第一次世界大戦について語るスレ 5 [無断転載禁止]©2ch.net
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1918. 2. 21
イェリコ陥落
パレスチナ戦線において、イェルサレムを奪取したイギリス軍は右翼においてさらなる
攻撃を企図した。
これは戦線をヨルダン川方面に広げることによってオスマン軍の負担を大きくすると
ともに、死海に到達することによって後方連絡線の援護にこの湖を利用しようとする
ものであった。
2月14日にイェルサレム付近の陣地から前進を開始したイギリス軍は、ユデア丘陵に
陣地を構えるオスマン軍をゆっくりと排除し、同時に南翼から騎乗歩兵を侵入させた。
騎乗歩兵の迂回はオスマン軍を効果的に牽制し、21日にはユデア丘陵から
ヨルダン河谷に出る道を抑えるイェリコの町の守備隊は撤退して、町はイギリス軍の
手に落ちた。
しかしヨルダン川西岸には砲兵を含む有力なオスマン軍部隊が残り、ヨルダン河谷の
支配権はいまだどちらに帰すとも定まらない情勢であった。 ユニークで個性的なパソコン一台でお金持ちになれるやり方
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いうが、第一次大戦の前だから疲弊はしてないだろうに。 ゴミみたいな陸軍しか持ってない時点で大国レベルになると英国から脅された所であまり気にならないだろうし >>864
一方ドイツは、いまの中国みたいな状態だったわけで
なに言ったって聞きゃあしねえw
それと、孤立主義下で世界中の貿易拠点の維持続けて、制度疲労の兆候ははっきりでてたよ 1918. 2. 23
赤衛軍、ロストフを占領
もとロシア軍大本営幕僚長のアレクセイエフ将軍は、10月革命後にドン川河口に近い
ノヴォチェルカスクに逃れ、コサックのカレージン将軍と協力して反ボリシェヴィキ闘争を
呼号した。
アレクセイエフのもとにはコルニーロフ将軍も合流し、アレクセイエフを軍政長官に、
コルニーロフを軍司令官にした反革命軍が組織された。
これに対しボリシェヴィキ政権は1918年初頭から討伐軍を送り込み、この日ロストフを
占領してドン川流域を制圧した。
反革命軍は黒海岸のクバン地方にまで撤退した。 1918. 2. 24
エストニア独立宣言
ロシアとの講和会議の一時的な停止と、それに引き続くドイツ軍の攻勢再開によって、
バルト海岸はドイツ軍の占領下に入ろうとしていた。
エストニア西部に樹立された民族主義者の団体、エストニア解放委員会は、この日
ドイツ軍とともにエストニア最大の都市タリン(レヴァル)に入り、エストニアは独立した
民主的な国家であることを宣言した。
ドイツ軍は28日までにナルヴァまで前進し、エストニアのほぼ全土を占領下に置いた。 1918. 2. 24
仮装巡洋艦「ヴォルフ」、ドイツに帰還
1916年11月30日にキールを出撃したドイツ仮装巡洋艦「ヴォルフ」(艦長カール・
アウグスト・ネルガー中佐)は、インド洋から南西太平洋を股にかけ、451日にわたる
通商破壊行動を行ってこの日無事ドイツに帰還した。
その間に直接捕獲・撃沈した敵船は14隻、機雷によって沈めた船は13隻。
この偉大な功績により、ネルガー中佐はプール・ル・メリト勲章を受章した。 1918. 2. 24
オスマン軍トレビゾンドを奪回
10月革命に伴い、ロシア軍はカフカス・アナトリア戦線から総撤退を開始した。
1917年12月18日には地域のオスマン軍と停戦協定が結ばれた。
この地域の非トルコ人諸民族は自衛のためにロシア軍の放棄した装備で民兵部隊を
組織した。
オスマン軍はほぼ無防備と化した前線を見て、停戦ラインを超えて戦前の領土を
奪回しようと進撃を開始した。1918年2月12日のことである。
南カフカスの諸民族、特にオスマン帝国から虐殺を加えられたアルメニア人組織は
オスマン軍に立ち向かったが、力の差は歴然としており、オスマン軍は前進を続けて、
この日黒海岸の主要都市トレビゾンドを奪回した。 政治家全員マジ全部国民や外国のせいにしかしてないので それを指摘することは事実だから合法 あと愚痴を公共の場で言うと嫌われます 気をつけましょう 陛下に世界平和のバースデープレゼント オリンピックのゴミ掃除 あと嘘をつく国は独裁国家なのでクーデターを起こせます 1918. 3. 1
ファルケンハイン、パレスチナ方面軍司令官職から解任
この日、前年のイェルサレム失陥の責を負って、パレスチナ方面のドイツ軍司令官
ファルケンハイン将軍(もと参謀総長)は解任され、トルコ勤務の長いリーマン・フォン・
ザンデルス将軍が後任となった。
ファルケンハインは白ロシア占領軍の第10軍司令官に移され、そこで終戦を迎えた。 1918. 3. 3
ドイツ軍キエフを占領
独立ウクライナ政府と講和した中央同盟軍は、条約に従ってウクライナ領内へ進駐し、
東から迫る赤衛軍と衝突した。
装備と統制に勝るドイツ軍は瞬く間に赤衛軍を駆逐し、この日ウクライナの首都キエフを
