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詩文学
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0001名無しさん@お腹いっぱい。垢版2021/08/31(火) 18:15:47.81ID:Vq290yAX
アーケード
0003はひふへほ垢版2023/01/24(火) 17:06:13.28ID:bwo35FCf
万葉集 第10巻 2238番
天飛也 鴈之翅乃 覆羽之 何處漏香 霜之零異牟
天飛ぶや雁の翼の覆ひ羽のいづく漏りてか霜の降りけむ
あまとぶや かりのつばさの おほひばの いづくもりてか しものふりけむ
(出典 万葉集ナビ)
0004名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/24(火) 23:46:57.61ID:bwo35FCf
飛 鴈之翅乃 覆羽之 何處漏香 霜之零異牟
「飛(とぶ)」、「翅(つばさ)」、「覆羽(おほひば)」、「零(ふり)」
「と『ぶ』」、「つ『ば』さ」、「お『ほ』『ひ』『ば』」、「『ふ』り」

一連の「はひふへほ」の発音が想起させるイメージと「しも(霜)」の
「し」の発音が想起させるイメージの対比が強く意識されて詠まれて
いることが明らかであるように思はれる。
また、この場合、「翅(つ『ば』さ)」、「覆羽(おほひ『ば』)」の
表記に見られるとおり、「秩vという漢字は、「は」の発音を表す
ために用ひられている。ところが、万葉集の歌を検索してみると、
現代の日本語で「羽毛」が「『う』もう」と音読みされるのと同様に、
「秩vが「う」の発音を表すために用ひられている事例もあること
に気づくだろう。
0005名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/25(水) 00:07:18.79ID:FT509qvB
これはとても興味深いことであるように私には感じられる。というのも、
万葉仮名において、「秩vは、それでもやはり、圧倒的に多数の事例に
おいて「は」の発音を表すために用ひられながらも、Wiktionaryの記載
を参照してみると、中国語の中古音として想定される発音は、
"Middle Chinese: /ɦɨoX/, /ɦɨoH/"であり、これは、万葉仮名において
「う」の発音を表すためによく用ひられている「宇」という漢字の
中国語の中古音として想定される発音、"Middle Chinese: /ɦɨoX/"
と同じだからである。そして、この漢字としての「秩vと「宇」の
発音の共通性、もしくは、少なくとも近似性は、「(は)」が主と
して「はひふへほ」の系列に組み込まれ、「宇(う)」は、その
系列からは外れているという違いにもかかわらず、古代の日本語に
おいては、おそらく意識されていただろうと私には思はれるのである。
0006名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/25(水) 00:38:24.71ID:FT509qvB
例えば、万葉集ナビにおいて「宇都(うつ)」をキーワードにして検索して
みるといい。最初にヒットする用例は、現代の表記では「移ろふ」となる
「宇都呂布(うつろふ)」である。次の別の用例は、「宇都里由久(うつりゆく)」
であり、その後に「宇都世美(うつせみ)」がヒットし、これは、現代の
表記法では、言ふまでもなく、「現世(うつせ)身(み)」となるが、
万葉仮名では、「打(うつ)蝉(せみ)」という表記も見られる。
さらなる用例としてヒットするのが、「宇都良々々々(うつらうつら)」、
「宇都久之美(うつくしみ)」などである。

これらの「宇都(うつ)」を含め、「う(薄)す」、「う(失)せ」、
「う(浮)く」など、極めて多くの日本語の表現に用ひられる「う」の
発音が共通して想起させるイメージは、ちょうどドイツ語の»Haut«
(From Middle High German hūt)(出典 Wiktionary)に対応させる
ことができる「表層」だろうと私は考へている。

「う」の発音がそのようなイメージで用ひられているであろうことは、
例えば、「うたかた」という表現の用例を見ても確かめることができる。
>泡沫人(読み)うたかたびと
@ 水面に浮かぶあわのように、はかなく消えてゆく人。
はかなく死んでいく人。
※後撰(951‐953頃)恋一・五一五「思ひ河たえず流るる
水のあわのうたかた人にあはで消えめや〈伊勢〉」
(出典 精選版 日本国語大辞典)
0007名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/25(水) 09:37:04.16ID:FT509qvB
万葉集 第13巻 3336番
奥藻麻 枕所為 <蛾>葉之 衣<谷>不服尓 不知魚取 海之濱邊尓 浦裳無 所宿有人者
沖つ藻を 枕になし ひむし羽の 衣だに着ずに 鯨魚取り 海の浜辺に うらもなく 臥やせる人は
(出典 万葉集ナビ)

「<蛾>葉之 衣(ひむしのはのころも)」とは、はだぎ(肌着)のことだろうか。

万葉集 第20巻 4431番
佐左賀波乃 佐也久志毛用尓 奈々弁加流 去呂毛尓麻世流 古侶賀波太波毛
笹が葉のさやぐ霜夜に七重着る衣に増せる子ろが肌はも
ささがはの さやぐしもよに ななへかる ころもにませる ころがはだはも
(出典 同上)
0008しもやけ(霜焼)垢版2023/01/26(木) 07:53:12.63ID:jserDo5L
「おほ(覆)ふ」ように「は・だ(肌)」に「か(掛)かり(雁)」「は・だ(肌)」をくる(包)むのが「は(/葉)」の「ころも(衣)」である。
0010名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/26(木) 09:34:54.08ID:jserDo5L
何かに触れてどのようにか心が揺れる。
その心の揺れがどのようであるのか何らかの具現的な形象に仮託して
捉へようとする。その形象が、心の揺れがどのようであるのかを
まことにつた(伝)へるものとして、すなはち、仮託された
心のありようをうつ(映/移)すものとしてつか(使/仕)へるか
どうかをこころ(試)み/(心観)るのが「こゑ(声)」に出すことである。
0011名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/26(木) 10:13:05.14ID:jserDo5L
「こゑ(声)」に出すこと自体が具現的な形象に仮託することになり、
その形象には「こゑ(声)」を出す身体の具体性がともなふ。
0012名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/26(木) 10:29:45.26ID:jserDo5L
ニーチェもそのことにはっきりと気付いていたとおり、
「なにもしないことができる」ことは、「なにかをすることができる」
ことと同じくらいに大切である。というより、「なにかをすることができる」
ことの背景には必然的に「なにもしないことができる」ことがあり、前者は、
後者により暗黙に支えられている。ただ、しばしば、人がそのことを忘れて
いるだけである。「なにもしないことができる」ことが、いかに生きる
ための基本要件であるかは、二日間、完全に眠りを奪われただけで誰でも
すぐに気づかされることになるだろう。眠ることさえできない状態とは
まさしく、「なにもしないことすらできない」状態に置かれることである。
0013名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/26(木) 11:02:19.43ID:jserDo5L
ハインリヒ・マンの作品として"Der Untertan"という題名の小説があるそうだ。
"Untertan"という語をキーワードに検索したら、ヒットしただけなので、
私はこの作品も、それ以外のハインリヒ・マンの作品も読んでおらず、
この小説の内容についても、検索でヒットしたWikipediaの記載を少し見た
だけのことしか知らない。ただ、"der Untertan"は、一般的にその存在様態
からして、»sich 〜 unterordnen«/「(〜の)言うことに従う」ことに
よって評価されてその立場を確保しているので、みづから(身づ柄/自ら)を
"der Untertan"であると認識して、みづから(身づ柄/自ら)の振舞ひに
よって評価されて確かめられる地位を大切にしている限り、人(ひと)が
自分に向ける言葉はすべてその関係性においてのみその価値を評価する
ことになる。したがって、人(ひと)が自分に向ける言葉が、
みづから(身づ柄/自ら)が»sich 〜 unterordnen«/「(〜の)言うこと
に従う」ことによって評価されることの妨げとなるなら、その言葉
が「まこと」であるかどうかはどうでもよく、むしろ、そのような
何の価値もない言葉を向けられることを、せいぜい、「嫌がらせ」と
見なすか、»sich 〜 unterordnen«/「(〜の)言うことに従う」
関係性において、より低い地位にいるものとして扱おうとする侮辱
と見なすのである。
0014名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/26(木) 12:06:44.28ID:jserDo5L
英語の"truth"という言葉について、もともとは、日本語の「まこと」に
対応させることができるような表現として用ひられ、"truth"と対比される
"false"は、「いつはり」に対応させることができると指摘した。
それに関連して、真理条件的意味論 (Truth-conditional semantics)
の代表例に用いられる
>'snow is white' is true if and only if snow is white.
を引用して示した。ここで、「真理条件」とはどのようなものかを考へて
みるといい。例えば、私に画面上で"c"という記号が表示され、それに
対して私が次にように発言したとしよう。
>「その記号は右に開いている」
実際、"c"は記号として右に開いているのだから、私の発言は、
"true"/「まこと」 なのだろうか。
0015名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/26(木) 12:27:22.54ID:jserDo5L
画面上に"c"が表示されて、私が「その記号は右に開いている」
と発言した場合、"c"が記号として実際に右に開いていることが
確かめられるという事実だけでは、私の発言が"true"/「まこと」
であることにはならない。これは、視力検査の場合を考へてみれば
すぐに分かることである。

画面上に"c"が表示されて、私が「その記号は右に開いている」
と発言したところで、私にその記号のどちら側が開いているのか
実際に見えていなければ、その発言が「事実として当たっている」
ことが確認できたとしても、私の発言は、「まこと」ではなく、
「でたらめ」であり、「でたらめ」の発言が偶々、
「事実として当たっている」だけであり、記号がどちらに開いて
いるのか分からないことに私が自分でも気づいているのに
そのことを認める代わりにその発言をしたなら、その発言が
偶々、「事実として当たっている」としても、私の発言は
「いつはり」/"false"であることになる。発言される言葉が
「まこと」/"true"であるというのは、事実がどのようであるか
気づいているとおりに伝へているという誓約であり、
誓約したところで、事実がどのようであるかについて、
その気づきに誤りがないという保証にはならない。誤って
いたとすれば、誓約により責任が生じることになるという
だけのことだ。
0016名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/26(木) 13:39:03.57ID:jserDo5L
ひるがえって、「乳呑児がみどり児である」ことが「まこと」である
ためには、乳呑がみどりであるとはどのようなことであるのかに
気づいている必要がある。単に、「乳呑児」と「みどり児」は
互換的に言い換えが可能でると暗記しているだけでは、視力検査票
の1.0の列の記号の並びを暗記していて、それらの記号が実際に
自分にどのように見えているかにかかわらず、「言い当てる」こと
ができるのと変わらない。ましてや、「たまのを」を、「枕詞」
と定義される「たまの緒(お)」として暗記して、その表現が
分かったような気になっているのは、「でたらめ」であるだけ
でなく、「いつはり」であり、「いつはり」を他人に「まこと」
として「をし(教)へ」ながら、ただ(正)しい日本語の表現の解釈
を指導することなどできるはずもないのである。

>«Die Kunst gibt nicht das Sichtbare wieder, sondern macht sichtbar»
Paul Klee
0017名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/26(木) 23:41:36.37ID:jserDo5L
現代の日本語に「痛い人」という表現があるが、「痛い人」という言葉に
私がまず想起するのは、ゴットホルト・エフライム・レッシングだ。
特に"Fable"に少し目を通しただけでもそれを感じる。ただし、
この場合、私は、「痛い人」という言葉を、現代の日本語において
通用している、人の振舞いの否定的な評価として想起しているのではない。
心から「いた(悼/傷/痛)む」ことをよく知っている人が「痛い人」である。
0018名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/26(木) 23:43:37.99ID:jserDo5L
誤:"Fable" 正:"Fabeln"

なにげなく題名を英語に変えてしまった。
これは単純に「イタい」誤記である。
0020名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/27(金) 00:00:54.91ID:HUWD1sDl
一般に悲劇において「悼む人」の代表とされるのがソポクレースの悲劇、
『アンティゴネー』でその題名ともなっている中心人物のアンティゴネー
だろうが、私はそこに描かれるアンティゴネーには、「心から
いた(悼/傷/痛)む人」を感じない。
0021名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/28(土) 11:19:44.26ID:8lDDoORj
万葉仮名において「秩vが圧倒的に多くの事例において「は」の発音
を表すために用ひられながらも、中国語の中古音として想定される
発音は、「羽毛(うもう)」の「う」という漢字としての音読みに
対応するように"Middle Chinese: /ɦɨoX/, /ɦɨoH/"であり、これが、
万葉仮名において「う」の発音を表すためによく用ひられている
「宇」という漢字の中国語の中古音として想定される発音、
"Middle Chinese: /ɦɨoX/"とほぼ同じであると考えられることを
上に指摘した。日本語において、「う」と「は」の発音が互いに
関連するように用ひられていることは、他の多くの表現においても
見ることができる。例えば、「薄(うす)」と読まれる場合は、
「う」の発音であるが、「薄」の漢字が音読みされる場合には、
「はく」である。「初雪」という表現では、「初」は「はつ」と
読まれるが、「初々しい」という表現では、「うひ」と読まれる。
古語には、「はだらに」という表現があるが、これは、現代の
日本語では「うっすらと」に対応するものと考へらえている。
0022名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/28(土) 11:23:02.67ID:MJ0dKKD0
万葉集 第20巻 4478番
佐保河波尓 許保里和多礼流 宇須良婢乃 宇須伎許己呂乎 和我於毛波奈久尓
佐保川に凍りわたれる薄ら氷の薄き心を我が思はなくに
さほがはに こほりわたれる うすらびの うすきこころを わがおもはなくに

万葉集 第10巻 2337番
小竹葉尓 薄太礼零覆 消名羽鴨 将忘云者 益所念
笹の葉にはだれ降り覆ひ消なばかも忘れむと言へばまして思ほゆ
ささのはに はだれふりおほひ けなばかも わすれむといへば ましておもほゆ

万葉集 第20巻 4443番
比佐可多<能> 安米波布里之久 奈弖之故我 伊夜波都波奈尓 故非之伎和我勢
ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背
ひさかたの あめはふりしく なでしこが いやはつはなに こひしきわがせ
(出典 万葉集ナビ)
0023名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/28(土) 11:34:12.02ID:MJ0dKKD0
このように見てくると、「はだ(肌)」は、「表層に接触する」様態を
想起させ、「はつ(初)」は、「表層につく」様態を想起させる表現で
あるように思へる。だからこそ、「はつゆき(初雪)」は、単に
「うっすらと」積もるだけでなく、薄い層として何層にも積み重なる
ものとしてイメージされるのではないだろうか。

万葉集 第10巻 2318番
夜乎寒三 朝戸乎開 出見者 庭毛薄太良尓 三雪落有 [一云 庭裳保杼呂尓 雪曽零而有]
夜を寒み朝門を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり [一云 庭もほどろに 雪ぞ降りたる]
よをさむみ あさとをひらき いでみれば にはもはだらに みゆきふりたり [にはもほどろに ゆきぞふりたる]

万葉集 第20巻 4475番
波都由伎波 知敝尓布里之家 故非之久能 於保加流和礼波 美都々之努波牟
初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ
はつゆきは ちへにふりしけ こひしくの おほかるわれは みつつしのはむ
0024名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/28(土) 11:37:21.62ID:MJ0dKKD0
万葉集 第14巻 3537番(異伝歌1)
宇麻勢胡之 牟伎波武古麻能 波都々々尓 仁必波太布礼思 古呂之可奈思母
馬柵越し麦食む駒のはつはつに新肌触れし子ろし愛しも
うませごし むぎはむこまの はつはつに にひはだふれし ころしかなしも
(出典 万葉集ナビ)
0025名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/28(土) 13:31:38.15ID:MJ0dKKD0
>>16に引用したパウル・クレーの言葉は、私自身がクレーの著書を
読んで拾ってきたものではなく、先日、図書館で借りた矢羽々祟著、
『読んで味わうドイツ語文法』という本に引用されているのを使は
せてもらうことにしたものだ。

>>11において私は、
>「こゑ(声)」に出すこと自体が具現的な形象に仮託することになり、
その形象には「こゑ(声)」を出す身体の具体性がともなふ<
と指摘したが、同書には、このことを例証するのにとても好都合な
具体例も記載されている。それは、以下に引用させてもらう
ドイツ語の言葉遊びである。

>Es lagen zwei zischende Schlangen zwischen zwei spitzen
Steinen und zischten dazwischen.
2匹のシュシュと音を出すヘビが2つの尖った石の間にいて、
その間でシュシュと音を出していた< 同書、p.250

これが言葉遊びとして面白いと感じられるのは、言葉の発音が
これらの言葉によって表現されるイメージを如実に想起させる
からだろう。また、これをドイツ語の発音どおりに発音してみれば、
表現に用ひられている発音とそれによって想起されるイメージの
関係が、日本語の場合の発音とイメージの関係にもとても近い
ことに気づくはずである。ここで、そのような類似性が感じられる
のは、この言葉遊びでは擬音語/擬態語が多用されているから
に過ぎないと結論づけるのは考へが浅い。無論、形象として
利用される声(こゑ)に仮託される様態は、必然的にあらかじめ
定まったものではない。しかし、そのことは、それでも、
「どのようであるか」をその効果において如実に伝へることに
なる声(こゑ)が、「どのようであるか」を仮託する形象として
好んで用ひられることになるのを否定するものではない。
すると、実のところ、そもそも、いずれの言葉が「擬音語/擬態語」
に由来し、いずれの言葉がそうではないかという区別は、
本来的に無効なのである。逆に、「どのようであるか」を如実
に伝へる効果が感じられなくなった言葉が、「擬音語/擬態語」
としては認識されなくなり、「そういうものとして通用する」
規約として扱われるようになるのである。
0026名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/28(土) 14:12:47.46ID:MJ0dKKD0
私は、学問制度としての「哲学」の「哲学史」にはほとんどまったく
関心がないが、それでもわずかながら「哲学史」について書かれた
本も読んだことがあるので、スピノザがシェリングやヘーゲルといった
ドイツの代表的な哲学者に多大な影響を及ぼしたことは知っている。
哲学に興味がないと明言したゲーテさえ、自分とは対照的な素質
の持主であるとしながらも、スピノザの哲学には深く感銘を受けた
としている。私は、ラテン語が読めないので、昔、スピノザの
『エチカ』の日本語訳に目を通してみたが、そのときには、
「これでは熱心に読んでもよく分からないだろう」と思った
だけではなく、分かる限りにおいて、「これは私の肌には
まったく合わない」と感じられた。

今、スピノザの全集が新訳で刊行されはじめているとの
ことで、これは、別にスピノザのファンではない私に
とっても歓迎すべきことで、目を通したことがない
スピノザの著作に触れれば、読まず嫌いのままになって
いる私のスピノザの印象も変わる可能性があるだろう
から、この全集が大いに売れて、地元の自治体の図書館
でも購入されることを期待している。ただ、今のところ、
近年になって出版された分厚いスピノザの哲学の詳細な
研究書に概観的に目をとおしてみて、いかにスピノザが
誤解されているかという話を少し読んでみても、やはり
私の昔からの印象はほとんど変わらない。それは、
スピノザは、観念を操作することに専念している人
であって、感性を微細に働かせて、経験を如実に捉へ
て表現しようとする人ではないというものだ。例えば、
光学レンズを磨くことで生計を立てていたといわれるが、
その経験は、光学の効果を日々確かめる経験は、
スピノザの思索にどれだけ如実に反映されているだろうか。
0027名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/28(土) 14:26:49.95ID:MJ0dKKD0
>PROPOSITIO 3
Affectus, qui passio est, desinit esse passio,
simulatque ejus claram, & distinctam formamus ideam.

PROPOSITION 3
Un affect qui est une passion, cesse d’être une passion,
sitôt que nous en formons une idée claire et distincte.<
(出典 u-picardie.fr/ethique/partie5.php)

私の曲解かもしれないが、このような命題とその証明を読むだけでも、
例えば、"Affectus, qui passio est"を、より具体的に、苦悩を
もたらす混乱した「カコフォニー」/"cacophony"であるとした
場合、スピノザが説いているのは、その「カコフォニー」/"cacophony"
を、身体に対する混乱した音の悪影響として捉えて、その混乱した音を、
構成要素としての混じり合っていない単純な波長にまで分解してしまう
なら、それが苦悩を生じさせることはなくなる、というようなこと
であると感じられる。このような「曲解」であるかもしれない私の
理解に基づくなら、スピノザが説いていることは、その「思想」が
どうであれ、その実践においては、感性の働きを麻痺させることにしか
つながらないだろう、と私には思へる。
0028名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/28(土) 14:56:11.72ID:MJ0dKKD0
同じ喩えを用ひるなら、苦悩をもたらす混乱した「カコフォニー」/
"cacophony"に、人々が自分勝手にてんでばらばらに奏でる楽器の音を
聴き取るのがレッシングだろう。私には音楽の素養も資質も完全に欠如
しているが、レッシングは、オーケストラのために作曲する音楽家、
またはオーケストラを編成して指揮しようとする指揮者が、各自の
奏でる楽器の調べをうまく組み合わせて、全体として調和するように
「シンフォニー」/"symphony"を構成することを「予定調和的な理想」
として目指しているように私には感じられる。ただ、レッシングは、
脚本家であるため、混乱した「カコフォニー」/"cacophony"から
調和を導き出そうとするとき、レッシングが専ら関心を向けている
のは、既に背景をもつことが前提とされている人々のそれぞれの
心のうごきの相互関係であり、音楽家が、楽器や音声以外の背景の
雑音を排除したコンサート・ホールで演奏することを前提とする
ように、背景まで徹底して探求して、知ろうとすることへの関心が
感じられない。
0029名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/28(土) 19:42:55.50ID:MJ0dKKD0
>>25
このように長々と説明してもまだ、最も大切なことがきちんと伝はっている
のかどうかよく分からないので、言ひ方を変へて繰り返そう。

言葉を話すとき、"ordinary speech"がまずあって、それを意図的に
ひねって工夫を凝らした表現技法として"figure of speech"があるの
ではない。そうではなく、声(こゑ)に出して発話する行為自体が、
発せられる声(こゑ)に仮託して、どのようであるかを伝へようと
こころみる"figure of speech"なのだ。
0030名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/29(日) 10:51:05.36ID:61v6fetN
Online Etymology Dictionaryで英語の"hiss"という表現を検索して
みると、次のとおり記載されている。
>late 14c., of imitative origin. Compare Danish hysse,
German zischen, etc. Johnson wrote, "it is remarkable, that
this word cannot be pronounced without making the noise
which it signifies." <
(出典 etymonline.com/search?q=hiss)

ところで、日本語には、「敵もさるもの引っ搔くもの」という
言い回しがあるが、「さる(猿)」は、「引っ搔く」から「さる」と
呼ばれるのだろうか。
0031名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/29(日) 11:35:12.94ID:61v6fetN
岩波古語辞典で「さる【猿】」の項目を参照すると、
>B湯女(ゆな)の異名。風呂屋女。「[湯女(ゆな)]の異名を
『さる【猿】』と言ふ事は、諸人[ノ]垢(あか)を掻く故なりとかや」
(仮・都風俗鑑、四)<
とある。

ここで、「掻」をWiktionaryで検索してみると、その元となった
漢字として「搔」があり、この漢字の中国語の中古音として想定
されている発音は、"Middle Chinese: /sɑu/"であり、その語源を
「爪」の発音に関係づける想定もされているようだが、「爪」の
想定される中古音は、"Middle Chinese: /t͡ʃˠauX/"である。
さらに、引っ搔かれたなら「擦傷(さっしょう)」が生じることが
連想されるので、「擦」で検索してみると、この漢字の発音を
表す部分である「察」の想定される中古音は、
"Middle Chinese: /t͡ʃʰˠat̚/"である。

万葉集で「猿」が表記に用ひられている歌では、「猿」は、一般に
「さる」の発音ではなく、「まし」という発音を表記するために
使はれているが、次の歌では、例外的に「さる」と読まれるものと
され、そのように読むことは、この歌のそれ以外の言葉との関連
からも妥当だろうと思へる。

万葉集 第3巻 344番
痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎熟見<者> 猿二鴨似
あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
あなみにく さかしらをすと さけのまぬ ひとをよくみば さるにかもにむ
(出典 万葉集ナビ)
0032名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/29(日) 11:49:30.81ID:61v6fetN
さて、>>30で英語の"hiss"という表現について、
>Johnson wrote, "it is remarkable, that this word cannot be
pronounced without making the noise which it signifies."
という言葉を引用したが、英語には"hiss"の他にも多くの
「擬音語」/「擬態語」に分類される表現が存在するだろう。
なぜ、"hiss"の発音がその発音が表現して伝へようとすること
と合致していることが、特に"remarkable"/「おも・『しろ』し」/
「いと・『しろ』し」と感じられたのだろうか。

日本語の場合、かつては「猿」を表現するために用ひられた「さる」
という発音が、「引っ搔く」作用を如実に想起させたことは間違ひ
ないだろうと私には思へる。では、「さる(猿)」が「引っ搔くもの」
を表現していたとすると、「さる(猿)」は、「擬音語」/「擬態語」
なのか。そうであると考へるか否かは、「さる」の発音を用ひる
ことが、「引っ搔く」作用をじか(直)に想起させるような効果を
発揮していると感じられるか否かに依存するだろう。
0033名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/29(日) 13:33:01.37ID:61v6fetN
湯女(ゆな)の異名として風呂屋女を「さる」と呼ぶこと、これは
差別だろうか。「さる」が「諸人[ノ]垢(あか)を掻く」行為と
実際に結びついていて、そう呼ばれたのなら、「引っ搔く者」
を指す言葉として用ひられたと考へられ、実際、それをメタ言語
的に説明する必要性が生じていることから見れば、
「湯女(ゆな)」は獣(けもの)としての「猿(さる)」に「ひと(等)」
しいというような発想ではなかったのだろうと思ふ。ただ、
それでも、「引っ搔く者」として「猿(さる)」のようである
ということであれば、やはり、「湯女(ゆな)」を「さる」と
呼ぶことに、見下すような差別意識が働いていたと考へるのが
自然だろう。
0034名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/29(日) 13:55:59.30ID:61v6fetN
欧米では、人(ひと)を獣(けもの)としての「猿(さる)」呼ばわりする
ことが人種差別の代表的な行為であるとされる。では、人(ひと)を
「さへづ(囀)る者」と呼ぶことは、差別だろうか。"Twitter"という
名称は、「さへづ(囀)る」ことを意味する英語の動詞、"to twitter"
に由来するが、今では、"Twitterer"/「ツイッタラー」という表現
も流通しており、"Twitterer"をCambridge Dictionaryで検索すると、
次にように説明される。

>a person who publishes short remarks or pieces of information
on the social media service Twitter<
(出典 dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/twitterer)

この説明では、Twitter社のソーシャルメディア・サービスで自らの
発言を発信する人が"twitterer"と呼ばれるとされることになるが、
そもそも英語の"to twitter"という動詞そのものが「さへづ(囀)る」
行為を意味しているわけだから、人を"Twitterer"/「ツイッタラー」
と呼ぶことがただちに「さへづ(囀)る者」を想起させることにも
なることは避けられないだろう。ところで、日本語の古語では、
人が話していることが「さへづ(囀)る」と表現される場合、
そこには、「(小鳥が)さへづ(囀)る」のと同様に「人(ひと)の言葉
としては認識されない話し方で何やらしゃべっている」という
差別意識が明白に働いている。
0035Ich bin dein Labyrinth...垢版2023/01/29(日) 14:13:32.55ID:61v6fetN
逆説的に聞こえるかもしれないが、差別の根源は、
「ひとをひととしてあつか(扱)ふ」ことにあり、このことには疑ひの余地がない。
「ひとをひととしてあつか(扱)ふ」とは、「ヒトをヒトとして扱ふ」
ことを含め、「『ひと(等)しいもの』を『ひと(等)しいもの』として扱ふ」/
"To treat what is equal as being equal"であり、裏を返せば、
「ひとでないものは、ひととしてあつか(扱)はない」こと、つまり、
「『ひと(等)しくないもの』は、差別するように扱ふ」/
"To treat what is not equal as being different"という「差別化」/
"differentiation/discrimination"であることになる。
0036名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/29(日) 14:53:31.31ID:61v6fetN
>欧米では、人(ひと)を獣(けもの)としての「猿(さる)」呼ばわりする
ことが人種差別の代表的な行為であるとされる。<

これも逆説的に聞こえるかもしれないが、人種差別をなくすことを
訴え、働きかけつづける、良心的であるとされる欧米のメディア、
政治家、知識層に属するとされる人々は、理想としてすら、
「ひとがひととしてあつか(扱)はれる」ようになる世界の実現
などまったく目指してはいない。人(ひと)がそのような理想が
掲げられているものと思ひ違ひをしたとすれば、それは、
人(ひと)が誰でも、理想的な世界が実現されたなら「自分も人(ひと)
として人(ひと)らしく配慮されて扱はれるはずだ」と都合よく考へて
しまうことに基づく錯覚である。では、そのような良心的な人々が
実際に「理想としてその実現を追求している」のはどのような
世界かと言えば、それは、「すべての人(ひと)を『猿(さる)』/ "ape"
の個体または個体の集団としてうまく扱ふことができる世界」
である。無論、この場合、「猿(さる)」/ "ape"というのは、
科学的な知見に基づくとされる「類人猿としてのヒト」のこと
である。これも、大学の研究機関を含む「知的活動」として
長年にわたってどのようなことが推進されてきたのか、どの
ようなことが徹底的に妨害されてきたのかを自らの体験として
経験し、観察してきたなら、まったく疑いの余地がない。
「人(ひと)」は、科学的な事実として「類人猿としてのヒト」
であるのだから、その前提に基づいて物事を考へようとしない
者は、生物学における「進化論」を否定する非科学的な信念に
囚われた何か異常のある/矯正されるべき「猿(さる)」/ "ape"の個体
であるものとして扱はれることになる。
0037Ich bin dein Labyrinth...垢版2023/01/29(日) 15:40:36.95ID:61v6fetN
各自に「ひとがひととしてあつか(扱)はれる」ようになる世界の実現
が理想として追求されているかのような錯覚を抱かせつづけながら、
「すべての人(ひと)を『猿(さる)』/ "ape"の個体または個体の集団
としてうまく扱ふことができる世界」の実現を目指す仕組み作りに
各自に自主的かつ献身的に貢献させる、これが統治の課題である。
0038名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/29(日) 16:09:43.92ID:61v6fetN
その秩序が実効力の行使によるものとされるのであれ、宗教的な権威に
よるものとされるのであれ、科学的な知見の権威によるものとされる
のであれ、あるいは単に年功序列によるのであれ、人(ひと)が
みづから(身づ柄/自ら)をその秩序における「配下」/»Untertan«
としての立場を自覚するようになるにつれ、「人(ひと)が人(ひと)に
向ける言葉」として発する言葉は通用しなくなる。なぜなら、
人(ひと)は、みづから(身づ柄/自ら)に向けられる声(こゑ)を、
まずなによりも「を(治)す」ことをこころみる声(こゑ)と認識
するようになるからだ。それがただ単に着衣の「ボタンが1つ
外れている」ことに気づかせる声(こゑ)であったとしても、
その声(こゑ)が、秩序における上側からの声(こゑ)であったなら、
それは正すべき落ち度に気づかせるものと認識され、
秩序における下側からの声(こゑ)であったなら、不遜な
からかいの声(こゑ)に聞こえることになるだろう。
0039名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/30(月) 09:54:53.00ID:MzIsZ+ez
誤:「引っ搔く」作用をじか(直)に想起させる
正:「引っ搔く」作用をぢか(直)に想起させる

私も少し気を抜くと、大切なところもすぐに"ordinary spelling"で
表記してしまうが、「ぢか(直)に」は、「直」が「ちょく」と
読まれることからも明らかなとおり、本来、「ぢか(直)に」と
表記されるはずの言葉である。「直」の中国語としての想定される
中古音は、"Middle Chinese: /ɖɨk̚/"である(Wiktionary参照)。
ここで、"figurative"と"ordinary"の関係を考へてみるといい。
「じかに」と「ぢかに」は、いずれの表記が用ひられても、
読まれるときには同じように発音されるが、どちらの表記が
"figurative"に感じられるかと言へば、「ぢかに」の方だろう。
しかし、この表記は、「普通の表記」にわざわざ手を加えて工夫を
凝らしたものではない。例えば、「地」は「ち」なのだから、
「地面」を「ぢめん」ではなく、「じめん」と表記する
「普通の表記」の方が不自然な矯正を強ひるものであるように、
"figurative"に感じられる表記の方が先で、「普通の表記」は、
直立不動の姿勢をとることを強ひる「気をつけ」の号令の
ように「恣意的な矯正」として使はれている。
0040名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/30(月) 13:51:03.57ID:MzIsZ+ez
類人猿としてのヒトに倫理や道徳があるとすれば、鯨偶蹄目イノシシ科の
イノシシにでも倫理や道徳があるはずだろう。生物種としてのヒトの
倫理や道徳というのは、とても奇妙な考え方であり、科学的であること
を権威の裏付けとする生物学の考え方とは相容れない。ところが、
「類人猿としてのヒト」には倫理も道徳もないとするのは、
「すべての人(ひと)を『猿(さる)』/ "ape"の個体または個体の
集団としてうまく扱ふことができる世界」 の実現を目指すためには
とても都合が悪い。そこで考え出されたのが、動物倫理、環境倫理、
生命倫理などのきわめて曖昧な観念であり、環境倫理や生命倫理
においては、倫理や道徳は、「類人猿としてのヒト」を動物として
扱ふ動物倫理となる。
0041名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/30(月) 14:00:12.45ID:MzIsZ+ez
他の動物と対比される「特別な生物種としての人類」のものとして
唱えられるそのような倫理や道徳の奇妙さに気づいて、それを
根本的に批判したのがニーチェであると考へられているが、
実は、ニーチェの倫理や道徳の批判は、かなり中途半端である。
しかし、ニーチェの倫理や道徳の批判に基づくとされるその後の
議論というのは、現在に至るまで、批判な思考を徹底して進める
どころか、さらに大幅に後退して、後退させたままに押しとどめている。
0042動物倫理垢版2023/01/30(月) 14:10:02.17ID:MzIsZ+ez
>わ(侘)びしらにまし(猿)らな鳴きそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ
古今集 雑体・凡河内躬恒
0043名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/31(火) 08:24:46.93ID:0hg17iBr
万葉集 第9巻 1785番
人跡成 事者難乎 和久良婆尓 成吾身者死毛生毛 <公>之随意常 念乍
有之間尓 虚蝉乃 代人有者 大王之 御命恐美 天離 夷治尓登
朝鳥之 朝立為管 群鳥之 群立行者 留居而 吾者将戀奈 不見久有者

人となる ことはかたきを わくらばに なれる我が身は 死にも生きも 君がまにまと 思ひつつ
ありし間に うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 天離る 鄙治めにと
朝鳥の 朝立ちしつつ 群鳥の 群立ち行かば 留まり居て 我れは恋ひむな 見ず久ならば
(出典 万葉集ナビ)
0044Ich bin dein Labyrinth...(oneself as an ape)垢版2023/01/31(火) 08:39:17.72ID:0hg17iBr
>ひと(人)は誰しも『ひと(人)/ヒト』となりて生まれしからには、
みづから(身づ柄/自ら)を含むすべての『ひと(人)/ヒト』の個体
および集団に対して『類人猿としてのヒトに対する動物倫理』に
則って振る舞ふべきである。<

明示的にであれ、暗黙にであれ、このような形式で主張される
「類人猿としてのヒトに対する動物倫理」を、ひと(人)が誰でも
「己/汝」の規範とすべきであるとする考へ方の根本的な奇妙さに
気づかないようなひと(人)は、理性と知性と感性が三重に麻痺して
いるのではないかと私には思へる。
0045名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/01/31(火) 10:36:06.65ID:0hg17iBr
>Fab. 9. Libr. IV
Peras imposuit Jupiter nobis duas,
Propriis repletam vitiis post tergum dedit,
Alienis ante pectus suspendit gravem.

Jupiter hat uns diese zwei Säcke aufgelegt? Er ist also selbst Schuld,
daß wir unsere eigene Fehler nicht sehen und nur scharfsichtige Tadler
der Fehler unsers Nächsten sind? Wieviel fehlt dieser Ungereimtheit
zu einer förmlichen Gotteslästerung? Die bessern Griechen lassen
durchgängig den Jupiter hier aus dem Spiele; sie sagen schlechtweg:
Ανθρωπος δυο πηρας εκαστος φερει; oder: δυο πηρας εξημμεθα του
τραχηλου usw.
(出典 projekt-gutenberg.org/lessing/abfabel/abfab401.html)
0046悟りの境地垢版2023/02/01(水) 08:12:14.77ID:msIgNHh4
Being yourself is always a good enough compensation.
0047名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/01(水) 09:13:14.53ID:msIgNHh4
みづから(身づ柄/自ら)に実質と呼べるようなものがあるとすれば、
その実質は、つねにすでに「かげ」である。
0048名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/01(水) 09:50:03.37ID:msIgNHh4
日本語の古語において「かげ」は、英語の"shade"や"shadow"とは異なり、
鏡に映った姿のような像を意味するようにも用ひられるので、現代の
日本語の「影(かげ)」の用法を当たり前のものと思っていると、一瞬、
戸惑ふが、その像が"shade"や"shadow"のように暗いものであれ、
光が投射されたように明るいものであれ、"a projected image"に
対応するように用ひられることが多い。

ただし、日本語の「かげ」という表現そのものの解釈はさらに簡単で、
「かかる/かける」作用により「かかるもの」が「かげ」である。
したがって、「かかる/かける」のが恩恵であれ、迷惑であれ、
「〜のお『かげ』で」と表現される。また、「人の『かげ(陰)』に
隠れて〜する」や「建物の『かげ(陰)』になって(見えない)」など
の表現を見ても、このことを容易に確認することができる。
「こかげ(木陰)」の「かげ(陰)」は、英語の"shade"に対応している
ように見えるが、この場合もやはり、樹木の枝葉が「かさ(傘)」の
ように「かかる」作用により「かかるもの」として「かげ(陰)」と
なっている。このため、日本語で哲学するのにも「かげ」を
"a shadow image"のようなものと思ひなしてしまうと、最初から
無用な複雑さを導入することになる。日本語の表現は、それが
ピジン言語的な使用に形成されたことにより徹底的に
プラグマティックに磨かれているので、そのことが既に可能に
している表現の簡明さをやすやすと手放してしまうと、恣意的で
無駄に限定の多い定義に頼って考へを余計に混乱させることになる。
0049名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/01(水) 15:06:42.10ID:msIgNHh4
>「普通の表記」の方が不自然な矯正を強ひるものであるように、
"figurative"に感じられる表記の方が先で、「普通の表記」は、
直立不動の姿勢をとることを強ひる「気をつけ」の号令の
ように「恣意的な矯正」として使はれている。<

ところで、「気をつけ」という号令は、何に気をつけるように指示して
いるのかと言へば、無論、それは、「自らの姿勢に気をつけるように」
ということだろう。では、「自らの姿勢に気をつけるように」とは、
どのような指示なのか。

>„Herr Hauptmann, bitte —“ Welche Katastrophe! Er hatte in seiner
Ahnungslosigkeit vorwitzig das Wort an eine Macht gerichtet,
von der man stumm und auf den Knien des Geistes Befehle
entgegenzunehmen hatte! Der man sich nur „vorführen“ lassen
konnte! Der Hauptmann donnerte, daß die Unteroffiziere
zusammenliefen, mit Mienen, in denen das Entsetzen vor
einer Lästerung stand.<
(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/56-57)
0051月と鼈(スッポン)垢版2023/02/03(金) 00:24:43.09ID:Y6rC/aD5
月影とスポットライト

>つき−かげ 【月影】
名詞
@月光。月明かり。月光の当たる所。
出典源氏物語 桐壺
「つきかげばかりぞ八重葎(やへむぐら)にもさはらず、さし入(い)りたる」
[訳] 月光だけが、茂った雑草にも邪魔されずに、さし入っている。

A月の姿。
出典古今集 恋二
「つきかげにわが身をかふるものならばつれなき人もあはれとや見む」
[訳] 月の姿にわが身を変えられるならば、つれないあなたも、しみじみと眺めるだろう。

B月明かりの中の姿。
出典源氏物語 橋姫
「ほのかなりしつきかげの、見劣りせずば」
[訳] ほのかに見えた月明かりの中の姿が、もし(昼でも)見劣りがしなかったら。<
(出典 学研全訳古語辞典)
0052名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/03(金) 09:17:35.57ID:Y6rC/aD5
月と鼈(スッポン)は大違いだが、それでも比べられるのは互いに
どのようにか似ているからだが、ただ月もすっぽんもともに
「まる(円)い/円形」であるというだけでは、他にも「まる(円)い/円形」
であるものはいくらでもあるのだから、比較の対象がすっぽんである
必要はないだろう。では、月も「すっぽん」のどのようであることに
共通性が認められるのかと言へば、それは、月と「すっぽん」(
「すっぽん」という発音の呼び名を伴う見た目の形)の「まる(円)さの
局所性」ではないだろうか。

>Dancing In The Moonlight (It's Caught Me In It's Spotlight)
Thin Lizzy<
0053名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/03(金) 09:26:41.89ID:Y6rC/aD5
>月影(読み)つきかげ
精選版 日本国語大辞典「月影」の解説
つき‐かげ【月影】
@ 月の光。月のあかり。<

この説明は誤りではないが、メタ言語的な説明として不十分である。
さらに、この説明を妥当であることを前提にして、
「つき(月)かげ(影)」=「月の光」であるのだから、「かげ」は、
「光」を意味すると判断したなら、それは不十分なメタ言語的から
導かれた「不適切な拡大解釈」であることになり、その推論を
「『分析的な手続き』によって正当化されるものである」などと考へた
なら、それは自らの稚拙さ/愚かさの証明にしかならない。
0054名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/03(金) 09:36:31.76ID:Y6rC/aD5
「つき(月)かげ(影)」とは、より適切にメタ言語的に記述しようとするなら、
「月のスポットライト」/「スポットライトとしての月」ということになる。
このことの妥当性を確認するためには、例えば、
>>51に引用した「つきかげ(月影)」という表現の@、A、Bの用法と 、
それとはまったく無関係に行われている英語の辞書における"spotlight"
の説明を比べてみるだけでも十分だろうと私は思ふ。

>spotlight
noun
1
a: a projected spot of light used to illuminate brilliantly a person, object, or group on a stage
b: public notice or attention
held the political spotlight
2
a: a light designed to direct a narrow intense beam of light on a small area
b: something that illuminates brilliantly
(出典 merriam-webster.com/dictionary/spotlight)
0056名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/03(金) 22:33:33.17ID:Y6rC/aD5
>>54
日本語の古語の表現は、「日本語」という枠組みに自らを縛り付けること
を放棄したなら、多くの場合、現代にもそのまま通用する表現として
容易に理解することが可能となる。

Wie ein Scheinwerfer am Himmel – erster Vollmond des Jahres
(出典 .bz-berlin.de/deutschland/wie-ein-scheinwerfer-am-himmel-erster-vollmond-des-jahres)
0057名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/03(金) 22:53:02.24ID:Y6rC/aD5
>「つき(月)かげ(影)」とは、より適切にメタ言語的に記述しようとするなら、
「月のスポットライト」/「スポットライトとしての月」ということになる。

ここでは、便宜上、「かげ(影)」に「スポットライト」という言葉を
当てているので、やはり「かげ(影)」は「光(ひかり)」を表現している
ではないかという印象を与えてしまうが、さらにメタ言語としての
一般性を重視して言い換へるなら、
「つき(月)かげ(影)」とは、「月の『投射』」/「『投射するもの』
としての月」である、ということになる。
この場合は、「かげ(影)」を「投射」と言い換へているわけだが、
そのように記述することが好都合であることは、それにより、例えば、
「かがみ(鏡)」≒「投射見」、
「かがり(篝)び(火)」≒「投射する火」
といった解釈を直ちに導きだすことができて、より広い仮説の
ネットワークが容易に形成され得るからである。
0059名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/04(土) 10:58:24.27ID:zRp2JF8H
>日本語の「かげ」≒英語の"cast"である。

メタ言語的な記述としてこの対応関係はかなり都合がいい。
なぜなら、「かける」≒"to cast"、「かかる」≒"to be cast"、
「かげ」≒"cast"となって、例えば、万葉集の歌で「可賀(かが)」を
キーワードにして検索してみると(万葉集ナビの検索機能を利用する
ことができる)、「かがみ(鏡)」、「かがり(篝)」、「かがふ(被)り」
その他がヒットして、それらの言葉が同じ歌において詠まれる他の
表現(例えば、「かかる」など)との関係でどのように用ひられているか
に注目すると、表現のネットワークが自然に形成されるからである。
0060「かげ」の啓蒙、あるいは《Les Lumieres》 als Scheingerechtigkeit垢版2023/02/04(土) 11:18:40.17ID:zRp2JF8H
そのようにして意識されることになる日本語の表現のネットワークを
踏まえて、あらためて上に引用したドイツ語の表現を見てみよう。

>Wie ein Scheinwerfer am Himmel – erster Vollmond des Jahres

すると、この場合、「満月」/»Vollmond«が»Scheinwerfer«と
見なされるのだから、「かげ」、すなはち、"(what is) being cast"
は、»Schein«/「ひかり」であることになり、「つき(月)かげ(影)」
のように、「ひかり」の作用を表しているはずの表現に「かげ」
という言葉が用ひられるといふ、現代の日本語の感覚からすれば、
一見、奇妙に思へる表現に働いている論理も、何ら日本語に独特の
ものではないことが分かる。だからこそ、
「かげ」/"(what is) being cast"が»Schein«/「ひかり」で
あり得るのとまったく同様に、»Schein«/「ひかり」もつねに
「かげ」/"(what is) being cast"/「仮象」であり得るのだ。
0061名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/04(土) 11:52:53.50ID:zRp2JF8H
私は、「暗黒啓蒙」と呼ばれるような言論思想には一切何の関心もなく、
それに関連して名前が挙がるような言論思想界の著名人たちの
著作には、目を通してみようと思ったことすらないが、政治思想的に
どのような立場をとるのであれ、「啓蒙」に対抗するのが「暗黒啓蒙」
であると自然に思ってしまう時点で、いかにも「浅はか」であると私には
感じられる。私がここで指摘してきたような「かげ」の有様をきちんと
踏まえて言論を展開している人は、今の言論思想界のスター
(すなはち、「ほしかげ(星影)」である)とされる人々の間にどれだけ
いるのだろうか。
0062かげ/仮象/ScheinとしてのNaked Truth垢版2023/02/05(日) 08:57:09.39ID:4TzaTU+1
光そのものを目の当たりにすることによって生じるのはいつでも、
「目が眩むこと」/"whiteout"であり、したがって、
白日の下にさらされたまことの姿は、たとえそれが、澄んだ空の青さ
と雲の白さのように明瞭なものであったとしても、つねに「かげ」/
「仮象」/»Schein«である。また、ひらきなおって白日の下にさらして
見せるまことの姿もやはり、つねに、自らをも欺く目眩まし/
"whitewash"として作用する。
0063名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/05(日) 10:10:10.72ID:4TzaTU+1
「道徳」を批判したニーチェが理想としたのは、しかし、自らが
はだかのままで白日の下にさらされて生きるのをは(恥)ぢること
のないようにすること、日本語としてより分かりやすい表現に
言い換へるなら、
「(他に誰一人見ている人がいなくても)
お天道様には(恥)ぢることのない生き方をすること」である。

>Und ihr Weisen und Wissenden, ihr würdet vor dem
Sonnenbrande der Weisheit flüchten, in dem der Übermensch
mit Lust seine Nacktheit badet!<
(出典 zeno.org/nid/20009254978)

>Wer aus sich kein Hehl macht, empört: so sehr habt ihr Grund,
die Nacktheit zu fürchten! Ja, wenn ihr Götter wäret,
da dürftet ihr euch eurer Kleider schämen!<
(出典 zeno.org/nid/20009254676)
0064true and fair view垢版2023/02/05(日) 22:03:32.24ID:4TzaTU+1
ありのままの光景を目の当たりにするとはどのようなことか
0065名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/06(月) 09:50:11.64ID:vZDu/y+7
>日本語の「かげ」≒英語の"cast"である。
このメタ言語的な関係性を意識することで、日本語の表現に働いている
論理がより明確に理解できるようになる。例えば、

〜の恩恵を「こうむ(被)る」←〜の恩恵を「『かが』・ふ(被)・る」
〜のお「かげ(陰)」で

「かかる」≒"to be cast"からは、その再帰表現である
「かか・は(関/係/拘)・る」とはどのような様態を表現しているのかかが
より明確になり、さらに、「うかが(窺/覗)・ふ」も、「う」が他の多くの
表現において「表層」を表現するように用ひられていることを踏まへると、
「う・かが・ふ」(奈良時代には「うかかふ」であったとされる)として
解釈され得るのではないかという意外な推測まで仮説のネットワークとして
生じることになる。
0066名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/06(月) 11:51:19.47ID:vZDu/y+7
>「うかが(窺/覗)・ふ」も、「う」が他の多くの表現において「表層」を
表現するように用ひられていることを踏まへると、「う・かが・ふ」
(奈良時代には「うかかふ」であったとされる)として解釈され得るのでは
ないか<

そのように考へた場合、「うかが(窺/覗)・ふ」は、英語の"to survey"に
対応すると考へることができることになる。

>survey (v.)
c. 1400, "to consider, contemplate," from Anglo-French surveier,
Old French sorveoir "look (down) at, look upon, notice; guard,
watch," from Medieval Latin supervidere "oversee, inspect,
" from Latin super "over" (see super-) + videre "to see"
(from PIE root *weid- "to see").<
(出典 .etymonline.com/search?q=survey)
0067名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/06(月) 11:57:25.70ID:vZDu/y+7
「うかかふ」で検索してみると、以下のサイトの次のような記載がヒットした。
ヒットした記載をただコピペしただけなので、このサイトの読み方や語義説明
の妥当性については、私は何も知らない。ただ、このコピペした記載については、
特に何も問題はないように思へる。

>上代語で読む日本書紀〔宣化天皇〕
候海水以來賓
海(わた)の水(みづ)を候(うかか)ひて以ちて賓(まらひと)来(きた)りて<
(出典 http://himiko-y.com/scrp2/d28snk01.html)
0068名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/06(月) 13:55:25.46ID:vZDu/y+7
ここで、例えば、「窺う」と「フランス語」をキーワードにして検索して
みると、
>ポケットプログレッシブ仏和・和仏辞典 第3版(和仏の部)の解説
うかがう(窺う)
guetter, épier, surveiller<
として、《surveiller》がすぐに出てくるので、古語の「うかがふ」を
フランス語の《surveiller》に対応させて考えることは何ら特別なこと
ではないだろう。しかし、この場合、その対応関係は、「うかが(窺)う」
を「う〜」・「−かか−」・「〜ふ」という形態の表現法であると
見做す解釈から推察されたものであり、「う」≒"surface/surfacing"、
「かげ」≒"cast"、「かか・る」≒"to be cast"、「〜ふ」=「復/覆」
(再帰表現を形成するメタ言語的指示)という解釈は、それぞれ独立に、
「うかが(窺)う」という表現の解釈とはまったく無関係に導き出された
ものである。にもかかわらず、「かげ」の考察から、そのまま
「うかが(窺)う」という表現の解釈まで仮説のネットワークとして
つながり、表現法として、英語、フランス語、ドイツ語などにおいて
すぐに対応するような表現を見出すことができることが「意外」に
感じられるのである。実際、言葉の解釈に関心のある日本語を母語と
する、学者を含む一般の人々に「影」と「窺う」は、言葉として互ひ
にどのように関係しているのかと尋ねても、その問ひの意味をどう
捉へたらよいのかすらまったく理解されず、怪訝な顔をされるだけだろう。
0069名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/07(火) 13:37:59.57ID:urT1Nqaz
「お天道様」が天下をあまねく照らして「し(知/領)ら」しめる
天のパノプティコンであるとするなら、山から谷まで人の住む地上に
遍在して地のパノプティコンの役割を務めているのが、『古事記』
によれば、山田の「かかし」であり、万葉集の歌にも「たにぐく」と
して詠まれるヒキガエルである。

万葉集 第5巻 800番
>天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は
天雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ<
(出典 万葉集ナビ)
0070名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/07(火) 14:06:08.34ID:urT1Nqaz
「かかし」の語源は、不明であるとされ、検索すると、
>かかし【案山子・鹿驚】
精選版 日本国語大辞典「案山子・鹿驚」の解説
〘名〙 (「かがし」とも)
@ (においをかがせるものの意の「嗅(かが)し」から) 田畑が鳥獣に
荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近付けない
ようにしたもの。[...] おどし。<
という説明がヒットするが、この語源説は、いかにとってつけたような
理屈の説明であり、別名の「おどし」が、フランス語の《épouvantail》
や英語の"scarecrow"に素直に対応するのと比べても、表現法として
不自然である。「かかし」を「か(嗅)ぐ」動作と関連付けて説明しよう
とする動機は、「かかし」には、「かがし」や「かがせ」などとの
別称があり、古くは「かがし」と発音されることの方が多かったと
推察されていることによるものだろうが、「か・か」が「かが」と
発音されるのは何ら不自然なことではなく、「かが」であるから
「か(嗅)ぐ」に違いないと考える分類的な発想は、短絡的である。
例えば、英語の"scarecrow"は、直訳すれば「カラスおどし」で
あるので、そこから連想すれば、「かか/かが」をカラスの警戒の
鳴き声ではないかとする推論が容易に成り立ち、さらに、
別にそれをカラスの鳴き声に限定しなくても、日本語の古語には、
鳥獣類がやかましく鳴き声を出す様子を伝へる「かかめく」という
表現がある。したがって、「かかし」/「かがし」/「かがせ」を、
鳥獣類を「かが(めか)す」おどしであるとする解釈も、何の無理も
なく成立し得るだろう。
>精選版 日本国語大辞典「かかめく」の解説
(「かか」は鳥獣の鳴き声を表わす。「めく」は接尾語) 鳥獣が鳴く。
かか鳴く。
※今昔(1120頃か)二六「猿〈略〉木に走り登て、かかめき合たり」<
0072名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/08(水) 09:36:33.59ID:Ryb4zKYU
フランス語の《épouvantail》≒ピジン語としての
日本語の「嚇々(かか/かが)し」⇒「かかし(案山子)」という解釈も
無理なく成立する。

>嚇(Middle Chinese: /hˠaH/, /hˠæk̚/)
1. to frighten; to scare
驚嚇/惊吓 ― jīngxià ― to frighten
2. ⁜ to threaten; to intimidate
恫嚇/恫吓 ― dònghè ― to intimidate

日本語の古語の研究を長年、専門としてきた人々が、このような関係性
に気づいていないことは到底あり得ないのだ。だから、辞書や辞典に
も記載されることとして一般に当たり前のように流通させられている
説明は、いかにも嘘くさく、いかがわしく、どうでもよいものと
感じられることになる。
0073かつあげ/恫嚇垢版2023/02/08(水) 09:54:56.30ID:Ryb4zKYU
ここで、「かかめく」の場合には、鳥獣類が互いに同類に警戒させる
鳴き声として発するものとして認識される声から、その声を発して
危険が迫っていることを互いに伝へる行為としての「相互性」を
脱去して、その声を一方向的に用ひるなら、「音波」としては
物理的にまったく「同一の声」が恫喝の声として使ふことができる
ようになるというキアスム的な関係性に留意することは重要だろう。
(例えば、カラスが危険を知らせる鳴き声を録音して、別の複数の
カラスを脅すために使ふこともできる)。

>日本語の古語には、鳥獣類がやかましく鳴き声を出す様子を伝へる
「かかめく」という表現がある。

>>嚇(Middle Chinese: /hˠaH/, /hˠæk̚/)
1. to frighten; to scare
2. ⁜ to threaten; to intimidate
0075名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/08(水) 10:30:11.76ID:Ryb4zKYU
>「かげ」の考察から、そのまま「うかが(窺)う」という表現の
解釈まで仮説のネットワークとしてつながり、表現法として、
英語、フランス語、ドイツ語などにおいてすぐに対応するような
表現を見出すことができ<

ドイツ語の場合、「うかが(窺)ふ」を「う〜・−かか−・〜ふ」
という形態の表現法であると理解した場合に私に想起されるのは、
用法がそのまま重なるわけではないものの、»beobachten«という
表現である。
>プログレッシブ 独和辞典の解説
❶ ((英)observe) ((j-et4))(…4を)観察する;監視する,見張る<

»beobachten«は、語源的には、"be- +‎ Obacht +‎ -en"と解釈
されるが、"be-"の用ひられかたは、日本語の「〜ふ」に、
"Obacht"の"ob"は、日本語の「う〜」に、"Acht"を動詞化して
それを自らの行為とする"be-achten"は、日本語の「気に『かける』」
ことに対応するものと見ることができるだろう。
0076期待される学習効果垢版2023/02/08(水) 16:27:05.99ID:Ryb4zKYU
>Diederichs Inneres zog sich noch mehr zusammen unter
dem Gefühl eines schaudererregenden Abgrundes,
wie er sich auftat zwischen Jadassohn, der hier die Macht
vertrat, und ihm selbst, der sich zu nahe ihrem Räderwerk
gewagt hatte. Es war aus frommer Absicht geschehen,
in übergroßer Verehrung der Macht: gleichviel, jetzt
hieß es sich besonnen verhalten, damit sie einen nicht
ergriff und zermalmte; sich ducken und ganz klein machen,
bis man ihr vielleicht doch noch entrann. Wer erst wieder
dem Privatleben gehörte! Diederich versprach sich,
fortan ganz seinem geringen, aber wohlverstandenen
Vorteil zu leben. <
(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/230)
0077名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/08(水) 20:19:38.09ID:Ryb4zKYU
今、現代思想として論じられている言説などよりよほど「現代性」を
感じさせる小説だけど、検索しても、日本では、この作品について
ほとんど何も論じられていないに等しいね。私自身も偶々、»Untertan«
という表現を検索していたらこの作品がヒットして、とても安価だった
ので入手してみただけで、まだ半分くらいまでしか目を通していないが。
0078名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/08(水) 23:57:56.22ID:Ryb4zKYU
>ある貧者、螽を捕らうずるとゆく路次において蝉をみつけ、
乃ちこれをとつて殺さうとするところで、かの蝉の申すやうは、
さりとて我を殺させられうこと本意ない儀ぢや、それをなぜに
と申すに、五穀草木に障りとはならず、さして人に仇をなすこと
はござない、結句梢にのぼつて、さへづりをもつて夏の暑さを
慰めまらするところに、理不儘に殺させらるることは何ごとぞ
と事を分けて申せば、そのもの道理に責められて、たちまち
赦免いたいた。<
『天草本 伊曽保物語』、新村出 翻字、pp.25-6
0079名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/09(木) 09:58:32.30ID:Uvfwjhig
「イソポ」を引用したついでに思ひついた喩えをひとつ書き込んでおこう。
私が書き込むのは独り言ばかりであるが、私の「独り言」は私という
個人の独力によって成立しているものなどではまったくない。
私の「独り言」は、つねに多くの他人の力を借りながら、
「力を合はせる」ことによって成立している。しかし、それは、
その言葉の通常の意味で他人の「協力」を得ているということでもない。
それはむしろ、角力/相撲の多様な投げの決まり手が、取組み相手の力を
借り、自分の力を相手の押したり引いたりする力に合はせることでしか
生まれないのと同様のことである。その際、相手が私に「協力」して、
うまく投げてもらおうというと思っているということはない。むしろ、
そのように「協力」してもらったなら、投げの効率を高めることが
可能になったとしても、投げの決まり手の多様性は失はれてしまうだろう。
0080名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 10:25:52.02ID:BVa76XNq
>「イソポ」を引用したついでに思ひついた

「ついでに」という表現には、「序(つい)でに」という漢字が当てられる
ことが慣習となっているが、「ついでに」における「ついで」は表現と
して明らかに「つ(次)いで/序(ついで)」の「ついで」とは異なるだろう。
私には、「ついでに」という表現は、「つい(対)い(出)でに」の発音を
圧縮したものであるように感じられるが、検索してもそのような説を
唱えている記述はまったく見当たらない。
0081名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 10:48:07.52ID:BVa76XNq
古文に現れる「対」という漢字は、漢語として「たい」と読まれるが、
英語の"pair"に対応する「一対(つい)」の「対」に「つい」または
「つゐ」という平仮名が当てられていることは、私には奇妙に感じられる。
それは、やはり英語の"pair"に対応するように用いられる「つがひ(番)」
の発音が自然に感じられるのとは対照的だ。
0082名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 13:10:45.55ID:BVa76XNq
このようなことを言ひ出したのは、仮に「対(つい)」が「つひ」であった
とすれば(そのような証拠は検索しても見当たらないが)、表現として
それはドイツ語の»Bezug«や、その動詞形の»beziehen«に似ている
と感じられるからであり、そのような連想が生じたのは、ドイツ語の
動詞の前綴りとされる"be-"がどのような表現であるのかについて、
少し考へていたからである。
0083名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 13:22:38.80ID:BVa76XNq
私は、ドイツ語については、教育を受けたことがなく、ドイツ語の文法や
表現法について、まったくの素人で、ドイツ語の辞書すら所持してないが、
それでも、ドイツ語の文章に目を通していると、頻繁に用ひられる
»be-〜«という形の動詞に表現としての共通性が感じられる。

上の書込みで私は、»beobachten«という動詞の»be-〜«を
「うかがふ」という表現における「〜ふ」に対応させたが、
»be-〜«は動詞を再帰形にするための表現でも、「〜ふ」の
ように、メタ言語的にひっくり返しを指示するものでもない。
それでも、この場合に»be-〜«を「〜ふ」に対応させることは、
それなりに理に適っているように私には感じられる。では、
それは、どのような理由によるものだろうか。
0084名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 13:36:52.87ID:BVa76XNq
私は、ドイツ語の動詞の前綴り»be-〜«について、言語学やドイツ語学
において、これまでどのような研究がなされてきたのか一切知らない。
"ドイツ語"&"前綴り"&"be"などのキーワードで»be-〜«の表現法に
ついて検索してみても、文法的な説明はすぐに見つかるものの、
それがどのような表現法であるのかをメタ言語的に説明する記述は
まったく見当たらない。かろうじて、»be-〜«は、動詞を「強調
する」働きをするといったような説明は見られるが、動詞の何を
どのように強調するのかが適切に記述されなければ、これでは、
何も言っていないに等しい。その一方で、»be-〜«の形の動詞が
並べられたリストを見れば、すぐに共通性が感じられ、一見、
すぐにでもその共通性を記述できるように思へるが、実際に
記述してみようとすると、適切なメタ言語的な表現を見出すこと
は、それほど簡単ではない。
0085名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 13:44:08.47ID:BVa76XNq
ただ、ここで、ドイツ語の動詞の前綴り»be-〜«が、場合により、日本語の
「〜ふ」に対応させることができるようにそれなりに似ていると感じられる
ことは、記述のための手がかりとして役立つように私には思へる。
そこで、私が暫定的に思ひついたメタ言語的な記述は、以下のとおりである。

>»be-〜«は表現として、それが修飾する作用の効果として主体性を再帰的に
表出させる働きをする。<
0086名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 14:07:23.72ID:BVa76XNq
語源的に見れば、ドイツ語の動詞の前綴りの»be-〜«に何ら謎はない。
問題となるのは、その表現としての効果をどのようにメタ言語的に記述
することが適切か、だけである。例えば、»be-〜«の表現として効果は、
英語の"come"に対応する»kommen«と、
英語の"come by"に対応する»bekommen«
を比べて見れば、一目瞭然である。
>"come by something",
to get something, using effort, by chance or in a way that
has not been explained<
(出典 dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/come-by)
0087名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 14:12:49.50ID:BVa76XNq
>become (v.)
Middle English bicomen, from Old English becuman "happen,
come about, befall," also "meet with, fall in with; arrive, approach,
enter," from Proto-Germanic *bikweman (source also of Dutch bekomen,
Old High German biqueman "obtain," German bekommen,
Gothic biquiman). A compound of the sources of be- and come (v.).

It drove out Old English weorðan "to befall." The older sense is
preserved in what has become of it? The meaning "change from
one state of existence to another" is from 12c. The meaning
"to look well, suit or be suitable to" is by early 14c., from
the earlier sense of "to agree with, be fitting or proper" (early 13c.).<
(出典 etymonline.com/search?q=become)
0088名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 14:27:33.69ID:BVa76XNq
要するに、ドイツ語の動詞、»bekommen«の»be-〜«は、その表現
としての働きとして、英語の"come by (something)"という表現における
"by"にそのまま対応している。では、この"by"は、ドイツ語の
»kommen«にやはりそのまま対応する"come"との関係において、
どのような働きをしていると考へることが適切なのか。
その問ひに対する私の暫定的な応へが、この場合、"by"は、
"come"を修飾して、"come"の作用の効果として主体性を
再帰的に表出させる働きをしている、というものである。
ただし、ここで最も注意しなければならないのは、「主体性」
という用語を、「主語」や「目的語」などの文法用語と
混同してはならないということである。
0089名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 14:42:59.13ID:BVa76XNq
>»be-〜«は表現として、それが修飾する作用の効果として主体性を再帰的に
表出させる働きをする。<

しかし、ここで、»be-〜«に対して、つまり、"come by"の"by"に対して
「再帰的に」という表現を用ひることは適切だろうか。私は、それは
条件付きで適切だろうと思ふ。どのような条件かと言へば、それは、
その再帰を、あらかじめ存在するものとして想定される主体への再帰
として捉へるという決定的な過ちを犯さない限りにおいてである。
私は、「主体性を再帰的に表出させる」と言っているのであって、
「主体に作用を再帰的に及ぼす」と言っているのではないことに留意しよう。
0090名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 14:57:50.42ID:BVa76XNq
例えば、»ziehen«は、「引く」、「引っ張る」といったような作用
を表現する動詞だが、その作用を»be-〜«によって修飾した動詞で
ある»beziehen«の次のような用法も参考になるだろう。

プログレッシブ 独和辞典の解説
>❸ ((et4))(…4を)定期的に受け取る
eine Zeitung beziehen\新聞を定期購読する
eine Rente beziehen\年金を受ける.
❹ ((et4))(…4に)移り住む
ein neues Haus beziehen\新しい家に入居する.
❺ ((et4))(立場など4を)取る
einen klaren Standpunkt beziehen\態度をはっきりさせる.<
0091名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 20:13:54.88ID:BVa76XNq
別の例を見てみよう。

ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
>schwören
❶ [他]([英] swear)誓う, 宣誓する; ⸨話⸩ 断言する; [自]
>beschwören
❶ ([英] swear)(…が)真実であることを誓う〈誓約する〉

この場合は、引用した部分だけでは、»schwören«であろうと、
»beschwören«であろうと、いずれにも"swear"という英訳が
対応させられ、表現としてあまり変化が生じていないように見える。
だが、実は、これは説明の一部だけを引用したからそう見える
だけで、»schwören«とは異なり、»beschwören«は、
英語の"conjure"という表現に対応するようにも用いられる。

ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
>❸ (…を魔力・呪文で)呼び出す; 祓(はら)う, 追い出す; 操る.
>❹ (…を)呼び覚ます, 呼び起こす.

>con‧jure
1 [intransitive, transitive] to perform clever tricks in which you
seem to make things appear, disappear, or change by magic
2 [transitive] to make something appear or happen in a way
which is not expected <
(出典 ldoceonline.com/jp/dictionary/conjure)
0092名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/10(金) 20:27:14.00ID:BVa76XNq
ここで、ドイツ語の»beschwören«と英語の"conjure"を語源的に
見比べてみると、ドイツ語の»be・schwören«に対して、
英語の"conjure"の方は、
>from Latin coniūrō (“I swear together; conspire”),
from con- (“with, together”) + iūro (“I swear or take an oath”)<
(出典 Wiktionary)
であり、»schwören«が"iūro"に対応するのだから、ここで»be-〜«
が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応していることになる。
さて、引用した語源説明では、"con-〜"は、"with, together"に
対応する「意味を表す」ものと解釈されているが、この説明は妥当
だろうか。私には、このような形での語源解釈は、言葉を表現法
として捉へることを疎かにする言語学的な説明の致命的な弱点を
如実に反映したものであるように見える。
0095名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/11(土) 11:03:25.21ID:Il5ORs6Y
>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<

その言語を母語とする専門家であれば、必然的に、その言語における
表現を、その言語を母語としない者と比べて、より容易に、適切に
メタ言語的に記述することができると考へることは、思ひ込みに過ぎ
ない。確かに、人は、自分が母語とする言語の表現を使ひ慣れて
いるので、ひとつの表現をさまざまな別の言い方で表現することも
できる。その言い換へを意識的に示すことは、表現のメタ言語的な
記述の役割を果たし、そのようにして表現の用法を説明することに
おいては、自分が母語とする言語について、それを母語としない
人々と比べて、圧倒的に優位にある。しかし、慣用化された表現
が、なぜそのように表現されるのかをメタ言語的に細かく記述する
ことが求められた場合、その優位性はたちどころに失われる。なぜなら、
慣用化された表現はまさしく、それをメタ言語的に細かく記述する
ように求められないことに有用性があり、その有用性を慣習として
身に付けていることが、その言語を母語としていることだからである。
例えば、日本語を母語としている人が、「みっともない」という
表現はどのような表現なのかを問はれたとすると、この表現がどの
ように用ひられるのかを言い換へによって示すことは簡単にできる
だろうが、「『みっとも』ない」の「みっとも」とはどのような
表現なのかメタ言語的に細かく記述することのできる人はまずいない
だろう。せいぜい、辞書や辞典を参照したり、ネットを検索したり
して、そこに示される「解答」を権威ある「正解」として示すこと
ができるだけである。そのような「正解」を探し出すことなら、
別にその言語を母語としているかいないかは、便宜上、それが
探索に有利に働くかどうかの違いに過ぎない。
0096名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/11(土) 11:23:18.20ID:Il5ORs6Y
ここで、「みっともない」という表現を例に出したのには理由がある。
私自身、日本語を母語としているものの、この「『みっとも』ない」の
「みっとも」がどのような表現なのかよく分からない。そこで検索して
みると、「みっとない」は、「見たくもない」という意味の「みとうもない」
の発音が変化したものであるという説明がヒットする。そこで私に
分かるのは、そのような説明を権威ある「正解」として示す人々が
それなりに多くいるというだけで、特に「みっとも」がメタ言語的に
記述されて表現としてよく分かるようになったとは感じられない。
また、これを「正解」とするのであれば、それによって得られる
「みっともない」という表現の理解は、日本語を母語としているか、
それとも外国語として学習してよく知っているかにより違いが生じる
ことも特にないだろう。ところで、「みっともない」は、
「さまにならない」、「ぶざまである」、さらには、場合により、
「がらにもない」などと言い換へることができるが、これに
対応する古語の表現として容易に見出されるのが、「さま(様)あ(悪)し」
であり、「みっともない」/「さま(様)あ(悪)し」に対応する英語の
表現が、"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)の否定形である
"unbecoming"である。ここで、当然、想起されてよいのが、
"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)は、表現の用法としては
今ではまったく異なるものとなっているドイツ語の»bekommen«と
語源的に共通していることだ。
0097名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/11(土) 11:49:25.36ID:Il5ORs6Y
>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<

この自分の書込みを再び引用したことにも理由がある。これは、
ドイツ語の»be・schwören«と英語の"con・jure"の対応関係について
述べたものだが、これらの表現において»be-〜«と"con-〜"がそれぞれ
果たしている役割が対応していることは、たまたま(偶々)ではない。
日本語を母語としていて、学校の勉強以外で外国語に触れたこともない
という人でも、大多数は「コンビニ」という言葉は知っているだろう。
「コンビニ」は、"convenience store"を省略形にしたカタカナ語
なので、「『コン』ビニ」の「コン」は、上に述べたラテン語由来の
"con-〜"である。では、"con・venience"の"venience"の方はどうか
と言へば、こちらは、同じくラテン語の動詞、"venire"に由来して、
英語の"to come"に対応する。さて、そこで、この"con・venience"の
ラテン語由来の"con-〜"を"be-〜"に、"venience"を"coming"に
対応させるとどうなるだろうか。言ふまでもなく、もたらされるのは、
"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)である。
0098名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/11(土) 12:03:09.68ID:Il5ORs6Y
これがどういうことが分かるだろうか。私のようなドイツ語の素人に指摘
されるまでもなく、この英語の"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)の
用法をもたらしたのと語源的に共通する表現は、現代のドイツ語としては、
英語の"comfortable"や"convenient"に対応するように用ひられる
»bequem«となっている。

>bequem
Etymology
From Middle High German bequæme, bekōme (“suitable”), from
Old High German biquāmi, derived from biqueman (whence
German bekommen).<
(出典 etymonline.com/search?q=convenient)

他方で、ラテン語を継承するフランス語においては、
《convenir》、「〘 à 〜、〜に〙適している、似合う」
《convenable》、「〘 pour 〜、〜に〙適当な、ふさわしい」
《convenance》、「適当、適合、合致、都合、便宜」
などの表現が用ひられている。
0099名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/11(土) 12:20:49.11ID:Il5ORs6Y
いろいろと細かいことを言っているが、ここで重要なのは、
英語の"becoming"にしろ、ドイツ語の»bequem«にしろ、フランス語
の《convenable》にしろ、これらの表現に共通しているのは、それを
日本語で端的に表現するなら、その様態が「あ・ふ」ものであることだ。
「様態が『あ・ふ』」ことが、「さま(様)よ(良)し」であり、
その否定が「さま(様)あ(悪)し」である。「〜ふ」は、「あ(悪)し」
の場合にはっきりと見てとれるとおり、「離れる様態」を表す
「あ」を「ひくり返す」というメタ言語的な指示なので、確かに、
表現として、そのような「ひっくり返し」を指示するものではない
"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》とは、表現法上の機能が異なっている。
それでも、"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである。これが、ドイツ語の表現における»be-〜«に
「〜ふ」を対応させて語源解釈をした理由である。
0100名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/11(土) 12:24:53.54ID:Il5ORs6Y
ちなみに、ゲルマン語学における»be-〜«の説明は、代表的には、次の
ようなものだろう。私には、これが適切なメタ言語的記述となっている
とは思へない。

>The Old English prefix also was used to make transitive verbs
and as a privative prefix (as in behead). The sense "on all sides,
all about" naturally grew to include intensive uses (as in bespatter
"spatter about," therefore "spatter very much," besprinkle, etc.).<
(出典 etymonline.com/word/be-?ref=etymonline_crossreference)
0101unbecoming/さま(様)あ(悪)し垢版2023/02/11(土) 14:54:43.73ID:Il5ORs6Y
>狗兒と馬の事
狗兒をその主人愛して、つねに膝のうへに置き、だきかかへて、不便を
加へられた。又ある時その主人ほかから歸られたれば、その膝にあがり、
胸に手をかけ、口をねぶりなどして、いと馴々しい體であったによって、
主人いよいよ愛せられたところで、驢馬この由をみて、羨む心がおこ
つたが、「われもあのごとくにして愛せられう」とおもひ、あるとき
主人の胸に兩足をあげ、口をねぶり、その座を駈けめぐれば、主人は
大きに腹をたてて、さんざんに打擲し、もとの厩へ追ひくだされた。<
『天草本 伊曽保物語』、新村出 翻字、p.45
0102名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/11(土) 22:46:42.83ID:Il5ORs6Y
>>100
英語におけるこの"be-〜"についての(したがって、ドイツ語における
»be-〜«についての)このメタ言語的な記述が、私には適切であるとは
思へないのは、この記述では、なぜこの語源的には英語の"by"に
つながる"be-〜"の表現上の用法が、語源的にも、その単独の用法
においてもまったく別であるラテン語由来の"con-〜"の表現上の
用法と対応するのか、まるで説明できなくなるということだけではない。
この記述では、実のところ、英語を母語とする人々の多くにとって
とても大切な表現であるはずの"believe"および"belief"という言葉
すら、まともに語源的に解釈することができないのである。
0103名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/11(土) 23:04:15.99ID:Il5ORs6Y
>Etymology
From Middle English beleven, bileven, from Old English belīefan
(“to believe”), from Proto-West Germanic *bilaubijan (“to believe”),
equivalent to be- +‎ leave (“to give leave or permission to, permit,
allow, grant”). Cognate with Scots beleve (“to believe”),
Middle Low German belö̂ven (“to believe”), Middle High German
belouben (“to believe”).

A related term in Old English was ġelīefan (“to be dear to;
believe, trust”), from Proto-West Germanic *galaubijan
(“to have faith, believe”), from Proto-Germanic *galaubijaną.<
(出典 en.wiktionary.org/wiki/believe)

>believe (v.)
Origin and meaning of believe
Middle English bileven, from Old English belyfan "to have faith
or confidence" (in a person), earlier geleafa (Mercian),
gelefa (Northumbrian), gelyfan (West Saxon), from
Proto-Germanic *ga-laubjan "to believe," perhaps literally
"hold dear (or valuable, or satisfactory), to love"
(source also of Old Saxon gilobian "believe," [...]<
(出典 etymonline.com/search?q=believe)
0104名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/11(土) 23:18:45.09ID:Il5ORs6Y
これらの語源説明では、"believe"もやはり"be-〜"という形の
表現であることが明示されるものの、なぜ"be-〜"なのか、
またそれが表現上、どのような役割を果たしているのかまったく
説明されていない。<
>equivalent to be- +‎ leave (“to give leave or permission to,
permit, allow, grant”)
と記載されるが、"be-〜"がなぜ、どのように"to give 〜"を表現する
と解釈され得るのか不明であり、そもそも、さらに"leave"の語源
解釈を参照するなら、この説明が不自然であることに気づくはずである。
>Etymology 1
From Middle English leven, from Old English lǣfan (“to leave”),
from Proto-West Germanic *laibijan, from Proto-Germanic *laibijaną
(“to let stay, leave”), causative of *lībaną (“to stay, remain”),
from Proto-Indo-European *leyp- (“to stick; fat”). <
(出典 en.wiktionary.org/wiki/leave#English)
0105名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/11(土) 23:37:17.05ID:Il5ORs6Y
見てのとおり、"be-lieve"の"-lieve"に対応するOld English lǣfan
(“to leave”)が表現しているのは、「そのままにする」ことである。
では、「そのままにする」作用を"be-"で修飾することが、その作用
の効果として主体性を再帰的に表出させる働きをするとすれば、
"be-lieve"はどのような表現であると理解されることになるだろうか。
それは、「あづ(預)く」こと、「まか(任)す」こと、「たく(託)す」、
「ゆだ(委)ねる」こと、さらには日本語の古語の用法における
「(神仏を)たの(頼)む」こととなるだろう。そして、そのように
解釈された"be-lieve"にちょうど対応するのが、フランス語の
《confier A à B》であり、《se fier à qn/qc》である。
0106名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/11(土) 23:47:22.04ID:Il5ORs6Y
こんなことをいくら書き込んだところで、誰にも感謝されないどころか、
迷惑がられるだけであることは明らかで(匿名でなしに同じ発言したと
したなら、徹底的に人格を否定されることになるだけである)、
私個人にも何ら「実益」をもたらすわけではないが(「実害」をもたらす
惧れなら大いにある)、一応、言ひたいことが、アクセス規制を受けずに
書き込めたことは良かった。
0107すがのねのねもころごろに垢版2023/02/12(日) 09:15:00.54ID:3Oy82E4v
>»be-〜«は表現として、それが修飾する作用の効果として主体性を再帰的に
表出させる働きをする。<

>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<

>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである。<

これらのことをまとめて一度に示すのにとても好都合な例が
英語にはある。それは、普通は「婚約する」と日本語に訳される
"to betroth"である。"to betroth"は、より直訳に近い形で
日本語にするなら、「まこと(誠)/忠実さをちか(誓)ふ」こと
を意味しており、これに対応するスペイン語の表現は、
ラテン語の"comprōmittere"に由来する"comprometer"である。
0108名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/12(日) 09:22:49.05ID:3Oy82E4v
一般に通用している英語の語源説明が、"be-〜"の表現上の用法の
解釈についてどれほど無理を押し通そうとしているのかは、
この"to betroth"という表現の語源解釈の記述を参照してみると
はっきりするだろう。

>betroth (v.)
c. 1300, betrouthen, "to promise to marry (a woman)," from be-,
here probably with a sense of "thoroughly," + Middle English
treowðe "truth," from Old English treowðe "truth, a pledge" (see truth).
It is attested from 1560s as "contract to give (a woman)
in marriage to another, affiance." <
0109名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/12(日) 10:01:45.98ID:3Oy82E4v
"to betroth"/「まこと(誠)/忠実さをちか(誓)ふ」ことの誓ひが
果たされると、有効となるのが配偶者間の義務関係である
"conjugal obligations"である。数学において"conjugal"に
対して用ひられる日本語訳は、「共役」であるが、より直訳
に近い形で訳すなら、"conjugal"は、語源的にラテン語の"coniugare"
に由来するので、「共軛」、つまり、「くびき(軛/頚木)をともにする」
ということになる。
>coniugare "to join together," from assimilated form of com
"with, together" (see con-) + iugare "to join," from iugum "yoke"<
(出典 etymonline.com/search?q=conjugation)

ここで、"co-〜"は、どのような働きをしているだろうか。上の語源説明
では、"co-〜"は、"with, together"に相当する「意味を表している」
ものと解釈され、それが"iugare"/「くびき(軛/頚木)をかける」作用に
対して「足し算」の記号で示されているが、"conjugation"が表現して
いるのは、「一緒にくびき(軛/頚木)をかける」ことではない。
そうではなく、"co-〜"によって"iugare"/「くびき(軛/頚木)をかける」
作用を修飾することで表現されることになるのは、「くびき(軛/頚木)を
ともにする」ことであり、したがって、"co-〜"による作用の修飾が
もたらしているのは、「くびき(軛/頚木)をともにする主体性」を
再帰的に表出させる働きである。あらためて繰り返すが、ここで
「再帰的に」と表現する場合、私は、"co-〜"が、
「くびき(軛/頚木)をかける」作用をあらかじめ存在するものと
される主体に再帰的に及ぼす働きをすると言っているのではない。
そうではなく、「主体性を再帰的に表出させる」と言っているの
である。
0110一蓮托生垢版2023/02/12(日) 10:10:50.65ID:3Oy82E4v
>compromise (n.)
early 15c., "a joint promise to abide by an arbiter's decision,
" from Old French compromis (13c.), from Late Latin compromissus,
past participle of compromittere "to make a mutual promise"
(to abide by the arbiter's decision), from com "with, together"
(see com-) + promittere "to send forth; let go; foretell;
assure beforehand, promise," from pro "before"
(from PIE root *per- (1) "forward," hence "in front of, before")
+ mittere "to release, let go; send, throw" (see mission).<
(出典 etymonline.com/search?q=compromise)
0111名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/12(日) 10:46:22.90ID:3Oy82E4v
新村出 翻字『天草本 伊曽保物語』のなかの話では、私は、なんといっても
pp.48-9の「イソポ、アテナスの人々に述󠄁べたる譬の事」が一番好きだ。
0112名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/12(日) 11:26:44.27ID:3Oy82E4v
>"be-lieve"の"-lieve"に対応するOld English lǣfan
(“to leave”)が表現しているのは、「そのままにする」ことである。<

このOld English lǣfan(“to leave”)の感覚は、スペイン語であれば
"dejar"に、フランス語であれば、《délaisser》に対応させてイメージ
すると分かりやすいが、スペイン語の"dejar"が、日本語のカタカナ語
ともなっている「リラックス」につながるラテン語の"laxāre"に遡る
ことから、フランス語の《délasser》、さらにそこから《reposer》
の用法を考えてみることも、英語の"believe"が語源的に表現している
と考えられる感覚をイメージするのに役立つ。

>ポケットプログレッシブ仏和・和仏辞典 第3版(仏和の部)の解説
reposer
[自]
❶ ((sur))(…に)基づく,根拠を置く;(…の上に)建つ.
❷ [文章]休む;横になる;眠る;永眠する.
❸ laisser 〜 du vin ワインを寝かせておく.
━[他]休める,疲れをいやす;(体の一部を)もたせかける.
━se 〜
❶ 休む,休養する.
❷ ((sur))(…に)任せる,頼る.

万葉集 第5巻 904番
>いつしかも 人と成り出でて 悪しけくも 吉けくも見むと 大船の 思ひ頼むに
(出典 万葉集ナビ)

このように見てくると、英語の"to believe"が表現している感覚が、この
「思ひ頼むに」の「たの(頼)む」に対応していることが分かるはずである。
0113頼母子講垢版2023/02/12(日) 20:10:46.75ID:3Oy82E4v
このように見てくると、
"belief"とは、「(何かを)たの(頼)むおも(思)ひ」である
という、誰でも最初から知っている当たり前のことが分かる。

したがって、誰かが懐いている「(何かを)たの(頼)むおも(思)ひ」が
誤っていると考へて、いくら自分が信頼できると思っている事実を
その相手に示してみせたところで、その事実がその相手の懐いて
いる「たの(頼)むおも(思)ひ」に応へることのできるものでなければ、
大抵の場合、その「思ひ」を変へることはできないのである。
0114名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/13(月) 09:06:42.34ID:ILMvFJ8R
>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<

»bestätigen« ⇔ "to confirm"

»be-〜«は、英語の"I hereby 〜"と宣言する場合の"hereby"の
"by"がそうであるように、発話遂行的な働きをしている。
0115急がば回れ垢版2023/02/13(月) 09:39:47.08ID:ILMvFJ8R
与へられた形式にそのまま沿ふようにしてみることの利点とは、
それにより、望ましくないために認めたくない不都合な事実にも
自動的に気づかされる結果がもたらされることである。

例えば、地図上で現地点から目的地まで定規で直線を引いてみる。
すると、直線距離としては現地点から目的地まで数百メートルしか
離れていないのに、途中に鉄道の線路があり、踏切りがなく、
道路が行き止まりになっていて、高架橋で道路が線路を超える
地点まで数キロメートルの回り道をしなければならないことに
気づかされる。そんなはずはない。通れる場所があるはずだという
思ひに強く囚われてしまうと、反現実的な想定に期待をかけて、
理不尽に無駄な時間と労力を費やすことになることが多い。
0118名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/13(月) 10:55:10.30ID:ILMvFJ8R
人は誰でも、現状で「あ(悪)しきこと」や「まがまが(禍々)しき」
ことに襲はれていれば、またはそのようなことが生じる惧れがあれば、
どのようにかしてそれをまぬが(免)れることが「できることを」
(すなはち、»Wille zur Macht«である)ねが(願)ふ。
「を(復)ちみづ(水)」とは、それを飲むことによって
「『い(息/生)のち(力)』を『みなぎ(漲)ら』せる」ことの
できる万能薬であるが、一神教とは、あらゆる「あく(悪)」を
ただ(正)すことができ、あらゆる「まが(禍)」をなほ(直)すことが
できる万能性のちから(力)を「たの(頼)むおも(思)ひ」を統一的に
統合しようとする形式である。一神教においては、そのような
万能性のちから(力)を具現化する救済の神が再臨することになる
のは、「を(復)と・つ・ひ(日)」であると告げられる。そのお告げ
を希望をもたらす「福音」であると感じるか、悪い冗談であると
感じるかは、人それぞれだろう。
0119名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/13(月) 11:01:58.75ID:ILMvFJ8R
万葉集 第17巻 4011番
>たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ 思ひ恋ひ 息づきあまり
けだしくも 逢ふことありやと あしひきの をてもこのもに 鳥網張り
守部を据ゑて ちはやぶる 神の社に 照る鏡 倭文に取り添へ 祈ひ祷みて
我が待つ時に 娘子らが 夢に告ぐらく
(出典 万葉集ナビ)
0120名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/13(月) 11:06:47.44ID:ILMvFJ8R
万葉集 第5巻 904番
>思はぬに 邪しま風の にふふかに 覆ひ来れば 為むすべの たどきを知らに
白栲の たすきを掛け まそ鏡 手に取り持ちて 天つ神 仰ぎ祈ひ祷み
国つ神 伏して額つき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり
我れ祈ひ祷めど しましくも 吉けくはなしに
(出典 万葉集ナビ)
0121Fidelity Fund垢版2023/02/13(月) 13:01:54.33ID:ILMvFJ8R
ところで、たのもし(頼母子)講とは、"credit union"である。
0123名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/13(月) 14:17:12.23ID:ILMvFJ8R
It seems to me that the seeming inability of English and German
language specialists to explain the use of the prefix, "be-"
adequately may well be "betraying" something very important about them.
0124名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/13(月) 15:42:32.39ID:ILMvFJ8R
それにしても、学問板からの永久追放(アクセス禁止)は年を越えようと、
もうずっと変わらないな。いつからアクセス禁止になったのかもう
記憶にないくらい。私ごときに発言を許すことのなにがそんなに不都合なのかw
0125I mean it.垢版2023/02/14(火) 13:48:37.07ID:ZGxh3YyZ
英語の"to betroth"(「まこと(誠)/忠実さをちか(誓)ふ」)という
表現において、"be・troth"における"troth"は、語源的に古英語の
"treowðe"(「まこと(誠)/忠実さ」)に由来し、これは、現代の英語で
使用される"truth"の語源でもある。したがって、そもそも、なぜ、
どのように"to betroth"という行為が可能であるのかを考へてみると、
発せられる言葉の「意味」とは、その言葉を発する行為に認められる
"betrothal"(「まこと(誠)/忠実さのちか(誓)ひ」)としての
「かひ/効験」であるということになる。

つまり、
>'snow is white' is true if and only if snow is white.
といった例文で代表的に示されるような"truth-conditional semantics"
(真理条件的意味論)が教へているのは、"to betroth"(「まこと(誠)/
忠実さをちか(誓)ふ」)という行為が成立するのは、その機会のための
特別な誓約の言葉を発からではなく、むしろ、その「つもり」で
何かを言ふ行為そのものが、"to betroth"(「まこと(誠)/忠実さを
ちか(誓)ふ」)こととして言葉の「意味」を成しているからである、
ということだ。
0126Was bedeutet das?垢版2023/02/14(火) 14:01:46.00ID:ZGxh3YyZ
その意味で、英語やドイツ語を研究する専門家が、英語とドイツ語の両方に
おいて多用され、表現上、極めて大切な役割を担っていると思はれる
前綴り、"be-〜"/»be-〜«を、見たところ、まるでまともに説明できて
いないことは、とても»bedeutsam«であると言ふことができるだろう
と私は思ふ。
0127名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/14(火) 14:12:51.13ID:ZGxh3YyZ
哲学することを言葉として伝へようとする限りにおいて、
言語表現がどのように用ひられているのかについてのメタ言語的な
記述を抜きにして哲学することはできない。
0128名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/14(火) 14:48:24.83ID:ZGxh3YyZ
「あさって必ず返すから、少し金を貸してくれ」と頼んで人から
金を借りて、借りた日から3日経っても返す様子がないので
返済を促されて、再び「あさって必ず返すから」と言ったなら、
それは「意味のある」言葉ではなくて、「虚言(そらごと)」で
ある可能性が高い。では、「近いうちに必ず返すから、少し金を
貸してくれ」と頼んで人から金を借りて、いつまでたっても
返す様子がないので催促すると、「近いうちに返すって言った
だろ。をとつひ(一昨日)になったら必ず返すから」と返答した
としたらどうだろう。普通であれば、それは、「金輪際、
借りた金を返すつもりはない」という返事であるものと理解
するだろう。そのような言葉をとして人に与へて、それを
「まこと」として成立させることができるのは、現世の人で
はなく、メシアだけである。なぜメシアがそのような言葉を
「まこと」として成立させることができるかと言へば、それは、
メシアは、現世の人のように時間的に限定された存在ではない
からである。さらに、メシアの言葉は、お告げとして現世の
人に与えらえるものの、それが「まこと」として成立するの
は、「をとつひ(一昨日)」がやってきてから、つまり、言葉
を受け取った人の方も、現世の肉体を離れてた魂(たましひ)
として、時間的に限定されない存在となってからである。
時間的に限定されない存在となった魂(たましひ)に、
にもかかわらず、なぜか、現世の肉体を伴っていた人格が
保たれているというのは不思議な話ではあるが。
0129名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/14(火) 15:27:00.87ID:ZGxh3YyZ
制度宗教とかかわりがなく、自分は無信仰であると思っている人々は、
自らの「(何かを)たの(頼)むおも(思)ひ」が一神教の制度宗教の神学
によって教えられるものと同様の形式に則っていることにまったく
気づくことができないことがよくある。
0131名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/14(火) 23:16:09.18ID:ZGxh3YyZ
またこのようなことを言ふとアクセス規制を受ける惧れはあるが、
誤解のないようにはっきりと言っておこう。>>123>>126
ような指摘をするとき、英語やドイツ語の研究者でもなく、ドイツ語に
ついては教育を受けたことすらない私の方が、これらの言語を長年
研究してきた専門家よりも、これらの言語の表現についてより深く
理解しているなどというようなことを示したいわけではない。
私は、ここには何か著しく奇妙なことがあると指摘しているのであり、
このような奇妙さを敢へて(「敢へて」というのは、この場合に限定
されず、同様に本当は多くの人々が簡単に気づくはずの「奇妙なこと」
を匿名ではなしに、わざわざ指摘したなら、経験上、個人的な人格を
徹底的に否定されるだけでなく、多くの不利益をもたらす実害を
個人的に被ることになるのが通例であることをよく知っているからだ)
指摘することが、私の愚かさの表れであることを既によく知っている。
その一方で、私は、大人しく黙っていることが、(不利益をもたらすの
を避けるのに有利になるということ以外で)私にどう利益になるのか
よく分からないだけ、まだ十分に愚かなのであり、私のこの愚かさは、
おそらくもう死ぬまで直らないのだろうと、諦めている
0132名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/14(火) 23:29:16.69ID:ZGxh3YyZ
ここで指摘する奇妙さにどれだけ多くの人々が容易に気づくことになる
のか試してみよう。

ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
>kennen
❶ ([英] know)(見聞・習熟・体験して)知っている,
わかっている; (…が)だれ〈何〉であるか知っている;
❷ ⸨j-et an et⸩ (…を…で)識別する.

