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【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001名無し三等兵垢版2016/09/14(水) 22:22:24.04ID:5Pt2CVH5
モンゴル帝国による元寇を軍事的に考察しましょう。

前スレ
【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】7
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/army/1413082769/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】6
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/army/1402160978/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】5
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/army/1358050246/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】4
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1353671134/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】3
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1346923005/
0250名無し三等兵垢版2018/05/05(土) 14:00:09.42ID:MX3ThxnV
元側の史料の戦果で本土の戦果に今津の地名しかないのは元軍にとって致命的だよ。

高麗史では、壱岐や倭兵大敗のような小戦は詳細に
記載しながら、最終戦の大規模な戦闘を「諸軍與戰、及暮乃解」の僅かな文章で流している。

更に忽敦ですら、孫子の兵法を引用して日本軍を大敵、自軍を小敵に例える始末。

とても戦況を優位に進めた軍勢とは思えない。
0251名無し三等兵垢版2018/05/05(土) 22:10:59.98ID:tg2FL5DQ
>>250
>元側の史料の戦果で本土の戦果に今津の地名しかないのは元軍にとって致命的だよ。

それは洪茶丘伝のことを言っているのだろう。
「與都元帥忽敦等、領舟帥二万、渡海征日本、拔対馬一岐宜蛮等島。」

洪茶丘伝は個人史だから、手柄話は洪茶丘じしん、あるいは彼が指揮する高麗人部隊の
ものだ。決して全軍に関するものではない。
つまりこの文章は今津を抜いた(上陸して虐殺など行った)のが洪茶丘の高麗人部隊
であったことを示している。

そう言うと「領舟師二万」だから全軍だ、と言うだろうが、これは東征軍における
洪茶丘の立場、地位を表したものだ。
つまり彼は副都元帥だから、形式的には都元帥の忽敦を補佐して全軍を領している。
そのことを言っているだけ。
あくまで個人史であることを忘れてはいけない。
0252名無し三等兵垢版2018/05/06(日) 08:31:55.85ID:rzIPlPS6
副将として全軍を領しているといっているのだから
個人史として切り捨てるのは都合が良すぎる。

立場的に全軍の指揮を担っている洪茶丘の本土に
おける戦果が今津のみであるなら、元軍全軍の戦果
とみなされても仕方がない。

肝心の都元帥すら、洪茶丘らとの軍議の際、たった一日の戦いで今後の戦いに自信を喪失している。
次に高麗軍の戦果の記述をみても壱岐や倭兵大敗の
ような取るに足らない小戦に紙面を割く始末。

本土の戦果が元軍にとってほとんど無かったと
みられても仕方がない元側の史料の状況だ。
0253名無し三等兵垢版2018/05/06(日) 11:11:57.59ID:hkKcrh0j
>>252
>立場的に全軍の指揮を担っている洪茶丘の

その通り。「領舟師二万」は彼の形式的な「立場」、「地位」に過ぎない。
都元帥の忽敦が健全でいる限り、実際に舟師二万を領しているのは忽敦だ。
その場合の洪茶丘の責務は:
1)高麗人部隊を直率すること
2)軍議のメンバーとして意見を述べること
3)都元帥の忽敦も左副都元帥の劉復亨も死亡または重傷したときに全軍の指揮をとること
である。
3)の状況にはなっていないから実際は1),2)しかない。つまり実際には彼は舟師二万を領して
はいないのである。指揮しているのは高麗人部隊の数千だけ。

>洪茶丘の本土に おける戦果が今津のみであるなら、元軍全軍の戦果 とみなされても
>仕方がない。

個人史の記述を全軍に拡大するのは都合が良すぎる。

>高麗軍の戦果の記述をみても壱岐や倭兵大敗の ような取るに足らない小戦に紙面を

これも同じ。倭兵大敗は三郎浦という本土の戦場における高麗軍中軍の戦果である。
金方慶伝もまた個人史であることを忘れてはいけない。
0254名無し三等兵垢版2018/05/06(日) 23:17:01.10ID:rzIPlPS6
>>254
全軍2万を領す「立場」と「地位」なら
一部隊の話ではないじゃないか。
忽敦は都元帥いわば総司令官、洪茶丘は右都元帥で
福司令官、忽敦とともに全軍を指揮する立場。
そのことを元史の洪茶丘伝は述べているに
過ぎない。
都合の悪い史料は個人史で片付けようと
してもそうはいかない。

