。そもそも共産主義を理解していないものも多く、彼らは革命ではなく民族解放を求め、
不明確だった日本における朝鮮民族への特別の待遇を求めていた。日共内部でも朝鮮人部長の金天海は8月方針に難色を示し、
副部長の金斗鎔は支持していたという。だから日共から離れていった者もいた。...
>107
GHQも手を焼くように
GHQは当初、... 一刻も早い本国引き揚げを推進し、組織的な帰還を行うため朝連の力を頼った。
しかし、戦争に負けた日本の法律には従わなくてもいいと考える彼らの乱暴狼藉に手を焼くようになる。
戦後すぐは怒濤の勢いで朝鮮半島に戻っていった朝鮮人だが、1946年になるとその数は減り始める。早期帰還を目指すGHQは
3月18日までに、朝鮮人に引き揚げ希望の有無を登録させ、登録しないものは引き揚げ特権を失うと発表した。
これに在日朝鮮人64万7006名のうち、51万4060名が登録した。GHQは日本政府に「4月15日から毎日4千名を帰国させ、
9月末に完了せよ」と命じ、さらに3月6日には帰還を希望しない朝鮮人に「日本国民と同様に取り扱いをする」と宣告した。
だが、4月から12月までの帰還者は8万2900名にとどまり、ひとたび帰還したものの、故国に見切りをつけ、再び渡航してくる
「旋回渡日」が後を絶たない。GHQは再入国者には許可が必要とし、商業航路の再開まで日本に戻ることを禁じたが、密航者は増え
続け、GHQ参謀第2部公安課によれば、九州の港で1日千人近くが検挙される日々が続いたという。...
GHQの対処に朝鮮人は強く反発
当時、朝連は1945年11月に組織した青年部を拡充し、東京を始め各地で自治隊(保安隊)を結成していた。
彼らは制服に腕章を巻いてあたかも警察のように振る舞い、時には傍若無人な暴力行為を振るって、日本人を恐れさせていた。
これに対し、GHQは1946年4月、「朝鮮人の不法行為に関する覚書」を出し、自治隊の解散を命じた。
これに朝鮮人は強く反発した。1946年11月、朝連は「朝鮮人生活権擁護委員会全国代表者会議」を発足させ、
在留朝鮮人の生活権についての闘争方針を定め、在日朝鮮人に「準連合国民」の法的地位を与えるようGHQに強く求めたのだ。
そして12月に全国大会が開かれた後、いわゆる「12月事件」が起きる。
「この中央人民大会は、いやがうえにも気勢があがった。そして、皇居前をうずめた約一万の大群衆は、やがてデモ隊となって
首相官邸におしかけ、正門を破かいして乱入し、警備警察官と一大乱闘を演じ、二四名に重軽傷を負わせた。この事件では、
一四名が逮捕され軍裁に廻付されたが、かれらはいずれも民族の英雄としてたたえられた」(坪井・同前)
>108
占領軍に暴行
GHQが朝連の規制に乗り出した背景には、国際情勢の変化もあった。...
その流れの中で、日本は「共産化の防波堤」と位置付けられていく。GHQも反共産主義的な政策が中心となり、その主導権も
リベラルな民政局から参謀第2部に移る。そして「2・1ゼネスト」への中止命令を出すのだ。この後、GHQは、260万人の全官公労働者
から団体交渉権とストライキ権を剥奪、共産党による組合支配を排除、やがてはレッドパージへと発展するのである。
一方、朝鮮半島では、1948年8月に李承晩を大統領とする大韓民国が、9月には金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国
(北朝鮮)が誕生した。朝連は、ソ連の影響下にあった北朝鮮を支持し、「共和国公民」として、日本において北朝鮮国旗を掲げるよう
になっていく。...