>bekennen
❶ [他]([英] confess)(〔自分の罪・過ちを〕)認める;
(信仰を)告白をする; ⸨sich zu j-et⸩ (…への)信仰を告白する,
(…に)公然と味方する
sich schuldig 〜|(裁判で)自分の罪を認める.
❷ 〘商〙(受領を)確認する. <
0133名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/14(火) 23:45:39.56ID:ZGxh3YyZ
ドイツ語の»bekennen«に対して英語の"to confess"は適切な訳語であり、
この場合も、ドイツ語の前綴り、»be-〜«に対して"con-〜"が対応して
いるものの、»kennen«は、"to know"に相当し、"fess"は、
>fateri "to admit," akin to fari "speak,"
(出典 Online Etymology Dictionary)に由来するので、こちらの方は、
表現としては対応していない。しかし、より分かりやすい対応関係は、
ドイツ語−スペイン語辞書を引くとすぐに得られる。

Deutsch: kennen/bekennen
Spanisch: conocer/reconocer
(出典 wordreference.com/dees/〜)
0134名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/14(火) 23:51:07.26ID:ZGxh3YyZ
何がどう不都合で専門家でも「気づかない」ことになっているのかまで
推論により容易に指摘することができるように私には思へるが、
そこまですると、「陰謀論」のレッテルを貼られるのがオチなので、
やめておく。
0135名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 08:12:22.46ID:+sZDD647
>ドイツ語の»bekennen«に対して英語の"to confess"は適切な訳語であり

このように明言したが、この言ひ方にはちょっと、というより、
かなり大きな語弊がある。どのような語弊かと言へば、それは、
ドイツ語の»bekennen«という表現を英語の"to confess"に対応させる
ことは、現実にドイツ語の»bekennen«という表現がそのように使用
されているように、»bekennen«を、キリスト教という制度における
「告白」に沿って理解することを前提としてしまうことになること
である。ところが、英語の"to confess"の語源であるラテン語の
"confiteri"の用法そのものが一般的な表現として、英語の"to confess"
にそのまま対応するものではなく、むしろ、"to acknowledge"に
対応しており、こちらの方が、»bekennen«に素直に対応している
ことが、英語の語源辞典やラテン語の辞書を参照しても確認する
ことができる。
(以下を参照)
latin-is-simple.com/en/vocabulary/verb/2235/
etymonline.com/search?q=confess
(etymonline.com/search?q=acknowledge

ここには、「核心的」と呼べる問題が潜んでいる。その問題に
ついて述べるために、まずは、私自身の書込みを再引用しよう。
0136名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 08:16:48.31ID:+sZDD647
423考える名無しさん2021/10/29(金) 09:09:43.340
"Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen."
「えもい(云)はれぬことにつきては、これをいは(祝/斎)ふべし。」

人は「斎(いは)ふ」ことにおいて、身を清(きよ)め「口をつつしむ」。
しかし、それは禁忌として「口を閉ざす」ことだけを意味しているわけ
ではない。そうではなく、「斎(いは)ひ」においては「えもい(云)はれぬこと」
として「口をつつしむ」ことについて、「はふ(祝/葬/溢)り」においては、
それを「いは(祝)ひ」、「こと(言)ほ(祝)ぐ」のである。そのことを
意識するなら、ウィトゲンシュタインの言葉そのものが、「斎(いは)ひ」
に偏った一方的な解釈に導かれやすい表現であるといふことはできるのだろう。
しかし、この言葉が人々の注目を集めてきたのは、「口に出すことができないこと」について「口に出すべからず/口をつつしむべし」と宣告しているように
見える、一見したところ「ナンセンスな冗長性」により、別の解釈を
招来しようとしているように感じられるためだろう。日本語の「いは(祝/斎)ふ」
という表現において可能になる両義性のもう一方の解釈をドイツ語で明示
しようとしたなら、
"Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man reden."
ということになるだろうが、こちらの方は、今度は「矛盾していてナンセンス」
であるとされるはずである。しかし、ここでウィトゲンシュタインの言葉
の表現の「ナンセンスな冗長性」は、
「口に出すことのできない(えもい(云)はれぬ)ことについては、(形象として/
figuratively)かた(語/騙)るほかない」という解釈を実際に招来し、
この解釈は、「現実の歴史意識の両義性」を的確に表現するものであると
ともに、実際の人々の生活における実践を反映している。
0137Bekenntnis/「自白する」/(な(己/汝)を「『しろ』し」めす)垢版2023/02/15(水) 08:31:10.97ID:+sZDD647
Bekenntnis/「自白する」/(な(己/汝)を「『しろ』し」めす)⇔「な(己/汝)をし(知/領)る」

700名無しさん@お腹いっぱい。2022/11/28(月) 10:28:55.84ID:LzhMDzgO
「汝自らを知れ(なんじみずからをしれ)」と訳される"γνῶθι σεαυτόν"は、それを日本語の古語を用ひるなら、ただちに「な(己/汝)をし(知)れ」と言い換へることができる。というのも、「な(己/汝)」は、己(な)の相手
である汝(な)を指すようにも、汝(な)の相手である己(な)を指すようにも用ひられ得るからである。

さらに、「〜をし(知)れ」という表現について見ると、「し(知)る」は、
「『しるし(験)』を顕現させる」作用(ドイツ語の»sich zeigen«に対応
する)として、しめ(標)た(立)てること、もしくはしめ(標)ゆ(結)ふこと
で(即ち、しめなは(注連縄)により)或る領域を「いは(祝/斎)ふ」べきも
のとして「し(領)る」ことも意味し、そのような領域としてしめ(標)
されるのが「しま(島)」である。したがって、「な(己/汝)をし(知)れ」
は、「な(己/汝)をし(知/領)れ」というみこと(御言/命)になるので、
なんら特別な解釈を加へることなく、自然に「な(己/汝)みづから
(身づ柄/自ら)を『しま(島)』として『いは(祝/斎)ふ』べし」という
格言であるものと理解される。
0138名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 08:42:01.28ID:+sZDD647
何が言ひたいか分かるだろうか。
>ドイツ語の»bekennen«に対して英語の"to confess"は適切な訳語であり

このように断言するなら、その断言は、"to confess"を、そうすることが
一般的であるように「(罪や犯罪行為の)自白」やキリスト教のカトリック教会
において行われる「告解」という行為になぞら(擬)へて理解するのではなく、
「(信仰の)『告白』/acknowledgement」からさらに遡って、
"to con・fess"を「(えもい(云)はれぬことを)いは(祝/斎)ふ」行為に
なぞら(擬)へて解釈することによって初めて、適切になると考へられる
のである。
0139名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 09:00:28.56ID:+sZDD647
>»be-〜«は表現として、それが修飾する作用の効果として主体性を
再帰的に表出させる働きをする。<
>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである。<

»bekennen«を「自白する」と訳す場合も、その表現法は、
「白日の下に晒されるべき『自己』」があらかじめ存在することが
前提とされて、その自己に»kennen«/「知る」作用を再帰的に
及ぼすことが「自白する」ことなのではない。そうではなく、
この場合もやはり、»be-〜«は、表現上、»kennen«作用の
効果を再帰的に表出させる働きをしており、»bekennen«
という行為によって「『しろ』し」めされて再帰的に表出する
のが「自己」なのである。

Bekenntnis/「自白する」/な(己/汝)を「『しろ』し」めす⇔「な(己/汝)をし(知/領)る」
0140名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 09:11:37.13ID:+sZDD647
普通の人は言ふのをはばかることを、ここまでつつしみなくわざわざ
口に出す愚か者も、世の中にはそういるものではないことは、
私みづからも「み(認)める」/»bekennen« 。
0141名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 10:05:03.36ID:+sZDD647
"before"、"behind"、"beside"、"beneath/below"、"beyond"、
さて、「いは(祝/斎)は」れている「や・しろ(社)」はどこか。
0143to confess垢版2023/02/15(水) 17:27:50.63ID:+sZDD647
ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 10:32-33
1894 Scrivener New Testament

32 πας ουν οστις ομολογησει εν εμοι εμπροσθεν των ανθρωπων
ομολογησω καγω εν αυτω εμπροσθεν του πατρος μου του εν ουρανοις
0144名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 17:33:26.56ID:+sZDD647
<聖書<口語新約聖書
『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年
>マタイによる福音書
10:32
だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた
天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。 <
(出典 ja.wikisource.org/wiki/マタイによる福音書_(口語訳)#10:32)
0145名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 17:34:57.93ID:+sZDD647
>What Does It Mean to Confess Christ?
“Whoever acknowledges me before men, I will also acknowledge
him before my Father in heaven.” Matthew 10:32 (NIV)

The word ‘acknowledge’ (or confess) in the Greek is
homo = ‘one’ plus logeo = ‘word.’ It literally means “to be of
one word.” To confess Jesus is to be of one word with Him,
to say what He says.<
(出典 openthebible.org/open-the-bible-daily/what-does-it-mean-to-confess-christ/)
0146名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 17:49:41.71ID:+sZDD647
>◄ 3670. homologeó ►
Strong's Concordance
homologeó: to speak the same, to agree
Original Word: ὁμολογέω
Part of Speech: Verb
Transliteration: homologeó
Phonetic Spelling: (hom-ol-og-eh'-o)
Definition: to speak the same, to agree
Usage: (a) I promise, agree, (b) I confess,
(c) I publicly declare, (d) a Hebraism, I praise, celebrate.<
(出典 biblehub.com/greek/3670.htm)
0147名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 18:04:27.49ID:+sZDD647
>>143-146
この場合も、私は、ここに記載を引用して貼り付けたような対応関係や
説明をあらかじめ知っていて、ドイツ語の»bekennen«という表現に
ついての私の解釈を書き込んでいるのではない。手順は、まったく
逆である。»bekennen«という表現を、同様に前綴り、»be-〜«
を用ひる他の表現との関連において、より一般的な推論により解釈する
ことが、私の解釈に都合のよい対応関係や説明を検索に容易に
見出すことを可能にしているのだ。
0148名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 19:44:30.73ID:+sZDD647
>>144
日本語を母語としていて、それなりに英語の運用能力がかなり高い
人でも、英訳の聖書を知らなければ、この日本語訳を読んで、
「受けいれる」が英訳では"to confess"と訳されることが
あるとは思いもしないだろう。
0149名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/15(水) 20:03:33.42ID:+sZDD647
ところで、これらの訳語の元となっている古代ギリシア語の
"ὁμολογέω"という表現は、それを形の上ではラテン語にそのまま移した
表現である"homologare"を介して現代のフランス語では、「許可する」、
「公認する」を意味する表現として用ひられている。
>homologuer
プログレッシブ 仏和辞典 第2版の解説
➊ 〖法律〗 …を認可する.
➋ 〖スポーツ〗 〔記録〕を公認する<

この《homologuer》のWiktionnaireにおける記載で語源を遡って
いくと、古代ギリシア語の"ὁμολογέω"の用法のフランス語による
記述に辿りつき、そこでは、まず最初に次のように記述されている。
>ὁμολογέω
Concorder, parler d'une même voix.
λέγουσι Κορίνθιοι, ὁμολογέουσι δέ σφι Λέσβιοι — (Hdt.1.23)<
(出典 fr.wiktionary.org/wiki/ὁμολογέω#grc)
0150名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/16(木) 10:35:23.89ID:DLkF/h6a
"マタイ" & "10:32"をキーワードにして検索すると、この節における
古代ギリシア語の"ὁμολογέω"に対する直接または間接の様々な
日本語訳の言葉がヒットする。それらの事例をいくつか拾って
並べてみると、次のとおりである。

〜の仲間であると言い表す
『〜の友だ』と認める
〜を認める
(〜について)告白する
〜を言い表す
〜を受けいれる 

また、『ラゲ訳新約聖書』では、「〜を宣言する」と訳されている。
0151名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/16(木) 11:06:31.52ID:DLkF/h6a
以上のとおり、"ὁμολογέω"は、直接または間接的に様々な日本語の
表現で訳されているが、「〜を認める」とされることが多いようである。
ただし、単に「〜を認める」と表現したのでは、一般に、認める側に
その権限があるものと理解されて、原文の表現の意図に沿はないと
考へられるので、それ以外の表現も試みられているのだろう。

私は、古代ギリシア語を教はったことも、自分で学んだこともないので、
この文例以外で"ὁμολογέω"がどのように用ひられているのか、
自分で事例を確認して解釈することはできないが、>>146に引用した
>Usage: (a) I promise, agree, (b) I confess,
(c) I publicly declare, (d) a Hebraism, I praise, celebrate.<
から、それが日本語としてどのような表現に相当するのかを推測する
ことはたやすい。"ὁμολογέω"は、"ὁμο・λογέω"と分けられ、
それに"con・fess"が当てられているわけだが、この場合もやはり、
"con(with, together)・fess(speak)"は、「一緒に云ふ」ことを
意味しているのではなく、「しか(然)い(云)ふことをたが(違)へない」
こと/「しか(然)相違ないとい(云)ふ」ことを意味している。
0152名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/16(木) 11:33:41.72ID:DLkF/h6a
したがって、キリスト教という鏡/「耶蘇鏡」を通して見た古代ギリシア語
の"ὁμολογέω"という表現を、「まそ(麻蘇/真)鏡」にそのまま映し出して
ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 10:32を訳すことを「こころみ(心観)」るなら、

>πας ουν οστις ομολογησει εν εμοι εμπροσθεν των ανθρωπων
ομολογησω καγω εν αυτω εμπροσθεν του πατρος μου του εν ουρανοις
>それゆえ人の前でわれのまこと(真言)をしろしめす者には、
われも、天にましますわが父の前でその者のまこと(真言)ををしろしめす

とすることもできるだろう。この場合、"ὁμολογέω"は、
「しか(然)い(云)ふことをたが(違)へない」こと/「しか(然)相違ない
とい(云)ふ」ことを意味することにおいて、「しか(然)い(云)ふ者」
の「まこと(真言)」は、「相違ないとい(云)ふ者」の「まこと(真言)」
と同じであるものとして「しろしめされる」ことになる。
0154名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/16(木) 11:44:26.53ID:DLkF/h6a
これが、「いは(祝/斎)ふ」 に対応するのは、「いは(祝/斎)ふ」
という行為が、基本的に、「ことい(言忌)み/ことほ(言祝)ぎを
同じくすることによって『な(汝/己)』をしろしめすように
しめ(標)ゆ(結)ふ」行為であるからである。
0155名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/16(木) 12:17:18.95ID:DLkF/h6a
私は、キリスト教のレトリックがどのような言語表現をどのように操って
いるのかは、むしろ、「まそ(麻蘇/真)鏡」に映した方がよく見えるよう
になるのではないかと思ふ。なぜなら、「まそ(麻蘇/真)鏡」を通して
見た場合には、しろしめされる「『な(汝/己)』のまこと(真言)」
は、人の前であろうと、天つ神の前であろうと変はらないのに対して、
「耶蘇鏡」を通して見た場合には、「『な(汝/己)』のまこと(真言)」
がキリストの父の前でしろしめされることは、それが人の前で
なされるのとは比べものにならない、計り知れないほど大切な
こととされるからである。さらに、「まそ(麻蘇/真)鏡」を介して
効験をもたらすことが期待される天つ神は、統治イデオロギーが
それをどのように利用するにせよ、おほきみ(大君)の上位互換
であるかのように見間違へられることがないのに対して、
「耶蘇鏡」の「天にまします父なる神」は、容易に君主の上位互換
であるかのように見間違へられることがよくあるからである。
0159名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/17(金) 09:27:51.13ID:Hoj8pEsN
>>135
誤:「核心的」と呼べる 正:「核心的」とも呼べる

私の書込みには、誤記がとても多く、いちいち訂正しているときりがない。
考へていることを言葉の表現で伝はるようにすることを試みている以上、
誤記を軽視すべきではないが、実のところ、私は、誤記によって書込み
が私自身に意味不明となるのでない限り、それほど気にしていない。
喩えてみれば、カレーを作る材料の買物をするメモに、「タマネギ」と
書くべきところを、「タマギ」と書いているようなものだ。
私は、まずなによりも自分で考へるために書いているので、気にかける
必要のあることに気が行き届いていることの方が大切であって、
「タマネギ」とメモすべきところに「ニンジン」と書いてしまったり、
「長ネギ」と書き間違えていなければ、それでいいのである。
0160名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/17(金) 09:36:30.40ID:Hoj8pEsN
きちんと誤記のないように書こうと「気をつけている」と、本末転倒に
なりかねない。というのは、「気をつけている」ためには、既に
そのことを「気にかけている」が前提となるからだ。いくら完璧に
「気をつけている」ことができたとしても、そのことによって
あらかじめ「気にかけている」ことが限定されてしまうのでは、
完璧な「気をつけ」の姿勢をとることに集中するあまり、後方
不注意になることを気にかけなくなってしまうようなものだ。
0161イスメーネー垢版2023/02/19(日) 09:56:32.18ID:y8/Wenpd
表現法のパターン認定が文法である。
ここで「認定」と表現するとき、「認定する」行為を、古代ギリシア語
における"ὁμολογέω"という言葉の用法を語源的に気にかけながら、
現代のフランス語の《homologuer》に対応するものと考へて
理解すると都合が良い。
0162名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/19(日) 10:45:22.90ID:y8/Wenpd
言葉の語源を追求する見地からは、言葉に組み合はされて現れる
単音節の発音であっても、それが組み合はされる個々の要素として
捉へられる限り、意味のない言葉の要素はない、つまり、あらゆる
要素は、意味をあらかじめ帯びていることになる。だから、
言葉の語源的説明は、語源的な要素の意味と想定されるものを
足し算的に合はせることによって言葉の意味の解釈を示すこと
が一般的である。

これに対して、文法研究の見地からは、単音節の語を含め、
いかなる言葉も、まず文法があって、それに則って要素が組み合は
されて初めて意味を有するのであり、文法のなしの発音は、
言葉として意味のない単なる声の響き/»Klang«に過ぎないもの
であるとされることになる。

これらの二つの見地は、明らかに対立し、互いに矛盾しているが、
そのいずれもが正当なものとして言語表現の説明や解釈に
適用されることが普通である。しかし、そこでは、言葉が
言葉、つまり、人に意味の通じる発音として「認められる」
のに最も大切なことが忘れられている。それは、発せられる
声(声以外の別の手段による合図であってもよい)が、表現法
として通じるものとしてそのパターンが認められることである。
まず表現がこころみ(心観)られて、その表現が「まこと(真言)」
として「しろしめ」れることにより初めて、それが言葉として
意味を成すとされるのであり、あらかじめ言葉を構成する
意味を帯びた要素が存在するのでも、先に決められたものと
して存在する文法が、それ自体では無意味とされる声の響きの
組合せに意味を与へるわけでもない。
0163bemoan垢版2023/02/19(日) 11:12:48.42ID:y8/Wenpd
言語とはどのようなものであるかについての私の理解を示すのに、
ソポクレースの悲劇、『アンティゴネー』に示される対立の図式を
流用してみるのも面白いのではないかと私には思はれるが、その場合、
この劇の私の解釈は、一般に通用している『アンティゴネー』の
理解とはだいぶ異なったものとなるだろうと思ふ。いずれにしても、
私には、古代ギリシア語の原文が読めないので、そこで用ひられて
いる表現を詳しく検討することができず、現時点では、深入りしても
あまり有益ではなさそうだ。
0164訴ふ垢版2023/02/19(日) 11:54:35.96ID:y8/Wenpd
>complain (v.)
late 14c., compleinen, "lament, bewail, grieve," also "find fault,
express dissatisfaction, criticize," also "make a formal accusation
or charge to an authority," from stem of Old French complaindre
"to lament" (12c.), from Vulgar Latin *complangere, originally
"to beat the breast," from Latin com-, here perhaps an intensive
prefix (see com-), + plangere "to strike, beat the breast"
(from PIE root *plak- (2) "to strike").<
(出典 etymonline.com/search?q=complain)

このような記述を見ると、いかに語源解釈における"be-〜"、
»be-〜«、《con-〜》の説明が、"perfidious"なものであるかに
気づかされざるを得ないだろう。
>from Latin com-, here perhaps an intensive prefix (see com-)
とされるとおり、表現解釈の都合に合はせて、この場合には、
"com-"も"an intensive prefix"とされるが、この場合には、
"complain"がフランス語の《se plaindre de 〜》に対応する
ように
>plangere "to strike, beat the breast"
として、「たたく」作用、「うつ」作用を自らに及ぼす再帰動詞
と見なすような理解が示されている。要するに、語源により言葉の
意味を解釈する側自らが、"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》という
要素に割り当てた意味を、言葉の解釈を操作的に導き出すための
「たの(頼)み」としていないのである。
0165名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/19(日) 14:40:16.19ID:y8/Wenpd
ところで、「記号論」と訳されることが一般的である"semiotics"の
語源説明を参照すると、
> from sēmeion "a sign, mark, token," from sēma "sign" (see semantic).
(出典 etymonline.com/search?q=semiotic)
と記載され、「記号論」/"semiotics"の"semio-"は、「意味論」と訳される
"semantics"の"sema-"と語源的に共通であるとされるだけでなく、
究極的には、日本語の表現として用ひられている「禅(ぜん)」とも共通
であるとされる。
>"to see, look" (source also of Sanskrit dhyati "he meditates;" see zen)
(出典 etymonline.com/word/semantic?ref=etymonline_crossreference)

このような関連付けで語源的に共通であるとすることに「意味がある」と
するのなら、古代ギリシア語の"σῆμᾰ • (sêma)"は、"mark, sign, token"
を意味していたとされるのだから、日本語の「しま(島)」や、
「標(しめ)ゆ(結)ひ」の「標(しめ)」と語源的に共通であると主張しても
何の無理もなさそうに思える。私には、古代ギリシア語の"σῆμᾰ • (sêma)"
と「禅(ぜん)」が語源的につながっているというのが確かなことであるの
かどうかさっぱり分からないが、いずれにせよ、単に個々に言葉を拾ひ
出して類似をまとめてみても、実際にはあまり役に立たないだろう
と思ふ。その反面、古代ギリシア語の"σῆμᾰ • (sêma)"と「標(しめ)」
の類似性が単にまったくの偶然に過ぎないとしても、それらの用法に
類似性が見られるなら、その類似性を活用することは、言語表現を
解釈するのに大いに役立つだろうとも思ふ。
0166名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/20(月) 09:55:20.42ID:y09gz2Z1
>>161イスメーネー2023/02/19(日) 09:56:32.18ID:y8/Wenpd
>表現法のパターン認定が文法である。

これを認めるとき、言語系統論を論じることには、「どのような
意味があるのか」を考え直さざるを得ないことになるだろう
(誤解のないように付け加えると、これは、「言語系統論を
論じることには何の意味もない」という結論を導き出すよう
に促そうとする反語的な問ひではない)。
0167名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/20(月) 10:25:09.76ID:y09gz2Z1
例えば、日本語が、大陸側で中国語を形成することになった表現法を
大々的に流用することによって形成されていることは、既に繰り返し
指摘してきたとおりである。流用によって「日本語」となった言葉を
日本語から排除していくなら、日本語そのものが成立しない。
にもかかわらず、日本語は、中国語を形成した規範を無視するように
独自の表現法を編み出すことによって(それ自体が表現の流用に
よるものだが)独立した言語として形成されているので、言葉
の「意味」を基準に対応関係を参照すると、中国語の表現との
発音の規則的な対応関係は成立しなくなるため、「中国語
系統」の言語ではないとされる。その一方で、言語系統論に
おいては、一般に、意味的に互いに対応するとされる「語」
の発音の規則的な対応だけが問題とされ、「文法的」な違い
は不問に付される。すると、言語系統論は、どこまで、
どのように系統の確かさが確保されるのか、もとより、
原理的な問題を抱え込んでいることになるだろう。日本語は、
他方で中国語となった表現を大々的に流用しているのだから、
単音節のレベルでその対応関係を拾い出すことはやさしい。
しかし、単音節は、それによって言語系統論として対応関係
の系統を確かなものとして示すには、表現として操作性が
高すぎるのである。したがって、言語系統論も実のところ、
発音の「『表現法』上のパターン」の対応関係に依拠している
ことになる。
0168名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/20(月) 10:49:14.26ID:y09gz2Z1
インド・ヨーロッパ語族の系統論を論じるために想定される
「印欧祖語」は、もともと、系統を論じるために架空で再構築された
モデルとされるものであり、「印欧祖語」という形で実際に言語と
して使用されていたと考えられているわけではない。すると、
実際に有効性があるのは、表現を系統的に遡るように比較する
ことによって、かなりの程度で表現パターンの規則的な対応関係を
見出すことが可能であり、その場合に言語表現の規範の共有が認め
られるということまでであって、「インド・ヨーロッパ語族」として
分類されるような人々を集団として、 非印欧語族の言語を話す
人々と明確に分けることができるといったようなことではない。
0169名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/20(月) 14:13:04.64ID:y09gz2Z1
>>114
>>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<
»bestätigen« ⇔ "to confirm"
be-〜«は、英語の"I hereby 〜"と宣言する場合の"hereby"の
"by"がそうであるように、発話遂行的な働きをしている。 <

ここでなにが面白いのかと言へば、それは、言語哲学者のオースティンは、
発話を"perfomative"なものと"constative"なものに分けて対比させたが、
この場合の英語の"constative"の"con-〜"も、ドイツ語の»bestätigen«の
»be-〜«と表現上、同じ役割を果たしていることを見れば、"constative"
とされる発話は、まさしくそれが"con・stative"であることを意図して
発話されることにおいて"perfomative"/「発話遂行的」であることが
はっきりと分かるからである。次に具体例を引用する。
0170名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/20(月) 14:17:58.75ID:y09gz2Z1
>Napoleon Fischer grinste geschmeichelt. „Weil Herr Doktor
sagen, daß ich ein großer Politiker bin… Ich will von dem
Schadenersatz weiter nicht reden. Intimitäten aus den
ersten Kreisen sind für uns doch wichtiger als —
„— als so ein Mädchen“, ergänzte Diederich. „Sie denken immer als Politiker.“

„Immer“, bestätigte Napoleon Fischer. „Mahlzeit, Herr Doktor.“
Er zog sich zurück — indes Diederich feststellte, daß die proletarische
Politik ihre Vorzüge habe. Er schob seine drei Goldstücke wieder in die Tasche.<

(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/292-3)
0171名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/20(月) 14:55:05.47ID:y09gz2Z1
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

英語の語源説明を参照すると、英語の"be-〜"は、サンスクリット語を
介して、既に日常の日本語としても用ひられるようになっている
「有(う)無(む)」の「有(う/ゆう)」に語源的につながるものとされる
ようだが、私には、むしろ、これを語源的にも「表現として」
日本語の「〜ふ」につながる可能性を探った方が「意味がある」の
ではないかと思へる。その場合、私にすぐに想起されるのは、
日本語の「〜ふ」が「復」の漢字が当てられる表現の流用であり、
そのこと自体が、「概念」としては、英語の"ambi-"や"bi-"によって
も表現される「双数性」を想起させる(例えば、「ふた・たび」、
「ふた(二)つ」の「ふ」)ことである。これについては、
気が向いたら、時間のあるときにさらに詳しく書き込むことにする。
0172名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/20(月) 15:04:22.64ID:y09gz2Z1
ところで、「ふた(蓋)」は、それが「おほ(覆)ふ」ものとわか(分)れる
ことによって「ふた(蓋)」である。
0173名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/21(火) 09:10:07.24ID:8PH9oGBN
哲学する者にとって、説明するとは、既に分かっていることを他人に
開示することではなく、現状の自分の理解と無理解をみづからに晒すことである。
0175名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/21(火) 10:26:07.55ID:8PH9oGBN
口を開いて言ふことが「ことづ(言付)け」であるのなら、それが伝へられる
ことにより用件が済むのなら、それで良いのであって、
それ以上の説明の必要はないのである。
0177名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/21(火) 10:33:53.33ID:8PH9oGBN
「ことづ(言付)け」と「つ(告)げぐち(口)」だけが許されるように
人と人との関係が組織化された状態を想像してみるといい。
0178名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/21(火) 11:19:22.92ID:8PH9oGBN
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

"be-〜"は、分離された表現として用ひられる場合には、"by"
となる。それは、"drop by"/「立ちよ(寄)る」、"stand by"/
「よ(寄)りそ(添)って立つ/準備の整った状態で待つ」といった
表現に用ひられているが、より単純には、「〜により」として
手段を示す"by"や、「〜のそば(側)に」という近接性を表現
する"by"でもある。その"by"に対応する表現要素としての
英語の"be-〜"やドイツ語の»be-〜«が、多くの事例で、
ラテン語系の言語においては、《con-〜》に対応していることは、
無論、偶然ではない。ラテン語において《con-〜》は、
分離された表現としては、"cum"として用ひられ、これは、
英語の"with"のような使はれ方をする。これらのことから見ても、
英語の「be動詞」を用ひる存在の表現は、「よ(寄/依)る」という
様態を想起させることを介した表現法であると見ることができる。
0179名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/21(火) 11:22:23.49ID:8PH9oGBN
ただし、ここで私が「be動詞」と呼ぶのは、文字通り"be"を表現として
活用する場合のことであって、文法上の「be動詞」の活用形(語源的に
ばらばらであると考へられている)のことではない。
0181名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/21(火) 11:55:57.35ID:8PH9oGBN
日本語の場合、「ゐ/を(居)る」という存在の仕方が、そこから動かずに
留まっていることを表現しているのに対して、一般に存在することを
表現すると考えられている「あ(或)る」は、これに関連する古語の
「あり(歩)く」という表現にも見てとれるとおり、場所の定まらない
あ(在)り方であり、「あり(歩)き」がちょうど英語の"ambulant"に
対応することは、"be-〜"/»be-〜«と存在の関係について考へるうえ
でも示唆的である。

>ambulant (adj.)
1610s, "walking, moving from place to place," from Latin
ambulantem (nominative ambulans), present participle of ambulare
"to walk, go about" (see amble (v.)). Of diseases, denoting
cases in which the patient may be up and around, by 1913.<
>amble (v.)
[...]from Latin ambulare "to walk, to go about, take a walk,"
perhaps a compound of ambi- "around" (from PIE root *ambhi-
"around") and -ulare, from a Proto-Italic *ala- "to wander,"<
>*ambhi-
also *mbhi-, Proto-Indo-European root meaning "around;"
probably derived from *ant-bhi "from both sides,"
from root *ant- "front, forehead."<
(出典 Online Etymology Dictionary)

私には、この最後の"*ambhi-"の語源説明は、とても不自然に
感じられ、もっとずっと無理のない自然な解釈が可能だろうと思っている。
0182二進法のひととなり垢版2023/02/21(火) 13:22:10.11ID:8PH9oGBN
さて、突然ですが、ここで謎かけです。

「ひとり」でいるときは、いつもでもそこに確かにいるのに、
「ふたり」にになったとたん、跡形もなく「ふつり」と消ゆのは誰でしょう。
0183双論賛成・各論反対垢版2023/02/21(火) 13:39:02.85ID:8PH9oGBN
「概念」としての"being"は、それが「よ(寄/依)る」様態によって
存在していることにより、文字通り「人(ひと)」のごと(如)く
(この場合、「文字通り」というのは、その文字の通りその
ようであるという意味である)「双数」的であるが、しかし、
その「双数性」が現れるのは、作用が「よ(寄/依)る」様態で
働くことの効果が再帰的に表出することによってであって、
あらかじめともに存在するとされるの二つのものが互ひに
寄り添ふことによってではない。
0185知らぬが佛垢版2023/02/21(火) 17:06:47.56ID:8PH9oGBN
>いつもでもそこに確かにいるのに

ここは、「いる」ではなく、きちんと「ゐる」と書くべきでしたね。
また、「ふたり」という表現を使ふとき、当然、私に想起される
のは、「ふ(復)(Middle Chinese: /bɨuH/)たり」なのですが、
それだけではなく、「ふつり」と表現するときも、私に
想起されるのは「ふ(弗)(Middle Chinese: /pɨut̚/)つり 」なのです。
そして、「そこ」がどこであれ、決してそこに「ふたり」が
「ゐる」ことはない。
0186名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/22(水) 17:01:59.36ID:9mcIlQgo
偶々、検索していたキーワードと本の題名が合致していて、なおかつ
販売価格があり得ないほど廉価だったという理由だけで入手した
Heinrich Mannの"Der Untertan"だが、文学作品としては滅多に
出合うことがないような名著だと私は思ふ。一生のうちに読める
本の数はそれほどまでに多くない。だから、偶然に出会う名著は
貴重である。よく知られていて、高い評価を受けている本でも、
目を通してみると、手元に置いておきたいと感じるような著作に
出合うことは稀である。
0187アジ演説垢版2023/02/22(水) 22:57:17.81ID:9mcIlQgo
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

誰も言はないので敢へて言ふが、言語表現として見れば(別に私は、
デカルトについて論じようというわけではない)、「コギト」/
"cogito"がもたらすのは、英語から借用されてカタカナ語として
日本語にもなっている「アジテーション」/"agitation"作用の効果
として主体性を再帰的に表出させることである。

>agitation (n.)
1560s, "debate, discussion" (on the notion of "a mental tossing
to and fro"), from French agitation, from Latin agitationem
(nominative agitatio) "motion, agitation," noun of action from
past-participle stem of agitare "move to and fro," frequentative
of agere "to set in motion, drive forward; keep in movement"
(from PIE root *ag- "to drive, draw out or forth, move").<
(出典 etymonline.com/search?q=agitation)
0189名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/22(水) 23:37:26.92ID:9mcIlQgo
ラテン語の"cogito"をWiktionaryで参照すると、その語源として
>From con- +‎ agitō.
と記載されている。"agitō"は、「作用を働かせる」ことに由来する
表現なので、なぜ"con-・agitō"が「かむか(考)ふ」ことを意味する
表現となるのか少し戸惑うが、むしろ、「かむか(考)ふ」という日本語
の方から"con-・agitō"を捉へ返した方が、この表現法も解釈しやすく
なるのではないかと思ふ。ただし、私が見る限り、「かむか(考)ふ」
という日本語も、「おも(思)ふ」という日本語も表現として、
"con-・agitō"にそれほどうまく対応するものではない。
その一方で、Wiktionaryでそのままリンクをたどって
関連するスペイン語の表現を参照すると、
>From Latin cōgitō, cōgitāre. Doublet of cuidar.
ラテン語の"cōgitāre"から、「注意を払う」、「気を配る」、
「世話をする」などの意味で用ひられるスペイン語の
"cuidar"という表現が派生していることが分かる。
また、さらに注目されるのは、"con-・agitō"の"agitō"と
共通するラテン語の語源からは、フランス語において
《Il s’agit de 〜》という表現法が派生していることだ。
これは、「あつか(扱)はれるのが何であるのか」を示す
ための表現である。これに対応するスペイン語の表現は、
"se trata de 〜"となる。
0190名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/22(水) 23:45:43.36ID:9mcIlQgo
「作用が働く」ことを表現する動詞が、フランス語の《Il s’agit de 〜》
という表現においてなぜ「あつか(扱)はれるのが何であるのか」を示す
ための表現となるのか、これも、最初は、少し捉へにくい印象を受ける
かもしれないが、やはりカタカナ語として既に日本語にもなっている
「アジェンダ」という表現を想起してみれば、この表現を感覚的に
捉へることもそう難しいことではないだろう。

>agenda (n.)
1650s, originally theological, "matters of practice," as opposed
to credenda "things to be believed, matters of faith," from Latin
agenda, literally "things to be done," neuter plural of agendus,
gerundive of agere "to do" (from PIE root *ag- "to drive, draw
out or forth, move").<
(出典 etymonline.com/search?q=agenda)
0191名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/22(水) 23:59:31.53ID:9mcIlQgo
ここで、ラテン語の"cōgitāre"が英語に取り込まれて名詞化された
"cogitation"の語源解釈を参照すると、次のように記載される。

>from Latin cogitationem (nominative cogitatio), noun of
action from past participle stem of cogitare "to think, reflect,
consider, turn over in the mind," which is apparently a
contraction of co-agitare, from assimilated form of com
"together" (see co-) + agitare, here in a sense of "to turn
over in the mind," literally "to put in constant motion, drive,
impel," frequentative of agere "to move, drive"<
(出典 etymonline.com/search?q=cogitation&ref=searchbar_searchhint)

しかし、これは、私には、かなりご都合主義的で、整合性のない説明
であるように私には感じられる。というのは、"agitare"が「動かす作用」
を表現しているとしても、それを"to turn over"とするのは、過剰な解釈
であるように思へるからである。さらに、"together"を意味するとされる
"co-"に関しても、きちんと説明がされているようには見えない。
0193名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/23(木) 10:37:30.73ID:hZ/rlOwT
言おうと思っていたことは、もうそれほど残っているわけではないが、
続きを書き込むことにする。

>>187に引用したとおり、ラテン語の"agitare"は、一般に
>"move to and fro," frequentative of agere
として解釈される表現である。したがって、"agitare"に、例えば、
現代のフランス語で用ひられる《remuer》を当てるなら、
"cōgitāre"≒《remuer les idées》とするなら、そのまま、
"cōgitāre"⇔《remuer les idées》⇔「かむか(考)ふ」のように
対応させることは容易だろう。しかし、ここには大きな問題がある。
というのは、"agitare"≒《remuer》とするのがそれなりに妥当で
あるとしても、"cō-"は、《les idées》に対応するような表現ではなく、
《les idées》が《remuer》の作用の対象としてあらかじめ存在する
とすること自体が、まず先に「かむか(考)へ」があるとする結論の
先取りになってしまうからである。
0195名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/23(木) 11:11:14.82ID:hZ/rlOwT
私は、この問題を解消する「ヒント」は、フランス語の《Il s’agit de 〜》
という慣用句や、カタカナ語として日本語としても使はれる
「アジェンダ」という表現にあると思う。というのも、「アジェンダ」
とは「討議されるべきこと」を意味するように用ひられるのに対して、
《Il s’agit de 〜》において再帰形で用いられている動詞は《agir》
であり、"cōgitāre"の"agitare"は、《agir》の語源であるラテン語の
"agere"の"frequentative"であるとされるからである。フランス語の
《agiter》は、「討議する」こと、つまり、「(互いの間で)検討する」
ことを意味するように用ひられ、《Il s’agit de 〜》という慣用句も、
《s'agiter》が「討議される」ことを意味することと明らかに関連
しているだろう。
0196名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/23(木) 11:26:14.86ID:hZ/rlOwT
長くなり過ぎたので、何を問題としているのか分かりにくくならない
ように「結論」を急ごう。といっても、それは、既に最初に述べたこと
の繰り返しである。

"cōgitāre"は、《Il s’agit de 〜》や《s'agiter》のように文法的に
再帰形であるわけではない。しかし、"cōgitāre"が、
"cōgitāre"⇔《remuer les idées》⇔「かむか(考)ふ」
のような対応関係をもたらすとすれば、それは、"agitare"
の「作用の効果として再帰的に表出することになる『主体性』」
が《les idées》だからである。したがって、"cōgitāre"の
場合も、"cō-"は、表現法として、英語の"be-〜"やドイツ語の
»be-〜«に対応する働きをしていると言ふことができるだろう。
0197無責任なアジテーション垢版2023/02/23(木) 11:50:59.12ID:hZ/rlOwT
さらに、スピノザの議論がどうであろうと関係なく、また私にラテン語の
知識がまったく欠けていることも無視して、いつものとおり、無責任な
ことを言はせてもらえば、用法はよく分からないまま、「概念」として
その表現だけはよく目にする「コナトゥス」/"conatus"についても、
同様の議論が成立するだろうと私は思っている。
>conor, conaris, conari A, conatus sum (Dep.) Verb
1. to try
2. to attempt
(出典 latin-is-simple.com/en/vocabulary/verb/269/)

Wiktionaryで"conor"の語源を参照すると、次のように記載される。
>From Proto-Italic *kōnāō, from Proto-Indo-European *kona,
from root *ken- (“to set oneself in motion”). How the verb's
active voice virtually vanished remains unknown. <

私の根拠のない憶測によれば、この語源解釈は完全に誤っている。
私の思ふところでは、"conor"の"co-"も上で検討してきた"co-"
と同様の表現であり、"nor"は、ドイツ語であれば、»nehmen«
に、古代ギリシア語であれば、"νέμω"につながるような語源に由来する。
>Etymology
From Proto-Indo-European *nem- (“to assign, allot; take”).
Cognate with English numb, Dutch nemen, German nehmen,
and Albanian njeh (“count”), nëmë (“curse”). <
(出典 en.wiktionary.org/wiki/νέμω#Ancient_Greek)

したがって、言葉の「意味」から対応関係を示すなら、"conatus"は、
英語の"undertaking"やフランス語の《entreprise》に近いことになる
だろう。
0198名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/23(木) 11:56:08.53ID:hZ/rlOwT
ひとまず言ひたかったことは言ひ尽くしたので、スッキリした。
しばらくは、発言を控えることにしよう。
0199名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/23(木) 14:06:48.95ID:hZ/rlOwT
書き込もうと思って忘れていたので、付け足しておくが、
ニーチェの»Wille zur Macht«/「できることを」がプラグマティズムに
近いものとして現れるのは、»Wille«に沿ふように行はれるのが
どのような行為であるにしても、その効果としてもたらされる
ものが»die Macht«/「できること」として「先取り」されている
からである。しかし、その»die Macht«/「できること」が
「無に、もしくは無限にみづから(身づ柄/自ら)が解消されること」
であるとすればどうなるのか、というのが禁欲主義的ニヒリズムの
問題である。
0200名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/23(木) 16:58:32.66ID:hZ/rlOwT
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働き<

《con-〜》の表現上の利用のされ方としては、ドイツ語の場合、
»be-〜«だけでなく、»mitansehen«のような表現に見られる
"con- (“with, together”) "と意味的にも対応する»mit«の用法も参考になる。

>mitansehen
>Es ist so kläglich, den Untergang einer schönen Entwicklung
mitansehen zu müssen.
[Schalcher, Traugott: Die Reklame der Straße, Wien: C. Barth 1927, S. 57] <
(出典 dwds.de/wb/mitansehen)
0201名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/24(金) 08:30:26.29ID:m9i6LeA4
私は、ドイツ語の辞書を所持していないので(本当は、手元に紙の辞書が
欲しいのだが、それを入手するための金があると、同じ金額で手に入る
ドイツ語の原書の方が魅力的なので、いつまでたっても辞書を購入する
に至らないという奇妙な理由によるw)、ネット検索でヒットした
ドイツ語の分離動詞の用法を引用する。

>Ich kann das nicht mit ansehen.
(それは見るに耐えない。)<
(出典 rika-museum.com/learning-german-ansehen/)

»mit・an・sehen«または»mit an・sehen«という表現において、
»mit«はちょうど、「見て『ゐ/を(居)』られない」と表現される
場合の『ゐ/を(居)』に対応する表現となっていることが分かる。

次に、»mit・nehmen«という表現について見ると、
>Er fuhr so scharf in die Kurve, dass er einen Teil der Mauer mitnahm.
(彼はカーブに急な角度で突っ込んだため、壁をこすってしまった。
→ 壁の一部を持っていった)<
(出典 rika-museum.com/learning-german-prefix-mit/)

こちらの場合には、»mit・nehmen«の»mit«は、»nehmen«、つまり、
「と(取/獲/採/摂)る」作用を働かせる側の「身体性」を表現している
ことが分かる。
0202名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/24(金) 08:43:18.36ID:m9i6LeA4
したがって、「コナトゥス」/"conatus"に、>>197に示したとおりに
勝手な憶測による独自の語源解釈を施して、この場合の"co-"にドイツ語の
»mit-«を対応させて考えてみるなら、英語の"undertaking"やフランス語
の《entreprise》に対応させることもできる「コナトゥス」/"conatus"
の第三者的な「具体化」/"corporation"が、»das Mitnehmen«としての
「み(身)ど(取/獲)り」/「みどり(緑)」であることになる。
0203名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/24(金) 09:26:04.71ID:m9i6LeA4
>Quae tempestas, di immortales, quae flamma, quae vastitas
quae pestis Graeciae fuisset, nisi incredibilis ac divina virtus furentis
hominis conatum atque audaciam compressisset! <
(出典 latin-is-simple.com/en/library/cicero/philippics/philippica-10/?h=conatum)
0204名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/24(金) 10:30:17.73ID:m9i6LeA4
>„Prost!“ sagte Diederich. „Aber, meine Herren, mögen
die subversiven Tendenzen im Lande noch so stark sein,
wir sind stärker, denn wir haben einen Agitator,
den die Gegner nicht haben, und das ist Seine Majestät.“ <
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_III)
0205Benehmen Sie sich!垢版2023/02/24(金) 13:43:08.91ID:m9i6LeA4
「しつけ(身・美)」/"discipline"は、»das Benehmen«をよいものに
することを目的として行はれる。
言い換へるなら、「しつけ(身・美)」/"discipline"とは、
よ(善)き「みどり」がお(生)ひしげ(茂)るようにする一方で、
あ(悪)しき「みどり」が枯れ果てるようにするための「優生学」であり、
だからこそ、「しつけ(身・美)」は、「み(身)にいた(痛/傷)み」を
覚えさせるように行はれる「とが(咎)め」と表裏一体となっている。
それでも、「みどり」のもたらす「みのり」が、「とが(咎)め」に
よって与へられる「いた(痛/傷)み」を上回るなら、「しつけ(身・美)」
は失敗する。
0206名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/24(金) 14:05:56.54ID:m9i6LeA4
このことからも、「『なにもしない』ことが『できる』」ことは、
誰にとっても、実は、とても好ましい「よ(善/良)い」ことである
ことが分かる。ただし、「そんなことをしても何にもならない」、
「そんなことをすると身のためにならない」と言って親切に
忠告してくれるだけでなく、その忠告を無視して何かをしようと
するなら、それを実力行使で「とが(咎)め」ようとする場合、
たとえ、その本人が自分は倫理的・道徳的に正しいと確信して
いたとしても、その振舞ひが誰の身のためになっているのかは、
定かではない。
0207名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/24(金) 14:10:11.86ID:m9i6LeA4
世の中には、何もしないことと、何もさせないことを専門の職業として
自分の一生をそれに捧げている人々が、一般的な想定で信じられている
よりもはるかに大きな割り合いで存在する。
0209場当たり的な説明の好例垢版2023/02/24(金) 17:59:30.81ID:m9i6LeA4
英語の"to have"と"to behave"の対比も、表現形成において"be-〜"が
担っていた役割をよく示している。しかし、英語においてこれほどまで
に基本的な表現についても、一般に通用している語源解釈は、場当たり
的な説明しかできていない。

>behave (v.)
early 15c., reflexive, "conduct or comport" (oneself, in a specified
manner), from be- intensive prefix + have in sense of "to have
or bear (oneself) in a particular way, comport" (compare German
sich behaben, French se porter). The cognate Old English compound
behabban meant "to contain," and alternatively the modern sense
of behave might have evolved from behabban via a notion of
"self-restraint." In early modern English it also could be transitive,
"to govern, manage, conduct." Related: Behaved; behaving.<
(出典 etymonline.com/search?q=behave)
0210名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/24(金) 18:12:17.66ID:m9i6LeA4
本当にそんなことはどうでもいいと思っているのなら、まだましなのである。
しかし、残念ながら、事態ははるかに深刻である可能性の方がずっと高い。
0211名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/24(金) 18:13:42.06ID:m9i6LeA4
しかも、その深刻な事態については、私のような愚か者でなければ、
口を開こうとさえしないだろう。何の得にもならないのだから、
当たり前と言へば当たり前だが。
0212名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/24(金) 23:43:37.49ID:m9i6LeA4
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

既にしつこいほど自己引用しているが、ここで、一見、意外に
思へるかもしれないが、ひとたび気づいてみれば、ごく自然に
感じられるであろう事例を示そう。それは、「さび(寂)しい」
という表現に見られる「さ(寂/錆)び」という表現により
伝へられる感覚と、「(ある場所に)とどまる, 居続ける」
(ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説)
ことを意味するドイツ語の»bleiben«という動詞が表現して
いる感覚のきれいな対応関係である。
0213名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/25(土) 00:03:10.34ID:VCd/vZLi
「さ(寂/錆)び」の「さ」は、「さ(去)る」の「さ」であり、
「さ(去)る」ことがもたらす「さら(晒)す」ことの「さ」でもある。
「〜び」の方は、「〜ふ」の活用形であり、したがって、
「さ(寂/錆)び」とは、「さ(去)る」こと、および「さら(晒)す」
ことの作用の効果として再帰的に表出する主体性の様態であり、
そのような様態を生じさせることを意味するのが「さび(寂)し」
である。

「さ(寂/錆)び」は、「さ(去)る」作用の効果としてもたらされる
のだから、そこに「さら(晒)さ」れて「残っている」イメージを
想起させる。このことは、万葉集の歌を見ても、容易に確認する
ことができる。

>万葉集 第19巻 4159番
礒上之 都萬麻乎見者 根乎延而 年深有之 神<左>備尓家里
礒の上のつままを見れば根を延へて年深からし神さびにけり
いそのうへの つままをみれば ねをはへて としふかからし かむさびにけり
(出典 万葉集ナビ)

>万葉集 第17巻 4003番
伊尓之邊遊 阿理吉仁家礼婆 許其志可毛 伊波能可牟佐備 多末伎波流 伊久代經尓家牟
古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ
いにしへゆ ありきにければ こごしかも いはのかむさび たまきはる いくよへにけむ
(出典 同上)
0214名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/25(土) 00:19:10.19ID:VCd/vZLi
では、ドイツ語の»bleiben«の方はどうだろうか。Wiktionaryを
参照すると、その語源は、次のように説明されている。

>Etymology
From Middle High German blīben, belīben (“to remain in
the same position, pause, blin”), from Old High German bilīban
(“to remain”), from Proto-Germanic *bilībaną (“to remain”),
from Proto-Indo-European *leyp- (“to stick, glue”).
Cognate with Dutch blijven (“to remain”),
English belive (“to remain, stay”). More at belive. <
(出典 en.wiktionary.org/wiki/bleiben)

現代のドイツ語の»bleiben«からは»be-〜«の"e"が消失している
が、この表現の場合も語頭の"b"は、前綴りの»be-〜«であることが
分かる。さらに、語源的にも、この表現は、"to remain"を意味する
とされるが、"*bilībaną (“to remain”)"のリンクをたどると、
>*lībaną
to remain, to be left<
(出典 en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Germanic/lībaną)
と記載され、"to remain"、つまり、「残る」ことが、"to be left"、
「さ(去)られる」こととキアスム的に反転する関係として捉へられて
いることを表現していたものと想定されていることが分かる。さらに、
この想定は、»bleiben«が英語の古語の"belive"と語源的に共通である
と考へられることからも裏付けられる。次に、その語源説明を参照する。
0215名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/25(土) 00:26:53.14ID:VCd/vZLi
>belive (v.)
obsolete verb, Middle English biliven, "remain in a place; be left over,"
from Old English belifan "remain," intransitive form of belæfan
"cause to remain" (see beleave). A general Germanic compound
(cognates: Old Saxon bilibhon, Gothic bileiban, Old High German
biliban, German bleiben, Dutch blijven).

It was confused in early Middle English with beleave and merged
into it, which gave beleave two clashing senses ("to leave,"
also "to remain") which might be why the compound word,
the cognate of important verbs in other Germanic languages,
was abandoned in English and only leave (v.) remains.<

ここまできれいに説明できるのに、"be-〜"/»be-〜«の用法に
ついてメタ言語的に記述する段になると、場当たり的に一貫性の
ない説明になるというのは、むしろ、極めて不自然である
(つまり、「自虐的」に何か無理をしている)と言はざるを得ない
のではないか。
0216残り物には福がある/古典の効用垢版2023/02/25(土) 10:11:23.19ID:VCd/vZLi
"to be left"、「さ(去)られて残る」ことの効果が再帰的に表出して、
「かむ(神)さび」となり、"to leave"、「そのままにする」ことの
効果が再帰的に表出して、「(神仏を)たの(頼)む」こと、すなわち、
"belief"となるという関係性は、とても面白くないだろうか。
0217名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/25(土) 11:39:41.82ID:VCd/vZLi
「残り物には福がある」、これは、書籍の場合にはよく当てはまることが
多い。偶々、格安だったので最近、入手したHeinrich Mannの
"Der Untertan"もその典型だろう。この小説が滅多に出会ふことのない
名著であると感じられるのは、そこで語られているのが他に例のない
ような特別な「ストーリー」であるからではない。魅力を感じさせる
ような人物がそこに描かれているからでもない。そうではなく、
Heinrich Mannの言語表現が、誰でもが容易に気づいて「ゐ」ながらも、
メタ言語的に記述することのない、したがって、それ自体を対象と
して語ることのない、ここでも論じてきたような関係性を極めて
巧みに言葉として捉へて、それを読む側に(私のようにドイツ語の
教育を受けたことのない者にさえ)うまく伝はるようにすることに
成功しているからである。
0218名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/25(土) 11:46:16.25ID:VCd/vZLi
一般に、極めて「雄弁な」人々、「多弁な」人々も、気づくはずのこと
に気づかされて、その「気づき」について語ることを迫られると、
とたんに黙り込むのである。
0219かむ(神)さび垢版2023/02/25(土) 12:01:17.70ID:VCd/vZLi
>relic (n.)
c. 1200, relik, "a body part or other object held in reverence or
affection due to its connection with a holy person," from Old French
relique, relike (11c., plural reliques), from Late Latin
reliquiæ (plural) "the remains of a martyr," in classical Latin
"remains, remnants," noun use of the fem. plural of reliquus
"remaining, that which remains."

This is related to relinquere (perfective reliqui) "to leave behind,
forsake, abandon, give up," from re- "back" (see re-) + linquere
"to leave" (from PIE *linkw-, nasalized form of root *leikw- "to leave").
Old English used reliquias, directly from Latin.
(出典 etymonline.com/search?q=relic&ref=searchbar_searchhint)
0220名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/25(土) 13:42:10.77ID:VCd/vZLi
>beteiligen
ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
❶ [再]([英] participate in) ⸨sich4 an et3⸩ (…に)参加する, 関与する; 出資する
an et3 beteiligt sein|…に参加〈関与〉している.
❷ [他] ⸨j4 an et3⸩ (人に…を)分け与える, 参加させる.<

民主主義の政治とは、個人がまつりごとに出資者として参加することなのか?
これについては、»beteiligen«という表現とは関係なしに既に別の機会に
掲示板の別のスレッドで十分に論じたので、もはや言ひ残したことはほとんどない。
»beteiligen«のあり方の正しさを規範化しようとすればするほど、
まつりごとへの出資者として正当な「配分」/"share"について「調整」
するために集会に参加しているつもりの個人は、「分け前」ではなく、
「あ(当)てが(交)ひ」を競い合ふように「調教」されることになるだろう。
0222名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/25(土) 20:45:35.65ID:VCd/vZLi
ところで、古語の「わりなし」が表現しているのは、"irrational"でも、
"unreasonable"でもなく、フランス語であれば、《sans mesure》、
ドイツ語であれば、»ohne Maß«である。
0224ひと(人/一/等)をはか(測/量/諮/謀)る尺度垢版2023/02/26(日) 09:55:21.84ID:r5TThqWY
ひと(人/一/等)が万物をはか(測/量/諮/謀)る尺度であるとしても、
その尺度は、あらかじめ与へられているわけではない。

統治において、「ひと(人/一/等)をはか(測/量/諮/謀)る尺度」は、
「蛇に睨まれた蛙」(G.E.Lessing, "Fabeln", '13. Die Wasserschlange"
参照)の臆病さ/愚かさと、「そば(側)か(離)り/そ・ばかり(曾婆訶理)」
(『古事記』、岩波文庫、倉野憲司校注、p.171参照)の勇気/賢さの
間にある。
0225名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/26(日) 09:59:56.65ID:r5TThqWY
>Die Wasserschlange  ― Gotthold Ephraim Lessing

Zeus hatte nunmehr den Fröschen einen andern König gegeben;
anstatt eines friedlichen Klotzes eine gefräßige Wasserschlange.

"Willst du unser König sein", schrien die Frösche, "warum
verschlingst du uns?"
"Darum", antwortete die Schlange, "weil ihr um mich gebeten habt."
"Ich habe nicht um dich gebeten!" rief einer von den Fröschen,
den sie schon mit den Augen verschlang.
"Nicht?" sagte die Wasserschlange. "Desto schlimmer!
So muss ich dich verschlingen, weil du nicht um mich gebeten hast."<

(出典 deutschland-lese.de/streifzuege/fabeln/gotthold-e-lessing/die-wasserschlange/)

>曾婆訶理、吾が爲に大き功あれども、既に己が君を殺せし、これ義ならず。
然れどもその功を賽(むく)いぬは、信(まこと)無しと謂いつべし。
既にその信(まこと)を行はば、還りてその情(こころ)に惶(かしこ)けれ。
故、その功を報(むく)ゆれども、その正身を滅してむとおもほしき。<
(出典 『古事記』、岩波文庫、倉野憲司校注、p.171)
0226蛇に睨まれた蛙垢版2023/02/26(日) 10:05:56.16ID:r5TThqWY
>>215
>"be-〜"/»be-〜«の用法についてメタ言語的に記述する段になると、
場当たり的に一貫性のない説明になるというのは、むしろ、極めて
不自然である(つまり、「自虐的」に何か無理をしている)と言はざるを
得ないのではないか。 <
0227似非数学ポエム垢版2023/02/26(日) 10:18:48.85ID:r5TThqWY
この"be-〜"/»be-〜«/"con-〜"(すなはち、英語の"to be"および"by"
でもある)によって伝はる「存在感」が、ユークリッドの互除法である。
0228名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/26(日) 10:30:30.72ID:r5TThqWY
>「人(ひと)」のごと(如)く(この場合、「文字通り」というのは、
その文字の通りそのようであるという意味である)「双数」的である
0229犬も歩けば棒に当たる垢版2023/02/26(日) 11:05:41.58ID:r5TThqWY
>Da knurrte der Wulckowsche Hund, unter dem Präsidenten
hervor aber kam ein donnerndes Geräusch, ein lang hinrollendes
Geknatter — und Diederich erschrak tief. Er verstand nicht,
was dies für ein Anfall gewesen war. Das Gebäude der Ordnung,
wieder aufgerichtet in seiner Brust, zitterte nur noch leise.
Der Herr Regierungspräsident hatte wichtige Staatsgeschäfte.
Man wartete eben, bis er einen bemerkte; dann bekundete
man gute Gesinnung und sorgte für gute Geschäfte…<
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_V)
0230名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/26(日) 12:19:49.74ID:r5TThqWY
>ところで、古語の「わりなし」が表現しているのは、"irrational"でも、
"unreasonable"でもなく、フランス語であれば、《sans mesure》、
ドイツ語であれば、»ohne Maß«である。<

これに対応する英語の表現は、"without moderation"であり、
「『わり(割)』なし」の「わり(割)」、「『わり(割)』にあ(合)ふ/
あ(合)はない」、「『わり(割)』をく(食)ふ」、「『わり(割)』と良い」
などの表現において用ひられる「わり(割)」を孤立させて、名詞化
するならそれがドイツ語において対応するのは、英語では、
"modesty"や"moderation"として訳される»Bescheidenheit«
である。この「わり(割)」を、数量化された「あたひ(価/値)」の
与へられた「比」/"ratio"になぞら(準)へて捉へてしまう思想や
哲学は、「ひと(人/一/等)」について決定的に誤った考へ方を
して「ゐ」る。
0231名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/26(日) 12:21:07.24ID:r5TThqWY
誤:名詞化するならそれがドイツ語において対応するのは
正:名詞化するならそれにドイツ語において対応するのは
0232名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/26(日) 17:04:20.44ID:r5TThqWY
>>200-201
>»mit・an・sehen«または»mit an・sehen«という表現において、
»mit«はちょうど、「見て『ゐ/を(居)』られない」と表現される
場合の『ゐ/を(居)』に対応する表現となっていることが分かる。<

この»mit・an・sehen«における»mit«の用法から、現代の日本語でも
普通に使はれる「いたたまれない」という表現が、「『ゐ(居)た(立)ち』
が『た(堪)えられない/たま(溜)らない』」という表現であることが分かる。
母語の日本語として普段から慣れ親しんでいる表現が、どのような
表現法であるのかについて、私自身は、をそ(教)はったことのない
ドイツ語の表現に接して、誰にをそ(教)はるでもなく初めて意識される
のは、とても面白いことだ。

>精選版 日本国語大辞典「いたたまらない」の解説
※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)三「わたしが初ての座敷の時、
がうぎといぢめたはな〈略〉それから居溜(ヰタタマ)らねへから演コらうと云たらbフ」<
0234名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/26(日) 23:26:55.00ID:r5TThqWY
>>197
>Wiktionaryで"conor"の語源を参照すると、次のように記載される。
>From Proto-Italic *kōnāō, from Proto-Indo-European *kona,
from root *ken- (“to set oneself in motion”).<

"conatus"/「コナトゥス」のこの語源解釈に誰も文句をつけないのも、
かなり「自虐的に無理をしている」ように私には思へる。なぜなら、
ラテン語で"conor"の前に"prae"を付けただけの"praeconor"は、
英語の"to proclaim"に対応するような意味となるからだ。
(出典 latin-is-simple.com/en/vocabulary/verb/5569/)
そして、この"praeconor"という表現は、ラテン語から派生した
現代のスペイン語の"pretender"という表現に似ている。この
"pretender"と語源を同じくする英語の"to pretend"は、現代では、
「見せかける」という意味で使われるが、英語においても古くは、
そのように用ひられていたわけではない。
>pretend (v.)
late 14c., pretenden, "to profess, put forward as a statement or assertion,
maintain" (a claim, etc.), "to direct (one's) efforts," from Old French
pretendre "to lay claim," from Latin praetendere "stretch in front,
spread before, put forward; put forward as an excuse, allege,
"from prae "before" (see pre-) + tendere "to stretch" (from PIE root
*ten- "to stretch").
(出典 etymonline.com/search?q=pretend)
0235を(終)はりなき数学ポエム垢版2023/02/27(月) 09:36:49.71ID:KoqPzC2N
「まるくをさ(収/治)める」とは「を(折)りあ(合)ひ」がつくように
することだろう。もともとは法制度の用語に由来するとされ、
「通達」の意味で用ひられるとともに、日常語としては、
»Bescheid sagen«で「(どうするかを)知らせる」、
»Bescheid wissen«で「事情に通じている」などの表現で
よく使われ、その場合は「情況」に相当すると考へることができる
»Bescheid«も、語源的には、「を(折)りあ(合)ひ」に相当するような
表現ではないかと私には思へる。
ところで、「まるくをさ(収/治)める」ように「を(折)りあ(合)ひ」が
つくようにすることは、円周率を、かぞ(数)へ/か(仮)ぞ(添)へられた
あたひ(価/値/能)の比により近似して求めることになぞら(擬)へる
ことができるだろう。
0236を(終)はりなき数学ポエム垢版2023/02/27(月) 10:01:59.34ID:KoqPzC2N
円周率を、かぞ(数)へ/か(仮)ぞ(添)へられたあたひ(価/値/能)の比と
して求めることは、連分数計算の形式で表現してみれば、はっきりと
分かるとおり、究極的に数へられた数の比として決して収束すること
のない円周率を、既に定まった数の比として近似するたびに、
その都度、単位(たん・ゐ)としての1(「ひと/一/人/等」)の
方が精度として規定されることになる。これを、
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』が
つくようにすること」に合はせて考へてみるなら、何か角
の立つ事情が生じた場合、それが「まるくをさ(収/治)まる」
ように「ひと/一/人/等」の規定の方が「を(折)りあ(合)ひ」
をつけること/"modification"もしくは"moderation"/
»Bescheidenheit«を求められるようになることを意味して
いるだろう。
0237を(終)はりなき数学ポエム垢版2023/02/27(月) 10:31:33.46ID:KoqPzC2N
ところが、である。そのようにして「『まるくをさ(収/治)める』ように
『を(折)りあ(合)ひ』がつくようにすること」をすべての人々、あるいは
世界全体としての原理原則/倫(=人・侖)理としてしまうなら、
「を(折)りあ(合)ひ」をつけようとすることは、「究極的に数へられた
数の比として決して収束することのない円周率」を無限の精度で
追求するために、「ひと/一/人/等」が「を(折)りあ(合)ひ」をつける
ことを無限に絶え間なく求められるようなことになる。

当事者の間で物事に何らかの角が立つ状況であれば、「を(折)り
あ(合)ひ」をつけることが求められるのは、それが頻繁に生じて
煩わしいと感じられるとしても、「や(止)むを得ない」(原理原則
としての「を(終)はりなき」無限ではない)こととして受け容れ
られるだろう。しかし、もはや、みづから(身づ柄/自ら)が
関与することによって初めて成立する当事者の間では、
どのように角が立っているのかまったく不明でありながら、
「すべての人々、あるいは世界全体」という「究極的に数値
として求められた円周率」に喩えられる、決して「そこ」に
はあり得ない存在のために際限なく「を(折)りあ(合)ひ」を
つけることを求められるならば、それは、あらかじめ徒労
に過ぎないことと分かっていることを一方的に強制されて
いると感じられるようになる。にもかかわらず、一般的に
広く通用している哲学や思想は、明示的にであれ、暗黙裡
にであれ、そのような「『無限』の追求」を理想としている
のである。
0238名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/27(月) 10:40:58.59ID:KoqPzC2N
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』がつく
ようにすること」をすべての人々、あるいは世界全体としての
原理原則/倫(=人・侖)理として、あらかじめ定めて、その原理
原則/倫理に従ふように個々の人々を誘導すべきだという考へ方
は、一見、まともで、正しいものであるように見えながら、
それ自体、まったく»Bescheidenheit«を欠いている。
0240名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/27(月) 11:13:55.78ID:KoqPzC2N
>この»mit・an・sehen«における»mit«の用法から、現代の日本語でも
普通に使はれる「いたたまれない」という表現が、「『ゐ(居)た(立)ち』
が『た(堪)えられない/たま(溜)らない』」という表現であることが分かる。

とても意外なことに、これに関連して「獺(カワウソ)」が、語源的に
どのような表現であったかを、連想により導き出すことができる。
なぜなら、「獺(カワウソ)」は、古語では、「かはうそ」ではなく、
「かはをそ」だからである。「かはをそ」が水辺に棲むイタチ科の
動物であることから、「かは」が「かは(河/川)」であることに
疑いの余地はない。では、「をそ」は何かと言へば、「を(居)そ(且)」
である。さらに、「そ(且)」が何かと言へば、それは立ち上がった
様子であり、したがって、「を(居)そ(且)」は、「ゐ(居)た(立)ち」、
つまり、「イタチ」の別表現であることになる。
0241名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/27(月) 11:15:17.37ID:KoqPzC2N
>Derived characters
咀, , 姐, 狙, 阻, 䏣, 柤, 𤇅, 祖, 租, 粗, 組(组), 蛆, 袓, 䱉, 助, 䢸, 䪶, 宜, 㡹, 査, 𤇙, 䯶, 跙, 徂
(出典 en.wiktionary.org/wiki/且)
0242名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/27(月) 11:26:53.19ID:KoqPzC2N
日本語の「ゐ(居)る」に対応して、英語の"to be"が本来的に
表現しているのは、「存在」とういよりも、「臨場感」だろう。
0243名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/27(月) 11:31:57.00ID:KoqPzC2N
ただし、あらかじめ非対称な関係がそこにあることを前提としている
ように感じられる「『臨床』哲学」という言葉は、私は好きではない。
「臨床」は"bedside"以外ではあり得ないだろう。
0245名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/28(火) 10:52:43.80ID:5iWWGne4
>「そ(且)」が何かと言へば、それは立ち上がった様子であり

「立ち上がった様子」を単に"standing"という状態に対応するものと
イメージしてしまうとすれば、この説明を適切に理解していない。
「そ(且)」によって表現されているのは、"standing"ではなく、
"to stand up"であり("to help"に対応する「助」という漢字が、
"to help (stand) up"をイメージさせるものであることを想起して
みるのもいいだろう)、さらには「『そ』び(聳)ゆ」の「そ」に
対応するように"rising up"であり(「阻」がどのような形象文字
としてどのような様態をイメージさせるものであるかを考へて
みるとよい)、その作用が概念化して捉へられた"uprising"である。

ただし、日本語の表現としてこの「そ」の用法は、「且」という
漢字によって縛られるものではなく、この漢字の象形がその様態の
イメージを想起させるのに好都合であるために利用したまでである。
例えば、以前に牛頭天王に関連して、
「曽尸茂梨(そしもり)」⇔「蘇志摩利(そしまり)」の互いに反転した
関係について説明したとき、「曽尸茂梨(そしもり)」は、死体が
うず高く重なる「死屍累々」であり、「蘇志摩利(そしまり)」は、
「復興の志」であるといったような説明をした憶えがあるが、
この場合の「そ(曽/蘇)」も、"rising up"に対応している。
他にも、「蝦夷(えぞ)」、「熊襲(くまそ)」「阿蘇(あそ)山」、
「味噌(みそ)」(てまえ・みそ(三十・一文字/みそ・ひともじ))など
における「そ」の用法がすぐに想起される(「そ/ぞ」は、「増」
や「層」などの漢字に関連付けられる場合も多く見られること
から、「そ(且)」と「そ(曽)」のイメージは複合化している)。
0246名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/28(火) 11:21:13.46ID:5iWWGne4
このような連想による推論のプロセスは、
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』がつく
ようにすること」は、その都度、暫定的に単位の精度を「都合に
合はせて」定めて、近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へ
を求めることに喩えることができるが、それを何らかの権威によって
たし(確)かなことがあらかじめ保証され根拠に基づく演繹、または
「全体的な結果」として最終的に到達されるはずであると信じ込まれ
た絶対的な予定調和からの逆算のようなものと思ひ違ひをするなら、
推論の根拠がまったく不確かなことや、導き出される近似の
こた(応)への精度(誤差が大きすぎて、まったく使ひものにならない
場合も含めて)に大きなばらつきが生じることに気づいて、
期待を裏切られることになるだろう。しかし、それは、そもそも、
勝手な思ひ違ひである。というのも、私は、他の誰かが私の
推論によって導き出されたこた(応)へをたの(頼)みにしなければ
ならないなどということは、まったく要求していないからだ。
利用するのも、利用しないのも各々の勝手であり、たの(頼)みに
できるかどうかは、その都度、各自が自分で確かめればよいこと
であって、私の知ったことではない。
0247名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/28(火) 11:24:32.28ID:5iWWGne4
誤:近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へを求めることに
正:近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へを求める連分数計算に
0249名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/28(火) 13:56:02.72ID:5iWWGne4
>>245
それにしても、「白(シロ)鼬(イタチ)」とも呼ばれる「オコジョ」の
名前の由来を検索しても、何もヒットしないばかりか、その漢字表記さえ
見当たらないのはなぜだろう。「カワウソ(獺)」という名前の「ウソ」は、
もともとは「をそ」であり、「乎曽」と表記されたことが岩波古語辞典
にも記載される。私は、この「をそ」は、「を(居)そ(且) 」であると
説明したが、「そ(曽)」に想定される中国語の中古音は、
"/d͡zəŋ/"または"/t͡səŋ/"であり、「そ(且) 」に想定される中国語の
中古音は、"/t͡sʰiaX/"または"/t͡sɨʌ/"であり、後者の音読みは、
"しゃ/しょ/そ/ぞ"とされている。「そ(且) 」と「力」を組み合は
せて、"to help (stand) up"を表現するものと考へらえる「助」
の音読みは、「じょ」であるが、想定される中国語の中古音は、
"/d͡ʒɨʌH/"であり、想定される発音がこれと近く、やはり助ける
ことを意味するように用ひられた「丞(じょう/しょう)」
(Middle Chinese: /d͡ʑɨŋ/, /d͡ʑɨŋH/)は、「烝」(Middle Chinese:
/t͡ɕɨŋ/, /t͡ɕɨŋH/)に関連して、その語源は、
>From Proto-Sino-Tibetan *s-tjaŋ (“upper part; rise; raise”) (STEDT).
であるとされる(Wiktionary参照)。それだけでなく、「烝」の発音は、
朝鮮語では、"증 (jeung)"として発音され、同じ発音で読まれる漢字
には、他に「曾/増/噌」があり、「烝/증 (jeung)」は、"steam"、
"many"の他に"to rise"を意味するものと解釈されている。
0250名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/28(火) 14:09:17.04ID:5iWWGne4
「貂/鼦」は、日本語としては「てん」と読まれるが、これは、
日本語となった「てん」に「貂/鼦」の漢字を当てたもので、
音読みではない。しかし、このようにみると、「てん」という
日本語の名称そのものが、
>Proto-Sino-Tibetan *s-tjaŋ (“upper part; rise; raise”)
に由来しているように見える。
0251名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/28(火) 17:22:49.21ID:5iWWGne4
それにしても、「小僧が憎い」というのは分からなくもないが、
「僧」は、サンスクリット語の音を漢字で移すために用ひられた
にしても、やはり、「人・曾」で"upright person"をイメージ
させただろうと想像できるが、「心・曾」で「憎む」/"to hate/abhor"
という意味になるのは、少し不思議な感じもする。
やはり「こころ(心)」は、「立たせる」べきものではなく、
「安らか」にさせていた方がよいということだろうかw
0253あなづらはし垢版2023/02/28(火) 18:09:26.64ID:5iWWGne4
>Herkunft ⓘ
mittelhochdeutsch bider(be) = bieder; brauchbar, nützlich,
althochdeutsch bitherbe = brauchbar, nützlich,
eigentlich = dem Bedürfnis entsprechend<
(出典 duden.de/rechtschreibung/biderb)
0254名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/28(火) 21:47:47.77ID:5iWWGne4
>>202
>「コナトゥス」/"conatus"の第三者的な「具体化」/"corporation"が、
»das Mitnehmen«としての「み(身)ど(取/獲)り」/「みどり(緑)」
であることになる。 <

これは、書いてみると、とても便利な例であることにあらためて
気づかされる。どのように便利であるかと言ふと、真理条件意味論を
利用して、日本語の「みどり」の表現としての語源的な意味と、
英語の"be-〜"が、表現上、「"be-〜"により修飾される作用の
効果として主体性を再帰的に表出させる働きをする」という
記述の妥当性とが「たが(互)ひ」に実証されるのを示すことが
できるからである。

>'the infant is みどり' is true if and only if the infant is みどり.
0255一石二鳥垢版2023/02/28(火) 21:56:48.95ID:5iWWGne4
>'the infant is みどり' is true if and only if the infant is みどり.

さて、'the infant is みどり'という文において「みどり」が英語の
どのような表現に対応すると考へたら、この文が"true"/「まこと(真言)」
であるものとして成立するだろうか。そのこた(応)へは、もはや
言ふまでもないだろう。「と(取/獲)る」に対応する英語としてすぐに
思ひ浮かぶのは、"to take"と並んで極めて頻繁に用ひられる動詞で
ある"to get"である。これを"be-〜"で修飾すると"to beget"になる。
これをそのまま活用して、「みどり」≒"begotten"とすると、
>'the infant is begotten' is true if and only if the infant is begotten.
となり、かくして、「みどり」の意味の解釈と"be-〜"の表現上の
用法の説明の妥当性が「たが(互)ひ」に実証されることになる。
0257名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/28(火) 22:19:50.46ID:5iWWGne4
>ホメラレモセズ クニモサレズ
という言葉はよく知られているが、>>255のような実証は、
褒められないだけでなく、間違いなく苦にされる。
そのことを、だいぶ以前は、私はまるで理解できておらず、
苦にされるだけでなく、罵倒され、人格まで否定されることを
「何らかの誤解」だと勘違いしていた。
今は、どれほど自分の方が誤解していたのか、
ようやくはっきりと分かるようになったので、心置きなく、
勝手なことを書き込めるのである。
0258名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/02/28(火) 23:41:41.31ID:5iWWGne4
>ホメラレモセズ クニモサレズ
ではなく、
苦にされることの代償を支払うことを絶えず要求されるのである
まあ、それでも私は支払い要求を拒絶して、強制取立てにも抵抗しつづけるが
0259名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/01(水) 09:30:44.41ID:lRVEyIBA
それに注意を向けるように促されさえすれば、多くの人々がすぐに
気づくようなことを指摘することが、なぜそれほどまでに苦にされ、
厳しく咎められるのか、それを説明することも簡単である。
それは、気づかれることがない状態を、相当に自虐的に苦労しな
がらようやくなんとか保っているのに、余計なことをされると、
その苦労が台無しになってしまうからである。
0260名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/01(水) 09:47:54.89ID:lRVEyIBA
"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》などの例では、日本語を母語にする人には、
自らが慣れ親しんだ言葉の表現の用法と直接に関係がないので、分かり
にくいだろうが、例えば、標準の日本語において「を」と「お」の用法
を混同することがどれだけ苦労して制度設計され、その制度が保たれて
いるかを考えてみるといい。少しでも日本語の表現法に注意を向けさせ
られたなら、「を(惜)し」を「お(惜)し」と表記することの不自然さに
多くの人がすぐに気づくはずである。そのような不自然さに気づかれない
状態を保つように日本語の表現について説明するためには、相当に
自虐的な無理を強いられることは明らかであり、せっかく苦労して
ようやくその状態を保っているのに、「たま(玉)のお(緒)」などと
いう表記は、表現法として成立せず、それを枕詞とする分類も無用な
ものであるなどと余計なことを指摘されれば、それが苦々しい思ひを
生じさせることは、容易に想像がつくだろう。
0261名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/01(水) 10:20:16.73ID:lRVEyIBA
だから、他人の苦労を水の泡にしてしまい、苦々しい思ひをさせる
ようなことを、その必要に迫られているわけでもないのにわざわざ
指摘するとすれば、咎められることになるのは当たり前である。
しかし、それでも、そのように自虐的に無理をして苦労している
人々と、そのような人々から見れば、ただ気ままに言ひたい放題
のことを書き込んでいる私とでは、立場が大きく異なる。
というのは、そのように自虐に甘んじている人々は、まさにその
ことによって自らの社会的地位を確保し、その地位の高低に大きな
幅があるにしても、それに応じた報酬を受け取っているからだ。
それに対して、私は、おとなしく黙っていたところで、その
ような人々の気分を害して咎められることになるのを避けられる
こと以外に何の利益もない。気に障らないように配慮して、
口を開くことだけを自分に許すなら、私が口に出すことが
できるのは、そのように自虐に甘んじている人々の苦労を慰撫
する効果のある言葉だけになるだろう。しかし、そうすること
が私に何ら利益をもたらすわけではないので、結局、
私に残された選択肢は、おとなしく黙っているか、咎めに
よって私を黙らせている人々の苦労を慰撫する発言をするか
だけであることになり、そのような立場からでも何かを発言する
ことを余儀なくされるなら、それは「知的強制売春」にしかならない。
0262名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/01(水) 10:33:31.66ID:lRVEyIBA
無論、ここで私は、日本の言論状況だけのことを言っているのではない。
>>234
>"conatus"/「コナトゥス」のこの語源解釈に誰も文句をつけないのも、
かなり「自虐的に無理をしている」ように私には思へる。なぜなら、
ラテン語で"conor"の前に"prae"を付けただけの"praeconor"は、
英語の"to proclaim"に対応するような意味となるからだ。<

と指摘したが、これについてフランス語で考へてみるなら、
フランス語を母語とする人の場合、この事実関係からすぐに、
"conor"という表現が《se prendre》や《s'y prendre》という
現代のフランス語の表現に似ていることに気づくはずである。

>prendre
se 〜 pour ...
自分を…と思う.
s'y 〜
振る舞う,行動する,取りかかる.<
(出典 ポケットプログレッシブ仏和・和仏辞典 第3版)

これに気づかないことにするためには、相当に自虐的に無理を強いられるはずである。
0264名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/01(水) 10:52:49.51ID:lRVEyIBA
おとなしく黙らせている側からすれば、自分たちはただ、職業的な
地位と家族生活の安定を守るために、余計なことをしないように
自他を厳しく戒めているだけだと自らを納得させているかもしれ
ないが、そのことにより、ただ単におとなしく黙らされている側
からすれば、その「同じ状況」は、手足を縛られて、轡をはめられ、
しかもその状態で役立たずと蔑まれ、罵られつづける状況の
無期限の継続に過ぎない。
0265名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/01(水) 16:42:57.77ID:lRVEyIBA
「そんなことをして何の役に立つのか」というのは、
「そんなことをしてただで済むと思うなよ」の婉曲な言い換えである。
言い換えなければ、明示的な恐喝となってしまうので、
それを回避するために言い換えているだけだ。
で、実際には、犯罪行為として摘発される恐れがなければ、
どんな手段でも使って、「ただで済まない」ことを思い知らせようとする。
だから、「そんなことをして何の役に立つのか」という問いに対して、
「別に役に立たなくてもいいじゃないか」という応じるのは、
自分を納得させることになっているに過ぎず、考えが甘すぎる。
0266名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/01(水) 16:44:11.23ID:lRVEyIBA
誤:どんな手段でも使って
正:どんな手段でも使ってでも

それなりに経験を積むまでは、このことが分からない。
0268たま(魂)きは(際/極)るいのち(命)垢版2023/03/02(木) 10:07:45.84ID:A+BgSUvy
万葉集 第20巻 4408番
>たまきはる 命も知らず 海原の 畏き道を 島伝ひ い漕ぎ渡りて
あり廻り 我が来るまでに<
(出典 万葉集ナビ)

たま(魂)きは(際/極)るいのち(命)/
Being at the extremity of the Universe
0269たま(魂)きは(際/極)るいのち(命)垢版2023/03/02(木) 10:30:41.82ID:A+BgSUvy
以前から、日本で出版された思想/哲学系の本に目をとおしていて、
スピノザに関連して「コナトゥス」/"conatus"という表現はよく目に
することはあったが、私は、スピノザの著作をほとんどまともに読んだ
ことがなく、ラテン語を読めないために、その元となっている
"conor"という表現の用法についても、このスレの書込みで検討して
みるまで皆目見当がつかなかった。したがって、スピノザに関連して
であれ、スピノザとは無関係にであれ、「コナトゥス」/"conatus"
という表現を用ひることが、どう役に立つのか、さっぱり分からなかった。

"conor"について一応の書込みを終えた今、ネットで検索して、スピノザ
が用ひた「コナトゥス」/"conatus"という概念について詳述している
日本語の論考に少し目を通してみたが、概念の用法については詳しく
書かれているものの、その込み入った解説が、自分で考へるのにどう
役立つのか不明であるという印象はやはり変わらなかった。
その一方で、ここでの書込みの結果として得られた、
ラテン語の"conor"≒フランス語の《s'y prendre》という認識は、
私には、自分の考へを整理するのにすぐに役立つものとして応用
することができる。
0270たま(魂)きは(際/極)るいのち(命)垢版2023/03/02(木) 10:46:02.62ID:A+BgSUvy
ラテン語の"conor"≒フランス語の《s'y prendre》という認識に
基づくなら、「コナトゥス」/"conatus"は、「と(取)り・く(汲/組)み」
と見なすことができるだろう。《s'y prendre》を、手元にある
フランス語辞典で引いてみると、「獲りかかる、振舞う」を意味する
ものとされ、さらに《s'y prendre bien [mal]》という表現で
「うまく[へたに]やる」、《s'y prendre à deux fois》という表現で
「手探りする、何度もやってみる」という用例が記載されている
(クラウン仏和辞典参照)。
0271たま(魂)きは(際/極)るいのち(命)垢版2023/03/02(木) 11:07:26.12ID:A+BgSUvy
では、そのようなものとして理解された「コナトゥス」/"conatus"/
「と(取)り・く(汲/組)み」が、私自身の考へ方を整理するのにどのように
その応用として役に立つのか。それは、次のようにである。

>「す(澄/済/住/棲)まひ」(角力/相撲)の「と(取)りく(汲/組)み」の
結果として、このち(地)/うつしよ(現世)の「きは(際/極)」にのこ
(残)って「ゐ(居)」るのが「みづから(身づ柄/自ら)」である。<

したがって、あの世/来世まで視野に入れるとしても、「みづから
(身づ柄/自ら)」は、既にいのち(命)を失った「たま(魂)」として
であれ、あらは(現)れるときには、つねに現世/来世/宇宙と呼ばれる
(「しめなは(注連縄)」に結はれていは(斎/祝)ふべき)「しま」の
きは(際/極)に("at the extremity of the Universe")
のこ(残)って「ゐ(居)」る者としてあらは(現)れるのである。

ふたたび引用しよう。
万葉集 第20巻 4408番
>たまきはる 命も知らず 海原の 畏き道を 島伝ひ い漕ぎ渡りて
あり廻り 我が来るまでに<
(出典 万葉集ナビ)
0272たま(魂)きは(際/極)るいのち(命)垢版2023/03/02(木) 11:26:56.65ID:A+BgSUvy
>「す(澄/済/住/棲)まひ」(角力/相撲)の「と(取)りく(汲/組)み」の
結果として、このち(地)/うつしよ(現世)の「きは(際/極)」にのこ
(残)って「ゐ(居)」るのが「みづから(身づ柄/自ら)」である。<

ここで、最も大切なこととして留意しなければならないのは、
「みづから(身づ柄/自ら)」がそこにあらかじめ「ゐ(居)」て、
「す(澄/済/住/棲)まひ」(角力/相撲)の「と(取)りく(汲/組)み」を
するのではない、ということである。そうではなく、
「コナトゥス」/"conatus"/「と(取)り・く(汲/組)み」という
認識が役立つのは、まさしく、「す(澄/済/住/棲)まひ」に
「と(取)り・く(汲/組)む」/《s'y prendre》ことの「効果として」
「みづから(身づ柄/自ら)」が再帰的に「みどり」/"begotten"と
して表出するということだ。

この見方は、ちょうど、あらかじめそこに身体としてのこ(残)って
ゐ(居)る「みづから(身づ柄/自ら)」を浄化(「す(澄/済)まひ」)
のためにエトナ山の火口に投じるヘルダーリンのエンペドクレス
の禁欲主義的な「ニヒリズム」の裏返しであると言ふこともできるだろう。
0273名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/02(木) 11:30:24.63ID:A+BgSUvy
誤:「獲りかかる、振舞う」
正:「取りかかる、振舞う」

《s'y prendre》に対して「獲りかかる」という表記は別に間違ってはいないが、
辞書からの転記としては誤記なので、訂正しておく。
0274名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/02(木) 11:37:28.42ID:A+BgSUvy
誤:役立つのは、まさしく、[...] 表出するということだ。
正:役立つのは、まさしく、[...] 表出することが明示されるからだ。
0275名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/02(木) 11:52:27.00ID:A+BgSUvy
>このち(地)/うつしよ(現世)の「きは(際/極)」に

蛇足かもしれないが、言ふまでもなく、この「きは(際/極)」が
"by"であり、"be-〜"であり、"to be"である。
0276名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/02(木) 13:28:19.48ID:A+BgSUvy
>あらかじめそこに身体としてのこ(残)ってゐ(居)る
「みづから(身づ柄/自ら)」を浄化(「す(澄/済)まひ」)
のためにエトナ山の火口に投じるヘルダーリンのエンペドクレス
の禁欲主義的な「ニヒリズム」<

物事を考へるのにまず、物象化を前提にするから、
こういう「焔の消費主義/consumerism」を理想化することになる。
日本語の「火に『く(焼)べ』る」という表現を考えてみるといい。
この場合、「く(焼)べ」は、「燃費を『く(食)ふ』」という表現と
比べて見ればすぐに分かるとおり、「く(食)ふ」と共通した表現法
であるが、「く(食)ふ」は、英語の"to consume"に対応している。

>consume (v.)
late 14c., "to destroy by separating into parts which cannot
be reunited, as by burning or eating," hence "destroy the
substance of, annihilate," from Old French consumer
"to consume" (12c.) and directly from Latin consumere
"to use up, eat, waste," from assimilated form of com-,
here perhaps an intensive prefix (see com-), + sumere "to take,"
from sub- "under" (see sub-) + emere "to buy, take"
(from PIE root *em- "to take, distribute").
(出典 etymonline.com/search?q=consume)
0277名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/02(木) 13:37:44.72ID:A+BgSUvy
ここで、「く(食)ふ」/"to consume"が、ドイツ語で考へた場合、
»(etwas) zu sich nehmen«(「摂取する」)ことに対応することを
想起するなら、みづから(身づ柄/自ら)を浄化するために、自身が
焔に焼き尽くされるように火口に身投げすることは、
「みづから(身づ柄/自ら)」が「物象化されてそこにある」ことを
前提として、ちょうど、「す(澄/済/住/棲)まひ」(浄化)の
「と(取)り・く(汲/組)み」による「みづから(身づ柄/自ら)」
の「みどり」とは裏返しの関係にあることが見てとれるはずである。
0279comment s’y prendre垢版2023/03/02(木) 20:24:56.31ID:A+BgSUvy
>La grande question à laquelle Spinoza ne cesse de revenir est
celle de savoir comment s’y prendre pour devenir de plus en plus
actif et de moins en moins passif, sous l’horizon d’une substantialité
qui n’est pas massive et statique, mais exerce dynamiquement
sa puissance dans de multiples directions et sans point d’arrêt :
à cette puissance on participe à des degrés d’intensité divers
susceptibles d’être infiniment modulés, ce qui donne lieu à tout
un spectre d’attitudes dont chacune négocie à sa manière
le rapport entre servitude et liberté.<
(出典 euronomade.info/?p=14579)

何か言葉を尽くした、引き続く長々とした説明よりも、
最初の《comment s’y prendre pour 〜》という表現そのもの
の方が雄弁なんだよねw
0280名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 07:34:25.97ID:yUUFw0kb
>Plus l'intimité se raffine, plus les signes doivent être maniés
délicatement pour se rendre adéquats à leur objet;
un regard en dit souvent plus long qu'un discours,
une allusion suffit ou une intonation.
J. Vuillemin, L'Être et le travail,1949, p. 42.<
(出典 lalanguefrancaise.com/dictionnaire/definition/adequat)
0281名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 10:07:56.91ID:yUUFw0kb
言葉で表現しようとする「と(取/獲)りく(組/汲)み」/"conatus"に
おいては、言葉で表現することにより伝はる効果そのものが
「み(身)ど(取/獲)り」/"begotten"/《ce qui se comprend》
である。

私は、フランス語に関しても、大学の教養課程で授業を受けた
だけで、専門の教育も訓練も受けていないので、私のフランス語
の作文が通用するものとなっているかどうかは不明で、その
表現法の妥当性は、人が頼みにできるようなものではないが、
流れからフランス語を用ひて上に述べたことを説明してみよう。
0282名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 10:29:05.15ID:yUUFw0kb
>>279に引用したのは、Pierre Macherey(ピエール・マシュレ)という
人のインタビューの一部で、Wikipediaを参照すると、
>フランスの哲学者。専門はスピノザと文学理論。
と記載され、さらに、ルイ・アルチュセールの弟子で、
ジョルジュ・カンギレムの指導のもとスピノザについて研究したとある。

いずれにしても、私は、この人につても、その研究についても
何の知識もなく、引用したインタビューについても、"Spinoza"と
"s'y prendre"をキーワードにして検索してヒットしたサイトで
"s'y prendre"という表現に関連する箇所に少し目を通してみただけ
である。しかし、ここで、Pierre Machereyが、
>La grande question à laquelle Spinoza ne cesse de revenir est
celle de savoir comment s’y prendre pour devenir [...]<
と語るとき、このスピノザ研究者が、"conatus"/「コナトゥス」
について説明していることは明らかであり、
《omment s’y prendre pour》という表現には、ラテン語の
"conor"が反映されていると見るのが自然だろう。
0283名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 11:12:50.86ID:yUUFw0kb
ところが、私がそれよりも前に示した、ラテン語の"conor"≒フランス語の
《s'y prendre》という認識は、このスレの書込みの流れをたどってみれば
分かるとおり、引用したインタビューとは無関係であり、ドイツ語の動詞の
前綴り»be-〜«の表現上の用法の考察から派生したものであり、そもそも、
"conatus"とは直接には何の関係もなく、ドイツ語の動詞の前綴り»be-〜«
とラテン語の"con-〜"の間で見られる表現上の対応関係から、派生的に
導き出されたものである。そのうえ、これは自分で検索して確かめてみれば
よいことだが、ラテン語の"conor"または"conatus"をネット上の辞書
で参照しても、それがフランス語の《s'y prendre》に対応するという
ような記載は見当たらない。ネット上で見つかる日本語のスピノザに
ついての論述を参照しても、そのような説明は、私が見た限りでは、
まったく見当たらない。では、なぜ、私がラテン語の"conor"について
フランス語の表現を例にとって示した認識と、フランス語を母語とする
スピノザの研究者によるスピノザが中心課題とした"conatus"についての
説明においてその核として用いられている表現が合致したのだろうか。
それを偶々(たまたま)であるとするのは、出来過ぎてはいないだろうか。
0284名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 11:21:01.85ID:yUUFw0kb
ここで、私は、自分のフランス語の運用能力が高いといったようなことを
証明しようとしているのではない。このような指摘に対して、私の
フランス語の運用能力の低さを問題にするような人は、道を歩いていて
「後ろから車が来ているよ」と注意を促されたら、「お前の視力は
自分の視力がそんなにいいと思っているのか、己惚れるな」と罵倒する
ようなものである。確かに私の視力が悪く、後ろから来ているのが
車ではなく、馬であることはあるかもしれないが、私の認識に誤り
があったとしても、それは私が自分の認識力について自信過剰である
か否かといったような問題ではない。そのような反応をする人々は、
言葉で表現しようとする行為そのものについての基本的な態度が、
私とは大きく異なっているのだ。
0286名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 11:45:15.56ID:yUUFw0kb
前置きが長くなったが、>>281で述べたことに関連して、>>280
フランス語の表現を参考にさせてもらって勝手にフランス語で作文すると、
次のように言ふことができる。

>L'expression employée doit se rendre adéquate/être fidèle à
ce qu'elle/on veut dire.<

ここで、《devoir rendre adéquate à ce qu'elle veut dire》は、
上で述べた連分数計算の喩えに対応する見方を示し、
《devoir être fidèle à ce qu'elle/on veut dire》は、真理条件意味論
に対応する見方を示しているつもりだが、この《devoir》、
すなはち、「負ひ目」は、《veut dire》の《vouloir》によって、
すなわち、「〜を」によって示される《manque》/「欠如」に
応じて生じるものである。
0288名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 12:12:26.11ID:yUUFw0kb
これがなぜ、またどのように>>281で述べたこと、すなはち、
>言葉で表現しようとする「と(取/獲)りく(組/汲)み」/"conatus"に
おいては、言葉で表現することにより伝はる効果そのものが
「み(身)ど(取/獲)り」/"begotten"/《ce qui se comprend》
である。 <
に関連するのかと言ふと、
《devoir se rendre adéquate/être fidèle à ce qu'elle/on veut dire》
という「負ひ目」が、「み(身)ど(取/獲)り」/"begotten"/
《ce qui se comprend》を効果として生むように言葉の表現を
さそ(誘)ひみちび(導)く/ひきゐ(率)る格率となるからである。
0289名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 12:16:18.19ID:yUUFw0kb
したがって、"conatus"に関連して私と、フランスのスピノザ研究者である
Pierre Macherey(ピエール・マシュレ)が、互いに独立に、《s'y prendre》
という同一のフランス語の表現にたどり着いたのも、ともにそのような格率に
さそ(誘)ひみちび(導)かれた/ひきゐ(率)られた結果であると見ることが
できるだろうと私は思ふ。
0291名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 21:48:58.12ID:yUUFw0kb
>>287
フランス語を母語とする人々には通用するのかどうか、私にもさっぱり
不明なあやしい表現ではあっても、書いてみると自分の考へを
整理するのそれなりに役に立ち、これは、その目的では、なかなか
良い表現になっているように私には感じられる。どのような点が
良いと感じられるのか説明してみよう。
0292名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 22:35:53.54ID:yUUFw0kb
まず、《L'unité [...] doit se rendre adéquate à ce qu'elle veut mesurer》
において、《se rendre adéquate à 〜》は、《adéquation》/ 「適合」の
プロセスを表現しているが、《l'unité》/ 「単位」の適合なので、全体
としては、数えられる「ひと(等)しさ」である「ひと(一/人)」の
「ひと(一/人)とな(成)り」のプロセスを表現することになっている。
また、《l'unité》/ 「単位」が主語として置かれているものの、それが
未だ「ひと(一/人)としての同一性」を有するものとして規定されていない
ことが、《devoir》/「負い目」によってはっきりと示されている。
さらに、この《devoir》/「負い目」は、《vouloir》/「〜を!」に応じて
生じているものであるが、《vouloir》/「〜を!」の主語も、未だに
同一性を有するものとして規定されていない。しかしながら、
《vouloir》/「〜を!」に応じた《devoir》/「負い目」により
《adéquation》/ 「適合」のプロセスが働くことの効果として
「主体性」が表出する。そのようにして表出する「負い目」のある
未規定の「主体性」は、日本語の表現としては「われ(我)」に対応する
だろう。したがって、「われ(我)」は、「ひと(一/人)としての同一性」
に適合することに対して「負い目」がありながらも、《l'unité》/ 「単位」
としての「同一性によって規定された『ひと(一/人)』(英語の"oneself")」
ではない。
0293名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 22:54:52.45ID:yUUFw0kb
その一方で、その「負い目」のある未規定の「主体性」も、
「ひと(一/人)としての同一性」に向かふ「ひと(一/人)とな(成)り」の
プロセスにあるのだから、《vouloir》/「〜を!」が満たされたなら、
つまり、それに応じて《devoir》/「負い目」が解消されたなら、
「われ(我)」も消えることになるだろう。したがって、「われ(我)」
の「ひと(一/人)とな(成)り」は、「ひと(一/人)としての同一性」
との違ひが残る「きは(際)」においてしか現れない。
0294名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/03(金) 23:11:06.06ID:yUUFw0kb
言葉で表現してみる。表現に応じて考へてみる。
表現に考へが不自然に縛られていることに気づき、考へ直す、
そうしたプロセスの終はりのない繰り返しなので、
別に何らかの思想を正しいものとして伝へようとしているわけではない。
0295伊廻之際(いまはのきは)に座待月(ゐつきまつ)垢版2023/03/04(土) 08:06:50.85ID:3ztpQ+LW
万葉集 第3巻 388番
>海若者 霊寸物香 淡路嶋 中尓立置而 白浪乎 伊与尓廻之 座待月
開乃門従者 暮去者 塩乎令満 明去者 塩乎令于 塩左為能 浪乎恐美
淡路嶋 礒隠居而 何時鴨 此夜乃将明跡<侍>従尓 寐乃不勝宿者
瀧上乃 淺野之雉 開去歳 立動良之 率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師<
(出典 万葉集ナビ)
0296It's beyond my comprehension!垢版2023/03/04(土) 11:30:42.23ID:3ztpQ+LW
>言葉で表現しようとする「と(取/獲)りく(組/汲)み」/"conatus"に
おいては、言葉で表現することにより伝はる効果そのものが
「み(身)ど(取/獲)り」/"begotten"/《ce qui se comprend》
である。 <

「み(身)ど(獲)り」としての»Begriff«

ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
>Begriff
([英] concept)概念; 観念, 想像; 把握; 理解.

schwer 〈langsam〉 von 〜 sein
⸨話⸩ のみ込みが遅い, 血の巡りが悪い.<
0297ぬばたまの/みどりの黒髪垢版2023/03/04(土) 11:42:59.99ID:3ztpQ+LW
TENEBRAE ― Paul Celan

Nah sind wir, Herr,
nahe und greifbar.