それに高麗史の金方慶伝は壱岐での
蒙漢軍の洪茶丘や弘安の役でも
蒙漢軍の動向に触れており、個人史
のみでは決してない。

また、仮に今津を占領したのが洪茶丘軍のみだったとした場合、その夜に忽敦・金方慶と同じ場所で同席しているということも致命的。

今津以東を忽敦らが占領していた場合、後方に後退し
今津で洪茶丘らと合流するのも不自然。

また、仮に今津にいた洪茶丘を忽敦が
今津以東に呼び出したとしたら
洪茶丘の進軍をあらわし、最終的に
進撃できた地名までを元史に記すはず。
結果は今津までだった。

元軍の進軍限界地点は今津までだった。
そう考えれば不自然なところは全くなくなる。
0255名無し三等兵垢版2018/05/07(月) 21:56:05.33ID:rGLESemz
>>254
「領舟師二万」の意味は置いといて、高麗人部隊を率いる洪茶丘が、忽敦らの本隊と分かれて
別行動(例えば今津上陸)が可能であったことを君が認めるなら、特に言うことはないよ。

>今津を占領したのが洪茶丘軍のみだったとした場合、その夜に忽敦・金方慶と同じ場所で同席
>しているということも致命的。

致命的でもなんでもない。19日夜に今津に上陸した洪茶丘軍が、翌20日朝から夕方までの間の
十余時間のうちに鳥飼潟周辺まで移動して、戦闘に参加したと考えればよい。金方慶から見れば、
それもまた「諸軍與戦」の一つだ。
あるいはまた、今津に上陸した部隊が洪茶丘軍の全部ではなく、その一部であったと考えてもよい。
今津制圧など、1000人もいれば十分だからね。
その場合、今津上陸軍の指揮官は洪茶丘の部下だということになるが、部下の功績は上官の功績だから、
洪茶丘伝に載ってもなんの問題もない。

>それに高麗史の金方慶伝は壱岐での蒙漢軍の洪茶丘や弘安の役でも蒙漢軍の動向に触れており、
>個人史のみでは決してない。

当たり前だ。私が言っているのは、個人史の中に全軍の戦闘記録を「必ず、かつ全て」書くことは
あり得ない、ということだ。
0256名無し三等兵垢版2018/05/09(水) 11:13:06.86ID:q8jEcGKy
追加
今津から鳥飼潟まで移動するのは、陸上移動したとすると、地形的になかなか大変だ。
十余時間という時間のうちでは十分可能だけどね。

ところで最近気が付いた。元軍は「舟師」というように水陸両用部隊なのだ。
バートルを使って百道浜まで海上移動したと考えればなんでもない。
0257名無し三等兵垢版2018/05/24(木) 22:47:53.16ID:4OLes7ab
>>244
知兵馬事の韋得儒は上官である左軍使の金侁が航海中に溺死した事で軍規違反に問われ、
金方慶を恨んだ。
つまり操船作業も高麗軍の軍務だったということだ。
高麗兵を水夫に使わなければ、そもそも韋得儒が金方慶を恨むこともなかった。

>>245
済州、東寧府、北界の能く水に習れた人は実際に文永の役に投入されてるだろ。
忠烈王六年記事によれば高麗は求められた梢工引海水手の定数である大船126艘分、
つまり、50人×126艘で6300人に満たない人数しか動員できなかった。
ところが女真軍を待つ段階で梢工引海水手は定数より多い6700人。
あきらかに高麗が動員してない梢工引海水手も含まれてるわけで、それが済州、東寧府、
北界で動員された分だな。
で、残り174艘の担当だった女真軍が到着しなかったことで高麗軍8000人も操船に従事し
大船300艘含む900艘の艦隊で遠征した。
これで諸史料に一切の矛盾なし。
完璧だろ。
0258名無し三等兵垢版2018/05/25(金) 00:12:54.91ID:VJuCq/9N
>>246
>博多湾への侵入なら、亥の刻(午後十時ごろ)と時間まで指定するのはおかしい。
>また「博多湾内」を示すのに、なぜ広く隔たった四つの地名で表すのか。