占領した。ウクライナ政府はこれに従ってキエフに帰還した。 1918. 3. 3
ブレスト・リトフスク講和条約調印
党内での激論の末、ボリシェヴィキ政府はドイツ側の条件を呑んで講和することを
決断した。いかなる犠牲を払っても、革命を完遂することが最優先とされたのである。
この講和条約によって、ロシアはポーランド・ウクライナ・バルト海岸・フィンランドを
失った。
東部戦線での戦争は公式にはここに終結を迎え、膨大な数のドイツ軍部隊が
フリーハンドを得ることとなった。
ドイツ軍はこの兵力をもって西部戦線で最後の攻勢をかけることとなる。 >>874
17年12月14日から約80日間か…いや、戦争の結果が変わるとは思わんが、米軍にとっては貴重な準備期間だったろうな 1918. 3. 9
英仏軍ムルマンスクに上陸
革命後混乱するロシア情勢を見て、英仏は親協商勢力による東部戦線の再建を
企図していた。
その第一歩として、北極海に面するムルマンスク港にこの日英仏の艦隊が入港し、
陸戦隊を上陸させて町を占領した。
また、ムルマンスク周辺では親独のフィンランド民兵が侵入を行っており、英軍は
これに対抗することも考えねばならなかった。 1918. 3. 12
オスマン軍エルズルムを奪回
ロシア軍が撤収して無防備となったカフカス・アナトリア戦線でオスマン軍は前進を
開始した。
この日オスマン軍はアナトリア中部の主要都市エルズルムを奪回し、さらに東へ
進撃を続けた。 1918. 3. 12
ボリシェヴィキ政権、首都をモスクワに移す
ブレスト・リトフスク講和会議の中止の間に、ドイツ軍はロシアの首都ペトログラードから
150キロのナルヴァにまで侵攻してきていた。また、講和の結果フィンランドは独立する
こととなり、ペトログラードは極めて国境に近い首都となってしまった。また、バルト海
からの攻撃にもペトログラードは弱い位置に置かれることになった。
この状況を見て、ボリシェヴィキ政権の首班レーニンは、首都を内陸部のモスクワに
移すことを決意した。ピョートル大帝の遷都から205年、ロシアの首都は再びモスクワに
還ったのである。 1918. 3. 13
ドイツ軍オデッサに到達
独立ウクライナ政府との和平に基づきウクライナ領内に進駐したドイツ軍は、
ボリシェヴィキ勢力が占拠していた黒海岸のオデッサを攻撃し、ここを占領した。 >>873
ウクライナは歴史上ロシアには属しない欧州寄りの国なんだよな。ロシアと欧州の歴史対立が再燃してる。 1918. 3. 14
トレビゾンド講和会議始まる
10月革命に伴い、ロシア南部国境を形成していたカフカス諸民族はロシアから離脱し、
さしあたりの組織としてザカフカス(トランスコーカサス)評議会を形成した。
この政体とオスマン帝国との間にはいまだ戦争状態が存在し、軍事境界線には緊張が
漂っていた。
この日、ザカフカス評議会とオスマン帝国の代表は黒海岸のトレビゾンドに集まって
戦争の終結に向けて講和会議を開始した。
しかし民族の境界と旧国境と軍事境界線はいずれも食い違っており、交渉は当初から
難航が見込まれていた。 1918. 3. 21
イギリス軍のヨルダン川攻勢始まる
イェルサレムを手中にしたイギリス軍の次の目標は、ヨルダン川を越えてヘジャズ鉄道を
アンマンにおいて切断することであった。
この作戦は、へジャズ鉄道沿線で作戦するアラブ反乱軍に対する大きな支援ともなる。
3月21日、英本土第60師団を主力とし、ANZACの乗馬・ラクダ歩兵部隊等によって
支援されたイギリス軍部隊は、ユデア丘陵を下ってヨルダン河谷へ侵入した。
死海の北10kmほどのヨルダン川において、イギリス軍は何ヶ所かで渡河を試みた。
そのうちマハデット・ヒジュラの渡河点での架橋が成功し、イギリス軍部隊は激戦の末に
ヨルダン川東岸に橋頭堡を確保した。
23日には最初の渡河点の北において、街道とヨルダン川が交差する点でもうひとつの
架橋が行われ、イギリス軍主力がヨルダン川を渡った。
イギリス軍はさらに東へ、アンマンに向けて進撃を開始した。 1918. 3. 21
ドイツ軍、西部戦線で春季大攻勢を発起
東部戦線での講和によって大幅な兵力の余裕を生じたドイツ軍は、アメリカ軍の
到着前に英仏軍を撃破して有利な講和を結ぶという見通しの下、西部戦線で大攻勢を
開始した。
主攻軸はカンブレーからアミアン方面に置かれ、英仏軍を分断してイギリス軍を
降伏に追い込むという目標が立てられたが、攻撃地点の選定は戦略的というより
戦術的に弱そうな地点を選ぶという方針だった。
攻撃地点に選ばれたのはカンブレー=サン・カンタン戦線であった。ここは前年の
ヒンデンブルク線への撤退によりイギリス軍が新たに前進した部分で、塹壕線の
構築が進んでいないとみられたのである。
また、ヴェルダン死守の経験を持つフランス軍より、イギリス軍は防御の経験に
乏しく、防御力が弱いのではないかと期待された。 攻撃戦力は4個軍72個師団、対するイギリス軍は26個師団であった。