Gegriffen schon, Herr,
ineinander verkrallt, als wär
der Leib eines jeden von uns
dein Leib, Herr.
0298名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/04(土) 11:45:13.52ID:3ztpQ+LW
日本の哲学学者が、いかに不自然で分かりにくい日本語の表現を使って
西洋の「哲学」を研究しているのか、その自虐性に気づかされざるを
得ないだろう。
0299名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/05(日) 09:11:37.24ID:maO7AKLi
「悟りの『境地』」とは、悟りの境(さかひ)に、つまり、
「きは(極/際)・み」にみづから(身づ柄/自ら)が達して「ゐ(居)」る
と感じることであって、「われ(我)」を解脱して「ゐ(居)」ること
(表現からも見てとれるとおり、あり得ないことの実現)ではない。
0300名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/05(日) 10:05:09.00ID:maO7AKLi
Wikipediaのフランス語版で"Conatus"の項目について参照すると、
次のように記載される。

>La nature naturante correspond à l'activité de la substance
qui est « cause de soi », et la nature naturée correspond à ce
qui découle de la nécessité de cette substance. <
(出典 fr.wikipedia.org/wiki/Conatus)

この《la nature naturante/naturée》という表現は、日本語では、
そのまま「み(身)ど(取/獲)り」のひとことで捉へることができ、
その場合、この言葉は、「『み(身)ど(取/獲)り』を生む働き」
を表現するものとしても、また、その働きによって
「生まれる『み(身)ど(取/獲)り』」を表現するものとしても
理解されることになる。

ところで、"conatus"が「『み(身)ど(取/獲)り』を生む働き」
であるなら、その働きをすることには、「『身を削る』ような労苦」
や「生みの苦しみ」がともな(伴)ふはずだろう。そこで、
"conatus"と同様に"conor"から派生した語を検索してみると、
"conabilis"という表現があり、これは実際に、フランス語の
《 pénible》や《laborieux》に対応する意味で用ひられるものとされる。
(出典 fr.wiktionary.org/wiki/conor#la)
0301名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/05(日) 10:42:18.28ID:maO7AKLi
>L'unité employée pour mesurer la circonférence d'un cercle
doit se rendre adéquate à ce qu'elle veut mesurer,
c'est à dire une periode.<

ここで表現した《vouloir》と《devoir》の関係性から、
「み(身)ど(取/獲)り」を求めるなら、「身を削る」労苦を
を(惜)しむ(《s'épargner》、ドイツ語で表現するなら、
»sich schonen«)にあた(当/能)はないという、「ひと(一/人)
とな(成)り」のプロセスにおいて「みづから(身づ柄/自ら)」を
実現することを考へれば、一見、空疎であり、または矛盾して
いるように思へる事態がもたらされるが、そのように思へる
とすれば、それは、「みづから(身づ柄/自ら)」に「あらかじめ
規定された同一性」/《l'unité》があ(在)るものと思ひ込む前提
に基づく錯覚に過ぎない。円周率を数値として近似する連分数
計算において、その数値を表す単位/《l'unité》が決して
最終的に規定された同一性を有するものとして実現され得ない
ように、「永劫回帰」の境地に達した「われ(我)」も、
その境(さかひ)に、つまり、「きは(極/際)・み」にみづから
(身づ柄/自ら)が達して「ゐ(居)」ると感じることを求める
つづけるという「追求される理想」としてしか現出し得ない。
0303名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/05(日) 11:01:11.25ID:maO7AKLi
既に述べたとおり、私のフランス語の運用能力は、ごく限られたもの
なので、>>287のような表現が、フランス語を母語とする人々に
一般に通用するものとなっているのかどうかについては、私には
分からない。しかし、それがどれほど稚拙なものであったとしても、
それによって表現しようとしているのと同様なことは、フランス語
であれ、その他の言語であれ、より優れた言語運用能力のある人
によって、よりうまく表現され得るだろうと私は思っている。
0304名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/05(日) 12:01:05.76ID:maO7AKLi
どういう理由によるのかは知らないが、私は、この掲示板の学問板でも、
2021年末以来、無期限の書込みアクセス禁止になっている。
この板でだけは、まだ書込みが可能なので、思ひついたことを
その都度、書き込んでいるが、哲学であれ(私は、「哲学」の専門
の研究とは無縁である)、他の分野であれ、「学問」をしている
人を相手にここでやっているような発言をすることは、完全に
「無益」であるだけでなく、私個人にとっては有害な効果しか
もたらさないことも、経験からよく知っている。例えば、
"conatus"について私が何をどう考へるかを言ったところで、
私の発言が、一般的に辞書などに記載される語源説明とは異なる
想定に基づいているという事実だけで、私の発言は、「何の根拠もない」、
「無意味である」、「勝手に根拠を捏造している」、「自分に権威が
あると思い上がっている」などの理由で発言の全面削除を求め、
素直に応じない場合には、叱責し、処罰し、人格に問題がある
ものとして反省を迫ることを正当化する十分な根拠となるのである。
だから、ここに書き込むことは、個人的には、私自身が考へる
ことに役立つ以外の何の利益ももたらさないものの、今のところ、
発言のたびに報復行為を恐れる必要がないというだけでも(発言の
全面削除を求められること自体、その発言を生み出すのに要した
労苦を考慮すれば、常に極めて重い処罰である)、「学問」をして
いる人々を相手にするよりは、ずっと有益なのだ。
0305名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/05(日) 12:10:25.29ID:maO7AKLi
「学問」をしている人々を相手にしていて、精神的によくないのは、
一方で発言の全面削除を求め、素直に応じない場合には、叱責し、
処罰し、人格に問題があるものとして反省を迫りながら、「それでは
発言を控えて黙って自分でやるべきことをやろう」という態度が
まったく許されないことである。それは、発言を控えること自体が、
「すべきことをなにもしようとしないこと」、「反抗的な怠業」で
あるとして、叱責、処罰の理由とされるからだ。
0306名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/05(日) 12:12:53.59ID:maO7AKLi
私は、見てのとおり、自分の発言が無益であることはまったく厭わないが、
発言のたびに報復行為を恐れなければならないのであれば、いくら
私が愚かであっても、罰してもらうためにわざわざ発言しようとは思はない。
0307「み(身)ど(取/獲)り」から「緑(みどり)」へ垢版2023/03/05(日) 15:50:48.49ID:maO7AKLi
>Praeterea, Dionysius, in IV cap. de Div. Nom., ponit quendam
amorem naturalem. Sed amor naturalis magis videtur pertinere
ad vires naturales, quae sunt animae vegetabilis.
Ergo amor non simpliciter est in concupiscibili.<

>Obj. 3: Further, Dionysius (Div. Nom. iv) mentions
a natural love. But natural love seems to pertain rather to
the natural powers, which belong to the vegetal soul.
Therefore love is not simply in the concupiscible power.<
(出典 aquinas.cc/la/en/~ST.I-II.Q26.A1.Obj1)
0308「みおも(身重)」/"gravitas"kara垢版2023/03/05(日) 16:01:09.55ID:maO7AKLi
>Aquinas and Abravanel (1265–1321) both related the concept
directly to that which Augustine (354–430 CE) saw to be the
"natural movements upward and downward or with their being
balanced in an intermediate position" described
in his De Civitate Dei, (c. 520 CE). They called this force that
causes objects to rise or fall, "amor naturalis", or "natural love".<
(出典 wikidoc.org/index.php/Conatus)
0310鶏が先か、卵が先か垢版2023/03/05(日) 16:22:29.96ID:maO7AKLi
"conatus"を、「みおも(身重)」/"gravitas"であることになぞらへて
捉へられる"amor naturalis"と見做すのは、それを、すでにそこに
ある「身(み)」を介して現れる性質であると考へる点で、
「鶏が先」とする捉へ方であると言ふことができ、それは、
>「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふものを
みづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうと
する働き」< であると記述することができる
ソークラテースの「エロース」と似ていると言ふことも
できるだろう。

これに対して、"conatus"を、「み(身)ど(取/獲)り」として
捉へられる《la nature naturante/naturée》と見做すことは、
「卵が先」とする捉へ方であると言ふことができる。
0311名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/05(日) 16:27:14.49ID:maO7AKLi
>424名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/15(土) 11:29:42.98ID:TywbjuDU
>自分の生まれたところではなしに[...]、自分が生んでゆくところ、
己みずからが分娩をなすところこそ、ニーチェにとって精神人の住まう
べき場所なのである。「父住うところ、また家郷なり」 − とは、
自分が生み出されたところではなく、「私が父であり、私が生み出す
ところこそ、私の故郷である」という意味なのである。<
ツヴァイク、『デーモンとの闘争 ヘルダーリン・クライスト・ニーチェ』
P.370 <
0312名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/05(日) 16:42:01.78ID:maO7AKLi
>>306
無論、ネットで匿名で書き込んでいるからといって、発言に対する
報復行為を恐れる必要がないと信じるほど、私も「お花畑」ではない。
単に、発言のたびにその都度、報復行為を恐れる必要がないという
だけのことだ。
0313名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/05(日) 17:01:50.44ID:maO7AKLi
私は、ネット・リテラシーとして大切なのは、誘導しようとする
言葉に乗せられず、かといって、誘導しようとしているの分かる
からといって、それだけで頭ごなしに拒絶するのでもなく、
その都度、自分で確かめながら、最善であると考へられる選択
をすることだと思っている。そこで鍵となるのは、自分を含め、
人がどのように誘導されているのかをよく観察することだ。
0314名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/06(月) 10:11:18.17ID:1BcfoD9M
>"conatus"を、「み(身)ど(取/獲)り」として
捉へられる《la nature naturante/naturée》と見做すこと<

これに関連して、あることに気づいた。それは、「カワウソ」
の古語である「かわ『をそ』」の「をそ(乎曽)」が、
それを「ゐ(居)た(立)ち」にそのまま対応する「を(居)そ(且)」
であるとするのとは別様に解釈することもできるという可能性である。
0315名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/06(月) 10:24:45.44ID:1BcfoD9M
「をそ」が「ゐ(居)た(立)ち(ヰタチ)」に対応するものとして
「を(居)そ(且)」という表現として用ひられたのだろうという
私の考へ方が変わったわけではない。しかし、「をそ」という
発音に対して「乎(を)曾(そ)」という漢字を当てて表記するとき、
そこには、その漢字の選択には、「をそ」が想起させるイメージ
を如実に伝へようとする表現解釈が働いている可能性が疑はれる。
「乎曾」は、漢字で表記されたところで、無論、漢語ではない。
しかし、漢字で表記することにより、漢語のように語順を
ひっくり返して意味をとる解釈の可能性が生じる。であるとすると、
「乎(を)曾(そ)」は、「曾(そ)」が"to rise up"に相当するような
表現であると解釈されるのだから、ニーチェ風に言ふなら、
「曾(そ)/"to rise up"を(乎)!」、すなはち、"Will to Rise-up"/
「立ち上がる意志」を表現しているとする解釈も可能になる。
0316名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/06(月) 10:36:17.77ID:1BcfoD9M
日本語を母語としていても、一般に大多数の人は、「をそ」が
「ゐ(居)た(立)ち(ヰタチ)」を表現していようと、、"Will to Rise-up"/
「立ち上がる意志」を表現していようと、「イタチ」という動物について
何か新しい知見が得られるわけでもなく、そんなことはどうでもいい、
なぜわざわざそんなことを考へる必要があるのか、と思ふだろう。
哲学をすることで得られるのが、そのような解釈の習慣に過ぎない
のなら、哲学をすることなど不要ではないかというのも、一般的に
(「哲学」、ならびのその他の専門の「学問」をする人々も
含めて)よく見られる反応ではないかと思ふ。そこで、そのような、
一般には無駄で、無意味であると思われている解釈の習慣を
身につけることの大切さを説明してみよう。
0317名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/06(月) 11:01:22.27ID:1BcfoD9M
>>281
>言葉で表現しようとする「と(取/獲)りく(組/汲)み」/"conatus"に
おいては、言葉で表現することにより伝はる効果そのものが
「み(身)ど(取/獲)り」/"begotten"/《ce qui se comprend》
である。 <
>>286
>L'expression employée doit se rendre adéquate/être fidèle à
ce qu'elle/on veut dire.<

いずれも私自身の言葉だが、後者は、
「用ひられる表現は、その表現が言おうとしていることに
適合すべき/それに対して忠実である/ま(真)こと(言)/誠となる
べきである」ことを表現しようとしているつもりである。

さて、ここで大きな問題が浮かび上がる。みづから(身づ柄/自ら)の
言葉の表現によって伝はる効果そのものが「み(身)ど(取/獲)り」/
"begotten"/《ce qui se comprend》であるとするなら、その
「み(身)ど(取/獲)り」が、「その表現が言おうとしていること」/
《ce qu'elle/on veut dire》と合致しなければ、用ひられる表現は、
適合していない/忠実でない/ま(真)こと(言)/誠となっていない
ことになるはずだが、その合致はどのようにして求められるのか。
0318名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/06(月) 11:11:50.65ID:1BcfoD9M
このような問題に対して、一般の大多数の人が普通によくとる姿勢
というのは、「私が言いたいことは私が一番よく分かっている。
いろいろ言葉で説明してやっているのに、分かってもらえないのは、
分かろうとしない相手が悪い」、または「どうせ言葉で何を言った
ところで、相手には私の言いたいことなど伝わらない。私の
気持ちが、他の人に分かるはずはない」といった類のものだろう。
0319名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/06(月) 11:21:03.35ID:1BcfoD9M
あまり長々と説明しても、却って要点が分かりにくくなるだけなので、
私の結論を先に示そう。それは、

>>301で既に明示した、
>L'unité employée pour mesurer la circonférence d'un cercle
doit se rendre adéquate à ce qu'elle veut mesurer,
c'est à dire une periode.<

ここで表現した《vouloir》と《devoir》の関係性から、
「み(身)ど(取/獲)り」を求めるなら、「身を削る」労苦を
を(惜)しむ(《s'épargner》、ドイツ語で表現するなら、
»sich schonen«)にあた(当/能)はない<

ということである。
0320名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/06(月) 11:39:41.58ID:1BcfoD9M
「一般には無駄で、無意味であると思われている解釈の習慣」を 捨てる
こと、例えば、「たまのを」を「玉(たま)の緒(お)」という枕詞であると
定義して、解釈をする必要のないものとして扱ふように指示し、
その指示に対する従順さに応じて人を評価するというのは、既に
述べたとおり、人が伝へようとする「こころの働き」に気を配る代わりに、
「気をつけ」の姿勢をとらせて、その姿勢の「ただ(正)しさ」を
「注意力の高さ」として評価するようなものだ。そのようにして
解釈の習慣を捨てさせることによってもたらされるのは、「こころの働き」
の「硬直」であり、みづから(身づ柄/自ら)の「こころの働き」を
如実に伝へようとする他者の言葉の表現/「み(身)ど(取/獲)り」が、
己の言葉の表現/「み(身)ど(取/獲)り」とどのように「を(折)りあ(合)ひ」
がつくのかを求めるadéquation》/ 「適合」のプロセスの放棄である。
0322不可逆的変換操作垢版2023/03/06(月) 13:22:15.48ID:1BcfoD9M
「『み(身)ど(取/獲)り』から『緑(みどり)』へ」、
「『みおも(身重)』/"gravitas"から『重力』へ」
というのは、不可逆的変換操作であり、
「み(身)ど(取/獲)り」から「緑(みどり)」が導き出されること、
「みおも(身重)」/"gravitas"から「重力」が導き出されることは可能だが、
その逆は可能ではない。
0323名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/06(月) 13:30:20.85ID:1BcfoD9M
「み(身)ど(取/獲)り」に「緑(みどり)」だけを見るように、また、
「みおも(身重)」/"gravitas"に「重力」だけを見るように
「こころ(心)」を矯正するとは、どのようなことだろうか。
0324Greenwash(グリーンウォッシュ)垢版2023/03/07(火) 07:44:32.71ID:OAjLGlah
「『み(身)ど(取/獲)り』から『緑(みどり)』へ」の不可逆的な変換操作とは、
「『み(身)ど(取/獲)りのと(取/獲)りく(汲/組)み』から『緑(みどり)の倫理』へ」
というGreenwash(グリーンウォッシュ)である。
0325授乳の聖母 (コレッジョ)垢版2023/03/07(火) 08:09:08.65ID:OAjLGlah
万葉集 第18巻 4122番
>弥騰里兒能(みどり子の) 知許布我其登久(乳乞ふがごとく)

さて、ところで、幼児キリストは、「多肉植物」/"succulent plant"
の如く「みどり児」/「乳呑み児」/"sucker"だったのか。

授乳の聖母 (コレッジョ)
>コレッジョは幼児キリストに授乳しようとする聖母マリアを描いている。
ところがキリストは右手を聖母の胸元に当てて、身を仰け反らせ、
授乳を拒んでいる。<
(出典 ja.wikipedia.org/wiki/授乳の聖母_(コレッジョ))
0327名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/07(火) 09:56:08.98ID:OAjLGlah
>>281
>言葉で表現しようとする「と(取/獲)りく(組/汲)み」/"conatus"に
おいては、言葉で表現することにより伝はる効果そのものが
「み(身)ど(取/獲)り」/"begotten"/《ce qui se comprend》
である。 <
>>286
>L'expression employée doit se rendre adéquate/être fidèle à
ce qu'elle/on veut dire.<

これらが、どのようなことであるのかは、それとは逆の状況、
つまり、《adéquation》/ 「適合」のプロセスが完全に省かれた状況
を考へてみれば、さらに分かりやすくなるだろう。ふたたび、
フランス語で作文するなら、その状況とは、次のとおりである。

>Ce qui se comprend, c'est ce qui est dit.

そのような状況において、言葉の用法は、意識されなくなって、
完全に透明になり、言葉の意味は完全に明瞭になっているのか、
それとも逆に、言葉の用法は、不問に伏されるだけで、
むしろ不透明となり、言葉の意味は不明瞭になっているのか。
私は、後者であると考える方が適切だろうと思ふ。
そのことは、例えば、古文や、さらには発掘された碑文について
考へてみれば、すぐに分かるだろう。そこに書かれている
言葉の意味は、書かれている言葉のとおりであり、
それを見る人に理解されないように暗号文で書かれているわけ
ではない。では、なぜ、そこに書かれている言葉は、
あたかも暗号文であるかのようにその意味が不明瞭となるのか。
0328名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/07(火) 10:04:16.84ID:OAjLGlah
しかし、現在、状況は、私から見れば、さらにあ(悪)しき方向に
意図的にさそ(誘)ひみちび(導)かれてように感じる。それは、

>Ce qui se comprend, c'est ce qui est dit.
という《adéquation》/ 「適合」のプロセスを完全に省くことを
正当化しようとするイデオロギーからさらに進んで、それを
階層化しようとする、つまり、不可逆的に一方向化しようとする
>Ce qui se comprend, c'est ce qui est dicté.
というイデオロギーの一般化/全面化である。
0330Ich bin im Begriff垢版2023/03/07(火) 23:46:36.05ID:OAjLGlah
「み(身)ど(取/獲)り」/"begotten"/《ce qui se comprend》としての
「われ(我)」は、「われ(我)」の「ひと(一/人)とな(成)り」、
すなはち、「単位」としての《adéquation》/ 「適合」のプロセスに
おいて近似され、その都度の「『み(身)ど(取/獲)り』の
『と(取/獲)りく(汲/組)み』」の「かひ(効果)」が、「われ(我)」
の「単位/たん・ゐ(居)」としての「至らなさ」である。
0331名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/08(水) 01:02:51.21ID:0s9vZpqE
話は変わるが、「血(ち)」と「力(ちから)」と「血(ち)」が隘路
(en.wiktionary.org/wiki/益#/media/File:Ufa17.svg)
である「血管」の働きが「ひとつの現象」の様態として把握される
仕方は、言語により、これらの言葉を表現するのに用ひられる
発音がまったく別のものであっても、互いによく似ているの
だろうと思ふ。

>Die tausendfältigen Ängste, unterirdisch fortarbeitend nach
einem Ausweg, liefen zusammen von allen Seiten, schufen
mit der Kraft der vereinigten Angst den Kanal, der ans Licht
führte, und konnten endlich ihre dunkeln Fluten ergießen
über einen Mann.<
(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/478)
0333名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/08(水) 08:45:17.01ID:0s9vZpqE
>その都度の「『み(身)ど(取/獲)り』の
『と(取/獲)りく(汲/組)み』」の「かひ(効果)」が、「われ(我)」
の「単位/たん・ゐ(居)」としての「至らなさ」である。<

「われ(我)」の「単位/たん・ゐ(居)」としての「至らなさ」
が「きは(際)だ(立)つ」ことにより、「われ(我)」は、むしろ、
典型的には、「ゐ(居)たたま(溜)れない」様態で現れる。
0334名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/08(水) 10:48:51.97ID:0s9vZpqE
その都度の「『み(身)ど(取/獲)り』の『と(取/獲)りく(汲/組)み』」の
「かひ(効果)」として「われ(我)」 が現れるというプラグマティズムに
おいて、「生きる」ことの最も基本的な背景は、それが通常は意識され
ないことにおいて「無」/「何もないこと」に喩えられるとしても、
それは実際には「無」/「何もないこと」ではなく、「何もしないこと
が出来る」状態であり、「何もしないことは出来ない」状態の方が
むしろ、瀬戸際に追い詰められている状況なのである。
0335名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/08(水) 12:05:15.86ID:0s9vZpqE
近年、「反出生主義」という言葉をときどき見かける。
私は、「〜主義」と呼ばれるようなものに基本的にまったく関心がないので
(「プラグマティズム」が"〜ism"と呼ばれるにもかかわらず、「〜主義」
ではないのは、「効験」によって「〜主義」が無効化されるからである)、
それについて書かれたものを読むこともないが、Wikipediaなどで少し
目を通してみると、詳細がどうであれ、いかにもといった感じのもので、
いずれにしても、我(われ)が人(ひと)として存在していることを前提と
している時点で、既に哲学的に考へることとは無縁である。

哲学することから見れば、思想的に考へるという行為そのものが、
すでに「知(ち)の反出生主義」、すなはち、「知(ち)の『避妊法』/
"contraception"」である。ところで、「反出生」というのは、
論理的に"anti-be・getting"ということになるはずだが、
その場合、「誰が誰に対して何をどのようにすることに反対す
べきである」と主張していることになるのだろうか。
0336名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/09(木) 08:42:16.77ID:ltwgOwMI
何がどのように役に立つのかは、あらかじめ知れたものではない。
それが生きた論理というものだ。直近の考察では、一般には
>努力、衝動、傾向、性向、約束、懸命な努力
が原義であるとされ、
>事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向
(出典 Wikipedia)
というよく分からない説明が与えられる"conatus"/「コナトゥス」
という表現に対して、それを、
「『み(身)ど(取/獲)り』の『と(取/獲)りく(汲/組)み』」(例えば、
"to beget/begotten"という関係性として表出する)として捉へ直す
「独自の」解釈が得られた(「独自性」として現れること「自体」が
「み(身)ど(取/獲)り」である)わけだが、この解釈は、相当に長い
経緯の派生的な結果としてもたらされたものであり、この結果を
もたらすことに何がどのように寄与しているのかその発端まで
遡るなら、その糸口は、"conatus"/「コナトゥス」の考察とは
何の関係もない。
0337名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/09(木) 09:24:48.16ID:ltwgOwMI
きわめて単純化して説明すれば、発端は、6年ほど前にこの掲示板の
別の板で日本語の古語の表現のメタ言語的な記述の試みを始めたこと
であり、そのために英語やフランス語などにおける表現を比較して
考察する対象としていた。すると、考察の対象とする日本語の表現を、
英語やフランス語のどのような表現と対応させて考えるのが適切で
あるのかを絞り込むのに、日本語の表現に当てられた漢字や、
その表現の言い換へに用ひられる漢字を利用することが好都合で
あることに気づいた。ところが、それをつづけるうちに、漢字の
音読みから辿った中国語の中古音の発音が、意味的にはとても近い
が、通常、その漢字とは無関係であると考えられている「和語」
とされる日本語の表現の発音ととてもよく似ている例が多く見られる
ことに気づくことになった。その結果、注目することになったのが、
日本語の多くの動詞に見られる「〜ふ」であり、その用法の機能的な
働きを記述しようとしてたどり着いたのが、この「〜ふ」、および
その活用形は、中国語としては「復/覆」として用ひられることに
なった表現のピジン語的な流用であるという認識であった。

それとは無関係に、この間に目を通すことが多くなっていたのが、
私が教育を受けたことのないドイツ語で書かれた著作であり、
今回、"conatus"について考察することになったきっかけも、
ドイツ語の動詞の前綴りの»be-〜«は、日本語の「〜ふ」との
類似性を感じさせるが、»be-〜«に関する一般に通用している
説明では、そのことがうまく説明できないので、メタ言語的な
記述を試みてみようということだった。その試みを始めてみて
すぐに気づいたのが、ドイツ語の前綴り»be-〜«が用ひられて
いる表現の多くには、フランス語やスペイン/ポルトガル語などの
ラテン語系の言語の対応する表現において、"con-〜"となっている
ことであり、直接に特に気にかかったのは、» Bekenntnis«と
"confession"の対応関係であり、そこで、"con-〜"についても
検討したことが、最終的には、"conatus"について考察として
派生することになった。
0338名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/09(木) 09:45:09.24ID:ltwgOwMI
»Bekenntnis«と"confession"の対応関係が特に気にかかったことにも
理由はあるが、それは、今回の考察とは直接的にはまったく無関係に、
私が気に入っている本のうちの1つに、Sándor Máraiの著作の
ドイツ語訳、"Bekenntnisse eines Buergers: Erinnerungen"が
あることであり、そのフランス語訳は、"Les Confessions D'un Bourgeois"
であり、中国語訳は、『一个市民的自白』であり、私には、
中国語や読めないものの、これらすべてを蔵書として持っており、
これらすべてに一応は目を通していたことである。
0339名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/09(木) 10:07:58.70ID:ltwgOwMI
ところが、こうして、あらかじめ何の計画性もない経緯からでも、
ひとたび、"conatus"/「コナトゥス」という表現に対して、それを、
「『み(身)ど(取/獲)り』の『と(取/獲)りく(汲/組)み』」(例えば、
"to beget/begotten"という関係性として表出する)として捉へ直す
「独自の」解釈が得られると、今度は、ひるがへ(翻)って、
この解釈を、私自身がなぜ、ここに延々と書込むことをつづける
のかの説明として、ただちに利用することができるようになる。
0340名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/09(木) 10:20:46.77ID:ltwgOwMI
私は、ここに書き込むことで、現状で何の金銭的な利益も得てはおらず、
今後も、そのことから金銭的利益が生じる見込みは一切ない。また、
書き込むことが、私の社会的な地位の向上に寄与するわけでもない。
世間一般の「現実的な考え方」からすれば、私がここに書き込むという
行為は、膨大な時間と労力の浪費でしかないだろう。見てのとおり、
私の書込みに対して、何ら反応があるわけでもないので、せいぜい、
独りごとの落書きにより「うさ晴らし」をしているに過ぎないもの
と、一般的には認識されるだろう。しかし、「私自身」にとって
みれば(このような「言い回し」により「鶏が先か、卵が先か」
という問題が生じるのだが)、ここに書き込むことは、それなりの
必要性に応じた十分に意味のある行為である。
0341名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/09(木) 10:37:52.49ID:ltwgOwMI
私自身にとてのここに書込みつづけることの意味とは、出会ひが気に
かかる言語表現をメタ言語的にうまく記述しようとこころみることで、
そのような表現を把握する力が身につくように、すなはち、
「み(身)ど(取/獲)り」となるようにする「と(取/獲)りく(汲/組)み」
となっているということだ。

「そんなことなら、わざわざ掲示板に来て書き込まなくても、自分
でノートでも作って日記のように書き込んでいればいいではないか。
規制が行われたり、うるさい邪魔な広告が表示されたりして気が散り、
書き込むのが面倒な掲示板でそれをする必要があるのか」という
反応をする人もいるだろう。しかし、そのような人は、
「み(身)ど(取/獲)り」のプロセスについて根本的な思ひ違ひをしている。
0342名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/09(木) 10:57:30.84ID:ltwgOwMI
確かに私は、ここに書き込むことに私自身が費やす時間と労力と
引換へに他人の利益にになる何らかの知識を伝へようとしている
のではない。私自身には何の利益もなく、負担ばかりがかかる
行為でありながら、それが他人に利益をもたらすのなら、その
こと自体で私は不利な状況にみづから(身づ柄/自ら)を自分で
追い詰めることになる。その一方で、仮に私が他人を騙して
誤った知識を広めて、自分自身はそのことによって利益を
得ようと思っていたとしても、私がここに書き込むことなど、
誰も相手にする必要性に迫られてはいないのだから、私が
それにいくら時間と労力を費やしても無駄だろう。では、
なぜ、それでも、書込みつづけることが私自身にとって
有益となり得るのか、この場合、それを説明するのに、独自に
捉え直された"conatus"の解釈が役立つのである。
0343名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/09(木) 11:35:41.63ID:ltwgOwMI
>出会ひが気にかかる言語表現をメタ言語的にうまく記述しようと
こころみることで、そのような表現を把握する力が身につく<

「身につく」と表現するとき、多くの人が想起するのは、「我が
身(み)」に何かが付け加はること、または「我が身(み)」が成長して、
より大きくなることだろう。そこで暗黙に前提とされているのは、
まずそこに「身(み)」が「主体的な中心性」として存在すること
である。視覚的に分かりやすい喩えを用ひるなら、大木の幹
を切って見ると、切株に年輪が現れ、その年輪の中心がその
大木の「身(み)」の「主体的な中心性」であるかのように見える
ということだ。
しかし、
>"conatus"/「コナトゥス」とは、「『み(身)ど(取/獲)り』の
『と(取/獲)りく(汲/組)み』」(例えば、"to beget/begotten"と
いう関係性として表出する)である<
とするなら、「身につく」ことそのものが「み(身)ど(取/獲)り」
のプロセスとして捉へ返されることになる。例えば、鶏が
卵を産むために「身重(みおも)」になることを「み(身)ど(取/獲)り」
のプロセスと考へた場合、そのプロセスにおける「身(み)」の
「主体的な中心性」はどこにあると言へるのか。

ここですぐに関連して想起されるのが、アルキビアデスが暴露する
ソクラテスの「本当の姿」だろう。
>このような人たちを、この人はだまし、自分が彼らを愛していると
思い込ませる。しかし、やがて、愛する者の仮面を脱ぎ捨て、自分
のほうが愛される少年になってしまうのだ。<
プラトン、中澤務訳、『饗宴』、光文社、pp.187-88
0344名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/09(木) 11:53:48.21ID:ltwgOwMI
ここで、「言語表現をメタ言語的にうまく記述しようとこころみる」
とは、どのような行為であるのか考へてみるとよい。そもそも、
私が記述しようとこころみる言語表現は、私自身が出会ふものであって、
「私自身のもの」ではない。では、そのような場合にそれを
「うまく記述」することができたと感じられるのか。それは、
それらの言語表現をメタ言語的に記述する私の「言葉の使ひ方」に
より、それらがどのような表現であるのかについて、その使ひ方に
他者(である私自身)に気づかせることができたと感じられる場合である。
それがうまくできたときに、それらの言語表現の用法は、
「み(身)ど(取/獲)り」/"begotten"となって把握されて、私自身
の身につく。
0345名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/09(木) 13:14:20.46ID:ltwgOwMI
「主体の中心性」は、「み(身)ど(取/獲)り」 の効果の再帰性として
現出するものであって、「み(身)ど(取/獲)り」に先立って存在するもの
ではない。
0347名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/10(金) 09:46:01.98ID:dhYjEGtC
もとより一神教は、教理としての「み(身)ど(取/獲)り」の否認が、
信仰する側の「み(身)ど(取/獲)り」の願ひにより支へられる
(頼みにする側を頼みにする)という、子供にでもすぐに分かる、
というより、子供の方がよく分かる、矛盾した形で成立している。
その矛盾の成立は、統治体制と手に手を取り合ふことによって
しか維持しつづけることができない。一神教は、現代では、
統治における影響力を弱めているように見えるが、理念
としての「民主主義」や「環境保護主義」が、その代替の
役割をしており、それらは、謂はば、不可視化された一神教である。
0348ネガフィルムとしての他己垢版2023/03/10(金) 11:29:10.77ID:dhYjEGtC
>Aus dem Lande des Erbfeindes,“ schrie Diederich, „wälzt sich immer
wieder die Schlammflut der Demokratie her, und nur deutsche
Mannhaftigkeit und deutscher Idealismus sind der Damm, der sich
ihr entgegenstellt. Die vaterlandslosen Feinde der göttlichen
Weltordnung aber, die unsere staatliche Ordnung untergraben
wollen, die sind auszurotten bis auf den letzten Stumpf, damit,
wenn wir dereinst zum himmlischen Appell berufen werden,
daß dann ein jeder mit gutem Gewissen vor seinen Gott und
seinen alten Kaiser treten kann, und wenn er gefragt wird,
ob er aus ganzem Herzen für des Reiches Wohl mitgearbeitet habe,
er an seine Brust schlagen und offen sagen darf: Ja!“ <
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_VI)
0349正しい反省のあり方垢版2023/03/10(金) 14:54:34.19ID:dhYjEGtC
>Er hatte immer nur auf Flugsand gestanden, da er nicht auf
der Macht stand. Nichtig Ziele, die fortführten von der Macht!
Fruchtlos der Geist, denn nichts hinterließ er als Verfall!
Verblendung jeder Ehrgeiz, der nicht Fäuste hatte und Geld in den Fäusten!<
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_VI)
0350春眠不覚暁垢版2023/03/12(日) 09:33:17.86ID:KtqqbsZV
「われ(我)が『あ(在)る』/"being around"」とすれば、
それはまずなによりも、「ゐ(居)ここち(心地)のわる(悪)さ」として
「あ(在)る」のであって、「われ(我)」が代表するのは、
"the inconvenience of being"であり、»Unbequemlichkeit«である。
したがって、「われ(我)」は、「ゐ(居)ここち(心地)よ(良)く」/
»angenehm«になるの応じて「わす(忘)れ」られる。
0353名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/12(日) 11:17:52.63ID:KtqqbsZV
That if gold ruste, what shal iren do?
For if a preest be foul, on whom we truste,
No wonder is a lewed man to ruste;
And shame it is, if a prest take keep,
A shiten shepherde and a clene sheep.
Wel oghte a preest ensample for to yive,
By his clennesse, how that his sheep sholde lyve.
(出典 librarius.com/canttran/genpro/genpro479-530.htm)
0354名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/12(日) 13:13:59.88ID:KtqqbsZV
一般に印欧諸語とは、歴史言語的な系統がまったく別であると考へ
られている日本語と対照してみると、印欧諸語の語源的な説明が
いかにも無理のある表現解釈をしている事例では、そのことが
より明確に意識され、どのように無理をしているのかを記述する
ことも容易である。今では、スピノザの用ひた概念として知られ
ており、かつては、他の多くの思想家によっても重要な概念として
扱はれていたらしい"conatus"の語源説明も、既に指摘したとおり、
その表現としての解釈に無理が強く感じられる事例の代表である。
それがどのような無理であるのかについて、より詳しく述べてみる
ことにしよう。それにしても、"conatus"/「コナトゥス」スピノザの
思想に関連して、現代思想でもこれだけ頻繁に言及される概念で
ありながら、それが言葉としてどのような表現であるのかについて
は、まるで論じられていないように見えることは、とても奇妙では
ないだろうか。その放置により、何が無視されている、あるいは
より積極的に回避されているのか。
0355名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/12(日) 13:38:06.57ID:KtqqbsZV
何度でも断っておくが、私は、言語学者でも、言語研究の専門家でも、
ラテン語について初歩的な知識を身に付けている者ですらない。
フランス語やスペイン/ポルトガル語などの現代のラテン語系の言語に
多少の馴染みがある(具体的には、TVドラマをよく観る)ことを除けば、
私のラテン語についての知識は、日本語を母語とする一般の人のもの
と変わらない。それでも、そんな私ですらもすぐに気づくことであり
ながら、専門家が気づかないように見える、あるいは気づいていながら、
何の問題もないかのように無視している明白な事実関係を私は指摘し
ようとしているのである。まず最初に
"conatus"を派生させるラテン語の"conor"という動詞と、
"praeconor"という動詞を次のサイトを参照して比べてみるといい。
>latin-is-simple.com/en/vocabulary/verb/269/
>latin-is-simple.com/en/vocabulary/verb/5569/

"praeconor"は、"conor"の前に"prae-"が付けられただけであり、
この"prae-"は、英語では"pre-"として用いられ、日本語でもカタカナ語
として、例えば、「プレ・モダン」のような形で通用しており、
「あらかじめ」、「前の」、「先の」といった意味合いを担っているが、
"prae・conor"の"-conor"の活用形については、"conor"とまったく同じである。
にもかかわらず、一般的には、"praeconor"の"-conor"と
"conatus"として用いられる"conor"では、まったく別の語源の表現
として説明されているのである。しかも、それに誰も異論を唱えている
様子は窺えない。これは、驚くべきことではないだろうか。
0356名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/12(日) 13:53:59.29ID:KtqqbsZV
Wiktionaryで"conor"と"praeconor"の語源説明を見比べてみよう。
ここで留意してもらいたいが、私はなにも、Wiktionaryの記載なら
権威があるはずだなどということを前提にしているのではない。
引用に好都合だから利用しているだけで、私の認識に誤りがあり、
この記載とは異なり、"conor"と"praeconor"を共通に語源解釈する
学説の方が通用しているというのなら、それは私にとっては喜ばしい
限りであり、私の認識を正す記述を提示してもらえれば、それで済む
ことである。

>conor
From Proto-Italic *kōnāō, from Proto-Indo-European *kona,
from root *ken- (“to set oneself in motion”).
(出典 en.wiktionary.org/wiki/conor)
>praeconor
From praecō (“a herald”) (stem praecōn-) +‎ -ō.
(出典 en.wiktionary.org/wiki/praeconor)
>praecō
Perhaps from prae + vōx.
(出典 en.wiktionary.org/wiki/praeco#Latin)

見てのとおり、"conatus"の"conor"と"praeconor"の"conor"は、
形の上ではまったく同じでありながら、
"conatus"の"conor"は、「動き出す」ことを表現する
"*ken-"を語源とすると説明される一方で、
"praeconor"の"conor"は、「声」を表現する"vōx"を語源とする
と説明されているのである。
0357名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/12(日) 14:09:34.98ID:KtqqbsZV
"conor"については、私は既に、フランス語を母語とする人の場合、
conor"と《s'y prendre》の対応関係に気づかないことにするには、
相当に無理を強いられるだろうと指摘した。上に引用したサイトで
"conor"の説明を参照すると、"This is a deponent verb."と記載
されるが、これについては、Wikipediaで「中動態」について参照する
と、
>ラテン語において、能動の意味は保持しているのに、能動の屈折を
放棄し(deponere)て、受動の屈折をとった動詞を、デポーネント
(仏 déponent、英:deponent)、形式所相動詞という。
デポーネントは、能動欠如動詞、形式受動相動詞、異態動詞、
形式受動態動詞ともいう。受動態の形態だが、意味が能動態の
デポーネントは、インド・ヨーロッパ祖語の中動態の残存と
指摘されている。<
と説明され、「中動態」については、
>中動態は、能動態の屈折や、受動態の屈折に比べて、特有な
屈折を持ち、たとえば、文の主語が動作主であると同時に目的語で
あることを示すが、これはフランス語の代名動詞に対応する。<
とされるので、"conor"がデポーネントである以上、対応する
フランス語の表現として《s'y prendre》のような代名動詞の
表現を探すのは、云はば、常識的なことであり、対応する表現
として《s'y prendre》に行き当たらないとすれば、その方が
奇妙であると言える(実際、フランスのスピノザの専門家と私は、
まったく独立にこの同じ表現にたどり着いたわけだが)。
0358名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/12(日) 14:15:32.68ID:KtqqbsZV
"conor"については、"conatus"に関連して既に詳しく検討したので
繰り返すことはしないが、"to undertake"に対応するような表現として
用ひられる"conor"を、表現として語源的に"*ken- (“to set oneself
in motion”)"に「還元」して説明しようとするのは、いかにも無理が
あるだろう。この語源説明によって無視される/否認されることに
なるのは何か。それは、"praeconor"を表現として検討してみること
でさらにはっきりとする。

続きは、また後で。
0359名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/12(日) 14:22:10.84ID:KtqqbsZV
>préconiser
1. Vx, RELIG. CATH. [Le suj. désigne le pape ou un cardinal]
Déclarer en consistoire qu'un ecclésiastique choisi par
un chef d'État pour un évêché ou une fonction particulière,
et dont la nomination est soumise à l'agrément du Saint-Siège,
a les qualités requises. Le pape a préconisé un tel pour
l'archevêché de Paris (Littré).
(出典 cnrtl.fr/definition/préconiser)
0360名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/12(日) 17:39:07.78ID:KtqqbsZV
現代のフランス語では、《préconiser》という動詞は、以下のように
用ひられると説明されている。
>préconiser
プログレッシブ 仏和辞典 第2版の解説
➊ 〈préconiser qc‖préconiser de+不定詞‖préconiser que+接続法〉
…を強く勧める.
préconiser un médicament|ある薬を勧める.
➋ 〔教皇が新司教〕の任命を宣言する.<

Wiktionaryで《préconiser》の語源説明を参照すると、
>From Middle French, from Medieval Latin preconizō,
from Latin praecō (“crier, herald”).
と記載されるので、結局、上で見たラテン語の"praeconor"と
語源的に共通であることになり、"praecō"そのものは、
>1. herald, crier、2. auctioneer
を意味するとされるので、形が異なっているだけで、"praecō"と
"praeconor"は同じ表現であると見なされている。
0361名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/12(日) 18:10:09.13ID:KtqqbsZV
さて、"praeconor"は、英語の"to herald"や"to proclaim"に対応する
ような意味で用ひられる表現であるとされるわけだが、
無論、"to herald"という英語は、その発音が"praeconor"にまったく
似ていないことからも分かるとおり、語源的には"praeconor"と
無関係であり、 「布告する」、「先触れする」、「告知する」、
「予告する」などと訳される。また、"to proclaim"の場合は、
表現上、"prae-"に"pro-"を対応させることは可能である一方で、
"-claim"の方は、語源的に"to cry out"を表現するものとされるので、
結局、この場合、"praeconor"の"conor"は、「呼び声」に「還元」
されて解釈されていることになる("conatus"の"conor"の方は、
「動き出す」ことに「還元」されるのに対して)。

しかし、この解釈の手続きは、どのように正当化されるのか。
"praeconor"が「布告する」こと、「告知する」こと、「先触れする」こと、
「任命を宣言する」ことを意味するように用ひられるので、この動詞は、
「声を出す」ことに関係しているはずだとまず結論づけて、そこから
逆に"conor"がそのような動作を表現しているはずだと推論しているだけ
ではないのか。
0363名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/13(月) 07:40:37.98ID:+pzTZDnB
ともかく、いずれにしても一般に通用しているこの語源解釈に
従って、"conatus"の"conor"とは切り離して、"praeconor"について、
この言葉を使ふことによって伝はることが意図されると考へられ
るものに対して、この解釈により形成される表現が妥当なもの
となるかどうかを考へてみよう。それは、私自身にとっては、
>>286で私が提示した格率に沿って考へてみることである。

>L'expression employée doit se rendre adéquate/être fidèle à
ce qu'elle/on veut dire.<

この場合、"praeconor"は、 「布告する」、「先触れする」、
「告知する」、「予告する」に対応するような意味を伝へること
を意図し、""praeconor"を継承するものと想定されるフランス語の
《préconiser》は、「〜を強く勧める」、「〜の任命を宣言する」に
対応するような意味を、また、より古くは「〜を賞賛する」に対応
するような意味を伝へることを意図するように用ひられたのだから、
語源解釈による"prae + vōx"がそのことに対して妥当な表現となって
いるかどうかを検討してみることである。
0364「中動態の思想」という「をとり(囮)/罠」垢版2023/03/13(月) 08:59:41.20ID:+pzTZDnB
唐突だが、ここで一見したところ、何の関係もない問ひを発しよう。

万葉集で山部赤人によって詠まれたとされる有名な歌、
>田子の浦ゆうち出でて見れば
の「ゆ」は、経由の「ゆ」、したがって、自由の「ゆう」だろうか。
「田子の浦を過ぎて」や「田子の浦を通って」という現代語訳から
見るなら、そのまま経由(けいゆ)の「ゆ」と考へてもよさそうに思える。

ところが、検索して万葉仮名による表記を参照すると、漢字による表記は
次のとおりである。
>田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
(出典 万葉集ナビ)

見ての通り、「ゆ」と発音されている表現には、「従」が当てられている。
ここで、「従」と「由」のそれぞれの中国語としての想定される中古音
をWiktionaryで参照すると、次のとおりである。
>從
Middle Chinese: /d͡zɨoŋ/
>由
Middle Chinese: /jɨu/
0365お白洲(しらす)垢版2023/03/13(月) 10:18:12.50ID:+pzTZDnB
議論が脱線した(ように他の人には見えるであろう)ついでに、少し敷衍しよう。

私は、以前に「中動態」について論じた本を地元の図書館で借りてきて
ことがあったが、議論の仕方がまったく私には「肌に合わない」と感じ
られたので、中動態は、文法として、「〜する」という能動態でも、
「〜される」という受動態でもないといった類のことを説明している
ところまで目を通したところで、読むのを放棄してしまった。

ところで、別の板のスレなどで、これまでに以前から何度も引用して
いる、私の気に入っている紫式部の歌がある。それは、次のとおりである。
>心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひしられず。

ここで、私がその考へ方を提示したとおりに、"conatus"/「コナトゥス」
とは、「『み(身)ど(取/獲)り』の『と(取/獲)りく(汲/組)み』」である
とするなら、「あ(悪)しき『と(取/獲)りく(汲/組)み』」というのは
あり得ても、「あ(悪)しきコナトゥス」というのは、形容矛盾であり、
あり得ないことに留意しよう。というのも、「あ(悪)しき」こととは、
まずなによりも、「『み(身)ど(取/獲)り』をそこ(損)なふ」こと、
「身のためにならない」ことだからである。
>>349
>Fruchtlos der Geist, denn nichts hinterließ er als Verfall!

さて、引用した紫式部の歌において、言及した「中動態」に関して
論じた本によれば、「思ひ知れども」は能動態であり、「思ひしられず」
は受動態ということになる。では、「知らす」およびその名詞形である
「知らせ」は、能動態だろうか、受動態だろうか、それとも、
能動態でも受動態でもないので、中動態ということになるのだろうか。
「思ひ知らせてやる」のように表現すれば、「思ふ」主体と、「知らす」
主体は異なることがはっきりするので、「使役」のようにも見える。
では、「虫の知らせ」は、虫に「使役」されることになるのか。
この場合は、「知らす」をやはり、「『中動態』に対応するような
表現」と見做すことになるのではないか。
0366名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/13(月) 10:21:36.94ID:+pzTZDnB
さて、ここで脱線(しているように見えること)から議論を元に戻そう。
"
praeconor"が、 「布告する」、「先触れする」、「告知する」、
「予告する」に対応するような意味を伝へることを意図している
とするなら、語源解釈による"prae + vōx"は、そのことに対して
妥当な表現となっているだろうか。
0367名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/13(月) 10:34:25.03ID:+pzTZDnB
"prae + vōx"の"prae"は、既にのべたとおり、日本語でも「プレ」という
カタカナ語として使はれることがあるものであり、これは、「あらかじめ」、
「前もって」、「先に」に対応するような表現であり、"vōx"は、「声」、
特に「呼びかけ」や「呼び寄せ」の「声」を表現していると考へることが
できるだろう。さらには、日本語で「〜を」をやはり「呼び声」として
「乎/呼」に対応するものと見做しながら、「〜を求める」ことを表現
すると解釈することができるのだから、"prae + vōx"の"vōx"を、
"to proclaim"の"to claim"、つまり、「請求する」ことに対応させる
ことにも無理は感じられないはずである。

では、ここで問ふことになるが、"prae + vōx"が語源的に見れば、
「あらかじめ/前もって/先に(/あるいは優先的に)請求する」という
形の表現となっているとして、この表現法は、"praeconor"、および
それを継承するものと想定されるフランス語の《préconiser》が
伝へようとする意図に適合するものとなっているだろうか。
0368名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/13(月) 13:33:04.54ID:+pzTZDnB
>>367
これは、言い換へるなら、"prae + vōx"/「あらかじめ/前もって/先に
(/あるいは優先的に)請求する」という表現法は、「布告する」、
「先触れする」、「告知する」、「予告する」、「賞賛する」、
「〜を強く勧める」、「〜の任命を宣言する」などをその意図と
して伝へるのに、最適ではないにせよ、適合する手段となっている
か否かを問ふことである。

この問ひに対する私の応へは、否定的だ。別に"prae"と"vōx"の
それぞれに私が当てた日本語の表現に縛られる必要はない。
例えば、"vōx"に対して「呼びかける」、「呼び寄せる」、
「叫ぶ」など、いくらでも柔軟に考へて、対応させる日本語
の表現を置き換へてみてもよい。それでも、私は、この語源解釈は、
「根本的に的外れ」だろうと思ふ。
0369名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/13(月) 13:51:12.67ID:+pzTZDnB
私にはラテン語の初歩の知識すらないので(専門家だけでなく、大抵の人は、
その時点で、私には、この問題について論じる資格がないと考へるだろう
が)、日本語から考へて見よう。「布告する」、「先触れする」、
「告知する」、「予告する」、「〜の任命を宣言する」
などの表現にいはば核として共通しているのはどのようなことだろうか。
それは、「(呼びかけの)声を出す」ことだろうか。私は、そうは思はない。

例えば、「マスク着用義務が解除されることを先触れする/告知する」こと
を考へてみるといい。いくら大声でそれを叫んだところで、その行為自体
では、「先触れする/告知する」こととして成立しない。
「自分が独立した大人であることを宣言する」としても、「私を大人として
扱うように」と「あらかじめ請求」したところで、その請求が無視されれば、
その発話行為は、「宣言」とはならない。では、どのようであれば、
「先触れする/告知する」こと、「〜を〜であると宣言する」ことが
行為として成立するかと言えば、その発話が「周知」させる効果、
「認知」させる効果を発揮する限りにおいてである。
0370名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/13(月) 14:08:35.36ID:+pzTZDnB
つまり、「布告する」、「先触れする」、「告知する」、「予告する」、
「〜の任命を宣言する」 、またそれに加へて、「賞賛する」という
行為を成立させる要件は、発話の効果として《connaissance》や
"cognizance"がもたらされることである。無論、ここで注目すべきは、
《connaissance》の《con-〜》、およびそれにそのまま対応する
"cognizance"の"co-〜"であるが、これらの表現において、
通常、「知る」こと/"to know"に当たるものと解釈される《nai-》
および"gni-"について考えるのにヒントになる別の表現が
英語にある。それは、やはりフランス語の表現にも直接に
つながる"to apprise"/「知らす」であり、"to be apprised of"
/「(状況を知らされて)知っている/把握している」である。
0371名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/13(月) 14:46:49.44ID:+pzTZDnB
もはや、"praeconor"について、その表現法を私がどのように「把握」
しようとしているのか明らかだろう。フランス語の《connaître》という
動詞についてWiktionayを参照すると、次のとおり記載される。

>From Old French conoistre, from Latin cognōscere,
present active infinitive of cognōscō (probably through
a Vulgar Latin *connōscere). <

これを見ても、"gn"の発音は比較的容易に「軟化」して"n"の
発音に吸収されやすいので、"praeconor"の"-conor"の"-n-"
に"-gn-"を対応させること、つまり、"cognōscō"の
"-gnōscō"に対応させて考へることは、無理なことではないだろう。
では、"-conor"の"-co-"の方はどうなのかと言へば、
ラテン語の一般的に通用している"con-"の説明を、このスレで私が
検討して示したようにドイツ語の動詞の前綴り»be-〜«や英語の
"be-〜"の表現法にも対応可能なように変更するなら、"praeconor"
の"-co-"も、"con-"と同じ要素であると言ふことができる。
>Used in compounds to indicate the completeness, perfecting
of any act, and thus gives intensity to the signification of
the simple word
(出典 en.wiktionary.org/wiki/con-#Latin)

ここでは、"con-"は、動作の完了を示すことによって単純な語
を「強調する」働きをすると説明されているが、そうではなく、
"con-"は、»be-〜«や"be-〜"の場合と同じく、
>"con-〜"により修飾される作用の効果として主体性を再帰的に
表出させる働きをする<
のである。
0372名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/13(月) 15:08:43.63ID:+pzTZDnB
"praeconor"が、「賞賛する」、「〜を強く勧める」、「〜の任命を
宣言する」などを意図する表現となっていることも、"-conor"の
"-(g)nor"が、フランス語の《été pris(se)》に対応するような意味合い
を担う表現要素として用ひられていると考えると分かりやすい。
例えば、フランス語の《priser》は、「重んじる」、「高く評価する」
というような意味の表現であり、《se prendre》には、「取られる」、
「捉へられる」、「とりつく」を表現する用法があり、また
「固まる」、「凝固する」などを表現するようにも用ひられる。

無論、"-conor"の"-(g)nor"と《prendre》は語源的には別だが、
同様の様態を表現するのに、別の表現法が併存して、そのいずれもが
使はれることは何ら珍しいことではない。さらに、私には、
この"-(g)n"の発音としての用法は、例えば、英語の"pregnant"
という表現に引き継がれている"gn"にも対応しているのではないか
と思はれる。

>pregnant (adj.1)
"with child, impregnated, that has conceived in the womb,"
early 15c., from Latin praegnantem (nominative praegnans,
originally praegnas) "with child," literally "before birth,"
probably from prae- "before" (see pre-) + root of gnasci
"be born" (from PIE root *gene- "give birth, beget").<
(出典 etymonline.com/word/pregnant)
0373名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/13(月) 15:31:43.31ID:+pzTZDnB
ラテン語の専門家であるどころか、初歩の学習者ですらない私がなぜ
このようなことを問題として検討しているのか、私はその問題意識の
根底を見誤ってほしくない。私は、歴史言語学の専門家や古代ギリシア語、
ラテン語などの古典言語の専門家よりも、私の方が優れた知見をもっている
などということを実証しているのではない。西洋の古典の研究を専門
としている人々は、言葉の表現解釈に通暁しているはずである。
にもかかわらず、その初歩的な学習すらしたことのない私ですら気づく
ような奇妙な語源解釈、表現解釈に誰も異論を唱えていないように
見えることがまさに異様であると指摘しているのだ。というのも、
"conor"の解釈において、"co-"が"con-"と同じ要素である可能性が
無視されているだけでなく、"praeconor"の解釈に至っては、
"-conor"の発音も活用も、"conatus"の"conor"と一致している
ことは無視され、表現の系統関係を確立するのに何よりも音韻の
規則的な対応を重視するという歴史言語学の「格率」も度外視して、
場当たり的な語源解釈をすることにより、"co(n)-"の表現法として
の解釈を徹底的に回避しようとしているように見えるからである。
これは、ちょうど、日本の古典文学の専門家が、「玉の緒(を)」を
「たまのお」とするような規範化に何ら異を唱えることもないのみ
ならず、それを「枕詞」として扱って解釈不要とする教育におとなしく
協力することの異様さと同様のものである。
0375名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/13(月) 15:34:23.78ID:+pzTZDnB
353名無しさん@お腹いっぱい。2023/03/12(日) 11:17:52.63ID:KtqqbsZV
That if gold ruste, what shal iren do?
For if a preest be foul, on whom we truste,
No wonder is a lewed man to ruste;
0376やさしきとりくみ垢版2023/03/13(月) 15:38:48.90ID:+pzTZDnB
「中動態の思想」による「あ(悪)しきコナトゥス」の発明w
0377名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/13(月) 15:43:00.31ID:+pzTZDnB
誤爆したので、貼り付け。

420名無しさん@お腹いっぱい。2023/03/13(月) 15:42:21.89ID:+pzTZDnB
途中で書込みアクセス規制によって「いきほ(勢)ひ」を削がれたが、
言ひたいことを最後まで書き込めたのは良かった。
0379イデアの孵化垢版2023/03/14(火) 09:38:33.95ID:x70GrOgX
《connaissances》の《reconnaissance》から
《naissance》の《renaissance》へ

>naître
from Latin nāscor, nāscī, from earlier gnāscor,
from Proto-Italic *gnāskōr, from Proto-Indo-European *ǵenh₁-.
(出典 en.wiktionary.org/wiki/naître)

>nascor
From earlier gnāscor, from Proto-Italic *gnāskōr,
from Proto-Indo-European *ǵenh₁-.
Cognate with Ancient Greek γεννάω (gennáō, “to beget”).
>nāscor (present infinitive nāscī, perfect active nātus sum);
third conjugation, deponent
1. I am born, begotten.
2. I arise, proceed.
3. I grow, spring forth
0380身内を亡ぼす「あ(悪)しき『と(取/獲)りく(汲/組)み』」垢版2023/03/14(火) 09:50:24.83ID:x70GrOgX
ところで、"γένος"、つまり、「氏族」的な価値観を守るために
我が身を犠牲にすることになることも厭はない/省みない"Ἀντιγόνη"/
「アンティゴネー」が、"Ἀντιγόνη"、とりもなほさず
>ᾰ̓ντῐ- (anti-, “against”) +‎ γόνος (gónos, “offspring”) +‎ -η (-ē).
(出典 en.wiktionary.org/wiki/Ἀντιγόνη)
という名前であることは、とても興味深いことではないだろうか。
0382名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/14(火) 10:30:11.57ID:x70GrOgX
これに対して、「氏族」的な価値観を無視して、己/みづから(身づ柄/自ら)
の支配者としての立場を尊重させることだけしか頭にない"Κρέων"/
クレオーン(統治者)は、支配者として力を揮ふことにより、自らの血を
受け継ぐ息子の"Αἵμων"/ハイモーン("bloody"を意味する)の命を犠牲に
することになり(剣で自らを刺して血を流して死ぬ)、息子の死を知った
母親/クレオーンの妻である"Ευρυδίκη"/「エウリュディケー」
("wide justice", derived from ευρυς eurys "wide" and δικη dike
"justice: 出典 Wikipedia)も剣で血を流して自死を遂げ、結局、
クレオーン(統治者)は、その力も地位も失ふ結末となる。
0383名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/15(水) 09:38:08.14ID:HbV9ywtS
>>379
かくして、"conor"においても、"prae・conor"においても、
"conor"の"co-"は、ラテン語の"co(n)-"の表現法に、また、
"nor"の方は、語源的に"nāscor"に、つまり、「う(生)む」こと
に関連付けられて再解釈されることになったわけだが、これは、
そもそも、"conatus"が、ラテン語において"amor naturalis"
として(>>308参照)、フランス語においては《la nature naturante/
naturée》として(>>300参照)捉へられていることを考へれば、
至極「自然」なことだろう。

ここで、フランス語の《la nature naturante/naturée》という表現
を日本語で言い換へてみれば、それは、「それがどのような
「性質」/《la nature》のものであるにせよ、その「性質」/
《la nature》を「かひ(効果/効験)」/「み(身)ど(獲/取)り」と
して発現させること」と記述することができるはずである。
0384「中動態の思想」という諛(ゆ)言(ごと)垢版2023/03/15(水) 10:13:50.59ID:HbV9ywtS
「中動態」について付言すれば、現代の言語では、動詞の形態
として、古代の言語において「中動態」に分類される「文法形態」
が失はれて、「能動態」と「受動態」だけが残されているなど
という実態はないと断言できると私は思ふ。表向きそのように
「見える」とすれば、それは、言語表現を「表現として解釈する」
ことを忘れてしまい、「言葉の用法には文法が先にあるはずだ」
と思ひ込む先入観がもたらした錯覚に過ぎないだろう。

古代の言語の用法においては、より明確に意識されながら、
現代の言語の用法においては、大概、「見失はれている/見損な
はれている」ものがあるとすれば、それは、動詞の「中動態」
ではなく、動詞が伝へる「態」そのものであり、この場合、
「態」というのは、「能動態」、「受動態」、「中動態」
という分類のことではなく、心の動きの「態」、すなはち、
「能・心」のことである。そして、心の動きの「態」を「見失ふ/
見損なふ」なら、「由(ゆ)」/»los«を求める言説と「あ『ゆ』み/
歩み」をともにしているつもりでいながら、「従/諛(ゆ)」に
導かれて/誘ひ込まれて、いつのまにか、みづから(身づ柄/自ら)
が「自発的従属」の立場に陥っている/陥れられていることに
気づくことになるだろう。
0385ゆ(斎)だね(種)垢版2023/03/15(水) 10:22:54.61ID:HbV9ywtS
"prae・conor"が「布告する」、「先触れする」、「告知する」、
「予告する」、「賞賛する」、「〜を強く勧める」、「〜の任命を宣言する」
などをその意図として伝へる表現であるとすれば、それを
日本語として端的にまとめて言い換へるなら、
"prae・conor"とは、「あらかじめ・(しめ(標))ゆ(結)ふ」ことである。
0386名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/16(木) 12:04:32.61ID:XOb43KDM
"conatus"/「コナトゥス」についてWikipediaの日本語版を
参照すると、次のように記載される。

>コナトゥス(羅:Conatus、より正確に音写すればコーナートゥス
原義は努力、衝動、傾向、性向、約束、懸命な努力)は、かつて
心の哲学や形而上学で使われた術語で、事物が生来持っている、
存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う。 ここで
「事物」とは心的実体、物理的実体、あるいはその両者の混合物を指す。<
(出典 Wikipedia)

現代思想などに関連する言説で「コナトゥス」という表現が用ひられて
いるのに出会ふたびに私が目にしてきた説明も、これと似たりよったり
のものであり、私には、「コナトゥス」という概念が哲学するのに
どのように役に立つのか、これまでさっぱり分からなかった。
しかし、今から振り返ってみれば、"conatus"/「コナトゥス」がなぜ、
概念として私にはまったく捉へ難く、言語表現としても解釈不能なものと
なっていたのか、はっきりと説明できる。それは、このWikipediaの
説明に典型的に見られる記述が、「実体」中心主義を基礎としている
だけでなく、「実体化された自己」を基礎とする「『実体化された自己』
中心主義」となっていることだ。そして、そのように概念化されたなら、
"conatus"/「コナトゥス」は、哲学をするこころみにおいて、まさしく
「無用の長物」にしかならない。しかし、今となっては、この「『実体化
された自己』中心主義」を解消して、"conatus"/「コナトゥス」を、
その表現としての自然な姿に戻してやることもまた、容易だろうと
私には思はれる。そのためには、>>300のフランス語の記述において
一つの言葉を別の言葉に置き換えてやるだけでいい。
0387名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/16(木) 12:10:26.07ID:XOb43KDM
それは、>>300に引用した、
>La nature naturante correspond à l'activité de la substance
qui est « cause de soi », et la nature naturée correspond à ce
qui découle de la nécessité de cette substance. <
(出典 fr.wikipedia.org/wiki/Conatus) <
という記述において、《substance》という語を、次のとおり、
それに隣接する表現でもある《subsistance》で置き換えてやることである。

>La nature naturante correspond à l'activité de subsistance
qui est « cause de soi », et la nature naturée correspond à ce
qui découle de la nécessité de cette subsistance. <
0389名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/16(木) 13:27:57.46ID:XOb43KDM
Wikipediaの元の記述では、それがどのような「性質」/"nature"で
あるにせよ、その「性質」を「にな(担)ふ」/"bear"ものとして
「『基体』が存在すること」/「実体」が前提とされるわけだが、
哲学において問はれなければならないのは、「基体」が現れる
とはどのようなことかである。
0391名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/16(木) 17:14:20.12ID:XOb43KDM
Heinrich Mannの"Der Untertan"は、しばらく前に自分のいかにも
いい加減なドイツ語の理解(ドイツ語の教育を受けたことも、まともに
体系立てて学習したこともないので)により辞書も引かずに一応、
「読み終へた」が、私自身、どれだけ勝手に曲解しているのか不明
なので、この本の日本語訳の『臣下』を参照しながら、その確認を
している。今のところ、ほとんど「印象」が変わらないので、むしろ
真面目にやる気が削がれるのだが、ドイツ語の表現法が日本語の
それととてもよく似ている事例には、あらためて気づくことになる。

例えば、『臣下』(筑摩書房)のp.12に「心中はひどくわびしかったが」
という訳語の表現があり、この原文は、
>So verlassen ihm um das Herz war
(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/20)
だが、このドイツ語の»ver・lassen«を用ひた表現法は、明らかに
日本語の古語の「『す・さ』まじ」(『枕草子』に見られる)のそれと
そのまま対応している。
0392名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/16(木) 17:21:45.15ID:XOb43KDM
念のため付け加えておくが、私は、
>「心中はひどくわびしかったが」
という日本語訳の表現が不適切であると言っているのではない。
「すさまじ」きこととの関係性で説明するなら、「すさまじ」きことを
受け入れることが、「わ(侘/詫)ぶ」ことなのである。
0393名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/17(金) 09:55:47.48ID:Auo5cNAV
>>392
「適切に訳されているのなら、なぜそんなことを気にかける必要があるのか」
というのが、専門家を含めた一般に人々の通常の反応である。しかし、
このような対応関係を気にかけることは、本当は気づくはずなのに、
既に気づかないことが当然のこととして一般に受け入れられるように
習慣化していることについて省察するのに役立つのである。例えば、
ここで指摘したような対応関係を気にかけると、「すさのを(須佐乃袁)
(の)尊(みこと)」として聞きなれた「すさのを」という神の名前も、
ただちに、この
>So verlassen ihm um das Herz war
に関連付けられてイメージされることになり、「『す・さ』の『を』」
という名前は、「»so verlassen um das Herz sein«/『す・さ』
としての»wollen«/『を』」を想起させることを意図した名前では
ないのかと想念される。これにより、「すさのを(須佐乃袁)
(の)尊(みこと)」という名前に関連して語られる様々なエピソードも、
そのような想念により、新たに捉へ返されることになる。
0394名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/17(金) 10:07:13.19ID:Auo5cNAV
>>389
「万物は流転する」
ゆえに、何らかの《substance》/「基体」が現れるとすれば、
そのことは、とりもなほさず、
《C'est la nature même de la substance qu'elle subsiste》
を「まこと(真言/誠)」として「しろしめし」ていることになるだろう。
0395名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/17(金) 10:18:34.17ID:Auo5cNAV
私はいつも、「当たり前」のことばかりを言おうとしているつもりなのだが、
私がこのように「当たり前」だと思ったことを確認するためにそれを
言葉にして言い表すと、なぜか「激昂する」人々が少なからずいる。
幸か不幸か、私は長年、そのような人々ばかりを相手にしてきた。
0396名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/17(金) 10:41:17.44ID:Auo5cNAV
>>391-392
日本語の「さ(寂)び」と「わ(侘/詫)び」の関係は、日本語の表現として
そのまま言葉を尽くして記述し、説明しようとするよりも、むしろ、
ドイツ語の»verlassen sein«とフランス語の《être désolé》が、
表現法として互いにどのような関係にあるかを考察することを介した
方が、記述も説明も、より効率よく、より効果的となるのではないか
と私には思える。
0398訂正垢版2023/03/18(土) 00:27:09.97ID:CGm164vH
(-1)^0+i∫(0, π)(-1)^(x/π)dx=-1
0399名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/18(土) 00:39:40.76ID:CGm164vH
実は、私は、数学も計算もとても苦手で、微分積分も三角関数も
理解してはおらず、それどころか、足し算や引き算すら手間取り、
しょっちゅう間違えるのだが、私が数学操作を苦手とすることには、
私が日常の言語の表現によってうまく記述できない操作を嫌うことと
密接に結びついているのだろうと思ふ。というのも、数学を得意と
する多くの人々は、言語表現による記述を苦手とする場合が極めて
多いからだ。私自身、多少でも数学操作に慣れようと思へば、
そのことによって日常言語による記述への取組みが疎かになる
だろうと強く感じられ、それによって生じるトレードオフを嫌ふ
ために、もともと苦手とする数学に取り組むことは避けてきたの
だろうと自分を納得させている。
0400名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/18(土) 01:01:51.97ID:CGm164vH
(-1)^0+i∫(0, x)(-1)^(x/(π))dx=e^(ix)

ただ、このような形式で書いてみると、日常言語でも記述できるような
気がするのである。それでも、実際にそれを試みると、数学の説明
としては、受け入れがたい混乱したものとなるものと思はれるので、
やめておく。
0401訂正垢版2023/03/18(土) 07:38:30.40ID:CGm164vH
また余計な括弧が入ったままになっていた。

(-1)^0+i∫(0, x)(-1)^(x/π)dx=e^(ix)
0402名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/18(土) 09:49:52.28ID:CGm164vH
不要な括弧を多く残してしまったのと、積分の範囲指定の括弧が
紛らわしいので書き直しておこう。

(-1)^(1/πi)=e^1
(-1)^(x/πi)=e^x
(-1)^0+i∫[0, π](-1)^(x/π)dx=-1
(-1)^0+i∫[0, x](-1)^(x/π)dx=e^(ix)
0403名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/18(土) 10:24:33.16ID:CGm164vH
数学だけでなく、単純な計算すらもとても苦手としているのに、
なぜこのような数式を唐突に書込み始めたのかと言へば、その
きっかけは、「《substance》/『基体』が現れること」を、
数学において"e^x"や"e^ix"が現れることに喩えてみることが
役に立つように思えたからである。

無論、(-1)^0+i∫[0, π](-1)^(x/π)dx=-1は、e^iπ=-1の書き換へに過ぎず、
(-1)^0+i∫[0, x](-1)^(x/π)dx=e^ixは、πの代わりに変数としてxを代入した
e^ix=cos(x)+i*sin(x)の書き換へに過ぎないので、wolframalpha.com
のアルゴリズムで計算してもらえば、そのままきちんと正しい計算結果
を戻してくれる(アルゴリズムのフィードバックの助けを借りて
表現する式を書いたので当たり前であるが)。

ところで、e^iπ=-1、e^ix、cos(x)+i*sin(x)などの表現は、数学が
とても苦手な私には、まったく捉へどころがないのに対して、
このような表現が数学的に役に立つかどうか(それを使ふことで問題が
生じないか否かを含め)を別にして、
(-1)^0+i∫[0, π](-1)^(x/π)dx=-1や
(-1)^0+i∫[0, x](-1)^(x/π)dx=e^ixという形の表現であれば、
私にも感覚的に分かるような印象を受ける。それは、このように
書き換えることにより、関数の操作性がはっきりと見えるように
なるだけでなく、指数の変化が、性質を担う《substance》/「基体」
/"e"を介して現れる「性質」の変化に対応するように思はれ、
「塵(dx)も積もれ(∫)ば山(効果として現れる結果)となる」と
いった日常的な表現にも(足し算、掛け算、指数計算などを対応
させならが)記述できるように感じられるからである。さらに、
数学においても、言葉ではうまく説明されていない"i"の働きさえ、
日常言語に対応させられるような「気がする」。
0404名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/18(土) 10:55:22.95ID:CGm164vH
私は、職業的にも、日常生活でも自分で数式を用ひることにはまったく
縁がなく、また教育制度においてもかなり早くから数学の勉強は放棄して
いたので、この掲示板に書き込む似非数学ポエムのようなものを除けば、
数式で何かを表現しようとすることはまずない。それでも、
e^iπ=-1やe^ix=cos(x)+i*sin(x)のような数学でよく知られている
表現を自分で操作して書き換へてみると、このような書き換への
こころみが、言語表現のメタ言語的な記述を含めた、私の表現の
こころみ全般と共通する性格のものであることに気づかされる。
そして、そのようなこころみは、私の経験上、まず間違いなく
私のどのようにか(私には自覚のない)「歪んだ人格」とされる
ものに結び付けられて、全面的に否定されることになるのである。
例えば、それは、この場合であれば、私の表現法は、非人格的な
アルゴリズムによってそのまま計算されて、正しいとされる結果を
戻すのだから、なぜ「私個人の人格」が問題となるのか、私には
まったく不明であるといったようなことなのだが、逆に見れば、
これは、何がどのようにして「歪んだ人格」として評価される
ことになるのかの手がかりを私に提供している。
0405名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/18(土) 11:01:36.13ID:CGm164vH
端的に言へば、私は、どのような表現であれ、それを受け入れることが
私に要求されるのであれば、その表現が私にとっても理解可能なものと
なるような言語表現に変換して、自分でも操作できるようなものとなる
ようにすることに「強く拘る」のである。
0406名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/18(土) 11:07:25.43ID:CGm164vH
具体例から説明しよう。

>すさまじきもの、昼ほゆる犬、春の網代(清少納言『枕草子』)
興ざめなものは、(夜吠えるものなのに)昼に吠える犬、
(冬の風物なのに)春になって片付けられてない網代。<

私にとって、この「すさまじきもの」に対する「興ざめなもの」という
現代語訳は、まったく操作性を欠いているのである。
0407名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/18(土) 11:10:42.24ID:CGm164vH
そして、その「操作性を欠いている」ことがそのまま、
(夜吠えるものなのに)、(冬の風物なのに)という表現解釈の
ための「補足説明」に反映されていると強く感じられるのだ。
0408名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/18(土) 11:35:37.53ID:CGm164vH
「すさまじ」については、以前にも別の板のスレでも、またこの
スレの>>391-393においても既に述べているので、多くの説明を要さない
だろう。「すさまじ」が表現しているのは、見てのとおり、
ドイツ語で言へば、»verlassen sein«に対応する感覚である。
「昼ほゆる犬」が「すさまじ」とされるのは、昼に犬が通りを歩き回って
吠えていることが、すなはち、町に人通りがなく、「さび(寂)れている」
ことを具象化しており、また、「春の網代」が「すさまじ」とされる
のもやはり、それを仕掛けた人がもはやここに(場合によっては現世に)
いないことを具体的に「放置されたもの」として示して、「さび(寂)れ」
を見せているからである。そして、この»verlassen sein«に対応する
「こころ」が、「わ(侘/詫)びしさ」/"desolation"である。

また、このように変換して表現すると、それまでは、「興ざめである」
という捉えどころのない現代語に単に置き換へられていただけの
古語/死語であった「すさまじ」は、日本語の表現という枠組みすら
超えて、活きた操作性を伴って捉へ直されることになる。
0409知らないことは知らない無知の無知の自認垢版2023/03/19(日) 08:47:23.08ID:JTeLzyEZ
私が身に付けている数学や計算の能力は、他の一般の人々と比べても
大きく劣り、私には数学も計算もまともにできないことを、なんの
ためら(躊躇)ひもなく、こころよ(快)く認めたうえで、自分の書込み
流れに沿って、私は少し数学の表現法について語って見ようと思ふ。
0410名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 11:17:36.27ID:JTeLzyEZ
私が語ってみようと思っているのは、一方で、制度的な教育を通して
数学を学ぼうとするなら、必ず目にすることのある
e^iπ=cos(π)+i*sin(π)=-1
という形式の表現と、まず目にすることがない、というより、
私がネット上で提供される計算アルゴリズムの助けを借りながら、
それを勝手に書き換えた(計算アルゴリズムの助けを借りなければ、
独力で書いてみようという気にすらならなかったであろう)
(-1)^0+i∫[0, π](-1)^(x/π)dx=-1
という形式の表現の対比である。

ここで私にすぐに思ひ浮かぶのが、以前に少しだけその著書に
目を通して印象に残っている、有名な量子物理学者ファインマンが
数学について述べたことで、ファインマンは、バビロニアの数学と
ギリシアの数学を対比させて、物理学では、数学にはバビロニア方式
のアプローチをとった方が役に立つという考へを示していたもの
と記憶しているが、経験上、私が説明の前置きとしてここまで述べた
だけで越えがたい大きな「差し障り」が生じる。
0411名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 11:30:48.95ID:JTeLzyEZ
少し話を置いておいて、後で述べようと思っていることのメモとして
書いておくが、円周率を近似するとは、行為としては、周期を数える
ことに応じた、周期性を表現するための単位の「適合」/《adéquation》
だろう(ただし、私は、この記述が確実に正しいなどと主張するつもりは
一切ない。不適切であるのならば、修正または訂正されればよいだけの
話だ)。
0412名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 11:51:02.70ID:JTeLzyEZ
>経験上、私が説明の前置きとしてここまで述べただけで越えがたい
大きな「差し障り」が生じる<

どのような「差し障り」だろうか。ここに表現することについての
かなり核心的な問題が隠れている。私が説明のために著名な量子物理学者
ファインマンの数学について発言について言及すると、その時点で、
一般の多くの人の反応は、「へぇ、物理学/数学に詳しいんですね」とか、
「量子力学を勉強したんですか」といった類の、それについて言及する
「私という個人の資質/資格に対する疑念」を含んだ「警戒」である。
そこで、私が物理学や数学について、それらの人々より詳しいわけでも
なく、足し算引き算のような簡単な計算の能力すら劣っていることが
分かれば、それらの人々は、それ以上、私の話に注意を払うのは価値が
ないと判断するだろう。
0413名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 12:12:40.47ID:JTeLzyEZ
一般の人々であるか、専門家であるかを問はず、私という個人に対して
自分の方が評価を下すことのできる立場にあると考へる人々の反応は、
もっと露骨である。それは、「あなたは、量子力学どころか、初歩の
物理学や数学も知らないだけでなく、算数の計算さえ正しく答えが
出せるかどうかおぼつかないのだから、そのようなことについて
発言する資格がない。そのことをよく自覚し、反省して黙って
居なさい。」というものだ。さらには、「あなたは、自分では
物理学も数学もまったくできないのだから、著名な物理学者の
ファインマンの発言に言及するのは、理解もせずに他人の権威を
借りる『権威主義』だ」といった類の批判を向けてくるだろう。
結局、私の発言が妥当であるか否かの判断は、私という「個人の
資質/資格の評価」に還元されることになる。

ところが、まさしくそのように振る舞ふことによって、それらの
人々が実証してみせているのは、それらの人々の「信念の体系」
が、みづから(身づ柄/自ら)が確かめようとすることよりも、
「権威」によって支えられているという事実であり、そのような
反応の仕方を習慣とする限りにおいて、それらの人々は、まったく
自覚することなく、みづから(身づ柄/自ら)が「暴力崇拝変換装置」
として機能しているのである。
0414名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 12:19:16.38ID:JTeLzyEZ
(-1)^0+i∫[0, π](-1)^(x/π)dx=-1

(-1)^(π/(2*(2/(1+1/(3+(1+3)/(5+(1+3+5)/(7+(1+3+5+7)/
(9+(1+3+5+7+9)/(11+(1+3+5+7+9+11)/
(13+(1+3+5+7+9+11+13)/(15+(1+3+5+7+9+11+13+15)/
(17+(1+3+5+7+9+11+13+15+17)/19))))))))))))≒
-0.999999999999993≒e^3.14159i
0415名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 14:20:54.26ID:JTeLzyEZ
>>414の数値は、Wolframalphaの計算アルゴリズムに計算してもらったもの
で、分母のπを連分数による近似計算式に置き換えているわけだが、
分母のπの方は記号入力して、逆に分子のπの方を近似計算に置き換えて
計算してもらってもやはり、次のような計算結果を返してくる。