金綱集はモンゴル軍が博多湾から出て行った時間を「同廿一日卯尅」と書いてるんだから、
侵入の時間も書くだろ。
博多・箱ア・今津・佐原と博多湾内の代表的な地名を挙げてるのも明らかに「博多湾内」を
示してる。
そもそも時刻が書いてあるということは、その時に日本軍がその場所にいたということ。
つまり、上陸時刻と戦闘開始時刻は一緒だ。
金綱集によれば上陸時刻は「同廿日辰尅」。
0259名無し三等兵垢版2018/05/25(金) 00:23:16.15ID:VJuCq/9N
>>254
いや、その夜に忽敦・金方慶と同じ場所で同席しているということは致命的だよ。
金方慶も洪茶丘も忽敦と共に今津を破ったと書いてるからね。
そして元史や益斎乱藁が九州において今津の地名しか書いてない以上、金方慶や洪茶丘は
鳥飼潟周辺まで移動していない。
「諸軍與戦」が行われた場所は今津しかない。
0260名無し三等兵垢版2018/05/27(日) 00:00:14.01ID:fACUA6/0
>>259
金方慶や洪茶丘が鳥飼潟に参加していないなら、元軍の相当部分が参戦していないことになる。
つまり、全兵力の半分とか2/3とかの兵力で戦ったということになる。

その場合、戦闘継続すれば翌日には5割増しとか倍の兵力で戦える。
それでも、少敵の堅と言って元軍は即日撤退している。
これは、その程度では勝てないぐらいボロ負けするぐらいしか理由はない。
実際には、解というぐらいでそこまでの完敗ではなさそうだ。

つまり、初日に日本軍主力と戦った元軍を少なく見積もった場合には、
翌日に戦闘を継続できない理由がないと納得できない。
0261名無し三等兵垢版2018/05/29(火) 17:30:43.85ID:OZJ1+xSB
>>260
君は壱岐軍議くん改め今津軍議くんの説を誤解している。
今津軍議説の骨子はこうだ。

●戦闘は20日の一日だけだった。19日の上陸は無かった。
●20日に洪茶丘軍、金方慶軍を含む全軍が百道原に上陸した。
●同日の日本軍との戦闘で上記全軍が今津に退却した。
●同日夕刻、今津で軍議を行い、翌日午前6時に博多湾から退去した。
 (午前6時までに、ではない。きっかり午前6時に退去)
●今津における日本軍との戦闘の有無については両説を唱えており、
 いまのところどちらかは判然としない。

今津軍議くん、これでいいかな?
0262名無し三等兵垢版2018/05/30(水) 13:42:32.08ID:s7GaAnIj
>>97
ちょうど文藝春秋に服部氏の記事 > 服部氏の蒙古襲来借りてきた

 元寇の真実「神風」は吹かなかった 服部英雄
http://bunshun.jp/articles/-/7210
0263名無し三等兵垢版2018/05/30(水) 14:11:45.34ID:DxxsD8Mi
今津軍議くんと議論していちばん困るのは、言うことが一定しないで、コロコロ
変わることだ。

>>227
>高麗史金方慶伝に「舟を早良に捨てて道を分けて進んだ」と書いてあるんだから高麗軍の
上陸地点は早良だよ。

>>259
>そして元史や益斎乱藁が九州において今津の地名しか書いてない以上、金方慶や洪茶丘は
鳥飼潟周辺まで移動していない。

この二つですでに金方慶の上陸地点が食い違っている。
0264名無し三等兵垢版2018/05/30(水) 16:53:52.80ID:IM/8vA9B
>>260
金方慶や洪茶丘が率いていた2万人はあくまで「舟師」、つまり水軍だからね。
その内1万5000人は操船に必要で、日本軍主力にぶつけて大きな損害を受けた場合、
帰りの航海に支障をきたす。
元軍にとっての主戦力は忽敦と劉復亨に率いられた部隊で、それが日本軍に大敗すれば
挽回不可能を判断するのは当然。
忽敦・金方慶・洪茶丘の戦闘が解で終わったのは、そこが主戦場の鳥飼潟周辺から離れた
今津だったからだろ。
殿軍を務めた劉復亨が重症を負ってるのを見ても、戦闘が元軍の完敗だったのは確実。
0265名無し三等兵垢版2018/05/30(水) 17:24:22.53ID:IM/8vA9B
>>263
読み直したら>>259はアンカーミスだった。
>>254ではなく>>255が正しい。

自分の主張は一貫してるよ。
金方慶・洪茶丘が上陸したのは早良で、破ったのは今津。
自分で>>261にまとめてるじゃん。

日蓮とかいくつかの史料から19日に上陸前の元艦隊に松浦党が海戦仕掛けた可能性も
あると考えてるけど、現時点ではまだ立証するには十分じゃない。
0266名無し三等兵垢版2018/05/30(水) 22:08:28.31ID:DxxsD8Mi
>>264
>金方慶や洪茶丘が率いていた2万人はあくまで「舟師」、つまり水軍だからね。