攻撃戦術は以下の通り。まず毒ガス弾による短時間の猛砲撃で敵戦線後方の司令部、
交通結節点をたたいて敵戦力を麻痺させる。次いで砲兵陣地を砲撃して阻止火力を
封じ込め、最後にごく短時間の砲撃を前線に加えて突破口を開く。
突破口からは歩兵戦力の中から選りすぐった優秀な兵からなる突撃歩兵
(シュトーストルッペン)を侵入させる。突撃歩兵は敵陣の強いところは迂回して弱点を
突き、とにかく前進することを目的とする。
突撃歩兵がやり過ごした敵拠点は、突撃歩兵の前進によって孤立化したところを
後続の部隊が包囲して制圧する。
この方針のもと、ドイツ軍は3月21日早朝に攻勢を開始した。作戦名は「ミヒャエル」。
午前4時35分に砲撃が始まり、午前9時40分には突撃歩兵の攻撃が始まった。
濃い煙幕と霧に助けられて、突撃歩兵は前進し、包囲し、連絡線を切断した。
午前中いっぱい、イギリス軍の上級司令部は状況を全く把握できず、各所で背後に
回られたイギリス軍部隊は降伏して、前線は総崩れとなった。
ドイツ軍は巨大な成功を手にしつつあった。 1918. 3. 21
「パリ砲」による砲撃始まる
この日の朝、パリ市民は突然の爆発音に驚かされた。空襲か? しかし空に
ドイツ軍機やツェッペリンの影はない。爆発は15分間隔で21回起こった。
爆発点付近に散乱した破片を分析したところ、驚くことにこれは大砲から発射された
砲弾であることが分かった。
いったいどこから? ドイツ軍の攻勢が始まったニュースは届いていたが、まだ敵は
パリから100キロも離れているはずなのだ。
これはドイツ軍の秘密兵器「パリ砲」による砲撃であった。これは口径21cm、
砲身長実に37m、口径比176口径の超長身砲で、戦線背後からパリを攻撃するために
開発された超兵器だった。
砲台はソワソン北15kmほどのクシーの森に築かれていた。パリから120kmの
距離である。
フランス側では、この砲はヴェルダン攻撃に使用された重攻城砲と混同され、
「グロス・ベルタ」と呼ばれた。
この日から、一日10発前後が発射され、パリ市民を恐怖に陥れることになる。 1918. 3. 26
ドゥラン会議
ドイツ軍の大攻勢によって、戦線は英仏軍の接点付近で引き裂かれつつあった。
この危機を救うには、英仏軍の共同指揮がぜひとも必要である。
この目標に向けて話し合うため、この日アラスとアミアンの中間にあるドゥランにおいて
英国大陸派遣軍の幕僚会議が開かれるのに合わせて、フランスの代表団もそこに
集まることになった。
会議に集まったのはフランスのポワンカレ大統領、クレマンソー首相、フォッシュ将軍、
ヴェガン将軍、イギリスのミルナー陸軍大臣、ヘイグ派遣軍司令官他であった。
ここにおいて西部戦線すべてを統括する総司令官職の設置が決定した。その地位に
ふさわしい指揮官として皆が考えたのはフォッシュ将軍であったが、この日は人選に
まで結論は出なかった。 1918. 3. 26
チェコ軍団の移送始まる
オーストリア・ハンガリー軍からロシア軍の捕虜となったチェコ人・スロヴァキア人は、
ロシア軍に寝返って「チェコ軍団」を編成し、ドイツと戦っていた。
東部戦線の講和によってロシアとドイツとの戦争は終わってしまったが、チェコ軍団は
連合国にチェコスロヴァキアの独立を承認させるために、西部戦線に移動して
戦い続けることを望んだ。
ついてはロシア国内をウラジオストクまで横断する必要があったが、不穏な国内を
武装した集団が横断していくことに難色を示したソヴィエト・ロシア政府はなかなか
その許可を出さなかった。
しかし粘り強い交渉の末、重火器は置いていくという条件で、この日ソヴィエト
・ロシア政府とチェコスロヴァキア国民評議会の間で、軍団移送についての合意が
成った。
チェコ軍団は東を目指して移動を始めたが、シベリア鉄道の輸送力は限られており、
移送はなかなか進まなかった。 1918. 3. 27
第一次アンマン攻撃
ヨルダン川を渡ったイギリス軍は、オスマン軍の抵抗を排除しながらアンマンへ進撃を
続け、この日アンマンの防御陣地に攻撃を行った。
しかしオスマン兵とドイツ兵が守る塹壕陣地は堅固で、イギリス軍に容易に鉄道への
接近を許さなかった。
また、北方ダマスクス方面から鉄道を通して増援が送り込まれ、さらにイギリス軍の
後方連絡線を狙った反撃も行われた。
連絡線に脅威を受けたイギリス軍は容易に先鋒の攻撃部隊に増援が行えず、4日間の
戦闘ののちにやむなく撤退を開始した。 1918. 3. 28
第一次タンペレの戦闘
フィンランド内戦は、湖沼地帯をはさんで白軍と赤軍が南北に対峙する形勢となっていた。
白軍司令官マンネルヘイム将軍は、ヘルシンキのほぼ真北150kmにあるタンペレの
陣地を突破すべく、1万6000の兵で南下を開始した。赤軍は1万4000の兵で守りを固めた。
両者はタンペレで激突し、赤軍の防御陣地の前に白軍の攻撃は頓挫し、白軍は
退却して再編成を図ることとなった。 1918. 3. 28
ゴフ将軍更迭