(-1)^((2*(2/(1+1/(3+(1+3)/(5+(1+3+5)/(7+(1+3+5+7)/
(9+(1+3+5+7+9)/(11+(1+3+5+7+9+11)/
(13+(1+3+5+7+9+11+13)/(15+(1+3+5+7+9+11+13+15)/
(17+(1+3+5+7+9+11+13+15+17)/19)))))))))))/π)≒
-0.999999999999994≒e^(4317632i/1374345)
0416名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 14:53:10.38ID:JTeLzyEZ
幸いなことに、今では、足し算や引き算のような算数の計算すら
おぼつかない私のような者でも、自動化された計算アルゴリズムを利用
させてもらって、計算のパターンを認識して、数式を入力するだけで
計算結果のフィードバックを得ることができる。しかし、
そのように計算アルゴリズムが利用できるなら、なおさらのこと、
"e^iπ="または"cos(π)+i*sin(π)="と入力する代わりに
"(-1)^0+i∫[0, π](-1)^(x/π)dx="と入力する表現を書き換へて
みたところで、計算結果として返される"-1"は同じであり、
ましてや、πと入力する代わりに、それを、πを近似する
連分数計算の式に書き換へてみることなど、円周率の
数値は、既に大型の計算機によって、人が認識することが
不可能な桁数まで算出されているのだから、まったくもって
「無駄なこと」であると一般には思はれるだろう。
では、私は、表現の書き換へによって何を示そうとしているのか。
0417名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 15:34:35.08ID:JTeLzyEZ
私には、ここで、このスレにおいて先に新たな解釈をこころみた
"praeconor"と"conor"を、その提示した解釈のままに対比させて
応用してみることが役立つように思へる。そして、その場合、
e^iπ=cos(π)+i*sin(π)=-1
という、通常、よく目にすることのある形式の表現法は、
"prae・conor"/「あらかじめ・しろしめす」のための表現であり、
(-1)^0+i∫[0, π](-1)^(x/π)dx=-1
は、円周率の近似値の連分数計算の形式による表現と併せて、
"conor"/「『み(身)ど(獲/取)り』の『と(取)り(汲/組)み』」
のための表現であると考へられることになる。
0418名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 16:10:08.45ID:JTeLzyEZ
>>379 イデアの孵化
>《connaissances》の《reconnaissance》から
《naissance》の《renaissance》へ <

e^iπ=-1、ただし、i=√-1
という形式の表現により伝はることは、どのようなことだろうか。
それは、この数式に表記される"e"、"π"、"-1"というそれぞれの
「数」があらかじめ存在し、そこに虚数と呼ばれる"i=√-1"として
定義される「概念」が導入されると、「"e"の"iπ"乗は"-1"と等しい」
という関係が「真理」として成立する、ということだろう。
しかし、この「数式」を示されたところで、それをどのように
計算すればよいのかさっぱり不明である。そこで、この「数式」
と三角関数がどのように対応するのかが示されて、その対応関係
から、e^iπ=cos(π)+i*sin(π)=-1が成立することが証明されて、
"prae・conor"/「あらかじめ・しろしめす」のための表現である
「e^iπ=-1は『真理』である」という《connaissance》/「知」
の《reconnaissance》/「認識」が確立されて、「めでたし、
めでたし」ということではないのか(何度でも繰り返すが、私は
数学の勉強は早くから放棄したので、よく知らないので、この
認識が妥当であるという保証はないw)。
0420名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 17:05:10.27ID:JTeLzyEZ
これに対して、私が、"conor"/「『み(身)ど(獲/取)り』の
『と(取)り(汲/組)み』」のための表現であるとする、
(-1)^0+i∫[0, π](-1)^(x/π)dx=-1
と円周率の近似値の連分数計算の形式による表現の方には、
あらかじめ存在するものとして「しろしめされる」ものは
何もない。そこに示されるのは、数学操作の関係性だけである。
"e"は表立って現れてすらおらず、積分の範囲の指定として
表記され、(-1)^(x/π)に分母とされる"π"も、円周率の
近似値として求められるものとして認識され、さらに
その連分数計算の形式による表現、
π≒2*(2/(1+1/(3+(1+3)/(5+(1+3+5)/(7+(1+3+5+7)/
(9+(1+3+5+7+9)/(11+(1+3+5+7+9+11)/
(13+(1+3+5+7+9+11+13)/(15+(1+3+5+7+9+11+13+15)/
(17+(1+3+5+7+9+11+13+15+17)/19+...)))))))))
は、明白に、数を数えることに応じた、円周率を表現する
単位の無限の「適合」/《adéquation》を反映するものとして
その都度、表れ、"i"は、「虚数」という「概念」というより、
積分の効果が"-1"に向かふように特徴づける性質を示している
ように見える。また、"π≒2*(..."については、"(..."がどの
ように「比」を近似することになっているにせよ、半径に
対する四半円の円弧の比を近似して、それを倍にするという
意味付けを見てとることが可能でだろう。

このように表現することで求められているのは、「あらかじめ
の知っていること/知られるべきこと」の《reconnaissance》/
「認識」ではなく、《naissance》の《renaissance》、すなはち、
"conor"/"begetting"によって"begotten"/「み(身)ど(獲/取)り」が
もたらされるようにすることであり、その意味で、このような
書き換へをこころみる行為そのものが、「『み(身)ど(獲/取)り』
の『と(取)り(汲/組)み』」なのである。
0424名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 20:42:43.75ID:JTeLzyEZ
バビロニアの数学がバビロニア的であったのはそうだろうと思うが、
ギリシアの数学は、本当に「ギリシア的」だったのだろうか。
後世に、何をもって「ギリシア的」であるとするかの規範に沿って、
取捨選択が行われた可能性があるのではないか。
数学史については、私は、それこそ微塵も知らないが。
0425基底としての「とこなつ」垢版2023/03/19(日) 23:08:38.49ID:JTeLzyEZ
>>387
>La nature naturante correspond à l'activité de subsistance
qui est « cause de soi », et la nature naturée correspond à ce
qui découle de la nécessité de cette subsistance. <

さらに考察をつづけてみよう。
(-1)^(π/π)=(-1)^0+i∫[0, π](-1)^(x/π)dx=-1
と表現してみて、それを、円周率πの近似値が連分数計算に
おいて数が数へられるのに応じてのその都度の値(あたひ)
として現れる常に仮(かり)のものであることと併せて
考へるなら、次のように言ふことができるのではないだろうか。

>万物は流転するが、流転が数へられることにより、流転の
周期性を表現するための単位の「適合」/《adéquation》 が
もたらされ、「その適合された単位と、数えられたあらゆる
周期を包含する、その単位によって表現される周期性との比」
によって特徴づけられる「存続」/《subsistance》が、
「基体」/《la substance》として現れる。<

これは、記述の最初のこころみなので、それがどの程度、
妥当なものとなっているのか(まったく妥当なものとなって
おらず、破棄する必要性がある場合を含め)、私にはまだ
よく分からない。
0426名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/19(日) 23:29:33.80ID:JTeLzyEZ
>>414においては、(-1)^(π/π)の分母のπに、また>>415において
は、(-1)^(π/π)の分子のπに、それぞれ、πの近似値を求める
同一の連分数計算の式を代入して、Wolframalphaの計算アルゴリズムに
計算してもらった結果を示したが、これらの
≒-0.999999999999993≒e^3.14159i
および
≒-0.999999999999994≒e^(4317632i/1374345)
として示される数値は、哲学的に見るなら、いずれも「まやかし」である。
なぜなら、これらの計算において、(-1)^(π/π)の分母、分子のいずれかの
πは、"π"という記号のまま入力しているので、計算アルゴリズムにおいては、
どこまでの精度か私は知らないが、既に算出済みの数値が用ひられている
からである。つまりは、計算結果として示された"-1"を近似する数値
は、入力した連分数計算によって算出される精度のπの近似値と
計算アルゴリズムにおいて用ひられる既存の算出済みの精度までのπの
近似値の対比を反映したものに過ぎない。
0427名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/20(月) 00:14:12.36ID:KIZNgAOe
(-1)^(π/π)=(-1)^0+i∫[0, π](-1)^(x/π)dx=-1
という表現において、(-1)^0は、通常、数学的には、
(-1)^0=1であることが前提とされるものの、哲学的に考へれば、
この"=1"の単位としての等しさは、それ自体では、無規定
であり、計算上は、未規定である。(-1)^(π/π)=-1が成立して
初めて、翻って、(-1)^0=1が、πの近似を表現する数値の
最小単位によりその精度が規定されることになるはずであり、
円周率πそのものが、数を数へることに応じて、その都度、
近似されて求められて、単位により表現される暫定的な
値なのだから、この数式において"-1"として既定で与へら
れているかのように見える単位そのものが、円周率πを
近似する「適合」/《adéquation》としてもたらされる
単位の等しさまでの精度しか有し得ないはずだろう。
0428名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/20(月) 00:34:14.62ID:KIZNgAOe
したがって、数学的には、
e^(1*i)は、(-1)^(x/π)=e^(ix)において、また
eは、(-1)^(x/iπ)=e^xにおいて、常に既に与へられたものとして
存在するかのように扱はれるものの、これらがあたかも基底のように
動かないものとして現れることそのものが、万物が流転し、流転が
数へられることに依拠している。

この私の捉へ方はどこか狂っているだろうか。
0430許等波(ことは)多奈(たな)由比(ゆひ)垢版2023/03/20(月) 09:57:37.65ID:KIZNgAOe
万葉集 第17巻 3973番
>よのなかは かずなきものぞ なぐさむる こともあらむと
さとびとの あれにつぐらく やまびには さくらばなちり
かほどりの まなくしばなく はるののに すみれをつむと
しろたへの そでをりかへし くれなゐの あかもすそびき
をとめらは おもひみだれて きみまつと うらごひすなり
こころぐし いざみにゆかな ことはたなゆひ <
(出典 万葉集ナビ)
0431標結ふ/praeconor垢版2023/03/20(月) 10:07:45.73ID:KIZNgAOe
万葉集 第13巻 3272番
>葦垣の 思ひ乱れて 乱れ麻の をけをなみと 我が恋ふる
千重の一重も 人知れず もとなや恋ひむ 息の緒にして <
(出典 万葉集ナビ)
0432等許奈都尓 由伎布理之伎弖垢版2023/03/20(月) 10:16:50.96ID:KIZNgAOe
万葉集 第17巻 4000番
>すめかみの うしはきいます にひかはの そのたちやまに
とこなつに ゆきふりしきて おばせる かたかひがはの
きよきせに あさよひごとに たつきりの おもひすぎめや
ありがよひ いやとしのはに よそのみも ふりさけみつつ
よろづよの かたらひぐさと いまだみぬ ひとにもつげむ <
(出典 万葉集ナビ)
0433名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/20(月) 10:38:36.86ID:KIZNgAOe
流転を数えることの「比」が先であって、「量」は、
その「比」が存続するものと見做された暫定的な実体化である。
0435孵(ふ)と時(とき)垢版2023/03/20(月) 13:05:50.92ID:KIZNgAOe
>>433
これは、とりもなほさず、時間をはかることよりも、
タイミングをはかることの方が先である、ということでもある。
0436名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/20(月) 14:56:55.80ID:KIZNgAOe
>神直日神(かむなおひのかみ)は、日本神話に登場する神である。
穢れを払い、禍(まが)を直す神とされる。 古事記では
神直毘神(かむなほびのかみ)と、日本書紀では
神直日神(かむなおひのかみ)と記載される。その他、神直備神と
記載されることもある。 <
(出典 ja.wikipedia.org/wiki/神直日神)

このスレにおける検討の結果として得られた、
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである。<
とうい洞察を応用すると、神直日神(かむ・なほび・の・かみ)の
「なほび」、つまり、「なほ・ぶ」という動詞としての表現には、
英語では、"convalesce"が、表現法としてもうまく対応している
ことが分かる。

>convalesce (v.)
"to grow better after sickness, make progress toward the recovery
of health," late 15c., from Latin convalescere "thrive, regain health,
begin to grow strong or well," from assimilated form of com-,
here perhaps an intensive prefix (see com-), + valescere "to begin
to grow strong," inchoative of valere "to be strong"
(from PIE root *wal- "to be strong"). <
(出典 etymonline.com/word/convalesce#etymonline_v_18304)
0438名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/20(月) 15:14:21.94ID:KIZNgAOe
>>433>>435
これに関連しては、5年ほど前にこの掲示板の別の板のスレに、
「時間とはどのようなものか」を記述するために、以下のような書込み
をしていたことが思ひ出される。英語で書き込んだ記述も、別の誰かが
書いたことの引用ではなく、私自身の英作文である。

>598考える名無しさん2018/03/01(木) 08:24:26.620
反復する現象の観察から推定されて、単位として用いられる曲率円の円周長

599考える名無しさん2018/03/01(木) 08:35:38.950
時間を計るのに用いられてきた振り子の運動も天体の軌道も万有引力によって
規定される。では、時間は、万有引力によって規定されると言えるのか?
何を問題にしているのか、問いを明確にしていくことが必要だろう。

Time is a circle of curvature whose circumferential length is
estimated from observations of repetitive phenomena and used
as a unit of measurement.<
0439名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/20(月) 16:10:41.07ID:KIZNgAOe
簡単なことを言ふというのは、私にとってはとても難しいことで、
それができるようになるまでには、長い年月を必要とすること
なのだが、そのようにして私がようやく言葉にしたことに対して、
ただ「激昂」してみせるという何の理屈もない「威嚇」によって
私を黙らせようとする人々は、いったいどういう「了見」なのだろうかw
0440名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/21(火) 10:08:34.31ID:P07aDZM5
>>436

>>371
>ここでは、"con-"は、動作の完了を示すことによって単純な語
を「強調する」働きをすると説明されているが、そうではなく、
"con-"は、»be-〜«や"be-〜"の場合と同じく、
>"con-〜"により修飾される作用の効果として主体性を再帰的に
表出させる働きをする<
のである。 <
>581ソークラテースから公共の安全と衛生へ2022/11/08(火) 10:54:51.76ID:a9SEH4Ex
エロース、つまり、「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふ
ものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうと
する働き」を体現する者が「ソークラテース」であり、
「ソークラテース」が、「すこやかさを保つ力」の権化であるとすると、
その思索の歩みにおいて長い間、なやみつづけた(この場合、
「なやみ」は、日本語の古語の意味で理解されるべきである)
末に健康/すこやかさ/»Gesundheit«をふたたび見出したニーチェも、
結局のところ、「ソークラテース」を再発見したに過ぎないと
見ることもできる。<
0441名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/21(火) 10:31:32.56ID:P07aDZM5
英語において"be-〜"で、ドイツ語において»be-〜«で、
ラテン語系統の言語において《co(n)-〜》で始まる言葉の意味
や用法も、日本語で「〜ふ」で終わる言葉、およびその派生形
であると見られる言葉の意味や用法は、それぞれよく知られて
おり、それぞれの言語の辞書に詳細に説明されている。
このため、それらが「どのような表現法であるのか」を
あらためて問ふことは、多くの人々にとっては、まったく
無駄なことに感じられるだろう。「"to convalesce"とは
どのような表現法か」などと問はなくても、この言葉が
「快癒に向かふ」ことを意味するように使はれることが
分かっていれば、それで「用は足りる」のだから。
それでも、>>436に示したような応用により、
表現法にまで遡って考へてみることには、多重の効用がある。
0442名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/21(火) 11:22:24.39ID:P07aDZM5
その効用とは、「なほ(直)ぶ」という日本語と英語の"to convalesce"
を並べて対照させてみることで、それぞれの言葉が伝へようとする
「こころ」がよりよく分かるようになるだけではない。言葉が
表現法として捉へ返されることにより、それまではただなんとなく
互いに似ているという印象を抱いていたに過ぎない様々な言語表現
が、より明確にどのように結びつくのかが見えてくるのである。

例えば、"to convalesce"の"valescere"が、"valor"(勇気/丈々しさ)や
"value"(あた(価/値/能)ひ)と結び付いた表現であることを見てとる
ことは、容易であり、この場合は、「『健康/健全さ』を持ち直す」
ことを意味する表現において使はれているのだから、この表現が、
物事の捉へ方として、その本人みづから(身づ柄/自ら)が
「Σω/ソー(健全性を保つ)・κράτης/クラテス(力)」という名前を
持つ古代ギリシアの伝説の哲学者、ソークラテースの説く、
(通常は「徳」と訳されることの多い)"ἀρετή(aretḗ)"の効用と
とてもよく重なっていることがすぐに分かるだろう。しかも、
この場合、"to convalesce"の"con-"が、「一緒に」という意味で
用ひられているのではなく、「なほ(直)ぶ」の「〜ふ」の表現上
の働きと対応するように、"valescere"の作用の効果として主体性
を再帰的に表出させるように用ひられているのをはっきりと
見てとることができる。
0443名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/21(火) 11:25:13.86ID:P07aDZM5
>386名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/11(火) 09:06:15.31ID:qyqwgxZz
「エロースの働き」(「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふ
ものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうと
する働き」)が、"ἀρετή(aretḗ)"/「すこやかさ(健全さ)」をもたらす。

したがって、「エロースの働き」を体現する者である"Σωκράτης"/
「ソークラテース」は、その名前からして、「Σω/ソー(健全性を保つ)・
κράτης/クラテス(力)」なのだから、「『う(受/享/承)けつ(継)ぐに
あた(能/与/価/当)ふもの』≒"ἀρετή(aretḗ)"/『すこやかさ(健全さ)』
を保つ力」の「権化(すなはち、姿形として顕現させるもの)」である
ということもできる。
0444名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/21(火) 11:31:47.14ID:P07aDZM5
かくして、
1. 本居宣長の直毘霊(なおびのみたま)と、
2. ソークラテースの"ἀρετή(aretḗ)"/「すこやかさ(健全さ)」と、
3. ニーチェの思想における「快癒」という、
印象としては互いにとてもよく似ていながらも、互いにどのような
関係性において捉へてよいのか不明瞭であった、それぞれの「考へ方」を、
「なほ(直)び(日)」の下で、より明確な表現形式を利用しながら
比べてみることもできるようになる。
0445み(身)ど(獲/得)りをそこな(損)ふ緑の倫理垢版2023/03/21(火) 11:34:01.06ID:P07aDZM5
>388名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/11(火) 09:33:51.80ID:qyqwgxZz
>古代ギリシア語の"ἀρετή(aretḗ)"が、その基本的な用法において、
どのようなことを表現しているのかは、現代の日本語の言葉にも
そのまま簡単にうつすことができる。それは、「すこやかさ」
(したがって、「健全さ」、「丈夫さ」と言い換えることもできる)
である。<

「哲学」がなぜこの程度のことすら明確に表現することができないか
と言えばそれは、ニーチェが見抜いたとおり、また、フィヒテも
そのことに気づいていたとおり、ステルス化された統治イデオロギー
としてのキリスト教神学が、「すこやかさ」を、統治を脅かす危険
(「たけだけ(丈々/猛々)しさ」)の徴候と見なしているからであり、
その「道徳」が、人々が「すこやかに生きることができる」ようにする
ことなどではなく、「すこやかに生きようとする」人々を「な(萎)え」
させること、「委縮/恐縮させる」ことを暗黙の目的としているからである。
0446名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/21(火) 13:18:44.93ID:P07aDZM5
何についてであれ、ものごとを考へるのに、「あらかじめそのものごとが
属するとされる範囲を規定することを要求して、その範囲にどのように
関係するのかを明確に示すことができないことについては、検討の
対象としてはならない」というような規範に従うことを義務付ける
ことそのものが、"praeconor"/「あらかじめしろしめす」権限を
行使する/代行する振舞ひであり、その権限に対する「自発的」従属の
「強制」である。
0447名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/22(水) 09:42:11.85ID:aXQjEwBF
>>286
>L'expression employée doit se rendre adéquate/être fidèle à
ce qu'elle/on veut dire.<

これは、みづから(身づ柄/自ら)が哲学的に考へることをこころみる
とき、その「と(取)りく(汲/組)み」を正しく導くための格率である
と見做すこともできるだろう。この格率に対して「どうでもよい」
という姿勢で振舞ふ相手に言葉を差し向けることは、哲学の
「と(取)りく(汲/組)み」としては、まったくの徒労に終はる。
0448名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/22(水) 10:02:29.55ID:aXQjEwBF
言語表現においては、相手に言葉を差し向ける行為そのものが、
相手に「ま(真)こと(言/事)」を告げることによって
相手と「誓約」/"betrothal"/"engagement"を成立させよう
とするこころみであり、「うそ(嘘)/いつは(偽)り」を言ふ
ことも、相手に対して「不誠実」/"infidel"に振る舞ふことも、
相手を「騙そうと」/"to deceive"することことも、それを
前提とすることなしには、有効性を発揮しない。
0449名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/22(水) 10:20:15.11ID:aXQjEwBF
「不意打ちを食らはす」ことすら、それが「青天(せいてん)の霹靂(へきれき)」/
"out of the blue"、つまり、その出来事を先触れする「表現」が何も見当たらない
「『あを((空虚)』から生じる」から大きな効果をもたらすのであって、
不意打ちの効果が生じること自体が、
>L'expression employée doit se rendre adéquate/être fidèle à
ce qu'elle/on veut dire.<
という格率に人が暗黙に導かれていることを示している。だから、
「不意打ちを食らふ」目に遭って、そのことを反省するなら、次からは、
その出来事が生じることをあらかじめ示唆するように伝へていたはずの
《l'expression employée》を「徴候」として探るようになるのである。
0450名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/22(水) 10:44:25.11ID:aXQjEwBF
数学の説明や証明が、私には極めて分かりにくく感じられるのも、
数学の記号や記号操作を記述するために数学で用ひられる「言葉」
が、言語表現についてのこの格率を完全に蔑ろにしているように
思われるからである。例えば、円周率πは、数値として「存在する」
のか、「存在する」とするなら、それは「どのように存在するのか」、
数を数へるのに不可欠な数字である1は、「『数』として存在する
のか」、「『数』として存在するとはどのようなことか」といった、
極めて基本的なことすら、まったく適切に言語化されているように
は見えない。その一方で、数学の説明や証明における言語表現では、
「〜がある」という日常言語的な表現が数学の記述対象についても
自明であるかのように前提とされている。このために、日常言語
的な理解と数学における理解の間で大きな混乱が生じるのである。
0451名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/22(水) 16:35:52.02ID:aXQjEwBF
>>448
誤:することことも、
正:することも、

それにしても、いつのまにか園芸板まで書込みアクセス禁止されている。
なにがそんなに都合が悪いのか。
0452時宜/タイミングをはかる垢版2023/03/22(水) 16:55:05.34ID:aXQjEwBF
数へることが、流転を数へることに結びついているとすれば、
流転が生じることにより、いつのまにか「元に戻って『ゐ』る」
ことに気づくからだろう。では、どのような流転が最も基本的で
あるのかを考へてみると、それは、ゐ(居)・ここち(心地)の
よ(良)し/あ(悪)しの、»bequem«/»unbequem«の、
"con・venient"/"in・con・venient"の流転ではないかと
私には思える
0453名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/22(水) 17:13:29.47ID:aXQjEwBF
ところで、プトレマイオスが、いかにも計算を思はせる"Πτολεμαῖος"
という名前であることは面白い。この名前のそのような語源説明は、
検索しても見当たらないが。
0454名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/22(水) 17:25:45.44ID:aXQjEwBF
"apprehension"は、「し(知)ること」でもあり、「不安」でもある。
なにかが「あらかじめ・しろしめされている」ことを知るとしても、
それが結果として「どのようなことをもたらすのか」のすべてを、
前もって確かに知ることはできないからである。
0456名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/22(水) 22:53:30.72ID:aXQjEwBF
数学の説明においてよく見られる数学的な対象についての日常言語
による粗雑な素朴実在論的な表現について反省してみることは、
翻って、「数字」などの「客観的な根拠」に基づくかのように
見える素朴実在論的な記述や、そのような記述に依拠する
考へ方を批判的に検討するのに役立つだろう。

例えば、「円周率πは、存在するか否か」を問はれた場合、数学
を学んだことがあるなら、「存在しない」と答へる人はまず
いないだろう。しかし、では、「円周率πが存在するとは
どのようなことか」と問はれて、その問ひに日常言語による
表現でうまく応へることのできる人もまずいないだろう。
なぜなら、数学者でさえ、そのようなことを日常言語で
適切に記述するのは、「数学の課題ではない」と考へるの
が普通であり、円周率πを算出する適切な手続きを示す
ことができ、数学操作として円周率πを矛盾なく利用できる
なら、それでよいものとしているからである。
0457名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/22(水) 23:29:24.11ID:aXQjEwBF
「円周率πは、数値として約3である」と述べたなら、これに反発する
人は少なくないだろう。しかし、代わりに「円周率πは、数値として
約3.14である」と述べれば、それなりに納得する人は増えるだろう
と思はれる。では、「円周率πは、数値として約3.14159265359
である」とさらに桁数を増やして述べたらどうだろうか。これに
反論しようとする人は、極めて少ないのではないか。無論、円周率
πを近似値として利用するのに、これだけの桁数があれば、一般の
人の日常的な計算用途には何の不足もないだろう。

しかし、存在論的に考へれば、円周率πを表記する小数点以下の
桁数をどれだけ増やしてみたところで、より根本的な問ひに対する
満足の行く応へは得られない。それは、「円周率πは、そもそも、
『数値』として存在するのか」という問ひであり、また、
「数値として存在するとは、どのようなことか」という問ひである。
例えば、円周率πは、"3.14159265359..."として算出された
数値が小数点以下何桁までであるにせよ、そのように算出された、
もしくは算出され得る数値に「存する」/"consists in 〜"、または
そのような数値「から成る」/"consists of 〜"と言へるのか。
これは、「そのように言ふことは妥当なのか」という記述について
の問題であり、この問ひに対する応へは、「否」だろうと
私は考へる。
0458名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/22(水) 23:41:28.82ID:aXQjEwBF
では、算出されるこれらの数値について、代わりにどのように言へば、
記述として妥当であると考へられるようになるだろうか。
0459名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/23(木) 00:00:21.44ID:CEdY/6wu
この問題は、例えば、「成人した人の身体の60%は水分から成る」
と記述することが妥当かどうか問ふことと似通っているが、
多くの人は、ここで何が問はれているのかさえ理解しようと
しないだろう。
0460名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/27(月) 09:09:07.06ID:A/YdkLnH
しばらくアクセス規制中だったので、完全に話の腰が折られて
しまったが、私の思考の歩みは、特にあらかじめ方向性の
定まったものではないので、また規制されるまでは、
歩みを進めてみよう。

混乱した指示は、その指示に従おうとする人々の振舞ひを
混乱させる。これは至極当然のことだが、「言葉では現実は
変わらない」という人々は、そのことを忘れているか、
意図的に隠蔽しようとしている。「言語相対主義」など
という「思想」を持ち出すまでもなく、「油(あぶら)」
と表示された棚に、同じようなプラスチックの容器に
入れられた食用油とエンジンオイルが並べられていた
としたら、トラブルの原因となることは目に見えている。
0461名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/27(月) 09:32:02.98ID:A/YdkLnH
ところが、実際の世の中は、そのような混乱した言葉遣いに満ち溢れて
おり、その混乱を解消することが望ましいとすら考えられてはおらず
(その事実自体が口に出すべきではないものとされている)、その混乱
をうまく利用できるように取り計らうことができる人々が組織的に
有能であるものと評価される。なぜなら、社会そのものが、口実、
つまり、「まこと/真言」の制約としての効力に縛られない口先だけ
の言葉の用法により階層的に組織化されているからである。
0462名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/27(月) 09:46:46.90ID:A/YdkLnH
社会がそのように階層的に組織化されているのは、上からの
「命(みこと/御言)」の効率的な遂行のためであり、そのことは、
誰でもが暗黙に知っているので、与えられる説明が、現実に
対応しない口実に過ぎないことに気づいたとしても、その
ことをわざわざ口に出すのは、「空気を読めない」愚かな振舞ひ
であるものとして扱はれる。各自にできることは、単に
その関係性のなかで、自分に不利にならないように、あるいは
積極的に自分に有利になるようにうまく立ち回ることだけである
と考へられている。

例えば、スーパーの週末特価で1割引の値段で商品が売られていた
が、数日前の同一の商品の安値の価格設定より1割を超えて高め
に値段が付け替えられている。この場合、自分が単に客である
ならば、それが週末特価として自分に有利になるかどうかを
判断して購入するか否かを決めるだけであるが、スーパーの
従業員であれば、そのようなことを逐一、話題にしようとする
のは、愚かな行為だろう。
0463(-1)^(1/π)垢版2023/03/27(月) 10:07:30.60ID:A/YdkLnH
万葉集 第6巻 994番
振仰而 若月見者 一目見之 人乃眉引 所念可聞
振り放けて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも
ふりさけて みかづきみれば ひとめみし ひとのまよびき おもほゆるかも
(出典 万葉集ナビ)
0464名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/27(月) 10:28:01.19ID:A/YdkLnH
「ふ(振)りさ(放)けみ(見)る」という表現の「さ(放)け」は、天空を
仰(あふ)ぎ見るときに視線が水平方向から上に向くように「仰角を
開く」行為を「さ(放)く」と表現したものであり、この「さ(放)く」
は、言ふまでもなく、「花が『さ(咲)く』」や「切り『さ(裂)く』」、
さらには、その様態をキアスム的に反転させた「状態」として
名詞化して表現して、山が両側から迫る谷の地形に地名として
用いられる「迫(さこ)」と語源的に共通である。
また、さらには、その「さ(放/裂)け」を時間的に捉へた表現が、
「時間的な『さ(裂/狭)け目』」に、つまり、間断的に草叢から
「う(浮)」いて姿を見せる「う『さぎ』/兎」という名称と
なっていると考えることができる。

ところで、この「ふ(振)りさ(放)けみ(見)る」という日本語の
古語の表現は、数学における円周率πや、それに関連する
e^iπの説明が、なぜ私にはとても分かりにくいものと感じら
れるのかを日常的な表現でうまく記述するのに役立つように
思える。
0465名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/27(月) 10:55:12.37ID:A/YdkLnH
話があっちこっちに飛ぶように見えるだろうが、私の考え方の
歩みとしては、数学の説明について考へることも、社会に
おける言語表現の用法について考へることも一体化している。

社会は、上からの「命(みこと/御言)」の効率的な遂行のために
階層的に組織化されているので、常に口先だけの口実を駆使する
必要がある。昔はよく映画やテレビドラマとなった「二重スパイ」
について考へてみるといい。現実に「二重スパイ行為」が発覚して、
当事者が処分されるとしても、そのような行政的な処理は
隠蔽されるので、その生きた現実など一般人が知り様はないが、
そのような行為の動機がどのように生じ得るのかは、一般人でも
推測することができる。敵の偵察であれ、敵側への工作であれ、
あるいはそれ以外の偶発的に生じる身の危険をあらかじめ防ぐ
ことのできない他の任務であれ、そのような任務を指示する
「命(みこと/御言)」は、それを遂行すべきとされる者に、そのことに
伴ふ可能性のあるからかじめ分かっている危険について「まこと/真言」
を伝へようとすることができない。なぜなら、その「命(みこと/御言)」
によって組織が階層化されて成立するのは、まさしく、そのように
して、生じ得るあらかじめコントロールできないリスクを階層の
下方にうまく転嫁することができることによってだからである。
しかし、任務を遂行する者には、自らの身を守るという動機が
働き、そのため、自らが置かれた状況を自分に有利に活用しようと
する必要性に迫られる。
0466名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/27(月) 11:03:43.44ID:A/YdkLnH
哲学の営みが、言ひ表そうとするを如実に伝えようとする言語表現、
つまり、「まこと/真言」を求めつづけるのは、みづから(身づ柄/
自ら)が置かれた世の中の関係性のなかで、そうすることが、
みづから(身づ柄/自ら)にとって「解毒剤」としての効用を発揮する
からである。
0467名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/27(月) 11:50:41.01ID:A/YdkLnH
私は、バビロニアの数学もギリシアの数学も知らないが、>>463
ような万葉集の歌を見ると、このような歌を詠んだ歌人は、少なくとも、
天文観測のための「天文術」としての数学に触れて、それを意識して
いただろうと思える。

ライプニッツの円周率の公式
sum(n=1, ∞) (-1)^(n-1)/(2n-1)=π/4
(ただし、ゼロから数え始めるのが気に入らないのと、計算結果
のπが1と対比されていないのが気に入らないので、表記法を少し勝手に
変えている)と
奇数を順に足していく形の円周率の連分数計算の終わりの"4/"
(つまり、"≒4/π"という結果を逆立ちさせる)を除いた計算
1+1/(3+(1+3)/(5+(1+3+5)/(7+(1+3+5+7)/ 9+...≒4/π
を見比べると、ライプニッツの公式の方は、1を分子として
数へられる奇数を分母とする分数の足し引きを交互に繰り返す
ものであり、連分数計算の方は、数へられる奇数を順に足す
形で任意に適当に区切りをつけ、数えた一番大きい奇数から
逆方向に計算していくものとなっているが、互いに逆数の
関係として計算結果が現れるだけでなく、いずれにも"4"
という数字が表れるのが、数学的な関係性を理解していない
私には、とても不思議な印象を与へる。そこで図形として
どうなっているのか理解したいと思ふことになるが、そもそも
このような経路をたどって考へてしまうことが、これらの
式を考へた人々とは思考の順序が逆であり、「思考形式の罠」
なのだろう。
0468名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/27(月) 12:46:26.61ID:A/YdkLnH
そもそも、円周率πを計算しようとする行為そのものが、
まずなによりも円軌道を描くように見える運動をうまく記述できる
ように数量化しようとする動機に結びついて生じたはずで、
なぜそれを数量化しようとしたかと言へば、その数量化を
利用して、観察される反転を繰り返す現象のタイミングに
自らの振舞ひを適合させることができるようにしたいと思った
からだろう。すると、天文学的な「天動説」と「地動説」の
対立という「概念化」に先立って、円周率を求めることの基礎
には、円軌道を描く動きを観る視点として自らを想念すること
がある。その動きの度合を測るためにさまざまな工夫がなされ、
図形を利用して、図形を独立させて操作しながら考へてみる
ことで「数学」が成立し、今度は、その操作の術を洗練させる
ことで、それまでうまく記述できなかった観察がうまく記述
できることが見出されたりもする。ところが、なぜどのように
図形や数や数量を操作するようになったのかを忘れてしまい、
あたかも最初に円、直線、点、数、数量などがあらかじめ
「存在する」ものと見なされるようになると、操作する自ら
の視点も見失われて、操作に辻褄を合はせることはできても、
それが「何をどのようにしていることになっているのか」も
不明となるのだ。
0469名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/27(月) 14:54:23.41ID:A/YdkLnH
>>467
数学に慣れていないので、数式を書き出すとすぐに混乱してしまい、
言いたいことをうまく伝えられなくなるのだが、
ライプニッツの公式の方は、
sum(n=1, ∞) (-1)^(n-1)/(2n-1)=π/4=(π/4)/1
として、また連分数計算の方も
1+1/(3+(1+3)/(5+(1+3+5)/(7+(1+3+5+7)/ 9+...≒4/π=1/(π/4)
として、"1"と"π/4"を対比させ、自らが空を仰ぎ見る視点に立ったもの
と想念することにより、1によって表される距離/高さとπによって表現
される動きの量と関係性が具体的に捉へやすくなる。「数学」の方は、
そのような具体化の方が、自在な数学操作を妨げるものとして嫌ふの
だろうけれど。
0470名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/27(月) 16:02:05.35ID:A/YdkLnH
私が「哲学」と呼ぶのは、「学問としての哲学」のことではない。
「学問としての哲学」に私は関心がない。私に関心があるのは、
生きるために哲学をする必要性に迫られている思索のこころみ
だけだ。例えば、Heinrich Mannの"Der Untertan"を読んで、
そこに描かれている「仕組み/仕掛け」の巧みな記述にではなく、
登場する人物に好感が持てるか否か、道徳的に正しい立場を
とっていると評価されるためにはどうすべきなのかといったこと
にしか関心が向かない人々は、そもそも、哲学をする必要性に
迫られてはいないのだろうと私は思ふ。そして、そのことは、
それでも生きることに支障がないのだから、むしろ、幸運なことだ。
0471名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/28(火) 11:21:28.78ID:wlJkOzOb
円周率πについても、虚数iについても、数学神秘主義的な
説明は、数学操作を理解するのに何の助けにもならないばかりか、
まともな思考能力を働かせることに対して阻害要因にしかならない。

それよりは、地平から円軌道を描いて頭上高く昇る天体を自分が
見ている状態をイメージさせ、頂点まで高く昇った天体が今度は、
次第に反対方向の地平に向かって降りてきて、地平に沈む様子を
想起させた方がはるかに数学的な関係性を身近に把握するのに
役立つだろう。現実の地表は水平面ではないとか、動いているの
は天体の方ではないといったことは、そのようなイメージにより
動きの関係性を記述しようとする試みまであらかじめ排除すべき
であるとする妥当な理由とはならない。

地平から弧を描きながらこちら側に向かって自分の頭上高くまで
昇った後、今度は自分の背後の方向に降りて行き、昇ってきた
のとは反対側の地平に沈む動きを「想念」してみるなら、
反対側の地平に沈む地点は、自分の視点からは、昇ってきた
地平の地点と「等(ひと/一)し」く離れていて、ひっくり返った
向きなので、それが「-1」として示され得ることも自然に感じ
られる。すると、ひるがへ(翻)って、昇ってきた地平の地点まで
の距離は、「1」として表されることになる。
0472名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/28(火) 11:47:38.41ID:wlJkOzOb
さらに、昇ってきた地平の地点を「1」とし、沈む地平の地点を「-1」
とするなら、「-1」に円弧を描きながら向かう動きは、自分から
やはり等距離で半円を描きながら、自分の頭上真上を通る動き
として「理念化」されるが、この動きは、それが「完了した様態」に
おいて、つまり、結果として「-1」をもたらすことをその「特徴」
とする。「結果として「-1」がもたらされている状況」を数量化
して示度として、つまり、「指数」として表現するなら、
「完了した様態」の「-1」は、"(-1)^1"と表記され、「-1」に
向かう動きが始まってすらいない状況、もしくはその動きが
失われてしまている状況は、"(-1)^0"と表記され、その動き
が「半分だけ完了した様態」は、"(-1)^(1/2)"(即ち、
「虚数i」である)と表記されることになる。
0473名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/28(火) 12:11:25.51ID:wlJkOzOb
ここで「想念」として用ひているイメージでは、「完了した様態」の
「-1」、つまり、"(-1)^1"に向かう動きが「半分だけ完了した様態」
の"(-1)^(1/2)"(「虚数i」)は、天体が「ちょうど自分の頭上真上に
来ている」ことに対応していることが分かる。また、この天体の
動きが描く弧は、それを見てている自分から等距離で半円を描いて
いるものとして「理念化」されているので、頭上真上に来ている
天体までの垂直方向での距離は、"1"であるのに対して、ちょうど
真上に来ているので、水平方向での距離は、"0"であることイメージ
される。この関係性から、"(-1)^1"に向かう円軌道の動きにおいて、
昇る地平の地点または沈む地平の地点に近づく、つまり、自分から
の水平方向で「理念化」される距離が"1"に近づくにつれ、自分が
立っている地平面からの垂直方向で「理念化」される距離は、
「直角三角形」の形をその都度、当てはめてみることで、"0"に
近づくことが「理解」される。
0474名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/28(火) 14:11:54.79ID:wlJkOzOb
私は、算術にも数学にも不慣れで、具体的な算出方法の記述などに
立ち入ると、すぐに私自身が混乱してしまい、却って説明が分かりにくく
なるので深入りするのはやめておくが、このように見てくると、
円周率πの近似値を求める行為そのものが、反転に向かふ動きの示度を
暫定的に数量化しようとする(つまり、暫定的に定められた単位
により、数えられた単位の比として、またそれに対応する数値
として表そうとする)取り組みであるということができるだろう。

例えば、上述したように「想念」されるイメージによれば、
"π/4"の近似値を算出しようとすることは、弧を描いて地平から
昇ってくる天体が、自分から見た水平方向の距離と、地平が
平面であるものと「理念化」した場合にその天体から地上に
垂直方向の距離とが等しい二等辺の直角三角形の高さ、
つまり、"1/√2"まで昇ったときに"-1"に向かって円弧を描き
ながら動いた量を近似で求めていることになる。したがって、
この"π/4"は、"-1"に向かふ示度を示す指数としては、
"(-1)^(π/4)/π=(-1)^(1/4)"を表現していることになり、
逆に言えば、その「完了した様態」の「-1」、つまり、
"(-1)^1"を特徴づけている示度の"1"は、"π/π"を表現して
おり、"-1=(-1)^(π/π)"であることになる。さらに、
このことから、"(-1)^(0/π)=1"が導かれて、"-1"に向かふ
性質が数量的に認められない状態にあるものとしての
"1=(-1)^(0/π)=e^0i"が現れる。
0476名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/28(火) 16:45:07.04ID:wlJkOzOb
円周率πについて考へるということは、それを数えることの比として
表現する単位である"1"について、リバースエンジニアリング的に
考へるということだろう。
0477名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/28(火) 22:58:44.54ID:wlJkOzOb
「虚数」/"imaginary number"と呼ばれる"i"については、
「虚数」/"imaginary number"という表現、およびその頭字語として
の記号表記"i"そのものが、"i"を「概念」としても、むしろ、
捉へにくくしている。しかし、"i=√-1"が数学操作として伝へようと
しているのは、"i=√-1=(-1)^(1/2)=(-1)^((π/2)/π)"であり、
"π"は、反転に向かふ円軌道の動きの示度として算出されている
量なのだから、"(-1)^((π/2)/π)=(-1)^(1/2)=√-1=i"が表現して
いるのは、"(-1)^(π/π)=-1"、つまり、「完全な反転にまで向かふ
円軌道の動きにおいて半分まで動いて『ゐ』る」ことに過ぎないだろう。
0478名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/28(火) 23:52:59.60ID:wlJkOzOb
数学を専門とする人々が、自らが数学の研究のために行ふ数学操作
を、日常言語の表現を用ひて適切に記述する責務を引き受けるのを
嫌ふ理由ははっきりしている。それは、せっかく、日常言語で
操作を記述する代わりに数学記号を用ひることによって、言葉
の慣習による拘束から逃れて、数学が研究の対象とするものを
自在に操作できるようになったのに、それを再び日常言語の表現
によって説明する責務と結び付けられたのでは、そのことが
数学の技法を探求するのには、無用な足枷となってしまうと
感じられるからだ。

しかし、では、数学の研究として行はれる営みを日常言語による
表現から完全に切り離してしまうことができるのかと言ふと、
そうはいかない。意味の伝はる言葉による説明が失われると、
いくら数学的に何かを証明したと主張したところで(その主張
そのものも日常言語によって行はれるだろう)、何がどのように
示されたことになるのか、数学者の間でさえ合意の得られる形で
伝はらなくなってしまう。このことは、近年ニュースを賑わせた、
画期的であると公表する側が主張する新たな数学理論による証明が、
専門の数学者の間でさえ、未だにどう評価できるのか不明となって
いることにもはっきりと表れているだろう。
0479名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/29(水) 08:17:55.02ID:+ujT2eNW
私は、再三、述べたとおり、数学も算術もとても苦手としており、
また数学史や科学史の知識もなので、技法的な詳細の記述に深入りする
つもりはないのだが、>>474で記述しようとした例は、現象として
観察される事実とは必ずしもうまく合致しているわけではないが、
しかし、その現象を体験することによって生じる「想念」をうまく
記述しようとすることが、現象を記述するのにもどのように役に
立ち得るのかを説明する好例となると思はれるので、少し説明を
こころみよう。
0480名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/29(水) 08:39:27.85ID:+ujT2eNW
>「想念」されるイメージによれば、"π/4"の近似値を算出しよう
とすることは、[...] 天体が[...] 二等辺の直角三角形の高さ、
つまり、"1/√2"まで昇ったときに"-1"に向かって円弧を描き
ながら動いた量を近似で求めていることになる。<

天体を観察する人が位置する地表は、際限なく広がる水平面ではなく、
また、「科学的な知見」としては、天体の方が観察する人を中心に
回転しているわけではなく、地球の方が、太陽の周囲を自転しながら、
公転しており、さらに惑星は、円軌道ではなく、楕円軌道で動く
ことが知られているので、上述のように「想念」されたイメージ
は、実際に観察されている「はず」の天体の運動とは、うまく
合致していない。それでも、円周率πを数量比として求めようと
することが、まずなによりも、円軌道で回転している「かのように
見える」天体の動きを記述しようとする動機と結び付いていた
ことは、否定しようがないだろう。しかし、では、現象とは合致
していないはずの「想念」されたイメージをうまく記述しようと
するこころみが、その結果として、どのように現象を記述するの
にも役に立つことになるのか。
0481名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/29(水) 09:21:40.54ID:+ujT2eNW
円周率πを求めようとして、天体の動きから「想念」されるイメージ
をうまく記述しようとすることは、想念」されるイメージの「理念化」
であるが、"π/4"の近似値を算出しようとして、「天体が[...] 二等辺の
直角三角形の高さ、つまり、"1/√2"まで昇った」位置を想定して、
その想定される位置を計算しようとすることはまだ、最初に「想念」
されたイメージと密接に結びついている。しかし、
ライプニッツの円周率の公式 や、数えられる奇数から連分数計算
によって円周率を近似する式には、"√2"のような「算術の結果と
しての数値」はまったく含まれていないことから、これらの計算
に用ひられた考へ方は、イメージの「理念化」をさらに進めたもの
に基づいていたのだろうと思はれる。私は、算術の技法として
それがどのようなものであったのかは知らないが、これらの
計算は、"1/√2"の高さまで昇った天体とそれを見る視点との
間の関係として描かれる、底辺と高さをそれぞれ"1/√2"とし、
斜辺を"1"とする二等辺の直角三角形ではなく、それと辺の比が
同一である、底辺と高さをそれぞれ"1"とする二等辺の直角三角形
をさらに「理念化」して、その"1"と"π/4"との対応関係を数量として
算出しようとしたのだろう。すると、そこで「理念」として用ひ
られているイメージは、観察される現象にもともとうまく合致して
はいないはずの「想念」されたイメージをうまく記述しようとする
「理念」をさらに「理念化」することによってだろう。それでも、
そのことによって、数式はとてもシンプルになり、逆に、
最初に「想念」されたイメージも好都合に記述できる(この場合は、
円周率πが好都合に近似できる)ことになる。そのような成功を
積み重ねることが「数学」が自律性を発揮するようになるプロセス
ではないだろうか。
0482名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/29(水) 09:35:47.13ID:+ujT2eNW
ところが、である。「想念」されたイメージも好都合に記述できる
(この場合は、円周率πが好都合に近似できる)ようになったとしても、
もともと、「想念」されたイメージは、それを誘発した体験される
現象と、どのようにか「かなり似てはいる」ものの、必ずしもうまく
合致しているわけではない。そこで、どこがどのように違っている
のかに注意を向けて詳しく観察をつづけると、それまで「想念」され
ていたイメージとの矛盾が見出される。すると、その矛盾から、
それまでに「想念」されていたイメージは、変更を余儀なくされ、
あまりにも矛盾が多く、役に立たないことが判明したなら、完全に
棄て去られることもあるが、大抵の場合は、そうではなく、
「どこがどのように似ていて、どこがどのように違うのか」に
ついての気づきから、それまでに「想念」されていたイメージ
を活用しながら、新たなイメージが「想念」され、今度は、その
新たなイメージの「理念化」がこころみられ、またその
「理念化」をさらに「理念化」することにより、記述の技法が
磨かれることになる。
0483名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/29(水) 09:44:32.33ID:+ujT2eNW
記述の技法が洗練されれば、翻って、体験される現象もより適切に捉へる
ことができるようになり、「めでたし、めでたし」となりそうだが、
現実には、そうではない。記述の技法が洗練されて、それが現実を捉へる
のに好都合であることが判明すると、洗練された技法とその技法によって
捉えられる現象だけが「意識される」ようになり、その中間のプロセス
が忘れ去られて、すっぽりと抜け落ちるようになるのである。
すると、既存の技法の用いる既成の概念によってうまく捉へること
のできる現象だけが現実であるという「錯誤」が往々にして生じる。
0485名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/29(水) 13:50:43.68ID:+ujT2eNW
>>286
>L'expression employée doit se rendre adéquate/être fidèle à
ce qu'elle/on veut dire.<

この格率は、「ま(真)こと(言/事)」を求めるなら、一般的な言語
表現の場合だけでなく、数学における数字や数学記号を用ひた
表現の場合にもそのまま当てはまるはずである。それは、例えば、
"1"と"3"の「比」を「表現しようとする」/《vouloir dire》なら、
"1/3"と表現す「べき」であって、数値として計算した結果が
同一になるからといって、"3/9"と表現するのは適切ではなく、
ましてや、"0.33333333...(以下同様)"などと表現すべきではない
ということである。

多くの人は、「そんなことは分かり切っている。なぜ今さら
わざわざそんな常識的なことを指摘するのか。」といった反応
をするだろう。しかし、多くの人がそれを認めたがらないが、
「社会的」には、「ま(真)こと(言/事)」を求めることは、
「一般に非常識な振舞ひ」なのである。なぜなら、既に
述べたとおり、「社会」は、一般には「建前」と呼ばれる
「口実」によって組織化されて成立しているからである。

例えば、何かの商品やサービスの継続的な購入の契約を結ぶ
とき、購入する側の個人には、契約書の文書を読んで、
その内容に同意したことの確認を示すことが求められる。
しかし、契約書の内容は詳細にわたり、しかも、拡大しなければ
読めないほど小さい文字で書かれていたり、法外な時間と労力
を注ぎ込まなければ、読み切れないほどの大量の情報を含んで
いることが、ごく普通である。自分が契約する内容について、
本当に書かれている内容をすべて事前に読んで確認し、
十分にそれを検討してからでないと「同意の確認をしない」
などという人が実際にいたら、よほどの「変人」か、
少し何かどこかに異常のある「おかしな人」であると思はれる
だろう。したがって、このような契約内容への「同意の確認」
というのは、「建前」に過ぎず、事後的な法的に責任を回避
することができるようにするための「口実」である。
しかし、そのような「口実」をすべて排除しようとするなら、
社会の組織化は成立しなくなるだろう。
0486名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/29(水) 14:01:23.46ID:+ujT2eNW
ところが、「数学」の教育はもちろんのこと、すべての制度的な教育も、
学問も、研究も社会的に組織化されて運営されているのであり、
それが「建前」という、それについて明確に語ること自体が
はばかられる「口実」に依拠しているのである。すると、その結果、
数式を用いた表現でさえ、必ずしも「ま(真)こと(言/事)」を求める
ための格率を尊重するものではなくなり、そのことが、むしろ、
当たり前のこととして暗黙に受け入れられるようになる。

ましてや、数式や数値を用いて、何らかの現象(自然現象であれ、
社会現象であれ)を説明しようとする行為は、その前提として、
「ま(真)こと(言/事)」を求めるための格率を尊重しようとして
いると考へられるのかどうか、極めて怪しいものとならざるを
得ない。したがって、哲学することが、「ま(真)こと(言/事)」を
求めることを何よりも優先するとすれば、まさにそのこと自体
において、社会的には「非常識極まりない」振舞ひをしている
とされることになるだろう。
0487名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/29(水) 14:12:22.80ID:+ujT2eNW
ところで、一般的には、「正しいことをしている」とは、
「『社会的』に上手く行くように振る舞っている」ことを指している。
0488名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/30(木) 10:22:28.97ID:k7fQyZi5
>L'expression employée doit se rendre adéquate/être fidèle à
ce qu'elle/on veut dire.<

他の場合はともかく、言語表現の語源を説明するために用ひられる
語源研究における表現であれば、この格率は、「原理的」に尊重され
るはずだろう。学問的な研究の現実がそうなっているかどうかは、
例えば、>>132-155において既に詳しく検討した、英語の
"to confess"という表現の一般に通用している語源説明が好例となる。

宗教用語として用いられる"to confess"の語源は、ラテン語の
"confessare"であり、これは、古代ギリシア語の"ὁμολογέω"を
写した表現であると考えられ、既に説明したとおり、語源的には、
「しか(然)い(云)ふことをたが(違)へない」こと/「しか(然)
相違ないとい(云)ふ」こと、「な(己/汝)をまこと(真言)として
しろしめす」ことを意味していると言ふことができる。

したがって、"to confess"を、「to con(一緒に)・fess(言ふ)」
ことを意味しているとするのは適切ではないが、配偶者関係
を表現する"conjugal"という表現を、「頚木/軛(くびき)を
ともにしている」ことを意味するものと説明するなら、
"to confess"は、「まこと(真言)をともにする/しろしめす」
発話行為を表現していると説明することはできる。ところで、
そのような行為を被統治者が公に行ふとすれば、それが統治する
側にとっては、危険なものとなることは目に見えているだろう。
このため、実際、「教会」という社会的な組織化により、
語源的には古代ギリシア語の"ὁμολογέω"/「まこと(真言)を
ともにする/しろしめす」ことであった行為は、「告解する」
行為に「変成」して制度化されるのである。そして、英語の
"to confess"の「学問研究」における語源説明も、この「変成」
した後の解釈に対応している(ただし、"confession"について、
"An Old English word for it was andettung"と注記する
必要が生じることにおいて、「ほころび」を見せているが)。
この社会的な組織化により言語表現の用法まで変成させる
「変換操作」の技法の巧みさは、一般に、もっと高く評価されて
よいのではないかと私は思ふ。
0489名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/30(木) 15:26:20.32ID:k7fQyZi5
私の書込みに誤記はいくらでもあるが、
重要な箇所での誤記が放置されていたことに気づいたので、訂正。

>>461
誤:「まこと/真言」の制約としての効力に縛られない
正:「まこと/真言」の誓約としての効力に縛られない
0490名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/31(金) 13:57:23.97ID:i7eVUeh3
ときどき、フーコーの言説に関連して言及されることのある(というより、
私が目にする限り、それに言及がなされるのは、ほとんど専らフーコーの
言説に限ってであるが)古代ギリシア語の表現に「パレーシア」/"παρρησία"
というのがある。私は、古代ギリシア語を読むことはできず、フーコーの
著作にも少ししか目を通したことがないので、「パレーシア」/"παρρησία"
という表現がどのように使はれるのか、またそれが哲学をするのにどれだけ
重要性を持ち得るのかよく分からないが、日本語版のWikipediaには次のように
説明されている。

>パレーシア(parrhesia, ギリシア語: παρρησία, παν(すべて)+ρησις /
ρημα(発言))とは、古典修辞学で、包み隠さず話すこと、あるいは
そう話す許しを得ること。言論の自由だけでなく、危険を冒してでも
公益のために真理を話す義務をも意味する。 <

この説明では、私には感覚的にも「パレーシア」/"παρρησία"がどのような
ことを伝へようとする表現なのか、日本語との対応関係でもまるで掴めない
ので、フランス語版のWikipediaを参照すると、次のように記載される。

>La parrhésie (substantif féminin, du grec πᾶν pan, tout et ῥῆσις
rêsis, discours) consiste à exprimer son intime conviction,
« dire sa vérité » ; elle est proche de la licence et du franc-parler. <

こちらの説明を参照すると、「パレーシア」/"παρρησία"は、「言論の自由」
などということよりも、むしろ、その発話行為を否定的に評価することなく
言ひ換へて表現するなら、日本語としては「忌憚なく物を言ふこと」、
「思ひの丈を述べること」に相当するように思え、否定的な評価を含んだ
言ひ換へをするなら、「言いたい放題を言ふこと」、「放言すること」
に対応しているように思える。
0491名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/31(金) 14:23:35.09ID:i7eVUeh3
私は、フーコーの言説が、スピノザの場合とはまたまったく違った意味で、
やはり肌に合わず、苦手である。私が過去に個人的に接したことのある
学術研究者は、フーコーの著作を称賛するばかりの人々と、にべもなく
否定して拒絶する人々と、フーコーという人物の存在そのものを意識すら
していない人々に分かれていた。私自身は、フーコーの言説が取り扱ふ
ような題材には関心があったが、フーコーの言説のスタイルには違和感
を覚え、なぜそのような表現の仕方をしなければならないのかよく
分からなかった。結局、私は、フーコーの著作を入念に読んだような
ことはないのだが、個人的な印象からだけ言へば、フーコーの言説は、
私には、哲学的な取り組みというより、哲学の中心に向かふかのように
見えながら、そこからそ(逸)れゆく"deflection"に見える。
0492名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/31(金) 14:33:44.36ID:i7eVUeh3
「パレーシア」/"παρρησία"を、一方で、否定的な評価を含めずに、
「忌憚なく物を言ふこと」や「思ひの丈を明かすこと」に対応するもの
とし、他方で、否定的な評価を含めて、「言いたい放題を言ふこと」、
「放言すること」 に対応すると考えるなら、後者の解釈では、
英語で「名誉棄損」に相当するような「誹謗中傷する発言行為」を指す
のによく使はれる、"libel"に対応させることも可能だろう。
一般に通用している英語の語源解釈では、"libel"は、「放言」に
対応するような表現に由来するものとはされていないものの、
実際の用法においては、フランス語の場合の《la licence》に
近い用法から来ていると考える方が妥当ではないかと私には疑はれる。
0493名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/31(金) 14:47:41.79ID:i7eVUeh3
ところで、"to confess"/"confessare"/"ὁμολογέω"を
「な(己/汝)をまこと(真言)としてしろしめす」発話行為であると
するなら、そのような行為に及ぶことには、常に大きな危険が伴ひ、
一般に、その危険をかへり(顧)みない、常識外れの大胆な/怖いもの
知らずの/うぶ(初心)な振舞ひであるとされるが、他方、
「パレーシア」/"παρρησία"を、「忌憚なく物を言ふこと」/
「思ひの丈を明かすこと」、あるいは、「言いたい放題を言ふこと」/
「放言すること」に対応する発話行為であると考へるなら、
こちらは、それがたとえ相手の名誉を棄損するように誹謗中傷すること
を明白に意図する「放言」であったとしても、常に容認されて
いる、というより、むしろ、積極的に利用されている。
ただし、それは、常に、人事的な実力行使の実効力に忠実に
応じてである。
0494名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/03/31(金) 15:08:56.20ID:i7eVUeh3
というのも、「忌憚なく物を言ふこと」/「思ひの丈を明かすこと」、
あるいは、「言いたい放題を言ふこと」/「放言すること」としての
「パレーシア」/"παρρησία"は、発話行為としては、"advertising
campaign"だからである。そして、"advertising campaign"の
目的が、通常、その発言内容が「まこと(真言)」として認められる
か否かではなく、その発言が与える影響の効果であるように、
発言内容そのものが、発話者自らの意図を忠実に伝へようとする
ものであるかどうかも不明である。
0496名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/01(土) 08:18:49.91ID:bGWySUwD
>実際の世の中は、そのような混乱した言葉遣いに満ち溢れており、
その混乱を解消することが望ましいとすら考えられてはおらず<

生きるために私が哲学する必要性に「せま(迫)」られてきたことの
大きな要因には、この状況がもたらす煩わしさや悩ましさがある。
多くの人には、一般に、まな(学)ぶことは、知識を増やそうとする
ことに動機づけられているものと意識されており、「哲学をする」
ことも、そのように「哲学」についての知識を増やすことである
と考へられている。このことは、「哲学」を専門に研究する人々の
場合でも同様だろう。しかし、私の場合、「哲学をする」ことや、
自分の母語ではない複数の言語に触れることを動機づけている
のは、知識を収集して増やそうとするのとは真逆の意識である。
0497名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/01(土) 08:47:37.73ID:bGWySUwD
私は、このスレでも何度か「キアスム的」という表現を用ひてきたが、
この捉へ方を私が好むのは、まさしくそれが、知識を収集して増やし、
分類することではなく、逆に、既に分類されて使ふことを要求されて
いる知識を、必要最低限にまで減らすことに役立つからである。

例えば、>>464の考察に照らして、「必要に『せま(迫)』られる」
という表現について考えてみるといい。するとすぐに、「山が
『せま(迫)』る谷」は「、峡谷(きょうこく)」と呼ばれ得るような
「『せま(狭)』い谷」であることに気づくだろう。すると、
「せま(迫)る」と「せま(狭)し」は、通常、まったく別々の表現
として分類されて理解されているものの、「せま」が表現する
様態をキアスム的に反転させれば、「互いに同様の表現」である
ものと捉へられ、これらの表現を使ふのに知っていなければ
ならないものとして意識される実質が縮減されることになる。
さらに、この縮減の効果として、「せま(迫)る」と「せま(狭)し」
を一緒に捉へることができるなら、「せ(責/攻)め」も同様だろう
という類推がすぐに働き、意識の働きの省エネ化が次々に進む
ことになる。
0498名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/01(土) 09:03:59.54ID:bGWySUwD
数学において「虚数」と呼ばれる"i"について、わざわざ、
"(-1)^(π/π)=-1"と"(-1)^(0/π)=1"の関係性から、
"i=√-1=(-1)^(1/2)=(-1)^((π/2)/π)"と表現しなおしてみる
ことも同様の動機に基づいている。私には、数学において
一般に見られる「虚数"i"」ついての日常言語による記述が、
説明としては意味不明で、なおかつ、その「概念」としての
数式による一般的な例示からは、その算術的な操作性が
よく分からないので、考へがいろいろと混乱するのである。
最初から、
"(-1)^(π/π)=-1"、"(-1)^(0/π)=1"、
"(-1)^((π/2)/π)=(-1)^(1/2)=i"としてその関係性を示して
くれれば、いくら私が算数や数学を苦手としているからと
いっても、私でも落ちこぼれることなく理解できたのではないか
と今でも思ふ。
0500名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/01(土) 09:21:07.42ID:bGWySUwD
一般に、学習することは、知識を収集して、分類、整理することである
と考へられているが、私にとって、「まな(学)ぶ」とは、まずなによりも、
経験を重ねることで、類推がすぐに働くようにして、意識の働きの
省エネ化をはかることである。

ここで、再び、「必要に『せま(迫)』られる」という表現について
考えてみるといい。「必要」であるということは、その「必要とされるもの」
が、現状で「欠如している」ことだろう。この「欠如している」様態を
指し示すように日本語で表現するのが、「〜を」であり、フランス語で
あれば、《vouloir》である。さらに、「『せま(迫)』られる」ことは、
「せ(責)め」と共通であることが認められ、それを「責務」/
「責めを負ふこと」と言い換へることができるのだから、こちらは、
やはりフランス語を用ひるなら、《devoir》と言い換へることができる。
その結果、「必要に『せま(迫)』られる」という表現から、
「〜を」/《vouloir》に対応するものとして
「責めを負ふこと」/《devoir》が生じる関係性を、やはり省エネ化
により導き出すことができ、「罪(つみ)の意識」のようなイデオロギーを
持ち出す必要性も感じられなくなる。
0501大樹の陰を求めて垢版2023/04/01(土) 09:34:48.64ID:bGWySUwD
人心を混乱させる「放言」の氾濫というのは、実は、統治する側に
とっては、少しも都合の悪いことではなく、むしろ、本当に
危険であるとみなされているのは、縺れが解かれてしまうことの方だろう。

Yo navego debajo del agua,
Y tambien se volar a la altura,
Muchos creen que me busca el gobierno,
Otros dicen que es pura mentira,
Desde arriba no mas me divierto,
Pues me gusta que asi se confunda.
(出典 letras.com/los-tigres-del-norte/360396/)
0502名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/02(日) 13:36:20.49ID:/Nqdyuow
私は、「英語の"be-〜"は、『"be-〜"により修飾される作用の
効果として主体性を再帰的に表出させる働きをする』」と
説明したが、このことをはっきりと例証するとても良い
具体例が、英語の次のことわざ(諺)の表現である。

>Beauty is in the eye of the beholder.

ここで、このことわざ(諺)を「もっともである」と感じさせる
のに"be・holder"という表現が果たしている役割を考えてみるとよい。

ところで、この考察は、もともと、ドイツ語の動詞の前綴り»be-«
の表現上の役割について検討することから導かれており、この
ドイツ語の»be-«が、ラテン語系統の言語の場合では、"co(n)-"
に対応していること、またその役割が日本語の「〜ふ」に似ている
こと、さらには、ラテン語の"confessare"という表現において、
その"con-"が、古代ギリシア語の"ὁμολογέω"の"ὁμο-"を写すもの
となっていることまで見た。すると、上に具体的に英語の場合に
ついて述べた
>「英語の"be-〜"は、『"be-〜"により修飾される作用の
効果として主体性を再帰的に表出させる働きをする』」<
という指摘は、「英語の」を別の言語、例えば、「スペイン語の」
と言い換へてもよく、「"be-〜"は、『"be-〜"により」はという
部分を、「"con-〜"は、『"con-〜"により」と言い換へてもよい
ことになり、しかも、同じ印欧諸語に属するとは言へ、"be-"と
"con-"は別語源なのだから、同様の説明を、英語、ドイツ語、
ラテン語系統の言語、日本語、古代ギリシア語の表現について
一般化して適応するために、"be-"や"con-"を"β-"のような記号で
代表させることも可能となる。そして、そのように具体例から
切り離すように変換して説明することは、説明の「理念化」である
と言ふことができるだろう。
0503名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/02(日) 14:05:30.91ID:/Nqdyuow
現象として観察される事実とは必ずしもうまく合致しているわけ
ではないが、それでも、その現象を体験することによって生じる
「想念」をうまく記述しようとする「理念化」が、結果として
現象を記述するのにもとても役立つことがあることを、数学
において円周率πの近似値を求めようとする「理念化」に関連
して説明した。観察される天体は、円軌道を描いて動いている
わけではなく、惑星は、楕円軌道で動いていることが判明して
いる。それでも、惑星の楕円軌道をうまく記述することができる
ようになるのに、円周率πの近似値を求めようとする「理念化」
は、不可欠と言ってよいほど重要な役割を果たしたはずだろう。
同様のことは、他の物事について哲学する場合の「理念化」に
ついても言へるはずだろうと私は思う。ここで誤解してもらって
は困るが、私が「理念化」と言ふ場合、それが求めるのは、
複雑になりすぎて縺れた捉へ方をもたらしている記述の
合理化であって、なんらかの既存の合理性に合わせるように
記述して、縺れがないかのように物事を裁断して捉へよう
ということではない。
0504名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/02(日) 14:14:47.85ID:/Nqdyuow
それが「人事権行使の実効力を頼みにする」という事実上の
「暴力崇拝」であれ、無条件、無反省の「理念化」に全面的に
依拠する人々ほど、「理念化のこころみ」を忌避するという
パラドックスがある。そのような人々は、「理念化のこころみ」
に対しては、決まってこう言ふのである。「物事はそんなに
単純ではない」と。そのような人々の振舞ひが実際にもたらして
いるのは、太陽や月が実際の観察においても単に円軌道を
描いているだけであるようには見えないという理由で、
円周率πを数量化して求めようとする「理念化」のこころみ
そのものを拒絶することである。
0505名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/02(日) 14:41:36.85ID:/Nqdyuow
私は、理念化には著しい効用があると思っている。その一方で、
私は、理念に基づく思想にはまったく関心がない。これは、
矛盾した態度であるかのように思はれるかもしれないが、
そうではない。多くの人々は、
「理念化に効用がある」=「まこと(真言/事)としてあらかじめ
存在するのが『理念』である」という錯誤に陥ってしまうのだ。

地元の図書館で対話篇の「クラテュロス」が含まれる
『プラトン著作集』を借りてきて読んでいるが、私の勝手な
「理念化」に基づく推論の多くが、プラトンが伝へる
ソークラテースの古代ギリシア語の名づけについての推論と
とてもよく重なっていることが確認できる。私が、
古代ギリシア語の表現法については、ほとんど何も知らない
にもかかわらずである。これこそが、特定の言語を離れた
「理念化」の効用であり、その具体例については、後で
また書き込む。
0506名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/02(日) 18:19:26.80ID:/Nqdyuow
>homologous (adj.)
"having the same position, value, structure, etc.," 1650s,
from Latinized form of Greek homologos "agreeing, of one mind,"
from homos "same" (see homo- (1)) + logos "relation,
reasoning, computation," related to legein "reckon, select,
speak," from PIE root *leg- (1) "to collect, gather,"
with derivatives meaning "to speak (to 'pick out words')."<
(出典 etymonline.com/search?q=homologous)
0507名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/02(日) 23:44:28.56ID:/Nqdyuow
"homologous"で検索すると、
>〈性質・位置・構造など〉一致する. 【数学】 相同の,ホモローグな.
【化学】 同族の.【生物】 相同(器官)の,異形同源の.
(出典 ejje.weblio.jp/content/homologous)
のような日本語訳がヒットするが、英語の語源辞典の説明を参照すれば
分かるとおり、この表現は、他方では、ラテン語の"confessare"を
介して英語の"to confess"を派生させるとともに、ドイツ語で"bekennen"
という表現に写されることになったのと同じ古代ギリシア語の
"ὁμολογέω"に由来し、この同じ語源からフランス語においては、
《homologuer》という表現を派生させている。一目見ただけでは、
派生によってもたらされた表現の用法は、かなりばらばらであり、
具体的には、"homologous"が「相同の」を意味するものとして
使はれるのに対して、"to confess"は、通常、「告白する」こと
を意味するように用いられ、"bekennen"には、「自白する」や
「(事実として)認める」という用法だけでなく、「公然と味方する」
を意味するとされる用法もあり、《homologuer》は、「認可する」
ことを意味するように用ひられる。また、"homogeneous"という
英語の表現が「同質の」と訳されることからも分かるとおり、
古代ギリシア語の"homo-"は、漢語に写した場合、「同」に対応
するものと見做されることが多いのに対して、"co(n)-"は、
一般には、「ともに/一緒に」を表現しているものとされるか、
または動詞を「強調」するために用ひられているものとされ、
ドイツ語の»be-«も同様に動詞を「強調」する役割を担っている
とされる。
0508名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 00:02:12.09ID:Bf73AP15
遡ればいずれも同じ古代ギリシア語の表現に関連付けることができる
としても、派生した言語表現の用法には、その過程において様々に
異なる規範が作用しているので、意味解釈が一筋縄ではいかなくなる
のは自然なことだろう。しかし、不適切な「理念化」が、無用に
解釈を縺れされることも確かである。それは、数学において、
円周率πについての「理念化」が不適切であるなら、負の数"-1"と
虚数"i"と単位の"1"がばらばらの概念として現れ、微分積分も
実数の連続性もそれぞれ別の「理念」として考へられて、
後付けで互いの関係が「証明」される必要が出てくるのと
同様なのではないかと私には思える(数学については、私は
よく知らないので、これは私の「印象」に過ぎないが)。
0509名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 00:25:23.41ID:Bf73AP15
「相同の」と訳される"homologous"の"homo-"を、動詞を「強調」
する表現であるとすることはできないだろう。実際、語源解釈に
おいても、"homo-"がそのような表現要素として「理念化」される
ことはなく、既に述べたとおり、漢語としては、「同」に対応させ
られて訳されることが多い。ところで、日本語には、
「同じ釜の飯を食ふ」という表現がある。この表現を
「『ともに』ご飯を食べる」と言い換へることはできるだろうか。
私には、「『ともに』ご飯を食べる」と表現すると、
解釈が曖昧になるように感じられる。というのは、「横並びで
別々に同じようにご飯を食べる」としても、「『ともに』ご飯を食べる」
ことになるからだ。これに対して「一緒にご飯を食べる」であれば、
「(意図して)会食している」ことになるだろうが、それぞれ別メニュー
を注文して食べていても、「一緒にご飯を食べる」ことになり、
それでは明らかに「同じ釜の飯を食ふ」のとは異なる。ただ、
「ご飯を一緒に食べる」とすると、「食べるという『行為をともにする』」
とうい感じがより強く出て、表現として「同じ釜の飯を食ふ」に
より近くなるように思える。ところで、では、そうだとして、この
「一緒に」や「ともに」の表現上の役割は、「食べる」という動作
の「強調」だろうか。それを「強調」として「理念化」することは
適切なのか。
0510名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 00:38:46.41ID:Bf73AP15
しかも、印欧諸語の語源解釈では、"co(n)-"の「理念化」が「一緒に/ともに」
を意味するものとする解釈と、動詞の「強調」を担うという解釈に「分化する」
こと、およびその表現上の用法が英語の"be-"やドイツ語の»be-«とは特に
関連付けられないことによって、それぞれの言語における語源説明の記述が
ばらばらになり、とても複雑になるのである。
0511名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 00:49:23.43ID:Bf73AP15
ここで事態をさらに複雑にしているのは、不適切に見える「理念化」は、
しばしば、行為としては「適切に」、つまり、意図どおりに行はれて
いることである。だからこそ、古代ギリシア語の"ὁμολογέω"から、
教会で「告解する」ことを意味する表現が「適切に」派生すること
になるのだ。
0512名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 08:38:23.20ID:Bf73AP15
私の「想念」からは、使へるか使ひものにならないかよく分からない
標語がつぎつぎに湧いてくるが、私は、「理念」先行の「『べき』論者」
ではないので、そのような標語が役に立つ可能性があることを念頭に
(誤っていて使へないことが後に判明する場合でも、その誤りを明確に
認識するのに「役立つ」)、それが私自身の考へに混乱をもたらすもの
でない限り、いつでもとりあへず、ひとまずはメモとして書き留めておく。

>「単位」として「つか(使/仕)へる」/»bedienen«/"to serve"周期の
不断なる「をり(折)あ(合)ひ」/"compromise"としての円周率πの近似
0513名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 09:23:08.48ID:Bf73AP15
>>507-509
《homologue》/「相同」(古代ギリシア語の"ὁμολογέω"から派生した)
とは、《en s'y prennant》/「と(獲/得)りく(汲/組)むこと」により
もたらされる《ce qui est commun》/「ともにあること」の「理念化」
としての《l'idée》/「理念/イデア」である。
0514名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 09:28:11.83ID:Bf73AP15
>common (adj.)
Origin and meaning of common
c. 1300, "belonging to all, owned or used jointly, general, of
a public nature or character," from Old French comun "common,
general, free, open, public" (9c., Modern French commun),
from Latin communis "in common, public, shared by all or many;
general, not specific; familiar, not pretentious."
This is from a reconstructed PIE compound *ko-moin-i- "held
in common," compound adjective formed from *ko- "together"
+ *moi-n-, suffixed form of root *mei- (1) "to change, go, move,"
hence literally "shared by all."

The second element of the compound also is the source of Latin
munia "duties, public duties, functions," those related to munia "office.
" Perhaps reinforced in Old French by the Germanic form of
PIE *ko-moin-i- (compare German gemein, Old English gemne
"common, public, general, universal;" see mean (adj.)), which
came to French via Frankish.<
(出典 etymonline.com/search?q=common)
0516名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 15:17:34.16ID:Bf73AP15
>>505
>私の勝手な「理念化」に基づく推論の多くが、プラトンが伝へる
ソークラテースの古代ギリシア語の名づけについての推論と
とてもよく重なっていることが確認できる。<
と述べたが、その具体例を挙げるために、まずは、しつこいようだが、
自己引用から始めよう。

>567名無しさん@お腹いっぱい。2022/11/02(水) 18:30:37.41ID:FVpPdSoI
「たま(玉)のを(緒)」の「たま(玉)」とは、既に指摘したとおり、
「うつ(美)しく、たふと(尊)く、きよ(浄/清)らで、よ(良)いもの」の
提喩であり、「を(緒)」は、つなぎ留める作用をするものの提喩で
あるとともに、さそひ求める呼びかけの声としての「〜を!」
でもある。その「を(緒)」が「た(絶)え」ることによって生じる
「を(惜)し」という感覚は、日本語を母語とする者だけでなく、
他の言語を母語とする人によっても、さらに、場合によっては、
人の言語を理解しない動物によってすら、共有されるものだろう。<

この日本語の「〜を」についての考察は、もともと、プラトンの著作とも、
プラトンによって伝へられるソークラテースの言葉ともまったく無関係に
導き出されたものである。次に、プラトンの『クラテュロス』から引用する。
0517名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 15:23:58.30ID:Bf73AP15
ソークラテース:僕の見るままに君に話すことにしよう。僕に答えて
くれたまえ、ある生物をある場所に止めておこうとするときに、
その生物にとって、いったいどちらがより強力な束縛であるだろうか。
強制か、それとも欲望かね。
ヘルモゲネース:欲望だね、ソークラテース、これのほうがはるかに強力だ。
ソークラテース:さてハーイデースの許から逃亡者がたくさん出るとは思わないかね、
そこへ赴く人びとをハーイデースがいちばん強力な束縛でつなぎとめなかったら。
ヘルモゲネース:それはもう間違いねいね。
ソークラテース:いやしくも最大の束縛でつなぎとめるのであるとするならば、
彼はある欲望でその人々をつなぎとめるのだ、強制ではなくてね、と僕は思う。
(出典 『プラトン著作集1』、勁草書房、1977年、p.87)
0518名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 15:38:23.92ID:Bf73AP15
618たまのをを2022/11/12(土) 11:44:24.42ID:h1jvfl3E
万葉集 第4巻 763番
>玉緒乎 沫緒二搓而 結有者 在手後二毛 不相在目八方
>玉の緒を沫緒に搓りて結べらばありて後にも逢はざらめやも
>たまのをを あわをによりて むすべらば ありてのちにも あはざらめやも
(出典 万葉集ナビ)

>ソークラテース:[...] かのハーイデースはそれほど美しい言葉を
語ることができるようなのだ。[...] それにまた、彼は人が肉体を
持っている間は、人と交わろうとせず、ただ、魂が肉体に根ざす
あらゆる悪や欲望から離れて清らかになったときにだけ、交際する
のであるが、この点などはさまに彼の哲学者たることを証するもの
にほかならない、君はそう思わないかね。
(出典 同上、p.87)

>584名無しさん@お腹いっぱい。2022/11/09(水) 08:53:54.72ID:C6cRXeYw
「たま(玉)のを(緒)」が、»ein Torso«であるとするなら、
「ソークラテース」/"Σωκράτης"/「すこやかさ/健全性を保つ
("be safe and sound"/《être sain et sauf》)力」は、
「なほびのみたま(直毘霊)」である。<
0519名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 15:50:56.74ID:Bf73AP15
次は、通り道の「せま(狭)さ」と「切迫」と「力」の関係についてである。

>>331名無しさん@お腹いっぱい。2023/03/08(水) 01:02:51.21ID:0s9vZpqE
>話は変わるが、「血(ち)」と「力(ちから)」と「血(ち)」が隘路
(en.wiktionary.org/wiki/益#/media/File:Ufa17.svg)
である「血管」の働きが「ひとつの現象」の様態として把握される
仕方は、言語により、これらの言葉を表現するのに用ひられる
発音がまったく別のものであっても、互いによく似ているの
だろうと思ふ。<

>>497
>「必要に『せま(迫)』られる」という表現について考えてみるといい。
するとすぐに、「山が『せま(迫)』る谷」は「、峡谷(きょうこく)」と
呼ばれ得るような「『せま(狭)』い谷」であることに気づくだろう。
すると、「せま(迫)る」と「せま(狭)し」は、通常、まったく別々の
表現として分類されて理解されているものの、「せま」が表現する
様態をキアスム的に反転させれば、「互いに同様の表現」である
ものと捉へられ <
0520名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 15:58:19.48ID:Bf73AP15
ふたたび『クラテュロス』から引用するが、ギリシア語の表記は、
文字を入力する手間が大変なので(まったく望ましくないことではあるが)
今回は、省略する。

>他方「必然性(強制的)」(ギリシア語表記省略)と反抗的とは、意志に
反するものであって、誤謬と無知の仲間といってよいのである。そうして、
それは峡谷を通って行くこと(ギリシア語表記省略)になぞらえられているのだ。
峡谷は進行に難儀で、険しく、藪多く、進行を妨げるからね。その点から、
おそらく「必然性」(強制的)と呼ばれたのであろう、山峡を通って行進する
ことになぞらえられてね。しかし力のあるかぎり頑張ることにしよう。
君だって挫けてはいけない。さあ質問してくれたまえ。
(出典 同上、p.118)
0521名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 16:07:37.72ID:Bf73AP15
>>445み(身)ど(獲/得)りをそこな(損)ふ緑の倫理2023/03/21(火) 11:34:01.06ID:P07aDZM5
>388名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/11(火) 09:33:51.80ID:qyqwgxZz
>古代ギリシア語の"ἀρετή(aretḗ)"が、その基本的な用法において、
どのようなことを表現しているのかは、現代の日本語の言葉にも
そのまま簡単にうつすことができる。それは、「すこやかさ」
(したがって、「健全さ」、「丈夫さ」と言い換えることもできる)
である。<

以下は、『クラテュロス』からの引用である。
>また「アルテミス」(ギリシア語表記省略)は、その健全さ(アルテメス)
(ギリシア語表記省略)ときまり正しさの故をもって、また彼女が処女性
をひたすら熱望する故をもって、そう呼ばれたように思われる。
あるいはそう呼んだ人は、この女神を徳(アレテー)(ἀρετή)を知る者
として呼んだのかもしれない。
(出典 同上、p.92)
0522名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 16:09:59.45ID:Bf73AP15
まだまだ数多く推論の重なりの例を挙げることができるが、今のところ、
ここらへんで止めておく。
0523名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/03(月) 16:28:34.29ID:Bf73AP15
私が学術的な専門家を相手にこのような発言したとするなら、私には
古代ギリシア語の初歩の知識すらなく、日本語の古語についても
自分の母語として勝手に推論を働かせているだけなので、「不謹慎」
のそしりを免れないだろうが、このようなことを私が指摘せず、
発言を控えたとすれば、代わりに誰がそれについて発言してくれる
のだろうか。私は、放置しておいても、他の誰かが競って指摘して
くれるようなことについては、発言しようとはまったく思はない
のである。私が嬉々として「不謹慎」な発言をしていると他人が
思ったとしたら、それは事実誤認もはなはだしい。
0524commutatis commutandis垢版2023/04/04(火) 08:59:55.83ID:TyVNrTmM
>>512
形相が際限なく「相同」/《homologue》であり得ることと、形相が
解消されると現出するのが円であり、円周率が形相と形相の解消の比
として無限に近似され得ることは、同じことをその表と裏から伝へて
いるのではないか。
0526名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/04(火) 18:21:35.86ID:TyVNrTmM
「量」が現れるためには、「を(折)りかへ(返)し」でしかない「直(ぢか)」
ではなく、「ひっくりかへ(返)し」の「ひっくりかへ(返)し」が必要である
ということではないのか。
0527名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/04(火) 18:25:42.58ID:TyVNrTmM
「量」とは、"volume"としての「体(たい)」である。

私は、このようなことを「理念」としてではなく、「想念」として書き留めている。
だから、これらが「理念」として役に立たないと言はれても、私の知ったことではない。
0528名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/05(水) 10:35:32.34ID:54izsfj1
形相が量として完全に満ちることが円であり、円が現れることは、
即ち、形相の量への解消である。

これも思ひ浮かんだだけの「想念」に過ぎないが、少なくとも、
人は古代からずっと、それに類似した「想念」を適切に捉へる
へることのできる言語表現を求めてきたと言ふことはできるだろう。
0529名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/05(水) 12:04:55.08ID:54izsfj1
このスレで既に何度か言及してきたHeinrich Mannの小説、"Der Untertan"
には、ドイツ語の»bekennen«という動詞の用法が、ラテン語の"confessare"
を介しているとしても、古代ギリシア語の"ὁμολογέω"の用法の流れを汲む
ものであることがよくわかる仕方で»Bekenntnis«という表現がとても
うまく用ひられている例が見られる。ただし、この場合、»Bekenntnis«は、
「理念化」に「理念」が先立つ「理念先行型」であり、「理念」を
「理念化」に先立たせるとどのようなことになるのかも、よく伝へている。
また、この»Bekenntnis«の用例からは、古代ギリシア語の"ὁμολογέω"から
英語の"homologous"(「相同の」)という用法が派生することも自ずと
納得がゆく。さらに、この»bekennen«の用法と好対照と成すように
»Vorfrucht«という表現が用ひられていると考へることができることも
注目にあたひするだろう。

>Da der Blick des Herrn durchaus ein Bekenntnis verlangte,
brachte er etwas hervor von „eingefleischtem Respekt“ und
führte sogar Kindheitserinnerungen an, die es entschuldigen
sollten, daß er zuerst bei Herrn Buck gewesen war.<

>Aber Diederich konnte nicht länger an sich halten.
„Die Vorfrucht der Sozialdemokratie ist der Liberalismus“! rief er.
„Solche Leute wie Buck, Kühlemann und Eugen Richter machen
unsere Arbeiter frech.<

>Im Gegensatz zu dem demokratischen Mischmasch, an den
die absterbende Generation noch glaube, sei der Kaiser
der Vertreter der Jugend, die persönlichste Persönlichkeit,
von erfreulicher Impulsivität und ein höchst origineller Denker.
„Einer soll Herr sein! Auf allen Gebieten!“ Diederich legte
das vollständige Bekenntnis einer scharfen und schneidigen
Gesinnung ab und erklärte, daß mit dem alten freisinnigen
Schlendrian auch in Netzig von Grund aus aufgeräumt werden müsse.

(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_III)
0530名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/05(水) 13:17:50.23ID:54izsfj1
上に引用した
>„Die Vorfrucht der Sozialdemokratie ist der Liberalismus“!
は、日本語訳の『H.マン集45』、「臣下」、p.97では、
>「社会民主主義の温床は自由主義です」
と、「温床」として訳されている。これは、日本語の喩をとして
適切な訳だろうと思ふ。ただし、原語のドイツ語においても
喩として用ひられている»die Vorfrucht«は、言葉としては、
日本語の「温床」を指しているわけではない。私はドイツ語の
辞書を所持していないので、ネットで検索してみるたが、
これに対応する日本語は、ヒットしなかった。英語では、
"preceding crop"と訳される例が見られるようなので、
"Vorfrucht"&"preceding crop"をキーワードにして検索すると、
次のような記述がヒットする。

>E Seemueller 著 · 1986 — [Is rape a good preceding crop for strawberries?].
[German] [1986] ... "Ist Raps eine gute Vorfrucht fuer Erdbeere?"

