【ワッチョイあり】常磐線・利府線を語るスレ【水戸〜利府】
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常磐・利府線の水戸〜利府を語るスレです
ワッチョイが嫌な人は既存の常磐線スレをご利用ください。
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:: EXT was configured >>147
https://youtu.be/W2EQFqvbQJI
令和2年6月の利府町議会一般質問
公園のSL補修・返還・解体計画の質問
54分ごろに車両基地内の機関車についても議員からわずかだけ言及あり
鈴木議員「ほんでまあ、機関車ってのはいまそこにいるだけども、前利府の駅構内にも6両ほど置いて、新幹線基地に持っていって、新幹線基地も6両いたのが3両解体して、あと3両も囲してやっていますあれもいずれ解体するという方向にすすんでいるようですけれどもね」 (6 lゝ、●.ノ ヽ、●_ノ |!/
| ,.' i、 |}
', ,`ー'゙、_ l
\ 、'、v三ツ /
|\ ´ ` , イト、
/ハ ` `二 二´ ´ / |:::ヽ
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http://twitter.com/ibuki_air
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>183
その鴻巣温泉(元湯)のことを小学校の夏休みの宿題で模造紙(ピンクか黄色)に
効能や浴室の配置など書いたら、
まさかの廊下壁面に張り出されて書いた本人もびっくりしたわ
昭和の東京オリンピック前後(?)の話しでした。 この前、矢印信号が2車線同時に点灯する横断歩道付の交差点があったんだが
その2車線同時点灯の交差点(1方は直進指示・1方は右折指示)なんだが
右折指示の先までは直進指示車線側は進路変更はできないらしい(トラ運転士に怒れた)
なんか書いた本人はぼんやり理解できるが、読んでる人はチンプンカンプンだと思うわ。
速攻理解すれば、直進レーンの車は信号の先でも車線変更禁止らしいんだな。
場所は国道45号線多賀城市のイオンビックとヤマト運輸多賀城(営)がある横断歩道の
信号機なんです。 それと、もう1ヶ所変な交差点を紹介するよ。
多賀城市の市道で末の松山バス停近くの十字路交差点なんです。
違反して反則切符(青色)を切られました。
ここは、深夜から朝6時まで4方向すべてが赤点滅信号です。
その信号を一時停止しないで交差点に進入してしまい後方から
ミニパトに追跡されてしまいました。
警察官から聞いた話しですが、このような点滅をする交差点は宮城県内に
数か所あるらしいです。
みなさん、交通法規遵守とミニパトの餌食にならないように気をつけてください。(笑) その1ヶ所は大河原町にあるらしい。
あとはどこか知りません。 地下鉄できる前の東北大川内キャンパス前も夜間全方向赤点滅あったな
常時全方向赤点滅ならいっぱいある ちょっと話がずれるが、
宗谷本線音威子府駅の国道沿いにある商店は、
まだ営業しているんだろうか?
10年くらい前に、午後から音威子府駅にバカ停する列車を利用したが
あまりの暇を持て余して歩いて国道まで食料調達にいった記憶があるが
で、買ってきたのはなんと板チョコ1枚でした。
貧乏旅行の祟りだな(笑)!!。
Aコープは閉店との書き込みを頂きましたが、その商店についての消息は不明です。 体調不良で蕨駅西口の階段が登れなくて
そのまま独身寮に戻った経験は人生初の
苦い思い出。 昭和のサラリーマンは
二日酔いでも出勤するんです。
まぁ、午前中は辛いので事務仕事
午後から外回りなんです。
地方の営業マンは車があるから
どうにでもなるが
都市部の営業マンは自分の足と公共交通機関が頼みの綱なんです(笑)。 常磐線スレを追い出された建築主に対抗するネタがきれました。
利府・塩釜・多賀城・仙台東部・七ヶ浜・大郷ネタで頑張ります(笑)!!。
まぁ、松島ネタがあんまりないんだよな。
そう言えば、松島湾の観光船スレってないですよね不思議です。 東京のバス(東急バスだけか?)