ドイツ軍の「ミヒャエル」攻勢を受け止めて崩壊したイギリス第5軍司令官ヒューバート・
ゴフ将軍はこの日解任され、ローリンソン将軍に指揮権を譲った。
4月3日には軍の名称も「第4軍」と改称されることになる。 1918. 3. 28
パリ砲、サン・ジェルヴェ教会に命中
この日、遠くソワソンからパリを砲撃中のドイツ軍の秘密兵器「パリ砲」の砲弾は
サン・ジェルヴェ・エ・サン・プロテ教会に命中し、聖金曜日の礼拝に集まった人々の
間で爆発して、死者91人と負傷者68人が出た。
これが「パリ砲」の砲弾1発による最大の被害であった。 1918. 3. 28
ドイツ軍アラス方面で攻勢
アミアンを目指すドイツ軍の攻勢は続いていた。
しかし、先頭を切って進む突撃部隊は消耗し、砲兵をはじめとする補助部隊や
補給物資は突破先頭になかなか届かなかった。
この地域は1916年以来両軍が戦闘に明け暮れ、道路などが荒らされつくして
いたのである。その上ドイツ軍のヒンデンブルク線への撤収の際には井戸に
毒まで投じられており、馬匹の移動には困難が生じていた。
ドイツ軍の前進はやや左にそらされ、モンディディエを占領したところで
息切れした。
そこでドイツ軍は、戦線右翼から北のアラスへ向けての攻勢を開始した。
「マルス」作戦である。
これはアミアン方面から敵の予備を奪うとともに、交通の結節点であるアラスを
占領することによって敵の戦略的移動を妨げる目的があった。
一方の連合軍は、前年暮れから編成されていた連合軍最高司令部
(フォッシュ元帥)がようやく稼働し始めていた。
フォッシュは南からフランス軍部隊で逆襲を行ってドイツ軍を引きつけるとともに、
重要拠点に兵力を集中した。
ドイツ軍の攻勢作戦はひとつの転機を迎えようとしていた。 ドイツ、兵舎の名前を第1次大戦将軍からアフガン戦死者に改名
ttp://www.afpbb.com/articles/-/3169168?cx_position=16 絶望のカイザー攻勢だな
当時のドイツ国民はどれだけ理解していたか知らないけど、ドイツ帝国を実質仕切っていたのはルーデンドルフ
作戦通りの戦果を上げて、ドイツに不利でない条件で講和できれば御の字なんだが、纏まる話も纏められない予感 :::::::::::::::::::::``ヽ
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`` ?---? 'い
https://twitter.com/ibuki_air
09058644384 1918. 4. 1
イギリス空軍発足
前年の「空軍法」成立に伴い、この日イギリス陸軍飛行隊とイギリス海軍航空隊は
合併し、本土防空隊とともに「イギリス空軍」Royal Air Force を結成した。
これは世界初の独立軍種としての空軍の誕生であった。 そう言えば第二世界大戦を陸海軍で戦ったのは、主要国では日米だけか。
欧州は航空機の有用性を実戦で体験したけど、日米の場合、仮想敵の問題もかね?
当時、日本の戦場は中国大陸、相手の航空戦力はほぼ皆無。
米国も新大陸では無双だし、欧州に米軍を常駐させるなんて論の外だった。
太平洋をするはさんで日米が対峙すると、両海軍とも海軍が自由に使える航空戦力を要求した。すると海軍への対抗上、陸連も陸軍航空隊を維持する、かな? 大規模な海軍航空隊を保有する必要性があったからでしょうねえ。 1918. 4. 2
イギリス軍ヨルダン川東岸から撤収
アンマン攻撃に失敗したイギリス軍は、東岸に進出させた戦力を保持できず、
総撤退を行うこととなった。
2日にはゴラニエとマハデット・ハジュラに橋頭堡を残して、主力は西岸に撤収した。
この失敗に終わった作戦の唯一の慰めは、オスマン軍がアンマンに兵力を集中した
結果、後方でアラブ反乱軍が大いに優勢になったことであった。 1918. 4. 3
第二次タンペレの戦闘
フィンランド内戦は続いていた。
タンペレ前面で撃退された白軍は、態勢を整え直して再び赤軍の陣地に攻撃を
行った。
砲兵火力を集中した白軍の前に赤軍は押し切られ、4日間の激しい戦闘の末、
タンペレは陥落した。
赤軍はロシア革命政府軍の援助を求めて、南東のヴィボルグ方面に撤退した。 1918. 4. 3
ドイツ軍フィンランドに介入
内戦に突入したフィンランドの勢力のうち、社会主義者と戦う白軍の指導者はドイツに
救援を要請した。
ドイツ軍はバルト海を越えて上陸部隊を送り、主力はフィンランド湾入り口のハンコに、
分遣隊はヘルシンキの東のロヴィサに上陸した。
赤軍は北の白軍と南のドイツ軍にはさまれる形となった。 1918. 4. 3
フォッシュ将軍、西部戦線総司令官に補任
この日、最高戦争会議がアメリカ代表ブリス将軍を加えて、パリとアミアンの中間の
ボヴェーで開かれた。
席上、フランス軍のフェルディナン・フォッシュ将軍は正式に「連合軍総司令官」の
職に任命された。この地位を「ジェネラリッシム」(大元帥)と呼ぶこともある。 自国領土に敵国が空襲してくる環境では、それを迎撃する航空戦力で戦闘が完結する。