他にも宮城県や山口県でも同様の事件があり、逮捕しようとした占領軍に暴行を加えていた。これがGHQを強く刺激したのだ。
なぜ党史にないのか
1949年9月8日、GHQの意を受けた日本の法務府(のち法務省)は、朝連や在日本朝鮮民主青年同盟など4団体に解散を命じた。
「(朝連は)全国各地にわたってしばしば占領軍に対する反抗反対あるいは暴力主義的事犯をひき起しポツダム宣言を忠実に実践して
平和なる民主的国家を再建しつつあるわが国民生活の安全に対し重大なる脅威をつくり出してきた」(「朝日新聞」1949年9月9日)
その具体的な事例として、宮城県や山口県の国旗掲揚事件や12月事件、京都での警察官暴行事件、
福島県の平警察署襲撃占拠事件、千葉県の国鉄車掌室占拠事件などが挙げられている。
これにより朝連は4年の活動に終止符を打った。その財産は没収され、中央総本部議長の尹槿や韓徳銖、そして金天海を含む
19名が公職追放となるのである。
この時、朝連には莫大な財産が残っていた。
没収財産をめぐってその後に裁判が起きている。訴訟記録によれば、日本政府が、朝連および朝鮮民主青年同盟解散時に組織
から没収した財産は数千億円にのぼったという。ちなみに朝連側の弁護団は、金英敦、上村進、神道寛次、青柳盛雄、上田誠吉、
小沢茂、岡林辰雄、梨木作次郎など、多くが日共の弁護士だった。
>109
さて、日共はこうした朝連との関係について、党史に一行も触れていない。朝鮮近代史専門家の姜在彦は、
「当然日本共産党は在日朝鮮人運動にたいするその指導と、共に闘ってきた歴史にたいして総括する立場にあったと思います。
ところがそれがないばかりか、その歴史叙述の中で朝鮮人とかかわる部分を無視し、記録さえもしないのはどんなに考えてよいのか、
たいへん理解に苦しむ」...
と、疑問を投げかける。
日共の指揮の下、数々の暴力事件が
解散後の朝連関係者たちに少し触れておく。その一部は日本国内に祖国防衛隊を組織し、そこへ大韓民国居留民団系青年組織も
一部参加して「在日朝鮮民主戦線」(民戦)が結成され、北朝鮮革命勢力による民族統一を支援した。1950年に勃発した朝鮮戦争
では、米軍の兵站基地となった日本で、基地からの物資輸送を阻止するため、日共の指揮の下、数々の暴力事件を起こした。
日共は1950年、ソ連を中心とするコミンフォルムからの批判をきっかけに平和革命から暴力革命路線に舵を切っていた。
1951年2月の第4回全国協議会で「軍事方針」を決定し、10月の第5回全国協議会では「われわれは武装の準備と行動を開始しなけ
ればならない」と、日朝の暴力革命を目指した。
日本共産党との関係を清算
その後、1953年に朝鮮戦争が休戦となると、翌年に北朝鮮の南日外相が、在日朝鮮人を「共和国の在外公民」とする声明を発表
する。これにより朝鮮人共産主義者たちは、日本の内政に介入することができなくなり、日本共産党との関係を清算せざるを得なく
なった。ここで朝連の後継組織だった民戦は解散することになり、1955年、共和国の在外公民団体として「在日本朝鮮人総聯合会」
(総聯)が誕生する。その初代議長には、朝連の中核にいた韓徳銖が就いた。
この時、朝連と日共を掛け持ちして運動を繰り広げた金天海や金斗鎔は北朝鮮に渡っていた。
金斗鎔は1947年6月、金天海は1951年に渡北した。その動向はGHQが監視していた。...
北朝鮮の共産党とコミンフォルムのリエゾンをつくるためとされる。ただ、その後の彼らの行方は明らかでない。
再び彼らが歴史に名前を刻むことはなかったのである。(敬称略。了)
(抜粋)
0147革命的名無しさん2023/09/04(月) 21:43:05.18
0148革命的名無しさん2023/09/04(月) 22:31:30.71
日米韓首脳会談と共同演習の毎年開催・実施が決まって
南北統一の可能性が完全になくなったね