>>111
http://yamanekobunko.blog52.fc2.com/blog-entry-305.html
 ここによれば、連隊史では3/7の戦いとして、M4を2輌撃破しチハ改1輌を失っているようですね。

 戦車第十四連隊は第十八師団に配属されメイクテーラ奪回戦に投入されますが、3/7だとすると、
同日午後ピンダレーに英印軍機甲分遣隊(ラルフコル隊)が現れ若干の戦車が陣内に侵入したが
間もなく引上げ事なきを得ています。(日本側資料)
 3/8には同部隊の一部がピンダレー道上、道標13マイルに来攻。第五十五、第百十九連隊が伏撃、
「強大な伏兵により、相当の損害を出す。」(印パ公刊戦史「陸戦史集イラワジ会戦」よりの抜粋)とあるので、
1日違いながらこちらかも知れません。

 同じ戦いと思われる英側記述は「ビルマ遠い戦場」にも見られ、
3/6に英軍はメイクテーラから放射線状の道路に5つの縦隊を繰り出し、
「日本軍の激しい抵抗を受けたのは、ウンドウィン西方へ進出した縦隊だけだった。」としています。
ウンドウィン西方とは上の記述のピンダレーからメイクテーラへ向かうあたりになります。

 その後も戦車部隊を食い止めたり打撃を与える戦いは幾つか「陸戦史集」に記述がありますが、
野山砲による射撃や重砲兵による砲撃であり戦車の有無は確認できません。
 また、第十八師団は北方からの奪回攻撃でしたが、
南方からの第四十九師団の奪回攻撃には戦車第十四連隊は参加していない筈です。
こちらも山砲によるタ弾射撃で戦車に多くの打撃を与えています。
 メイクテーラ戦だけではありませんが、イラワジ渡河以降3月末までの
英印軍戦車の損害は英公刊戦史(陸戦史集より)によれば破壊26、損傷(修理可能)44でした。