千円札を両替すると運賃(均一料金区間)が引かれて
両替金が戻ってくる。
初めて乗ったときΣ(゚Д゚)こいたわ
都バスはこんなんでないよな? 東京都内(特に23区内)の都バス単独路線は
昭和の時代と比べれば大幅に減便してるし
運転区間もかなりリストラされている
例えば、45年前に品川車庫から田町駅・浜松町駅前・外苑東通り・六本木経由四谷片町行きが
15分に1便くらい走っていたが(そのうち1便は東京タワー止まり)
平成になってからは1〜2便くらいになっている。
現在は全便が東京タワー止まり
四谷片町は現在の都営地下鉄新宿線の曙橋駅付近(防衛省の近く)
この路線は当時としては青梅方面を除くと
23区内では上位ランククラスの長距離路線でした。 1970年後半の通信速度の話しをすると
その頃は東京地区はテレックスの終わりの時期
これに代わって、企業のオンラインは1200bpsの専用線の時代
その頃の東京地区のテレックス交換局は東西線竹橋駅(パレスサイドビル)の裏側に
あった東京電信施設所だったんですね。
市外に延びる通信回線はその当時はマイクロ回線
テレビ・ラジオなどの放送回線は新宿統制無線中継所で
データ通信回線は西日本に延びる回線は唐ヶ崎・東日本・北日本に延びる回線は蔵前
公共機関の回線は大手町の統制無線中継所に収容されていたんだ。
で、鉄道の通信回線についてはおれはまったく知りません。
1978年10月には、全日本空輸の東京〜沖縄の当時としては高速回線9600bps(D-1規格)の
公衆網(電話回線による専用回線)が開通した時期なんです。 ルーターの機能
電話回線1回線に複数のパソコンが接続されている場合は、
特に下りのデータをどのパソコンに振り分けたらいいかを
判別する装置
ここで笑いばなし
あなたがエロ動画を見たいなとクリックしたら
別な家族のパソコンにその動画が配信(受信)されたら
家族からエロ爺呼ばわれされるんで、それをうまく調整(あなたのパソコンに映しだす役目)
するのがルーターの機能(笑)。 夏枯れでネタがないので、
塩釜市役所のHPによると
利府町と塩釜市境の利府第三小学校付近に
熊さんが出没したらしいです。
8月20日のことですが
付近にはこの2〜3日前にも熊の目撃情報があります。
【熊さんへの伝言】
もう1kmも歩けば、西方向には新幹線利府基地があります。
そして南東方向には東北本線が走っています。
付近を走る金太郎は高速走行で凶暴ですから、絶対線路には入らないでください。
金太郎に轢かれてひき肉になってもあんたの肉は不味くて人間は食べませんから。 で、おれは浜育ちなんだが
兜町一丁目の山一證券旧本店システム部のオペレータの姉ちゃんたちに
おぼっちゃまと呼ばれていた。
昭和51〜52年頃のふる〜い実話ね。 多賀城駅がコンスタントに毎年利用客が増加(微増)してる理由は、
まずもって1次交通の全面降伏みたいな宮城交通(ミヤコーバス)・仙台市営バスの
ボロ負けが原因です。そこに利便性を高めて利用客をゴッソリ搔っ攫ったJR東日本に
軍配が上がっている状態なんですね。仙台から多賀城経由で塩釜方面に走っていた
宮城交通・仙台市営バス(時間7便運行)がまったく休止(廃止)に追い込まれた。
これは時間勝負の通勤・通学に鉄道(電車)が如何に有効かを立証した実例です。
この他に、仙台線の路線バスは七ヶ浜循環・多賀城・福田町経由が日中1時間に1便及び
陸前山王駅経由泉前沖・仙台方面行きがありました。
昭和30年代には国鉄バスが松島・利府経由仙台行きが走っていましたが、いつ頃廃止になったか
調べることができません。因みに利府民は国鉄バスを青バス・宮城バス(宮城交通)を赤バスと言ってました。 昭和の宮城バス塩釜から(七ヶ浜循環)仙台駅行きのバスは、
鉄砲町の狭い道路の両サイドの建物の庇を避けながら(交わしながら)