Einfluss der Vorfrucht auf den Ertrag der Getreidearten und ...
K Steinbrenner 著 · 1983 · 被引用数: 5 — Influence of the preceding crop
on the yield of cereal crops and yield effect of cereal-specific crop
rotation sections on Tieflehm-Fahlerde soil <
(出典 agris.fao.org)
0531名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/05(水) 13:32:48.06ID:54izsfj1
要するに、»die Vorfrucht«とは、連作などで、収穫することを
企図する作物を植える土地にその作物を植える前に育てて、
植えることになる作物の生育を助ける働きをする植物という
ことになるのだろうと思ふ。それが、「植物の成長を促す」
ような作用の喩として用ひられているのだから、
»die Vorfrucht«を、やはり似たような喩として用ひられて
いる日本語の「温床」という表現に移すことは、適切である
と考へられる。

ところで、「温床」という言葉自体は、
>苗床の一種で、人工的に加温して外気温よりも高く保つようにしたもの
(出典 日本大百科全書(ニッポニカ))
を指すとされ、何らあ(悪)しきことには関連付けられていないばかりか、
稲を育てるというよ(良)いことを促す働きに関連付けられている。
にもかかわらず、喩としての「温床」は、「不正の温床」のように
専らあ(悪)しき意味合いを伴って使はれる。
ドイツ語の»die Vorfrucht«の喩としての用例について私は知らないが、
やはり、その言葉自体では、収穫を企図する植物の成長を促すよ(良)い
働きに主として関連付けられているはずなのに、少なくとも引用した
事例では、あ(悪)しき意味合いを伴って使はれている。
0532名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/05(水) 13:43:01.11ID:54izsfj1
このように見ると、日本語の「温床」もドイツ語の
»die Vorfrucht«もともに喩としては、それによって促されることが
予見される「み(身)ど(獲/得)り」の実現を恐れる表現となっている
と言ふことができるだろう。

すると、これとは対照的に、日本語の古語の「ゆ(斎)だね(種)」は、
予見される「み(身)ど(獲/得)り」を期待する表現であると見ること
ができる。
>万葉集 第15巻 3603番
安乎<楊>疑能 延太伎里於呂之 湯種蒔 忌忌伎美尓 故非和多流香母
青楊の枝伐り下ろしゆ種蒔きゆゆしき君に恋ひわたるかも

>万葉集 第7巻 1110番
湯種蒔 荒木之小田矣 求跡 足結出所沾 此水之湍尓
ゆ種蒔くあらきの小田を求めむと足結ひ出で濡れぬこの川の瀬に
(出典 万葉集ナビ)
0533名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/05(水) 13:56:46.39ID:54izsfj1
最近、AI技術の進歩でAIが可読性の高い文章を生成してくれることが
話題になっている。そのような技術の進歩は、既存の文書から
検索したい内容に関連する記述を自動的に抽出してもらうのに大いに
役立つだろうし、現に役立っているのだろうと思ふ。例えば、
»die Vorfrucht«というドイツ語に"preceding crop"という英語が
訳語として当てられていることを自動的に探し出してくれること
は、私にとっても、とても便利である。しかし、それがまったく
適切な訳語であるとしても、»die Vorfrucht«が、懸念される
事態としての「み(身)ど(獲/得)り」の「先触れ」を伝へるよう
な表現である、といったような推論のこころみをAIが代わりに
やってくれるわけではなく、たとえ、代わりにやってくれた
としても、それでは私が「読んで納得するように理解する」
役には立たない。ましてや、»die Vorfrucht«と»bekennen«
の関係を考慮することなど、AIには無縁のことだろう。
だが、言語表現として書かれた文書を、そのような「こころみ」
なしに読んで、いったい何を読んだことになるのだろうか。
0534名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/06(木) 09:57:24.09ID:nTPQaYTF
理念化の営みに理念を優先させると思想になる。
私が思想に関心がないのは、思想を形成する理念が
適切な理念化のこころみを妨げるからだ。
プラグマティズムとは、云はば、既に思想と化してしまった理念から
理念化の営みを救出するリーバス・エンジニアリングである。
0535名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/06(木) 10:07:15.49ID:nTPQaYTF
プラグマティズムは、暗黙にであれ、明示的にであれ、「○○の思想」で
他人を誘導しようとする人々にとっては、極めて不都合なのだ。
社会でつねに既定で最も広く蔓延しているのは、対人関係における
暗黙裡の暴力崇拝の思想であり、そのこと自体は避けがたいことではあるが。
0536名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/07(金) 09:23:43.73ID:ptlG9rY4
言語表現に先立って語彙や文法があるわけではない。
文法とは、表現法としての類似を示すために認識される
発話パターンの類似性を活用することである。
したがって、表現するための語彙とそれを組み合わせるための
文法が別々のものとして存在するわけでもない。
そのように語彙と文法が分離して見えるとすれば、
それは、言語表現の捉へ方において表現法を軽視している、
あるいは無視しているからに他ならない。
0537名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/07(金) 10:26:24.42ID:ptlG9rY4
古代ギリシア語とラテン語系の言語と英語とドイツ語はすべて、
言語系統的には「インド・ヨーロッパ諸語」に属するものとされ、
「インド・ヨーロッパ諸語」というくくりがどの程度、有効であるか
にかかわらず、これらの言語が互いに近い「系統」の言語である
事実を確認できることに議論の余地はない。ところが、上で詳しく
検討してきた古代ギリシア語の"ὁμολογέω"とラテン語の
"confessare"/英語の"to confess"とドイツ語の»bekennen«は、
表現として明らかに互いに対応するように用ひられていることを
確認することができるにもかかわらず、これらの表現を、
それぞれを構成する語彙要素に分解してみれば、つまり、
"ὁμο・λογέω"、"con・fessare"/"to con・fess"、
»be・kennen«と分けて見れば、"ὁμο-"と"con-"と»be-«に
ついても、"λογέω"と"fessare"/"fess"と»kennen«についても、
語彙としてはばらばらである。このこと自体は、「同一とされる
言語内」でも、同様の意図を伝へるのにいくつもの別の表現法を
利用することができるので、別に驚くようなことではない。
これは、日本語で考へた場合、例えば、何かを「『同じように』
する」ことは、「『合ふように』する」と表現することも、
「「ともに」する」と表現することも、「『そ(沿)うように』する」
と表現することも可能だからである。しかし、このことは、同時に、
古代ギリシア語の"ὁμο-"にラテン語系の語彙とされる"con-"を
対応させることや、ゲルマン語系の語彙とされる»be-«を対応
させることと、古代ギリシア語の"ὁμο-"に日本語の「ともに」を
対応させることの間には、実質的にに何ら違いがないこと、
つまり、この言い換へには、「インド・ヨーロッパ諸語」と
いうくくりは何ら効力を発揮するものではないことも示している。
0538名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/07(金) 10:43:04.67ID:ptlG9rY4
ドイツ語の»be-«がどのようにして、ラテン語系の言語における"co(n)-"
および古代ギリシア語の"ὁμο-"に対応するように用ひられることになって
いるのかは、ドイツ語の前綴り»be-«の一般的な説明を参照するよりも
むしろ、»be-«と明らかに語源的に共通している、やはり前綴りとして
用ひられる»bei-«の用法についての事例を参照する方が分かりやすい。

>bei-(分離):基本的には「近傍」を表す
(出典 odn.ne.jp/xenom/gzentei.box/bei-.html)
0540名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/07(金) 10:48:33.06ID:ptlG9rY4
この場合にもやはり、日本語の「新仮名遣ひ」の規範化が、いかに他の言語
における表現の自然な解釈を「さまた(妨)げるのに役立っている」かを
はっきりと見てとることができるだろう。なお、この規範化が、計画的に
意図的に実施され、維持されているものであることに議論の余地はない。
0541名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/07(金) 11:20:17.12ID:ptlG9rY4
>>537-538
この事例は、「理念」を優先させる思想がどのような働きをするもの
であるのかもよく示しているだろう。「理念」を優先させる思想は、
正しい「理念」を立てて、人々がそれに沿ふように振る舞ふように
すれば、人々が生きる現実も正しい方向に導かれると説く。

例えば、他者を尊重する思想として、他者に「相同性」を求めるの
ではなく、他者に「寄り添ふ」ことが大切であるといった「理念」
を正しいものとして立てる思想というのは、よくあるパターンだろう。
しかし、「相同性」は、「理念」として同一性を表現するものと
考へられる"homologous"の"homo-"、つまり、古代ギリシア語の
"ὁμο-"を立てるのではなく、代わりに「寄り添ふ」ことを伝へる
ドイツ語の»be-«を立てても、容易に導き出すことができるだ。
したがって、その都度の「理念化のこころみ」を怠り、正しい
理念によって自らが導かれようとする/他者を導こうとする思想は、
その都度、都合よく誘導される/誘導しようとする結果しか結果しか
もたらさない。
0543名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/07(金) 15:07:18.76ID:ptlG9rY4
次の、やはりHeinrich Mannの"Der Untertan"からの引用は、
英語の"to believe"/日本語の「(神仏を)たの(頼)む」という表現により
伝へられるものにそのまま対応する「(宗教的な)信心」の関係性を、
»sich verlassen«という表現を用ひることによって、ただし、
この場合は、わざと関係性をひっくり返すことによって
その操作性を際立たせて、うまく伝へている。

>„Wir scherzen nicht mit den heiligsten Gütern! Ich soll Ihnen
das wohl handgreiflich klarmachen, Sie verkrachter Abiturient?“

Da Nothgroschens Hände den vollkommensten Verzicht beteuerten,
war Diederich sofort wieder ruhig und sagte: „Prost!“
Dagegen schrie der Major, als sollte er platzen.
„Wir sind die Herren, auf die Seine Majestät sich verlassen kann!“<

(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_III)
0544名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/08(土) 09:14:44.47ID:dSY/PvJv
>古代ギリシア語の"ὁμολογέω"とラテン語の"confessare"/英語の
"to confess"とドイツ語の»bekennen«は、表現として明らかに
互いに対応するように用ひられていることを確認することができる<

古代ギリシア語の"ὁμολογέω"の"-λογέω"は、「ロゴス」という
カタカナ語で知られるとおり、言葉を話すことを表し、
ラテン語の"confessare"の"-fessare"(*fatēōr)も、語源は
異なるものの、やはり「話す」ことを表している。
これに対して、»bekennen«の»-kennen«は、»bekennen«が
"acknowledge"という英語に訳される場合があることに反映
されるとおり、「し(知)る」ことを表している。このように
「言葉を話す」ことを表す言葉が「し(知)る」ことを表す
言葉にうつされることが、奇妙に感じられるとすれば、それは、
「発話」を行為として自覚する意識が薄れているからだろう。
0545名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/08(土) 09:28:15.54ID:dSY/PvJv
私は、聖書に見られる古代ギリシア語の"ὁμολογέω"の用法について、
「な(己/汝)をまこと(真言)としてしろしめす」という日本語訳を解釈
として示したが、この解釈は、古代ギリシア語の"ὁμολογέω"が
ドイツ語の»bekennen«によりうつされるという事実を援用している。
というのも、»bekennen«の»-kennen«の用法は、»kennzeichnen«
という表現を参照してみれば、とても分かりやすくなるからである。

>kennzeichnen
(gekennzeichnet) [他]([英] mark) ⸨et durch et⸩
(…に…で)印(しるし)〈記号〉をつける; ⸨j-et als et⸩
(…を…であると)言う, 特徴づける; (…であることを)明らかにする.
(出典 kotobank.jp/dejaword/kennzeichnen)

つまり、»bekennen«とは、「な(己/汝)」が発話行為の効果として
再帰的に»gekennzeichnet«という様態になるようにすること、
言い換へるなら、「な(己/汝)を(発話の効験として)顕現させること」
を表現しているのである。
0546名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/08(土) 09:50:59.95ID:dSY/PvJv
私はいつも「独自の解釈」を勝手に示すので、匿名で発言するのでない
とすれば、必ずと言っていいほど、自分の考へに固執して「『我(が)』が強い」
と評価されることになるのだが、私の「独自の解釈」というのは、
「どこにもそのようには書かれていない」、「誰もそのようには説明していない」、
あるいは「どこにそのように書かれている/説明されているのか不明である」
というだけのことで、何ら私という個人にオリジナルなものではなく、
私という個人を起源とすることを主張するようなものではない。
私の解釈は、つねに「こころみ」なので、しばしば、誤っていること
もあるだろう。そのような場合、解釈がどのように誤っているかは、
私という個人の独自性に由来するということはできる。しかし、
私が「独自の解釈」をこころみるのはまさしく、私みづからがまだ、
うまく理念化できていないからにほかならず、それを私の「個人的な
拘りの強さ」、「『我(が)』の強い性格」の表れであると評価する
のは、原因と結果の取り違へであり、私からすれば、そのような
評価を下す人々の方こそが、自分たちが「理念」に固執していることに
まったく無自覚なのだ。
0547名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/08(土) 10:02:00.01ID:dSY/PvJv
日本語の「我(が)」は、発話遂行的に同一性を確立するように
用ひられる助詞の「が」と共通で、「同一性」を表現し、
その意味で古代ギリシア語の""ὁμο-"に対応させることもできるので、
「『我(が)』が強い」という評価をそのように用ひることが正当
であるとするなら、「ホメオスタシス」/"homeostasis"と呼ばれる
現象が見られることも、「『我(が)』の強さ」の表れということに
なるだろう。

>homeo-
also homoeo-, word-forming element meaning "similar to,"
Latinized from Greek homio-, from homoios "like, resembling,
of the same kind; equal," related to or an expanded form of
homos "one and the same" (from PIE root *sem- (1) "one;
as one, together with").
(出典 etymonline.com/word/homeostasis#etymonline_v_29951)
0548名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/08(土) 11:15:07.72ID:dSY/PvJv
さて、ここで仮に、古代ギリシア語の"ὁμολογέω"が、日本語としては、
「な(己/汝)をまこと(真言)としてしろしめす」ことを意味すると
する私「独自の」解釈が、運よく、広く「認められる」/
"acknowldeged"ことになったという結果を想定してみると、
その場合には、この「独自の」の「自」は誰を指すことになるのだろうか。

日本語として私個人が示す言葉は、私の発話行為によるものであるが、
それでも、その表現につか(使/仕)はれる言葉は、私という個人にその
用法が限定されるものではあり得ない。また、私が日本語訳を提示
するのに用ひた解釈が広く「認められる」/"acknowldeged"もの
となるなら、その解釈は、元の古代ギリシア語の"ὁμολογέω"の
用法の解釈と「共通している」ことになるはずだろう。すると、
それまでは、私「独自」のものとされた「自」はどうなったのか。
消え失せたのだろうか。そうではないだろう。
0549名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/08(土) 11:18:20.50ID:dSY/PvJv
結果として、「あなたの『独自の』解釈などというものは、そもそも
存在しなかった。あなたは、もともと他の人々にも広く知られていた
『常識的なこと』を、わざわざ指摘して見せただけだ」ということに
なるのではないか。
0551名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/08(土) 11:34:43.45ID:dSY/PvJv
執拗な個人人格攻撃と、いずれにせよあらかじめ「徒労」に終はる
ことが分かっている結果に挟まれて、敢へてみづからわざわざ
消耗戦に挑もうというような人は、そう多くない。
0552今朝の似非数学ポエム垢版2023/04/09(日) 08:33:37.41ID:OnhsviyX
互除法も、「を(折)りかへ(返)す」ように「ひっくりかへ(返)す」のを
「く(繰)りかへ(返)す」ことによって「を(折)り合ひがつく」ことを、
「ひっくりかへ(返)し」と「を(折)りかへ(返)し」の比として
「かぞ(数/仮添)へ」ようとする「こころみ」であると云ふことができる
のではないか。
0555名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/09(日) 11:15:19.72ID:OnhsviyX
>古代ギリシア語の"ὁμολογέω"とラテン語の"confessare"/英語の
"to confess"とドイツ語の»bekennen«は、表現として明らかに
互いに対応するように用ひられていることを確認することができる<

このことと、ニーチェの言説との関係について考へていて、
そのつながりで思ひ浮かんだのが『更級日記』に出てくる
「しかすがの渡り」である。どのように連想が働くかは、
私自身にとっても「意外」で面白い。その連想の働きが
どのようなものか説明しようと思ふ。
0556名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/09(日) 11:24:01.97ID:OnhsviyX
>– Zarathustra ist ein Tänzer –: wie der, welcher die härteste,
die furchtbarste Einsicht in die Realität hat, welcher den
»abgründlichsten Gedanken« gedacht hat, trotzdem darin keinen
Einwand gegen das Dasein, selbst nicht gegen dessen
ewige Wiederkunft findet – vielmehr einen Grund noch hinzu,
das ewige Ja zu allen Dingen selbst zu sein, »das ungeheure
unbegrenzte Ja– und Amen-sagen«... »In alle Abgründe trage
ich noch mein segnendes Jasagen«...
Aber das ist der Begriff des Dionysos noch einmal.<
(出典 zeno.org/nid/20009257012)
0557名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/09(日) 11:46:52.03ID:OnhsviyX
ニーチェの「思想」と言へば、
»das ungeheure unbegrenzte Ja– und Amen-sagen«
であると要約することができると言ってよいほど、これはニーチェの
かむか(考)へ方をよく伝へる表現だが、これまでにこのスレで検討して
きたことを踏まへれば、この表現は、明らかに「『ひっくり返し』の
『ひっくり返し』」であることが分かる。

では、ここで私が「〜の『ひっくり返し』」と表現するとき、私は、
ニーチェがどのような「ひっくり返し」の操作を行っていると指摘して
いるのだろうか。私がわざわざ指摘するまでもなく、多くの人には
既に明白だろうが、それは、ドイツ語の一般化されて通用している
用法における»Beich­te«の「ひっくり返し」である。
> Beich­te, die
vor einem Geistlichen oder im Gottesdienst abgelegtes Sündenbekenntnis
Gebrauch christliche Religion<
(出典 duden.de/rechtschreibung/Beichte)

そして、ニーチェの»das Ja– und Amen-sagen«が「『ひっくり返し』の
『ひっくり返し』」であるのかと言へば、それは、»Beich­te«の一般に
通用している用法そのものが、»bekennen«の場合について検討したのと
まったく同様に、「ひっくり返し」によってもたらされたものだからだ。
このことは、»Beich­te«の語源説明を参照すれば、すぐに分かる。
0558名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/09(日) 12:02:25.13ID:OnhsviyX
>Herkunft
mittelhochdeutsch bīhte, zusammengezogen aus: bigiht(e),
althochdeutsch bigiht, bijiht, aus: bi- (zum Verbalpräfix
gewordenes tonloses bei) und jiht = Aussage, Bekenntnis, zu:
jehan = sagen, bekennen, eigentlich = (feierlich) sprechen, reden<
(出典 同上)

語源的に見れば、»Beich­te«は、日本語の「いは(祝/斎)ひ」に対応
すると言ふことができ、それは、「しか(然)りと云ふことにより
『な(汝/己)』を顕現させること」、「『な(汝/己)』を「いは(祝/斎)ふ
こと」、したがって、「(罪の)告解/自白」となるように
「ひっくり返し」の操作が行はれるまでは、そもそも、
»das Ja– und Amen-sagen«を表現しているのである。それ故、
ニーチェが行った「『ひっくり返し』の『ひっくり返し』」の操作は、
その語源的な»Beich­te«の用法を強調/誇張によってふたたび表面化
させるものであると言ふことができるだろう。
0559名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/09(日) 12:33:30.85ID:OnhsviyX
ここですぐに私には、上で言及した『更級日記』の「しかすがの渡り」の
くだりが想起されることになる。ふたたび引用しよう。

>三河と尾張となるしかすがの渡り、げに思ひわづらひぬべくをかし。
更級日記

ここで『更級日記』の作者は、なにを「をかし」と言っているのだろうか。
それは、「しかすがの渡り」という「名付け」と、それを目の前にして
みづからに生じる「思ひ」との関係である。「しかすがの渡り」という
名付けから伝はるのは、その場所が「渡り」であるかどうかを問ふなら、
その応へは、「さす・が/『しか(然)り』である『が』」/「そうである
ことに相違ない『が』」ということになり、その場所が「『渡り』である
と云ふのは『まこと(真言/事)』である『が』」という、ちょうど、
"truth-conditional semantics"/「真理条件意味論」に対応するような
真理条件である。ところ『が』、すると、ここで、「しかす『が』の」
の「が」は、発話遂行的に同一性を確立する役割をする「が」である
と解釈されることになり、この場合は、フランス語の《même si》
のように反語法的な働きをすることになる。

したがって、「しかすがの渡り」という「名付け」そのものが、
その「渡り」を目の前にして、「『渡り』であると云ふのは
『まこと(真言/事)』である『が』」と「ひる(怯)む」こと、または
「躊躇する」ことを想起させるのだ。そして、実際に自分自身が
その場所に来て、名付けのとおりそれが実感されることが「をかし」
と言っているのである。
0560名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/09(日) 13:46:31.04ID:OnhsviyX
この「『渡り』であると云ふのは『まこと(真言/事)』である『が』」
の「が」は、発話遂行的に同一性を確立するとともに、フランス語の
《même si》と同様に「譲歩として認める」こと/"to admit"を
伝へる役割を果たす。

このように「が」が「譲歩として認める」こと/"to admit"を
伝へるように用ひられることは、ドイツ語の»bekennen«が
「譲歩として認める」こと/"to admit"を意味するように
解釈されて使はれることも可能であることと対応している
だろう。そこで働いている「自」意識について考へてみる
ようなことが、哲学をする手がかりとなる。
0562無我を志向するとはどのようなことか垢版2023/04/09(日) 16:49:56.83ID:OnhsviyX
»Beschränkung«としての「が(我)」のあらは(現)れ

>Beschränkung
[女] (―/―en) 制限, 限定; 制約〔となるもの〕.
(出典 ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部))
0563名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/09(日) 17:05:18.27ID:OnhsviyX
理念化のこころみとしては容易に捉へることができる関係性も、
理念の存立を優先させると、とたんに分かりにくくなる。
0565名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/10(月) 00:28:57.05ID:M/kW5B/x
>>564
これについては、岩波古語辞典の基本助詞解説における「が」の用法の
説明も参考になる。

万葉集 第5巻 892番
>伊等乃伎提 短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波
寝屋度麻R 来立呼比奴 可久<婆>可里 須部奈伎物能可 世間乃道
>いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長が声は
寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道

万葉集 第16巻 3847番
>檀越也 然勿言 <五十>戸<長>我 課役徴者 汝毛半甘
>壇越やしかもな言ひそ里長が課役徴らば汝も泣かむ
(出典 万葉集ナビ)
0566名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/10(月) 10:17:10.22ID:M/kW5B/x
>>518
人は、理念化のこころみに理念の存立を優先させてしまうという過ち
を何度でも犯す。「たま(玉/魂)のを(緒)」を大切にすべきことを
説かれると、「たま(玉/魂)のを(緒)」が身体から解き放たれて
独立して存立することができる「理念」であるかのように錯覚して
しまうのである。ところが、「たま(玉/魂)のを(緒)」そのものが、
「理念化を『希求する』(即ち、つなぎとめる作用をする「を(緒)」)」
であり、それが身体から解き放たれたなら、つまり、「いき(生/息)の
を(緒)」とは無関係になったなら、「希求する」ことも失はれて、
「を(緒)」はもはや、つなぎとめる作用をしなくなるのである。
ここには、「たま(玉/魂)のを(緒)」/「いき(生/息)のを(緒)」に
結び付いた「身(み)」は、どのようなものとして現れてゐるのか
について「かむか(考)へる」手がかりもあるだろう。

>Aber Buck mißbrauchte seinen Erfolg, er ließ sich berauschen.
„Das Erwachen des Bürgers!“ rief er aus. „Die wahrhaft nationale
Gesinnung! Die stille Tat eines Lauer tut mehr dafür als hundert
hallende Monologe selbst eines gekrönten Künstlers!“<
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_IV)
0567名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/10(月) 10:50:26.08ID:M/kW5B/x
>数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり

>心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず
(出典 『紫式部集』)

一般に、「こころ(心)」は、かぞ(数)へられるものではない。
「こころ(心)を一つにする」と表現する場合でも、それは、
「こころ(心)」を「一致させる」ことを意味しているのであって、
一つ、二つ、三つと数えられる「こころ(心)」がまず先にある
ことが前提にされているのではない。これに対して「身(み)」は、
つねにかぞ(数)へる対象とされながら、その否定的な評価に
おいて、「『かず(数)ならぬ』もの」、「かぞ(数)へるに足らぬ/
あたひしないもの」として現れ、肯定的な評価においては、
「なまめかしきもの」、「しなやかなもの」として現れる。
0568名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/10(月) 11:22:30.08ID:M/kW5B/x
「身(み)」は、その否定的な評価において「屈曲」として、
その肯定的な評価において「なまめかしさ/しなやかさ」として
現れる、つまり、「屈曲」させられた様態から元に戻ろうと
する「復元力」として現れるものとして捉へられているのではないか。
そして、その「復元」した様態を希求することこそが、
「たま(玉/魂)のを(緒)」として理念化されていると言へるのではないか。

"Cogito ergo sum"は一般に、「我(われ)思ふ、ゆえに我(われ)あり」と
訳されるが、日本語の「おも(思)ふ」の古語は、「も(面)・ふ(覆/復)」であり、
「も」は、文字どおり「面」を表現している。したがって、
「思ひ知れども 思ひ知られず」という情況において「われ(我)」と
「わ(我)・が・み(身)」が強く意識されるとすれば、「思ひ知る/思ひ知らる」
という「思ひがかな(適)ふ」、「こころ(心)ゆ(行)くまま」の、云はば、
「も(面)」における「を(折)りかへ(返)し」が「面対称」として実現
される情況においては、「われ(我)」と「わ(我)・が・み(身)」は、
「わす(忘)れ」られて、おもて立って現れることがない。

したがって、「身(み)」そのものが、その実現が希求される「面対称」
として理念化された「を(折)りかへ(返)し」との対比において、
「を(折)りあ(合)ひ」をつける「屈折」/「屈曲」として、その
「屈折」/「屈曲」からの「復元力」が発揮され得るものと見込まれる
度合(「復元をもたらす「た(為/溜/貯/矯)め」)に応じて評価されて
現れていると見ることができるのではないか。
0570名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/11(火) 00:04:15.04ID:r0j0mU5k
>>566
誤:「理念化を『希求する』(即ち、つなぎとめる作用をする「を(緒)」)」
正:「理念化を『希求する』こと(即ち、つなぎとめる作用をする「を(緒)」)」
0571名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/11(火) 00:42:26.47ID:P+M65EK4
木がらしに吹きあはすめる笛のねをひきとゞむべき言のはぞなき
(出典 ja.wikisource.org/wiki/Page:Kokubun_taikan_01.pdf/33)
0572名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/11(火) 10:29:13.92ID:P+M65EK4
"cō・gitāre"における「み(身)ど(獲/得)り」の「臨時性」の裏が、
"cō・gitāre"による「理念化」の「暫定性」だろうと私は思ふ。

このように想念するとき、その表裏の関係性の喩として私が
利用しているのは、円周率πの近似値を求める連分数計算に
において、より大きな素数が見出されることの「臨時性」と、
その見出された素数により円周率πを近似値として表現する
単位としての1が定まることの「暫定性」である。ただし、
これは、数学についてはまったく素養のない私が数学操作に
ついてイメージする「想念」に過ぎないことは、付け加へ
ておく必要がある。
0573名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/11(火) 11:38:44.93ID:P+M65EK4
一般に「哲学」は、ものごとの根源を探求するものであると考へられている。
ところが、「哲学」の始祖のように扱はれることの多いプラトンの著作を
いざ読んでみると、ソークラテースの言葉として、それらの存在を疑はない
ことがごく自然なことであるかのように神やダイモーンや死後の魂に
ついて語られている。「あの世」においてハーイデースが人々の魂を
そこにつなぎ留めておくことができるように語る美しい言葉を、日本語
としては「たま(玉/魂)のを(緒)」に相当するようなものであると
解釈できるとしても、哲学の役割が、ものごとの根源を探求する
ことにあるとするなら、人の肉体がいのちを失った後に魂として
「とこなつに(等許奈都尓)」そこに留まりつづける「とこ(常/床)よ(世)」
の存在を前提として議論を進めることは、いかにも不徹底であると
感じられるだろう。それでは、古代の世界観を反映して、
それを前提とする「思想」を言説として敷衍しているだけでは
ないか、ということになりかねず、実際、哲学することを、
「西洋思想の根源を探る」といったようなことと同義であると見なして
いるような「哲学」も少なくない。また、それとは逆に、「現代の
自然科学的な物事の見方」とは相容れない、古代ギリシアの
「思想」に過ぎないように見える「世界観」はばっさりと切り捨てて、
現代に通用する「倫理」の問題として、そのような言説を扱ふという
姿勢も、「哲学/倫理学」としてよく見られる。私には、このどちらの
「哲学(/倫理学)」的な姿勢も不毛であると感じられる。
0574名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/11(火) 12:09:03.93ID:P+M65EK4
確かに、「たま(玉/魂)のを(緒)」に相当するようなものの存在を
前提として、人が「うつしよ(現世)」における肉体を離れた
「とこ(常/床)よ(世)」の在り方を理想とする「理念」を前提に
言説を紡ぐなら、それは、哲学することではなく、「思想」に
しかなり得ないだろう。また、その「思想」をよく理解する
程度に応じて人々を階層的に組織化するなら、その組織化が
「宗教制度」となることも明らかである。

しかし、実のところ、「たま(玉/魂)のを(緒)」が身体から解き
放たれて独立して存立することができる「理念」であるかのように
思ひなすことが「錯覚」に過ぎないことに気づくこと自体は、
多くの人にとっても、特に難しいことではない。あれだけ
「たま(玉/魂)」について多く詠まれた万葉集においてすら、
いくら自分が人であっても、ひとたびいのちを失へば、
自分の価値は生きたねずみにも及ばないという言葉も見られ、
そのような自覚は、決して特異なものではなかっただろう
と私は思ふ。したがって、「理念」としての「とこ(常/床)よ(世)」
を「錯覚」に過ぎないものとして切り捨てて「現世的」に
なることは、比較的容易であるように多くの人には
感られるだろう。しかし、「理念」を切り捨てることは、
それほど簡単なことではないのだ。というのも、一般に、
自分が無宗教、無信仰であると思っている多くの人々も、
自分が生まれる前の「現世」、自分が死んだ後の「現世」が
当たり前のように存在することを「理念」として前提として
いるからである。
0575名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/11(火) 13:14:51.49ID:P+M65EK4
「み(身)ど(獲/得)り」の「臨時性」は、「われ(我)」と
「わ(我)・が・み(身)」が「いま」、「ここ」にあろうとなかろうと
存続するものとされる「あるがままの世界」を背景として現れるが、
その「あるがままの世界」は、「いま」、「ここ」にある
「われ(我)」と「わ(我)・が・み(身)」の「み(身)ど(獲/得)り」の
「臨時性」から"retroduction"により導き出された「理念化」の
「暫定性」においてある。
0577名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/11(火) 15:57:02.94ID:P+M65EK4
「理念」として現れているものを「実在する」ものとして固定化して
前提としてしまうから、「理念化の働き」が見えなくなる。
そのようにして「『理念化の働き』が見えなくなること」が「錯覚」である。
0578プラグマティズムとしての哲学垢版2023/04/12(水) 09:30:28.82ID:5YsLOfQ7
何かが「錯覚」であると指摘されると、それだけで怒りをあら(露)は
にする(行為としては、「威嚇」であり、その行為がどのような意味を
もつのか自体、考察にあたひ(価)する)人がよくいるが、
何かが「錯覚」であると指摘するとき、哲学がを(教)へるのは、
それが「錯覚」に過ぎないから、それを捨て去るべきであるという
ことではない。そうではなく、それがみづから(身づ柄/自ら)の
「錯覚」であることを「し(知/領)り」/»bekennen«、
すこやかさを保つためにその「錯覚」をみづから(身づ柄/自ら)が
うまく利用できることが「のぞ(臨/望)ましい」ということである。
0579名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/12(水) 09:46:20.91ID:5YsLOfQ7
人は、つねに既に自他の「錯覚」を「み(身)ど(獲/得)りの
と(獲/得)りく(汲/組)み」にうまく利用しながら生きている。
野生動物を罠にかけて獲ることも、植物を栽培してその実を
収穫することも、鶏に卵を産ませることも、家畜動物の搾乳も、
その毛を利用することも、利用する相手の「錯覚」をうまく
利用することにより成立している。そのように利用される
「錯覚」は、相手を罠にかけるという行為を除けば、もはや
「錯覚」をうまく利用していることとしてすら認識されず、
単にそれが持続的に有益さをもたらす「正しい振舞ひ」を導く
ための「理念」となる。例えば、環境保護の「理念」とは、
どのようなものであるか考へてみるといい。
0580名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/12(水) 10:07:55.69ID:5YsLOfQ7
では、人が、つねに既に自他の「錯覚」を「み(身)ど(獲/得)りの
と(獲/得)りく(汲/組)み」にうまく利用しながら生きているとする
なら、そのことについて哲学することの意義はどこにあるのか。

それは、「錯覚」が、もはや「錯覚」をうまく利用している
こととしてすら認識されず、単にそれが持続的に有益さをもたらす
「正しい振舞ひ」を導くための「理念」と見なされるように
なったとき、その「理念」が、あらかじめ実在するものである
かのように誤って認識されて、固定化されてしまう、つまり、
「理念化の働き」が見えなくなってしまうからである。

私は、「理念化の働き」に「理念」の存立を優先させると、
物事について考へることは、哲学ではなく、「思想」となる
と指摘した。人は、哲学することを忘れると、「正しい思想」
に導かれるようにみづから(身づ柄/自ら)が振舞ひ、他者も
それに沿って振る舞ふように導くなら、「持続的に有益さが
もたらされる/確保される/保全されるものと誤って思ひ込む
ようになる。その思ひ込みに大々的に人々を取り込む/人々が
取り込まれることによってもたらされるのが、「錯覚」の利用が
全体として一方向的に働くようになる状況である。
0582名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/12(水) 10:38:15.18ID:5YsLOfQ7
哲学をすることの意義とは、「思想」が、「理念」の存立を優先する
ことにより、「錯覚」の利用を一方向的に固定してしまう作用をする
ことに対して、絶えず、「錯覚」を「理念」として利用することを
もたらした「理念化の働き」を可視化しようとすることにより、
云はば、「解毒剤」の働きをすることになる(したがって、「思想」
は、「理念」が「錯覚」の利用であることに気づかない深刻な容態を
もたらす「常習的な薬の過剰摂取」に喩えられる)。

ここで留意する必要があるのは、「学問」としての「哲学」は、
「根源的に考へるために、すべての錯覚を捨て去らなければならない」
というようなことを主張する限りにおいて、既にそれは哲学する
ことの意義を放棄してしまっているということだ。なぜなら、
言語表現により何かを伝へようとすることそものが既に、
「錯覚」の積極的な利用であり、「すべての錯覚を捨て去った
ところから物事について考へる」などということは、原理的に
不可能だからである。プラグマティズムを忘れた哲学は、
そのことにより、ただちに「思想」に堕する。
0583ein freudiges Ereignis垢版2023/04/13(木) 07:33:57.12ID:iBIqydc2
「あらたかな効験」は「出来事」によってしろしめされるが、
「出来事」/»Ereignis«とは、「み(身)ど(獲/得)り」の「臨時性」の顕現であり、
その「臨時性」の裏が、その「出来事」/»Ereignis«を「いは(祝/斎)ふ」べき
時空間として「しめ(標)ゆ(結)は」れる「しま(島)」の、つまり、"semiosis"
としてた(絶)えず生成しつづける「確率空間」の「暫定性」である。
0584名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/13(木) 07:35:33.19ID:iBIqydc2
>書紀(720)神功摂政前(北野本南北朝期訓)「皇后(きさいのみや)則ち、
神(かむ)の教(をしへ)の験(しるし)有(あ)ることを識(シロシメシ)て、
更(さら)に神祇を祭祀(いのりまつ)る」
(出典 kotobank.jp/word/知召-2051284)
0585知の領空侵犯警戒警報垢版2023/04/13(木) 09:42:06.35ID:iBIqydc2
>„Drohungen und überspannte Ansprüche auf der einen Seite
zeitigen Zurückweisungen auf der anderen.
Der Grundsatz: wer nicht für mich ist, ist wider mich,
zieht eine grelle Grenze zwischen Byzantinern und Majestätsbeleidigern.“
[...]
>Diederich auf seinem Platz schnaufte. Warum schützte Sprezius ihn nicht?
Es wäre seine Pflicht gewesen! Einen nationalgesinnten Mann
ließ er in öffentlicher Sitzung verächtlich machen — von wem?
Vom Verteidiger, dem berufsmäßigen Vertreter der subversiven Tendenzen!
Da war etwas faul im Staat!… Es begann in ihm zu kochen,
wenn er Buck ansah. Das war der Feind, der Antipode;
da gab es nur eins: zerschmettern! Diese beleidigende Menschlichkeit
in Bucks dickem Profil! Man fühlte seine herablassende Liebe zu den Worten,
die er bildete, um Diederich zu kennzeichnen! <
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_IV)
0586名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/14(金) 12:13:03.85ID:pXGXlpZj
万葉集 第13巻 3291番
>青生 山菅之根乃 慇懃 吾念君者
>あをくおふる やますがのねの ねもころに あがおもふきみ
(出典 万葉集ナビ)

この歌では、「山菅之根乃(やますがのねの) 慇懃(ねもころに)」という
形で詠まれている「すがのねの ねもころ(ごろ)に」は、一方で
「すが・の・ね」において、それが「ねが(願)ひ」として
「真っ直ぐ」であること(実際、引用した歌の事例では、それが
「真木立つ山に」の「真木立つ」の直立性として表現されている)
において「こころの素直さ」によるものであることを、
ドイツ語を用ひて言い換へるなら、»mit der Reinheit des Herzens«
であることを伝へることを意図しながら、他方で、「ねもころ(ごろ)に」
において、その「ひた(直)む(向)き」において「熱心さ」を、つまり、
その「ねが(願)ひ」が「熱望であること」を、やはりドイツ語の用ひて
言い換へるなら、»begierig«であることを、ま(目)ご(交)ふことなく
(間違いなく)伝へる表現となっている。したがって、
「菅之根乃(すがのねの) 慇懃(ねもころに)」をそのまま「素直に」
ドイツ語に映してして観るなら、
»begierig/eifersüchtig mit der Reinheit des Herzens«
といったような、ドイツ語としては通用しないであろう「奇妙なこころ」
を伝へる表現がもたらされることになるだろう。しかし、私には、
哲学の根本問題は、その「奇妙さ」が一般に、解消されるべき「矛盾」に
見えてしまうことにあるのだろうと思える。
0588名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/14(金) 20:27:26.52ID:pXGXlpZj
>哲学の根本問題は、その「奇妙さ」が一般に、解消されるべき「矛盾」に
見えてしまうことにあるのだろうと思える。<

同様の「奇妙さ」は、>>517-518に引用した、プラトンによって
伝えられるソークラテースの言葉にも見ることができる。ただし、
その「奇妙さ」は、「すがのねの ねもころ(ごろ)に」とは、
逆方向で示されている。「すがのねの ねもころ(ごろ)に」が、
「すがのねの」の「清々しさ」から、いかにも、「親密に
触れ合ふことの願ひ」を伝へる「ねもころ(ごろ)に」に
変容するのに対して、ソークラテースの言葉は、いかにも
身体的な「欲望」(対訳などで原典を確認していないので、
古代ギリシア語でどのような表現であるのかは、まだ私は
知らない)について語りながら、そこからそのまま連続して、
そのまま死によって肉体に根ざす欲望から離れて清らに
なった魂をつなぎ留めるハーイデースの言葉の美しさに
よる束縛に移行している。しかし、たとえそれが清めら
れたものであったとしても、そのつなぎ留める作用をする
束縛は、やはり、美しさを求める魂の「欲望」ということ
になるだろう。
0589名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/14(金) 20:56:17.69ID:pXGXlpZj
ここで、一方で、「すがのねの ねもころ(ごろ)に」により
表現される「熱意」としての「欲望」は、身体的な感覚と
結び付いているので「情欲」/»Begierde«であり、「すがのね」
と言ひながら、実際には「不純」であるとし、他方で、
ソークラテースの語る魂の交際は、それが「美を求める欲望」
に動機づけられているとしても、肉体の欲望から切り離されて
いるので「純粋」であるとするのは、哲学的ではない。
既に指摘したとおり、そのような「純化された欲望」が身体から
切り離されて存続して、独立に活動し得ると考へるのは「幻想」に
過ぎない。実際、それで話が済むのなら、哲学する必要など
なく、宗教的な世界観への信仰心さえあれば十分である。

これらのいずれの言語表現においても、その一見したところの
「奇妙さ」を、「解消されるべき矛盾」または「解消できる矛盾」
と見做すなら、そこにはもはや哲学はない。
0591名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/15(土) 10:50:34.51ID:dsb73rDE
言葉により捉へようとする「もの・ごと」がまずあって、
それを言語表現として捉へることが理念化なのではない。

捉へようとする様態をすべ(滑)(水*◲*冖*⺼)らせてしまって、
つかみそこねないように「コツ(骨)(◲*冖*⺼)」をつかもう
とすることが、様態を言語表現により、「もの・ごと」の
あらは(顕/現)れとして、つまり、「事象」として捉へようと
こころみる理念化なのだ。
0593名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/15(土) 19:50:21.90ID:dsb73rDE
「『どのよう』でもない『もの・ごと』が『ただある』」などということは、
「『あり・よう』がない」。なぜなら、「ただ」も、「ある」も
様態だからである。日本語の「あ・る」が表現しているのは、
英語にするなら"be around"だが、そう言い換へてみれば、
"be"が"by"と語源をともにして、そこに「くみ(与)する」様態を
表現し、"around"は、その「あ・た(辺)・り」を様態として表現して
いることから、「ある」という様態にも、英語の"be"に対応する
ように「ゐ・る」様態がくみ(与)して「ゐ・る」ことに気づく。
0594名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/15(土) 19:53:33.55ID:dsb73rDE
>「もの・ごと」は、様態(どのようであるか)を捉へる「コツ」の
具現化および具体化としてある。 <

このように私が表現するとき、日本語の用法の常識に照らしても、
私は、何ら突飛なことを言おうとしているわけではない。

>骨子(読み)こっし
@ ほね。
A 物事を形づくっている主要な部分。要点。主眼。眼目。
(出典 精選版 日本国語大辞典)
0595名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/15(土) 20:08:27.76ID:dsb73rDE
哲学的な問ひは、誰にでも「みぢか(身近)」にある。
ただ、ほとんどの人は、その「みぢか(身近)」な問ひについて
わざわざ言葉にして表現できるように考へてみようとはしないだけのことだ。

人は誰でも、みづから(身づ柄/自ら)を日常的に他人と比べている。
日々、他人が生まれたり、亡くなったりしていることも知っている。
他人が亡くなっても、その周囲の「もの・ごと」が忽然とその人とともに
消えてなくなったりはしないので、みづから(身づ柄/自ら)が亡くなった
としても、「もの・ごと」は、「どのようにか」あるように「ありつづけ」、
みづから(身づ柄/自ら)が生まれる前も「どのようにか」あるように
「あった」のだろうと思っている。では、その「どのようにか」は、
どのように把握されるのか。「それは科学の知見による」などという
答えは的外れである。それがどのような科学分野であるにせよ、科学
を専門に研究する人が、その問ひに答えるのにより有利な立場にある
ということはないからだ。
0596名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/16(日) 00:31:44.52ID:APr/3q7n
>>594
簡単な例を考へてみるといい。
例えば、「『つくゑ(机)』がある」とはどのような「こと」か。
「〜が「ある」」の「あ・る」については、既に説明した。
「『つくゑ(机)』がある」といふのは、「あるのが『つくゑ(机)』である」
と言ひ換えてもよい。真理条件意味論により考へてみれば、
「『つくゑ(机)』である」ことが「ま(真)こと(言/事)」であるために
求められるのは、「つくゑ(机)」が木でできているとか、合成樹脂で
できているとか、ステンレスでできているといったようなことではない。
また、脚が1本あるか、3本あるか、4本あるかといったことも問題
ではない。脚などなくても「『つくゑ(机)』である」ことは
「ま(真)こと(言/事)」であり得る。「『つくゑ(机)』である」とは、
作業をしたり、何かを置いたりするのに「つか(使/仕)へる面」が
どのようにであれ「ささ(支)へられてゐる」様態が「コツ」として
具現化されているという「こと」であり、その「こと」を体現する
「もの」が「つくゑ(机)」である。
0597名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/16(日) 00:34:55.94ID:APr/3q7n
だからこそ、「つくゑ(机)」は、「もの」としては、段ボール紙でできた
みかん箱であってもよいのである(「つくゑ(机)」としてそれで使い勝手
が「良い」かどうかは別にして)。
0598名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/16(日) 00:47:14.26ID:APr/3q7n
また、今では、作業をするのに好都合な「面」は、一般に、むしろ、
パーソナル・コンピュータの表示モニター装置の「モニター画面」
となっているので、その「面」を「もの」として支える「つくゑ(机)」
さえ不要となって、「つくゑ(机)」なしの「机面」、つまり、
「デスクトップ」/"desktop"がつか(使/仕)はれることが普通になって
いる(コンピュータ装置や表示モニター装置を置く「つくゑ(机)」は、
依然としてつか(使/仕)はれているが、ラップトップ・コンピュータ
やスマートホンであれば、それも不要である)。
0599名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/16(日) 10:45:07.63ID:APr/3q7n
私はスマホは所持さえしていないので、自分のデスクトップ(机上)パソコンを
立ちあげて、「エクスプローラー」をの「ウインドウ」を「ひら(開)く」と、
アクセスできる「場所」のリストの一番上に「デスクトップ」がある。
この「デスクトップ」という表示を見て、またはさらに遡って
「ウインドウ」を「ひら(開)く」という表現におも(思)ひをは(馳)せて、
「なんて『詩的』な言語表現だろう!」と感嘆する人などまずいないだろう。
つまりは、「詩的な言語表現」とそうでない「日常的に平凡なものと
感じられている言語表現」の間に明確な境界など存在しない。
ところが、言語表現により記述することの基礎を問題として、
そもそも、言葉にして伝へようとすることが、喩にうったへること
であるとか、詩的であると感じられる表現の方が用法の意図が明確に
定義された言葉の意味よりも本来的であるとかいったことを論じ
はじめたとたん、「自分で詩を書くことも読むこともせず、ひとつの
詩も暗唱できないくせに、何を気取っているんだ」といった類の
まったく的外れの反応をする人々が少なくない、というより、むしろ、
多数派であり、このことは、「文系」とされる学術を専門とする人々
の間でも例外ではない。
0600名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/16(日) 10:54:43.68ID:APr/3q7n
しかも、この問題は、自分は「詩的言語」に通じている、「詩的表現」を
よく理解していると自負する人々との間でさえ、解消されるどころか、
悪化することも少なくない。なぜなら、そのような人々の大多数は、
「詩的言語」の用法に通じること、「詩的表現」を理解することとは、
「文学」として「詩」に分類される「作文」を読んだり、書いたり、
暗唱したり、批評すること、鑑賞することだと思ひ込んでいて、
それを前提とすることを疑ってみることすらないからである。
0602名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/16(日) 11:40:12.66ID:APr/3q7n
「『詩的言語』なんて、何を気取っているんだ」という反応をする人々と、
「『詩的言語』こそが大切で、誰もが詩を読むこと、書くこと、鑑賞する
ことを教養として身に付ける必要がある」とする人々は、互いに対極として
対立しているように見えながら、私にとっては、いずれもたいして違ひ
のない同類に見える。どのように互いに似ているのかと言へば、それは、
それらのいずれの人々も、様態を記述するように用ひる言語表現が
「ま(真)こと(言/事)」としてその様態に対応するように表現の忠実さ
を追求するのではなく、それとまったく別の評価軸を基準として、
他者により階層関係においてより高く評価されることを目指している
ように見えることによる。様態を忠実に記述するのに、その結果として
もたらされる言語表現が、「文学」における「詩」に分類されるような
形式または構成の「作文」となるかどうかは、無関係である。
0603名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/16(日) 12:03:29.37ID:APr/3q7n
これは、喩えだが、
「日本語の古語の表現をより深く理解したい」という要望に対して、
「だったらまずは5年間、百人一首の競技かるたの技術を身に付ける
ことに専念することを義務付ける」といった類の意味不明な
「指導」をする「教育指導者」で世の中は溢れている。
0604名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/16(日) 12:08:47.23ID:APr/3q7n
しかも、その「指導」に素直に従はない姿勢を見せると、
「不遜」であると評価されることになり、「不遜」な姿勢を
悔い改めないことにより不利な状況に追い詰められることは、
「自己責任」であるとされるのだ。
0605名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/18(火) 11:14:08.69ID:ke+JhRZ9
それが学問分野として「哲学」と呼ばれるものであるかどうかとは
無関係に、人が「哲学すること」を動機づけるのは、「生きることが
どのようにか決定的に損なはれていて、そのことにより、みづから
(身づ柄/自ら)が逃げ場のないところに既に追ひ詰められている」
という感覚だろうと私は思ふ。人がそのような感覚を抱くことは、
ごく普通のことだろう。しかし、それでも、ほとんどの人には、
哲学する動機は働かない。なぜなら、大抵の人は、その追ひ詰め
られた状況から、哲学すること以外の代替の抜け道をすぐに見出し、
それに固執するからである。その抜け道のなかでも見出すことが
最も容易なのは、自分をそのような状況に追ひ詰めることに関与
してきた特定の個人を責めることであり、現状で、その個人に
直接に責めを負わせて、自分が追ひ詰められている状況を解消する
ことが適はないなら、酒や薬などでその鬱屈した気分を紛らわせ
ようとするか、娯楽に興じて、その間だけでもその状況を忘れよう
とするか、あるいはその状況を問題として一般化して、自分に合った
解放への道を一般的な解決策として提示してくれるように
見える宗教や思想に救いを求めたり、それを心の支へにしようと
したりするからである。それでそれなりに折り合ひをつけて
生きてゆける限りにおいて、人は哲学する必要には迫られない。
0606名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/18(火) 12:01:54.41ID:ke+JhRZ9
生きることが損なはれている状況に置かれていると訴える人に対して、
それを改善するものとして提案される解決策は、一般的には、
その問題に対する「即物的な答え」と「精神的な答え」に分類される
だろう。「即物的な答え」とは、例えば、最低限の衣食住の必要性
を満たすのにも事欠き、そのことにより生き延びることが危ぶ
まれるなら、どのようにすれば、その必要性を満たすことができる
のかを提案することであり、「精神的な答え」とは、現状で衣食住の
必要性は満たされていて、現状が維持されるなら生きていることは
できるはずなのに、それでもみづからが(身づ柄/自ら)がその現状を
破綻させてしまうような振舞ひを抑えることができないなら、
どのようにすればそのような振舞ひをしなくても済むようになるのか
を提案することである。みづから(身づ柄/自ら)が置かれている困難
に対して、「即物的な答え」と「精神的な答え」のいずれかを与へ
られて、それに満足して、それなりに生きてゆくことができるように
なるなら、哲学することは必要がない。
0607名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/18(火) 12:11:16.07ID:ke+JhRZ9
現状で生きているという事実があるにもかかわらず、生きることが
決定的に損なはれていると感じられるなら、なにがどのように
生きることを損なっているのか。それを考へるには、生きるとは、
どのようなことであるのかを「ま(真)こと(言/事)」として
伝へることのできる言語表現を見出す必要があるだろう。
0608名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/18(火) 12:29:56.09ID:ke+JhRZ9
ところで、裁判にかけられて弁明の機会を与へられながらも、
死刑宣告をそのまま受け入れ、みづから(身づ柄/自ら)が毒杯を
仰ぐことを避けようとしなかったソークラテースがその振舞ひ
によって人々に示したのは、「即物的な答え」でも、
「精神的な答え」でもない。ソークラテースが単に、
みづから(身づ柄/自ら)の死後も、きよ(清)らとなった自分の
魂が死後の世界で生きつづけると信じてそのように振る舞った
というのであれば、それは、日本語のカタカナ語として一般に
「スピリチュアリズム」と呼ばれるような「精神主義(的信仰)」
の表れ/実践ではあっても、哲学ではないだろう。
0609名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/18(火) 14:48:00.13ID:ke+JhRZ9
>>596
「つくゑ(机)」の場合と同様に、「『生き物』である」とはどのような
ことかを言語で表現してみようとするこころみは、特に難しいものである
とは感じられない。ただ、「つくゑ(机)」の場合と比べれば、その手順が
複合的になること、また学問としての「生物学」の研究により積み重ねら
れてきた知見に基づく記述こそが重要であると考へる人々にとっては、
私の記述は、無意味であるとされることが予見されることだけが、難点と
云へば難点である。具体的には、それは、「『生き物』である」とは
どのようなことかを記述すると言ひながら、現代の「生物学」の知見
によれば、「『生き物』である」ことの基礎とされる「進化」や、
「遺伝物質」や、「タンパク質」などに言及することすらしないなら、
そのような記述は何も言っていないものとされるだろう、ということだ。

しかし、「進化論」が論じられるようになるはるかに以前から、
何かが「『生き物』である」ことは「ま(真)こと(言/事)」として
成立していたし、たとえ将来、「『生き物』である」ことについて
記述する基礎が「遺伝物質」や「タンパク質」でなくなったとしても
(このように述べると、たちまち、「では、それが間違っていると
主張するのか」と反射的に反応するような人々が大勢いるが、
それは無関係である)、何かが「『生き物』である」ことは
「ま(真)こと(言/事)」として成立し得るだろうと私は思ふ。
0610名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/18(火) 15:16:57.60ID:ke+JhRZ9
「生きる」ことを、その様態において体現する「もの」が「生き物」である。
ここまでは、誰にも異論はないだろう。では、「生きる」とは、
どのようなことなのか。

ところで、プラトンの対話篇の『クラテュロス』においてソークラテースは、
>彼 [ハーイデース] は人が肉体を持っている間は、人と交わろうとせず、
ただ、魂が肉体に根ざすあらゆる悪や欲望から離れて清らかになった
ときにだけ、交際する[...]<
と語っており、このような考へ方は、既に述べたとおり、現代の日本語の
一般的な表現によれば、「スピリチュアリズム」または「精神主義」と
呼ばれることになるだろう。私は未だに『クラテュロス』の対訳を入手
していないので、自分で確認できていないが、ソークラテースの言葉で
「魂」と訳されている古代ギリシア語は、「プシュケー」/"Ψυχή"
だろうか
>プシュケー(希: Ψυχή、ラテン文字表記:Psyche)とは、古代ギリシアの
言葉で、もともとは息(いき、呼吸)を意味しており、転じて生きること
(いのち、生命)、また心や魂を意味するようになった言葉である。<
>ソクラテスは(あるいはプラトンが自著で描くソクラテスは)、
プシュケーを知と徳の座だとした。< よく生きる >ことを
《プシュケーの気遣い》として説いた。プシュケーの世話をせよ、
と説いたのである。 <
(出典 ja.wikipedia.org/wiki/プシュケー)。
0611名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/18(火) 15:38:58.33ID:ke+JhRZ9
ここで面白いのは、死後の魂の在り方にういてソークラテースの語る
考へ方を「スピリチュアリズム」または「精神主義」と呼んだとして、
その場合でも、「精神」は、一般に、古代ギリシア語の"Ψυχή"、
フランス語の《esprit》、または英語の"spirit"に対応するものと
されており、いずれにしても、語源的には、日本語にするなら
「いき(息)をする」様態を表すものと考へられていることだ。
>mid-13c., "animating or vital principle in man and animals,"
from Anglo-French spirit, Old French espirit "spirit, soul"
(12c., Modern French esprit) and directly from Latin spiritus
"a breathing (respiration, and of the wind), breath; breath of a god,"
hence "inspiration; breath of life," hence "life;<
(出典 etymonline.com/search?q=spirit)

日本語でも、語源的には、「い(生)きる」ことは、「いき(息)する」こと
と同根であるとされており、これは、云はば、「教養」として半ば
「常識」的なこととされており、「い(生)きる」とは、「いき(息)する」
であると言い換へてみたところで、特に何かこれまでの「常識」とは
違ふことを指摘していることにはならない。そこで、さらに探求の
こころみをつづけようとするなら、問はれなければならないのは、
「『いき(生/息)る』とは、どのようなことか」である。
0612名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/18(火) 15:55:47.56ID:ke+JhRZ9
手続きとして、あまり常識的な話の進め方をしても退屈なので、
適当に「放言」を挿入しておこう。

>「魂への配慮」の効果として暫定的にもたらされるのが、
コンツェルンとしての身体である。
0613暫且垢版2023/04/18(火) 17:41:36.00ID:ke+JhRZ9
万葉集 第15巻 3601番
之麻思久母 比等利安里宇流 毛能尓安礼也 之麻能牟漏能木 波奈礼弖安流良武
しましくもひとりありうるものにあれや島のむろの木離れてあるらむ
(出典 万葉集ナビ)
0614自己引用垢版2023/04/18(火) 17:59:11.67ID:ke+JhRZ9
>262考える名無しさん2019/01/16(水) 22:03:34.710
アリストテレスの論じた"ψυχή"は、魂、霊魂、命、心などとさまざまに
訳されているが、日本語においては、魂/霊魂、命、心はそれぞれ異なるもの
として捉えられており、そのいずれとも合致しない。

日本語で考えた場合に"ψυχή"に最も近い表現は、その表現の形式から考えて
も、以前に指摘したとおり「いぶき(息吹)」だろうと思う。

https://en.wiktionary.org/wiki/ψυχή#Ancient_Greek
Etymology
From ψῡ́χω (psū́khō, “I blow”) +‎ -η (-ē),
but never had the meaning "breath", even in Homer.<

ここで引用したWiktionaryの語源説では、"Ψυχή"については、専ら
「息を吹く」こととして説明されており、「息をする」という解釈は、
明示的に否定されている。
0615名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/18(火) 18:35:08.38ID:ke+JhRZ9
さて、「『いき(生/息)る』とは、どのようなことか」
日本語では、「春の息吹」という表現は、「いのち」の働きを感じさせるが、
「息を吹く」ことに対応する古代ギリシア語の"ψῡ́χω"が「息をしている」
または「生きている」ことを必ずしも示唆するわけではないように、
「(通り道を)風が吹く」ような様態は、それが「風」によるものであれ、
「霊」によるものであれ、力が働くことは意味しても、その「風」や
「霊」が「生きている」ことは意味しない。このことは、それが
「(通り道を)空気が吸い込まれる」ような様態であっても、あるいは
「吐く息」と「吸ふ息」に対応するように「(通り道を)空気が出入りする」
様態であったとしても、同じことだろう。通り道を空気が動くだけでは、
「いき(生/息)る」ことにはならないのである。

では、どのようであれば、「息吹」としても感じられるような様態が、
「いき(生/息)る」ことになるのか。ここで役に立つことになるのが、
「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」として私が勝手に
再解釈した"conatus"という捉へ方だろうと私は考へる。
そのように再解釈した"conatus"は、フランス語版のWikipedia
の説明において《substance》という語を、やはり私が勝手に
《subsistance》で置き換へた次の表現にも対応する。

>La nature naturante correspond à l'activité de subsistance
qui est « cause de soi », et la nature naturée correspond à ce
qui découle de la nécessité de cette subsistance. <
0617名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/18(火) 20:00:00.92ID:ke+JhRZ9
「いき(生/息)る」ことは、「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」
であり、その「と(獲/得)りく(汲/組)み」を体現する「もの」が「生き物」
である。

「生き物」は、それが体現する「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)り
く(汲/組)み」の表である、《en s'y prennant》/「と(獲/得)り
く(汲/組)むこと」の臨時性(「時宜に適ふようにくみ(与)する性質」)
において、いつでも「いきいき」しているが、その裏である、
既に身体として体現されて「ゐ(居)」る《entreprise》/「と(獲/得)り
く(汲/組)み」の暫定性(「しま(暫/島)しく在る性質」)において、
つねにすでに遺骸となる定めにある。
0618名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/18(火) 20:06:47.49ID:ke+JhRZ9
何度でも繰り返すが、「こころみ」を理念や信念と取り違へてはならない。
他人がこのような「こころみ」をどう評価するにせよ、私個人にとっては、
この「と(獲/得)りく(汲/組)み」により、それまでは特に意識することも
なかった「しま(暫/島)しくも」という古語の表現の用法が、より身近に
感じられるようになるという成果があった。
0619名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/19(水) 10:29:04.13ID:+JR05Re6
フランス語の« cause de soi »は、ラテン語の"Causa sui"の訳である。
私は、神学には関心がないので、神について語ることと関連して、
"Causa sui"についてどのような議論が展開されてきたのか
まったく知らないが、ありとあらゆる出来事が神により引き
起こされると考へるならば、神の存在そのものも神により
生じる他ないことになるのだから、「神は、"Causa sui"で
あるのか」という問ひが浮かぶことになることは理解できる。
ただし、この問ひが解くことの難しい問題となるのは、
作用が働くためには、その作用を働かせる「主体」が
「理念的な存在者」としてあらかじめ存在するはずだ
とする前提を置く「思考のくせ(癖/曲)」によるものだろう。
そして、統治イデオロギーとして利用されながら存続
してきた制度宗教の「神学」は、そのような「思考の
くせ(癖/曲)」に特徴づけられ、かつその「くせ(癖/曲)」を
なほ(直)そうとすることなく、「わざと」維持してきたの
だろうと私は思ふ。
0620名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/19(水) 11:14:14.20ID:+JR05Re6
日本語の表現の用法に反映された「かみ(神)」の捉へ方は、
そのような「思考のくせ(癖/曲)」に特徴づけられた制度宗教の
「神学」と比べて、「効能の顕現としての効験があらたかである
こと」(例えば、「み(身)ど(獲/得)」が現実にあらはれること)
こそを大切にするプラグマティズムを素直に伝へているのであって、
そのことにより、制度宗教の「神学」より考へが浅いわけでも、
理念化が稚拙なわけでもない。実際、「かみ(神)の効験」を
プラグマティズム的に捉へるなら、"Causa sui"は、「効能」/
»das Bewirken«が「たす(助)け」/»Mitwirkung«として効力を
発揮するか否かにより「かみ(神)」の働きが顕現したり、
しなかったりするだけである。また、「かみ(神)」の働きが
顕現したとしても、それは「しま(暫/島)し」「よ(善/良/佳/寄)き」
「あり(有)がた(難)い」こととして言祝がれるのであって、
その働きが永続的なものであることなどは(統治者を称賛する
美辞麗句以外としては)前提とされていない。
0621言葉遣いにおける残響とは垢版2023/04/19(水) 11:31:29.66ID:+JR05Re6
ところで、「しま(暫/島)し」と表記すると、そんな言葉遊びが何の
役に立つのかといったような反感を露わにする人がよくいる。
そこで、「『しま(島)』は、『し(閉)ま・る』から『しま(島)』
なのですよ」と説明したとすれば、馬鹿にされたと思ってさらに
腹を立てるだろう。無論、「しま(暫)し」は、現代の日本語では、
「しば(暫)し」に対応し、「しま(島)」とは無関係の表現として
使はれている。しかし、だからといって、「しま(暫)し」を
「しば(暫)し」に変換して理解して、「しま(暫/島)し」を、
「かけことば(掛詞)」による言葉遊びであると見做すなら、
それは認識が逆立ちしているだろうと私は思ふ。そして、
私たちの言語表現の理解は、しばしば、というより、大抵の場合、
そのような認識の逆立ちによって歪められている。
0623名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/19(水) 14:18:11.20ID:+JR05Re6
「しま(暫/島)し」を例にとって、私たちの言語表現の認識がどのように
逆立ちしているのかを説明しよう。

現代の日本語には、「しば(暫)し」という表現があり、古語の
「しま(暫)し」は、明らかにこれに対応している。その一方で、
「島(しま)」は、古語においても既に名詞化された用法が一般化
しているので、「しま(島)し」という表現は存在しない。
ではやはり、「しま(暫/島)し」などと表記するのは捏造では
ないかと言はれそうだが、そうではない。私は、ただ単に
「しま・し」の「しま」が語源的にどのような表現であるのか
に気づかせて、それを意識させるために、敢へてそのように
表記しただけのことである。
0624名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/19(水) 14:37:05.64ID:+JR05Re6
岩波古語辞典で「しま(暫)し」の項目を参照すると、
>《シマリ(締)・シミ(凍)と同根。緊密で、すき間のないこと。
転じて、時間のつまっている状態》少しの時間。<
と記載されている。

私の見解では、「しま(暫)し」の「しま(暫)」が「シマリ(締)」の
「しま(締)」と同根であるというのは、そのとおりであるが、
「シミ(凍)と同根」という説明は不適切であり、それ以外の
メタ言語的な記述もあまり妥当ではない。

他方、「しま(島)」を参照すると、
>@水に囲まれた陸地 [...]▽朝鮮語siem(島)と同根。
[...]B限られた地域。特定の地帯。<
と記載される。「しま(島)」が「水に囲まれた陸地」を指すように
用ひられることは普通であり、また、それが「限られた地域」、
「特定の地帯」を意味するように用ひられるという説明も妥当である。
しかし、朝鮮語の表現と同根というのは、岩波古語辞典の極めて
多くの項目で見られる独特の特徴的な記載であり、そのように
考えるべき理由も根拠も不明であり、「しま(島)」を表現として
理解することを妨げるものでしかない。
0625名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/19(水) 14:56:16.30ID:+JR05Re6
英語やラテン語系の諸言語に少しでも慣れ親しんでいれば、「しま(島)」
がどのような表現であるのかにすぐに気づくことができるだろう。
それは、「しま(島)」が水に囲まれていようといまいと、「限られた地域」
を指すように用ひられることから明白なとおり、「しま(暫)し」の
「しま(暫)」と同様に、「シマリ(締)」の「しま(締)」と語源を同じくして、
単純に英語で言い換へるなら、"enclosure"である。さらに、ここで、
「お・『しま(終)』ひ」という表現が、英語の"conclusion"に対応し、
"to conclude"の"-clude"は、語源的に
> claudere "to shut" (see close (v.))
(出典 etymonline.com/word/conclude)
に対応することを想起してみてもいいだろう。したがって、
「しま(暫/島)」が表現しているのは、「(時空間的に)限定された領域
としての様態」であるとメタ言語的に記述することができ、「『時間的に
限定された領域としての様態/"temporal enclosure"』を生じる」ことを
意図する用法が、「しま(暫)し」であり、「『空間的に限定された領域
としての様態』の体現」を意図する用法が、「しま(島)」であるという
ことになる。
0626名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/19(水) 15:13:27.30ID:+JR05Re6
ここで興味深いのは、日本語で「時間的に限定された領域としての様態」
を表現する「しま(暫)」がその「『しま(閉)り』としての限定」を意識
される表現になっているのに対して、これにちょうど対応する英語の
表現は、逆の視点から同様の様態を伝へることになっていることだ。

そのように「しま(暫)」に対応する英語の表現とは、
"window of opportunity"という言い方でよく用いられる"window"
(「窓」)である。この場合、"window"は、「時間限定で開いているが、
時間が経てばまた閉じてしまう様態」を伝へるために用ひられる。

では、ここで、応用として、「取りつく『しま』もない」という
慣用句となった日本語の表現を考えてみるといい。この「しま」
は、一般に「島」と表記されるようだが、それが表現しているのは、
「時間的な限定」だろうか、それとも「空間的な限定」だろうか、
あるいは、時間的とも空間的とも特定することのできない
「時空間的な限定」だろうか。"window of"をキーワードの
検索をしてみると、"window of hope"という題名の歌がある
らしいことが分かるが、「取りつく『しま』もない」という表現
は、"do not even give a window of hope"とでも訳すことが
できるのではないか。
0627名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/19(水) 15:31:38.62ID:+JR05Re6
話がちょっと脇に逸れて、書こうと思っていた要点を書き忘れていた。

「しま(暫)」と「しま(島)」の表現上の関係について考へるとき、
これらがまず別々の表現として存在して、「しま(暫)し」と「しま(島)」
が並べて用ひられて初めて、掛詞により「しま(暫/島)し」が言葉遊び
として意識されると考へるのは、認識が逆立ちしている。
そうではなく、まず「しま」と発音されるときには、まだ、それが
「しま(暫)」を意図するのか、「しま(島)」を意図するのか不確定
なのだ。明白に時間的な限定を表現するように「しま(暫)し」が
用ひられて初めて、その発音の意図が示されて、それが「しま(島)」
を表現しているわけではないことが明確になり、同様に、明白に
空間的な限定を表現するように「しま(島)」が用ひられて初めて、
それが「しま(暫)」を表現しているわけではないことが明確になる
が、それと同時に、「しま(暫)し」の「しま(暫)」には、「しま(島)」
が、「しま(島)」には、「しま(暫)し」の「しま(暫)」が、云はば、
残響としてついて回ることになり、その残響を意図的に意識させる
ように言ひ回しを工夫することが「掛詞」となっているのである。
0630薬物としての道徳垢版2023/04/20(木) 07:18:37.67ID:makDXvyk
>「いき(生/息)る」ことは、「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」
であり、その「と(獲/得)りく(汲/組)み」を体現する「もの」が「生き物」
である。 <

仮にこれが「ま(真)こと(言/事)」であると認められるとして、
「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」を阻害する仕組みの
働きがあることに「ひと」が気づいたとき、「ひと」は、どのような
場合にその仕組みの働きを促進しようとするのか。
0631a time window of 48 minutes垢版2023/04/20(木) 07:46:59.91ID:makDXvyk
万葉集 第5巻 904番
>神のまにまにと 立ちあざり 我れ祈ひ祷めど しましくも 吉けくはなしに
やくやくに かたちつくほり 朝な朝な 言ふことやみ たまきはる 命絶えぬれ

万葉集 第2巻 119番
>芳野河 逝瀬之早見 須臾毛 不通事無 有巨勢<濃>香問
>吉野川行く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも
(出典 万葉集ナビ)
0633名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/21(金) 15:10:06.41ID:an6mtPfF
水田では、「み(身)ど(獲/得)り」において水稲が一人勝ちできる
環境を保つことが望まれ、そのために育成する水稲は、その薬物に
対して耐性が備わっているが、他の植物は生育できないようにする
除草剤が用ひられるという(「水田の危機」というキーワードで
検索すると、これについて詳細を説明したサイトがヒットする)。

つまり、その除草剤は、水稲を育成するのと同じ水田で勝手に成長する
可能性のある他の植物に対しては「毒薬」として作用して、その
ことにより、水田を水稲の育成に有利な環境にするという意味で、
水稲の成長のためには「良薬」として作用していることになる。
ところが、そのような除草剤を使いつづけていると、水稲と同じく
その薬物に対して耐性を備えた他の植物が生えてくるようになるという。
その場合、その除草剤は、水稲の育成を助けることを意図して
使はれるものの、耐性のない植物が育たないようにすることで、
耐性を備えた他の植物の育成も、意図せずに副次的に助けていること
になる。このことは、道徳の働きを「薬物」に喩えて捉へたとき、
とても示唆的であるように私には思える。
0634名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/21(金) 15:34:42.99ID:an6mtPfF
>>625
「神学」がいかにそのことを議論としては否定したとしても、
一神教として制度化された宗教(「異教」を「多神教」と見做す
教義によって支えられる宗教)の言説は、「神」を、現に存在し、
また存在し得るもののすべてを「シマ」とする「総もとじ(元締)め」
のような存在者としてイメージさせている。

ところが、一神教が「現世利益」を追い求めるものとして
否定的に評価する「神(かみ)だの(頼)み」という信仰においては、
「神(かみ)」を「いは(祝)ふ」とは、すなはち、「効験が限定的に
顕現する時空間」を「しま」として「いは(斎)ふ」ことである
という、「存在者としての神」/「神の存在」をあらかじめ前提と
するのとは逆方向のプラグマティズムが働いている。
0635名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/21(金) 15:38:55.65ID:an6mtPfF
>かみ(神)をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)がしま(島)なれば
ねが(願)ひもみ(満/三)つのやま(山)ならん
(能「俊寛」)<
0636名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/22(土) 09:30:09.00ID:GQhzyJkB
哲学をするとは、「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」 において、
「それ」がどのような「意味」/»Be・deutung«をもつのかを、その都度、
こた(応)へをみづから(身づ柄/自ら)がたし(確)かめることができるように
こと(言/事)と(問)ふこころ(心)み(観)/試みである。
0638名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/22(土) 09:48:53.13ID:GQhzyJkB
>あなたを四字熟語で表すと!
で診断してもらったら、「複雑怪奇」という答えが出てきたが、
私が「複雑怪奇」なのではない。
世の中がわざとものごとを複雑怪奇にもつれさせるように
つねに導いているから、わざわざそのもつれを解こうとこころみる
ような私のように超単純志向の者の方が「複雑怪奇」に見えることになるのである。
0639名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/22(土) 11:13:19.70ID:GQhzyJkB
「超単純志向」も、表現としては妥当ではない。というのも、私のように
「超単純」であることは、それを「こころざ(志)し」てそうなるといふ
ものではないからである。

例えば、私は、日本語の「しま(暫/島)」と英語の"window"を対応させたが、
なぜそのようにかむか(考)へるのかと云へば、そのことにより、
これらの別々の表現をまとめて容易に扱ふことができるようになり、
こころの動きの省力化がもたらされるからである。それは、
とりもなおさず、これらの表現の用法を逐一、暗記する必要性が
小さくなり、応用が効くようになることでもある。

「しま(暫/島)」と"window"を対応させることは、これらの表現を
汎用性の観点から比べてみることでもある。「しま(暫/島)」が
「時空間的に限定されて『し(閉)ま』る様態」を表現するとすれば、
"window"は、「時空間的に限定されて『開いた』様態」を表現する
ことを指摘したが、「しま(暫/島)」と"window"のどちらの方が
汎用性の高い表現であると言へるだろうか。この問ひの「意味」
/»Be・deutung«が分かるだろうか。
0640名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/22(土) 11:29:59.83ID:GQhzyJkB
"window"が「時空間的に限定されて『開いた』様態」を表現する
とすれば、そのことは、さもなければ、「閉まっている様態」/
「閉ざされている様態」が「常態」として前提とされている
ことになるだろう。

では、同様に、「しま(暫/島)」が「時空間的に限定されて
『し(閉)ま』る様態」を表現するとすれば、そのことは、
さもなければ、「あ(開)いた様態」が「常態」として前提と
されていることになるのだろうか。そうではないだろう。
「『し(閉)ま』りがない」ことが表すのは、むしろ、
「無限定であること」である、というより、「あ(開)き」
そのものが、「なにも前提がない」ことを伝へるのである。

したがって、"window"は、まずは「閉まっている様態」/
「閉ざされている様態」が「常態」としてあることを前提
に置いた表現であることにより、「しま(暫/島)」よりも
限定性の高い捉へ方を伝へていることになるだろう。
0641Aletheia垢版2023/04/22(土) 11:49:49.87ID:GQhzyJkB
「閉まっている様態」が常態としてまずあり、そこに「あ(開)く」ことが
時空間的に限定されて生じるのか、それとも、
前提とされるような常態は何もなく、無限定であるからこそ、
「しま(暫/島)」が時空間的に限定されて生じるのか。
これは、どちらでもよいように思へて、実は、「決定論」や
「運命論」などの議論にもかかはるとても重要な問ひである。

>beschliessen
❶ ((英)decide) ((et4))(…4を)決定する,決意〈決心〉する;決議する
❷ ((et4))(…4を)終える,締めくくる
◆in et3 beschlossen sein 〈liegen〉\((雅)) …3に含まれている.
(出典 プログレッシブ 独和辞典)
0642名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/23(日) 08:51:14.97ID:+zHYgmBN
誠実な思想と不誠実な思想があるのではない。
思想は、理念化に理念を先立たせることにおいて、つねに不誠実なのだ。
逆に言へば、理念に理念化を優先するなら、思想は、思想としての地位を失い、
哲学とならざるを得ない。
0643名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/23(日) 09:24:55.53ID:+zHYgmBN
>「いき(生/息)る」ことは、「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」
であり、その「と(獲/得)りく(汲/組)み」を体現する「もの」が「生き物」
である。 <

これを「ま(真)こと(言/事)」であるとして、「われ(我)」と「わ(我)がみ(身)」
について考へた場合、その関係性は、その根本において、
「この『み(身)』は、『わ(我)がもの』である」/"This body is my own"
として記述されるようなものではないことが分かる。したがって、
「『わ(我)がみ(身)』は、『わ(我)のもの』である」/
"My body belongs to me"という主張は、一見、自明に「ただ(正)しい」
ように思えながら、関係性の倒錯した捉へ方に依存している。
0644名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/23(日) 09:47:17.34ID:+zHYgmBN
「われ(我)」と「わ(我)がみ(身)」の関係性は、より適切には、
英語に言い換へて表現するなら、次のように記述することができる
のではないかと私は思ふ。
>What "be・longs to" me is my own, and what embodies
my own is my body.
つまり、「われ(我)」に「くみ(与)する」ように「よ(寄)りそ(添)ふ」
ことが、「われ(我)のもの」としてあることであり、そのように
ある様態を体現する「もの」が「わ(我)がみ(身」である。

このような表現をすると、ただちに「思想」方面からの批判が飛んで
来ることは目に見えている。というのも、「思想」そのものが、
このような捉へ方を積極的に統治に利用するからである。その
利用法の典型が、>>585に引用した表現にうまく捉へられている。
>„Drohungen und überspannte Ansprüche auf der einen Seite
zeitigen Zurückweisungen auf der anderen.
Der Grundsatz: wer nicht für mich ist, ist wider mich,
zieht eine grelle Grenze zwischen Byzantinern und Majestätsbeleidigern.“<
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_IV)
0645名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/23(日) 10:52:34.74ID:+zHYgmBN
「思想」は、人々をうまく誘導しようとする限りにおいて、耳障りのよい、
心地よさを感じさせる表現と忌避や嫌悪を呼び覚ますような表現を
巧みに組み合はせて用ひる言説の技法として成立している。だからこそ、
「思想」は、哲学の言説が、そのような対比をその根本において解消
してしまい、「思想」が折角苦心を重ねながら駆使している技法を
無効化してしまうことを嫌ふのである。

例えば、「思想」は、「共感」/"sympathy"、「思ひやり」/"compassion"、
「心遣ひ」/"care"、「容認」/"tolerance"、「共生的」/"symbiotic"といった
類の心地よさを感じさせる表現を、積極的に評価されるべきものとして用ひ、
逆に「反感」/"antipathy"、「敵意」/"animosity"、「荒々しさ」/"brutality"、
「排除」/"exclusion"、「寄生的」/"parasitic"といった類の忌避や嫌悪を
感じさせる表現を、否定的に評価されるべきものとして用ひることが
一般的によく見られるだろう。しかし、これらの対比される表現を、
「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」の観点から捉へ直して
みたらどうなるだろうか。すると、植物の生態を記述するのに用ひられている
表現をそのまま応用するなら、これらはすべて「アレロパシー」/"allelopathy"
の様態として見ることができるのではないか。さらに、対比される表現を
「アレロパシー」/"allelopathy"の様態として見て、それらの対比関係を
哲学的に考察したなら、それらは実は、同じ「アレロパシー」/"allelopathy"
の働きを別の側面から見て記述しているだけではないのか。
0646名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/23(日) 11:03:14.71ID:+zHYgmBN
ここで留意してもらいたいのは、私はなにも、上に列挙したような対比が、
哲学的に考えるなら、無に帰されるべきであるというような、云はば、
「ニヒリズムの徹底」を主張をしているのではない。そうではなく、
一般に「思想」において、積極的に評価されるべきものとして用ひ
られる表現と、否定的に評価されるべきものとして用ひられる表現の
「対比」が、その根本において「何によ(依/寄)るのか」に意識を
向けるように促しているのである。
0647名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/23(日) 11:46:12.68ID:+zHYgmBN
さらに考察を進めてみよう。
>What "be・longs to" me is my own, and what embodies
my own is my body.<
>「われ(我)」に「くみ(与)する」ように「よ(寄)りそ(添)ふ」
ことが、「われ(我)のもの」としてあることであり、そのように
ある様態を体現する「もの」が「わ(我)がみ(身」である。<

これを「ま(真)こと(言/事)」であるとした場合でも、
"What I produce is my own"
「わ(我)がみ(身)が生み出すものはわ(我)がものである」
という主張は、必ずしも「ま(真)こと(言/事)」とはならないことに
すぐに気づくはずである。例えば、「糞尿」などの「排泄物」は、
確かに「わ(我)がみ(身)が生み出すもの」である。しかし、
「排泄物」は、「われ(我)」に「くみ(与)する」ように
「よ(寄)りそ(添)ふ」ものとして「わ(我)がみ(身」を成す
どころか、「わ(我)がみ(身」から排除されたものであるので、
もはや「われ(我)のもの」ではない。だが、面白いことに、
「われ(我)」が「わ(我)がみ(身」としてそこに「ゐ(居)た」/
"having been"という事実を明白に示すのも、まずなによりも
「わ(我)がみ(身)が生み出すもの」である「排泄物」であり、
実際、多くの動物は、自身の「排泄物」を、自身がそこに
「ゐ(居)た」ことの「しるし(標)」として積極的に利用する。
とすると、自身の「排泄物」は、「共感」/"sympathy"を
働かせるように作用するものだろうか、それとも「反感」/
"antipathy"を働かせるように作用するものだろうか。
0648名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/23(日) 11:53:07.14ID:+zHYgmBN
ところで、「生き物」が「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」
を体現する「もの」であるとするなら、「わ(我)がみ(身」そのものが
「我(われ)」にとって「排泄物」として失はれる、つまり、「遺体」と
なることは、「反感」/"antipathy"を働かせるように作用することの
極みであると言ふことができるのではないか。
0649名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/23(日) 12:00:47.28ID:+zHYgmBN
「魂(たましひ)の浄化」というのは、欺瞞としてではあれ、
「思想」として成立し得るが、
「たま(魂)のを(緒)の浄化」というのは、
「思想」としてでも、原理的に成立し得ない。というのも、
言説の上だけでそれを成立させることができたとしても、
それを成立させることによってただちに、
それが「幻想」に過ぎないことが意識されるからだ。
0650名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/24(月) 09:14:19.52ID:PM89DZJP
>>639-641
「しま(暫/島)」と"window"がどのような関係にあるのかは、現代の
日本語で「しばら(暫)く・ま(間)をあ(開)けて」という表現を考へて
みると分かりやすい。これは簡略化して「しばら(暫)くして(から)」と
言い換へることもできるが、「しばら(暫)くする」と
「ま(間)をあ(開)ける」が同義ではないことは、
「しばら(暫)く・ま(間)をあ(開)けて」が特に冗長であるとは感じ
られないことや、「いつまでも・ま(間)をあ(開)けて」のように
「ま(間)をあ(開)けて」を「しばら(暫)く」とは異なる意味の
表現と組み合わせることもできることからも明らかだろう。
さらに、そこで、「しま(暫/島)」と"window"の関係を考へたとき、
この「ま(間)をあ(開)けて」という様態を体現する「もの」として
捉へられたのが"a window"であることに気づくはずである。
さらに、ひとたび、「ま(間)をあ(開)けて」という様態が
"a window"として体現されて捉へられれば、翻って今度は、
「しばら(暫)く」の方も、"a window frame/framework"、
つまり、「窓枠」として体現されて捉へられることになり、
"a window"から見るなら、「しま(暫/島)」は、キアスム的な
反転の関係において"a framework"に見えることになる。そして、
実際、万葉集で使はれる古語の表現においても、「しましく」は、
「ま(間)をあ(開)けた時間枠」に相当するように用ひられている
ことを確かめることができる。ただし、ここで、「もの」として
体現された捉へ方を優先してしまうと、"a window"と
"a framework"は、互いに別々の「もの」として横並びの関係
のあるかのような錯覚に陥り、「しま(暫/島)」と"window"に
ついても、互いにまったく無関係であるように見えてしまうこと
になり、ましてや、「『しま(暫/島)』と"window"のどちらの表現
の方が、より一般性の高い捉へ方を示しているか(言い換へるなら、
限定のない"a window"はあり得るのか)」という問ひも、意味不明
なものとなってしまうだろう。
0651名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 09:26:37.64ID:Nad0dnBg
>>605-608
>人が「哲学すること」を動機づけるのは、「生きることが
どのようにか決定的に損なはれていて、そのことにより、みづから
(身づ柄/自ら)が逃げ場のないところに既に追ひ詰められている」
という感覚だろうと私は思ふ。<

哲学することについて、私はこのように指摘した。「生きる」とは
どのようなことであるのかを検討した今となっては、
「『生きる』ことが何によりどのように損なはれているのか」について、
それなりに妥当な言語表現を与へることが可能だろうと私は思ふ。
しかし、それは、次のような、一見したところ、明らかな矛盾のために
無意味であるように思へる言語表現となるだろう。

>「生きる」ことは、「生きてゐる」ことによって「生きる」ことを
「決定的に」阻害するように損なはれている。
0652名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 09:36:59.86ID:Nad0dnBg
>「生きる」ことは、「生きてゐる」ことによって「生きる」ことを
「決定的に」阻害するように損なはれている。

このような表現は、普通は、明らかな矛盾のために意味を成してい
ないように思はれるだろう。しかし、『ソークラテースの弁明』
においてソークラテース自身が身をもって人々に示した応へも、
これに近いものだろうと私には思はれる。その応へを私が勝手に
言い換へるなら、次のようになるだろう。

>「生きてゐる」ことが「生きる」ことを阻害するなら、
「生きてゐる」ことは「生きる」に「あた(価/能)ひ」しない。

そして、このように言い換へるとき、私の念頭にあるのは、当然、
「生きる」とは、どのようなことであるのかについて、私自身が
導き出した、次の表現である。

>「いき(生/息)る」ことは、「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」
であり、その「と(獲/得)りく(汲/組)み」を体現する「もの」が「生き物」
である。 <
0653名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 10:10:57.93ID:Nad0dnBg
「『生きてゐる』ことによって『生きる』ことが損なはれる」というのは、
矛盾した奇妙な表現であるように感じられるだろう。しかし、そのように
感じられるのは、「生きる」ことが「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)り
く(汲/組)み」であり、「生きてゐる」ことは、必然的に既に身体として
体現されて「ある」ことを忘れ、「『生き物』は、『生きてゐる』か
『もう生きてゐない』かのいずれかである」という二分法的な捉へ方を
しているからではないかと思う。だが、「生きる」ことを
「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」として見るなら、
「生き物」としての人はほぼ毎日、他の「生き物」を「生体」として
であれ、「遺体」としてであれ、食べて、消化吸収し、その死骸を、
自分の身体の細胞の死骸、つまり、「自分を身体として形成
していた『もう生きてゐない』自身の遺体」とともに排泄している。
0654名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 10:25:10.71ID:Nad0dnBg
私は特に植物の栽培に詳しいわけでも、特別に趣味としているわけでもないが、
観賞用の植物を育てていておもしろいことに気づいた。もともとの生育環境
が乾燥地帯で強い日光にも水不足にも耐え、なおかつ冬場は家の中に取り込ん
でおきさえすれば、比較的寒さにも強く、長期間、ほとんど日当たりがなく
ても枯れない、要するに、生存状態を保つのに手間のかからない植物を選び、
育てているというより、置いている。ところで、この植物は、不定期に葉を
落とすことがよくある。季節的に葉が枯れたり、紅葉して葉を落とす植物種
は日本に生育する植物で見慣れた光景であるが、それとは様子が大分異なる。
この植物も、秋になって寒くなると、全体的に葉を落とすようになるのも
確かなのだが、普段、見慣れた植物のようにすべて葉を落とすわけではない。
また、日差しが戻り、暖かくなってきたのに葉を落とすこともよくある。
0655名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 10:40:58.99ID:Nad0dnBg
日常的に見慣れた植物が季節的に枯れたり、葉を落としたりする様子は、
環境の変化に受動的に対応しているように見える。ところが、
このように不定期に葉を落としたり、奇妙に葉を少しだけ残したりする
植物の様子を見ていて気付かされるのは、植物が環境の変化に「受動的に」
対応しているように見えるのも、人の「見立て」に過ぎないということだ。
植物が環境の変化に対応していることは確かだが、それは環境の変化
によって引き起こされるという自動的なものではなく、その「対応」
には、「生き物」として体現されている植物の側の「判断」が働いて
おり、環境の変化に対応する植物の側の変化は、植物の側で「判断」
を働かせている「対応策」の表れであると見ることができるだろう。
0656名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 11:01:09.95ID:Nad0dnBg
すると、寒くなり、日射が少なくなって葉を落とすことは、
「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」において、その植物に
とって、多くの葉を広げていることが、その「と(獲/得)りく(汲/組)み」
が無益であり、それをつづけることにより、「み(身)ど(獲/得)り」が
損なはれることになるという「判断」による「対応策」なのだろう
と思ふ。言い換へるなら、そのような環境においては、その植物に
とって、既に広げられて現状で「生きてゐる」葉も、「生きる」に
「あた(価/能)ひ」しないものとなるのだろう。その「対応策」が
もたらすのは、「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」を
切り詰めることであり、場合によっては、ほぼその「と(獲/得)り
く(汲/組)み」を休止させることであるが、それにより、再び
「と(獲/得)りく(汲/組)み」が「み(身)ど(獲/得)り」をもたらす
ようになるような環境の変化を窺ひながら待って、「生きる」
ことの可能性を残して、いのちをつなごうとしているのだろう。
0657名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 11:28:42.16ID:Nad0dnBg
私には、規律によって厳しく管理された宗教的な生活に入ることを
求める人々は、生活(conditions required for survival/living)につかまり、
そのことにより「生きる」ことが根底から損なはれるのを回避したい、
そのような状況を離脱したいという強い欲求に動機づけられているように見える。
0658名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 11:43:40.10ID:Nad0dnBg
Heinrich Mannの"Mutter Marie"は、私には、小説としては成功しているとは
思えないが、それでも随所に興味深い記述や表現が見られる。

>»Ich mußte leben«, sagte der Professor, »denn die Prinzessin mußte leben.
Da habe ich unverantwortliche Dinge getan. Vielmehr,
unverantwortlich wären meine verfilmten Geschichtsfälschungen nur,
wenn nicht die ganze zeitgenössische Gesellschaft sie verantwortete.
Den herrschenden Interessen sind sie nützlich, daher meine Erfolge.
Wer sollte Erfolge heute noch bezahlen außer den herrschenden Interessen,
und sie bezahlen nur geleistete Dienste. Das ist nicht rühmlich für mich,
gegen den Strom schwimmen verlangt mehr Kraft.
Auch die Universität beruft mich im Grunde für meine Filme,
es ist nicht rühmlich. Aber, lieber Freund, jedes Glück hat sein Gesicht.
Man muß es zu empfangen wissen.«<
(出典 projekt-gutenberg.org/mannh/mutterma/chap007.html)
0659枝葉末節にこだわる垢版2023/04/25(火) 13:22:27.73ID:Nad0dnBg
>>651-658
さて、ここで、"corporation"として形成される"enterprise"、《entreprise》、
»Unternehmen«は、どのようにして、またはなぜ階層的に組織化されるのか
について考へてみるとよい。

私がこれまでに対面で相手にしてきたのは、その種の問ひを私が
発すると、単に「それはそのように決まっている」とか、そういう
ことは、「専門家がきちんと説明してくれているはずなのだから、
専門家に任せておけばいいのだ」といったような態度をとる人々ばかり
だった。しかし、哲学をするには、そういう枝葉末節にこだわる
必要がある。無論、そのような枝葉末節にいつもこだわるからこそ、
哲学をすることは嫌われるわけだが。
0660名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 16:38:16.44ID:Nad0dnBg
いくつかの問ひを並べてみよう。

・従ふべきとされる定め/決まりごとのない階層的な組織化は成立し得るか。
・階層的な組織化を成立させるのに定め/決まりごとが必要であるとすれば、
それらの定め/決まりごとは何に基づくのか。
・そのような定め/決まりごとは、それがどのようなことであれ、なにかが
どのようにか、少なくとも「暫定的に『ま(真)こと(言/事)』であると認め
られること」に依る必要があるのではないか。
・それでも、組織的な活動を含め、現実に活動することは、つねに「偶発的に
生じる事態」/"contingencies"に直面し、「臨機応変に」/"improvisation"
により対応する必要性に迫られるのではないか。
・しかし、そのように「臨機応変に」/"improvisation"により対応すること
は、「偶発的に生じる事態」/"contingencies"が、その性質上、必然的に、
「『暫定的』/"provisional"に『ま(真)こと(言/事)』であると認められること」
には依らない以上、そのような「ま(真)こと(言/事)」を基礎とする
定め/決まりごとに従ふことに違反することにならざるを得ないのではないか。
・そのような違反を容認すれば、定め/決まりごとは形骸化し、組織化が
定め/決まりごとに従ふことによるのなら、組織の存続は難しくなるだろう。
その一方で、定め/決まりごとを守らせるために「偶発的に生じる事態」/
"contingencies"に対応できなくなれば、組織的な活動も不可能になるだろう。
したがって、階層的な組織化を成立させて、存続させるためには、
「『暫定的』/"provisional"に『ま(真)こと(言/事)』であると認められる
こと」を、必要に応じて改定することを常に迫られており、なおかつ、
その改定は、現実の活動に対して、空虚であるか、または常に遅れを
とらざるを得ないのではないか。
・さらに、階層的な組織化は、その現実への対応の必要性と定め/
決まりごとの間の「ギャップ」を常に既に認識しており、むしろ、
その「ギャップ」がもたらす効果を、階層的な組織化の「原理」として
うまく組み込んで、利用しているのではないか。
0661名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 16:44:20.23ID:Nad0dnBg
世の中には、このように問ひを並べられるだけで、なぜか激怒する人々が
少なからずいる。私は、私の問ひが無効ならば、それを別の、有効である
と考へられる形の問ひに変形すればいいだけではないのかと思ふのだが、
そのような人々は、「問題群」を提示するという行為そのものを、
というより、「問題群」という表現そのものに対してさえ拒絶を示すのである。
0662名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 16:51:44.73ID:Nad0dnBg
そのような人々が、いくら「自由」、「平等」、「正義」、「寛容」、
「理解」、「他者の尊重」、「反省」といった類の美辞麗句を並べた
ところで、それをまともに相手にすることに意義があるとは私には
思えない。
0663名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 17:02:41.28ID:Nad0dnBg
そして、その拒絶の理由というのが、どうやら、そのような問ひを発する
私という「個人の性格が大きく歪んでいる」ということらしい。
0664名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/25(火) 23:58:30.72ID:Nad0dnBg
>>583 ein freudiges Ereignis
>「あらたかな効験」は「出来事」によってしろしめされるが、
「出来事」/»Ereignis«とは、「み(身)ど(獲/得)り」の「臨時性」の顕現であり、
その「臨時性」の裏が、その「出来事」/»Ereignis«を「いは(祝/斎)ふ」べき
時空間として「しめ(標)ゆ(結)は」れる「しま(島)」の、つまり、"semiosis"
としてた(絶)えず生成しつづける「確率空間」の「暫定性」である。 <

「いき(生/息)る」ことそのものが、「み(身)ど(獲/得)りのと(獲/得)りく(汲/組)み」
であるならば、その「と(獲/得)りく(汲/組)み」自体が、その都度の「探索」であり、
「あらたかな効験」が生じるかどうかを「たし(確)かめ」るように「ため(験)し」
てみる「こころ(心)み(観)/試み」、すなはち、経験(「ため(験)し」を
「ふ(経)る」こと)の積み重ねである。
0665名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/26(水) 09:27:14.81ID:qyCgg2d5
「確率空間」/"probability space"とは、「かひ(効験)」または
「わざは(禍)ひ」がどの程度、あら(顕)はになるのかをたし(確)かめるために
「ため(験)し」/"probe"をこころ(心)み(観)/試みることが「できる」/
"able"ように「『しま(暫/島)』しく『しめ(標)ゆ(結)は』」れて、
「いは(祝/斎)はれ」た「暫定的な」/"provisional"に設定された時空間だろう。
0666名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/26(水) 09:59:09.69ID:qyCgg2d5
「確率空間」/"probability space"のような専門用語は、それをつか(使/仕)ふ
数学者その他の「当該の分野」の専門家によって適切に明確に定義されている
「はず」であり、このように日常言語でそれを言い換へて記述してみようとする
こころ(心)み(観)/試みは、一般に、意味がないだけでなく、無用な混乱を
招いて有害であるとすらされる。

しかし、であるとするなら、数量的なデータに基づく専門家の見解を
尊重すべきものとして人々が受け入れるとき、そのことは、
人々が、みづから(身づ柄/自ら)に影響を及ぼす「かひ(効験)」または
「わざは(禍)ひ」が生じる可能性について考慮するとき、その可能性
を推し量る枠組みとして、必然的に、身近な日常言語による妥当な
記述よりも、専門家により与えられている「はず」の確率空間の定義に
優先権を自動的に与へることに同意してしまっていることになるだろう。

ところで、事象がどのようであるのかについて適切に捉へるのに、
それをどのような言語表現で伝へるなら、それが「ま(真)こと(言/事)」
となるのかをたし(確)かめようとする記述よりも、専門家によって
明確に与えられている「はず」の定義に優先権を与へることは、
人々の階層的な組織化を維持するのに重要な役割を果たしている
だろう。
0667名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/26(水) 10:06:08.74ID:qyCgg2d5
記述のこころみに定義を絶対的に優先させなければならない。
定義なしに記述をこころみてはならないという頑なな姿勢は、
私には狂気/凶器を感じさせる。
0668名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/26(水) 17:38:41.09ID:qyCgg2d5
プラトンの対話篇、『クラテュロス』の古代ギリシア語/ドイツ語の対訳を
入手した。少し目を通してみると、この著作の主題である、日本語では
普通、「名」と訳される古代ギリシア語の"ὄνομα"が、ドイツ語訳では、
»Wort«と訳されていることにすぐに気づく(訳注においても、そのように
訳した理由が説明されている)。実際、"ὄνομα"が日本語の「名」に対応
することは間違いないが、この著書を「名」について論じたものである
と理解すると、議論がとても分かりにくくなる。むしろ、"ὄνομα"は、
ドイツ語の»Wort«という訳語の選択にも反映されるとおり、より広く、
「(何がどのようであるのかを)しろしめす言葉」と理解した方が、
この著書において何がどのように問題にされているのかについて、
はるかに見通しがよくなる。
0669名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/26(水) 18:05:30.96ID:qyCgg2d5
私は、学問としての「哲学」にはかかわりがないので、古代ギリシア語を
学んだことも、学習してみようと思ったこともない。しかし、偶然の
成り行きから、ギリシア文字とその発音には多少の大雑把な慣れがある。
たったそれだけのことが、対訳に目を通すのには、大いに役に立つ
(例えば、古代ギリシア語の原文では、関連する派生表現が用いられて
いるのに、ドイツ語訳では、まったく別表現になっている場合にも
すぐに気づく)。別に役に立つと言っても、何ら通常の意味での
「実益」がもたらされるわけではないが、読書が金のかからない
(私の年間図書購入費は、多いときでも1万円台である)「気晴らし」
になるという意味では、現実の利益が生じていると言ふことができる。

これは、大学の図書館などに簡単にアクセスすることのできない
私のような個人にも、古代ギリシア語で印刷された書籍が容易に安価
に入手できるようになったという、それまでは予見されなかった
大きな環境の変化により実現されていることだが、自分が生きて
ゆくのに、何がどのような効果をもたらすことになるのかを
あらかじめ予見できる人間など誰一人いないのである。
0670名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/26(水) 23:12:32.74ID:qyCgg2d5
>>668
ここで思ひ至す必要があるのは、「"ὄνομα"/『名』そのものが
"ὄνομα"/『名』である」ということだ。
では、"ὄνομα"/「名」は、何の"ὄνομα"/「名」なのかと言へば、
それは、「しろしめす作用を具現化するようにつか(使/仕)ふ『もの』」の"ὄνομα"/「名」である。
0671名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/27(木) 00:39:11.55ID:JfQ63BjN
「言葉では何も変わらない」とよく言われるが、そのようなことを
言ふ人も、言葉によって何かが変わると信じているからこそ、
そのような言葉を発するのである。では、何が変わると信じて
いるのかと言へば、それは、「何かを変へる意図を伝へる言葉が
それを変える効果を発揮しないことに気づくように相手の意識
が変はる」と信じているのである。

基本的に、言葉を発することは、その言葉がま(真)こと(言/事)で
あると認められるなら、また、さらには、ま(真)こと(言/事)であると
認められないまでも、ま(真)こと(言/事)である可能性があると
認められるなら、その言葉を受け取る側が何をどのように意識する
かについて、「気づいていることを変へる働きをする」のである。
0672名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/27(木) 00:47:15.95ID:JfQ63BjN
誰でも他人から「背中に何かついてますよ」と言はれれば、
その言葉の真偽のほどが確かでなくても、自分の背中が気になるだろう。
また、食事中に同じテーブルについている人から、食べている料理に
「ゴキブリが入ってますよ」と言はれれば、自分で確かめてみて、
そのような事実が確認できなかったとしても、器に入っている
料理そのものには、その言葉に起因する変化は何も生じていない
にもかかわらず、「食事がまずくなる」だろう。
言葉とは、気づいていることを変へる働きをするように
使はれるものなのである。
0673名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/27(木) 01:12:44.84ID:JfQ63BjN
人であれ、他の動物であれ、さらには植物であれ、気づいたことに応じて
振る舞ふ。みづからに有利に働くことに気づけば、その働きが累加する
ように振る舞ひ、逆に不利に働くことに気づけば、その働きが減衰する
ように振る舞ひ、また、有利に働くか、不利に働くか不確かであれば、
その働きの様子を窺うように振る舞ふ。

したがって、自分自身を含む人々にとって、何かが有利に働くことに
自分が気づいたなら、その働きに気づかせるだけで、他の人々も、
その働きが累加するように振る舞ふ自分に倣うように振る舞ふ
はずであり(自分がその有利さを独占するためにそれを望まない
場合でも)、逆に、何かが不利に働くことに自分が気づいたなら、
やはりその働きに気づかせるだけで、他の人々も、その働きが
減衰するように振る舞ふ自分に倣うように振る舞ふはずである
(自分だけが、その不利を逃れようとしている場合でも)。

このことを考えてみただけでも、いずれの方向に向かふように
人々に説いているにせよ、「べき」論に基づく思想の言説が、
いかに「いかがはしい」のかについて、誰でも気づくはずである。
0674sustainable ecology垢版2023/04/27(木) 09:51:31.43ID:JfQ63BjN
状況に応じた生き物の「振舞ひ」/"be・haviour"/»Be・nehmen«の
適切さや妥当性は、どのようにもたらされ得るのか。
0675言葉のヨシ(葦)/アシ(葦)垢版2023/04/27(木) 10:34:17.86ID:JfQ63BjN
哲学することによって紡がれる言葉も、何かにどのようにか気づかせる。
何にどのように気づかせるのか。それを、ソークラテースに倣って
言おうとするなら、人々に、"ὄνομα"/「名」をただ(正)しく
つか(使/仕)ふことの大切さについて気づかせる、ということになるだろう。
そこで問はれるのは、「"ὄνομα"/『名』を『ただ(正)しく』つか(使/仕)ふ」
とは、どのようなことかである。ここで、
"ὄνομα"/「名」そのものが、「しろしめす作用を具現化するように
つか(使/仕)ふ「もの」の"ὄνομα"/『名』である」とするなら、
「"ὄνομα"/『名』を『ただ(正)しく』つか(使/仕)ふ」とは、
「"ὄνομα"/『名』を、『ただ(正)しく』、しろしめす作用を具現化する
ようにつか(使/仕)ふ」ということになるだろう。

さて、ここで具体例により考へてみよう。
「ヨシ(葦)」が「アシ(葦)」の言い換へであることは知られているが、
「ヨシ(葦)」という言葉をつか(使/仕)ふことは、"ὄνομα"/『名』を
「正しく」つか(使/仕)ふことだろうか、それとも「正しくない」
つか(使/仕)ひ方をすることだろうか。このような問ひにどのように
応へるかにより、思想の言説と哲学の言説の典型的な違ひが顕は
になるだろうと私は思ふ。
0676名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/27(木) 10:55:50.23ID:JfQ63BjN
何かの働きに気づくことは、それが有利に作用することに気づくことに
よってであれ、それが不利に働くことに気づくことによってであれ、
人々がそれに応じるように振る舞ひ、またその振舞ひに便乗するよう
に振る舞ふことにより、雪だるま式に作用する効果を生じ、
「ま(真)こと(言/事)」は、その雪だるまに巻き込まれて見失はれる。
哲学は、他の人々の振舞ひに便乗しているつもりになっている人々
(それが大多数の人々である場合も多々あるだろう)が「雪だるま」
に「乗せられているだけ」であることに自分自身で気づくように、
そのように便乗しようとする人々の振舞ひに「わざと見え見えに」
便乗するのである。
0679You're getting on my nerve!垢版2023/04/27(木) 19:53:00.93ID:JfQ63BjN
Ça me soule !

