当時の軍人気質は猪突猛進タイプが理想的軍人像だった
敵状についての沈着冷静な判断や緻密な計画、慎重な意見を述べようものなら、たちまち
臆病者呼ばわりされた。
太平洋戦争の開戦に断固反対していた山本五十六でさえ、米英と戦争したら日本は負ける
とは言えなかった。
「半年や1年はおおいに暴れて見せるがあとは分からない・・・」と語っている。
冷静な戦略、戦術分析をする者は、臆病、弱腰と罵られる。
これが嫌で、正直な意見を述べる幕僚もいなかったことが、ガダル敗北の一因ではないのか
と思う。
またガダルカナルに奪還に向かった一木清直大佐は、「・・・ツラギもうちの部隊で゛奪ってよいか」
と第17軍に訊いている。
ガ島とツラギに上陸した米軍は海兵師団1万9千名であるが、何故か二千名程度の偵察部隊
であろうと判断し、これが一木支隊にも伝わっていた。
かつて、盧溝橋事変当時牟田口連隊の大隊長だった一木大佐は、対手たる米軍は支那兵以下
の弱兵と見做し、夜襲による白兵突撃で飛行場を一気に奪還できると本気で信じていたのである。