走ってましたね。(運転士さんのドライブテクニックには脱帽でした。
鉄砲町経由は下り。上りは二十人町経由な。
っうか、塩釜から国道45号線(下馬・多賀城・福田町)経由の仙台駅行きの
宮城バス・仙台市営バスも鉄砲町経由でしたね。
なすて、小田原の仙塩街道(現在の国道45号線)を経由すながったんだべな? 世の中がドコモ口座でざわついているので昭和のこのころは公衆網(ネット回線)はありませんでした。
新宿統制無線中継所
大手町統制無線中継所
蔵前統制無線中継所
唐ヶ崎統制無線中継所
東京電信施設所 たまには鉄道のことを書きます。
E721系で顔枠がステンレスカラーと
ステンレスにグレーを塗装した2系統が
あるって知ってましたか
おれのまなぐが悪ぃだけですか(笑)!!。 ドコモ口座も究極のセキュリティがありました。
ATMで現金化できません。
きょうになって、初めて知ったわ。
報道機関はそんなこと知っていて、
今回の報道をしてたんですかね。
まぁ、究極の間違いは公衆網(ネット)から
金融機関のオンラインに侵入できるシステム自体が問題ですな。 昭和の時代にはなかったインターネット
昭和にはあった専用線(符号・音声の帯域線は1975年頃から存在していた)
これは公衆網を専用線(D-1規格)に開放した電電公社のサービス品目(モデムは自営品)
で、昭和の時代にはなかったVNP回線(仮想のプライベート・ネットワーク)
D-1規格は金融機関など回線に侵入されては問題がある業種のネットワークには使われなかった。
VNP回線は公衆網(インターネット回線)はやい話しが電話回線。 >>221
ビットコインにして送金できると聞いたが 電電公社のデータ通信回線D-1規格の国内最長回線が、昭和53年10月に東京〜沖縄間に開通した。
全日本空輸(株)の東京羽田〜沖縄那覇空港の回線だったんです。
通信速度はその当時としては最速の9600bps(たぶん)でした。
現場調査もせずに開通試験に臨んだんで、最悪の事態が発生しました(笑)!!。
なんと、モデムケーブルが短くて端末まで接続ができません。
困りはてていたら、なんとそこは航空輸送のチャンピオン全日空が機長携行荷物として
羽田から直近の便で運んでくれました。これにはビックリでしたが機長が直々に空港事務所に持って
きてくれました。
感謝の念に堪えないほどの嬉しさでした。
この回線はモデムが自営のために重いアタッシュケース(数億円は入るような)に
当時としてはかなり高額なモデムテスターが入っていました。
そうです、私は東京から鞄持ちで沖縄まで同行させていただきましたっうか会社命令でしたが(笑)!!。 むかし、帝都高速度交通営団東西線竹橋駅の
パレスサイドビル(毎日新聞)の後方(住友商事ビルの隣り)に
あった電電公社の東京電信施設所
リレー交換機のお化け屋敷(巨大と言う意味で)
電信データを中継交換するっう意味では、
広義に理解するとデータセンターだっちゃ。
まぁ、そのころは富士銀行中目黒センターとか
三菱銀行池尻センター(どちらも竣工後数年の新施設)
昭和50年頃の話し(この頃の俺の脳内年齢は10歳代) むかし(昭和40年〜50年代)の、本塩釜駅(単線時代の)は本町側が利府方面のバスで
あの時代は栄町経由清水沢(ゴルフ場)と・利府方面が走っていた。
それと、国道45号線側は宮城バス・仙台市営バスの仙台方面・七ヶ浜循環(下馬・北遠山経由)の
路線バスが走ってましたね。たしか仙台方面(七ヶ浜循環仙台線は仙台ホテル前経由大学病院or北仙台行き(どちらか記憶にない)が
走っていました。
で、おらが幼少の頃は塩釜から七ヶ浜方面は巡航船(塩釜市営)で,代ヶ崎浜・花渕浜行きでした。
昭和35年チョット前から東北電力仙台火力発電所の建設が始まり、塩釜から七ヶ浜へは貞山橋(貞山堀)が
