日本語(ry 数の暴力

要するに、「何処の視点から富士山を眺めるか」の問題であると同時に、
軍事的勝利(戦術的戦果を幾ら挙げても戦争は敗北確定済み)が皆無と成っても、
戦争継続を選択した大本営が命じた作戦はどれもこれも「凄まじい僥倖か神風が吹くことを前提に、全滅を持って米軍に人的被害を多数与え持って、
米国民に「人的損害の多さ」に依って厭戦気分を惹起し、
政略的(笑)勝利する為に自軍の人的損害は許容しうる。
というテロルかゲリラ紛いの戦闘を国民と前線将兵に強要し始めた訳で。
(大東亜共栄圏建設という戦争目的は破棄、
ひたすら国体護持の条件を満たし、出来れば、有利な条件付き和平(降伏じゃないよ)
しかし、真面目に頑張った将兵の殉国の至誠は米軍に「こいつらクレイジーだ!やはり黄色猿は猿だった!原爆実験のモルモットでいいじゃん」とかいう
理由と動機にすり替えられ海軍は壊滅、本土主要都市は灰燼に帰し、
二発の爆弾で復讐完了(猿は熱滅却処理という人種差別)
しかし長崎にキノコ雲が上がっても戦争継続の意思は変わらず
アテにしてたソ聯の参戦でようやく目が覚めてポツダム受諾という感じになったのは、
ただただ遺憾であるとしか言いようがありません。
最近とみに多い、ネトウヨのアホ論とか読んでると、
どこまで日本陸海軍の将兵はピエロを演じさせられるのかと思うと
深い脱力感を感じ得ません、靖国の御霊も呆れるでしょうなあ。
こういう連中を出さない為には「本土決戦」で「本当の戦争が何をもたらすか」を、
日本人に経験させる決断の方が、長期的に見て良かったかも知れません。
無論、その場合私もあなたも威勢のいいネトウヨの全部も、この世に存在してない確率が非常に高いですが。
さて、どちらが良いのかは永遠のifsでしょうなあ。

なんの話でしたっけ、老いるとつい愚痴が。