>このような問ひにどのように応へるかにより、思想の言説と
哲学の言説の典型的な違ひが顕はになるだろうと私は思ふ<
と私は述べた。哲学する者が発する言葉は、思想の言説しか理解できない
人々にとっては、通常、「アナーキズムの思想」を表明しているように
見えることになる。だが、思想の側からは、哲学する者の言葉が
そのように「見える」ことは、実は、思想と呼ばれ得るようなものは、
その根本において暴力崇拝に依拠していることの裏返しに過ぎない。
つまり、思想は、暴力崇拝を無効化してしまう哲学の言葉に、
自らが暴力崇拝に依拠していることが映し出されていることを観て、
それが「アナーキズムの思想」に見えてしまうのである。
0680名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/27(木) 20:10:11.39ID:JfQ63BjN
自分でも常日頃から気づいていて、気にしていることを、他人に
わざわざ言葉にしてはっきりと表現されて、確認を求められれば、
だれでも不快に感じるだろう。

ところで、思想の言論が展開されるような社会では、人々は
階層的に組織化されて生活を成立させている。階層化された
組織において活動するということは、上からの人事権の行使に
逆らうことができず、その組織におて活動する限り、上からの
指示には否応なしに従はざるを得ないということだ。
そのことは、思想が、組織化がどのように改変されるべきで
あると唱えているとしても変わることなく、思想の言説は、
その恒常性を反映することになるだけでなく、それについて
言語化することを忌避するのである。そして、その忌避に
ついて明示的に他人から確認を求められれば、そのような
求めそのものを不快なこと、言語化すべきでないこととして、
確認を拒絶するだろう。そこに思想と哲学の分かれ目がある。
0681名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/27(木) 20:37:35.37ID:JfQ63BjN
哲学することが、人々に、"ὄνομα"/「名」をただ(正)しく
つか(使/仕)ふことの大切さについて気づかせるとき、
その気づきにより結論としてもたらされるのは、「人に嘘を
言ってはならない」、「他人を侮辱するようなことを言って
はならない」といった類の、一般的な意味での道徳や倫理
などではない。むしろ、「人に嘘を言おうとするなら、
そのために用ひる言葉は、人に事実を誤認させるように
表現がうまく適合されるべきである」、「他人を侮辱しよう
とするなら、そのために用ひる言葉は、相手に自分が
酷く蔑まれたと感じさせるように表現がうまく適合される
べきである」ということだ。無論、だからといって、
哲学は、他人に嘘を言ふべきだとか、他人を侮辱すべきだ
などということを人々に教へるわけではない。思想しか
考へられない人々は、哲学としてはまったく異なる問題
をすべて勝手に混同してしまい、その混同に基づいて、
哲学の紡ぐ言葉に対して憤慨するのである。
0682名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/27(木) 20:53:16.65ID:JfQ63BjN
>「ヨシ(葦)」が「アシ(葦)」の言い換へであることは知られているが、
「ヨシ(葦)」という言葉をつか(使/仕)ふことは、"ὄνομα"/『名』を
「正しく」つか(使/仕)ふことだろうか、それとも「正しくない」
つか(使/仕)ひ方をすることだろうか。<

哲学をすることからは、「ヨシ(葦)」と「アシ(葦)」のどちらを
つか(使/仕)ふ方が正しいとか、いずれかをつか(使/仕)ふ方が
良いなどという結論は、一切出てこない。一方、思想の言論の
場合、これと同類の問題について、いずれの立場をとるにせよ、
「べき論」で議論を展開することが普通である。それは、
「アシ(葦)」という表現をつか(使/仕)ふことが当事者を不快に
するなら、そのような表現を避けて、「ヨシ(葦)」と言い換へる
「べき」だ、といった類の議論である(誘導の方向はどちらでも
よく、マッチポンプであってもよい)。
0683名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/28(金) 09:39:24.38ID:1jUB+g33
以前にも掲示板の別のどこかで指摘したが、東西南北というとき、
ひがし(東)、にし(西)、みなみ(南)、きた(北)は、空間的な方角として
扱われることが一般的だが、表現として見れば、「ひがし(東)」と
「にし(西)」は方角であるのに対して、「みなみ(南)」と「きた(北)」は、
方面である。
0684名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/28(金) 11:41:30.30ID:1jUB+g33
哲学は、思想の言説が、気づかないふりをして/気づかれないように
避けて通ろうとすることを、あ(敢)へて明示的に言葉として表現して、
人々に伝はるようにしようとする。
0685名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/28(金) 13:18:38.44ID:1jUB+g33
思想の言説がその効果(かひ)としてもたらす(顕現させる)のは、
人事権の実力行使の恣意性の尊重(つまり、暴力崇拝)である。
これに対して、哲学がその言語表現により明示しようとするのは、
あくまでも、人事権の実力行使の恣意性までであって、
その尊重(すなはち、暴力崇拝)でもなければ、
それを無視した方が良い(すなはち、「アナーキズムの思想」)
といったようなことでもない。
0686名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/28(金) 13:26:07.53ID:1jUB+g33
15考える名無しさん2021/05/23(日) 16:56:50.040
« En résumé, je vois trois partis…, non ! trois groupes, — et dont
aucun ne m’intéresse : ceux qui ont, ceux qui n’ont plus et ceux
qui tâchent d’avoir. Mais tous s’accordent dans l’idolâtrie
imbécile de l’Autorité ! […]»

Gustave Flaubert, "L'Education Sentimentale", p.282
0687名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/28(金) 14:04:04.69ID:1jUB+g33
『クラテュロス』の古代ギリシア語/ドイツ語の対訳に目を通していると、
日本語との対応関係がすぐに想起されて面白い。今、手元に
『クラテュロス』の日本語訳がないので、どのように訳されていたのか
憶えていないのだが、例えば、"σῶμα"(「からだ(体)」)という言葉に
ついてソークラテースが言及する説では、次のように述べられている。
>Anderersits wieder heiße der Leib deshalb zu Recht
»Zeichen« (sema), weil durch ihm die Seele zum Ausdruck
bringt (semainei), was sie kundtun wolle.<
(出典 Platon, "Kratylos", p.67, Reclam)

この説によれば、日本語の置き換へて考へれば、"σῶμα"(「からだ(体)」)は、
"ψυχή"(「たましひ(魂)」)にとって「よ(依)り・しろ(代/城/白)/や・しろ(社)」
であることになるだろう。また、日本語においても、「墓(はか)」が、
そのような「たましひ(魂)」の「よ(依)り・しろ(代/城/白)/や・しろ(社)」
とされていることも、ソークラテースが言及する別の説と対応していて興味深い。

万葉集 第18巻 4096番歌
大伴<乃> 等保追可牟於夜能 於久都奇波 之流久之米多弖 比等能之流倍久
大伴の遠つ神祖の奥城はしるく標立て人の知るべく
おほともの とほつかむおやの おくつきは しるくしめたて ひとのしるべく
(出典 万葉集ナビ)
0688時限性を離れることはできるのか垢版2023/04/28(金) 14:15:14.18ID:1jUB+g33
ところで、思想について考えるなら、それがどのようなものであれ、
まずは、"temporal"という表現と、"temporal"という捉へ方が
思想において(いずれの思想であってもよい)どのような役割を
果たしてきたのかについて、まずは考へてみた方がよいだろうと私は思ふ。
0689名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/28(金) 14:24:17.52ID:1jUB+g33
うつし(現)よ(世)において屈従を強ひられていることによる苦悩は、
このよ(世)("the present period")に生きてゐることに限定され得る、
つまり、時限的/"temporal"であり得るというなぐさ(慰)め。
0690名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/28(金) 14:30:25.59ID:1jUB+g33
《un revenant》としての「われ(我)」により夢想される「永劫回帰」と
「をふ(乎布)のさき(崎)」

万葉集 第18巻 4037番
乎敷乃佐吉 許藝多母等保里 比祢毛須尓 美等母安久倍伎 宇良尓安良奈久尓
[一云 伎美我等波須母]
乎布の崎漕ぎた廻りひねもすに見とも飽くべき浦にあらなくに
[一云 君が問はすも]
(出典 万葉集ナビ)
0691名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/28(金) 16:44:58.29ID:1jUB+g33
>>517-518
私は、『クラテュロス』でソークラテースが語る、死後の世界にハーイデースが
人々の魂をつなぎ留める束縛としての「欲望」に、日本語として「たま(玉/魂)の
を(緒)」という表現を対応させたが、古代ギリシア語の原文で、この「欲望」
を表現するのに用ひられている言葉は、"επιθυμία"である。私が目を通した
日本語訳では、魂の"επιθυμία"に対しても、肉体の"επιθυμία"に対しても、
同じ「欲望」という語が当てられているが、興味深いことに、ドイツ語の
対訳では、前者は»Verlangen«、後者は»Begierde«として訳し分けられている。
この訳し分けは、ドイツ語の表現の慣用法が要求するものなのだろうが、
明らかに意図的に同じ言葉で表現されているものを、別々の表現に変換して
しまうことには大きな問題がある。

ところで、"επιθυμία"で検索してみると、
>Conatus είναι η επιθυμία που πυροδοτεί κάθε ενέργεια και
κάθε ενέργεια, με τη σειρά της, αποτελεί πειστήριο ζωής.<
(出典 frenchphilosophy.gr/wp-content/uploads/2014/01/Conatus-1.pdf)
という文がヒットする。残念ながら、私には、ギリシア語は読めないが、
Google翻訳に訳してもらうと、次のような訳文が戻される。
>Conatus is the desire that triggers all action, and
each action, in turn, is a conviction of life.<
この"conatus"と"επιθυμία"の関係性の捉へ方も、私にはとても重要であるように感じられる。
0692名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/29(土) 08:46:02.83ID:BWgsTt9x
"Chauser's Canterbury Tales"の現代英語との対訳本に目を通していると、
"compassing"という表現が出てくる。この表現には、現代英語として
"accomplishment"という訳が当てられている。"com・passing"が
"accomplishment"と解釈されるような意味の表現として使はれた
こと自体は、このスレで既に再三、検討してきた"co(n)-"の表現上の
用法に鑑みて、なんら不思議はないが、このことは、「時限性」/
"temporality"について考へるのにも、とても示唆的である。
0693名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/29(土) 09:20:23.63ID:BWgsTt9x
どのように示唆的なのかと言へば、それは、"com・passing"が
"accomplishment"と解釈されることにより、「時限性」/"temporality"
と負っている「任務」/"mission"との関係が立ち現れて見えてくることである。

万葉集に詠まれる「をふ(乎布/終ふ)のさき(崎/先)/うら(浦)」は、
「任務遂行をを(終)へたさき(先)/うら(心)」/
"beyond the mission accomplished"を夢想するものである
と考へることができるが、そのようにして「任務」/"mission"を
「を(終)ふ」ことが「時限性」/"temporality"として仮想される
ことで、「をふ(乎布/終ふ)のさき(崎/先)/うら(浦)」を、
「『時限性』/"temporality"を離れる『潜在性』/"potentiality"」
として夢見ることが可能となる。しかし、それと同時に、
そのように「時限性」/"temporality"を離れて「ある」ことが、
生きてゐる限り、重くのしかかる「任務」/"mission"を負って
という自覚のうら(裏/こころ)としての夢想に過ぎないことにも
気づいている。

万葉集 第19巻 4187番
思ふどち ますらをのこの 木の暗の 繁き思ひを 見明らめ
心遣らむと 布勢の海に 小舟つら並め
ま櫂掛け い漕ぎ廻れば 乎布の浦に 霞たなびき
(出典 万葉集ナビ)
0694をふ(乎布/終ふ)のうら(浦)のうら(裏)としての俗世垢版2023/04/29(土) 10:33:17.51ID:BWgsTt9x
このように「をふ(乎布/終ふ)のさき(崎/先)/うら(浦)」を、
「『時限性』/"temporality"を離れる『潜在性』/"potentiality"」
として捉へるなら、『クラテュロス』におけるソークラテースの
語る、人の死についての冗談めかした言ひ回しが、どのような
レトリックであるのかも、容易に理解できるようになるだろう。

>wären sie aber noch von der Leidenschaft des Körpers
umhergetrieben, könnte sie nicht einmal Vater Kronos
mit seinem sagenhaften Fesseln bei sich zurückhalten.
(出典 Platon, "Kratylos", p.79, Reclam)
0695名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/29(土) 12:11:43.23ID:BWgsTt9x
このスレにおける私の"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》についての
検討は、プラトンの『クラテュロス』とは何の関係もなく行はれた
ものである。それでも、『クラテュロス』を読んでみると、そこで
提示される解釈が妥当であるか否かという問題は完全に別にして、
ソークラテースが、「アポローン」/Ἀπόλλωνという神の名の
解釈において、"Ἀ"の表現上の役割について、同様の注目の仕方
をしていることに気づかされる。実際、"Ἀ"を、表現上、"Ἀπόλλων"
と同様に用ひている表現の例として"ἀκόλουθον"という語が
挙げられており、これは、ドイツ語の対訳では、»Begleiter«
として、つまり、"Ἀ"に»be-«が対応する形で訳されている。
0696名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/29(土) 12:19:56.41ID:BWgsTt9x
このことは、たとえ、表現の個別の解釈が妥当でない可能性がある場合でも
やはり、時代も言語の枠組みも超えて、表現を互いに関連付けて捉へる際に
同様の連想が働き得ることを示しているだろう。つまり、ソークラテース
の連想が妥当でないとしても、同様の連想が私にもすぐに思ひ浮かぶと
すれば、それは、ソークラテースが言葉により伝へようとしていることを
私が理解するのに大いに役立つということである。
0697名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/29(土) 12:27:20.96ID:BWgsTt9x
「正しい定義」以外を「誤り」として徹底的に排除すれば、
物事がよりよく分かるようになるというものではない。
0699名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/29(土) 17:10:04.52ID:BWgsTt9x
>表現の例として"ἀκόλουθον"という語が挙げられており、これは、
ドイツ語の対訳では、»Begleiter«として、つまり、"Ἀ"に»be-«が
対応する形で訳されている。<

こうして例を示されても、古代ギリシア語の"ἀκόλουθον"にも、
ドイツ語の»Begleiter«にも「ともに」馴染みがなければ、何を
伝へようとしているのかピンとこないだろう。私自身、この
いずれの言語も教はったことがない。このような場合に役に立つ
のは、自分が知っている表現を例にして考へてみることだ。
例えば、米国の「フィラデルフィア」という都市名を聞いたこと
がある人は少なくないだろう。また、この"Philadelphia"という
都市名が「兄弟愛」を意味する表現に由来するという話を聞いた
ことがある人もそれなりにいるはずであり、"philosophy"に
感心があるなら、"philo-"が「(知を)愛する」と解釈することも
知っているはずなので、"-adelphia"が「兄弟」に対応するはずだ
ということもすぐに推測できる。
0700名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/29(土) 17:22:03.46ID:BWgsTt9x
そこで、この"adelphia"について英語の語源辞典で語源を説明を参照
してみると、次のように記載される。

>from Greek adelphos "brother," literally "from the same womb,
co-uterine," from copulative prefix a- "together with" (see a- (3))
+ delphys "womb" <
(出典 etymonline.com/word/Adelphi?ref=etymonline_crossreference)

この語源説明からすぐに、古代ギリシア語の"adelphos"は、この表現を
日本語で考へるなら、「はらから」に対応することに気づくが、
「はらから」は、漢字では、「同胞」と表記され、明らかに「胞」
の方が、「delphys/"womb"」に対応し、「同」の方が、
「a- "together with"」に対応することを容易に見てとることができる。
したがって、古代ギリシア語の"adelphos"は、「(出生した)はらを
ともにする者」ことを意図した表現であると解釈することができる
ことになり、古代ギリシア語の"a-"は、日本語で考えるなら、
「ともにする」ことを意図して用ひられているという推測が成立する。
0701名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/29(土) 17:34:01.96ID:BWgsTt9x
私は、古代ギリシア語については、ギリシア文字とその大雑把な発音の
仕方しか知らず、ドイツ語についても教育を一切受けたことがないので、
ドイツ語を読むことに慣れているわけではない。それでも、
古代ギリシア語/ドイツ語の対訳に目を通して、日本語訳を読んだとき
には特に気を留めなかったことにいろいろ気づくことになるのは、
常に自然とこのような推論を働かせているからである。ただし、
そのことにより、ただ眺めるように目を通しているだけでも、
かなりの認知エネルギーを消費させられることも確かだ。
そのため、読むのに時間が足りないという感覚よりも、時間が
あっても、認知エネルギー不足を感じることの方が多い。
0703「をく」ことのHerausforderung/provocation垢版2023/04/30(日) 08:22:53.05ID:JNwH+Fnb
>>286
>L'expression employée doit se rendre adéquate/être fidèle à
ce qu'elle/on veut dire.<

これは、プラトンの『クラテュロス』とは無関係に、真理条件意味論や
円周率の近似値の連分数計算からの連想で書き込んだ私自身の仏作文
だが、『クラテュロス』を読んでみると、そこでソークラテースが
正しい名を使ふことの大切さを説くことにより言おうとしている
ことを、これ以上に簡明に適正に伝へる言葉を、今のところ、私は
知らない。

このような言い方をすると、不遜だと思はれるだろうが、人事上、
他人に自分のことを肯定的に評価してもらおうとする必要性が
ないことの最大の利点は、他人の気に障るであろうことを
気兼ねなく言ふことができることである。そのことは、
気遣いがないこと/気を回さないことを意味しているわけ
ではなく、その評価が自らの人事に影響を及ぼし得る人々に
気に入ってもらうこと/そのような人々の気に障らないよう
にすることに無駄な注意を向ける必要なしに、伝へようと
することに最適な表現を見出そうとすることにだけ、
最大限の気を配ることを意味している。まったく別々の
ことに同時に最大限の注意を向けることなど不可能である
(それに伴う不注意が生存を危うくするなら、一般に「愚か」
であるとされるが)。

ところで、このような言葉を読んでみれば、「をく」こと、
言い換へるなら、"Why not?"と呼びかけることが、「挑発」/
»Herausforderung«/"provocation"として作用することにより、
「誘ひかけ」として働くこともよく分かるようになるのでは
ないか(それが分からない人は、感性が麻痺している)と私は思ふ。
0704名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/30(日) 09:54:42.91ID:JNwH+Fnb
残念ながら、物事は、それについて自分よりはるかによく知っている
はずの専門家に任せておけば安心で確実だということには決してならない。
それについては、自分とは比べものにならないほど、「できる」はず
の人が、素人の自分でも簡単に気づくような明白な過ちを犯している
のに気づくことも、決して稀ではない。それは、例えば、海外で
自動車を運転しているとき、後ろから来る救急車のボンネットに
"AMBULANCE"と書かれているのを自分の目でバックミラーで
確認して、それに対応させるなら、日本の救急車であれば、
そのボンネットに「救急」と書けばよいと思ひ込んでしまう
ような誤りである。実際には、自分の目で確認した"AMBULANCE"
という文字は、先行する車両のバックミラーで正しく読めるように
鏡文字で書かれていたのであり、それに日本語で対応させるなら、
やはり「救急」の鏡文字でなければならないことは、指摘された
なら、誰でもすぐに気づくはずである。ところが、このような
「錯覚」による誤りは、素人であるか、専門家であるかにかかわらず、
かなり頻繁に生じるものであり、しかも、救急車の場合の例ように
限定され得るものではないので、専門家の誤りは、気づかれにくく、
固定されて、そのまま広く通用してしまうことになり、さらに
悪くすると、その誤りが規範化されることにすらなりかねないのである。
0705名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/30(日) 10:31:24.20ID:JNwH+Fnb
最近、ドイツ語から翻訳された本を読んでいて、「いどむように」と
訳されている箇所が目に留まった。この表現は、私には、文脈から見て
不適合に感じられたので、»herausfordernd«に類するような表現の
誤訳なのだろうと考え、この場合には、勝手にそれを「挑発するように」
と読みかへて先に進んだ。ここで少し注意を向ければ、「いどむ」/
「挑発する」が反転関係にあることに気づくことは容易だろう。

私とは比べものにならないほどドイツ語が「できる」専門家でも、
ドイツ語の初歩しか知らない私に気づくような簡単な過ちを犯して
しまうことは、やはり避けられない。そのような例をいちいち
あげつらっていれば、自分では何もできないくせに、「揚げ足取り」
ばかりして悦に入っている嫌な奴だということになる。その一方で、
注意を向けさえすれば、誰でも気づくはずの過ちを敢えて指摘する
者が誰もいなければ、何がどのように分かりにくくなっているのか
に気づかないまま、「よく分からないもの」として放置されることになる。
さらに悪いことには、その「よく分からないもの」となった、
本来は、別に何ら分かりにくいものではなかったはずもものが、
規範に組み込まれてそのまま「よく分からないもの」として流通する
ことになる。その代表例が、和歌の場合であれば、「たま(玉)のお(緒)」
となった、「たま(玉/魂)のを(緒)」だろう。
0706名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/30(日) 11:05:44.01ID:JNwH+Fnb
ところで、上に引用したソークラテースの言葉、
>wären sie aber noch von der Leidenschaft des Körpers
umhergetrieben, könnte sie nicht einmal Vater Kronos
mit seinem sagenhaften Fesseln bei sich zurückhalten.
(出典 Platon, "Kratylos", p.79, Reclam)
は、だれがどう見ても冗談めかした言ひ回しであり、魂についての
この説明をそのまま真に受ける人は、現代であれ、古代であれ、
まずいないだろう。このような説明を、ソークラテース本人が
そのまま信じていると思ふ人もまずいないはずであり、そのように
思ひ込む人がいたとしても、その場合には、「このソークラテース
という人はなんて奇妙なことを信じているのだろう」と考へること
になるだろう。だが、その一方で、このような言葉を語るとき、
ソークラテースは不真面目であるわけではない。他人がそのまま
信じるはずもなく、自分がそれをそのまま信じてると他人が思ふ
はずもないことを、ソークラテースは、真面目に冗談として語って
いるのである。しかし、「真面目に冗談を語る」行為は、学問
として成立した「哲学」の研究からは徹底して排除されており、
それがどのような行為であるのかも見失われている。そのこと
により、(信じられているものとされる)理念はうまく整理されて、
理論として扱へるようになったかもしれないが、それと同時
に失われたのは、哲学することそのものである。
0707名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/30(日) 13:13:09.46ID:JNwH+Fnb
ここでも、いくつかの問ひを発してみることにしよう。

・哲学することが、なぜ真面目に冗談を言ふことを必要とするのか。
・冗談を言ふとは、どのような発話行為なのか。
・冗談を言ふことは、どのようなときに名を正しくつか(使/仕)って
いることになるのか。

当然のことながら、冗談を言ふ者を罰することしか考へられない
人々を相手にしているなら、このような問ひを発すること自体、
無意味である。
0709名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/30(日) 20:14:43.29ID:JNwH+Fnb
>>699-700
この古代ギリシア語の"ᾰ̔- • (ha-) "の用法は、"Copulative a"としてWikipediaに
次のように説明されている。
>The copulative a (also a copulativum, a athroistikon) is
the prefix ha- or a- expressing unity in Ancient Greek,
derived from Proto-Indo-European *sm̥-, cognate to English
same (see also Symbel).<
(出典 en.wikipedia.org/wiki/Copulative_a)

ソークラテースは、この"ᾰ̔- • (ha-)"の用法が、"ὁμός"の置換として
働いていることを指摘しているわけだが、であるとすれば、
この"ᾰ̔- • (ha-)"の用法は、ラテン語に写されて、そのまま英語にも
引き継がれているのではないかと思える。ただし、私が確認した限り
では、比較言語学の立場からは、そのような説明は行われて
いない。それは、そのように考へることが、表現としての対応関係
よりも、発音の規則的な対応関係をまず優先する比較言語論にとっては、
不都合だからではないかと私には疑はれる。
0710名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/30(日) 20:34:27.39ID:JNwH+Fnb
思ひ起こしてみるといい。私は、"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》の対応
関係についての議論を、英語の"to confess"に対応するように用ひられる
ドイツ語の»bekennen«という表現の検討から始めたが、これは
キリスト教という制度における「告白」として、ラテン語の"confiteri"
を写すように表現ではあるものの、ラテン語の"confiteri"の用法そのものが
一般的な表現として、英語の"to confess"にそのまま対応するものではなく、
むしろ、"to acknowledge"に 対応するものであり、さらに遡れば、
古代ギリシア語の"ὁμολογέω"にまで対応関係を見出すことができる
ものであった。すると、"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》、"ὁμο"の
対応関係に、今となっては、やはり古代ギリシア語の"ᾰ̔- • (ha-)"が
加はることになったわけだが、ここであらためて目を引くことになる
のが、"to acknowledge"の"ac-"である。英語の語源辞典では、
これについては、次のように記載されているが、この説明は、私には
かなり疑はしく思える。
>Middle English aknow is from Old English oncnawan "understand,
come to recognize," from on (see on (prep.)) + cnawan "recognize;"
see know).
(出典 etymonline.com/search?q=acknowledge)
0711名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/30(日) 20:53:57.98ID:JNwH+Fnb
英語の"ac・knowledge"がドイツ語の»Be・kenntnis«に形の
うえでそのまま対応していることは一目瞭然だろう。すると、
この場合の"ac-"が、表現上、»be-«に対応する役割を果たしているの
ではないかという推測が自然に導かれる。さらに、
"acknowledge"についての語源説明を、例えば、"acquire"に
ついての次の語源説明と比較してみるといい。
>from Vulgar Latin *acquaerere, corresponding to Latin
acquirere/adquirere "to get in addition to, accumulate, gain,"
from ad "to," here perhaps emphatic (see ad-), + quaerere
"to seek to obtain" (see query (v.))<
(出典 etymonline.com/search?q=acquire)

ここで私が注目するのは、"perhaps emphatic"として説明される
(この説明は妥当ではないと私は考へている)ラテン語の"ad-"、
および"ad-"を表現に用ひることによってもららされる意味上
の変化である。なぜ、「請ひ求める」ことを意味する"quaerere"を
"ad-"で修飾すると、それが「獲得する」ことを意味するように
なるのか。これは、既に、"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》、
"ὁμο-"について検討したのと同じ考へ方で解決されるはずだろう。
であるとするなら、このラテン語の"ad-"と古代ギリシア語の
"ᾰ̔- • (ha-)"の対応関係も視野に入るはずだろうと私は思ふ。
0712名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/04/30(日) 21:16:48.25ID:JNwH+Fnb
表現を写すことと、言語系統論の関係については、次のような
ことも考へてみるといい。例えば、"homo-"を用ひた英語の
表現を日本語に技術用語として写そうとするなら、「同〜」を
使ふことがまず思ひ浮かぶのは自然なことだろう。「同〜」は
漢語として中国語に由来するが、日本語は、中国語系統の
言語ではなく、日本語の漢語として造語をする際に、それが
中国語としてどのように発音されるか、また現代の中国語
として通用するか否かといったことは問題ではない。また、
「激(げき)辛(から)」といったような表現をする場合、
「激(げき)」は漢語だが、「辛(から)」はそうではない。
日本語の場合には、漢字の使用によって、「漢語」と
そうでない表現の区別がつけやすいが、口語が意思疎通の
中心となっている場合には、いずれが中国語由来の表現
で、いずれがそうでないかは、極めてあいまいになるはず
である。
0713身につく表現法垢版2023/05/01(月) 08:30:00.91ID:LYR99nae
>>711
ここで類似した分かりやすい例として、「をし(教)ふ」/「なら(習)ふ」
ことを意味するように用ひられるフランス語の《apprendre》を派生させる
ことになったラテン語の"apprehendo"について考へてみるといい。
(en.wiktionary.org/wiki/apprehendo#Latin)
>From ad- (“to, towards, at”) +‎ prehendō (“lay hold of, seize”).
その語源は、このように説明され、"prehendō"は、「つかむ」ことを
意味するものと理解することができるが、その「つかむ」ことを
"ad-"で修飾すると、「身につける」という意味に変化する。

さらに、古英語の"appenden"という動詞を参照すると、これは、
現代の英語の"append"につながるものだが、古フランス語の《apendre》
から派生したものである。《apendre》は、《a・pendre》と分けること
ができるが、《pendre》は、ラテン語の"pendere"に由来し、日本語の
カタカナ語の「ペンダント」からもすぐに分かるとおり、「ぶら下がる/
ぶら下げる」ことを意味する。ところが、これに"a-"がついた古英語の
の"appenden"は、現代の英語では、"be・long"に対応する意味となる
のである。
>appenden
to belong
c. 1385, William Langland, Piers Plowman, I:
Ac þe moneye of þis molde · þat men so faste holdeth /
Telle me to whom Madame · þat tresore appendeth. <
en.wiktionary.org/wiki/appenden#Old_English

>append (v.)
late 14c., appenden, "to belong to as a possession or right,"
from Old French apendre (13c.) "belong, be dependent (on);
attach (oneself) to <
etymonline.com/search?q=append
0715世代の生成からお世継ぎへ垢版2023/05/01(月) 09:13:11.53ID:LYR99nae
「み(身)ど(獲/得)りの論理」を「緑(みどり)の論理」に組み換へる
グリーン・ウォッシュは、言語表現のメタ言語的解釈の規範化の
レベルから既に始まっているのである。
0717名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/01(月) 09:34:36.33ID:LYR99nae
誤:「み(身)ど(獲/得)りの論理」
正:「み(身)ど(獲/取)りの論理」

私の書込みは、誤字脱字だらけだ。しかし、私は、それを事後的にしか
気にしていない。生成AIを文書校正に積極的に活用できるのではないか
といったことが話題になっているが、確かに、コピペのような定型文
を校正するのには大いに役立つだろう。だが、言葉で適切に表現しよう
とする「と(獲/取)りく(汲/組)み」は、既存の表現形式に適合するか
否かという判断基準を優先するものではない。文章作成ソフトウェア
の自動文章校正機能は昔からあるが、表現を探りながら、こころみ
として言葉を書きつけているときに、勝手に表現を訂正されること
以上に気を逸らされることも他にないだろう。ゲーテも、フランス語
でフランス人と会話しようとすると、相手は表現して伝へようとして
いることに注意を向けるのではなく、言葉の訂正ばかりをされるので、
フランス語で話す気が失せたと自伝に書いている。言葉の選択に
対して、AIが代替の表現を提示してくれることは、一見、親切で
便利なように思えるかもしれないが、それが、自分が気にかけて、
別の表現を探る検索の一環でないならば、余計なお世話に気を
散らされることになるだけだ。結局、そのように自動的に生成
された表現は、伝へようとする意図とは無関係に確率的に
選択されるものなので、機械的な選択によって意図が不明と
なった表現の世話を人の方がしてやらなければならないハメになる。
0718名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/01(月) 11:04:18.48ID:LYR99nae
なにがどのようであるかを伝へる以前に「声を上げる」だけで、
そのことが再帰的な効果として「声の出所」に注意をひきつける
意図を伝へることになる。これは、人の言語に限定される
ことではないが、人が発する言葉の意味を解釈しようとする場合
にも、この最も基礎的なことを忘れてはならないだろう。
0719名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 00:00:15.62ID:H9PjnH74
>>709-711
ラテン語由来のこの"ad-"について探ってみると、ここには、言語の
一般的な研究が共通して抱えている致命的とも云へる、根本的で
重大な問題が潜んでいることに気づかされる。それは、既に指摘した
ことであるが、表現要素の組合せを、「意味の足し算」のように
捉へて解釈してしまうことだ。これは、言語表現を解釈しようと
するのに、それをまずは、「文法」と「語彙」に分けて理解しよう
とすることにも反映されている。この捉へ方により、単語として
用ひられるようになった表現の場合も、それを表現要素として
分解するなら、それぞれの要素が「文法的な機能」を担っている
か、さもなければ「『語彙』として意味を表現している」ものと
理解され、「『語彙』として意味を表現している」ものとされる
要素は、「足し算的」に扱はれることになる。しかし、表現は、
それが「気の配り方」をどのようにか変調するように特徴づけ
る行為である以上、「掛け算的」に扱はれものと考へる方が自然
であり、要素を「足し算的」に扱ふとするなら、それらによって
表現される意味には、「指数関数の指数の足し算」のような効果を
及ぼすものと見るべきものだろう。
0720名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 00:17:30.13ID:H9PjnH74
英語の語源辞典、"Online Etymology Dictionary"で"ad-"について
参照すると次のように記載される。
>ad-
word-forming element expressing direction toward or in addition to,
from Latin ad "to, toward" in space or time; "with regard to,
in relation to," as a prefix, sometimes merely emphatic,
from PIE root *ad- "to, near, at."<

この"merely emphatic"という説明は、なにかによく似ていないだろうか。
そう、以前に見た、"be-"や"co(n/m)"についての"intensive"という説明
とそっくりなのである。

>The sense "on all sides, all about" naturally grew to include
intensive uses (as in bespatter "spatter about," therefore
"spatter very much," besprinkle, etc.). Be- also can be causative,
or have just about any sense required. The prefix was
productive 16c.-17c. in forming useful words, many of which
have not survived, such as bethwack "to thrash soundly" (1550s)
and betongue "to assail in speech, to scold" (1630s).<

>con-
word-forming element meaning "together, with," sometimes
merely intensive; it is the form of com- used in Latin before
consonants except -b-, -p-, -l-, -m-, or -r-.<

実際のところ、この"merely emphatic"、"intensive"、"merely intensive"
という記述は、メタ言語的な記述として表現法の適切な説明となっている
とはまったく考へられない。
0721名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 00:36:33.95ID:H9PjnH74
ラテン語系の言語であるスペイン語とポルトガル語の表現から
別の分かりやすい例を挙げよう。それは、"acreditar"という
表現である。日本語でも「クレジット」はカタカナ語として
通用しているので、"acreditar"は、"a・creditar"と分ける
ことができることが一目瞭然だろう。

スペイン語−英語の辞書で"acreditar"を参照すると、
>acreditar (probar su certeza) confirm
Este artículo acredita mis palabras.
This article confirms my words.<
(出典 wordreference.com/es/en/translation.asp?spen=acreditar)
と記載され、スペイン語の"a・creditar"は、英語の"con・firm"に対応する
ように使はれることが分かる。

次に、ポルトガル語−英語の辞書を参照すると、
>acreditar (crer verdadeiro) believe
acreditar (confiar) trust, believe, confide, have confidence<
(出典 wordreference.com/pten/acreditar)
と記載され、ポルトガル語の"a・creditar"は、英語の"be・lieve"、
"con・fide"などに対応するように使はれることが分かる。

もはや言ふまでもなく、スペイン語/ポルトガル語における"a-"が、
英語においては、"be-"や"con-"に対応することになっているのは、
偶然ではないだろう。
0722名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 00:41:06.81ID:H9PjnH74
>言語の一般的な研究が共通して抱えている致命的とも云へる、
根本的で重大な問題が潜んでいることに気づかされる。<

私が「致命的」という表現を使ふのは、この対応関係に専門家
の誰も気づかないわけがなく、誰もそのことについて説明しようと
するどころか、一言も触れないのは、それを「意図的な隠蔽」で
あると呼ぶのが不穏当であるとしても、明らかに「意図的な回避/
忌避」の姿勢の反映であると考へられるからだ。
0723名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 09:52:41.50ID:H9PjnH74
ここで、このような対応関係について気づかないふりをすることにより、
なにを意図的に隠蔽/回避/忌避しようとしているのかを言語化して表現
することはたやすい。それは、これらの対応関係に気づいてしまうこと
により、「ひと(人)に気づかせる」という「『ま・つり』ごと」
そのものが「人々を階層的に組織化する原理」に他ならないことが、
あら(顕)はとなってしまうことである。
0724名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 10:17:57.16ID:H9PjnH74
>ソークラテースが、「アポローン」/Ἀπόλλωνという神の名の
解釈において、"Ἀ"の表現上の役割について、同様の注目の仕方
をしていることに気づかされる。実際、"Ἀ"を、表現上、"Ἀπόλλων"
と同様に用ひている表現の例として"ἀκόλουθον"という語が
挙げられており、これは、ドイツ語の対訳では、»Begleiter«
として、つまり、"Ἀ"に»be-«が対応する形で訳されている。 <

この古代ギリシア語の"ἀκόλουθον"に対応する表現は、"ἀκόλουθος"
を写す形でラテン語に"acolythus"にそのまま引き継がれ、
英語としては、"acolyte"として引き継がれている。
英語の"acolyte"で検索してみると、この表現には、「侍者(じしゃ)」、
「侍祭(じさい)」、「ミサ仕え」、またはカタカナ語で「アコライト」
などの訳語が日本語として当てられていることが分かる。
また、"ἀκόλουθος"は、"ἀ・κόλουθος"と分けられるが、
"κόλουθος"は、名詞として"(poetic) road, way, path"を意味する
ように用ひられる"κέλευθος"に由来するとされ、動詞としては、
"to urge, command"を意味するように用ひられる"κέλομαι"
および"κελεύω"に対応するものとして語源的に説明されている。
(出典 en.wiktionary.org/wiki/κέλευθος#Ancient_Greek)
したがって、"ἀ・κόλουθος"/"a・colythus"/"a・colyte"は、
日本語で捉へ直してみるなら、「みちゆき(道行)を
『とも(伴/供/友)にする』者」と解釈することができるだろう。
0725名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 10:41:57.44ID:H9PjnH74
さて、「侍者(じしゃ)」、「侍祭(じさい)」、「ミサ仕え」などとして
日本語に訳される"ἀ・κόλουθος"/"a・colythus"/"a・colyte"を、
このように日本語で表現として捉へ直してみると、すぐに連想として
思ひ浮かぶことがあるはずである。それは、「侍者」を漢語として
音読みするのではなく、訓読みすれば、「さぶら(侍)ふ・もの(者)」
となることからも気づくとおり、「さぶら(侍/候/伺)ひ」である。

「さぶら(侍/候/伺)ひ」を岩波古語辞典で引くと、
>@(身分の高い人の)身辺を見守る。側に仕える。
>A(目上の人の)側近に行く。うかがう。
と説明されるが、「さぶら(侍/候/伺)ふ」という表現に対応する
英語の表現は、"to await"/"to attend"である。

また、これも、日本語においてその適切な解釈が意図的に
隠蔽/回避/忌避されているように見えるが、「枕詞」として
扱はれることが規範となっている「おほ(大)とも(伴)の〜」も
明らかに"ἀ・κόλουθος"/"a・colythus"/"a・colyte"に対応する
ような表現である。
0726名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 10:47:44.77ID:H9PjnH74
したがって、日本語で名詞として用ひられる「さぶら(侍/候ひ」は、
古フランス語としては、《awaitant》に、現代の英語としては、
"attendant"に対応する表現であることになる。

>await (v.)
mid-13c., awaiten, "to wait for," from Old North French awaitier
(Old French agaitier) "to lie in wait for, watch, observe,
" from a- "to" (see ad-) + waitier "to watch" (see wait (v.)).
Originally especially "wait for with hostile intent, wait to
ambush or spy upon."<
(出典 .etymonline.com/search?q=attend)

>attend (v.)
c. 1300, "be subject to" (obsolete); early 14c., "direct one's mind
or energies" (archaic), from Old French atendre "to expect, wait for,
pay attention" (12c., Modern French attendre) and directly from
Latin attendere "give heed to," literally "to stretch toward," from
ad "to, toward" (see ad-) + tendere "stretch" (from PIE root *ten-
"to stretch"). The notion is of "stretching" one's mind toward something.
(出典 etymonline.com/search?q=attend)
0727まつりごとの原理垢版2023/05/02(火) 11:16:45.56ID:H9PjnH74
>なにがどのようであるかを伝へる以前に「声を上げる」だけで、
そのことが再帰的な効果として「声の出所」に注意をひきつける
意図を伝へることになる<

ここに、言葉を発する行為(それが、何がどのようであるかを
伝へようとするのかにかかわらず)の根底がある。「こゑ(声)」
が「き(聞/聴)こえる」なら、その「こゑ(声)」が、「何がどのよう
であるかを伝へる」以前に(「こゑ(声)」ではなく物理的な
「音」ですら、「何がどのようであるかを伝へる」働きをする
ことに留意しよう)、その「こゑ(声)」は、「気をひきつけよう」
とすること」として、「注意の求め」として、すなはち、
「気をつけ!」/"attention!"という「掛け声」として「き(聞/聴)
かれる」ことになるのである。さらに、その「掛け声」として
の「こゑ(声)」が「き(聞/聴)かれる」ことは、その効果として
「こゑ(声)を発するもの」に「再帰的に『気をひきつける』」
ことになる。つまり、その「こゑ(声)」が、他に「何が
どのようであるかを伝へる」働きをしないとしても、
「再帰的に『気をひきつける』」なら、それだけで、
軍隊の号令としての「気をつけ!」/"attention!"のように
作用するのであり、その作用を繰り返し再現することができる
ようにすることにこそ、人々を階層的に組織化することの
根本的な基礎がある。
0728名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 11:31:41.80ID:H9PjnH74
「みつから(身づ柄/自ら)」のあらかじめの存在を前提とする
「自己中心的」な暴力崇拝主義者ほど、「みつから(身づ柄/自ら)」
について表立って言語化されることを嫌ふ。これは、矛盾である
ように見えて、矛盾ではない。"identity politics"を実践する
人々にとっては、「みつから(身づ柄/自ら)」が人々に
「気をつけ!」/"attention!"を要求する「拠り所/依り代」である、
あらかじめの「同一性」/"identity"が解消されてしまうことは、
極めて都合が悪いのである。
0729名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 11:52:00.07ID:H9PjnH74
人以外の「生き物」について言及すると、「生物学」の知見を、
人について論じるための確かな基礎とすることができるかのように
誘導しようとする人々がすぐに湧いてくるので、できることなら
それを避けたいのだが、それでも、「生き物」にとって
「こゑ(声)」を出すことにより、その出所に気を引くことになる
ことは、自らに危険を招き寄せることと表裏一体の行為である
ことに留意する必要がある。だからこそ、メディアで目立つように
「こゑ(声)」を出すことのできている人々は、それが「何かに
どのようにか支えられていると信じられる」のでない限り、
そのことだけで、「いかがはしく」感じられるのである。
0730名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 12:51:50.05ID:H9PjnH74
ここで、「何かにどのようにか支えられていると信じられる」
と言ふ場合の「何か」とは、「現に実効力を発揮している何か」、
または、「実効力を発揮することが確実に見込まれる何か」
であって、そのような裏付けを欠いた「確信」、「信念」、
「信仰」といったようなものではない。そのような裏付け
を欠いた「確信」、「信念」、「信仰」を抱いて人々の注目を
集めるような発言する者は、一般的には、人々を誘導して
自己利益の増大図るためにそれを信じているふりをしてる
だけの「いかさま師」か、実効力を伴はないことが本当に
実現すると信じている、「まだ充分に痛い目に遭っていないので、
現実を知らない」「夢想家」か、あるいは、「痛い目に遭ふこと」や、
場合によっては、「自他の命を犠牲にすること」さえ恐れず、
厭ふことさしない「狂信者」として扱はれるのである。

ところで、哲学をするために発話行為をするなら、そのような
枠組みを逸脱して発言できるようにする必要がある。その逸脱
を敢へてこころみるか否かに、思想と哲学の分かれ目があると
言ってもいい。
0731ま(真)こと(言/事)にな(汝/己)に気を配る垢版2023/05/02(火) 23:19:09.50ID:H9PjnH74
言葉を発するという行為そのものが、「気をつけ!」/《Attention!》
という「か(掛)けこゑ(声)」としての効果をもたらすとすれば、
哲学をするとは、「われ(我)に気を配れ!」/《Attention à moi!》でも、
「なんじ(汝)に気を配れ!」/《Attention à moi!》でも、
「われ(我)らに気を配れ!」/《Attention à nous!》でも、
「なんじ(汝)らに気を配れ!」/《Attention à vous!》でもなく、
「な(汝/己)に気を配れ!」/《Attention à moi/toi/soi-même!》が
「ま(真)こと(言/事)」となるような表現として言葉を発することである。
0732名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/02(火) 23:26:46.13ID:H9PjnH74
私はいつも「良いこと」ばかりを言っているだが、なぜか、
私がそのような発言をすることがとても不都合となるような人々が
大勢いるようだ。
0733名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/03(水) 00:05:39.08ID:/PbOh5Hr
>SOIN, subst. masc.
A. − Souci, préoccupation relatif à un objet, une situation, un projet auquel on s'intéresse.
1. Vieilli ou littér.
a) Attachement de l'esprit, de la pensée pour quelque chose. :
b) Intérêt, attention que l'on a pour quelqu'un.
2. Absol., vx. Souci, inquiétude
(出典 cnrtl.fr/definition/soin)

>soothsay (v.)
"foretell the future, make predictions," c. 1600, back-formation from
soothsayer. Compare Old English soðsecgan "say or speak truly,
" soðsagu "act of speaking the truth," and verbal phrase secgað soð;
also compare soothsaw, Middle English sothesawe,
and Old Norse sannsaga. As a noun from 1540s, "a true or wise saying.<
(出典 etymonline.com/word/soothsay#etymonline_v_48934)
0734名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/03(水) 10:36:27.97ID:/PbOh5Hr
>>493
>"to confess"/"confessare"/"ὁμολογέω"を
「な(己/汝)をまこと(真言)としてしろしめす」発話行為であると
するなら、そのような行為に及ぶことには、常に大きな危険が伴ひ、
一般に、その危険をかへり(顧)みない、常識外れの大胆な/怖いもの
知らずの/うぶ(初心)な振舞ひであるとされる<

哲学は、思想でも、宗教でもない。
哲学することが根源的に探究することは、次のような問ひとして
表現することができるだろう;
>その帰結として同盟/敵対関係をもたらすことなしに
"ὁμολογέω"/「な(己/汝)をまこと(真言)としてしろしめす」ことは可能か。
0735名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/03(水) 12:15:38.24ID:/PbOh5Hr
誤:「なんじ(汝)に気を配れ!」/《Attention à moi!》でも、
正:「なんじ(汝)に気を配れ!」/《Attention à toi!》でも、
0737名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/03(水) 17:34:46.06ID:/PbOh5Hr
活動としての思想は、ちょうどその裏を返した形で、それに
取り込まれる者を、世の中の現実を知らない、騙されやすい
愚かな夢想家/空想家か、痛い目に遭わされても懲りること
なく信念に固執する狂信者になることが疑はれる者か、
または便乗して自己利益の増進を図ろうという野心を抱く
いかさま師見習ひとして扱ふ。

夢想家/空想家や狂信者となるような者が、思想の活動に
おいてそのままで成功するはずがないことは、すぐに
分かるだろう。大多数が、一時的に利用されて、思想を
放棄したり、転向したり、「理想」だけは保つために
宗教的な信仰に向かったりする。しばらくの間、思想の
活動において最もうまく成功を収めるように見えるのが、
思想にうまく便乗するいかさま師見習ひだが、長期的には、
これも成功することはない。いかさま師見習ひは、与えられた
役割を忠実に演じるようになって、つまり、いかさま師に
なりおおせるのではなく、「役者」となってつか(使/仕)はれて
有用性を発揮する限りで成功することができる。
0739名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/03(水) 21:01:52.80ID:hv04g4sm
難しいとは思うのですが、こちらの方々で無理なら諦めようと思いますので、相談させてください。
以前、誰かの詩集の一つに「たくあん」(たくわんかも?)という名前の詩を読みました。
誰の詩だったか覚えてなく、有名な方の詩かどうかも分からないのですが、もう一度読みたいと思います。
詩集で1ページの短い詩だと思うのですが、どうにか分かる方いませんか?
「昔は白かったのに今は黄色くなった」「しわだらけになってしまった」「重たい物におしつぶされ」みたいな内容が書かれていたと記憶しています。(言葉の表現は違うと思います)
直接的にたくあんだと書かれていないのですが、読むとたくあんのことだと分かるような内容だったのですが、分かる方いないでしょうか?
できれば作者名を含め、教えていただければと思います。
ここにいる詳しい方々、ぜひよろしくお願いします。
0740名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/03(水) 21:16:11.39ID:hv04g4sm
ちなみに私が小6の頃に小学校の図書室で読んだ詩だと思います。
今、高校生なのであまりに最近の詩ではないと思います。
小学校の図書室に行けたらと思うのですが引っ越してしまいましたのでそれは難しいです。
見つけるのは無理なのかなと思いますがお願いします。
0741名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/04(木) 10:14:24.27ID:NCasiXaB
>いかさま師になりおおせるのではなく、「役者」となって
つか(使/仕)はれて有用性を発揮する限りで成功することができる。<

これは、活動としての思想において「成功する」ことが、
堕落(「いかさま師見習ひ」が「いかさま師」になり損ねて、
「役者」に成り下がること)や没落(「役者」として有効性を
発揮できなくなって、用済みになること)と「背中合がせ」
であることも意味しているだろう。だから、「成功している」
ことは、なにかを享楽できるような立場にいることを意味して
いるわけではない。ファンとして、活動の実践においては
何の役割も果たさない夢想家/空想家や、思想を実践すること
ができると本当に信じてしまう狂信者となる疑いのある者を
多く集める必要がある。しかし、前者は烏合の衆として憧れ
を抱いて集まってくれる限りで役に立つのであり、後者に
ついては、直接に相手にすることは、厄介な危険をもたらす
だけである。現実に役に立つのは、いかさま師見習ひだが、
それは、いかさま師見習ひが自分のように「成功する」ことに
夢を抱いている限りにおいてであって、大多数は、使ひ捨て
であり、いずれにしても、「いかさま師」として成功すること
は、「役者」として「いかさま師」の役割を演じることで
つか(使/仕)はれて有用性を発揮する場合に限られる。
0742欲望のあいまいな対象垢版2023/05/04(木) 10:33:43.24ID:NCasiXaB
フェティシズムとは、他人とは趣味の異なる何か特異な対象に執着的な
欲望を抱くことではない。
それが何であれ、その具現性において捉へられた対象(それは、
神であっても、地球環境であっても、人類であっても、異性/同性であっても、
自分自身であっても、命であってもよい)に「対象として」執着的な欲望を
抱くことが、「愛の倒錯」としてのフェティシズムなのだ。
0744名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/04(木) 12:35:52.56ID:NCasiXaB
「たま(玉/魂)のを(緒)」の「方向性」が「いと(絲)を(惜)しさ」の
様態としての「愛」であり、その「方向性」が見失はれることが、
「たま(玉/魂)のを(緒)」が乱れて、恋(こひ)になや(悩)むことであり、
その「方向性」が消えることが、「たま(玉/魂)」がつゆ(露)と消えて、
「たま(玉/魂)のを(緒)」がた(絶)え、「い(生/息)のち(力)/(命)」
つ(尽)きることである。

「たま(玉/魂)のを(緒)」」のた(絶)えた「い(生/息)のち(力)/(命)」
が具体性に活動することはあり得ないが、「たま(玉/魂)のを(緒)」の
「方向性」が見失はれてもやはり、「いき(生/息)のを(緒)」は乱れ、
それを再び見出すことができないなら、「いき(生/息)のを(緒)」は、
みづから(身づ柄/自ら)を「うつし(現)よ(世)」につなぎとめる
「かひ(効果)」のないものとなる。そこで、「たま(玉/魂)のを(緒)」
の「方向性」として、それでも見出され得るものとして与へられる
のが「あの世」なのだ。

>人間の意志は一つの目標を必要とする ― この意志は、
何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する ― 私の言うこと
がおわかりか? ・・・ おわかりになったろうか?
(『ニーチェ全集11 善悪の彼岸・道徳の系譜』、ちくま学芸文庫、p.485)
0745名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/04(木) 12:45:54.78ID:NCasiXaB
「たま(玉/魂)のを(緒)」の「方向性」が「いと(絲)を(惜)しさ」の
様態としての「愛」であるのに、一般的な西洋の思想には、
具現性のある「愛」の対象があらかじめ存在することを、
「愛する」ことに先立ててしまい、むしろ、「愛する」ことに
具現性のある対象が不在であることを、「愛の幻想/錯覚」である
と見做すフェティシズム的な傾向が強く見られる。だから、
その「愛の幻想/錯覚」を大切にするためには、フェティシズム
に開き直る必要が生じるのである。
0746名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/04(木) 13:58:31.78ID:NCasiXaB
万葉集 第13巻 3255番
>従古 言續来口 戀為者 不安物登 玉緒之 継而者雖云
處女等之 心乎胡粉 其将知 因之無者 夏麻引
命<方>貯 借薦之 心文小竹荷 人不知 本名曽戀流 氣之緒丹四天

>古ゆ 言ひ継ぎけらく 恋すれば 苦しきものと 玉の緒の 継ぎては言へど
娘子らが 心を知らに そを知らむ よしのなければ 夏麻引く
命かたまけ 刈り薦の 心もしのに 人知れず もとなぞ恋ふる 息の緒にして
(出典 万葉集ナビ)
0747名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/05(金) 00:40:45.81ID:bACl9oxF
>Το δε θηλυ απο της θηλής τι φαίνεται επωνομάσθαι .
η δε θηλή αρά γε , ώ Ερμόγενες , ότι τεθηλεναι ποιεί , ως περ τα αρδόμενα
0748麻笥乎無/fassungslos垢版2023/05/05(金) 09:36:53.30ID:bACl9oxF
>>744
万葉集 第13巻 3272番
>葦垣の 思ひ乱れて 乱れ麻の をけをなみと
我が恋ふる 千重の一重も 人知れず
もとなや恋ひむ 息の緒にして
(出典 万葉集ナビ)
0749名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/05(金) 10:49:19.19ID:bACl9oxF
あらかじめ与へられた定義や決まりごとを必ず順守すべきものと
相手側に思ひ込ませることの最大の効用は、みづからの側に
「裁定者」/"arbiter"の役割を確保すること、みづからの側が
「ほしいまま(恣/縦)」にする恣意性により、相手側に対して
つねに優位を確保することである。
0750名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/05(金) 16:04:54.69ID:bACl9oxF
『クラテュロス』においてソークラテースが語るところによれば、
「気丈(きじょう/けだか)さ」とは、流れに立ち向かふことであるが、
どのような流れにでも立ち向かふことが「気丈(きじょう/けだか)さ」と
呼ばれるのではなく、「正義」に逆行する流れに立ち向かふことが
「気丈(きじょう/けだか)さ」であるとされる。しかし、「正義」
そのものについては、それがどのようなことの名であるのか
さだ(定)かではない。いろいろ人の話を聞いて見ても、基本的な
ところでは合致しているようでありながら、その主張は互いに
矛盾するように相反しており、その主張について考慮する前よりも、
むしろ混乱は深まるばかりである。
0751名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/06(土) 09:04:39.73ID:6v2gyVXA
万葉集 第14巻 3381番
奈都蘇妣久 宇奈比乎左之弖 等夫登利乃 伊多良武等曽与 阿我之多波倍思
夏麻引く宇奈比をさして飛ぶ鳥の至らむとぞよ我が下延へし

万葉集 第14巻 3348番
奈都素妣久 宇奈加美我多能 於伎都渚尓 布袮波等<杼>米牟 佐欲布氣尓家里
夏麻引く海上潟の沖つ洲に船は留めむさ夜更けにけり

万葉集 第7巻 1176番
夏麻引 海上滷乃 <奥>洲尓 鳥<者>簀竹跡 君者音文不為
夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず
(出典 万葉集ナビ)

「なつ(夏)そ(麻)び(引)く」とは、「な(汝/己)・そ・ひ(引)く」の
喩であり、「な(汝/己)」がはな(離)れていることにより生じる
「たま(玉/魂)のを(緒)」の「いと(絲)を(惜)しさ」を伝へる
表現であるが、この「な(汝/己)・そ・ひ(引)く」が伝へる感覚
は、ちょうど、『クラテュロス』においてソークラテースが
説明する古代ギリシア語の‘πόθος’という名が伝へようとする
感覚と対応していると言ふことができるだろう。

[...]καὶ μὴν ‘πόθος’ αὖ καλεῖται σημαίνων οὐ τοῦ παρόντος εἶναι
ἱμέρου τε καὶ ῥεύματος ἀλλὰ τοῦ ἄλλοθί που ὄντος καὶ ἀπόντος,
ὅθεν ‘πόθος’ ἐπωνόμασται ὃς τότε, ὅταν παρῇ οὗ τις ἐφίετο,
‘ἵμερος’ ἐκαλεῖτο: ἀπογενομένου δὲ ὁ αὐτὸς οὗτος ‘πόθος’ ἐκλήθη.
(出典 Plat. Crat. 420a)
0752名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/06(土) 09:08:21.36ID:6v2gyVXA
とても大切な「つ」を抜かしてしまった。

誤:「な(汝/己)・そ・ひ(引)く」の喩であり
正:「な(汝/己)・つ・そ・ひ(引)く」の喩であり
0753名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/06(土) 09:11:13.88ID:6v2gyVXA
この「つ」は、言ふまでもなく、「つ(着/付)く」の「つ」であり、
「ま(目)・つ・げ(毛)」の「つ」でもある。
0754名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/06(土) 09:22:05.77ID:6v2gyVXA
ニーチェの言説も、日本語から考えれば、西洋の古典のキリスト教神学
の変換操作を通して伝へられる解釈から、古代ギリシア語の
古代ギリシア語的な解釈へのリバース・エンジニアリングだろう。
ただ、西洋の人文学の伝統では、キリスト教神学の変換操作による
解釈の矯正がつねに強力に働きつづけるので、それに対抗しようと
するニーチェの言説も、日本語で考へるなら、煽り演説のように
無用に誇張されたものになるのだ。
0755名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/07(日) 09:30:02.01ID:e6uE9imO
>>749
>あらかじめ与へられた定義や決まりごとを必ず順守すべきものと

見てのとおり、私の書込みは、「学問」として通用している「専門分野」
において「あらかじめ与へられた定義や決まりごと」とされていること
にまるで縛られていない(ただし、そのようなものに専門家が縛られて
いることは積極的に利用しているので、それらを無視しているという
わけでもない)。私のような発言をする者に対して「他の人々が順守
している定義や決まりごとに自分勝手に違反してもいいなら、何でも
言ふことは簡単だ」という反発を示す人々は多い。そのような反応
は、喩えるなら、そのような人々にとっては、私のような発言は、
「皆が手を使ったらいけないという競技規則でプレーしている
サッカーの試合に勝手に混じって1人だけ勝手に手を使ってボール
をゴールに投げ込む意味のないことをしている」ように見えるのだろう。
しかし、哲学をすることは、スポーツの試合のようなものではない
(「学問」の業績を認められることは、しばしば、そのようなもの
であり得るかもしれないが)。

「専門分野」の「学問」の活動として業績を認められること、要するに、
人事的にプラスに評価されることを重視している人々にとっては、
スポーツの試合において競技規則を無視する行為に相当するような
発言は、無効であり、処罰や叱責の対象とすることができないなら、
排除し、無視すべきものとして扱ふことになるだろう。つまり、
「他の人々が順守している定義や決まりごとに自分勝手に違反して
もいいなら、何でも言ふことは簡単だ」というのは、言い換へる
なら、「人事的にまったく評価されない発言は、無効であり、
無効な発言をするつもりなら、何を言ってもいいのだから、
何でも言いたい放題に言ふのは簡単なことだ」ということになる。
しかし、そのような人々は、そのような感性を基準として
身に付けていることにおいて、既に哲学をすることとは
無縁なのだ(「哲学学」、「哲学史研究」、「哲学者研究」
ならいくらでもできるだろうが)。なぜなら、哲学することに
おいて、発言するこのと「有効性の基準」は、発言者個人
が組織の人事において肯定的に評価されるか否かとは無関係
だからである。
0757「た(手)を(折)る」とはどのようなことか垢版2023/05/07(日) 16:37:37.02ID:e6uE9imO
>>751に『クラテュロス』から引用した"πόθος"(英語版Wiktionaryで
この表現に当てられている訳語は"longing, yearning, regret")について
の説明以降のソークラテースの議論のかなりの部分は、現代の「哲学」
においては、「認識論」や「存在論」として扱はれるようなことに
向けられている。だが、ソークラテースの言葉(私自身は、それを翻訳を
頼りにすることによってしか理解できないが)からより直接に私に
想起されるのはやはり、万葉集の歌に見られる表現である。
というのも、万葉集に詠まれた歌の多くは、現前/不在の様態に
ともなふ心の動きをその「切実さ/刹那」において捉へて、その
ようにして捉へられた認識にうまく適ふ言語表現を与へようとして
いるからである。そこに詠まれているのは、確かに、「存在」を
メタ言語的に概念化して議論するものではないという意味で、
「哲学」ではない。しかし、そこで主題とされているのは、
明らかに「存在の様態」であり、その捉へ方、およびそのように
捉へられた様態を表現する手法においては、むしろ、「概念」に
依拠する「哲学」よりも優れていると言へる。そのことに気づく
ことができないとすれば、それは、「を(折/居)る」を「お(折/居)る」
に変換する「国語の標準化」をごく当たり前のことであるかのように
平然と「規範」として受け入れている思考停止と感性の麻痺のためである。
これについては、つづきをさらに書き込もうと思ふ。
0758名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/07(日) 16:42:55.54ID:e6uE9imO
万葉集 第20巻 4318番
安伎能野尓 都由於弊流波疑乎 多乎良受弖 安多良佐可里乎 須<具>之弖牟登香
秋の野に露負へる萩を手折らずてあたら盛りを過ぐしてむとか
(出典 万葉集ナビ)
0759名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/07(日) 16:50:46.97ID:e6uE9imO
>「存在」をメタ言語的に概念化して議論するものではないという意味で

この言ひ方は、かなり「微妙」なものである。というのは、万葉集の
歌も、直接の体験としての「観察」を詠んでいるように見えながら、
実のところ、既に歌として詠まれた言語表現を「観察」して、その
捉へ方を試行錯誤しながら考へ、その考察を踏まえて新たな歌を
詠んでいる、その積み重ねであると見られるからだ。その意味では、
歌を創作しようとする行為そのものが、メタ言語的な概念化の
試行錯誤である。
0760名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/07(日) 22:43:59.08ID:e6uE9imO
まずは、>>751に原文を引用した箇所の日本語訳を、その少し前から
引用しよう。

>というのも、それはこがれつつ流れ(ἱέμενος ῥεῖ)、事物に欲求を
いだきながら流れるが、このようにして、その流れの衝動によって
魂を極度に引きつけるから、それらすべての力から「憬れ」(ἱέμενος)
と呼ばれたのだ。また、「慕い」(πόθος)は、同じ思いこがれでは
あっても、現にそこにあるものではなくて、どこか他所に(ἄλλοθί που)
あってそこにはないものを意味してそう呼ばれ、したがって、
思い焦れる対象がそこに在る場合に「憬れ」(ἱέμενος)と呼ばれる、
その同じ感情が「慕い」(πόθος)と呼ばれるのである。すなわち
対象がそこにない場合に、同じものが「慕い」(πόθος)と呼ばれたのだ。
(出典 『プラトン著作集1』勁草書房、p.117)
0761名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/07(日) 23:11:36.28ID:e6uE9imO
>>760
ここで、ソークラテースは、対象がそこに在る場合の、その対象に
対する思ひであると説明される"ἱέμενος"(引用の訳例では「憬れ」)
と、対象がそこにはない場合の、対象に対する思ひであると説明される
"πόθος"(引用の訳例では「慕い」)を明確に対比させている。
ただし、用例を確認してみると、"ἱέμενος"は、亡き人を思ひ慕って
涙を流すような場合にも用ひられるようなので、「対象がそこに在る」
という表現は、誤解を招く恐れもあるだろう。それゆえ、"ἱέμενος"
は、「思ひが対象に密着したままで離れない心の様態」と解釈して、
「愛着/執着」と理解するのが適切ではないかと私には思はれる。
また、そのことから、引用の訳例の「あこが(憬)れ」という表現は、
明白に「対象から離れた様態」を前提としているので、適切な訳では
ないと私は考へる。さらに、この"ἱέμενος"に対応するような心の
働きを表現する歌を万葉集に見出すことも容易である。それは、
例えば、次のような歌だ。

万葉集 第7巻 1381番歌
廣瀬<河> 袖衝許 淺乎也 心深目手 吾念有良武
広瀬川袖漬くばかり浅きをや心深めて我が思へるらむ

万葉集 第2巻 118番歌
<嘆>管 大夫之 戀礼許曽 吾髪結乃 漬而奴礼計礼
嘆きつつますらをのこの恋ふれこそ我が髪結ひの漬ちてぬれけれ
(出典 万葉集ナビ)
0762攀ぢて手折りつ垢版2023/05/07(日) 23:29:36.59ID:e6uE9imO
これに対して、"πόθος"は、既に説明したとおり、そこにない対象に
対する「いと(絲)を(惜)しさ」を表現するものと理解することが
できるが、この"ἱέμενος"(愛着/執着)と"πόθος"(いと(絲)を(惜)しさ)
の存在論的な観点からの対比を念頭に、例えば、万葉集の次の歌
を検討してみるなら、そこで用ひられる言語表現が捉へようとして
いるのは、「存在の様態」であることに気づくだろう。

万葉集 第8巻 1507番
>いかといかと ある我が宿に 百枝さし 生ふる橘 玉に貫く
五月を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝に日に 出で見るごとに
息の緒に 我が思ふ妹に まそ鏡 清き月夜に
ただ一目 見するまでには 散りこすな ゆめと言ひつつ
ここだくも 我が守るものを うれたきや 醜霍公鳥
暁の うら悲しきに 追へど追へど なほし来鳴きて
いたづらに 地に散らせば すべをなみ 攀ぢて手折りつ 見ませ我妹子
(出典 万葉集ナビ)
0763名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/07(日) 23:34:14.33ID:e6uE9imO
コピペに気ままにコメントしているだけなので、簡単なことを
やっているように見えるかもしれないが、思考の働きが複数の
異なる言語に同時にまたがっているので、実はかなり
認知エネルギーを消費する。規制がなければ、つづきは
また後で。
0765名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/08(月) 07:59:28.04ID:4ou8Fuj/
話は逸れるが、>>747で原文を引用した箇所を含む対話の英訳を引用して
おこう。「み(身)ど(獲/取)り」/"begetting"を植物の「みどり(緑)」と
結びつける発想は、何ら日本語の表現に独自のものではないことが分かる
はずである。

>The word γυνή (woman) seems to me to be much the same
as γονή (birth). I think θῆλυ (female) is derived from θηλή (teat);
and is not θηλή, Hermogenes, so called because it makes things
flourish (τεθηλέναι), like plants wet with showers?

Hermogenes
Very likely, Socrates.

Socrates
And again, the word θάλλειν (flourish) seems to me to figure
the rapid and sudden growth of the young. <
(出典 perseus.tufts.edu/ Plat. Crat. 414a)
0766名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/08(月) 09:01:28.92ID:4ou8Fuj/
>>762
>攀ぢて手折りつ

「よ(攀)ぢてた(手)を(折)る」とは、どのような行為だろうか。
「よ(攀)ぢ」は、一般に、「何かをつかみ、ちから(力)をしぼ(絞)る
ようにこ(込)めてひ(引)きよ(寄)せる」行為を表現していると言へるだろう。
「よ(攀)ぢ」という表現から私にすぐに想起されるのは、「攀じ登る」こと
を意味するように用ひられるフランス語の《grimper》だが、日本語と
しては、「『よ(撚/縒)り』をもたらすように力を込める」行為も
想起されるはずである。「た(手)を(折)る」は、当然、「手でつかんだ
ところから折る」行為だが、「をる」という言葉が伝へるのは、
「を(折)る」とともに「を(居)る」(≒"to stay put")であり、
したがって、「(存在者の)一部が手元に限定的に留まるようにする」
ことを意味しているだろう。

したがって、まとめると、「よ(攀)ぢてた(手)を(折)る」とは、
「(現前するものを)つかんで、力を絞って引き寄せて、その
一部でも手元に限定的に留まるようにする」ことを意味している
ことになる(この説明が疑はしいと思ふなら、というより、むしろ、
与へられた説明の妥当性を単に信用するのではなく、万葉集の歌に
見られる「よ(攀)ぢ」および「た(手)を(折)る」」という表現の用法を
一件一件、自身で確かめてみることをお勧めする。そのような確認
の作業によって私自身の認識が変更を迫られることも少なくない)。
0767名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/08(月) 09:11:40.71ID:4ou8Fuj/
「よ(攀)ぢてた(手)を(折)る」ことにより、云はば、ちから(力)わざ(技)で
"for the time being"/「時限的にそこに留まる存在の様態」を手に入れる
が、その存在の様態はやはり、「時限的」/"temporal"であることに
留まるのだ。
0768名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/08(月) 09:57:12.58ID:4ou8Fuj/
「いと(絲)を(惜)しさ」が、その対象とされるものを、それが「事実」
として現前していたとしても、もはやそこにない「不在の対象」として
「理念化」する。まずそこに対象が現前するか否かという「事実」
によ(依)り、「愛着/執着」("ἱέμενος")と「いと(絲)を(惜)しさ」
("πόθος")が、それぞれ、分類された「心の動き」として生じるの
ではない(そのように思ひ込んでしまうところに、「フェティシズム的
な倒錯」がある)。このことは、「事実」としては、もはや失はれて/
亡くなってしまい、いくら呼びかけても、ふたたび現前させる
「かひ(効験)」のない相手に対しても、「濡れてぴたりと密着した衣の袖」
のようにそこに留まりつづける「愛着/執着」("ἱέμενος")から離れることが
できないことがあることからも分かるはずである。

万葉集 第10巻 1995番
六月之 地副割而 照日尓毛 吾袖将乾哉 於君不相四手
六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして

万葉集 第3巻 460番
>生ける者 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば 頼めりし
人のことごと 草枕 旅なる間に 佐保川を 朝川渡り 春日野を
そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして 夕闇と 隠りましぬれ
言はむすべ 為むすべ知らに たもとほり ただひとりして
白栲の 衣袖干さず 嘆きつつ 我が泣く涙<
(出典 万葉集ナビ)
0769名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/08(月) 10:47:56.68ID:4ou8Fuj/
そこに「事実」として在る存在者は、まった(全)きものとしてそこに
現前しているわけではなく、「存在者」が「存在者」として現前して
いること自体が「仮象」であり、それがどのような「仮象」であるの
かを問ふならば、それは、た(絶)えること、き(消)ゆこと、
ち(散)ること、う(失)せること、あ・か(離)れることなどにより、
「不在となった様態において理念化された対象」の「仮象」である。
それゆえ、その「仮象」として現前している「存在者」(あるいは、
その「な・ご(凝)り」)に触れることによって生じる「刹那的な
かひ(効力)」が、その「理念化された対象」をいきいきと(≒"vividly")
感じさせる(あるいは、彷彿とさせる)のである。ここまではよい。

ところが、一般的な西洋の思想が明示的にも、暗黙にも依拠する
形而上学の「救い難さ」は(というより、そのような形而上学に
明示的にも、暗黙にも「救いを求めてしまう」ことこそが、
その「救い難さ」なのだが)、今度は、その「理念化された対象」
を、「仮象」としての「存在者」だけでなく、「刹那的なかひ(効力)」
に絶対的に先立たせてしまうことにある。これは、
「刹那的なかひ(効力)」を、「仮象」としての「存在者」が
もたらすものとする見方からすれば、理の当然と言えるだろう。
しかし、ここでは、極めて重要な何かが見失われている。
それは、「いと(絲)を(惜)しさ」こそが、「刹那的なかひ(効力)」
をもはやそこにない「不在の対象」として「理念化」した
「方向性」であるということだ。
0770名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/08(月) 10:59:34.90ID:4ou8Fuj/
>「よ(攀)ぢてた(手)を(折)る」ことにより、云はば、ちから(力)わざ(技)で
"for the time being"/「時限的にそこに留まる存在の様態」を手に入れる
が、その存在の様態はやはり、「時限的」/"temporal"であることに
留まるのだ。 <

このことから導かれるのは、「刹那的なかひ(効力)」を「はかないもの」
に過ぎないと軽視して、「理念化された対象」こそを大切にしなければ
ならないということではない。「いと(絲)を(惜)しさ」により
「刹那的なかひ(効力)」を大切にすることを忘れたなら、
「理念化された対象」も、その形式だけを残して空虚化するのである。
0771名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/08(月) 11:36:00.68ID:4ou8Fuj/
>619考える名無しさん2021/05/11(火) 12:03:29.050
英語の"to object"という動詞は、「反意を示す」ことを表現するが、
名詞としての"object"は、「対象物」としての「物体」である。

また、日本語において動作の対象となる物は、「〜を」として
「を」によって示されるが、この「を」は、感嘆の「を」と同一
であるとされ、「を(惜)し」の「を」であるとともに、古語に
おける、呼び掛けの「を」とそれに応える「を」でもあり、
以前から指摘しているとおり、この「を」は、英語で表現する
なら、"Why not?"に相当する。"Why not?"に相当する
ということは、すなわち、「現状が『意に反している』」という
ことであり、したがって、「を」は、「反意」の現状を指し示す
ように用いられていることになる。<

これは、以前の私自身の書込みの自己引用だが、「理念化された対象」は、
「〜を!」という指し示しによってではなく、「を(惜)し」まれること
によってもたらされることに注目することは重要だろう。
0772名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 08:43:48.21ID:0t1k6uDH
至極、当たり前で、簡単でありながら、思想においても、哲学においても、
宗教においても、誰もそれをはっきりと言葉にしようとはしない、
とても大切なことを、あ(敢)へて言おう。

>「たましひ(玉し火/魂)」とは、「いき(生/息)る」に「あた(能/価/値)ふ」
ことの理念化であり、「たま(玉/魂)のを(緒)」とは、その理念化された
「あた(能/価/値)ひ」を求めつづけることである。
0773名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 10:36:44.92ID:0t1k6uDH
したがって、「たま(玉/魂)のを(緒)」、つまり、「いき(生/息)る」に
「あた(能/価/値)ふ」ことの理念としての追求が「すこやか」/「健全」
であるなら、「いき(生/息)のを(緒)」も、ととの(整)ひ、その追求が
「すこやかさ」/「健全さ」をうしな(失)ふ、つまり、「[な]や(病)む」
なら、「いき(生/息)のを(緒)」も、みだ(乱)れ、その追求が断たれるなら、
「いき(生/息)のを(緒)」から「い(生/息)のち(力/霊)/命」がうしな(失)はれる。

この関係性を念頭に置けば、「いき(生/息)る」ためにこそ「たま(玉/魂)の
を(緒)」が必要とされるものの、その追求の「理念化された対象」である
「たま(玉/魂)」を大切にすることを、「い(生/息)のち(力/霊)/命」を
保つことよりも優先す「べき」であると主張することは、奇妙な倒錯で
あることに気づくだろう。
0774名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 11:06:36.20ID:0t1k6uDH
現状で「いき(生/息)る」ことが損なはれていると感じるなら、
「たま(玉/魂)のを(緒)」、つまり、「いき(生/息)る」に
「あた(能/価/値)ふ」ことの理念としての追求が「すこやか」/
「健全」でないことになるだろう。しかし、そこで、何らかの
与へられた「すこやか」/「健全」な「理念」にすが(縋)るなら、
「いき(生/息)る」ことがととの(整)ひ、「いき(生/息)やすさ」が
回復されると思ふのは幻想である。なぜなら、その追求が
理念としてどのように「すこやか」/「健全」を失っているのか
を知るには、どのようにすれば「いき(生/息)る」に「あた(能/価/値)ふ」
ように感じられるのかを試行錯誤する他ないからだ。
0775名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 11:35:25.14ID:0t1k6uDH
確かに、「いき(生/息)をひそ(潜)める」というのも、ひとつの有効な
対処法ではある。そのことにより、大抵、気づくことになるのは、
「いき(生/息)る」に「あた(能/価/値)ふ」ことの理念としての
無効ない追求が却って、「いき(生/息)る」ことを損なひ、いたずらに
「いき(生/息)づらさ」を増幅させていることだ。どのように
することが、「いき(生/息)る」に「あた(能/価/値)ふ」のかを
必要最低限に切り詰めて理念化し、評価してみようとすることが
「わ(侘)び/さ(寂)びの美学」であると言ふこともできるだろう。
また、それによって、理念化が見直されて、「いき(生/息)やすさ」
が回復されることもあるだろう。

だが、「いき(生/息)をひそ(潜)める」ばかりで、「いき(生/息)る」に
「あた(能/価/値)ふ」ことを一方的に縮減していけば、
「いき(生/息)る」ことがととの(整)ひ、「いき(生/息)やすさ」が
回復される、あるいは、それで「い(生/息)のち(力/霊)/命」が
うしな(失)はれることになったとしても、「たま(玉/魂)のを(緒)」
が救済されることになると信じるのは、ニヒリズムによる
自己欺瞞でしかない。
0776名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 12:29:43.34ID:0t1k6uDH
誤:無効ない追求が
正:無効な追求が

私は、繰り言のようにいつも同じようなことを書き込んでいるが、
これも「長期的に見れば」、まったく無効な追求だろう。なぜなら、
私のような発言は、それがいつの時代にどこの場所で行われたとしても、
大方の流れに逆行するものであり、流れに棹差す人々の方が圧倒的に
多数なのだから、何も言はなかったのと同じことになることは
目に見えている。しかし、そのような長期的に見れば無効な行為
を敢へてすることに、どのような意味を見出すかにこそ、生き方の
違ひがあるのだろうと私は思っている。
0777名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 14:01:46.60ID:0t1k6uDH
理念とは、理念化されて扱はれる表現が伝へようとするもののことであり、
理念化は、情念の働きによって支えられている。
0778名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 15:05:22.37ID:0t1k6uDH
さて、ここで、>>758に引用した万葉集の歌を振り返ってみよう。

万葉集 第20巻 4318番
安伎能野尓 都由於弊流波疑乎 多乎良受弖 安多良佐可里乎 須<具>之弖牟登香
秋の野に露負へる萩を手折らずてあたら盛りを過ぐしてむとか

この歌は、何について詠んだ歌だろうか。和歌、とりわけ、万葉集に
見られる歌は一般に、そのほとんどが「情念」や「情感」を直接的に
伝へようとするものばかりで、例えば、「存在の様態」と呼ばれ得る
ような抽象的な「理念」を、言語表現の技法を凝らして扱ふこととは
無縁であると考へられている。では、私が、この歌を、そのような
考へ方の妥当性を反証する例(万葉集の歌としては、そこで用ひられて
いる技法も、表現も特異なものではないだろう)として示すとき、
私は、そこに何を見ているのだろう。
0779名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 16:03:18.95ID:0t1k6uDH
この歌を単に、そこで用ひられている言葉から表面的に理解しようと
するなら、そこに詠まれているのは、秋の野に、露が葉の上に置かれた
萩の花が今を盛りと咲いており、今のうちにその萩の花の枝を手折って
おきたいという気持ちににさせられる、ということだけだ。しかし、
この歌から伝はることがただそれだけのことなら、秋の野に露を負ふ
萩の花が咲いているのは、誰でもが毎年、目の当たりにするごく普通
の風景であり、それを題材として歌に詠むのが自然なことであると
しても、この歌が優れたものとして選ばれる理由にはならないだろう。

そもそも、現実的な行為として見るなら、野に咲く、露を負った萩の
花の姿が美しいとしても、それを手折れば、露は滑り落ちてしまい、
手元に残るのは花が咲いた普通の萩の枝に過ぎない。この歌がなぜ
優れたものとして評価されたのかを理解しようとするなら、大切なのは、
どのような心の動きがこの歌の言葉に託されているものとして、
人に伝はるのかを考へてみることである。
0780名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 16:48:05.14ID:0t1k6uDH
>秋の野に露負へる萩を手折らずてあたら盛りを過ぐしてむとか

まず、「秋の野」は、「あ・か(離)れ」(「あ」は不特定に離れた
様態を示す指示詞)を想起させる表現であるように私には感じられるが、
そのように限定する必要はない。次に、「露負へる萩」は、典型化
した表現であり、萩の上の「つゆ(露)」は、「つゆ(露)とき(消)ゆ
もの」であることを伝へる理念化された表現であり、また、
「白玉の露」をただちに想起させ、この場合、「白玉」とは、
「光を透過させる球体」/"translucent spheres"のことであり、
これは、「美しい」こと、「きよ(清)ら」であること、および
それが「まった(全)き」ものであることを「玉(たま)」に代表
させるとともに、「魂(たま)」を喩として表現して伝へる、やはり
理念化された表現である。「手折る」については、「現前する存在者が
時限的に留まるようにすること」として既に説明したので、ここでは、
説明を繰り返すことはしない。極めて重要で注意を払ふ必要があるのが、
次に、「あたら盛りを」に用ひられている「あたら〜を」だ。
というのも、「あたら〜を」というのが、「を(惜)し」という感慨に
他ならず、「あたら〜『を』」の「を」を概念化して利用している
のが「を(惜)し」という表現だからである。
0781その批判はあたらない。垢版2023/05/09(火) 17:23:34.16ID:0t1k6uDH
>「理念化された対象」は、「〜を!」という指し示しによって
ではなく、「を(惜)し」まれることによってもたらされることに
注目することは重要だろう。<