できて陸路で繋がるようになりました。それまでは七ヶ浜は貞山堀で塩釜・多賀城とは陸続きでは
ありませんでした。(たぶん) で、七ヶ浜から浦戸諸島方面へ橋を作る計画があって(たぶん)
吉田浜から少し離れた海上に橋脚みたいなものが1本(脚)が建設された。 仙台駅前のバス路線が痛い現状
隣り街へ行く路線バスがない(激痛)
昭和の時代にはあった国道45号線経由多賀城・塩釜方面の路線バスが全滅(ボロ負け)
国鉄(JR)仙石線の利便化が進み、仙台市営バス・宮城交通が走っていたが(時間2社合計7便)が
国鉄仙石線の通勤・通学時の定時運転(仙台〜本塩釜約30分)で一方で路線バスは1時間の運行で
路線バスのボロ負け全廃(悲しい)。
で、JR優位性で路線バスがなくなった地域
名取・岩沼方面(JR東北線の利便性)
泉・長町方面(JR東北線の利便性)
山形方面(高速路線バスの優位性)JRが負けているが大量輸送の利点では勝っている状態
そんでもって、高速バスが台頭している方面別としては秋田市・新潟市・東京方面
で、JRバスが健闘してる高速バスは古川線(大崎市)
で、JR新幹線に敗れてしまった高速バス路線福島・郡山・盛岡
で、健闘している高速路線バス(JRよりは)南相馬方面
あぁ、ミヤコーバスの石巻・古川方面も健闘してるな
そんでJR東北線がボロ勝ち状態の白石方面は路線バス・高速バスもない田舎。
まぁ、ありそうでない路線バスが仙台駅から利府駅方面
これもJRの利便性が勝っているから、路線バスでは途中のJR岩切駅でコミュバスへの
乗り継ぎになるし、七ヶ浜町(日本三大外人避暑地で有名な)方面もJR仙石線
多賀城駅・下馬駅・本塩釜駅でコミュバス”ぐるりんこ”へ乗り換えか汐見台地区はJR多賀城駅から
路線バス乗り換えになる。 日本三大外国人避暑地
@軽井沢(山の軽井沢)
A野尻湖(湖の野尻湖)
B高山(海の高山)七ヶ浜町花渕浜高山地区(表浜海水浴場) 昭和の帝都高速度交通営団の駅には
痰壺っうのがありましたな
さすがにこの世の中(今は)ないだろうな。
昭和50年前半期までの話しですけども、
なくなったのはいつ頃かわかりませんが・・・ まぁ、新聞用紙は圧倒的に北海道からの輸送だけども、
さっき仙台湾を望む絶景ポイントに行ってきたが、
丁度、栗林商船のRoRo船が仙台港に入港していったよ
釧路とか苫小牧から王子製紙の新聞印刷紙をロールで大量輸送して
首都圏に運んでるから頻繁に入港するけど、仙台で新聞印刷用紙を荷揚げをしてるか
どうかわからんが入港から出航までは、概ね3時間程度の荷役作業で忙しく出入りしてる感じです。
その、絶景ポイントっうのが宮城県立君ヶ岡公園なんです。
ここは太平洋を一望できる(地球が球体だっうことを確認できるところ)
西側には蔵王山系・泉ヶ岳・船形山系および東側(公園東側)には牡鹿半島・
北側には松島湾が望める絶景ポイントですから、それと海外も望むことができます(嘘)
実際は、日本三大外国人避暑地でもある高山国際村の別荘群が望めます。
日本三大外国人避暑地っうのは 山の軽井沢・湖の野尻湖・海の高山なんです。
それから西南方向は仙台湾から望む福島相双方面が望めます。
みなさん、GOtoトラベルで是非御出でになってください。
最寄り駅はJR仙石線多賀城駅(路線バスが近くまで来てますがそこから徒歩約1時間弱)と
下馬駅・本塩釜駅ですが、こちらは七ヶ浜町のコミュニティバスぐるりんこが利用でき
この君ヶ岡公園が終点のバスもあります。 SONYは宮城県にとっては
大切な県民の就業先
創業より地方の工場としては宮城県多賀城工場が
最古参の事業所
現在も工場自体は仙塩工業地帯ではダントツの規模(一部は他社にとらばーゆ)
で、30歳代に妻が残業で持ち帰った(子会社勤務)小型トランスの巻き線作業を手伝わされた(笑)。
