★山本五十六は捕虜となった搭乗員に自爆を強要

山本艦隊の司令部は、後述のように、捕虜になった後帰還した中攻機の隊員たちに自爆を命令し、
零戦のエース坂井三郎を失望させたのである。

開戦劈頭の昭和十六年十二月十二日、台南から出撃して比島クラークフィールド飛行場を空襲した
中攻三十六機の一機が、対空砲火で被弾不時着した。
乗員七名は自決せずに比島人の家へ行き、捕虜になった。
翌年二月マニラを占領した陸軍部隊によって、彼等は救出された。
ところが連合艦隊司令部も軍令部も彼等を許さなかった。陸軍に知られたのもまずかったという。
一旦戦死と認定されてしまった搭乗員は、台南基地に戻るとすぐ階級章、特技章、善行章を剥奪され、
他の隊員からは隔離収容された。軍法会議にかけるよりは、
早く死に場所を与えるのが武士の情ということで、特に危険な任務ばかりが与えられたが、被弾しながらも生還した。
山本五十六の連合艦隊司令部は期待していた自爆の報が来ないのに業を煮やし、五月上旬をもって
自爆させよとの命令を森玉部長隊に下した。
部下をかばいつづけて来た部隊長も、事ここにいたってやむなく命令を下達した。
彼らはポートモレスビーへ向かい、天皇陛下万歳の電報を発信した。

三村文男『米内光政と山本五十六は愚将だった』