>>771で私はこのように指摘した。ところが、今度はさらに、
私は、「あたら〜を」というのが「を(惜)し」という感慨に
他ならないと述べている。では、「あたら〜を」という表現
は、いったい、どのようにして理念化をもたらすのだろうか。
それを知るには、「『あたら』〜を」の「あたら」とは何で
あるのかをよく考へてみる必要がある。この歌の例では、
「あたら」には、「安多良」という万葉仮名が当てられて
いるが、「万葉集ナビ」で検索してみると、この「安多良」
という表記の代替として、「惜」という漢字一文字が当てら
れている例が見られ、さらに、同じ「安多良」が当てられている
表現が、解釈において「あたら(新)し」の「あたら」と混同され
得るような事例も見られる。「をし」の「を」に「惜」を
当てることが適切であり、その「を」が「あたら〜『を』」の
「を」を利用しているものであるとするなら、「あたら」が
その表現上の意味において「惜」に対応すると考へるのは、
奇妙なことだろう。なにか「狐につままれた」ような感じがする
かもしれないが、実は、「『あたら』〜を」の「あたら」自体は、
何ら解釈の困難な表現ではない。
0782名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 18:08:57.80ID:0t1k6uDH
「その批判はあたらない」というのは、誰でもよく聞いたことのある
表現ではないかと思ふが、実は、「『あたら』〜を」の「あたら」も、
この「その批判は『あたら』ない」の「あたら」と同じものであると
無理なく容易に解釈することができる。

ここで検討している歌において見られる「あたら盛りを」は、どの
ような感慨を伝へているだろうか。それは、「今を盛りに」美しい
萩の花が目の前で咲いているのに、それを手折って、その美しい
存在者としての萩の花をその一部だけでも、「時限的にではあれ、
手元に留めて置こうとしないこと」/「そのままで過ごすこと」は、
「を(惜)しい」という感慨を伝へているのである。言い換へるなら、
咲いている萩の花を「そのままで過ごすこと」が、萩の花が今
こそ「盛り」であることに「『あたら』ない」(相応しくない)/
"in・adequate"であると言っているのである。

「〜を」は、現状における欠如を指し示すように使はれるの
だから、「あたら盛りを」とは、「盛りに『相応しい様態』が
欠如していることを指し示す」感慨を伝へていることになり、
したがって、「あたら」は、「相応しい様態」/"adequacy"
を表現しているという、ごく「『あたり』まえ」の結論が
導き出されることになる。逆に言へば、「あたら〜を」を
英語を用ひてメタ言語的に説明するなら、
>"'あたら〜を' is an expression of lament triggered
by one's witnessing something being treated inadequately."
とでも言ふことができるだろう。
0783名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 18:23:23.27ID:0t1k6uDH
ところで、「あたら〜を」についてこのように説明してみると、
先に提示した
>「あたら〜を」という表現は、いったい、どのようにして
理念化をもたらすのだろうか
という問ひに対しても、既に応へてしまっていることになる。
なぜなら、「〜の理念化」とは、「〜」を、「〜」として
「相応しい様態」/"adequacy"において捉へることに他ならない
からだ。すると、さらに、「あたら〜を」の「あたら」と
「『あたら(新)』し」の「あたら(新)」の用法の間で解釈上
の混同が生じる理由もすぐに分かるはずである。別に
古語で考へてみる必要はない。例えば、現代の日本語で
「ま(真)『あたら(新)』しい〜」と表現する場合でも、
「ま(真)『あたら(新)』しい」とは、当該の「〜」の
「理念化」/「相応しい様態」/"adequacy"を、何の
欠損もなく満たすように具現化していると感じられる
ことを意味しているはずである。
0784名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 19:01:33.64ID:0t1k6uDH
また今日も、誰に頼まれたわけでもないのに、私自身にとっても
社会的、金銭的に何の実益をもたらすこともなく、誰に感謝される
わけでもなく、それどころか、迷惑がられ、反発を呼び、私自身に
も実害をもたらす恐れしかなく、長期的には何の効力も発揮しない
ことに、ずいぶんと時間と労力を費やしてしまった。

「金にならないことは遊んでいるのと同じだ」という言葉は、
私も昔からよく聞かされた。私は、このようにまったく金に
ならないことに時間と労力を浪費していても、別に「遊んで
いる」つもりはないが、かといって、無論、それが無償で働い
ていることになっているとも思っていない。これが「無償の
労働」であるなら、誰にも感謝されないのだから、私も
すぐにこのような「割に合はない」ことは放棄するだろう。

ところで、その一方で、私は、ほとんど何もしないのに、
わずかながら「金になる」こともしている。違法行為ではなく、
「金になる」のであれば、ほとんど何もしていないにも
かかわらず、「社会的に意義のあること」をしていること
になっている「はず」である。なぜなら、それが
「社会的に意義のあること」でないなら、誰も私に金を
くれるはずがないからだ。しかし、社会でそのように金が
動くことを、「社会的な公平さに反する」として批判する人々
も少なくなく、しかも、そのような人々は、そのような言論を
展開することを「商売」にしているようにさえ私には
見える。これは、全体として考へてみれば、とても奇妙な
状況ではないだろうか。
0785名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/09(火) 19:10:54.84ID:0t1k6uDH
にわかには信じられない人も多いかもしれないが、社会では、
実際に「他人に何もさせないこと」を「専門の職業」としている人々が
かなりの割合で存在する。無論、それらの「専門の職業」の活動には、
社会的な意義を人々に認めさせるための立派な「名目」はあるが、
実質的に(自覚的にも)やっていることは、「他人に何もさせないこと」
に心血を注ぐこと以外に何もない。人々を社会的に組織化して運営
するためには、「やらせること以外には何もさせない、することを
許さない」ことがとても重要な役割を果たしている。
0786惜(あたら)しき垢版2023/05/09(火) 20:16:44.98ID:0t1k6uDH
>「あたら」は、「相応しい様態」/"adequacy"
を表現している

>「〜の理念化」とは、「〜」を、「〜」として
「相応しい様態」/"adequacy"において捉へることに他ならない<

これらの指摘の妥当性は、次の歌における「惜(あたら)しき」を
検討してみれば、容易に確かめることができるだろう。
万葉集 第20巻 4465番
子孫の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて 聞く人の 鏡にせむを
惜しき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて 空言も 祖の名絶つな
大伴の 氏と名に負へる 大夫の伴
(出典 万葉集ナビ)
0787格言から哲学へ垢版2023/05/14(日) 08:36:25.84ID:+A575gx/
>Ζῆν οὐκ ἄξιος, ὅτῳ μηδὲ εἷς ἐστι χρηστὸς φίλος
             ― Δημόκριτος

>ひと(一/人)としてな(汝/己)のいと(絲)を(惜/緒)しさのないものには、
いき(生/息)ることは、あた(能/価/値)はない。
             ― 今日の名無しさん
0788名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 09:31:31.67ID:+A575gx/
しばらく規制で書き込めなかった。問題の核心について書こうと
いうときに、いつものことながら、すぐにこうして規制で書き込めなくなる。
ただ、それでも、書込みが再開できる限りで、制度的な枠組みの中で特定の
人々を相手に何かを書こうとするよりはるかにマシなのは、特定の人々
を相手にしていれば、規制の代わりに行われるのは、激しい個人の人格攻撃
だからである。その場合、意味不明な根拠で非難され、自分からどこが
どのように間違っているのか自己批判と反省を迫られ、それにどう対応
してよいのか分からないでいると、反省しないことをさらに厳しく咎められ、
罰せらるという悪循環に陥るからである。その後、なんとか書くことを
再開できたとしても、それまで書いたことは白紙撤回することを強制される。
その点、匿名の掲示板では、永久規制されたところで、一応は、
それが閲覧不能になるまでは、書込みは残るので、それを踏まえて検討
を再開することができる。
0789由良久多麻能乎(ゆらくたまのを)垢版2023/05/14(日) 09:58:31.84ID:+A575gx/
分かりやすくするために、これまでに確認したことを少しまとめておこう。

>「あたら」は、「相応しい様態」/"adequacy"を表現している
とするなら、

「あたら(新/惜)し」は、「『相応しい様態』/"adequacy"を現前させる」
ことを意味していることになり、
「あたら〜を」は、「相応しい様態」/"adequacy"の欠如を目の当たりに
して嘆く表現であることになり、
「を(惜)し」は、その「あたら〜を」の感嘆の「を」を利用した表現として、
(「相応しい様態」/"adequacy"の欠如を目の当たりにした嘆きの)
「『(あたら)〜を』を生じさせる」ことを意味していることになる。

これらの関係性は、例えば、
「あたらいのち(命)を」という表現と、
「あたらしい(新/惜)いのち(命)」という表現を対比させて考えて
みれば、捉へやすいだろう。すると、万葉集の歌に見られる「あらたまの」
の「あら」が、どのような表現であるかも、これに関連して容易に解釈可能となる。
一般には、この「あらたま」には、「粗玉」、「荒玉」、「新玉」、「璞」
などの漢語としての漢字が当てられて、それに応じて「あらたま」も解釈
されているようだが、この「あら」はまずなによりも、「あら(現)はる」
の「あら」であり、「あ(有)る/あ(有)らぬ」の「あら」である。
0790名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 10:20:20.34ID:+A575gx/
万葉集 第20巻 4490番
安良多末能 等之由伎我敝理 波流多々婆 末豆和我夜度尓 宇具比須波奈家
あらたまの年行き返り春立たばまづ我が宿に鴬は鳴け

万葉集 第20巻 4493番
始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎
初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒
(出典 万葉集ナビ)

「あらたまの」の「あら」が表現しているのは、「あたらし(新/惜)く
いのち(命)があら(顕/現)はる」ことであり、だからこそ、
年がゆ(行)きか(返)へること、春が立つこと、新たな月が立つこと
を表現しているのである。したがって、「由良久多麻能乎(ゆらく
たまのを)」も、ドイツ語を用ひてこの表現が何を伝へようとして
いるのかを説明しようとするなら、それは、»Neugier«としての
»Lebensfreude«である、ということになるだろうと私は思ふ。
0791名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 10:29:58.72ID:+A575gx/
まずなによりも「あたらし(新/惜)きもの」として「あら(顕/現)はる」
のが「いのち(命)」であり、それが「あたらし(新/惜)きもの」として
「あら(顕/現)はる」ことなしには、他のいかなる「モノ/コト」も
「あたらし(新/惜)きもの」として「あら(顕/現)はる」ことはない。

では、「いのち(命)があたらし(新/惜)きものとしてあら(顕/現)はる」
とは、どのようなことだろうか。
0792名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 10:39:21.89ID:+A575gx/
この問ひに応へるには、魂についてのソークラテースの言説について先に触れた
ことに再び戻る必要がある。

>私は、『クラテュロス』でソークラテースが語る、死後の世界にハーイデースが
人々の魂をつなぎ留める束縛としての「欲望」に、日本語として「たま(玉/魂)の
を(緒)」という表現を対応させたが、古代ギリシア語の原文で、この「欲望」
を表現するのに用ひられている言葉は、"επιθυμία"である。私が目を通した
日本語訳では、魂の"επιθυμία"に対しても、肉体の"επιθυμία"に対しても、
同じ「欲望」という語が当てられているが、興味深いことに、ドイツ語の
対訳では、前者は»Verlangen«、後者は»Begierde«として訳し分けられている。<
0793名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 11:13:07.81ID:+A575gx/
私は、ソークラテースが語る「死後の世界にハーイデースが人々の
魂をつなぎ留める束縛」を、万葉集の歌に詠まれる「たま(玉/魂)のを(緒)」
に対応させたが、これには大きな問題があることは明白である。
というのも、「たま(玉/魂)のを(緒)」が「た(絶)え」てこそ、
い(息/生)のち(力)/(命)が失はれるのであり、日本語で考へるなら、
「たま(玉/魂)のを(緒)」が「魂(たましひ)」を「あの世」に
「つなぎ留める束縛」として働くとすることはできないからである。

また、ソークラテースの言説について記述するのに私が用ひた
「魂を『つなぎ留める束縛』」という表現にも、というより、この
表現にこそ、大きな問題と手がかりがある。「つなぎ留める束縛」
という表現は、『プラトン著作集』の日本語訳の表現から私が
そのまま借りてきたものだが、この表現は、古代ギリシア語の
初歩の知識すらない立場の私から見ても、対応する古代ギリシア語
の表現の訳語としてまったく「適合している」と同時にまったく
「適合していない」。私は、単に気取った言ひ回しとして、
このような言ひ方をしているのではない。そうではなく、
「適合している」と同時に「適合していない」ことにこそ、
私が提示した問ひに応へる大きな手がかりがあることを示唆して
いるのである。
0794名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 11:15:22.32ID:+A575gx/
>>790
誤:年がゆ(行)きか(返)へること、春が立つこと、新たな月が立つこと
を表現しているのである
正:年がゆ(行)きか(返)へること、春が立つこと、新たな月が立つこと
を形容しているのである
0795名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 11:56:09.91ID:+A575gx/
>ἐπειδὰν ἡ ψυχὴ καθαρὰ ᾖ πάντων τῶν περὶ τὸ σῶμα κακῶν καὶ
ἐπιθυμιῶν, οὐ φιλοσόφου δοκεῖ σοι εἶναι καὶ εὖ ἐντεθυμημένου
ὅτι οὕτω μὲν ἂν κατέχοι αὐτοὺς δήσας τῇ περὶ ἀρετὴν ἐπιθυμίᾳ,
ἔχοντας δὲ τὴν τοῦ σώματος πτοίησιν καὶ μανίαν οὐδ᾽ ἂν ὁ Κρόνος
δύναιτο ὁ πατὴρ συγκατέχειν αὑτῷ ἐν τοῖς δεσμοῖς δήσας τοῖς
αὐτοῦ λεγομένοις;<

ソークラテースの言説における魂の在り方の「理念化」と日本語の
表現に見られる魂の在り方の「理念化」が互いに矛盾しているとして
も、ハーイデースが死後の世界に「魂を『つなぎ留める束縛』」を
「たま(玉/魂)の『を(緒)』」に対応させるなら、時(とき)の神と
されるクロノスが現世における人々の身体に「魂を『つなぎ留める
束縛』」は、「いき(息/生)の『を(緒)』」に対応させることができる
だろう。ここで、「『魂』をつなぎ留める束縛」を「『いき(息/生)』の
を(緒)」に対応させるのは妥当ではない、という反論はあり得る
だろうが、そもそも、日本語の「たま(玉/魂)」に相当する古代ギリシア語
の表現は、"ψυχὴ"であり、これは、日本語の「息吹き」に対応する
ような表現に由来すると考へられるのだから、その妥当性の問題の根源は、
ハーイデースが死後の世界に「魂を『つなぎ留める束縛』」が
「存在し得る」という「理念化」にあると言へる。また、
ここで注目すべきは、ハーイデースが「魂を『つなぎ留める束縛』」
とクロノスが「魂を『つなぎ留める束縛』」のいずれについても、
ここで用ひた「つなぎ留める束縛」に対応する古代ギリシア語の
表現として同じ"δήσας"という語が使はれていることである。

私には、古代ギリシア語の初歩の知識もないので、この表現について
の説明をWiktionaryから引用すると、次のとおりである。
>δήσᾱς • (dḗsās) m (feminine δήσᾱσᾰ, neuter δῆσᾰν); first/third declension
aorist active participle of δέω (déō, “bind, tie”)
(出典 en.wiktionary.org/wiki/δήσας)
0796名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 13:47:25.22ID:+A575gx/
>「たましひ(玉し火/魂)」とは、「いき(生/息)る」に「あた(能/価/値)ふ」
ことの理念化であり、「たま(玉/魂)のを(緒)」とは、その理念化された
「あた(能/価/値)ひ」を求めつづけることである。<

>「あたら(新/惜)し」は、「『相応しい様態』/"adequacy"を現前させる」
ことを意味していることになり、
「あたら〜を」は、「相応しい様態」/"adequacy"の欠如を目の当たりに
して嘆く表現であることになり、
「を(惜)し」は、その「あたら〜を」の感嘆の「を」を利用した表現として、
(「相応しい様態」/"adequacy"の欠如を目の当たりにした嘆きの)
「『(あたら)〜を』を生じさせる」ことを意味していることになる。<

以上の捉へ方が妥当であるとするなら、「たま(玉/魂)の『を(緒)』」
は、「たま(玉/魂)」を「つなぎ留める」働き、または「結びつける」
働きを物象化して表現する表象としても、つまり、喩としての
「を(緒」であるとともに、「いき(生/息)る」に「相応しい様態」/
"adequacy"の「現前の欠如を嘆く『を』」であり、またその
「相応しい様態」/"adequacy"を、「いき(生/息)る」に
「あた(能/価/値)ふ」ことの理念化として、つまり、
「あた(能/価/値)ひ」/"value"として求める要求の「〜を!」である
ことになるだろう。

では、ここで、私が、その「たま(玉/魂)の『を(緒)』」の「を(緒)」に
対応するものであるとした古代ギリシア語の"δήσας"については
どうだろうか。"δήσας"は、"δέω"から派生した表現であるとされ、
"δέω"には、次のとおり、2つの別々の語源が想定されている。
>Etymology 1
δέω • (déō)
I bind, tie, fasten, fetter
>Etymology 2
δέω • (déō)
To lack, need, require [+genitive = something, someone]
(出典 en.wiktionary.org/wiki/δέω)

見てのとおり、古代ギリシア語の"δήσας"には、発音は同一であるが
その意味も語源も異なるものとされる2つの"δέω"が想定されている
のである。しかし、この2つの"δέω"が、それぞれ、日本語の
「を(緒)」と「〜を!」にちょうどうまく対応していることは、
一目瞭然だろう。これは偶然だろうか。
0797名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 14:09:12.73ID:+A575gx/
ここで、ソークラテースの言説について記述するのに私が用ひた
「魂を『つなぎ留める束縛』」という表現の「適切さ」と「不適切さ」
の問題に戻ることになる。というのも、ここで問題にしている
"δήσας"についてソークラテースが最初に発した問ひは、次の
とおりだからである(ただし、ここでは、"δεσμὸς"と表現される)。

Σωκράτης
ἐγώ σοι ἐρῶ ἅ γέ μοι φαίνεται. εἰπὲ γάρ μοι, δεσμὸς ζῴῳ
ὁτῳοῦν ὥστε μένειν ὁπουοῦν, πότερος ἰσχυρότερός ἐστιν,
ἀνάγκη ἢ ἐπιθυμία;

この問ひにおいて、ソークラテースが対比させているのは、
"ἀνάγκη"と"ἐπιθυμία"であり、そのどちらの方が魂をより
強く結びつける働きをするのかを尋ねているのである。
0798名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 14:39:47.63ID:+A575gx/
>ソークラテース:僕の見るままに君に話すことにしよう。僕に答えて
くれたまえ、ある生物をある場所に止めておこうとするときに、
その生物にとって、いったいどちらがより強力な束縛であるだろうか。
強制か、それとも欲望かね。<
(出典 『プラトン著作集1』、勁草書房、1977年、p.87)

ここで、"ἀνάγκη"は、英語としては、"force, constraint, necessity"に
対応するものとされ、日本語訳では、「強制」と訳されている。これに
対して、"ἐπιθυμία"は、英語としては、"desire, yearning"に対応する
ものとされ、日本語訳では、「欲望」と訳されている。

この問ひに答へさせることにより、ソークラテースが論じているのは、
ハーイデースが人々の魂を死後の世界につなぎ留めているのは、
"ἀνάγκη"によってではなく、"ἐπιθυμία"によってであると思はれる
ということだが、"ἀνάγκη"と"ἐπιθυμία"は、何によるものだろうか。
それは、つなぎ留められること、結ばれることが、「意に沿ふ」こと、
すなはち、「〜を!」の求めに応じるような方向で働くのか、
それとも「意に反する」、すなはち、「〜を!」を縛り付けるような
方向で働くのかという区別だろう。したがって、"δήσας"(または
"δεσμὸς")を「(つなぎ留める)束縛」という日本語に訳すことは、
「束縛」という日本語の表現そのものが、「意に反して縛りつける」
ことを意味することになってしまうので、この表現の古代ギリシア語
の一般的な用法には完全に適っているとしても、"ἐπιθυμία"(「〜を!」)
により結びつける働きを表現するものとしての"δήσας"に対応させること
は不適切であることになるだろう(これに対して、「を(緒)」は完全に
適切である)。
0799哲学の公理/axiom垢版2023/05/14(日) 15:01:28.46ID:+A575gx/
哲学の公理として「あた(能/価/値)ひ」/"ἀξίᾱ"を求めるとは
どのようなことだろうか。

ソークラテースは、そのように人々の魂を結びつける働きをする
"ἐπιθυμία"(「〜を!」) のなかでも、最も強力に働く"ἐπιθυμία"
(「〜を!」) は、どのようなものであると考へているのか。
これについても、ソークラテースは、次のとおり明確に応へている。

>Σωκράτης
ἔστιν οὖν τις μείζων ἐπιθυμία ἢ ὅταν τίς τῳ συνὼν οἴηται
δι᾽ ἐκεῖνον ἔσεσθαι ἀμείνων ἀνήρ;

Ἑρμογένης
μὰ Δί᾽ οὐδ᾽ ὁπωστιοῦν, ὦ Σώκρατες.

Σωκράτης
διὰ ταῦτα ἄρα φῶμεν, ὦ Ἑρμόγενες, οὐδένα
δεῦρο ἐθελῆσαι ἀπελθεῖν τῶν ἐκεῖθεν, οὐδὲ αὐτὰς τὰς Σειρῆνας,
(出典 perseus.tufts.edu, Plat. Crat. 403d)
0800名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 15:24:34.11ID:+A575gx/
大切なことなので繰り返そう。

>Ζῆν οὐκ ἄξιος, ὅτῳ μηδὲ εἷς ἐστι χρηστὸς φίλος
             ― Δημόκριτος
>ひと(一/人)としてな(汝/己)のいと(絲)を(惜/緒)しさのないものには、
いき(生/息)ることは、あた(能/価/値)はない。
             ― 今日の名無しさん

「あらた〜を」において、「〜を」が現状において欠如しているもの
として指し示す「あらた」/「相応しさ」が、どのようにすれば
「あた(能/価/値)ふ」ようになるのかが探り求めつづけられる
「適合」/《adéquation》のプロセスにおいてこた(応) へとして
求めらる「あた(能/価/値)ひ」/"ἀξίᾱ"/《ce qui se doit pour
se rendre adequat à ce qu'on veut》であり、この《vouloir》と
《devoir》の表裏の関係があら(顕/現)はれることこそが、
「な(汝/己)のいと(絲)を(惜/緒)しさ」の「結びつき」/"δήσας"
が、つねに「あたら(惜/緒)しき」ものとして生成することである。
0801名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 15:42:56.28ID:+A575gx/
ところで、" Nietzsche & ἀξίᾱ"で検索すると、
ニーチェの「力への意志」についてのギリシア語の表現がヒットする。

>Η βούληση για ισχύ ως θεμελιώδης αξία του είναι, και του όντος εν γένει λοιπόν.

私は、ギリシア語は分からないので、「力への意志」が妥当な解釈において
表現されることになっているかどうかは知らないが、このように私の自由連想
による勝手な推論が、私の議論にとって極めて都合の良い既存の表現を検索
によって見出すのに大いに役立つのはいつものことである。この場合、
私は、ギリシア語の文字くらいしか知らないのだから、私の自由連想による
推論が「デタラメでまるで当てにならない」とするなら、それにより
このように有効な結果がもたらされることは、驚くべきことではないだろうか。
0802名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 15:51:48.01ID:+A575gx/
いろいろと考へを圧縮して詰め込み過ぎて、分かりにくい書き方に
なってしまったが、何か言おうとすると、すぐに規制がかかって
いつ規制が解かれるか、永久規制になるのかどうかも不明なので
(他の板は永久規制になっている)、規制が解かれているうちに書いて
おこうと思ったので、このような書き方になってしまった。
まあ、どっちにしろ、いつも同じようなことしか言っていないが。
0803名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 17:16:28.38ID:+A575gx/
>>798

Philemon 1:14
χωρὶς δὲ τῆς σῆς γνώμης οὐδὲν ἠθέλησα ποιῆσαι, ἵνα μὴ ὡς
κατὰ ἀνάγκην τὸ ἀγαθόν σου ᾖ, ἀλλὰ κατὰ ἑκούσιον.
0804名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 18:07:43.09ID:+A575gx/
>万葉集 第3巻 391番
鳥総立 足柄山尓 船木伐 樹尓伐歸都 安多良船材乎
鳥総立て足柄山に船木伐り木に伐り行きつあたら船木を
(出典 万葉集ナビ)

"ἀνάγκη"と"ἐπιθυμία"の関係を「あたら〜を」から考へてみよう。
上に引用した歌は、あまりにも文脈を限定するのに役立つ言葉が
少ないため、「あたら船木を」がどのような感慨として詠まれたのか
を特定することは難しく、歌が誰により、いつどこでどのように
詠まれたものであるのかという外的な補足情報に依存して、
さまざまに解釈され得る。ただ、それが喩としての表現である
とした場合でも、「あたら船木を」は、「造船のために使ふのに
相応しい良質の樹木が、そのような樹木である必要のない材木
として使はれる目的で伐られたことを嘆く気持ち」を表現して
いるものであるとする解釈が一般に通用している。したがって、
「あたら船木を」の「あたら〜を」は、その樹木が、その
価値に相応しく造船のために用ひられることを求める気持ち
として"ἐπιθυμία"に対応していると言ふことができる。
ところで、その"ἐπιθυμία"は、通貨が存在しなくても、市場
さえ存在すれば、かな(適)へられることが可能である。
例えば、他人によって、その樹木が材木として使はれる目的
で伐られ、その他人にとって、その樹木が造船に使ふことも
できるような性質の木材であるかどうかよりも、それなりの
材質の木材をさらに多く必要としているとした場合、
「あたら船木を」と嘆く人は、そのようなそれなりの材質の
木材を相手が必要としているだけ入手して、数量的には
より少ない「船木」と交換することをその他人と市場で
交渉して合意することができる。その場合、「あたら
船木を」の「あたら〜を」に相当するだけの数量と材質の
材木を揃えて交換を成立させたなら、「船木」に
限定される価値でもなく、交換される「材木」に限定
される価値でもない「交換価値」が確立されたことになる。
さらに、その「交換価値」を確立して合意した後に、相手
から「船木」を受け取り、しかし、それにもかかわらず、
合意しただけの数量の「材木」がまだ揃わず、一部しか
相手に渡すことができていないとすると、その不足分
について「不足分の材木を!」と相手から請求され、
合意を履行するために不足分を揃える「必要性に迫られる」
ことになるだろう。すると、この請求の「〜を!」と、
その請求に応じるよう「必要性に迫られる」ことは、
"ἀνάγκη"に対応していると言ふことができるだろう。
0805名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 18:24:42.44ID:+A575gx/
>>800
誤:つねに「あたら(惜/緒)しき」ものとして生成することである。
正」つねに「あたら(惜/緒)しき」「い(息/生)のち(力)/(命)」として生成することである。
0807名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/14(日) 22:54:07.56ID:+A575gx/
>>798
誤:"ἀνάγκη"と"ἐπιθυμία"は、
正:"ἀνάγκη"と"ἐπιθυμία"の対比は、

いつものことだが、抜けと誤記だらけだな。
0809名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/15(月) 08:56:50.64ID:/bzY2lua
「たま(玉/魂)の『を(緒)』」、「いき(息/生)の『を(緒)』」
「いき(息/生)を『つなごうとする』」
「い(息/生)のち(力)/(命)」を「つなごうとする」

「つなごうとする」ように作用するのが「を(緒)」であり、
"δήσας"/"δεσμὸς"であり、それは、"ἀνάγκη"としてあら(顕/現)はれる
ことも、"ἐπιθυμία"としてあら(顕/現)はれることもある。

このように「分かり切ったこと」をわざわざ言葉にすると、なぜか
激怒する人々が少なからずいるが、そのようなことでも、できる限り
簡潔に忠実に表現しようとしてみることが哲学的に物事を考察する
ためには不可欠なのである。

ところで、古代ギリシア語の"δήσας"という表現は、その発音と用法から、
私にはすぐに英語の"tether"を想起させるが、同一の語源に遡ることが
できるとは想定されていない。いずれにせよ、生きることにおける
「み(身)ど(獲/取)り」を、その「なが(流)れ」において"tethering"
の観点から、つまり、「つなごうとすること」、「つながること」、
「つながりを解くこと」のプロセスとして捉へ直してみることも、
生きるとはどのようなことなのかを哲学的に考へるのに有用だろう
と私には思える。
0810名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/15(月) 09:35:00.05ID:/bzY2lua
「生きる」ことを、「生き残る」/"to survive"ように「与へられた環境」
に「適応する」/"to ad・apt"ことから成るとする「進化論」的な見方は、
偏っている。このような発言をするとたちまち、科学として広く一般に
認められる「進化論」を否定する「宗教原理主義者」と見做されること
になりかねないが、私は、なにか宗教的な物事の見方を示そうとしている
わけではない。

より根源的に考えるなら、それがどのようなものとしてであれ、
「『あた(与)へ』られた環境がある」とすることそのものが、
「あた(能/価/値)ふもの」として「『ゐ(居)』ること」/"being"を
前提としている。これは、とりもなほさず、「生きる」ことは、
「与へられた環境」に「適応する」/"to ad・apt"ことによって
成立するよりもまず、「あた(能/価/値)ふこと」、すなはち、
"aptitude"としてあら(顕/現)はれていることを意味している。
0812「安多良佐可里乎(あたら盛りを)」という「不定愁訴」垢版2023/05/16(火) 09:35:03.71ID:nPGtzny0
「あたら〜を」とは、その「あた(能/価/値)ひ」が不確かな愁訴であり、
そのような「を(惜/緒)し」という感覚で対象を捉へることが、
古代ギリシア語の"ἐπιθυμία"という表現によっても伝へられる
"aspiration"でもある。

私は、「由良久多麻能乎(ゆらくたまのを)」を古代ギリシア語の
"εὐθυμία"に対応させたが、デモクリトスが理想として説いた
と伝へられる"εὐθυμία"は、英語では、"cheerfulness, contentment"
に対応するとされる(出典 lsj.gr/wiki/εὐθυμία)が、
日本語としては「魂の快活さ/晴れやかさ」
と訳されているようである。

ここで、"ἐπιθυμία"と"εὐθυμία"と並べてみると、"ἐπι・θυμία"、
"εὐ・θυμία"であり、"ἐπι-"と"εὐ-"は、それぞれ接頭辞として
用法のはっきりした表現なので、"θυμία"が共通していることになる
はずだろう。実際、"εὐθυμία"をWiktionaryで参照してみると、
その語源は、次のように説明される。
>From εὔθῡμος (eúthūmos, “cheerful”) +‎ -ῐ́ᾱ (-íā),
from εὐ- (eu-, “good”) +‎ θῡμός (thūmós, “soul”). <
(出典 en.wiktionary.org/wiki/εὐθυμία)

この語源説明から、"θῡμος"は、英語の"spirit"にもうまく対応する
だろうという連想がすぐに働き、すると、"ἐπι・θυμία"の方は、
英語の"aspiration"に対応するだろうとただちに思ひ浮かぶ。
そこで検索してみると、実際にそのように考えられていることが
確かめられる。
>Woodhouse, S. C. (1910) English-Greek Dictionary: A Vocabulary of the Attic Language, London: Routledge & Kegan Paul Limited.
appetite idem, page 35.
aspiration idem, page 45.
bent idem, page 74.
(出典 definify.com/word/ἐπιθυμία)
0813名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/16(火) 09:44:08.07ID:nPGtzny0
ところが、である。Wiktionaryで"ἐπιθυμία"の語源説明を参照しても、
>from ἐπι- (epi-, “〜”) +‎ θῡμός (thūmós, “soul”).
とは記載されておらず、
>Related to ἐπῐ́θῡμος (epíthūmos, “desirous”) +‎ -ῐ́ᾱ (-íā).
とだけ説明されていて、それ以上に詳しく語源を辿ることができる
ようにはされていない。
それだけではなく、
"ἐπιθυμία & etymology"で検索してみても、私が見て回った限り
では、
>from ἐπι- (epi-, “〜”) +‎ θῡμός (thūmós, “soul”).
としての語源説明が見当たらない(ただし、「不在証明」は原理的に
成立せず、私が見て回った範囲も狭いので、はそのような説明が
存在しないと主張しているのではない)。これは、とても奇妙な
ことではないだろうか。
0814「あたら〜を」という「愁訴」/"aspiration"垢版2023/05/16(火) 10:26:48.74ID:nPGtzny0
私は、「あたら〜を」という表現から導き出すことができる、求める呼びかけ
としての、つまり、《vouloir》の「〜を!」と、その求める呼びかけに
こた(応)へることになる「はず」の《devoir》の「〜を」の表裏の関係性
を示すために、《ce qui se doit pour se rendre adéquat à ce qu'on veut》
という句をフランス語を用ひて書いてみた。

これも、私が勝手に作ったフランス語の句であるので、フランス語を母語と
する人に通用する、つまり、その意図が伝はるような表現となっているか
どうかはまったく不明である。ただし、その不明さは、私がいつも書き込ん
でいる奇妙な日本語の不明さと似たようなもので、要するに、意図をうまく
伝へようとする試行錯誤である。ここで、このフランス語の句の意図が
伝はることを勝手に前提とするなら、
《ce qui se doit pour se rendre adéquat à ce qu'on veut》
の関係性において、《ce qu'on veut》が「あたら〜を」の「〜を」に
対応するように、求める呼びかけの「を」が、「どのようにどれだけ
あた(能/価/値)ふ」ようになることを望んでいるのか不確定である
限りで、その《vouloir》としての「〜を!」は、"ἐπιθυμία"/
"aspiration"/「愁訴」としてあら(顕/現)はれことになり、また、
その「どのようにどれだけあた(能/価/値)ふ」ようになることを望ん
でいるのかが確定したなら、その《vouloir》としての「〜を!」は、
明確に規定された「あた(能/価/値)ひ」を指し示していることになり、
"ἀνάγκη"/"necessity"/「要求」としてあら(顕/現)はれことになる。

したがって、ものごとをまず「数理化」して、「どのようにどれだけ
あた(能/価/値)ふ」かを規定してから記述しようとすることは、
あらかじめ、《vouloir》としての「〜を!」に"ἀνάγκη"/"necessity"/
「要求」としての「あら(顕/現)はれ」に制限して、それが、
"ἐπιθυμία"/"aspiration"/「愁訴」としてあら(顕/現)はれることを
「未然に阻止する」こととなるのである。そのような関係性における
統治では、それがどのように調整されるにせよ、「あ(当)てが(交)ひぶち」
にうまく「適応する」/"to adapt"ことだけが「合理的」であるとされ、
「どのようなことをどれだけ」することが「み(身)づから(柄)/自ら」に
「あた(能/価/値)ふ」こと/"to be apt"になるのかを探り求めつづける
振舞ひは、自他により「不定愁訴」として否定的に評価されて、
その「訴へ」が無いが如くに、つまり、ないがし(蔑)ろに扱はれる/
"to be neglected"ことになるだろう。
0815Der Untertan垢版2023/05/16(火) 10:41:35.30ID:nPGtzny0
私が言ひたいことをうまく伝へるために、それをうまく記述すること
のできるメタ言語的な表現を磨こうとして試行錯誤を繰り返すことも、
他人にとっては、何を言ひたいのかよく分からないことばかり
言っているのだから、まさしく「不定愁訴」でしかないだろう。

実際、私が対面で関係をもった私を評価する立場にいた人々は、
ほとんど例外なく、そのような試行錯誤を「ナンセンス/無意味」
なものとして頭ごなしに完全に否定し、それが「ナンセンス/無意味」
であることを私に思ひ知らせようとすることだけが「正しい」こと
だと確信している人々ばかりだった。
0816名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/16(火) 10:54:55.34ID:nPGtzny0
>万葉集 第20巻 4318番
安伎能野尓 都由於弊流波疑乎 多乎良受弖 安多良佐可里乎 須<具>之弖牟登香
秋の野に露負へる萩を手折らずてあたら盛りを過ぐしてむとか<

「あたら〜を」に対する数理化された「合理的」な対応とは、
このような感慨を詠む人、それに感銘を受けるような人々が多くいた
とすると、そのような人々を含む集団の成員の各自に1本ずつ花の咲い
た萩の枝と、そこに水滴をつけるための霧吹きを配給するようなものだ。
しかし、それを「理想の実現」として掲げて、人々にそのような
「理想の実現」を求めるように感性の方を適応させることを要求する
のはいかにも、「あさはか」ではないのか。
0817名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/16(火) 11:45:25.14ID:nPGtzny0
私は、数理化することの合理性も含め、理念化が重要ではないという
ようなことを言っているのではない。そうではなく、数理化されようと
されまいと、理念化による合理性の真理も、それが「ま(真)・こと(言/事)」
となるためには、その背景としての、情念の働きによ(依)り、不定の愁訴に
よ(依)り支へられていると指摘しているのである。

>L'expression employée doit se rendre adéquate/être fidèle à
ce qu'elle/on veut dire.<
0818名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/16(火) 12:02:12.90ID:nPGtzny0
世の中では、何もしていない(スポーツや娯楽などの活動さえしていない)
人間はひま(暇)にしているのだから、働かせなければならないという
考へ方が一般的である。しかし、幸か不幸か、私はこうして何もして
いなくても、ひま(暇)であると感じることがない。むしろ、逆に、
何もしないうちにいつの間にか時間が経ってしまっているという感覚
の方が強い。朝起きて、少し書込みをしただけで、もう昼食の時間に
なってしまった。
0819名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/16(火) 12:11:46.12ID:nPGtzny0
652つか(仕/使)へないやつ2020/01/26(日) 13:52:12.160
哲学は何の役に立つのか?

SCHEITERN
>Ich wollte leben wie einer, der den Menschen dient.
Aber sie erlaubten mir nicht, daß ich ihnen diene:
Sie forderten stets, daß ich dienstbar bin, was nicht
dasselbe ist. Dienen kann ich, Diener sein nicht.
Und so bin ich beiseite getreten, bin gescheitert.<
― Sándor Márai, "Himmel und Erde.", p.90
0820真蘇鏡垢版2023/05/16(火) 12:31:40.50ID:nPGtzny0
>>787
ところで、"χρηστὸς φίλος"とは、どのような「とも」のことを指す
のだろうか。>>155前後で説明するとおり、
「な(汝/己)のまこと(真言)をしろしめすもの」、
「な(汝/己)とまこと(真言)をともにするもの」を指すことになる
のではないか。
0821名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/16(火) 14:48:33.22ID:nPGtzny0
>>814
誤:《vouloir》としての「〜を!」に"ἀνάγκη"/"necessity"/「要求」としての
正:《vouloir》としての「〜を!」を"ἀνάγκη"/"necessity"/「要求」としての
0822名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/16(火) 22:49:53.42ID:nPGtzny0
>>814
このように人々の「たましひ(魂)」を「つなごうとする」働きをする
ものとして捉へられる「を(緒)」/"δήσας"/"δεσμὸς"が、
《vouloir》の「〜を!」と、その求める呼びかけにこた(応)へる
ことになる「はず」の《devoir》の「〜を」の表裏の関係性として、
"ἐπιθυμία"/"aspiration"/「愁訴」としても、"ἀνάγκη"/"necessity"/
「要求」としてもあら(顕/現)はれ得ることに注目することは、
社会の仕組みと統治について考へるうへでもとても重要だろう。

私は、プラトンの『クラテュロス』でソークラテースが語る
"ἐπιθυμία"(日本語訳では、「欲望」と訳されている)について、
ドイツ語の対訳(Reclam文庫)では、魂の"επιθυμία"については、
»Verlangen«、肉体の"επιθυμία"については、»Begierde«として
訳し分けられていることを指摘した。ここで、»Verlangen«は、
英語の"demand"に、つまり、「需要」に対応する表現である
のに対して、»Begierde«は、"desire"に、つまり、「欲情」に
対応する表現であることに気づくことになる。ここで、
「を(緒)」/"δήσας"/"δεσμὸς"が"ἐπιθυμία"としても、"ἀνάγκη"
としてもあら(顕/現)はれ得ることを想起するなら、すぐに
思ひ浮かぶのは、市場経済の活動を合理的に駆動するもの
と見做されている「需要」と、それを活発化させるとともに、
暴走もさせるものと見做されている「欲情」の働きだろう。
0823名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/16(火) 23:14:24.29ID:nPGtzny0
ここで社会を組織化する仕組みについて少し考へてみるなら、
"ἐπιθυμία"/"aspiration"/「愁訴」を"ἀνάγκη"/"necessity"/
「要求」に変換するのは、市場の確立以前にまず、分業を
介した交換条件についての約束の履行であると見ることができる。
約束の履行が交換条件を確定させることになる「はず」である
なら、"ἐπιθυμία"は、"ἀνάγκη"に変換されることになるだろう。
近現代にかけて支配的であった経済学のイデオロギーでは、
市場は、「合理的」に機能すること、言い換へるなら、
その働きは、数理化されて記述され得るものであるという
考へ方が一般的であるが、市場経済の発展的な拡大そのものは、
むしろ、「必然性」としての"ἀνάγκη"を、「熱望/情欲」として
の"ἐπιθυμία"に向けて解放するような働きをして、市場の
活動そのものが、そのような働きが無限定に続くものに
見えるように演出する。ところが、市場主義そのものは、
つねに、交換条件が成立してもたらされた結果を「合理的」
なものとして正当化するので、今度は、そこで再び、
「熱望/情欲」としての"ἐπιθυμία"が「必然性」としての
"ἀνάγκη"に変換されることになり、市場における個々の
「失敗」(それが国家規模の経済破綻であれ)は、
「熱望/情欲」としての"ἐπιθυμία"の暴走によるものである
とされることになるのである。
0824名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/17(水) 00:56:36.41ID:D8h8iomT
>「し(知/領)る」とは、「気づき方を組織化する」ことである。

私の書込みは、気づいたことを、できるかぎり気づいたとおりに
言葉にしようとしているだけで、それについて自分が既に詳しく
知っていると自負していて、人に教へようと思っているわけ
ではない。要するに、私は、煙と炎が上がっていることに
気づいて、「火事ですね」と不特定の相手に確認を求めている
に過ぎない。だから、「何が燃えているのか」とか、
「誰が火を着けたのか」とか、「どこの消防署に確認と
許可を得てそんなことを言っているのか」と言われても、
私はそんなことは知らないし、私にはそれが確かに火事である
ように見えると発言しているだけで、その認識が誤りである
ことはあり得ないと主張しているわけでもない。
0825名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/17(水) 09:23:49.91ID:D8h8iomT
>>823
このように見ると、「概念」は流動化して、とても興味深いつながりを
見せるようになる。>>795に引用した"Plat. Crat. 404a"
(出典 perseus.tufts.edu)からのソークラテースの言葉を再び参照
すると、人々の魂が肉体の"ἐπιθυμία"/「熱望/情欲」に駆られている
限りは、時(とき)の神、クロノスの強力な"δήσας"/「を(緒)」でさえ、
それらの魂をつなぎ留めておくことができないといったようなことを、
ソークラテースは語っている。

これを人々の経済活動との関係において、"ἐπιθυμία"/「熱望/情欲」
が分業を介した人々の組織化により「必然性」としての"ἀνάγκη"
に変換され、その"ἀνάγκη"/「必然性」が市場経済の発展的な拡大に
より、再び"ἐπιθυμία"/「熱望/情欲」に向けて開かれ、次に、
その"ἐπιθυμία"/「熱望/情欲」により駆られた活動の結果が、
市場主義の「原理」に従って"ἀνάγκη"/「必然性」に変換されて
処理されることを考へるなら、時(とき)の神、クロノスがその
強力な"δήσας"/「を(緒)」をもってしても、人々の魂を「現世」/
"temporal world"につなぎ留めておくことができない(つまり、
魂は、あの世に向かうことになる)というソークラテースの
説明がすぐに想起されることになるのは、『自殺論』で知られる
フランスの社会学者、Émile Durkheim(デュルケーム)の用ひた
《anomie》/「アノミー」の概念だろう。だが、ここでは、
古代ギリシア語に関連して考察を進めてきたのだから、さらに
連想は連鎖して、《anomie》の語源が"from ἀ- (a-, “not”) +
νόμος (nómos, “law”)"(出典 Wiktionary)であることから、
語源的に"νόμος"に遡ることができるとされる、ドゥルーズが用ひ
た概念として知られる《nomadisme》/「ノマディスム」まで
つながることになる。
0826名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/17(水) 09:39:40.36ID:D8h8iomT
ところで、"ἀνάγκη"/「必然性」が市場経済の発展的な拡大により、
再び"ἐπιθυμία"/「熱望/情欲」に向けて開かれるように感じられる
ことになるのはなぜだろうか。

ここで、"νόμος"/「ノモス」について、以前、私自身が書き込んだことを
自己引用しよう。

>名無しさん@お腹いっぱい。2022/08/28(日) 09:55:04.56ID:3nVHs9Bj
したがって、「ま(任/牧)きば(場)」としての「ノモス」は、家畜が
自由に移動すること、つまり、家畜を放牧することができる場所/
"a place at liberty"であると言うことができる。では、「配分する」
を意味する用法に由来するとされる、「『法』という意味での
『ノモス』」の方はどうだろうか。こちらの方も、馴染みのない
古典ギリシア語ではなく、母語とする日本語や、より慣れ親しんだ
英語をメタ言語として用いて考えてみるなら、それがどのような
表現として用いられたのか、容易に類推することができる。

それは、「ま(任/牧)きば(場)」としての「ノモス」と「法」としての
「ノモス」は、「自由/勝手に〜することができる(場)」と「〜させて
『いただく』ことができる『ゆるし(≒"allowance"≒「配分」⇒
「法/ノモス」)』」の関係にあるということだ。<
0827名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/17(水) 09:57:41.49ID:D8h8iomT
市場経済の発展的な拡大により人々の生活にもたらされるのは、各自の
生活のための活動が分業により「仕事」として、自/他である「ひと(人)」」
に「まか(任)せられる」ようになる(これは、受動と解釈しても、能動と
解釈してもよい)ことの拡大、つまり、無限定に成長をつづける市場と
いう「ま(任/牧)きば(場)」/"places at liberty"の拡大としてあら(顕/現)
はれ、そこで活動することは、現状でそうでないとしても、少なくとも
将来的には、"to be at (one's own) service without being a servant"
という感覚を実現することができる可能性を追求させることになる。
この可能性の追求こそが、
>"ἀνάγκη"/「必然性」が市場経済の発展的な拡大により、再び"ἐπιθυμία"/
「熱望/情欲」に向けて開かれる<
ことに対応している。
0828名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/17(水) 10:00:49.97ID:D8h8iomT
さて、
>ところが、市場主義そのものは、つねに、交換条件が成立して
もたらされた結果を「合理的」なものとして正当化するので、今度は、
そこで再び、「熱望/情欲」としての"ἐπιθυμία"が「必然性」としての
"ἀνάγκη"に変換されることになり、市場における個々の「失敗」
(それが国家規模の経済破綻であれ)は、「熱望/情欲」としての
"ἐπιθυμία"の暴走によるものであるとされることになるのである。 <

したがって、この局面こそが、Émile Durkheim(デュルケーム)の用ひた
《anomie》/「アノミー」の概念に対応していることになる。
0829名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/17(水) 10:16:13.45ID:D8h8iomT
このような関係性を考察したなら、「ἀ- (without)・νόμος (nómos)」、
すなはち、「ま(任/牧)きば(場)」/"places at liberty"の消滅によって
代わりに出現することになるのが、「全頭個体管理」の方向性である
ことに何の不思議もない。その方向性に誘導されてもたらされるのが、
"ὁμολογέω"/"to confess"/»bekennen«が「「な(汝/己)のまこと
(真言)をしろしめす」行為であるものとされることから
「罪を告白する」行為であるものとされることへの解釈の変換だろう。
0830名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/17(水) 10:23:13.33ID:D8h8iomT
私は、書込み規制されない限りは、こういう「ナンセンス/無意味」な
減らず口なら、とどまるところを知らず、いくらでも叩きつづけることができる。
しかも、それが他人にとって幸か不幸かは私には分からないが、落書きは、
論文などと違って、私に白紙撤回を強制することは不可能なのである。
無論、批判を受けて、それが妥当なものであると感じられるなら、
私は、いつでも、いくらでも自分の考へを曲げるが。
0831Life Is a Pigsty垢版2023/05/17(水) 10:51:46.12ID:D8h8iomT
αὐτο- (auto-, “self-”)・νόμος (nómos)/ま(任/牧)きば(場)の自由から
ἀ- (a-, “without”)・νόμος (nómos)/ま(任/牧)きば(場)の消滅へ
という全頭個体管理
0832名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/17(水) 10:54:07.28ID:D8h8iomT
>>825
誤:ソークラテースの説明がすぐに想起されることになるのは、
正:ソークラテースの説明からすぐに想起されることになるのは、
0833名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/17(水) 23:23:13.91ID:D8h8iomT
"ἀνάγκη"が、日本語にすれば、ほぼ「強制力」に相当するような意味で
用ひられることが分かって、役に立つ例文だけど、これは、どこから引用してきた
文言だろう。

>τοῖς μὲν δούλοις ἡ ἀνάγκη εἰσί νόμος , τοῖς δὲ ἐλευθέροις ἀνθρώποις ὁ νόμος εἰσίν ἀνάγκη
>For slaves force is law, wherease for the free men law is force.
(出典 en.wiktionary.org/wiki/τοῖς)
0834名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/17(水) 23:38:34.30ID:D8h8iomT
>>833
このWiktionaryの例文の元の出典は不明だが、この例文によって明示される
関係性を見ても、
>「ま(任/牧)きば(場)」としての「ノモス」と「法」としての
「ノモス」は、「自由/勝手に〜することができる(場)」と「〜させて
『いただく』ことができる『ゆるし(≒"allowance"≒「配分」⇒
「法/ノモス」)』」の関係にある<
という、古代ギリシア語については初歩の知識すらない私の、
日本語や英語の表現からの連想による捉へ方の妥当性が確かめられる。
0835名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/18(木) 06:52:32.94ID:6bGPXhqf
>>833-834
>τοῖς μὲν δούλοις ἡ ἀνάγκη εἰσί νόμος ,
τοῖς δὲ ἐλευθέροις ἀνθρώποις ὁ νόμος εἰσίν ἀνάγκη<

この言葉を、古代ギリシア語を知らない私が、与えられた英訳を手がかり
にして、普通の日本語の表現に訳すなら、次のとおりとなるだろう。

「奴隷("δούλοις")にとっては、力("ἀνάγκη")が法("νόμος")である一方で、
自由人("ἐλευθέροις ἀνθρώποις")にとっては、法("νόμος")が力("ἀνάγκη")である」

このような表現をどのように理解するかに思想と哲学の明確な対比が典型的
に表れる。逆に言へば、このような表現に対して提示される理解により、
それを提示する者が、哲学をしているのか、自分の「思想的な立場」を明らか
にしているに過ぎないのかが分かる。
0836名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/18(木) 07:11:26.75ID:6bGPXhqf
「奴隷("δούλοις")にとっては、力("ἀνάγκη")が法("νόμος")である一方で、
自由人("ἐλευθέροις ἀνθρώποις")にとっては、法("νόμος")が力("ἀνάγκη")である」

このような言明に対して、思想の言説を展開する者が提示する典型的な理解は、
次のようなものだろう。

>「奴隷("δούλοις")」も「自由人("ἐλευθέροις ἀνθρώποις")」も
「人(ひと)」であることに本来/生来、違ひはないはずであり、
本来/生来、互いに等しいはずの「人(ひと)」が、力("ἀνάγκη")と
法("νόμος")の関係において別様に扱はれることは正しくない/
不正である。したがって、「奴隷("δούλοις")」も
「自由人("ἐλευθέροις ἀνθρώποις")」も「人(ひと)」として
平等であることが正しく認識されたなら、このような言明が
正しくない/不正である/誤りであることも、万人によって認め
られるはずである。<

さて、このような例文に思想の言説を代表させることで、私は、
思想の立場を不当に揶揄する/貶める目的で、典型的によく見られる
思想の表現に何か誇張や歪曲を加へているだろうか。
0837名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/18(木) 07:24:29.42ID:6bGPXhqf
このような例文に思想の言説を代表させることが妥当であるとすれば
(別に異論はいくらあってもいいし、むしろ、私には、それが強制削除
要求のようなものでない限り、異論は歓迎すべきものである)、哲学
することにより紡ぎ出される言説は、それとはまったく異なる性質
のものだ。

「奴隷("δούλοις")にとっては、力("ἀνάγκη")が法("νόμος")である一方で、
自由人("ἐλευθέροις ἀνθρώποις")にとっては、法("νόμος")が力("ἀνάγκη")である」

このような言明が与へられたとして、哲学する者は、それがどのように正しくない/
不正である/誤りであるかを証明しようとしたりはしない。したがって、
そのような態度は、典型的な「思想の立場」から見れば、現状肯定または
現状追認であるかのように見えることになるのだろう。だが、逆に、
哲学する者から見れば、典型的な「思想の立場」を表明して、何かを言った
気になっている者こそ、何一つ根本的に考へることをしないこと、
根本的に考へることをあらかじめ拒絶し、排除することにより、
実際に現状肯定または現状追認に加担し、他の人々もそうするように
導いているのである。
0838名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/18(木) 07:35:50.45ID:6bGPXhqf
「奴隷("δούλοις")にとっては、力("ἀνάγκη")が法("νόμος")である一方で、
自由人("ἐλευθέροις ἀνθρώποις")にとっては、法("νόμος")が力("ἀνάγκη")である」

この言明がどのような「表現の論理」によるものであるのかを哲学的に
考へてみれば、表向きは「奴隷("δούλοις")」と「自由人("ἐλευθέροις
ἀνθρώποις")」の制度的な区別が存在しないものとされている今日の、
国民主権とされる議会民主主義の国々においても、同様の論理が厳然と
働いており、むしろ、それが当たり前のこととして受け入れられ、
それを当たり前のこととして受け入れようとしない者の方が、力による
排除の対象とされていることに気づくことになるだろう。これは、
"ἀνάγκη"と"νόμος"について既に検討したことを踏まえて、この言明
を、より一般的な形式に言い換へて表現してみるなら、容易に示す
ことができる。
0839名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/18(木) 07:49:26.76ID:6bGPXhqf
強制力("ἀνάγκη")および法("νόμος")との関係において
「奴隷("δούλοις")」とは、誰のことだろうか。
それは、「自由/勝手に〜することができる余地」、「〜させて
『いただく』ことができる『ゆるし(≒"allowance"≒「配分」⇒
「法/ノモス」)』」を与へられていない者、またはそれを強制力
("ἀνάγκη")により厳しく限定されている者のことである。
その一方で、「自由人("ἐλευθέροις ἀνθρώποις")」とは、
「自由/勝手に〜することができる余地」、「〜させて
『いただく』ことができる『ゆるし(≒"allowance"≒「配分」⇒
「法/ノモス」)』」を与へられている者、またはそのような
「ゆるし(≒"allowance"≒「配分」⇒「法/ノモス」」が
侵害されることを、強制力("ἀνάγκη")により排除することが
できる者のことである。
0840名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/18(木) 08:25:10.41ID:6bGPXhqf
この関係性とこれまでの検討を踏まえて、
「奴隷("δούλοις")にとっては、力("ἀνάγκη")が法("νόμος")である一方で、
自由人("ἐλευθέροις ἀνθρώποις")にとっては、法("νόμος")が力("ἀνάγκη")である」
という言明を、より一般的な形に言い換へてみよう。すると、次のようになるだろう。

>For those who are "ἀ- (without)・νόμος (nómos)"/
"without allowed room for liberty"("まか(任)せられない者"/"奴隷")
"ἀνάγκη"/"force"/"力" is "νόμος"/"law"/"き(決)めごと", whereas
for who are "αὐτο- (auto-, “self-”)・νόμος (nómos)"/
"with allowed room for liberty"("まか(任)せられる者"/"自由人")
"νόμος"/"law"/"決めごと" is "ἀνάγκη"/"force"/"力".

この言ひ換へにより、私は、何か奇妙な世の中一般の常識に反する
ようなことを表現しているだろうか。例えば、現代の日本において、
法律上、主権者としての国民として認められている誰かが、
借金の返済であれ、商品やサービスの引渡しの不履行であれ、
何らかの料金の滞納であれ、契約不履行に陥った場合のことを
考へてみるといい。すると、契約を履行できない者は、多少の
猶予期間を与へられたとしても、すぐに、法律上、
少なくとも契約に関する範囲については、もはや「まか(任)せられる者」
ではなくなったと規定されることになり、「まか(任)せられない者」
であると見做されることになるだろう。そして、通常、
「まか(任)せられない者」、例えば、借金を返済できない「破産者」
にとっては、資産の差し押さえなどの強制力("ἀνάγκη")が法("νόμος")
となることは、誰もがよく知っていることであり、それを原理的に
不正行為であるなどと考へたりはしない。
0841名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/18(木) 08:57:55.00ID:6bGPXhqf
このように説明しても、「何を今さら、そんな誰でもが知っている
当たり前のことを言っているのか」というのが普通の反応だろう。
さらに、「思想の立場」にある人々からは、「法律は誰にでも平等に
適用されるという原則に基づいて運用されるものなのだから、
奴隷/自由人という身分制度上の区別とは、まるで別の話だ」と
いったような批判が返ってくるのも目に見えている。しかし、実際
には、そのような原則により誰にでも各人に平等に適用されるように
運用されたりはしないし、そのように法制度が設計されることもない。
なぜなら、社会は、階層的に組織化されているからであり、
法律が個人としての各人に平等に適用される建前となっていたとしても、
組織には別様に法律が適用され、組織に適用される法律がそこで
活動する個人にどのように効力を発揮するかは、組織と組織に
おける個人の立場により、まったく異なるからだ。例えば、
同じ「企業経営者」の立場であったとしても、自営業者が
借金をして、それを返済できなくなれば、たちまちに自己資産が
差し押さえられることになるだろう。しかし、大企業の経営者が
経営に行き詰まって企業の借金を返済できなくなったとしても、
企業の資産が差し押さえられたり、別企業に売却されることは
あっても、経営者本人の自己資産が差し押さえにあったりはしない。
それどころか、企業の収益を別の財団によって管理して、
自分もそれに属する集団で管理しているなら、それまでに
企業が貯えた莫大な資産も安泰である。「思想的な立場」から、
そのような仕組みは、「不正である」として法律の改正を求める
ような言説を展開する者がいたとしても、大企業の経営者と
自営業者に個人として同様に法律の効果が及ぶように法制度が
改正されるべきだというような主張は「絵にかいた餅」である。
なぜなら、法制度がそのように運営されたとすれば、それは
社会の階層的な組織化を解消する方向で作用することになり、
仮にそのようなことを実行できたとしても、別の階層的に
組織化された集団に乗っ取られることになるだけだからだ。
このため、どのような「思想の立場」により社会の改善を
提唱する者も、実際に、社会の階層的な組織化の解消を目指して
活動することなどはない。
0843名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/18(木) 13:24:54.59ID:6bGPXhqf
>「自由人("ἐλευθέροις ἀνθρώποις")」とは、
「自由/勝手に〜することができる余地」、「〜させて
『いただく』ことができる『ゆるし(≒"allowance"≒「配分」⇒
「法/ノモス」)』」を与へられている者、またはそのような
「ゆるし(≒"allowance"≒「配分」⇒「法/ノモス」」が
侵害されることを、強制力("ἀνάγκη")により排除することが
できる者のことである。<

ここで、英語の"to allow"の語源の説明を参照すると、次のとおり
記載される。
>The Middle English word is from Anglo-French alouer, Old French aloer,
alloiier (13c.) "to place, situate, arrange; allot, apportion, bestow,
assign," from Latin allocare "allocate" (see allocate). This word in
Old French was confused and ultimately merged with aloer;
alloer "to praise, commend, approve," from Latin allaudare, adlaudare,
a compound of ad "to" (see ad-) + laudare "to praise" (see laud).<
(出典 etymonline.com/search?q=allow)

したがって、"to allow"の語源の《alouer》は、《a-・louer》と分解される
わけだが、現代のフランス語で《louer》は、「賃貸しする/賃借りする」
および、「ほめる/賞賛する/たたえる」という意味で用ひられる。
また、"to allow"の語源としての《alouer》の反義語は、"to defend"
の語源でもある《d'fendre》 (“to forbid”)であるとされる。
(出典 en.wiktionary.org/wiki/allouer#Old_French)
さらに、英語の"to allocate"に相当する意味で用ひられたとされる
《alouer》の語源は、ラテン語の"ad- +‎ locō"であるとされるが、
"locō"は、英語の"to place"に対応するような表現であると解釈され、
ここからすぐに連想される、"to allocate"類似した用法の英語の
表現に"to allot"があり、これに対応する古代ギリシア語の表現を
検索すると、"νέμειν"がヒットし(出典 lsj.gr/wiki/allot)、
そこからリンクにより"νέμω"に導かれ(出典 lsj.gr/wiki/νέμω)
この"νέμω"が、「ノマド」と「ノモス」に共通する語源であると
考へられている。さらに、"νέμειν"は、印欧祖語として再構成された
語根の"*nem-"を介してドイツ語の»nehmen«("to take")にもつながる
ものと想定されている。
0844名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/18(木) 13:28:40.22ID:6bGPXhqf
私は、何もここで説明される語源的な関係が確実で、それにより
表現の用法が確定できるといったようなことを主張したいわけではない。
そうではなく、大切なのは、これらの語源説明に見られるような、
表現によって想起される相互の関係性が、どのような「気づき方」
を、どのように編成したものなのかに留意することである。
0845名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/18(木) 14:07:30.48ID:6bGPXhqf
>大切なのは、[…]どのような「気づき方」を、どのように編成したもの
なのかに留意すること<

これを忘れると、それが何についてのものであれ、知識は意味を失ふ。
学者や研究者であっても、そのことが分からない人がとても多い。
0846名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/18(木) 14:27:37.49ID:6bGPXhqf
まずは対象の定義から始めて、気づき方を編成しようとするなら、
その編成の取組みそのものが定義を絶えず組み換えることを許すので
なければ、必ず"hair-splitting"に陥ることになるだろう。

>Il faut faire le distinguo.
There’s a subtle distinction to be made here.
>des distinguos inutiles
splitting hairs
(出典 dictionary.cambridge.org/dictionary/french-english/distinguo)
0847名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/19(金) 14:10:03.10ID:JZ7vCs+R
economy
>Etymology
From Middle English yconomye, yconomy, borrowed via Old French
or Medieval Latin from Latin oeconomia, from Ancient Greek
οἰκονομία (oikonomía, “management of a household, administration”),
from οἶκος (oîkos, “house”) + νέμω (némō, “distribute, allocate”)
(surface analysis eco- +‎ -nomy)<

「つなごうとする」ように作用するの「を(緒)」/"δήσας"/"δεσμὸς"
の働きにより、「相応しい様態で」/"adequately"求めに応じる「はず」
の「あたひ(与/能/価/値)」/"ἀξίᾱ"の追求(求める呼びかけとしての
《vouloir》の「〜を!」と、その求める呼びかけにこた(応)へる
ことになる「はず」の《devoir》の「〜を」の表裏の関係性の
「適合」/《adéquation》のプロセス)がそこ(損)なはれることが、
「いた(痛/傷/悼)み」としてあら(顕/現)はれる。
0848名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/19(金) 14:38:47.79ID:JZ7vCs+R
法("νόμος")とともにある者、法("νόμος")を身方につけている者
にとって、法("νόμος")の強制力("ἀνάγκη")は、
「自由/勝手に〜することができる余地」を「侵害から防御する」
/"to defend"ように作用するが、
法("νόμος")とともにない者、法("νόμος")を身方につけていない者
にとって、法("νόμος")の強制力("ἀνάγκη")は、
「自由/勝手に〜することができる余地」を奪ふように作用する。

例えば、それまで法("νόμος")とともに、法("νόμος")を身方につけて
その土地に「自由/勝手に居住することができる余地」が与へられて
いるものと信じていたとしても、その土地が公共事業の建設用地として
収用されることが決まれば、その土地に「自由/勝手に居住することが
できる余地」を奪ふ強制力("ἀνάγκη")が法("νόμος")の作用である
ことになり、それに抵抗しようとすることは、"ἄνομος"/
"without law"の立場に身を置くことになる。
0849名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/19(金) 15:14:53.15ID:JZ7vCs+R
誤:作用するの「
正:作用する「

>>847
経験は、「み(身)ど(獲/取)り」の「と(取)りく(汲/組)み」において、
その「いた(痛/傷/悼)み」をし(知/領)ることを介して《vouloir》の
「〜を!」と《devoir》の「〜を」の関係性の「適合」/《adéquation》
をはかる試行錯誤としてある。
0850名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/19(金) 17:15:38.28ID:JZ7vCs+R
"οἰκονομία"/“management of a household, administration”という
表現は、現代では、通常、「経済」と理解されて、「政治」とは
別のものであるとされ、このため、わざわざ「政治経済学」/
"political-economy"という表現も用ひられるようになったわけだが、
それを、おほ(大)やけ(宅)/(公)と呼ばれる「世帯」/"household"の
「内部管理統制」/"management/administration"と見るなら、
もともと、"οἰκονομία"と「まつりごと/政治」としての
おほ(大)やけ(宅)/(公)の統制管理は、互いに分離してはいない。

ところで、市場経済においては、「需要」としてあら(顕/現)はれる
《vouloir》の「〜を!」と、「あたひ(与/能/価/値)」/"ἀξίᾱ"の
調整を介してそれにこた(応)へることになる「はず」の、「供給」
としてあら(顕/現)はれる《devoir》の「〜を」は、市場における
交換の活動が停止された「内部管理統制」/"management/
administration"においては、「要求する」/"to reclaim"ことの
許される、与へられた「権利」と、それに対応するように課されて、
「要求される」/"to be required"ことになる「義務」の関係として
あら(顕/現)はれることになるはずだろう。そして、そのように
人々の関係が、「権利」と「義務」によって規定されることが
制度として支配的な組織形態が、「身分制度」であると見ること
ができるだろう。

では、すべての人々の「権利」と「義務」が平等で公平になるような
制度設計を「理想」として目指す組織化とは、どのような組織化
なのか。あらかじめ決められた基準に沿ふことを、その「理想」の
実現の指標として、人々を組織化しようとする制度設計は、
必然的に、「暗黙の身分制度」を構築することになるのではないか。
ところで、現実の「市場経済」により運営されている社会が、
あたかも「暗黙の身分制度」を維持しているかのように感じられる
ことがあるのはなぜだろうか。
0851名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/20(土) 08:31:12.10ID:bNlp/l7h
エウダイモーンについてのイタリア語版のWikipediaの記述。
対応する日本語版にはアリストテレスについての簡単な記述しかない
のはどうしてなのだろう。

>È questo il cosiddetto intellettualismo etico di Socrate,
che sosteneva che l'unica causa possibile del male era
l'ignoranza del bene «So invece che commettere ingiustizia
e disobbedire a chi è migliore di noi, dio o uomo, è cosa brutta
e cattiva. Perciò davanti ai mali che so essere mali non temerò
e non fuggirò mai quelli che non so se siano anche beni.»
ma una volta conosciuto il bene, non era possibile astenersi
dall'agire moralmente realizzando il bene che era di per sé
"piacevole" in quanto generava la eudemonia, la serenità dell'animo.
(出典 it.wikipedia.org/wiki/Eudemonismo)
0852名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/20(土) 10:37:08.67ID:bNlp/l7h
>>848
《anomie》/"anomy"/「アノミー」は、『自殺論』を著したフランスの
社会学者、Émile Durkheim(デュルケーム)が自殺の類型を分類するための
概念として用ひることで広く知られることになった表現だが、
法("νόμος")が自分の身方ではなく、「自由/勝手に〜ことができる余地」
を奪ふ強制力("ἀνάγκη")として自身に作用する場合、そのことにより、
自身は、《anomie》/"anomy"/「アノミー」の立場に追い込まれること
になる。

現代の日本で「原因・動機」は、厚生労働省によれば、
「健康問題(うつ病、身体の病気等)」、「経済・生活問題(生活苦、
多重債務等)」、「家庭問題(夫婦関係の不和、家族の将来悲観等)」、
「勤務問題(仕事疲れ、職場の人間関係等)」などと分類されるが、
実際の「原因・動機」が大抵の場合、複合的なものであることは
認識されている。典型的な表現としては、「病気を苦にして」、
「借金を苦にして」、「事業不振で悩んで」、「子供の将来を
悲観して/家族の介護で追い詰められて」、「仕事の厳しいノルマ
による過労で」といったような言ひ方をよく聞くことがある。

ここで、デュルケームが用いひたよりも《anomie》を広く
一般的に、その語源的な表現に沿って捉へるなら、《anomie》/
"anomy"/「アノミー」とは、自身が「自由/勝手に〜ことができる余地」
、つまり、"autonomy"/「自律性」が何らかの強制力("ἀνάγκη")により
不可逆的に奪われて、自身には「自由/勝手に〜ことができる余地」/
ノモス/"νόμος"がもはやゆる(許)されていない状態、すなはち、
"ἄνομος"に陥った状態であると言ふことができる。すると、
「病気を苦にして」、「借金を苦にして」、「事業不振で悩んで」、
「子供の将来を悲観して/家族の介護で追い詰められて」、
「仕事の厳しいノルマによる過労で」のように様々な「自殺の
原因・動機」が挙げられるとしても、これらのいずれも、
何らかの強制力("ἀνάγκη")により(例えば、病気であれば、
その症状により、借金であれば、取立てや資産の取り押さえ
により、また過労であれば、職責とノルマにより)自身の身体
または身体的な活動が差し押さえられて、自身には
「自由/勝手に〜ことができる余地」がもはやゆる(許)されて
いない状態にあると感じられれているということになり、
《anomie》/"anomy"/「アノミー」は、自殺の類型のうち
の一つであるというより、自殺を誘発する仕組みそのものである
と見ることができる。
0853名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/20(土) 11:27:16.54ID:bNlp/l7h
法("νόμος")は、強制力("ἀνάγκη")を発揮することができないなら、
無効化する。逆に見れば、法("νόμος")が実効性を発揮する限り、
法("νόμος")の側にないとされる者にとって、法("νόμος")は、
自身を"ἄνομος"/"without law"の立場に陥れるように作用する。
法("νόμος")の運用そのものが、《anomie》/"anomy"/「アノミー」
に陥る人々を大量に生み出し、そのことを避けられないとしたなら、
おほ(大)やけ(宅)/(公)の「内部管理統制」/"management/
administration"が円滑に保たれるようにするには、何らかの
「リサイクル対策」が欠かせないだろう。そして、そのような
「リサイクル対策」は、つねに既におほ(大)やけ(宅)/(公)の
「内部管理統制」/"management/administration"には
(個々の人々にとってではなく)、フィードバック的な仕組み
として組み込まれているはずである。それはどのようなもの
であると考へられるだろうか。
0854名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/20(土) 11:40:29.26ID:bNlp/l7h
大抵の人は、暗黙には自分でも薄々と気づいているようなことでも、
それをはっきりと言葉によって捉へて表現しようとすることを忌避する。
考へたところでどうにもならないことは、気を紛らはせて忘れた
方が得策だというわけだ。しかし、それはつねに一時しのぎ
(それを死ぬまで繰り返すとしても)になるに過ぎない。
本当に「あきら(諦)める」ことができるようになるためには、
「あき(明)らめる」ように取り組む必要がある。
0855名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/20(土) 23:08:10.96ID:bNlp/l7h
特にイスラエルとかパレスチナとかの問題に関心があるわけではなく、
偶々、特に安価だったので試しに目を通してみようと思って入手した
Koestler, Arthurの小説、"Thieves in the Night"のドイツ語訳、
"Diebe in der Nacht"、まだその1/4くらいに目を通しただけだが、
なかなかうまく構成された書き方で、内容的にも社会実験の体験
レポートのような感じで、とても興味深い。扱っている題材は、
多くの人々の関心を引くものであるはずなのに、この小説は
あまり人気が出なかったようで、日本語訳も出されていないのは
不思議な感じがする。引用したい面白い記述があるが、
ドイツ語訳のテクストは、残念ながら、ネット上では見当たらない。
0857名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/21(日) 09:52:37.95ID:mcaELYPH
>「し(知/領)る」とは、「気づき方を組織化する」ことである。

「哲学とは、『無知の知』である」と言はれることが多いが、
これは無用に人を苛立たせる表現であるだけでなく、「知」が
何らかの対象についての「知」であるとするなら、自分が
何らかの対象について知らないことに気づくことは、その
対象について気づいていないのだから、原理的にあり得ず、
「無知を知れ」という言明は、相手に向かってそのような言葉
を発する者が、「我は汝の知らないことを知っている」と発話
遂行的に宣言していることになり、自戒の言葉となるどころか、
何についてどのように知らないことを自他に告げようとしている
のかも不明な、「はったり」としての「空虚な相互牽制」にしかならない。
気づいていないことにあらかじめ気づいていることは原理的に
不可能であり、気づいていないことは無限定なので、
気づきの背景が無限定であることを自覚していること以外で、
無限定なものに気づこうとすることは無意味である。

むしろ、「哲学とは、『知の知』である」と言ふ方が適切だろう。
哲学するとは、「『し(知/領)る』ことを『し(知/領)る』」こと、
つまり、気づき方がどのように組織化されているのかにメタ・レベルで
気づいて、対象レベルの気づき方の組織化がどのように、どれだけ
有効であるかを、その都度、それを使ってみることによって確かめ、
確認される有効性に応じて、その組織化を保ち、無効であることに
気づいた場合には、どのように気づき方を再編成すれば、その
組織化が有効性を発揮するようになるかを探りつづけることである。
0858名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/21(日) 10:35:00.58ID:mcaELYPH
自由や平等や公平ということに関連して、身分制度、社会階級、
社会階層、人々の間の様々な格差について論じている思想系の
著作は数限りなく存在する。しかし、現代の社会の組織化に関して、
もっとも根幹にあり、誰にでも直接、間接的に最も強い影響を
及ぼす仕組みである人事制度について思想として、つまり、
人事制度は、行為としてどのように構成され、運用されている
のかについて、制度論、法律論などではなく、その思想的な
根本から取り組んで解明しようとしている著作は、目にした
ことがない。
0859名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/21(日) 10:40:34.44ID:mcaELYPH
自分が属する組織の人事制度について学問的な議論の対象とする
ことができないような思想的な言論が、どうやって現代の
社会の在り方にその根底から批判的であり得ると考へられるだろうか。
0861名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/21(日) 13:27:48.67ID:mcaELYPH
>>859
このような発言の意図も、思想系の人々はすぐに取り違へそうだが、
私は、内部告発の必要性とか、「人事制度がまずあることを前提にして」、
それが公平、公正、平等に運用されているか否かといったことを問題
にしているのではない。そうではなく、組織の人事制度とは、
そもそも、どのように成立し、維持され、運用されるのかを、
実際に観察されるその運用に則して、忠実に記述し、それが
人々の行為をどのように仕組むように機能しているのかを明らか
にすることを「思想の言説」を展開する人々に求められる
課題として提示しているのである。
0862名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/21(日) 20:15:05.28ID:mcaELYPH
>>857
このように説明される「知の知」を、Ch.S.パースであれば、単に
"semiosis"/「セミオーシス」呼んだだろう。しかし、ただ単に
「それは"semiosis"と同じことだ」と言ってみたところで、
そう呼ぶことがどのうようなことを伝へようとしているのかが
うまく伝はらなければ、意味がない。だから、昔から同様の
ことが言はれていようと、いまいと、その都度、うまく伝はる
ように適切な表現を模索する必要があるのである。
0863名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/21(日) 20:41:06.61ID:mcaELYPH
規則の適用に融通がきかないことを批判して、「杓子定規」という
表現がよく使はれることがある。

>《曲がっている杓子を定規代わりにすること、正しくない
定規ではかることの意から》すべてのことを一つの標準や規則に
当てはめて処置しようとする、融通のきかないやり方や態度。
また、そのさま。< (出典 小学館 デジタル大辞泉)

曲がっているものを真っ直ぐな定規として受け入れることを
相手に要求するのだから、要するに「ダブルバインド」である。
規則の受け入れを拒んだなら、拒んだ側は、その自らの選択
により、つまり、自己責任で自身を"ἄνομος"/"without law"の
立場に置くことになる。逆に、規則をそのまま受け入れたなら、
曲がっていることが最初から分かっているもの直ぐな定規として
受け入れることを自らの選択により決めたのだから、
規則の適用の結果として「曲がった結果」がもたらされても、
やはり自己責任ということになる。したがって、杓子定規に
規則を適用しながらも、「真っ直ぐな結果」を得ようとする
なら、自己責任/負担で勝手に融通をきかせて、つまり、規則の
曲がった適用をして曲がりを補正するか、またはその責任
をさらに別の相手に転嫁して、その相手に自己責任/負担で
曲がりを補正させる必要がある。この「杓子定規」の規則運用に
おいて、人々に自発的に「有能さ」を発揮するように競はせる
ことにこそ、人々をうまく階層的に組織化するための鍵がある。
0865名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/22(月) 09:14:12.42ID:oMNk1ghV
『クラテュロス』においてソークラテースが説く、「名」を大切に
することの重要性を普通の日本語で言ひ換えるなら、「ものは言ひよう」
ということになるだろう。例えば、私が、

>言論の活動において、いつの世でも、思想を唱へる者は
つねに、「権力の犬」であり、哲学をする者とは、「世間から
半歩身を引いて賢明であろうとする知者」である。<

と発言したとすれば、それがどのようなものであれ、何らかの
思想に関心のある人々は、それだけで気分を害するだろう。
そこで、多くの人々の気分を害することを避けるために、
これを、私が次のように言い換へたとしたらどうだろう。

>言論の活動において、いつの世でも、思想を唱へる者は
つねに、「法治の番人」であり、哲学をする者とは、「世間に
対してはす(斜)に構えたさか(賢)しらなし(痴)れ者」である。<

今度は、自身を、「法治を廃絶しようとするアナーキスト」の
思想家であると自負するのでない限り、何らかの革命を目指す
思想を信奉する者であったとしても、革命後の法治を否定する
ことはないだろうから、思想に関心のある人々もその大半は、
特にこの発言に対して、何らかの保留をつけることはあった
としても、強く反発することはないだろう。他方、自分は
本当に哲学をしていると自負している者であれば、自分が
他者には、「世間に対してはす(斜)に構えたさか(賢)しらな
し(痴)れ者」と見られることは、既に慣れて、承知のうえの
ことであり、「世間から半歩身を引いて賢明であろうとする
知者」とされる方がむしろ、無用な自負を他人からお仕着せ
られているような感じがして居心地悪く感じるのではないか。
(ただし、「学問」として「哲学」を研究している
「哲学研究者」、「哲学学者」、「哲学史研究者」の場合
には、または話は別だろう)。
0866名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/22(月) 09:40:36.20ID:oMNk1ghV
したがって、ソークラテースが説く、「『名』を大切にすることの重要性」は、
日本語で普通に言ひ換へるなら、「『ものは言ひよう』だから、なにごとも
適切に表現するように心掛けることが大切である」ということになるだろうが、
『クラテュロス』においてソークラテースが最終的に支持する立場では、
「『名』を大切にすること」よりもさらに重要なことがある。それは、
やはり日本語で普通に表現するなら、「なにごともその真実を正しく知る
ことが最も大切である」ということになるだろうが、「『名』を正しく
使ふ」ことを介する以外で、それがどのようにして可能となるのかは示さ
れていない。いずれにせよ、日本語で考へて表現するなら、「なにごとも
その真実を正しく知る」とは、「なにごとについても、そのま(真)
こと(言/事)をし(知/領)り心得る」ことであるので、それは、
「『名』を正しく使ふ」ことと同じことになり、「ものは言ひよう」
だが、「なにごとについても、それを、どのような言ひ方を用ひた
としても、そのま(真)こと(言/事)にたが(違)はないように表現できる
なら、それについてのま(真)こと(言/事)をし(知/領)り心得ている」
ことになるだろう。
0867名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/22(月) 10:08:52.26ID:oMNk1ghV
>言論の活動において、いつの世でも、思想を唱へる者は
つねに、「権力の犬」であり、哲学をする者とは、「世間から
半歩身を引いて賢明であろうとする知者」である。<

>言論の活動において、いつの世でも、思想を唱へる者は
つねに、「法治の番人」であり、哲学をする者とは、「世間に
対してはす(斜)に構えたさか(賢)しらなし(痴)れ者」である。<

私にとっては、この2つは、実はまったく同じことの言ひ換えに
過ぎない。思想に関心のある人々が、このような「言ひよう」の
違いに強く拘るとすれば、思想の言説が、それがどのような
思想を唱へているかとはまったく独立に、都合により、つまり、
その局面ごとに都合のよいように「言ひよう」を変え、あるとき
には雄弁になり、あるときには沈黙し、またあるときには
一つの言ひ方に強く執着するのに対して、また別のときには
その執着がなかったかのように、別の言ひ方をするという
言説の技法として存立しているからである。これに対して、
哲学する者は、「し(痴)れ者」のように、そのような局面ごとの
都合など無視して、様々な「ものの言ひよう」が結局、「同じこと」
を言っているなら、「そのま(真)こと(言/事)にたが(違)はない」
ように言ひ換へて、「ま(真)こと(言/事)」に気づかせてしまう
のである。

ところで、岩波古語辞典で、「し(痴)れもの(者)」の項目を参照すると、
>@ばか者、あほう。A気ちがいじみた者、無茶者、乱暴者。
という用法の他に、
>Bしたたか者
「きゃつらも痴れ者、ちっとも臆せず」(浄・念仏往生記) <
という用法があることが記載されている。
0868名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/22(月) 11:28:04.06ID:oMNk1ghV
>法("νόμος")は、強制力("ἀνάγκη")を発揮することができないなら、
無効化する。逆に見れば、法("νόμος")が実効性を発揮する限り、
法("νόμος")の側にないとされる者にとって、法("νόμος")は、
自身を"ἄνομος"/"without law"の立場に陥れるように作用する。 <

階層的に組織化された人々の関係における法治、すなはち、法("νόμος")
による支配とは(人々が階層的に組織化されていなければ、そもそも
法治は必要とされない)、法とともにあるとされる側、法を身方につけた側が、
つねに「まか(任/罷)りとお(通)る」ということであり、そのことは、
とりもなほさず、法とともにないとされる側、法を身方につけれれない側、
すなはち、法("νόμος")が発揮する強制力("ἀνάγκη")によって、
"ἄνομος"/"without law"の立場に陥る者にとっては、
「杓子定規」の適用が「まか(任/罷)りとお(通)る」ということで
あり、法治の下で皆が法("νόμος")に従はふとすることは、
「杓子定規」の適用をみづから(身づ柄/自ら)に優位に働かせよう
と競争しつづけることにより支へられている。したがって、
法治がより細かく効力を発揮するようにに行はれるようになるなら、
その競争の条件そのものがあらかじめ厳しく制限されることになり、
法("νόμος")は一方的に、絶えず、自身を"ἄνομος"/"without law"の
立場に陥れるように作用するものとしてあら(顕/現)はれること
になる。そこで、「規制緩和」が唱へられれば、あたかも、
その状況が緩和されるかのように錯覚されるわけだが、
「規制緩和」の法改正によって実施されるのは、つねに
階層的に組織化された人々の関係における法治の強化である。
0869名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/22(月) 11:56:21.67ID:oMNk1ghV
ソークラテースの「魂(たましひ)」についての言説をその言葉どおり
に真に受けることができない(つまり、それを「ま(真)こと(言/事)」
であるとすることができない)のは、ソークラテースが、理想として
唱へているのが、「世間(temporal world)から半歩身を引いて」
生きることではなく、「世間(temporal world)から完全に身を引く」
こと、つまり、身体を離れた「魂(たましひ」の「あの世行き」
だからである。しかも、ソークラテースは、身体を離れた
「魂(たましひ」が決して「世間(temporal world)」に戻って来る
ことがないことも明言している。したがって、ソークラテース自身、
身体を離れて「あの世行き」になった「魂(たましひ」について、
「世間(temporal world)の現実」に基づく憶測から以外、
何も知りようがない。それ故、ソークラテースの説いている
ことは、実質的には、生きている間でも自分の「魂(たましひ)」
の在り方に気づかふなら、「あの世行き」を恐れる必要はない
と言っているに過ぎないことになる。
0870名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/22(月) 13:37:27.50ID:oMNk1ghV
「まか(任/罷)りとお(通)る」の「まか(任/罷)り」とは、
»mit Erlaubnis«(許可を得て)である。このような表現の対応関係からも、
「まき(牧)ば(場)」の「まき」が、「ま(任)け」と共通する表現である
ことを確かめることができる。
0872「〜べき/べし」と告げる/吠えるのは誰か垢版2023/05/23(火) 10:13:52.42ID:3TksVJGP
「奴隷("δούλοις")にとっては、力("ἀνάγκη")が法("νόμος")である一方で、
自由人("ἐλευθέροις ἀνθρώποις")にとっては、法("νόμος")が力("ἀνάγκη")である」

Was soll das heißen?/それはどのような「名付け」として当為なのか

"ἀνάγκη"とは、「学問」としての「哲学用語」で説明するなら、
»Sollen«/「当為」として効力を発揮することであり、日本語の日常表現
で言い換へるなら、「(そのように)成る『べく』して成る」と言ふ場合の
「べき」である。したがって、
>τοῖς μὲν δούλοις ἡ ἀνάγκη εἰσί νόμος ,
τοῖς δὲ ἐλευθέροις ἀνθρώποις ὁ νόμος εἰσίν ἀνάγκη<
とは、
「奴隷にとって、「〜べき/べし」と告げるのが法である一方で、
自由人にとって、法が「〜べき/べし」と告げることである」
ことを表現していると解釈することができる。
0873名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/23(火) 10:45:32.00ID:3TksVJGP
>>872
このように日本語の「べき」に対応する古代ギリシア語の"ἀνάγκη"
をラテン語では、"necessitas"と言い換へるわけだが、古代ギリシア語
とラテン語が印欧諸語として言語学的に同じ系統のグループにまとめら
れるからといって、古代ギリシア語の表現を解釈するのにラテン語を
使った方が、日本語を使ふのと比べて、別段、有利になるということはない。
そのことは、せいぜい、「(生活)必需品」と漢語で表現するのと、
「(暮らしのために)あるべきもの」と表現するのとで、どちらが
より表現の意図が伝はりやすくなるかといった程度の違ひに過ぎない。
0874名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/23(火) 11:04:42.48ID:3TksVJGP
名詞として用ひられる日本語の表現として"ἀνάγκη"に対応する表現には、
「当為」が、"oughtness(英語)"、"Sollen(ドイツ語)"、
"devoir(フランス語)"に対応するとされている
(出典 kotobank.jp/word/当為-103059)ことからもすぐに分かる
とおり、「はず(筈)」がある。

岩波古語辞典で「はず(筈)」を参照すると、次の記載が見られる。
>当然合致すべきものの意
>そうなるべき予定。見込み。
>そうなるべき必然性、道理。わけ。
0875名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/23(火) 13:48:10.21ID:3TksVJGP
»wollen«/《vouloir》の「〜を!」と、その求めの呼びかけに
こた(応)へる「はず」の»sollen«/《devoir》の「〜を」が
相応しく対応して「つながる」ように「適合」/《adéquation》を
こころ(心)み(観)/試みつづけることによ(依)り、みづから(身づ柄/
自ら)に「あた(与/能/価/値)ふ」ことを、その都度の「暫定的」/
"temporal"な「あた(与/能/価/値)ひ」/"ἀξίᾱ"としてし
し(知/領)ることに、「現世(うつしよ)」/"temporal world"
に「ひと(人/一)」として「よ(良)く」生きようとすることがある。

したがって、「ひと(人/一)」が生きることが、あらかじめ与へられた
»sollen«/《devoir》/「〜を」(呼びかけに応じるべきこと)によって
導かれる「べき」であるとするのは、「倒錯」であり、またそれとは
逆に、»wollen«/《vouloir》/「〜を!」(求める呼びかけ)は、
粘り強くあきらめずにこた(応)へを求めつづけるなら、必ず
かな(適)ふ「はず」であるとするのも「幻想」である。それでも、
そのような考へ方は、それらを、それぞれ、単に「倒錯」、
「幻想」と呼び捨てて済ませられるようなものではない。
というのも、人々の組織化は、そのような「倒錯」と「幻想」を
絶えず巧みに用ひつづけることによって実現されているからである。
だからこそ、「ひと(人/一)」として「よ(良)く」生きようとするなら、
世の中で唱へられる言説が、どのようにその「倒錯」と「幻想」を
増幅するように働いているのかにつねに注意深くあることが必要とされる。
0876名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/24(水) 00:14:34.41ID:ACnhw6Pj
気まぐれに買ってみたArthur Koestlerの"Thieves in the Night"の
ドイツ語訳、"Diebe in der Nacht"、まだ半分も目をとおしていないが、
自身の体験を通した優れた観察能力と記述表現能力が発揮されている。
私自身、この作品を原文の英語では読んではいないものの、
ドイツ語訳から推察するに、この作品を原著から日本語に訳すのに
適した能力のある人は、日本に数多くいるはずだろう。
原著はあまり流通していないようで、比較的価格が高めで、
日本語にも訳されていないのは残念なことだ。
0877名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/24(水) 10:15:24.92ID:ACnhw6Pj
>Was soll das heißen?/それはどのような「名付け」として当為なのか

『クラテュロス』においてソークラテースは、
»Was soll das(この場合は、「呼び名」) heißen?«という形の問ひ
にうまく応へようとこころ(心)み(観)る/試みることにより、
その»Sollen«に相応しく対応する「はず」の、そのように
名付けた/表現した人の»Wollen«/「こころ(意)」を明らかにしようとしている。
0878名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/24(水) 13:38:57.63ID:ACnhw6Pj
「みづから(身づ柄/自ら)にどのようなことが、どれだけあた(与/能/価/値)ふ
のかをし(知/領)ろうとする」こと、それが»unternehmen«、"to undertake"、
《s'y prendre》という行為であり、み(身)ど(獲/取)りのと(獲/取)り(汲/組)み
であり、ラテン語の"conor"に対応することは、あまりにもしつこく繰り返して
きたので、もう聞き飽きただろう。

では、その"conor"に、日本語としては、「あらかじめ/前もって」に対応する
と解釈することができる"prae-"という接頭辞をつけただけの"praeconor"
という表現についてはどうだろうか(ただし、一般に流通している語源解釈
は、そのような解釈はしていない)。こちらは、英語では、通常、
"to herald"、"to proclaim"といった訳が当てられている。これらは、
日本語としては「あらかじめ周知させる」行為として"praeconor"を
捉へているわけだが、「発話遂行的にそのような行為となっている言葉」
として対応する日本語の表現は、万葉集の歌にもすぐに見出すことが
できる。それは、「八隅知之(やすみしし)」である。

