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>ドイツ相手だったら、ひどいことになっていたはず。

1945年1月12日から始まるソヴィエト赤軍の「ヴィスワ=オーデル攻勢」を知っていれば、こんな妄言は出ない。

軍事歴史家アール・ジームキ(Earl Ziemke)は以下のように進撃を解説した。
25日、ジューコフ配下の主力はポーゼンを通過、ベルリン東40マイルのオーデル川で真西へキュストリン方面へ進撃した。
ソビエト赤軍の進撃は巨大な除雪機械のように見えた。そして、ワルシャワからポーゼン、そしてベルリンへと狙いを定めていた。
ドイツA軍集団の全部隊が点と刃の間に挟まれ、オーデル川の対岸へ押し戻されていた。ドイツの右側にはヒトラーが数日前
に編成したヴァイクセル軍集団と呼ばれる基幹軍集団以外、何も存在しなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AF%3D%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E6%94%BB%E5%8B%A2

 この一月十二日のヒトラーの主要作戦会議のニュースは、コーネフ元帥の強力な歩兵と機甲部隊がパラノフ橋頭堡を
封じ込めているドイツ軍三個師団 を蹴散らし、すでに西に一〇マイル前進し、この押し寄せる敵軍を阻むものはなかった。
ドイツの機甲師団はずたずたとなり、壊滅したのだった。 そして今度は三五〇の砲列からの二時間にわたる弾幕放火のあとで、
戦車と歩兵の新たな洪水が東プロイセンに対する第二の攻勢が、 今度は南側面から開始された。この方面の攻勢の
ゼロ時間が分かって いたので、ドイツ軍は集結するロシア軍部隊と砲兵隊に砲弾の雨を降らせ、一時的にはロコソフスキー
元帥の部隊をたじろかせた。だが敵戦車二四五輌をすでに叩き潰したのに、一五日には全東部戦線が激戦中で、
敵が戦略的中央突破に成功したのは明らかだった。南ポーランドのキエルツェは陥ちた。ワルシャワはまだドイツ軍の
手にあったが、北と南で迂回された。クールラントと東プロイセン軍があんなにうまく敵を寄せつけなかっただけに、
この突然の崩壊に 仰天したヒトラーは、最も信頼する副官のひとりのフォン・ベロー大佐に 「もう希望はない」、
ドイツを救えるのはいまや奇跡のみであるといった。
<デイヴィッド・アーヴィング「ヒトラーの戦争」>