>>277
>「41年12月半ば以降、レンドリースの装甲兵器は大量に使用されるようになる」
>(コロミーエツ:モスクワ防衛戦)

ソ連軍のモスクワ反撃は1941年12月上旬からで、あの頑迷なソ連敗北論者
だったチャーチルが、「敵の味方」フィンランドに宣戦布告したのもこの時期。

チャーチルが自らの発言の後世への記録を求めた第二二二回閣議の議事録を目にした歴史家の一人として、数ヶ月に
わたって宣戦を引き延ばしたチャーチルの行動の評価をここで控えるならば、それは礼を失することになろう。後の歴
史の示すように、 ソ連は勝利国として第二次大戦の終結を迎えたのであり、ソ連の敗北という誤った予測に基づいて
「ヒトラーと歩む者ならびに国家は我々の敵と見なされよう」との「敵の味方は敵」方針の実行を引き延ばしたチャー
チルの行動は、「ナチス世界と戦う者ならびに国家は我々の援助を受けよう」との「敵の敵は味方」方針、
すなわちイギリスの対ソ同盟精神、に対するソ連側の不信を高め、ひいては以後の英ソ交渉におけるイギリス側の立場を
弱める結果をもたらしたのである。チャーチルの行動は「決してイギリスの利益にそったものでは」なかったと言えよう。
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