いまから、30年位前の話しですが・・・・その割にはラジオ・ラジカセとかしか買わなかったが・・・
あぁ、それからノートパソコン(VAIO)も買ったな。 1960年代までは存在していたと思われる塩釜〜七ヶ浜航路(塩釜市営汽船)
代ヶ崎浜沖(馬放島海峡)と東北電力仙台火力発電所沖あたりまでは
うねりが高く船酔い気みになった・・・55年から60年前の話し
その頃に就航していた船は木造船(よくわからないが50tから100t未満かな) 1978年の宮城県沖地震では東京都内でも揺れを感じた。
芝浦のボーリング場の屋上に設置してあったボーリングのピンが
左右に揺れた。
すぐに実家に電話したが繋がらなかった。
翌日、高崎か前橋(忘れた)へ日帰り出張した時にようやく
公衆電話で無事な母親の声を聴いて安心した。
さっき、Wikipediaで調べたら東京都内も震度4を観測したそうです。
それで、宮城県は震度5強を観測してそうです。
当時は、まだ内線黒電話(もちろんダイヤル式)だったが会社の自営交換機は正常だったが
電電公社の公衆網の回線(交換機)の調子がイマイチだったみたいですが
数時間後には復旧したような記述がWikipediaにはありました。
42年前の話しなので、よく思いだせませんが部門にあった直通電話はプッシュホンだった記憶が
蘇りました。この頃に、民生用のFAXが発売されましたが当時の機種は送受信が別々の筐体でした。 あの頃は地震計も県に1ー2個しかないし震度6-7は人間が後から判断だったから
実際は場所によって今の6強くらい揺れたんじゃないかなと思ってる 当時の電話交換機はクロスバー交換機でした。
” 0 ”発信してから相手先の電話番号を回していましたね。
懐かしい話しですが、このクロスバー交換機の親分みたいのが
電電公社の局内には設置してあって、見学するチャンスがあって
見せてもらいましたが、そこはリレーが小刻みに動いてる
まさに別世界な感じでした。
因みに、その施設は東京一ツ橋にあった電電公社の東京電信施設所で
電信データ(テレックス)の交換局でした。 おまいら、気を付けろ
5ちゃんねるの改行規制は20回(桁)までだぞ。
さっき、メッセージが出て初めてしりました(笑)!!。 東北本線は蒸気機関車の時代に松島丘陵を登るのに
時間がかかったので、現在の海線ルートの塩釜駅が存在する。
この海線ルートがなければ、明治・大正・昭和の時代には
塩釜駅(築港駅)が現在の仙石線本塩釜駅付近に存在していた。
それに、東北本線が山線ルートのまま現在まで継続運転されていれば
東北新幹線の仙台総合車両センターが現在地に存在したかは怪しくなる。
まぁ、俺らがガキの時代には利府丘陵を蒸気機関車が貨物列車を牽引して走って
いた時代ではない(昭和30年代)のでわからんが、寧ろこの時代は山線はディーゼル
列車(国鉄色)が1日に数本通過するだけの線区になってしまっていて、松島から利府春日・東町を
経由して仙台方面へ国鉄バスが利府街道を走っていた時代なんです。
よって、その時代には春日からは仙台行きの国鉄バス(青バス)と塩釜行きの宮城バス(赤バス)が
走っていて、昭和30年なのに超交通便利な地域だったんです。
時代は遥か昔を辿るが、
塩釜築港線には長町駅始発の旅客列車(蒸気機関車牽引)が
走っていた。
夜間はこの時代でも蒸気機関車が走っていたような曖昧な記憶が蘇る
そんで、駅でもないのに春日地区では低速で利府丘陵を登るので
利用している人々たちは降車を試みていたようだった。 東京都内(特に23区内)の都バス単独路線は
昭和の時代と比べれば大幅に減便してるし
運転区間もかなりリストラされている
例えば、45年前に品川車庫から田町駅東口・浜松町駅前・外苑東通り・六本木経由四谷片町行きが
15分に1便くらい走っていたが(そのうち1便は東京タワー止まり)