すると航空航空戦力が独立することに合理性と必要性が出てくる。
そういうのがなかった国は、その逆。 >>902
ソ連が空軍を独立させたのは、2次大戦の終結後
あそこの場合、一人の戦線(方面軍)司令官が、陸海空の全てを一元指揮するシステムなので、いささか特殊だが
日本の場合、海軍が自前の航空戦力の保持に拘ったこともあるが、帝国憲法に「陸海軍」の文言があるので、
憲法改正しないと空軍を独立させられないって事情も 日米の場合は空軍の母体になる陸軍が辺境の田舎陸軍って前提結構平気で忘れられてるよな
平時の規模が二十万人いかないような規模じゃ、組織の一部を分離独立させようって動機が成立しないんだが
日本の場合は支那事変以降は、戦時下で急拡大する組織のやりくりでてんやわんやで、空軍独立にかまける余裕がもう無いし 1918. 4. 5
日英の陸戦隊、ウラジオストクに上陸
ロシア革命に伴い、辺境の諸地方にまで動揺が広がっていた。
日本海に面するロシアの主要港、ウラジオストクでは、居留日本人商店が暴徒に
襲われ、店主が殺害されるという事件が起きる。
日本はこれに対し在泊の軍艦から陸戦隊約500名を上陸させて、治安維持にあたった。
同日、外交的対抗上、イギリスも陸戦隊を上陸させた。 1918. 4. 5
トレビゾンド講和会議決裂
オスマン帝国とザカフカス評議会との講和会議は難航していた。
オスマン帝国代表のエンヴェル・パシャはカスピ海岸への通行路と過去の戦争での
喪失領土の回復、アルメニア人民兵組織の解散などを要求し、ザカフカス諸民族は
それぞれの領域の保全を求めた。
代表団首席のグルジア人チュヘンケリはオスマン軍の要求を呑む腹でいたが、
オスマン帝国と国境を接し、帝国内では同胞が虐殺されたアルメニアの代表は妥協を
一切受け入れなかった。
この日、ついに交渉は決裂し、オスマン軍は諸民族の民兵を排除しながら東へ
前進を開始した。 1918. 4. 6
「ミヒャエル」作戦停止
突出部から北へアラスに向かう攻勢は、イギリス軍の防御によって阻まれた。
ドイツ軍は再び西のアミアンへ向かって兵力を集中し、突破を図ったが、連合軍の
予備はすでに間隙を埋めつつあり、攻撃は奇襲性を失って正面攻撃となった。
戦闘は次第に従来の陣地戦の様相を示しつつあり、さらなる大突破は望めない
状況となった。
ドイツ軍総司令部は6日、「ミヒャエル」作戦の中止を下令した。
英仏軍はアミアンとアラスを守り切ったのである。 1918. 4. 8
ドイツ軍ハリコフを占領
ウクライナに進駐したドイツ軍は、ボリシェヴィキ勢力を駆逐しながらウクライナ
領内を東進し、この日東部ウクライナの主要都市ハリコフを占領して、ボリシェヴィキ
勢力をウクライナからほぼ一掃した。 1918. 4. 9
モルダヴィア(ベッサラビア)議会、ルーマニアとの合邦を決議
2月に独立を宣言したモルダヴィアでは、民族的に近いルーマニアとの合邦をめざす
勢力が優勢となり、この日議会においてルーマニア王国との合邦が決議された。
これは中央同盟国によって承認され、戦後紆余曲折の末、国際連盟の承認を経て
確定することとなる。 1918. 4. 9
ドイツ軍「ゲオルゲッテ」攻勢を発動
アミアンを奪取してイギリス軍をまるごと包囲しようというドイツ軍の意図はくじかれた。
ドイツ軍は、アミアン奪取後に右翼海岸方面から攻勢をかけてイギリス軍を大包囲する
「ゲオルク」作戦を立案していたが、状況の変化により、右翼軍単独で海峡の港湾都市を
目指す攻勢「ゲオルゲッテ(小ゲオルク)」を発動することとなった。
兵力は2個軍21個師団、対する連合軍は25個師団であった。
攻勢は交代中だったポルトガル軍の部隊を直撃し、装備の劣るポルトガル師団は
壊滅した。ドイツ軍はダンケルクとアラス・アミアン方面を結ぶ鉄道の結節点
アズブルックに向けて突進した。
イギリス軍は包囲の危機にあった。 1918. 4. 10
「被抑圧民族会議」開催
この日、ローマにおいて、中欧からバルカンにかけての諸民族の代表が会合し、
今次戦争の終結後には民族自決の原則に従って「完全に独立した民族国家」を
樹立すべきである、という宣言を行った。
これはウィルソンの14ヶ条に呼応したもので、やがてオーストリア・ハンガリー帝国の
瓦解につながる第一歩であったと言える。 1918. 4. 11
クレマンソー、オーストリアの単独和平交渉を暴露
フランスのクレマンソー首相はこの日、前年に行われたオーストリア皇帝カール1世の
秘密和平工作についてその内容を公表してしまった。
カールの書簡には和平の条件としてドイツ領エルザス・ロートリンゲンのフランスへの
割譲が含まれており、このニュースを聞いたドイツ皇帝と軍部は激怒した。
カールは当初書簡の存在を否定し、フランスの謀略であると言い張ったが、次第に
隠し切れなくなり、虚偽と真実を小出しにして弁明を図った。
この醜態によってカールの権威は失墜し、国内諸民族への統制はさらに難しい
ものとなっていった。 1918. 4. 13
ドイツ軍ヘルシンキを占領
内戦に乗じてフィンランドに上陸したドイツ軍は、南西部のハンコから東に進撃を続け、
この日ヘルシンキを占領した。ドイツ軍は翌日正式に入城式をとり行い、ヘルシンキは
ドイツ軍の支配下となった。 1918. 4. 13
コルニーロフ将軍戦死
ドン川地方からクバン地方へ撤退した反革命軍は、エカテリノダール(のちの
クラスノダール)に拠点を置く北カフカス・ソヴィエト政府軍と激突した。
反革命軍は苦戦し、4月13日にはコルニーロフ将軍の司令部に砲弾が命中して、
将軍は戦死した。
彼の後任にはデニキン将軍が就任した。
コルニーロフの死の知らせを聞いたレーニンは、「これで内戦も終わるだろう」と
極めて楽観的な見通しを口にしたという。もちろんこの見込みは大幅に狂うことになる。 1918. 4. 14
オスマン軍バトゥーミを占領
ザカフカス評議会との交渉決裂を受けたオスマン軍は前進を開始し、この日グルジア
黒海岸のバトゥーミを占領した。この地にオスマン軍が入るのは1878年の露土戦争
以来のことであった。 1918. 4. 15
パッシェンデール突出部放棄
一時はイギリス軍を危機に陥れた「ゲオルゲッテ」攻勢であったが、フランス軍予備
戦力からの増援が到着しつつあり、ドイツ軍の前進は急速に減速した。
また、イギリス軍も、前年秋のイープル攻勢で奪取したパッシェンデール突出部から
撤収して兵力の余裕を得、ドイツ軍の進撃に対抗した。
これらの兵力をもって、連合軍は防御線を整えた。戦闘は陣地戦の様相を示しつつ
あった。 1918. 4. 21
リヒトホーフェン戦死
「レッド・バロン」の異名を持つドイツの戦闘機トップエース、マンフレート・フォン・
リヒトホーフェン大尉はこの日、ヤーシュタ11を自ら率いてフォッカー三葉戦闘機で
アミアン前面のソンム方面に出撃した。
リヒトホーフェン隊はイギリス空軍第209スコードロンの迎撃を受け、各機入り乱れた
空戦となった。
その中で、ウィルフリッド・メイ少尉のソッピース・キャメル戦闘機を低空で追撃していた
リヒトホーフェンは、不意に一発の機銃弾を胸に受けて致命傷を負った。
リヒトホーフェン機は畑の中に不時着したが、地上にいたオーストラリア軍部隊が
機内を確認した時には、すでにこの撃墜王は絶命していた。生涯撃墜機数80機、
死亡時の年齢は25歳であった。
イギリス軍は、その時リヒトホーフェン機を追っていたロイ・ブラウン大尉の撃墜で
あると発表したが、後年の研究によると、地上部隊の機関銃火によって撃墜された
可能性が高い。
リヒトホーフェンの骸は丁重に葬られた。死の2日後にはイギリス軍戦闘機が
ドイツ軍飛行場に飛来し、弔文を投下して去った。
「ドイツ軍飛行隊へ。男爵マンフレート・フォン・リヒトホーフェン騎兵大尉は4月21日の
空戦で戦死された。彼は軍規に従い名誉をもって葬られた」
最も高名な「空の騎士」の死は、ドイツじゅうに悲しみをもって受け止められた。 1918. 4. 22
トランスコーカサス連邦独立
ロシア領南カフカスの諸民族の代表は、2月革命後に「ザカフカス委員会」を結成して
臨時政府に従っていたが、10月革命後のボリシェヴィキ政府には従わず、独自の動きを
見せていた。
さらに3月のブレスト・リトフスク条約で「本来南カフカスに属すべき」オスマン帝国領内の
占領地がすべてオスマン帝国に返還されたため、委員会のボリシェヴィキへの反感は
高まり、4月22日にはザカフカス議会は「トランスコーカサス(ザカフカス)連邦共和国」の
成立を宣言して公然とロシアから離脱した。 1918. 4. 23
ゼーブルッヘ・オーステンデ襲撃
度重なるドーヴァー海峡へのドイツ軽艦隊の襲撃とUボートの攻撃に対抗するため、
イギリス海軍は、ドイツ海軍が前線基地として使用していたベルギー領ゼーブルッヘ港と
オーステンデ港の襲撃を企図した。
両港とも海から短い運河を経た内陸にあり、襲撃隊は旧式巡洋艦をその運河の口に
自沈させ、港を閉鎖する作戦であった。
夜半にイギリス艦隊は港に近づき、沿岸砲台を煙幕で覆うことを試みたが、当日は
風が強くて煙幕は流れてしまい、閉塞船は砲台から激しい砲火を受けた。
結局、ゼーブルッヘでは運河の中に突入できたものの完全な閉塞はできず、小型
Uボートの出入りに支障はなかった。
オーステンデでは航路標が偽装のためにずらして設置されており、閉塞船は運河から
離れた砂州に座礁して、まったく航路をふさぐことはできなかった。
大々的に行われた作戦は失敗に終わったが、イギリスではこの襲撃を「壮挙」として
宣伝し、無味乾燥な封鎖と通商護衛に疲れた海軍の士気に一服の清涼剤を与える
ことに成功した。それが唯一の成果であったろう。 なんだこのスレは・・・・・・・・一人が延々と書き込んでる >>926
実際一人かどうかはわからないが、奇特なこのスレの名主様だよ。
第一次大戦は、特に欧州にとっては第二次大戦以上の歴史的エピソードなんだが、日本では人気?が無いから希少なスレだ。
そういえば、百年前、そろそろ世界初の戦車戦が始まっているはず。
現代の戦車に比べると、現代人と原人くらい差があるが。 そろそろWW1が終わってしまう。
途中から参加しているので、サラエボ事件の
あたりのWW1の開始の頃から読み返したい
と切に思うよ。
どこかに纏めてアップされていると助かる。 >>928
残念ながら、2015年の1月途中から始めたので、1914年の記録はないのです。
また、1915年の途中までは本当に「年表カレンダー」でしかなく、今のように
内容の説明がついたのは1915年11月ごろからですかね。 1918. 4. 25
オスマン軍カルスを占領
4月23日、オスマン軍はアルメニア人民兵の立てこもる東アナトリア(戦前のオスマン
帝国領内であるがアルメニア人が多い)のカルス要塞を攻囲した。
アルメニア軍側の統率は乱れ、周辺諸民族からの援助もなく、ザカフカス代表の
チュヘンケリ(グルジア出身)はカルス要塞に対し開城を勧告した。
孤立無援となったカルス要塞は25日に降伏し、オスマン軍はさらに東へ向かった。
カルスはこの後もアルメニアとトルコの間で争奪が繰り返されるが、その物語は
本スレッドの範囲を超える。 1918. 4. 27
ヴィボルグの戦闘
フィンランド内戦は白軍の優勢下に進行していた。
赤軍は最後の拠点として南東部ロシア国境に近いヴィボルグに追い詰められていた。
白軍のマンネルヘイム将軍はこの日までにカレリア地峡を封鎖してロシアからの干渉を
断ち、ヴィボルグ前面に陣を張る赤軍の退路をも断った。
マンネルヘイム将軍は最後の攻撃を命令し、砲兵の砲撃とともに赤軍に全面攻撃を
行った。
激しい戦闘ののち赤軍は崩壊し、29日にはヴィボルグ市内の拠点もすべて掃討された。
内戦の帰趨は決した。白軍は各地の赤軍残存陣地の掃討に移った。 1918. 4. 29
「ゲオルゲッテ」作戦中止
英仏海峡を狙うドイツ軍の攻勢は阻止された。連合軍はフランス軍の予備から兵力を
抽出して北部戦区に送り、兵力比はドイツ軍に不利なものとなった。
ここにおいてドイツ軍総司令部は「ゲオルゲッテ」の中止を命令した。 1918. 4. 29
ウクライナにてヘーチマンのクーデタ
中央同盟国との和平とドイツ軍の進駐によって国土をボリシェヴィキから奪い返した
ウクライナ中央ラーダ政府であったが、国内の統制力は弱く、ドイツの望む食糧の
大量供給にはあまり頼りにならなかった。
ドイツ軍はこの状況を見て、コサック民兵を率いていた貴族のスコロパーズキー将軍を
ひそかに支援した。
将軍はこの日農民の大集会を開いて中央ラーダ政府批判の声を上げ、熱狂する
支持者に推戴されて「ヘーチマン」(コサックの頭領)に就任した。
ヘーチマン・スコロパーズキーは兵を率いて中央ラーダ政府を解散させ、ウクライナの
実権を握った。ヘーチマンは国号を「ウクライナ人民共和国」から「ウクライナ国」に
改め、ドイツ軍の支持のもと独裁的権力を掌握した。 1918. 5. 1
ドイツ軍セヴァストーポリを占領
ウクライナからボリシェヴィキ勢力を一掃したドイツ軍はロシア領クリミアに侵入し、
この日セヴァストーポリ軍港を占領した。ロシア黒海艦隊主力はノヴォロシーイスクに
逃れたが、一部はドイツ軍に抑留された。 戦前まで対立していたドイツやフランスの社会主義者や
ハプスブルグ帝国の民族主義者が団結する展開好き
方向性が違うだけで皆愛国者なんだなって >>939
ハプスブルク帝国内の民族主義者が一時団結したように見えたのは、汎スラヴ主義の
ロシアがグダグダなことがばれたので、一応帝権に従っておくか、という動きになった
だけでしょ。
それが証拠に、帝国がドイツに追従するようになるとすぐに独立を志向するようになるじゃないか。
マサリクの運動は1915年から始まっており、国内勢力ともしっかり呼応している。
>>939の言うような無邪気な「愛国心」なんて、帝国ではどの民族もも持ち合わせていないよ。
イタリア戦線で士気が高いのは、「未回収のイタリア」が南スラヴの固有の領土を侵害する
という点が影響しているしね。 1918. 5. 7
ブカレスト講和条約
前年末の休戦に引き続いて行われたルーマニアと中央同盟国との講和会議はこの日
妥結し、講和条約が結ばれた。
これにより、ルーマニアは南部ドブルジャをブルガリアに、カルパチア山脈のいくつかの
峠をハンガリーに割譲した。
また、北部ドブルジャも当分の間中央同盟国の共同占領下におかれることとなったほか、
主要な油田はドイツに租借されることとなった。
一方でルーマニアは、ベッサラビア(モルダヴィア)との合同を認められることとなった。 1918. 5. 9
第二次オーステンデ襲撃
4月の作戦で閉塞することができなかったベルギーのオーステンデ港に対し、
イギリス軍は再び襲撃閉塞作戦を企画した。
前回ゼーブルッヘに突入した旧式巡洋艦「ヴィンディクティヴ」と、もう1隻「サッフォー」が
閉塞船として選ばれ、これをモニター艦・駆逐艦・爆撃機・陸上からの長距離砲撃で
支援することとなった。
5月8日の夜半、襲撃隊はダンケルクを出航したが、途中で「サッフォー」は機関故障を
起こして隊列から脱落した。作戦は「ヴィンディクティヴ」1隻で行われることとなった。
折からの濃霧の中、「ヴィンディクティヴ」はオーステンデ港口の運河に突入を図ったが、
ドイツ軍の沿岸砲台の砲撃はすさまじく、艦は推進軸を破壊されて操船不能となった。
艦はそのまま潮に流されて港口に縦に突っ込んだ形で砂州にのし上げ、指揮官は
やむなく自沈爆薬の点火と総員退去を命じた。退却に際して、陸からの射撃を受けて
多数の死傷者が出た。
作戦はまたも失敗に終わり、ドイツの沿岸用小型潜水艦は不自由なく港を出入り
することができた。
しかしイギリス海軍当局は今回も「壮挙」としてこの作戦を宣伝し、イギリス海軍の
士気はいささか元気づけられたのであった。 飛行機の窓からレンガを落として攻撃したって本当かい? 初期の飛行機は窓なんて上等なものついてないから
専用の戦闘機出てくるまで煉瓦や工具投げあったり、小火器撃ち合ったりしてたよ いくら木でできた飛行機とはいえ工具投げつけられても壊れないよなぁ 同航戦なら大して威力なさそうだけど、反航戦だと相対速度が上がって大ダメージの予感
滅多に当たらないだろうけど このころは、宇宙戦艦ヤマト的な
二人ノリで戦闘機の後ろに、銃座?がついてる戦闘機がありましたか? 1918. 5. 11
バトゥーミ講和会議始まる
オスマン帝国と南カフカス諸民族との間の紛争は収まっていなかった。
特にアルメニア人はオスマン軍に強く反抗し、旧国境以西のアルメニア人居住地を
強く要求した。
オスマン軍はそれに対し正規軍の進撃をもって応え、旧国境を越えてさらに東へ向かう
勢いを見せた。
ここにおいてドイツのあっせんで再度講和会議が黒海岸のバトゥーミで開かれたが、
その結果は前線での戦況に左右され、すぐには決定されなかった。 資料見つけたのでシェア
『オーストリア・ハンガリー帝国最後の戦争 1914-1918年』
( Österreich-Ungarns letzter Krieg 1914 - 1918)
http://warhistory-quest.blog.jp/18-May-10
>オーストリア国立図書館がデジタル化した著作権フリーの書籍を公開してくれています。
>詳細にオーストリアの参画したほぼ全ての欧州戦線での部隊配置、補給、増員などが網羅されている完全に純粋な軍事記録です。 いやほんと良く公開してくれたよねオーストリア国立図書館
この高解像やばすぎでしょ
著者も本職の超高級軍人だしイデオロギー性ほぼなしの軍事記録とか感動もの 大国のはずのオーストリア・ハンガリーが戦力にならなかったのは謎
日本が1944年以降一方的にボコられたのと同じか オーストリアハンガリーはブルシーロフさんにボコられたせいじゃないの ドイツ国民が飢餓に陥った戦争というイメージしかないわ
向こうの本読むと第二次大戦中の日本並みの飢餓状態
1918年12月のドイツ公衆衛生委員会は、
763,000人のドイツ人の民間人が飢餓で死亡したと主張した
1928年に行われた学術研究は、1918年12月の終わりまでの封鎖によって
引き起こされた病気で424,000人の死者を出した
戦前から肥料の多くを新大陸に依存していたのだから家畜を養えなくなり
脂肪とタンパク質の不足、栄養失調、結果結核や肺炎で死亡者続出
連合国側は悪化してもそこまで深刻化しなかった
第二次大戦でヒトラーがソ連侵攻したのもイギリスの海上封鎖が欧州全域にわたり
食糧・肥料が入らず支配地域全域で飢餓の兆候が表れたからと言われている。 ナポレオンの頃から大陸国家は同じ過ちを繰り返しているね
あの位置にイギリスが居て大陸国家が制海権を取らない限りイギリスには勝てない
イギリスを干上がらせるのが先か大陸国家が飢えるのが先かの勝負だ >>951
こっち貼れよ
Österreich-Ungarns letzter Krieg 1914 - 1918
Number of volumes: 15
http://digi.landesbibliothek.at/viewer/toc/AC01039112/0/ 1918. 5. 12
オーストリア皇帝の「カノッサの屈辱」
前月のオーストリア皇帝カール1世の秘密和平工作暴露に怒ったドイツ皇帝ヴィルヘルム
2世は、この日大本営のあるベルギーのスパにカールを呼びつけた。
その場でカールはドイツとの軍事同盟の強化と西部戦線へのオーストリア軍派遣を
約束させられ、軍事的に完全にドイツの隷属下に立つことを強いられた。
この屈辱的な事件をオーストリアの新聞は「まるでカノッサの屈辱だ」と書き立てて
カールの醜態を批判し、和平工作の仲立ちとなった皇后ツィタは「売国奴」と蔑まれた。
オーストリア皇室の威信は地に落ちたのであった。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。