万葉集 第19巻 4254番
>八隅知之 吾大皇 秋花 之我色々尓 見賜 明米多麻比
酒見附 榮流今日之 安夜尓貴左
(出典 万葉集ナビ)
0879名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/24(水) 13:56:58.21ID:ACnhw6Pj
>やすみしし【安見知・八隅知】
国の隅々まで知らす(治める)意、または、安らかに知ろしめす意から、
「我が大君」およびその変形である「我ご大君」にかかる。
(出典 精選版 日本国語大辞典)

上に引用した万葉集 第19巻 4254番 の歌では、
天の日継と神ながら天の下を治めたまふ「我が大君」が
「四方の人をも あぶさはず 恵みたまふ」ことが詠まれているが、
自らが何かを生産する労働に従事しているわけでもないのに
そのようなことが可能なのは、「八隅知之(やすみしし)」とされる
様態を実現していることが、"prae・conor"、つまり、
「あらかじめ/前もって」の「み(身)ど(獲/取)りのと(獲/取)り(汲/組)み」
として「み(身)ど(獲/取)りの先取り」となっているからである。
0880名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/24(水) 14:12:20.46ID:ACnhw6Pj
万葉集 第6巻 956番
>八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念
>やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ
(出典 万葉集ナビ)

ところで、万葉集の歌では、「八隅知之(やすみしし)」と形容される
のは、「おほきみ(大君)」などであるが、ここで「おほきみ(大君)」
を、「法治の主権者」で置き換えるなら、それが具体的にどのような
存在者と見做されるにせよ、それが理想的な「法治の主権者」である
なら、「四方の人をも あぶさはず恵みたまふ」ことを実現させる
「はず」であると唱へることにおいて、「思想の言説」は、万葉集の
時代から千年以上を経ても、ほとんど何も変はっていないのではないか。
0881名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/24(水) 14:15:10.24ID:ACnhw6Pj
「八隅知之(やすみしし)」(隅々まで行き渡るように治める)法の支配が
実現されると、人々の生活は理想に近づくのか。
0882名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/25(木) 07:35:11.77ID:T9oJHUaA
現に統治する者が「八隅知之(やすみしし)」と形容される、すなはち、
現世が統治者により既に「隅々までし(知/領)り尽くされている」と
公布されているにもかかわらず、みづから(身づ柄/自ら)にあた(与/能/
価/値)ふことが何もないと実感されるなら、現世において、
みづから(身づ柄/自ら)には、何の望みも残されていない/
絶望しかないことになるのではないか。
0883釈迦の手の内垢版2023/05/25(木) 07:56:57.34ID:T9oJHUaA
>「みづから(身づ柄/自ら)にどのようなことが、どれだけあた(与/能/価/値)ふ
のかをし(知/領)ろうとする」こと、それが»unternehmen«、"to undertake"、
《s'y prendre》という行為であり、み(身)ど(獲/取)りのと(獲/取)り(汲/組)み
であり、ラテン語の"conor"に対応する <

>「八隅知之(やすみしし)」とされる様態を実現していることが、
"prae・conor"、つまり、「あらかじめ/前もって」の「み(身)ど(獲/取)り
のと(獲/取)り(汲/組)み」として「み(身)ど(獲/取)りの先取り」となっている<

つまり、みづから(身づ柄/自ら)の「と(獲/取)り(汲/組)み」、
»unternehmen«、"to undertake"、《s'y prendre》としての行為は、
つねにすでに"incorporated in advance"という様態においてしか
あら(顕/現)はれようがないことになる。
0884名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/25(木) 08:09:54.20ID:T9oJHUaA
>如来は悟空に身の程をわきまえさせるために賭けを持ちかけ、
如来の手のひらから飛び出せなかった悟空を取り押さえて、
五行山に五百年間封印してしまった。<
(出典 ja.wikipedia.org/wiki/孫悟空)

みづから(身づ柄/自ら)が五百年を超えて生き延びるなら、
現世においても望みはあるということか。
0886名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/25(木) 18:29:49.21ID:T9oJHUaA
>λύπης ἰατρός ἐστιν ἀνθρώποις λόγος
ψυχῆς γὰρ οὗτος μόνος ἔχει κουφίσματα/θελκτήρια<

(出典 Caspers, C.L., Healing speech, wandering names,
contests of words : ideas aboutlanguage in Euripides)
0887Note垢版2023/05/26(金) 08:15:59.49ID:RWAUG9YX
書くというのは、どのような行為で、また、
書かれたものを読むとは、どのような行為だろうか。

記号論的(ここで「記号」論という名づけが既に誤解をもたらす
のだが、ここで通常は「記号」と訳されている表現に日本語として
より自然に対応する表現は、「しるし(標)」であり、「しるし(標)」
を用ひた「あひず(合図)」である)に言ふなら、
書くとは、気づいたことについて、何にどのように気づいた
のかを思ひ起こさせるように「しる(標)し」をつけて「あと(跡)」
に残す行為であり、読むとは、そのようにして残された
「あと(跡)」を確かめて、その「しる(標)し」によ(依)り、
何にどのように気づいたのかを思ひ起こす行為である。
0888名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/26(金) 08:33:06.47ID:RWAUG9YX
教育制度における読み書きの訓練では、速記と速読の能力を磨くことが
重視される。速記とは、その場で書かれたことや話されたことを
書き写すことであり、速読とは、書かれてあることから、
要点を拾い出すことである。したがって、速読によって訓練されて
いるのは、求められている情報を素早く検索する能力である。
0889名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/26(金) 09:57:00.56ID:RWAUG9YX
速記と速読の能力の高さが重視されるのは、それが事務処理能力として
役に立つからだ。速読の効率を高めるのは、情報の冗長性を機械的に
一括処理することであり、求められている情報とは無関係な情報は、
最初から処理の対象から除外することである。

仕事として大量の情報を処理しなければならないなら、速読の能力
が高いことは大いに有用であるが、他人に求められているわけでも
ないのに自分で何かを読もうとするなら、冗長な情報の機械的な一括
処理であれ、無関係な情報のあらかじめの除外であれ、そのような
作業がやはり必要とされるとしても、主としてその作業をやりたい
から書かれたものを読むわけではないだろう。むしろ、そのような
作業は省かれていることが望ましく、最も効率的な速読は、そもそも、
自分にとって不要な情報や冗長な情報は、まったく読まなくても済む
ことである。
0890寝耳に水垢版2023/05/26(金) 10:25:47.11ID:RWAUG9YX
ところで、事務処理であれば、必要とされる情報を記入する。
その一方で、他人から求められているわけでもないのに自分で
何かを書くとすれば、それは、
>気づいたことについて、何にどのように気づいたのかを
思ひ起こさせるように「しる(標)し」をつけて「あと(跡)」
に残す行為<
である。何にどのように気づいたにせよ、それについて、
そのように気づいて、それを言葉として「しる(標)す」
ことができるようになるまでには、また、それがまだうまく
言葉にできていないとしても、長い年月の経験の積み重ねを
要していることもある。しかし、そのようにしてようやく
「しる(標)された」言葉でも、他人にとっては、意味不明で
あったり、当たり前のことしか言っていないように思えたり、
それを「しる(標)す」本人に思ひ起こさせるのとは、まるで
別のことに気づかされ、思ひ起こさせるものとなることが
よくある、というより、その方が、何かを読むことの「反応」
としては(自分がそれを書いた場合も含めて)普通である。
だからこそ、そこに「しる(標)された」言葉を読んで、
それがどのようにか自分に役に立つものかどうかを判断しよう
とするなら、「反応」に全面的に依りかかるのではなく、
その「しる(標)し」が何にどのように気づかせることになる
のか、その可能性を探ることがつまりは、「反応」としての
自分の気づきも含めて省察すること)が必要とされるのだ。
0892名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/26(金) 10:53:30.45ID:RWAUG9YX
なぜ言論統制が行はれるのか考へてみるといい。
それは、言葉が何かにどのようにか気づかせるために使はれる
ものであるからであり、言葉を使ふことが、何かにどのようにか気づく、
その気づき方を絶えず生成しながら再編成することになるからだ。
そして、気づくことは、誰にもあらかじめ占/専有され得ないのである。
0893名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/26(金) 11:06:31.83ID:RWAUG9YX
例えば、この掲示板に書込みをするのでも、その都度、書込みの内容の
著作権が掲示板の運営者に属することになることに同意を求められ、
それに同意しなければ、書き込むことができない。したがって、
書かれたことを「製作品」/"a product"と見做すなら、その「製作品」/
"a product"の所有権を譲渡することにあらかじめ同意させられて
いる、言い換へるなら、自分自身が書き込む行為において
"I owe you whatever I write here"という関係性に同意させられて
いることになるわけだが、自分が書く行為がそのようにあらかじめ
取り込まれることになっているとしても、その書込みが公開される
結果として、場合により自他に生じ得る気づき方の再編成については、
誰もそれを占/専有することができない。
0894名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/26(金) 11:40:10.14ID:RWAUG9YX
現代ヘブライ語の使はれ方は、Arthur Koestlerが、上で言及する小説、
"Thieves in the Night"を執筆した20世紀前半の状況と現代の
イスラエルでは大きく異なるだろうが、この小説には、現代ヘブライ語が
計画的に復興されて新しい世代で母語として使はれるようになった
ことの結果についての興味深い考察が記されている。

ヘブライ語そのものは、古くから書き残され、宗教制度との関係で
使はれつづけてきたので、「古典的な言語」と呼ぶことができる
だろうが、その「古典的な言語」を基礎として、母語として計画的に
復興された現代ヘブライ語の方は、「人工言語」と見做されること
がある。私は、「人工言語」という呼称は妥当ではないと考えるが
(人が用ひる言語で「人工的」でない言語は存在せず、そのような
呼称を用ひるなら、「日本語」も「人工言語」である)、古代から
続く言語を基礎に復興させられた現代ヘブライ語も、いはば、
「古い言ひ回し」を保った「歴史の浅い」言語と感じられるような
ものとなってしまったという感慨が、この小説に記された考察から
は窺える。しかし、まったく同じことは、標準化された現代の
「日本語」についても言へるだろうと私は思ふ。これは、単に
「古い日本語」で書かれた「古典」を、現代の日本語による
解説や「翻訳」を参照しながら読むことで解決するような問題
ではない。本当に重要なのは、その「読む」行為が、どのように
「読む」行為となっているかを深く考へてみることである。
0895名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/26(金) 11:56:50.52ID:RWAUG9YX
「古典語」の教育は、「言葉の使用の歴史性」を抹消するためにすら
利用することができるのである。「言葉の使用の歴史性」は、古い言ひ
回しをそのまま用ひることによって保たれるのではない。そうではなく、
そこに見られる「気づき方」の編成を、時と場所に応じてで新たに活かす
ように用ひつづけることによって保たれるのだ。
0896丈くらべ、或いは背伸びしたしろしめし/marking垢版2023/05/27(土) 09:18:01.38ID:4yIZfhro
いき(息/生)のを(緒)、たま(玉/魂)のを(緒)としてつながること
のない言葉は、な(汝/己)のま(真)こと(言/事)をしろしめすに
あた(当/与/能/価/値)はず、な(汝/己)のま(真)こと(言/事)を
しろしめすにあた(当/与/能/価/値)はない言葉は、原理的に
真理条件を満たすことができないので、通用する言葉とは
ならない。

な(汝/己)のま(真)こと(言/事)がしろしめされることは、
互ひをあざむ(欺)こうとする振舞ひを排除するものではない。
それどころか、背伸びした丈くら(比/競)べがそうである
ように、互ひをあざむ(欺)こうときそ(競)ひあ(合)ふこと
によってこそ、それまでひそ(潜)んでいたな(汝/己)の
ま(真)こと(言/事)がしろしめされることになるのだ。
ま(真)こと(言/事)をう(請)けあ(合)ふことができること/
"accountability"も、きそ(競)ひあ(合)ひの結果をたし(確)か
めることの理念化として生じるのであって、きそ(競)ひあ(合)ひ
に先立って理念として存立しているのではない。

「やま(山)のごと(如)し」と言ってみたところで、その表現が
「大きさ」を伝へる言葉として通用するためには、「やま(山)」
と呼ぶものが、みづから(身づ柄/自ら)より大きいことが、
な(汝/己)のま(真)こと(言/事)がしろしめされていることが前提となる。
0897鳥占い垢版2023/05/28(日) 00:17:35.68ID:yYasP8F5
「しるし」にな(汝/己)のま(真)こと(言/事)がしろしめされている
可能性を探ろうとする読みが、"charitable reading"である。
0898名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/28(日) 00:29:07.91ID:yYasP8F5
>>896
誤:ま(真)こと(言/事)がしろしめされていることが前提となる。
正:ま(真)こと(言/事)としてしろしめされていることが前提となる。
0899名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/28(日) 08:07:44.10ID:yYasP8F5
俗(temporal/secular)に「世界」と呼ばれる現世(うつしよ)/この世は、
絶えずうつりかはる気づき方によ(依/寄/因)りお(織)りな(成)された
「おも(思)ひな(成)し」としてあり、その気づき方がどのよう
であるかを「し(知/領)らせ」ようと、何らかの「しるし(標)」
をつか(使/仕)ふこと(例えば、「こゑ(声)」を発すること)で、
その「どのようであるか」が伝へられ、そのためにつか(使/仕)は
れて「かひ(効)」があり、あと(跡)に残る「しるし(標)」として
伝へられるものが「ことば(言葉)」である。
0900a giant step for a man/a tiny leap for mankind垢版2023/05/28(日) 11:51:24.30ID:yYasP8F5
残された足跡の現実離れした大きさから、
いまだかつて現存したことのない存在者としての
不在の「巨人」が理念化されてあら(顕/現)はれる。
0901名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/28(日) 18:17:51.49ID:yYasP8F5
個人的なことを言ふと、私は本当に長い間、私の周囲の人々が当然の
こととして受け入れてい行動原理と私が自然に従っている行動原理に
根本的に大きな「ずれ」があることに気づいていなかった。その大きな
「ずれ」は、匿名の掲示板であっても、私のような書込みをする人が
見渡す限り他に誰も見当たらないことにも表れているのだろう。
私としては、単に自分が言ひたいことを言っているだけなのだが、
本当に自分が言ひたいことが、このようなことばかりであるというのは、
ほとんどの人にとっては、どうもかなり例外的なことらしい。
0902名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/29(月) 07:39:54.03ID:U/GNQlnG
>atone (v.)
1590s, "be in harmony, agree, be in accordance," from adverbial
phrase atonen (c. 1300) "in accord," literally "at one," a contraction
of at and one. It retains the older pronunciation of one.<
(出典 etymonline.com/search?q=atone)

このような表現の例を見ても、英語やラテン語において、通常、以下の
ように説明される"ad-"、"ac-"、"a-"の用法
>ad-
word-forming element expressing direction toward or in addition to,
from Latin ad "to, toward" in space or time; "with regard to,
in relation to," as a prefix, sometimes merely emphatic, from
PIE root *ad- "to, near, at."

Simplified to a- before sc-, sp- and st-; modified to ac- before many
consonants and then re-spelled af-, ag-, al-, etc., in conformity with
the following consonant (as in affection, aggression). <
(出典 etymonline.com/search?q=atone)
には、古代ギリシア語の場合に、"alpha copulativum"と呼ばれる
"a- or ha-"との類似性を、したがって、表現上の用法としての"be-"や
"con-"との共通性が私には強く感じられる。

>Greek also had an alpha copulativum, a- or ha-, expressing
union or likeness, which is the a- expressing "together" in acolyte,
acoustic, Adelphi, etc. It is from PIE root *sem- (1) "one; as one,
together with."<
(出典 etymonline.com/search?q=atone)
0903名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/29(月) 08:46:08.46ID:U/GNQlnG
ひと(人/一)の言語は、気づき方によ(依)より「しるし(標)」
(代表的には、みづから(身づ柄/自ら)の身体性に結びついた
「こゑ(声)」を出すこととしての発音)を「理念化することを
活用しながら」体系を成すようにかたち(形)づく(作)られつづける。
0904名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/29(月) 18:57:31.20ID:U/GNQlnG
>>444
>1. 本居宣長の直毘霊(なおびのみたま)と、
2. ソークラテースの"ἀρετή(aretḗ)"/「すこやかさ(健全さ)」と、
3. ニーチェの思想における「快癒」<

いくら「快癒」を心から願ったところで、「なやみ」の診断が誤って
いたなら、すこやかさの回復がもたらされるどころか、「なやみ」は
さらに深刻になる。「なやむ者」にとってさらに「あ(悪)しき」ことは、
診断する役割を担ふ側が意図的に誤診断を下す場合だ。そんなことは
あり得ないと思ふだろうか。しかし、この世では、診断する役割を担ふ側
にとっては、誤診断を下しつづけて、それを人々に正しい治癒法である
と信じ込ませることこそが、診断する役割を担ふ側にとっては、
紛れもなく「よ(善/良)き」ことであるという事態がごく自然にあり得るのだ。
0905名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/29(月) 19:09:29.44ID:U/GNQlnG
私が書き込もうと思っているのは、人とその他の動物を鋭く対比させる
世界観についてである。しかし、私は、思想界隈で流通している
「動物倫理」のようなことを説こうと思っているわけではない。
それどころか、私には「動物倫理」のような言説こそ、意図的な
誤診断の典型であるように思える(だからこそ、私は、そもそも
そのようなことを主題として掲げて書かれた著作に目を通す気に
すらならないわけだが)。
0906名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/29(月) 23:41:25.01ID:U/GNQlnG
現代の社会では、身分制度は廃止されたことになっており、
身分制度を復活させるべきであると論じるような人はまずいないし、
たとえいたとしても、大多数の人々は、自分に高い身分が制度的に
保証されることになることが見込めないのだから、そのような
訴えが大半の人々の支持を得て、多数派を形成することはあり得ない
だろう。しかし、そうであるにもかかわらず、ではなぜ、あたかも
身分制度が存続しているかのように上意下達の単方向の命令指揮系統
を確立するように人々が階層的に組織化されることが一般的であり、
大多数の人々が、そのような組織化を「自発的に」受け入れている
ように見えるのだろうか。人々は、自分が階層化された組織に
おいて、命令指揮系統により下される指示に忠実に自分の務めを
果たしたなら、それが評価されて階層を昇進し、組織内で比較的
優位な立場を確保することができるようになると見込んでいるから、
組織に自発的に従属することを選択しているのだろうか。
0907名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/30(火) 00:36:58.52ID:LcahEt/u
そうではないだろう。人々が階層的に組織化されることを「自発的に」
受け入れているように見えるのは、命令指揮系統において上意下達の
指示に一方的に従はざるを得ない立場であっても、組織に従属しない
個人よりは、集団として優位性を確保することができるからである。
人々は集団として、他の人々の集団より優位を確保するために
階層的な組織化を互いに競ひ合って拡大するのであり、組織に
従属しないでいることは、著しく不利な立場に身を置くことになる
のだ。ところで、このことから自ずと生じるのが、階層化された
組織に従属することにより集団としての優位性の確保していることと、
上意下達の指示に一方的に従はざるを得ない立場に身を置かざるを
得ないことの間の「葛藤」である。これは、あくまでも「葛藤」
であって、その解消が追求され得る「矛盾」ではないことに
留意する必要がある。この「葛藤」は、そのような集団において
生きる人々に深い「なやみ」をもたらすが、その「なやみ」は、
「組織化の改善」によって解決されることは望めない。なぜなら、
自らが従属する集団の階層的な組織化が解消されたなら、それは
とりもなほさず、自分にとって確保されている優位性も失はれる
ことを意味しているからである。
0908名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/30(火) 00:49:04.34ID:vL/tEw9y
次のことを考へてみるといい。
階層的に組織化された集団においては、組織の命令指揮系統において
上位の立場になければ、組織化を改革しようとすることはあり得ず、
どのような改革を目指すにせよ、それが命令指揮系統の弱体化を
目標とすることはあり得ない。組織において下位の立場からの要求が
実効力を発揮することは不可能であり、またそのような組織に
従属しない者は孤立して、集団に対して著しく不利な立場に置かれて
いるので、何をどう発言したところで、集団の組織化に対して
影響力を及ぼすことはできない。
0909名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/30(火) 07:47:33.17ID:vL/tEw9y
ニーチェの主著である"Also sprach Zarathustra"の冒頭には、
>Ein Buch für Alle und Keinen
という言葉が掲げられている。これは、
「すべての者のための、誰のためのものでもない本」
という意味である。一見したところ、謎めいて見えるが、
ニーチェがこの言葉によって伝へようとしているのは、この本が
書かれたのは、「すべての人々に共通するやまひ(病)」の治癒
に向けられてであるが、そこで提案される治癒法は、
「汝/己自ら以外の他の誰のためのものでもない」ということだろう。
ニーチェは、哲学や思想の長い歴史のなかで自分だけが
初めて、「すべての人々に共通するやまひ(病)」からの
治癒には、「集団組織として解決法」はあり得ず、それは
「『な(汝/己)』が健やかさを回復することに向かふ」こと
においてのみ追求され得る、ということに気づいたのだ
と感じている。これは、そのような気づき方が「な(汝/己」
のもの以外ではあり得ないという意味では、錯覚ではないが、
しかし、「『な(汝/己)』の気づき」としては絶えず、繰り返し
言葉として表現されてきたものである。しかし、その一方で、
ニーチェの言説そのものも、「人類」全体に向けられた
プロパガンダの形式をとり、"Übermensch"という標語を
用ひることで、人類という集団と対比される「自己の個人
人格崇拝」の一種として解釈されて集団組織化のイデオロギーに
ふたたび回収されてしか理解されないことが普通である。
0910名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/30(火) 07:54:02.33ID:vL/tEw9y
「すべての人々に共通するやまひ(病)」には、「集団組織」としての治療法も、
「集団組織」と対比される「個人」としての治癒法もあり得ない。しかし、
思想の言説はつねに、そのことに気づかせないようにするために、
大抵の場合、意図的に思考の縺れをもたらすように言説を紡ぐのである。
0911名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/30(火) 19:16:27.83ID:vL/tEw9y
キリスト教神学の言説が、それを引き継ぐ思想が、人間と他の動物
(特に「けだもの(獣)」)を明確に区別して、他の動物を人に劣る存在と
見做すことが一般に知られている。その一方で、人として集団組織
を形成する前の、あるいは集団としての組織化が十分に発達していない
とされる「野蛮」の段階にあるとされる人の生活は、「けだもの(獣)」
と同様のものとして思想の言説において描かれてきた。しかし、
その描写も、しばしば、自然観察により記述されるような野生動物
の生態とは、無関係のものであり、むしろ、「野生」についての
「奇妙な偏見」を感じさせるものであることが少なくない。そこで、
「自然との調和を求める東洋とは異なり、西洋は、人間と自然を対立的に
捉える偏った世界観に基づく物事の考え方をする」といった批評的な
論説がしばしば見られることになるわけだが、そのような批評は、
そうした「野生」についての「偏見」に見えるものが、そもそも、
思想としての「意図的なイデオロギーの反映」であることを見落としている。
0912名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/30(火) 20:54:01.26ID:vL/tEw9y
キリスト教神学の言説も含め、思想の言説に「典型的」に見られる
「けだもの(獣)」や「野生」についての論述は、そもそも、
考察のための基礎として、自然環境における野生動物の生態を
綿密に観察して、その特徴を捉へて記述しようとするような
ものではない。そうではなく、「けだもの(獣)」や「野生」に
ついて述べることは、自分自身を含む人々が現状で生きている
「人の集団組織化の現実」として認識された「理念」の
「裏返し」、つまり、「人々が集団組織化されていなかったとしたら、
人はどのような状態に置かれることになるだろうか」という
「欠如態の理念化」として行われているのである。だから、
「けだもの(獣)」や「野生」を著しく劣ったものと見做すことが、
そのまま、「人の集団組織化の現実」をその評価において
少なくとも相対的に持ち上げることになるのである。

「そんなに単純ではない、野生のけだもの(獣)が高貴
なものと見做されたり、その自由に対する憧れが表現
されることもある」といった類の反論があることが
予想されるが、「けだもの(獣)」や「野生」が著しく
劣ったものであるとされると同時に、その姿が「高貴」
であるとされたり、「自由」であるとして憧れられ
たりすることが、まさしく、その「理念化」が、
「人の集団組織化の現実」として認識された「理念」の
「裏返し」であることをはっきりと示しているのである。
というのも、「人の集団組織化の現実」は、それにより
自分自身に優位性をもたらすことになっているとともに、
それと引き換えに不自由な従属を耐え忍んでいることの
自覚として認識されているからである。しかも、その
優位性の自覚は、実のところ、野生動物に対するもの
というよりも、「けだもの(獣)」や「野生」に喩えられる
集団組織化において劣っていると考へられる人々に対する
ものなのである。
0913名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/30(火) 20:58:12.38ID:vL/tEw9y
思想の言説に「典型的」に見られる「けだもの(獣)」や「野生」に
ついての論述は、英語を用ひるなら、"civilized"という表現によって
理念化される様態の裏返しであると言うことができるだろう。

>civilize (v.)
c. 1600, "to bring out of barbarism, introduce order and civil
organization among, refine and enlighten," from French civiliser,
verb from Old French civil (adj.), from Latin civilis "relating to
a citizen, relating to public life, befitting a citizen<
(出典 etymonline.com/search?q=civilized)
0914名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/31(水) 08:51:29.73ID:wwARfQB8
「野生」とは、みづから(身づ柄/自ら)が「自発的に」(自己抑圧的に)
従属する集団組織化の理念化の裏返しであり、そのように裏返されて
理念化されたみづから(身づ柄/自ら)の「かげ」/"cast image"が
「けだもの(獣)」なのだ。
0915名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/31(水) 09:24:16.83ID:wwARfQB8
>>914
日本語には既に、この関係性を全体として捉へた喩としての
表現が存在する。その表現が、万葉集の歌に詠まれた
「さ『を・し』か/左乎之加/さを鹿」である。

>万葉集 第20巻 4320番
麻須良男乃 欲妣多天思加婆 左乎之加能 牟奈和氣由加牟 安伎野波疑波良
大夫の呼び立てしかばさを鹿の胸別け行かむ秋野萩原
ますらをの よびたてしかば さをしかの むなわけゆかむ あきのはぎはら
(出典 万葉集ナビ)
0916名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/05/31(水) 18:43:50.20ID:wwARfQB8
生きることにおいて「なにもしないことが『できる』」ことにより、
あたかもみづから(身づ柄/自ら)が「王」となったかのように
「巨人」の如き力を司っていることになる。
0917名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/01(木) 00:49:56.66ID:8JpyrrUh
世界は、世代を超えて受け継がれる気づき方の織り成し
としてつねに暫定的に形を成して現に生きられており、
生きることはいつでも、その形をたよ(頼/手依)りにする
ことを手探りでこころみている。
0918名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/01(木) 05:33:31.41ID:8JpyrrUh
私の言葉が人生訓のようなものと誤解されないように、次のように
私が問ふとすれば、どのような答えが返ってくるだろうか。

私がこの掲示板に書き込むことと、米国メジャー・リーグの
プロ野球選手が試合で勝ち投手になることは、「行為の達成」と
して、どちらが「より凄いこと」だろうか。ここで、私の問ひの
意味を曲解しないようにしよう。私は、そのどちらが「行為の
達成」として「より凄いこと」であるかを問ふているのであって、
私と、そのようなプロ野球選手のどちらの方が「人として凄い」
かを問ふているのではない。
0919名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/01(木) 06:03:29.76ID:8JpyrrUh
この掲示板に書き込むことは、私ではなく、他の誰かが同じ場所に
座って同じパソコン機器を目の前にしていたとしても、その他の
誰かも、多くの場合、簡単に実行することができるだろう。
それとは対照的に、米国メジャー・リーグの野球の試合で
勝ち投手になることは、その選手の代わりに同じマウンドに他の
誰かが立たされたとすれば、それを同じように実行することが
できる人は、例外的にしかいないだろう。その一方で、それを
「行為の達成」として見た場合、試合が行われて、その結果が
引き分けでない限り、対戦チームのどちらかの投手が勝ち投手
になるのであり、100年以上前のメジャー・リーグ発足当時の
試合でもやはり、それは誰かによって行為として達成される
ことである。しかし、インターネットの掲示板に書き込むことは、
その当時であれば、インターネットどころか、パソコン機器も
まだ存在しないので、それを行為として達成することは誰にも
不可能である。また、何をそんな当たり前のことを言っているのか
という反応が返ってくることは目に見えているが、人は
自らが生きている現実を言葉にして記述しようとするとき、
そこにあらゆる思ひが入り混じってしまうので、そのことを
自覚しない限り、その記述により自分がなにをどのように
考へることになっているのかすら、すぐに混乱してしまう。
0920名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/01(木) 07:38:45.06ID:8JpyrrUh
私がこの掲示板に書き込むというたったそれだけの行為を達成する
のにも、それを可能にしている前提となる条件は、数限りなくあり、
パソコン機器や、インターネットのサーバを運用する仕組みをを
作り上げている技術を形成している「気づき方の織り成し」だけ
をとってみても、それを全体としてすべて把握しているような
人は誰もいないし、それは今現在、生きている人々の「気づき方」
だけによって「織り成され」ているわけではなく、世を継いで
伝へられてきた「気づき方の織り成し」である。それでも、
それが「気づき方」の織り成しとして現存していることは、
例えば、土中から掘り出された何らかの目的で人によって
作られたモノが、その素材と形としてだけ遺された、使途不明
なものモノとなってしまうことからも分かるだろう。
0921八隅知之(やすみしし)垢版2023/06/01(木) 08:21:07.72ID:8JpyrrUh
現世に生きる人が何らかの行為を達成しようと場合、そのことは、
その行為が道を歩くというような極めて単純なことであっても、
世を継いで伝へられてきたそのような「気づき方の織り成し」を
前提としている。その全体をすべて把握している人は、現世
には誰一人いないにもかかわらず、それをみづから(身づ柄/自ら)
が何かを為すために利用するなら、それは「不在の巨人」に
よる偉業として残され、受け継がれて現存するものであるかの
ように理念化されてあら(顕現)はれることになる。
科学者のニュートンは、
>私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです。
という言葉を残したと伝へられているが、しかし、その「巨人」は、
実在する「存在者」としてはいつの時代に遡っても「不在」であり、
つねにすでに「不在の巨人として理念化されて現世に継承される存在者」
としてのみ人々の前にその姿をあら(顕/現)はすのである。
0922炭素の巨大な足跡垢版2023/06/01(木) 08:41:25.98ID:8JpyrrUh
>現世に生きる人が何らかの行為を達成しようと場合、そのことは、
その行為が道を歩くというような極めて単純なことであっても、
世を継いで伝へられてきたそのような「気づき方の織り成し」を
前提としている。<

「統治」/»Verwaltung«による「強制力」/»Gewalt«の行使の
正当化は、このことによ(依)っている。統治者が「八隅知之(やすみしし)」
と形容される場合、そのことが発話遂行的にし(知/領)らしめているのは、
世を継いで伝へられてきたその「気づき方の織り成し」を現世において
具現化しているのが、統治者に他ならないということであり、
それは、現世に生きる人が何を為すことができたとしても、
その成果は、その前提として「気づき方の織り成し」を具現化する
統治者によってすでにつねに先取りされているということである。
0923名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/01(木) 17:39:19.18ID:8JpyrrUh
哲学をすることが何の役に立つのかという問ひは、私にとっては
無意味である。そうすることが現に私が生きることに役立つから、
私は哲学をしているのであって、それが他の誰にとってどのように
役立つのかは、私の知ったことではない。例えば、ほとんどの
人には、攀じ登って超えることが不可能に見える障壁や、
飛び越えることが無理であると思える対岸まで離れた深い堀
がそこにあったとして、それを常人には思ひもよらないような
体力と技能によって攀じ登って超えて見せたり、飛び越えて
見せたりすることは、哲学の役割ではないし、皆で力を
合せて、その障壁にトンネルを通したり、堀に橋を掛けたり
することも哲学の役割ではない。わざわざそんなことを
しなくても、その障壁の向こう側に出ることのできる、壁が
破れている箇所に気づいたなら、あるいは堀を容易に渡る
ことのできる場所があることに気づいたなら、そして
そのようにして向こう側に行くことが私にとってどのように
か生きることに役に立つのなら、それを他人に隠すことも
せずに自分で実行してみせる、それが私にとっての哲学をする
ことの意味である。
0924名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/01(木) 17:53:09.61ID:8JpyrrUh
ところで、そのような障壁や堀は、人々が向こう側に行こうとすること
を諦めさせるように人為的に作られていることがしばしばある。
すると、私が、哲学をすることによって向こう側に行けることを
実際にやってみせることは、人々に「役に立つこと」をしている
と高く評価されるどころか、「余計なまねをしやがって」という
苛立ちを生じさせて、私自身に危険をもたらす可能性すらあるだろう。
それは、並外れた体力と技能で障壁を攀じ登ってみせたり、
堀を飛び越えて見せたりする「選ばれた少数」が、むしろ、
それ以外の人々にそれが自分には無理であることを自覚させる
ことになり、万人から賞賛され、憧れの対象とされるのとは、
対照的である。また、その作業に多くの危険を伴い、実際に
作業に従事する人々に少なからぬ犠牲者を出したとしても、
障壁にトンネルを掘って貫通させたり、堀に橋をかけて簡単に
向う側に渡ることを実現させる計画を実現した「指導者」は、
(その計画自体が極めて多数の人々の試行錯誤の結果として
策定され、「指導者」はそれに認可を与えただけだとしても)
後世の人々からも高く評価されることになることが一般的
なので、そのこととも対照的である。
0925名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/01(木) 18:07:18.47ID:8JpyrrUh
より単純に次のように考へてみてはどうだろうか。
私が道を歩いていると、他の誰も気づいていないように私には
見える大きな穴が地面に開いている。それでもその穴の上を
何かが覆って穴が見えにくくなっている。私はそこを通る必要があるが、
当然、穴に落ちたくはないので、それを避けるが、
なぜそんなところに大きな穴があるのか、どれだけの深さが
あるのか、通るついでに興味本位で覆いかぶさっているものを
取り払ってしまう。私がそうすることは、人々の役に立っていると
言へるのだろうか。別に私は、その穴に落ちるかもしれない誰か
を助けようと思ってそうしているわけではないが、その危険に
晒される可能性にある人々にとっては、私の興味本位の行動は
役に立っていると言へるだろう。逆に、それが落とし穴として
意図的に苦労して作られて、人々に気づかれないように、また
気づいた人も黙って避けて通るように暗黙の了解が成立している
なら、私の行為は、その落とし穴を掘った人々の苦労を台無しに
するものであり、私の興味本位の行動は、罰せられるべき
悪しき行ひと見做されることになるだろう。
0926名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/01(木) 18:13:09.93ID:8JpyrrUh
> 人にあなづらるるもの。 築地のくづれ。あまり心よしと人に知られぬる人。
(出典 枕草子)

人に「あな(侮)づられ」て、特に私のような「愚か者」に「あな(侮)づられ」
たと感じて、気分のよいままでいられる人々はそう多くないだろう。
それが、苦労して落とし穴を掘るような人々であれば、なおさらである。
0927名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/01(木) 18:18:49.88ID:8JpyrrUh
後世の人々が、私の振舞ひを高く評価するか、見下すかといった
ことにも、私にはまったく関心がない。最も重要なことは、
その振舞ひにより私にもたらされる恐れのある危険と天秤にかけて、
それが現に私が生きることに役立つか否かである。
0928名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/01(木) 18:34:11.86ID:8JpyrrUh
私は確かに»Narr«ではあるかもしれないが、決して»Hofnarr«では
ないのである。それは、私には、これまでにそのようなお呼びが
まったくかかったことがないからでもあるが、これからもそのような
お呼びがかかることは一切ないだろう。
0929標結ふ/praeconor垢版2023/06/02(金) 08:47:04.61ID:Kol17FaT
有機化合物を消費して熱エネルギーに変換する行為に対して
グローバルに課税する権限をあらかじめ確立すべしという理念
0930妬む神垢版2023/06/02(金) 09:11:27.99ID:Kol17FaT
「誰のおかげで飯が食えていると思っているんだ!」

>In Greek mythology, Zelus or Zelos (/ˈziːləs/; Ancient Greek:
Ζῆλος Zēlos, literally 'zeal') was the daimon that personifies
dedication, emulation, eager rivalry, envy, jealousy, and zeal.
The English word "zeal" is derived from his name.
His Roman equivalent was Invidia.

Family
Zelus was the son of Pallas (the Titan) and Styx (an Oceanid).
His siblings were Nike (Victory), Kratos (Strength) and Bia (Force).

Titanomachy
Zelus together with his siblings were winged enforcers who stood
in attendance at Zeus' throne and formed part of his retinue.<
(出典 en.wikipedia.org/wiki/Zelus)
0931名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/02(金) 09:21:46.85ID:Kol17FaT
>Titanomachy
(出典 en.wikipedia.org/wiki/Titanomachy)

>ティーターノマキアー
ティーターノマキアー(古代ギリシア語: Τιτανομαχία、古代ギリシア語
ラテン翻字: Tītānomakhiā)は、ギリシア神話で語られるゼウス率いる
オリュンポスの神々と、クロノス率いる巨神族ティーターンとの戦いである。
全宇宙を崩壊させたこの大戦は、終結させるのに10年もの歳月が必要であった。
(出典 ja.wikipedia.org/wiki/ティーターノマキアー)
0932情也良牟等(こころやらむと)垢版2023/06/02(金) 12:06:44.58ID:Kol17FaT
»um den Trübsal zu vertreiben«

>万葉集 第19巻 4187番
念度知 大夫能 許<乃>久礼<能> 繁思乎 見明良米 情也良牟等
思ふどち ますらをのこの 木の暗の 繁き思ひを 見明らめ 心遣らむと
おもふどち ますらをのこの このくれの しげきおもひを みあきらめ こころやらむと
(出典 万葉集ナビ)
0933名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/02(金) 18:00:31.40ID:Kol17FaT
>>915>>931

944名無しさん@お腹いっぱい。2023/01/11(水) 23:24:41.43ID:gMPZezgU
「ますらを(大丈夫/益荒男)の『をを』しさ」とは、「うら」をかへすなら、
つまり、その「こころ(心)のうち」を観るなら、「木(こ)の暗(くれ)の
繁(しげ)き思(おも)ひ」であり、その様態を一言で表現するなら、
「鬱然」/»Trübsal«である。

694をふ(乎布/終ふ)のうら(浦)のうら(裏)としての俗世2023/04/29(土) 10:33:17.51ID:BWgsTt9x
このように「をふ(乎布/終ふ)のさき(崎/先)/うら(浦)」を、
「『時限性』/"temporality"を離れる『潜在性』/"potentiality"」
として捉へるなら、『クラテュロス』におけるソークラテースの
語る、人の死についての冗談めかした言ひ回しが、どのような
レトリックであるのかも、容易に理解できるようになるだろう。

>wären sie aber noch von der Leidenschaft des Körpers
umhergetrieben, könnte sie nicht einmal Vater Kronos
mit seinem sagenhaften Fesseln bei sich zurückhalten.
(出典 Platon, "Kratylos", p.79, Reclam)
0934名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/02(金) 18:15:19.80ID:Kol17FaT
>オリュンポスの神々と、クロノス率いる巨神族ティーターンとの戦いである。
全宇宙を崩壊させたこの大戦は、終結させるのに10年もの歳月が必要であった。 <

たったの10年で「けりが着いた」のは、まさしくそれが「神業(かみわざ)」
だったからであり、現実には、クロノス/時の神に魂をつなぎとめられた
間だけ生きている人々の集団の戦ひは、集団としての組織化において優位
に立った側が、「世を継ぐ」(つまり、新しい世代を担ふ)ことになり、
「世を継ぐ」ことが時を超越してみづから(身づ柄/自ら)の従属する側
の集団組織化を、神の権限を代理するものとしてし(知/領)らしめること
になるので、みづから(身づ柄/自ら)のいのちがあるかぎり、つまり、
クロノス/時の神に魂をつなぎとめられて現世(うつしよ)に我が身がある
限り、終はることはない。だからこそ、「をふ(乎布/終ふ)のさき(崎/先)/
うら(浦)」は夢想としてしかあら(顕/現)はれることはなく、そのことも
自覚されている。
0935名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/02(金) 18:32:24.57ID:Kol17FaT
蛇足かもしれないが、「ますらをのこの 木の暗の 繁き思ひ」として
歌に詠まれる「鬱然」/»Trübsal«/»betrübt sein«は、
みづから(身づ柄/自ら)が「さ『を・し』か/左乎之加/さを鹿」と
してあるものとしての自覚、すなはち、みづから(身づ柄/自ら)が
「自発的に」(自己抑圧的に) 集団組織化に従属することにより、
他の集団に対して、自己の集団の優位性を保っていると同時に、
そのことにより、不可避に「な(汝/己)」が抑えつけられをり、
その状況は「時限的」/"temporal"には解消され得ないことを
「我が身」において受けとめることとしてある。
0937名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/02(金) 20:09:45.65ID:Kol17FaT
>Es ist wie die Schichten des Sandwichbrotes. Oben ist eine
krustige Lage von scheinbarer Arroganz, die, wie ich schon
bemerkt habe, nichts als Schüchternheit ist. Wenn man diese
durchdringt, stößt man auf eine weiche Lage von Frohsinn und
Anständigkeit. Wenn man aber auch durch diese durch ist,
findet man die unterste Lage von wirklichem Dünkel; er ist umso
unerschütterlicher, da er elastisch, undeutlich und unzusammenhängend
ist. Es ist die Arroganz der Überbescheidenheit, die schlimmer ist als Prahlerei.
(出典 Arthur Koestler, "Diebe in der Nacht", p.198)
0938名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/03(土) 16:14:56.76ID:M7BRRHfv
「否応なし」/である呼びかけ/»Notwendigkeit«に「いさぎよ(潔)く」/
「ま(任)けのまにまに」に応じる「ますらを(大夫)」の「『を・を』しさ」/
»Willigkeit«は、それでも「『しか』し」、「余儀なくされること」/»Not«
をみづから(身づ柄/自ら)が「う(受)けい(容)れる」意志の表明として、
そのようにし(強)ひられることによる「抑圧を否認しようとする気分」、
すなはち、「鬱然」とした様態/»Trübsal«/»betrübt sein«として
あら(顕/現)はれてしまうことを避けることができない。これは、
「うつしよ(現世)」において回避することができないことが
自覚されている「葛藤」であって、「うつつ(現)に」留まりながら、
その解消法が追求されている「矛盾」ではない。
0939名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/03(土) 16:38:19.76ID:M7BRRHfv
ところで、「めめ(女々)しさ」というのは、「『を・を』しさ」の欠如を
否定的に評価して指す表現であって、女性らしい性質、すなはち、
「『をんな(女)し』さ」(岩波古語辞典の「をんな(女)し」の項目には、
「見事な女性らしく感じられる」、「いかにも女らしい」と記載される)
の否定的な評価ではない。
0942名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/03(土) 18:05:02.52ID:M7BRRHfv
「否応なし」である呼びかけ/»Notwendigkeit«/»Sollen«に、
応じるように、こた(応)への「を」/»Willigkeit«/»Wollen«を
適合させることと、どのようにか誘はれて生じる意欲の
「を」/»Willigkeit«/»Wollen«を、それに応じて
「必要とされること」/»Notwendigkeit«/»Sollen«と
の間で互いに適合させようとこころみることは、
似ているように見えながら、かなり異なる。
0943We shall overcome/You shall not give up垢版2023/06/04(日) 08:35:53.02ID:CX0zmviO
「ををしさ」とは、"shall"に"will"を合致させることの"commitment"に、
"will"に"shall"を適合させることの"desire"を自発的な意志により
従属させる抑圧としてある。そのようにして抑圧された"will"は、
しかしそれでも、喩として回帰してきて、歌に言葉として詠まれて
表出する。
0944名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/04(日) 08:51:13.01ID:CX0zmviO
"You shall not give up."
これは倫理的な「責務」だろうか。しかし、ソークラテースは、
むしろ、ひと(人/一)の魂(たましひ)が、それを現世(うつしよ)
につなぎ留めているクロノス/時の神による結び付けから解(と)き
放(はな)たれて、つまり、あの世(よ)行(ゆ)きとなって、
そのような"shall"/「責務」が消え去ることの方が、
ひと(人/一)の在り方として本来的に「理想の実現」として
望まれることである「はず」だろうと説いている。
0945名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/04(日) 10:12:12.70ID:CX0zmviO
>>826
>「ま(任/牧)きば(場)」としての「ノモス」と「法」としての
「ノモス」は、「自由/勝手に〜することができる(場)」と「〜させて
『いただく』ことができる『ゆるし(≒"allowance"≒「配分」⇒
「法/ノモス」)』」の関係にあるということだ。<

「法」が"νόμος"/「ノモス」でであるとするなら、「法」の基礎に
ある(「法」が「法」として確立される以前に)のは、「ま(任/負)け」であり、
それは、"Why don't you take my place/take the place on my behalf?"
という「さそ(誘)ひ」に対して、それにこころよ(快)く応じることを
"Why shouldn't I?"
という「こた(応)へ」として「みづから(身づ柄/自ら)にゆる(許)す」こと
であると言ふことができるだろう。
0946神の代理垢版2023/06/04(日) 10:25:28.09ID:CX0zmviO
"Are you asking me why I shouldn't give up the place?"
"That's because I'm taking the place on someone else's behalf."
0947欲しがりません勝つまでは垢版2023/06/04(日) 20:01:14.50ID:CX0zmviO
»Nein, wir schaffen das nicht!«

言葉には、使はれている単語の語彙としての辞書的な意味と
文法からだけでは捉へることができない「表現としての表情」がある。
例えば、ここに引用した例がなぜ滑稽に感じられるのか、
その理由をよく考へてみるといい。
0948名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/05(月) 08:19:52.82ID:gsAT79vT
思想として言説を紡ぐとは、どのようなことだろうか。
それはみづから(身づ柄/自ら)の信念や信仰の表明だろうか。
そうであるとすれば、思想の言説は、何らかの集団組織化に対する
(「個人」として他の集団組織化に対して「みづから(身づ柄/自ら)」
の「独立」を「宣言する」場合でも)忠誠の誓いにしかならない
だろう。それが不特定の人々に役立つものであろうとするなら、
思想は、必然的に「社会」思想とならなければならないはずで
あり、なおかつ、その言説は、特定の集団組織化の利益を増進を
はかることに忠誠を誓うものではなく、集団組織化一般が現に
どのように人々を組織化して、機能しているのかを適切に記述
しようと努めなければならないはずである。ところが、実際に
流通している思想の言説は、集団組織化の現実がいかに「理念」
からかけ離れているか、いかに「理想」を実現することに「失敗」
しているかを規範的に批判することばかりに専念している。
しかし、それでは、思想の言説は、やはり、みづから(身づ柄/自ら)が
忠誠を誓う集団組織化の「理想」に対して、自分たちの
「現状の至らなさ」を反省し、その集団組織化の規律を乱す
者を内なる敵として非難し、それに忠誠を誓おうとしない者を
外敵として排撃し、無力化しようとするものとしてしか役割を
果たさないことになるだろう。
0949名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/05(月) 08:27:16.95ID:gsAT79vT
「それは、思想の言説の役割ではなく、人々の歴史や社会を研究する
学問の役割である、だから人々の歴史や社会の研究は特定の思想
から独立なのだ」と主張する人々は大勢いるだろうが、現実に、
いまだかつて、そのようであることがあっただろうか。
「人々の歴史や社会を研究する学問」は、むしろ、つねに
「思想の言説」を、それが当然のことであるかのように道案内に
して、明示的にも暗黙にも現在の現状に至るまで、いつでも
「思想の言説」に導かれているのではないか。
0950名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/06(火) 08:49:32.46ID:0Jug9dwu
思想を政治とのかかはりで考えて見れば、いかに思想の言説が
その根底から無効化しているかに気づかざるを得ないだろう。
思想の言説は、制度として実施されている狭義の「政治」に
限定しても、現状の「政治」に対して何らかの有効性があると
人々に感じられる議論を組み立てられるような言葉をもって
いるだろうか。制度についてすら、有効であると感じられる
ような言葉で記述することができなくなっているのではないか。
例えば、中国、ロシア、トルコ、インド、ブラジル、日本の
政治制度は、それぞれ大きく異なり、統治管理の実態も
それぞれの国の内部ですら様々な複雑さを抱えているだろう。
「日本国内で流通している」という限定をつけた上での
思想の言説の漠然としたイメージのレベルでは、インド、
ブラジル、日本は、民主主義の政治が行われている国と
考えられているが、中国、ロシア、トルコについては、
それを民主主義と呼ぶことができるのかどうかもはっきり
せず、政治権力による強制力の行使がしばしば、「強権」、
「専制」、「独裁」といった類の否定的な評価の言葉によって
形容されるが、人々の統治管理がどのような仕組みで機能
しているのかについては、それについて語れる言葉すらない。
せいぜい、「民主主義的な自由が抑圧されている」という漠然
とした言葉があるだけで、後は、地域の「専門家」が
固有名詞をふんだんにちりばめて個々の出来事をその
「固有の脈絡」において詳しく解説するだけである。
思想には、「君主制」、「専制」、「民主制」、「共和制」、
「市民」、「身分制度」、「政治的自由」といった類の
数世紀前には議論においてまだ何らかの有効性があると思は
れていた類の語彙があるだけで、現実の統治管理の働きに
ついて記述するのに効力があると感じられる言葉は欠けて
おり、政治の現状がいかに「民主主義の理念」からかけ
離れているかを「非難する語彙」があるだけである。
0951名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/06(火) 09:53:55.20ID:0Jug9dwu
ところで、奴隷制の廃止という観点から身分制度の廃止について
語ろうとするような思想の言説は、根本的に逆立ちしているのでは
ないか。というのも、「奴隷制の廃止」と言ふと、あたかも
「『奴隷』という社会的な身分」が廃止されたかのように聞こえる
が、そもそも、「奴隷」であるとは、「社会的な身分」ではなく、
「『(人としての)社会的な身分』が『無い者』、またはそれを
『失った者』」を指す分類だろう。通貨を媒介とした経済活動の
市場が拡大したことで、それまで権益を世襲的に確保し、継承して
きた活動におい支配的な立場を維持できなくなった「(人としての)
社会的な身分」のある家系がシステム崩壊的に生じたことで、
身分制度が廃止されたのであって、身分制度の崩壊は、「奴隷制
の廃止」という「理想の追求」によって実現されたものではない
だろう。
0952名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/06(火) 10:48:59.34ID:0Jug9dwu
ひと(人/一)は一般に、みづから(身づ柄/自ら)に身分が無い状態、
みづから(身づ柄/自ら)の身分が失はれた状態を脱したいと願い、
みづから(身づ柄/自ら)の身分が失はれることを恐れ、少なくとも
それが現状のまま維持されること、また、できるなら、より
有利な身分を確保することを望んでいるのであって、
すべての人々に関して、ましてや人類とその他の生き物に関して、
「身分的な差別が全面的に解消されること」などまったく望んでいない。

それをあたかも、ひと(人/一)が一般に、「身分的な差別が全面的に
解消されること」を願っている錯誤させようとする思想の言説は、
意図的な誤った誘導であり、その行為そのものが、他者を誤誘導
できる優位な立場をみづから(身づ柄/自ら)の身分を確保しようと
する意志の表れである。
0953名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/06(火) 16:10:51.45ID:0Jug9dwu
>自然は人間にたいして公正である。自然は人間の労苦にむくいる。
それは、より大なる労働にはより大いなる報酬を結びつけているから、
人間を勤勉にする。だが、もし恣意的な権力が自然の報酬をとり去る
ならば、人々はふたたび労働をいやがり、無活動が唯一の善と思われる
ようになる。<
モンテスキュー、『法の精神』、p.161

この認識は、近年、よく話題になっている「人工知能」と労働の関係
について考えるうえでも重要だろう。データとして大量に取り込まれる
情報の何らかのプログラミング的な処理が、「人工知能」と呼ばれる
としても、それは、そのような仕組みが人の代わりに、現状の問題
を解決するのに何か役に立つことに気づいて、何らかの解決法を
考案して人に提案してくれるといったようなものではない。

これまでに、どのようにか役立つこととして人が気づいたことの
大量の蓄積をデータとして利用しやすくする仕組みとして有用
であるというだけのことで(といっても、そのように大量の
データに容易にアクセスできるようになったことがとても重要な
ことなのだが)、それを何らかの新たな課題の解決の取組みに
役立てることができると同時に、その取組みによる新たな気づき
がそのまま、「人工知能」を管理する側のデータとして取り込ま
れてゆくという仕掛けである。これは、いはば、アルゴリズム
的な「み(身)ど(獲/取)りのと(獲/取)く(汲/組)み」の「先取り」
として情報を管理する仕組みとして機能することになる。
0954名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/06(火) 19:49:46.78ID:0Jug9dwu
>>951-952
このことに気づくことは、「差別」一般について考える場合にも、
とても重要だろうと私は思ふ。一般的な「思想の言説」では、差別的な
言動や振舞ひをする「〜差別主義者」は、差別の対象とする人々を、
誤った知識に基づく偏見により、何らか特性を有するカテゴリとして
分類して差別的な扱ひをするものとされる。しかし、私は、
「差別の実態」は、ほとんどの場合、そのようなものではまったく
ないだろうと考へている。学校のイジメの場合を考へてみるといい。

イジメる側の生徒が、イジメる相手に対して「臭い」とか、
「汚い」とかいったことをイジメる理由として挙げるとして、
それが何ら事実に基づかないとすれば、それを確かに「偏見」
と呼ぶことはできるが、それが事実無根であることが知識
として明らかになったからといって、イジメが行はれなく
なるわけではない。差別の場合も同様で、「○○差別主義者」
は、差別を正当化する理由を口先ではいくらでも挙げるかも
しれないが、それは差別するための「口実」であって、その
「口実」としての理由が事実無根であることが明らかになった
からといって、差別をしなくなるわけではない。では、何が
主として人々を差別に駆り立てるのかと言へば、それは
自分自身が、「身分の無い者」、「身分を失った者」と
同等であると見做されること、またそのような人々と
同様に扱はれることの拒絶である。差別の対象とする人々に
共通する特性を見出して分類し、分別作業のように
差別をしているわけではない。
0955名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/06(火) 22:57:03.36ID:0Jug9dwu
>>954
このように見ると、「差別」と呼ばれる行為は、英語を用ひるなら
次のように一般的に記述することができるのではないか。

>a demonstrative act of singling out someone as having
no social status as "fellow 〜" to show one's superiority

差別のない平等な社会の実現を目指して活動していると主張する
思想の言説が、しばしば、差別行為とまったく同じ形式で行はれ
ているように見えるのは、ニーチェの言葉を借りるなら、
「人間的、あまりに人間的」なことだろう。
0956partisan politics/徒党を組む垢版2023/06/07(水) 09:42:16.49ID:KHkQRkSv
>singling out someone as having no social status

この行為の形式により可能になるのが/"what this form of action enables is"
徒党を組むこと、つまり、"to gang up on someone"という行動の様態である。
そして、ニーチェが、みづから(身づ柄/自ら)の在り方として明示的に拒絶した
のも、そのような行動の様態に従ふことである。

>Der Glaube ist immer dort am meisten begehrt, am dringlichsten nötig,
wo es an Willen fehlt: denn der Wille ist, als Affekt des Befehls,
das entscheidende Abzeichen der Selbstherrlichkeit und Kraft.
Das heißt, je weniger einer zu befehlen weiß, um so dringlicher
begehrt er nach einem, der befiehlt, streng befiehlt, nach einem Gott,
Fürsten, Stand, Arzt, Beichtvater, Dogma, Partei-Gewissen.<

Friedrich Nietzsche, "Die fröhliche Wissenschaft",
347. Die Gläubigen und ihr Bedürfnis nach Glauben
(zeno.org/nid/20009253998)
0957名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/07(水) 13:40:19.33ID:KHkQRkSv
またしても、当たり前すぎて誰も言葉にしようとしないことを言ふが、
「記憶」とは、それが紙に書き残されたメモであろうと、
ハードディスクに電子情報として残されたものであろうと、
インターネット上でネット化された絶えず更新されるデータベース
として提供されるものであろうと、想起のために残された手がかり、
言い換へるなら、「『気づき方の織り成しを思ひ起こさせる』ための
『よすが』」である。
0958名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/08(木) 11:51:22.37ID:dKeEJpbt
>>956
ニーチェの表現をうまく理解できない人々は、おそらく、みづから(身づ柄/
自ら)の立場を、ニーチェの表現における「いずれかの側」にあらかじめ
固定してそれを解釈しようとしてしまうのだろうと私は思ふ。

>451
Gerechtigkeit als Parteien-Lockruf. – Wohl
können edle (wenn auch nicht gerade sehr
einsichtsvolle) Vertreter der herrschenden Klasse
sich geloben: wir wollen die Menschen als gleich
behandeln, ihnen gleiche Rechte zugestehen.
Insofern ist eine sozialistische Denkungsweise,
welche auf Gerechtigkeit ruht, möglich; aber wie
gesagt nur innerhalb der herrschenden Klasse,
welche in diesem Falle die Gerechtigkeit mit Opfern
und Verleugnungen übt. Dagegen Gleichheit der
Rechte fordern, wie es die Sozialisten der
unterworfenen Kaste tun, ist nimmermehr der
Ausfluß der Gerechtigkeit, sondern der
Begehrlichkeit. – Wenn man der Bestie
blutige Fleischstücke aus der Nähe zeigt und wieder wegzieht,
bis sie endlich brüllt: meint ihr, daß dies Gebrüll Gerechtigkeit bedeute?
(出典 zeno.org/nid/20009234470)
0959名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/08(木) 18:44:19.84ID:dKeEJpbt
ところで、話は変はるが、「『けがらはしき』モノ」や「『きたなき』モノ」
がまず存在して、「けがれ」や「きたなさ」があるのではない。
「み(身)ど(獲/取)り」に「あた(能/価/値)ひ」しないとして
「放出されたモノ」/《ce qui est déchargé》を「み(身)」に
「引き受ける」/《se charger de 〜》ことが、「けがらはし」、
「きたなし」とされるのである。
0960名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/10(土) 09:44:59.52ID:L8vH0MDq
カタルシスの作用は、心のもつれを解きほぐすが、そのことによって
もたらされるのは、葛藤が解消されることではなく、むしろ、
葛藤がどのように生じているのかが、その「ま(真)こと(言/事)の
姿(すがた)」において「あら(顕/現/露)は」にされることである。
0961名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/10(土) 10:00:19.88ID:L8vH0MDq
生きつづけようとすることがカタルシスの作用を要請するのであり、
放出される必要がある「けがれ」をもたらしているのは、
他でもない、みづから(身づ柄/自ら)の「み(身)ど(獲/取)り」
の働きそのものである。
0962よろこばしきしろしめし垢版2023/06/10(土) 10:08:51.57ID:L8vH0MDq
したがって、み(身)をほろ(亡)ぼすことによって完全なカタルシスの
作用が実現されると想念するのは、夢想に過ぎない。
それによってもたらされるのは、「み(身)ど(獲/取)り」の働き
が消え失せるとともに、カタルシスの作用の必要性も消滅する
ということだけである。
0964余裕をかます福笑ひ垢版2023/06/10(土) 19:48:59.52ID:L8vH0MDq
万葉集 第13巻 3253番
>葦原 水穂國者 神在随 事擧不為國 雖然 辞擧叙吾為 言幸 真福座跡
恙無 福座者 荒礒浪 有毛見登 百重波 千重浪尓敷 言上為吾 <[言上為吾]>

>葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと
障みなく 幸くいまさば 荒礒波 ありても見むと 百重波 千重波しきに 言挙げす我れは <[言挙げす我れは]>

万葉集 第15巻 3583番
真幸而 伊毛我伊波伴伐 於伎都奈美 知敝尓多都等母 佐波里安良米也母
ま幸くて妹が斎はば沖つ波千重に立つとも障りあらめやも
(出典 万葉集ナビ)

最初の歌では、「さき(幸)く」に漢字として「福」が当てられている。
「さき・く」の「さき」は、「さ(咲)く」、「さか(栄)ゆ」、「さきはふ」
と共通して、挟まれた状態から空間が開ける様態を表しているだろう。
だからこそ、「余裕」/"room for maneuver"の広がりが現れる様態
を表現することに対応する(例えば、「裕福」という表現を想起して
みるといい)「福」の漢字が「さき(幸)く」に当てられたのだろうと
私には思はれる。

逆に、「余裕」/"room for maneuver"が無くなるように「逼迫」を
生じさせるのが、「鬼(お/ゑに)」である。万葉集の歌では、
「鬼」の漢字が「もの」という表現に当てられて詠まれている例が
複数見られるが、その場合も、「逼迫」を生じさせることを
想起させるために「鬼」の漢字を用ひているのだろうと考へられる。
0965名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/10(土) 20:25:08.99ID:L8vH0MDq
「鬼ころし」という酒(さけ)があるが、「さけ(酒)」もゑ(酔)ひ
の効果として「さきはひ」/《beatitude》を感じさせるから
「さけ(酒)」と呼ばれるのだろうと私は思ふ。
0967名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/11(日) 09:38:50.55ID:bPpwWXxi
>万葉集の歌では、「鬼」の漢字が「もの」という表現に当てられて
詠まれている例が複数見られるが、その場合も、「逼迫」を
生じさせることを想起させるために「鬼」の漢字を用ひている
のだろうと考へられる。<

この「もの(鬼)」の用法が想起させる感覚は、現代の日本語にも
引き継がれているだろうことが、例えば、「ものもの(物々)しい」
という表現に見て取れるだろう。これを、「ものもの(鬼々)し」
と万葉仮名で書き換へてみれば、いかにも「(こちら側が)継続的に
逼迫を感じさせられる様態」が想起される。

また、事象のあら(顕/現)はれを「もの」として扱ふようにする
「物象化」も、そのあら(顕/現)はれの効果を、(こちら側に)
「逼迫」/「必然性」/「強制力」/"ἀνάγκη"を感じさせる
「もの」にする。
0968名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/11(日) 20:00:35.74ID:bPpwWXxi
私は、制度宗教には関心がないので、それがどのように
理解され、説明されてきたのかまったく知らないのだが、
キリストが歴史上、実在したとすれば、「キリストが十字架にかけられる
ことによる人類の贖罪」というのは、「論理的」に考へれば、
「キリスト教の教義」であって、「キリストの教へ」ではないだろう。
0969名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/12(月) 00:01:35.56ID:qAM30JD0
医師になるのは、めちゃくちゃ簡単だよ。
どんな馬鹿医大でも国家試験の合格率7割以上はあるし、自治医大以上ならほぼ100%。

弁護士の場合は難関ロースクールを卒業しても、国家試験を通るのは10%程度。

医師になるには金と時間がかかるが、試験自体は簡単。
うちは従兄弟三人医師になったが、英検二級すら落ちるレベルの頭だからね。

医師国家試験の合格率ランキング見てみ。
一番低い杏林大学ですら、79.4%。

奈良県立大以上の偏差値の25校は95.0%超え。

これのどこが難関試験なの?
医学部に学費を支払える財力のハードルが高いだけで、医師にはバカでもなれる。

弁護士、司法書士、会計士、英検1級あたりは、バカには絶対に無理。

まとめると
医師国家試験→バカでも受かる。しかし、医学部6年間で1,000万以上かかる学費のハードルが高い。
司法試験→ロースクール卒業しても、合格できるのはごく一部。非常に難関な試験。
司法書士→ロースクールに行かなくても受験できるが、難易度は司法試験並み。
英検1級→英語がずば抜けて優秀でないと合格できない。英語の偏差値100必要。(実際にはそんな偏差値はないが)
会計士→おそらく、最難関試験か。会計大学院修了者の合格率は7.6%しかない。
不動産鑑定士→鑑定理論が地獄。単体の科目としては最難関の一つ。経済学などは公務員試験より簡単か。
0970名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/12(月) 00:52:00.57ID:+PF4GUDa
>à ce moment l’ivresse dionysienne sera proche.
Alors l’esclave est libre, alors se brisent toutes les barrières rigides
et hostiles que la misère, l’arbitraire ou la « mode insolente »
ont établies entre les hommes.<
[...]
>L’homme n’est plus artiste, il est devenu œuvre d’art :
la puissance esthétique de la nature entière, pour la plus haute béatitude
et la plus noble satisfaction de l’Un-primordial, se révèle ici sous
le frémissement de l’ivresse.<
(出典 fr.wikisource.org/wiki/Page:Nietzsche_-_L’Origine_de_la_Tragédie.djvu/36)
0971名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/12(月) 01:09:20.02ID:+PF4GUDa
この場合も、私はニーチェの著作のフランス語訳に接していて、
それを知っていてこのようなテクストに行き当たるわけではない。
単に「さけ(酒)」⇔「さきはひ」⇔「ゑ(酔)ひ」による《beatitude》
という連想が、日本語、フランス語、ドイツ語という言語の境界
を超えるから、"béatitude"&"ivresse"をキーワードに検索して
簡単にこのようなテキストにたどり着くのである。

言い換へるなら、日本語による自由連想がそのまま、言語の
境界を超える「気づき方の織り成し」の類似性を見出すための
手がかりをもたらすのだ。「勘が働く」というのは、
そういうことであり、日常言語による普通の「気づき方」を
離脱した何か神秘的なプロセスではない。
0973書斎というSanctum垢版2023/06/12(月) 09:15:27.53ID:+PF4GUDa
「いは(祝/斎)ひのさけ(酒)」の「いは(祝/斎)ひ」が意味するのは、
「祝福する」/"abençoar"(ポルトガル語)ことであると指摘しても、
何をそんな分かり切ったことを指摘しているのかという反応しか
返ってこないだろう。ところが、さらに一歩進んで、「祝福する」/
"abençoar"とは、「『余裕の広がり』/"room for maneuver"
を『しろしめす』」ことであり、そのようにして「しろしめされる
空間」が「しろ」であり、そこに建てられたものが「や(屋)しろ(代)
/(社)」であると指摘したとすれば、今度は、「何を言っているのか
わからない」、「誰がそんなことを言っているのか、どこにそんな
根拠があるのか分からない」といったような反応が返ってくるのが
普通である。多くの人々は、大抵の場合、自分で考へるための
手がかりとして説明を求めているのではなく、他人に責任を転嫁して、
自分で考へなくても済むようにするために説明を求めているのである。
だから、第三者も受け入れる説明が与へられれば、それが辻褄の
合ふものであろうとなかろうと、それで満足するのである。
0974名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/12(月) 12:04:27.91ID:+PF4GUDa
「祝福されて」ゐ(居)るというのは、「めぐ(恵/廻/巡)まれて」
ゐ(居)るということであって、それに「あた(能/価/値/与)ふ」
ような何かをすることによりそれが得られたということ
ではなく、「祝福」や「恵み」はつねに、その不意の訪れが
悦ばしきこととして歓迎される"windfall"である。

何かがどのようにか役立つことに気づくことも、そのように
歓迎される"windfall"であり、その「気づき方」は、いつでも
「みづから(身づ柄/自ら)のもの」でしかあり得ないものの、
それが役に立つのは、既にそこにあったものとして見出される
「気づき方の織り成し」を活用することができるようになる
ことによってである。さらに、統治する側がいくら
「や(八)すみ(隅)し(知/領)し」と告知することによって
あらゆる「気づき方」の「先取り」を宣言したところで、
「気づき方の織り成し」は、「ま(真)こと(言/事)」には、
「誰のものでもない」。
0975名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/12(月) 12:40:12.11ID:+PF4GUDa
私は、歓迎される"windfall"として私を訪れる「気づき方」を、
それが私みずから(身づ柄/自ら)にどのように役に立つものであると
感じられる限りにおいて、何のを(惜)しみもなく振る舞ふが、
それは、そのような「気づき方」が「誰のものでもない」
「気づき方の織り成し」を活用しているからであり、逆に、
そうでないとすれば、私の「気づき方」は何の役にも立たない
ことになるだろう。

ところが、「や(八)すみ(隅)し(知/領)し」と告知するような立場
からすれば、私のような「を(惜)しみない振舞ひ」は、
「何の役にも立たない無駄な浪費」であることになる。
というのも、その告知が効力を発揮するためには、
「気づき方の織り成し」は、その「先取り」が周知/公知
のものであるとされなければならず、それを活用する
ことは、「恵み」に対する「感謝のしるし」としての
「上納」を伴はずに勝手に行はれてはならないからである。
0976名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/13(火) 07:29:49.83ID:bOFJnPVl
哲学が制度的な学問とは基本的に異なる理由は、哲学することが、
その言葉の最も根源的な意味において「汝/己みづから(身づ柄/自ら)
につかへ(使/仕)る」こと(その「かひ(効験)」が"self-serving"である
こと)にあるのであって、「上納/貢献」/(すなはち、"contribution")
の度合を他者に評価もらうこと、つまりは、人事評価においてその活動
の成果の価値が認められることにあるのではないことによる。
0977名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/13(火) 11:34:37.05ID:bOFJnPVl
「ひと(人/一)」としての「汝/己(な)」に役立たないことが、
「ひと(人/一)」としての「他(た)」に役立つはずのないことは
自明だろう。しかし、「ひと(人/一)」としての「他(た)」に
役立つことが、「汝/己(な)」に役立つかどうかは、まったく
自明ではない。

「汝/己(な)」には役立たなくても、「ひと(人/一)」としての
「他(た)」に役立つことが、一般に、「貢献」/「寄与」/
"contribution"と呼ばれ、その「汝/己(な)」には役立たない
が「他(た)」には役立つ「差分」が、「ひと(人/一)」により
認められる限りにおいて、「むく(報)はれる」に「あた(与/
能/価/値)ひ」する「はず/べき」ものとされる「自己犠牲」
と見做される。

ところが、いくら「汝/己(な)」の振舞ひが「自己犠牲」
であると「ひと(人/一)」としての「他(た)」に認められた
ところで、「汝/己(な)」がその「自己犠牲」に「あた(与/
能/価/値)ひ」するように「むく(報)はれる」という保証は
どこにもないだけでなく、それが「汝/己(な)みづから
(身づ柄/自ら)」のいのち(命)を犠牲にすることであるなら、
「汝/己(な)」が「むく(報)はれる」見込みそのものが消滅する。
つまりは、「ひと(人/一)」としての「他(た)」に役立つことが、
「汝/己(な)」にはまったく役立たないという事態は、稀に
どころか、往々にして生じるのである。

ところで、「汝/己(な)」に役立つことが、すなはち、
「他(た)」にも役立ち、「他(た)」に役立つことが、すなはち、
「汝/己(な)」にも役立つという関係性が成立するなら、
そのことにより、「汝/己(な)」と「他(た)」は、もはや、
「ひと(人/一)」として互いに「他(た)」の関係にはなく、
「ひと(人/一)」としての「他(た)」は消えて、「汝/己(な)」
のキアスム的な反転関係だけがあることになる。すると、
それと同時に、「貢献」/「寄与」/"contribution"と呼ばれ
る行為も成立しなくなるだろう。では、なぜ、「自己犠牲」
を払う「貢献」/「寄与」/"contribution"と呼ばれる行為が、
これほどまでに人々によって賞賛されるのか、それを問ひ
として一人一人の考へてみるように求めたのがニーチェである。
0979名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/13(火) 11:45:59.08ID:bOFJnPVl
>では、なぜ、「自己犠牲」を払う「貢献」/「寄与」/"contribution"
と呼ばれる行為が、これほどまでに人々によって賞賛されるのか <

だが、実は、人々は、そんなことは問ひとして明示されなくても、
よく分かっている。わざわざそんな不都合なことは、口に出すことを
しないだけである。だからこそ、統治は、その沈黙を、
「負債/罪の意識」として徹底的に利用する技法として磨かれて
きたのだ。
0980名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/13(火) 13:14:38.24ID:bOFJnPVl
思想や制度宗教がつねに、「ひと(人/一)」としての「他者」による
統治を支えるイデオロギーの役割を担ってきたとすれば、
哲学の担う役割は、「ひと(人/一)」としての「他者」による統治が
必然的に「汝/己(な)みづから(身づ柄/自ら)」にもたらす
「なやみ/やまひ(病)」に対する治癒法である。
哲学を「アナーキズムの思想」と見誤るのは、思想が統治を支える
イデオロギーの役割を担うことしかできないことに対する自覚の
欠如の裏返しでしかない。
0981名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/13(火) 15:43:42.20ID:bOFJnPVl
理想的な「文明化状態」において、
「『ひと(人/一)』は『ひと(人/一)』に対して『鬼(すなはち、
「逼迫」/「必然性」/"ἀνάγκη"を生じさせる存在の擬人化)』である。」

>Homo homini lupus
>Thomas Hobbes drew upon the proverb in his De Cive,
writing in the dedication "To speak impartially, both sayings
are very true; That Man to Man is a kind of God;
and that Man to Man is an arrant Wolfe.
The first is true, if we compare Citizens amongst
themselves; and the second, if we compare Cities."
[...]
"In the one, there's some analogie of similitude
with the Deity, to wit, Justice and Charity,
the twin-sisters of peace: But in the other,
Good men must defend themselves by taking to them
for a Sanctuary the two daughters of War, Deceit and Violence."<
(出典 en.wikipedia.org/wiki/Homo_homini_lupus)
0982名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/14(水) 14:57:59.49ID:mHy0BdV0
「『もの(物)』の『け(怪)』」の「もの(物)」にも対応
する「鬼(お/ゑに)」は、既に指摘したとおり、
「『逼迫』と感じられる効果を生じる作用の擬人化」
ではり、この作用は、ドイツ語を用ひて説明するなら、
»Verdrängung«に対応するだろう。そのように
イメージすることの妥当性は、例えば、
「やまひ/なやみ」が重篤になることが、「あつしくなりゆき」
と表現されることにも如実に反映されている。

>出典源氏物語 桐壺
「恨みを負ふつもりにやありけむ、いとあつしくなりゆき」
(出典 学研全訳古語辞典)

また、「鬼やらひ」とも呼ばれる「追儺(ついな)」という
行事があるが、この行事は、その名称からもすぐに分かる
とおり、「擬人化」された「逼迫」/»Verdrängung«を
「追い払ふ」/»vertreiben«という意味合ひをもっている。

>追儺(ついな)とは、大晦日(旧暦12月30日)に疫鬼や
疫神を払う儀式、または民間で節分などに行われる鬼を払う行事。
(出典 /ja.wikipedia.org/wiki/追儺)
ja.wikipedia.org/wiki/追儺#/media/ファイル:Tsuina_of_Yoshida_shrine.jpg
0983お断りします垢版2023/06/15(木) 10:27:48.91ID:QpldIHxi
まず「理/ことはり」があって、その「理/ことはり」に
反することが「無理(むり)」なのではない。そうではなく、
「無理(むり)もない」ことが、「理(り)に適(かな)ふ」
ことであり、「理(り)に適(かな)ふ」ようにすることが
「理/ことはり」なのだ。

>「それは無理な願いなのだろうか」/
"Is that too much to ask?"/»Ist das zu viel verlangt?«
0984名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/15(木) 11:11:46.94ID:QpldIHxi
>出典源氏物語 花宴
「切(せち)に責めのたまはするに、のがれがたくて」
(出典 学研全訳古語辞典)

「自ずとこころに責めが生じる」作用が「こころの鬼」
と呼ばれるが、こころに「責め」/「逼迫」/»Verdrängung«
が生じるのは、「求め」/»Verlangen«にこた(応)へなければ
ならないとする「必然性」/"ἀνάγκη"を認めることによって
である。したがって、「の(逃)がる」/"to escape"/»entrinnen«
(この場合、»rinnen«は、英語であれば、"to leak"に対応する
とされる)は、キアスム的な関係において「責め」/「逼迫」/
»Verdrängung«の効果として生じる作用である(また、
「ここで、これに関連して自然に想起されるのが、
「ぬばたまの〜」という表現である)。また、このような
関係性から、現代の日常語としても残っている「がき(餓鬼)」
というのが、どのような表現であるのかも、よりよく理解する
ことができるだろう。
0985名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/15(木) 11:23:04.43ID:QpldIHxi
「の(逃)がる」/"to escape"/»entrinnen«ことができる
ことが望ましいと感じられる「責め」/「逼迫」/
»Verdrängung«の効果を「鬼(おに)」として「擬人化」
して、逆に、「追い払う」/»vertreiben«、ここに
「鬼やらひ」/「追儺(ついな)」という行事のおもしろさ
がある。

しかし、この「気づき方の織り成し」が、その模擬的な
行為によって同時に認めざるを得ないことになっているのは、
「鬼(おに)」は、一時的に「追い払う」こと、つまり、
居場所を変えるように強制的に退去させること("temporary
forced displacement")だけが可能であって、その存在
そのものを消滅させることは不可能であるということだ。
0986名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/15(木) 11:43:38.12ID:QpldIHxi
「汝/己(な)」と「他(た)」は、ともに「ひと(人/一)」である
から、「気づき方」が互いに似ているのではない。
そうではなく、「気づき方」が活用される「気づき方の
織り成し」を介して、「汝/己(な)」と「他(た)」が
互いの「気づき方」を近似することが可能であると
感じられるから、その「汝/己(な)」と「他(た)」が
その「近似のプロセス」を、互いの「ひと(人/一)となり」
として認めるのである。だから、互いの「気づき方」が
逆に乖離していくように感じられるなら、相手は、
身体的にには互いによく似通った姿をしていても、
「ひと(人/一)」ではない、人の姿をした何か別の
ものとして認識されることになる。
0987名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/16(金) 09:43:37.53ID:lK+N5Nrs
>宮の御湯持て寄せ給へるに、かき起こされ給ひて、
ほどなく生まれ給ひぬ。うれしと思すこと限りなきに、
人に駆り移し給へる御物の怪ども、ねたがりまどふけはひ、
いともの騒がしうて、後の事、またいと心もとなし。<
(出典 frkoten.jp/2016/07/25/post-1891/)

出典として利用されてもらったサイトの現代語訳の
注において、この引用箇所に見られる「人に駆り移し給へる」
の「人」とは、
>※よりまし=物の怪などが取りつくためのよりしろになる役のこと。
と適切に解説されている。「よりまし」は、漢字の表記では、
「寄坐/憑座/憑子/尸童」など様々な表現法が見られるが、
「より・まし」という日本語に最も素直に対応し、その
表現上の意味が分かりやすくなる漢字表記は、「依座」、
つまり、「依(よ)り座(ま)し」だろう。また、検索すると、
「よりまし」と類似する表現として、「ものまさ」という
のがあることが分かるが、こちらには、「尸者」という漢字
表記が当てられているようである。しかし、「依(よ)り座(ま)し」
の表現法との比較から、「ものまさ」は、「もの(物)ま(座)さ」
と無理なく解釈できるだろうという推測が成り立つ。さらに、
ここで、万葉仮名を用ひるなら、「尸者/もの(物)ま(座)さ」の
「もの」に「鬼」を当てることが可能であり、「尸」は、
通常は、死者を表すのだから、中国語の漢字の用法から考へても、
この場合の「もの」に「鬼」を当てることは妥当だろう。
したがって、引用した箇所の「人」は、
「物の怪などが取りつくためのよりしろ」として使はれて
いるのだから、「もの(鬼)まさ(座)」の役割をさせられている
と言ふことができる。
0988名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/16(金) 10:00:52.07ID:lK+N5Nrs
私は、既に述べたとおり、制度宗教に関心がないので、
キリスト教神学の教義について詳しいことは何も知らない。
しかし、ニーチェのキリスト教批判は、キリスト教の
神学を専門的に学ぶことを通じてよりもむしろ、この
ような日本語の表現法の考察を介することによって、
より明快に理解できるようになるのではないかと私は
思ふ。ここで、ニーチェが批判を向けているのは、
キリスト教という制度に対してであって、キリスト
その人ではないことに留意する必要がある(ニーチェは、
キリストその人に対しては、むしろ親しみさえ感じて
いるだろう)。さらに、ニーチェのキリスト教批判は、
キリストの教へを尊重しながらも制度の運用の現状
を批判するといったような、宗教制度改革的な志向
のもの(キリスト教内部からの改良のこころみ)ではない
ことにも留意する必要がある。
0989名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/16(金) 10:31:46.75ID:lK+N5Nrs
では、私の見るところでは、ニーチェは、キリスト教の
なにを批判しているのか。それは、ここで検討した
日本語の表現を活用して私が自己流に説明するなら、
キリスト教神学(キリストその人の教へではなく)が、
キリストに、「人類全体」にとっての「憑子/尸童/
依座(よりまし)」/「尸者/鬼座(ものまさ)」を
「代表する役割」を担はせていることであり、
十字架にかけられることにより、「鬼座(ものまさ)」
として「物の怪などが取りつくためのよりしろになる役」を
「人類全体」のために果たす、つまり、「責め」/「逼迫」/
»Verdrängung«を一身に引き受けて、「人類全体」
の「罪(つみ)」を「贖(あがな)ふ」という名目/理路/
理屈により、「汝/己(な)」の一人一人に「人類全体」の
「責め」/「逼迫」/»Verdrängung«を、本来でれば、
「な(汝/己)みづから(身づ柄/自ら)」が負ふべきはずの
ものであるという意識、すなはち、「こころ(心)の鬼」
を生じさせようとすることにある。

ここで最も注意しなければならないのは、「汝/己(な)」は、
そもそも、キリストが「人類全体」を代表する「尸者/
鬼座(ものまさ)」の役割を担ふという媒介の作用をする
のでなければ、「人類全体」のなかの「一人一人」では
なく、そのような「こころ(心)の鬼」に悩まされなければ
ならないような存在者ではないということだ。
0990Ecce Homo: How One Becomes What One Is垢版2023/06/16(金) 10:41:27.06ID:lK+N5Nrs
そのような「こころ(心)の鬼」が生じることが「誰にとって
どのように好都合なのか」をよく考へてみる必要があるだろう。
この「誰にとって」の「誰」は、「人類全体」では「あり得ない」。
なぜなら、「人類全体」は、原理的に存在しないからである。

繰り返そう。

>理想的な「文明化状態」において、
「『ひと(人/一)』は『ひと(人/一)』に対して『鬼(すなはち、
「逼迫」/「必然性」/"ἀνάγκη"を生じさせる存在の擬人化)』
である。」 <

"In the one, there's some analogie of similitude
with the Deity, to wit, Justice and Charity,
the twin-sisters of peace: But in the other,
Good men must defend themselves by taking to them
for a Sanctuary the two daughters of War, Deceit and Violence."<
(出典 en.wikipedia.org/wiki/Homo_homini_lupus)
0991名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/16(金) 10:59:32.28ID:lK+N5Nrs
理想的な「文明化状態」においては、
「汝/己(な)」が「人類全体」の「一人一人」として
「こころ(心)の鬼」の「尸者/鬼座(ものまさ)」の役割を
担ふことになり、その「鬼」が、「人に駆り移し給へる
御物の怪ども」として「ねたがりまどふけはひ、
いともの騒がしう」することになり、誰もが
「いと心もとなし」という常態に留め置かれること
になるだろう。

>jede Person ist ein Gefängnis, auch ein Winkel.
(出典 www.zeno.org/nid/20009255516)
0992水に流す垢版2023/06/16(金) 11:22:45.44ID:lK+N5Nrs
>尸童 よりまし
憑坐,神子とも書く。依代 (よりしろ) となる人間のこと。
子供である場合が多い。神意を伺おうとするときに,
男女の幼童の上に神霊を招いて乗移らせ,神の依ります
ところとして,その託宣を言わせるもの。
現在でも各地の祭礼にみられ,神幸の際に行列の
中心になり,美しく着飾らせる (→稚児舞 ) 。
人形を用い,祈り終ってから川に流すこともある。 <
(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
0994advantageous practice of mutual deception垢版2023/06/17(土) 07:13:09.76ID:DFuJsPId
ひと(人/一)は、実のところ、道徳(宗教的道徳を含む)
を実践することが、「汝/己(な)みづから」の「み(身)
ど(獲/取)りのと(獲/取)り(汲/組)み」に役立つとともに
「同類」とされる「他(た)者」の「み(身)ど(獲/取)り
のと(獲/取)り(汲/組)み」を損なひ、自滅に導くこと
をよく知っており、道徳は、本来的に、それを
実践することが「みな(皆)」、すなはち、「汝/己(な)
みづからを含む『同類』すべて」(その「同類」は、
「生きるものすべて」であってもよい)の「ためになる」
と「他(た)者」に信じ込ませようとする「騙し合ひ」
として成立している。ただし、その「騙し合ひ」は、
「汝/己(な)みづから」が騙されている姿を「模範」
として実践してみせなければ、「他(た)者」を騙す
ことができないという避けて通ることができない
「汝/己(な)みづから」にとっての大きなリスクも
伴っている。
0995名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/17(土) 08:56:31.44ID:DFuJsPId
>>983
「理/ことはり」とは、「理(り)に適(かな)ふ」ように
すること、»vernünftig«であることであり、それは、
とりもなほさず、「無理(むり)」が生じないように
気をつけること、みづから(身づ柄/自ら)の振舞ひ
により、みづから(身づ柄/自ら)に「無理(むり)」が
生じる惧れがあるなら、そのような振舞ひを回避し
ようとすることである。

したがって、「理(り)に適(かな)ふ」ようにしようと
するなら、みづから(身づ柄/自ら)に止むを得ず
「無理(むり)」が生じる惧れがある場合、
「無理(むり)」が生じることによって「汝/己(な)」に
もたらされる危険性/リスクを「他(た)者」に転嫁
することが重要である。例えば、ネズミを駆除する
場合に毒入りの餌を撒いた場合でも、それを食べた
個体は死ぬが、その様子を見た同類の他のネズミ
は、その餌をもはや食べようとはしない。人も、
餓えて他に食べ物がない場合、さもなければ、
食べようとはしない毒の作用があることが知ら
れているものまで食べようとするが、どれだけ
食べても「無理(むり)」が生じないか、どのよう
に処理すれば、毒の作用が生じることを避けること
ができるか、他の人々のこころみを観察し、その
結果に応じてどのように振る舞ふことがより
「よ(良)い」のかを知ろうとするだろう。
0996名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/17(土) 09:22:41.00ID:DFuJsPId
>「み(身)ど(獲/取)り」に「あた(能/価/値)ひ」しないとして
「放出されたモノ」/《ce qui est déchargé》を「み(身)」に
「引き受ける」/《se charger de 〜》ことが、「けがらはし」、
「きたなし」とされる<

>生きつづけようとすることがカタルシスの作用を要請する
のであり、放出される必要がある「けがれ」をもたらして
いるのは、他でもない、みづから(身づ柄/自ら)の
「み(身)ど(獲/取)り」の働きそのものである。<

「生きる」ことについてのこのような捉へ方は、それが
そのように明示的にメタ言語的に記述されていないとしても、
そのモデル化された表現が、古代から現代に至るまで、
「俗信」とされる慣習に広く一般的に反映されて見られる
ものだろう。そのモデル化された表現による模倣が
実効性のある結果をもたらすことが恐れられる/期待
される限りにおいて、そのような慣習は「迷信」と
されるが、「けが(穢)れを祓うこと/浄めること」と
「み(身)ど(獲/取)りのと(獲/取)り(汲/組)み」の
キアスム的な関係性は、生物学的に見ても、
「ナンセンス/無意味なこと」などではまったくない
だろうと私は思ふ。
0997名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/17(土) 09:52:30.28ID:DFuJsPId
とは言へ、私は生物学についても詳しいことは知らない。
生物学関連の授業を必修の科目として受けたことはあるが、
そこで学習することを要求される生物学的な「自然選択説」
による「進化論」に基づく物事の考へ方は、私には、
「科学」を口実にした「洗脳」以外のなにものでもない
としか感じられなかった。したがって、私がここで述べ
ようとすることも、「生物学」的な知見などではなく、
「生物(いきもの)」として「生きる」ことがどのように
私にイメージされるかである。

例えば、「自然選択」/"natural selection"という表現で
私が想起するのは、「ダーウィンの進化論」ではなく、
まず何よりも、生物としての身体を形成する「み(身)
ど(獲/取)り」が、「けが(穢)れ」を祓う/排泄する
「選択的なと(獲/取)り(汲/組)み」、すなはち、
「浄められたもの」として「みづから(身づ柄/自ら)」
の「い(生/息)のち(力)/命」が保たれる「浄化」/
"filtering in/out"として働いているということだ。
「生き物」が「生き物」を「みづから(身づ柄/自ら)」
の「み(身)ど(獲/取)り」のための栄養分として
「選択的」に「と(獲/取)り(汲/組)む」多細胞生物
として「進化」してきたプロセスも、私には、
そのようなものとしてイメージされる。
0998名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/17(土) 10:13:26.46ID:DFuJsPId
「生き物」が「生き物」を「みづから(身づ柄/自ら)」
の「み(身)ど(獲/取)り」のための栄養分として
「選択的」に「と(獲/取)り(汲/組)む」多細胞生物
として「進化」してきたのは、生きることの仮説的
な前提として、現に「生き物」として形成されて
いる「身」が、相対的に「けが(穢)れ」が祓われた
「浄められたもの」として「い(生/息)のち(力)/命」
を保っているからではないのか。

それは、分かりやすく簡単に言い換へるなら、
生物は、他の生物の身体の「浄化」/"filtering in/out"
の働きを「みづから(身づ柄/自ら)」の身体の形成の
ために効率的に活用しているということだが、
それは別に、生物の個体が他の生物の個体を餌食
にするということではなくても、多細胞生物の
身体のレベルで見るなら、生物の個体の身体
そのものが、細胞レベルでそのような仕組みとして
働いて、もはや「み(身)ど(獲/取)り」の
「選択的なと(獲/取)り(汲/組)み」に役立たなく
なった死んだ細胞を「けが(穢)れ」として日々
祓う/排泄することによって「みづから(身づ柄/自ら)」
の身体を浄化されたものとして、その「い(生/息)の
ち(力)/命」を保っていることとして記述すること
ものできるだろう。
0999名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/17(土) 15:27:24.38ID:DFuJsPId
誤:記述することものできるだろう。
正:記述することもできるだろう。

>>996-998
あの世において「浄められた魂」が救済されて、「永遠の命」
を得るという死後の世界のイメージも、「現世に生きる」
ことがこのような関係性において捉へられていることを、
裏返して利用しているに過ぎない。そのことは、死後に
おいても魂が浄められることがなく、呪はれることが、
肉体的な責め苦(つまり、み(身)ど(獲/取)りが損なはれ
ること)が限りなくつづく状態としてしかイメージされ
ないことからも分かるだろう。魂が浄められていようと
いまいと、死によって肉体は既に失われているのだから、
死後の世界があると想定しても、そこで肉体的な苦痛が
生じ得るとするのは矛盾である。少なくとも
『クラテュロス』においては、ソークラテスは、
死後の魂の在り方について、そのような矛盾した想定
はしていない。
1000名無しさん@お腹いっぱい。垢版2023/06/17(土) 17:32:32.23ID:DFuJsPId
スレの最後を訂正に使ふのは気が進まないが、
放置しておくのもよくないので、訂正しておく。

誤:ソークラテス
正:ソークラテース
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