平成になってからは1〜2便くらいになっている。
現在は全便が東京タワー止まり
四谷片町は現在の都営地下鉄新宿線の曙橋駅付近(防衛省の近く)
この路線は当時としては青梅方面を除くと
23区内では上位ランククラスの長距離路線でした。
で、おれはこのバス路線を使って六本木1丁目の電電公社東京電気通信局(第25森ビル)に
頻繁に仕事に行っていた。麻布郵便局前でバスを降りて歩き出すと機動隊と右翼のバトルが
恒常的に激突(恐)していた。
この頃は金融機関の第二次オンラインが始まって、それに関係するデータ通信回線の
諸届け出が忙しかった時期で、現在は箱崎に移転した日本IBM本社が首都高溜池JCT
近くに所在していた。電電公社東京電気通信局とは電電公社本社次位の営業部門で、
有線通信の諸届出受付窓口でしたが、ここだけなぜかしら25森ビルにテナントとして
入居してましたが、そのことはWikipediaの記述にはありません。 で、この頃の都市銀行の2次オンラインの事務センター側のマシンは
IBMのシステム360やスペリーランド社(ユニバック)の1108or1110シリーズ
この頃は事務センターのコンピュータはメインフレームと言う表現をしていたかは
記憶上では希薄である。
センターマシンと言っていたと45年前の記憶を辿っております。
そんで、この時代はATMは世の中にはなくCD(キャッシュディスペンサー)がメカトロ
システムの代表機種でありました。
あぁ、日本で初めてCDを開発販売したのは立石電機(オムロン)でありました。
富士銀行に昭和45年(1970年)に納入されたのは沖電気工業製でありました。 よっぽど、暇な香具師がカキコしてるのは判ったが、スレ違いで内海? まぁ、みんなが七爺のカキコだと解かっているので諦めている
っうか、常磐線スレを乱立させた奴のカキコを防止するための
全然関係ない話題(昭和のデータ通信・鉄道ネタ)を書いています(笑)!!。 で、センター側の容量負荷軽減策として、
CD単独の回線には$10,000サブコン(ミニコン)がぶら下がっていた。 幽霊(心霊)スポットは・・・
昭和の話しでなくて恐縮ですが
平成の話しですが
幽霊は仙台新港の至るところに幽霊はでます。
たぶん、東日本大震災の津波で亡くなった方の亡霊が
さ迷っているんだと思います。
以上、超常現象の報告でした。
成仏されるように、どっかに供養碑を建立しないといけませんね。 JR仙石線の下馬駅に変電所があるので、
エアセクションがあるのな・・・
で、そのエアセクションの標識があるのを
きょう、初めて気が付きました(笑)!!。
下馬駅下り線のホームのチョット手前の電柱にあるんだよね。
っうことは、目視確認はしてないが下馬駅北側に
あって、そこはRがキツイあの付近だと思うわ
車輪が軋むあの付近だよたぶん。 富士銀行・太陽神戸銀行・農林中央金庫・城南信用金庫・埼玉県信連・足利銀行
千葉銀行・千葉興業銀行・ときわ相互銀行・東京相互銀行・山梨中央銀行
安田信託銀行・第一相互銀行・山梨県信連・東武信用金庫・安田火災海上保険 その盛岡行き石油輸送貨物レですが、昨夜は東北線下りに数分の遅延があり
仙石東北ラインの石巻行き快速通過後の、本来は東北線下りではありえない
旅客列車通過約5〜6分後に貨物レが通過して行きました。
松島駅手前の仙石東北ライン転線ポイントで仙石東北ラインの列車が仙石線へ
転線するので、通常はある程度の運転間隔があるはずなのにダイヤ遅延も手伝って
ありえない運転間隔を体験しました。
東北線の6分間隔運転は貨物レが多く通過する時間帯にはある現象ですが・・・
それと、東北線岩沼〜仙台方面も朝の通勤通学時間帯もこの間隔(4分〜6分)で運転しています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています