>>230
>今津の制圧を金方慶の当初の任務とするなら、何で今津から離れたところに上陸するのだろうか。

一か所と考えるからそうなる。高麗軍の三っつの翼軍と、洪茶丘の高麗人部隊とが、金綱集が
示すような数か所にそれぞれ上陸した、と考えればよい。このことが「分道而進」だと思う。
任務は、邪魔になる住民や地侍を抹殺するとともに、翌日の蒙漢軍の上陸を側面援護することだ。
このような働きを今津で行ったならば、十分に「破伊蛮」「抜伊蛮」に値すると思うよ。

これらの部隊は、翌廿日には鳥飼潟戦線に加わった。これが「諸軍與戦」だ。
このような考え方を、以下の二つのページにくわしく書いた。

https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12321323496.html
廿日の朝、元軍はなぜ少数だったのか

https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12323289521.html
高麗史・金方慶伝をどう読むか