クルトタンクは優れた操縦士であった

Ta152試作機をあやつり、フルブーストでP51Dをぶっ千切る活躍を見せる
だからこそ優れたロールレートの戦闘機ができた
一次大戦のドイツを代表するフォッカー戦闘機も、アントニー・フォッカー
は威勢の良いパイロットであつて、溶接工あがりの設計士ラインホルト・プラッツとコンビを組んだ

リヒトホーフェンは新鋭フォッカー三葉機の運動性におおいに期待し、赤く塗って部下に演説してる
プラッツの設計はねじの使い方など構造強度に疑念はあったものの飛行の切れ味は一級であった

フォッカーは戦後アメリカ移住し国籍を取った。そして3発機でアメリカ航空を制した
これもパワー不足を直感したフォッカーがプラッツに「追加のエンジンを機首につけろ」と打電したとされる
3発機はアメリカを制したが構造の甘さで事故が多発、新聞に叩かれたアントニー・フォッカー
は威勢の良さで毒舌をふるい「爆弾トニー」とあだ名される
・・ドイツでは少なくともパイロットと設計は切り離せない関係にある

日本だけ、設計士は飛行機の操縦もできず、ヒトの話も聞かず、パイロットと別世界に住んでいた