>>722
>ソ連が自国だけで消耗戦を戦い抜いたとする方が生産工学史上、よほど神話めいてる。

米国もまたソ連の対日参戦を不可欠としていたのだから、米ソの取引関係は『対等』なんだが?

 また、1941年12月7日の日米開戦以降、米国はソ連に対して対日参戦をさせようと圧
力を強めていったが、ソ連はこれに対してあらゆる口実を設けて応じようとしなかった。
12月16日、ルーズベルト大統領はソ連最高指導者のヨシフ・スターリンに、ソ連、中国、
英国、オランダ、米国の各国代表による会議を速やかに重慶で開催したいと提案し、さ
らにモスクワで米英中の大使とソ連首脳との会談を行うことを提案したが、ソ連はこれ
にも応じなかった。
 その後も米国は再三にわたってソ連の対日参戦を促しているが、ソ連の態度は変わら
ず、このことが米国側にいっそう大きな不満と不信を招いたことは当然である。
 そうしたソ連の態度に変化が見られ始めたのは、1943年8月24日のことであった。そ
の日はケベックで開催されていた米英軍事会議(暗号名:クォドラント)の最終日だった。
 ケベック米英軍事会議は、「1944年西欧進攻作戦(暗号名:オーバーロード)」の実施
を第一の目標とし、「ロシアがベルリンに入ろうとすれば、連合国も直ちにベルリンに
入る用意を」とのルーズベルト大統領の発言を受け、可能・必要ならばそれ以前にでも
実施するという緊急作戦計画(暗号名:ランキン)の準備開始を決定していた6。
 そこにソ連が「3国外相会議をモスクワで10月18日より開催することに同意する」と
伝えてきたのである。
http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1506/1/joshidaigaku_13_147_177.pdf