「舟師」とか「水軍」とか言うのは「舟に乗った軍隊」、つまり渡海遠征軍のことだ。
その証拠に、洪茶丘伝の第二次東征記事は次のようになっている。

(至元)十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,
由慶元、定海等處渡海,期至日本一岐、平戶等島合兵登岸。兵未交,秋八月,風壞舟而還。

「右丞欣都と與(とも)に舟師四萬を将す」だから東路軍ぜんたいが舟師であることが分かる。
したがって第一次東征の蒙漢軍もまた「舟師」だ。
0267名無し三等兵垢版2018/05/31(木) 09:06:32.51ID:Iy6NkeO6
アンゴルモア元寇合戦記

ゴーストオブ対馬

スレ民なら注目してるよな?(´・ω・`)
0268名無し三等兵垢版2018/05/31(木) 09:06:54.42ID:Iy6NkeO6
北からの蒙古襲来も有名になってくれ
0269名無し三等兵垢版2018/05/31(木) 09:38:44.86ID:Gh5ua7p9
266の続き:
もうひとつ。洪茶丘伝のなかの、第一次と第二次東征の軍勢を較べて見よう。

第一次:與都元帥忽敦等領舟師二萬
第二次:與右丞欣都將舟師四萬

二つの文章の構文は全く同じ。したがって、第二次東征の四万が定説通りに東路軍の
全兵力であるのならば、第一次東征の二万もまた全兵力である。

また、第一次東征の四万は高麗軍一万を含むことは知られている。そうであれば、
第一次東征の二万もまた高麗軍五千三百を含む数字である。
0270名無し三等兵垢版2018/06/01(金) 04:22:53.36ID:Ku46LxGp
>>266
「舟師」が渡海遠征軍という意味なら範文虎率いる江南軍も「舟師」のはずだろ。
洪茶丘伝の第二次東征記事では渡海遠征軍でも東路軍の「舟師」と江南軍の「兵」が
使い分けられていて、逆に「舟師」が渡海遠征軍のことじゃない証拠になってる。
0271名無し三等兵垢版2018/06/01(金) 05:31:12.97ID:WdoFyIXV
江南軍は南宋の降兵だから正規軍とは扱いが違って当然だろ。
0272名無し三等兵垢版2018/06/01(金) 10:37:42.46ID:GcRD+r5b
元寇で好きなフレーズ

凡自天照皇大神耀天統
0273名無し三等兵垢版2018/06/01(金) 10:53:07.66ID:hG3wT4lm
>>270
>洪茶丘伝の第二次東征記事では渡海遠征軍でも東路軍の「舟師」と江南軍の「兵」が
 使い分けられていて

なるほど、東路軍四万のぜんたいを「舟師」と呼んでいることは認めるわけだな。
それならば第一次東征の舟師二万も、それが東征軍の全兵力だということになるではないか。
同じ伝のなかの同じ構文で、東路軍四万に対応しているのだから。
0274名無し三等兵垢版2018/06/01(金) 11:04:49.40ID:m2vFk6G7






0276名無し三等兵垢版2018/06/01(金) 11:22:30.74ID:odBgZXNX
筥崎宮もいいが
県庁横の東公園も行ってみ
上皇像と日蓮像は圧巻!特に日蓮像!!デカい
0277名無し三等兵垢版2018/06/01(金) 11:26:01.92ID:GcRD+r5b
ハリウッドクラスの元寇映画を見てえ!!
0278名無し三等兵垢版2018/06/01(金) 11:59:44.78ID:ytClXKak
日中韓蒙の合作でな!w
米仏も当然出資!
0279名無し三等兵垢版2018/06/04(月) 21:45:02.97ID:N8MMAXXo
壱岐軍議くん改め今津軍議くんが「舟師」にこだわるわけがわかった。

ブログから引用:
「恐らく高麗軍は征東右副都元帥・洪茶丘の指揮下「舟師」に編成されて今津方面へ侵攻し、
残りの主力部隊が征東左副都元帥・劉復亨に率いられて百路原赤坂方面へ侵攻したのでしょう。」

金方慶軍と洪茶丘軍は「舟師」という特別な部隊であり、その他に劉復亨ひきいる「主力部隊」が
いたというのだ。
これだと第一次東征軍の兵力は、舟師二万プラス主力部隊で合計数万人だったということになる。

しかしこの説は洪茶丘伝の第二次東征記事に見える「舟師四万」という文字で崩れる。
第二次東征の東路軍は第一次と同じような構成で、その兵力は約四万だったことは定説だ。
「舟師四万」の文字は、「舟師」が特別の部隊ではなく、単に「舟に乗った軍隊」の意味
であることを示している。

ブログの書き直しが必要だな。
0280名無し三等兵垢版2018/06/06(水) 00:03:12.31ID:s9mzIin4
>>273>>279
文永の役の「舟師二万」が遠征軍の総数じゃないことは史料により確定してる。

元史 卷一百五十二 列傳第三十九 劉復亨
「十年,遷征東左副都元帥,統軍四萬、戰船九百,征日本」

高麗史 巻二十八 世家二十八 忠烈王一
「與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本」

高麗史の蒙漢軍、高麗軍、梢工引海水手の合計は3万9700人で約4万人。
元側史料、高麗史料とも文永の役の遠征軍の総数が4万人だったことで一致してる。
だからこれが実数。
その4万人の内の2万人が「舟師」だ。
0281名無し三等兵垢版2018/06/06(水) 13:50:51.03ID:ASNiQjEp
>>280
では聞くが、第二次東征・東路軍の「舟師四万」は何を意味するのか?
この場合も舟師四万の他に「主力部隊」がいたのか?
0282名無し三等兵垢版2018/06/07(木) 21:51:17.23ID:NWUtOhn9
「主力第二次東征・東路軍の「舟師四万」は何を意味するのか?」
壱岐軍議くん改め今津軍議君はこの質問に答えない。

それならこちらから教えてあげよう。
高麗史世家・忠烈王六年八月記事によると、この月、忠烈王は洪茶丘らとともにフビライに拝謁した。
このとき洪茶丘がフビライに奏上した言葉を、高麗史は次のように記録している。
「茶丘・忻都は蒙・麗・漢四万の軍を率いて合浦を発し、范文虎は蛮軍十万を率いて江南を発し、倶に
日本の一岐島に会し、両軍集まり畢(おわ)りて直ちに日本に抵(あた)らば、之を破ること必せり」

わかるかな? 第二次東征の蒙古軍、漢軍、高麗軍の合計が四万なのだ。
一方、元史・洪茶丘伝は次のように述べる。
「十八年,(茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元、
定海等處渡海,期至日本一岐、平戶等島合兵登岸。兵未交,秋八月,風壞舟而還。」
この文章の内容・すじがきは上記、忠烈王世家の文章とぴったり同じだ。
そうであれば「舟師四万」=「蒙・麗・漢四万」=東路軍の全兵力、ということになる。

舟師はなにも、壱岐軍議くん改め今津軍議くんが考えるような、特別編成の軍隊ではない。
普通の軍隊が、たまたま船に乗って出かけるのが「舟師」なのだ。

そうであれば元史・洪茶丘伝の「舟師二万」の舟師もまた「舟に乗った軍隊」であり、
二万は第一次東征軍の全兵力、ということになる。
同じ洪茶丘伝で二、三行離れた二つの「舟師」が、異なる意味であるはずがないからね。
0283名無し三等兵垢版2018/06/08(金) 13:46:44.60ID:K4s+lGWE
>>282
訂正;
誤「主力第二次東征・東路軍の・・」
正「第二次東征・東路軍の・・」
0284名無し三等兵垢版2018/06/13(水) 02:09:39.49ID:5lbekqLe
>>281
>では聞くが、第二次東征・東路軍の「舟師四万」は何を意味するのか?
>この場合も舟師四万の他に「主力部隊」がいたのか?

「主力部隊」は範文虎率いる江南軍10万人だろ。

元史・洪茶丘伝
「十八年,(茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元」

東路軍4万は「舟師」、江南軍10万は「兵」で明確に役割が区別されてるじゃん。
文永の役では遠征軍4万が洪茶丘の水軍2万と忽敦劉復亨の主力軍2万で編成されてたのに対し、
弘安の役では東路軍4万全体を水軍に特化させ、主力軍はそれとは別に大幅な兵力増強の上で
慶元から10万人を出発させることになったということ。
0286名無し三等兵垢版2018/06/13(水) 06:53:35.94ID:5lbekqLe
>>282
忠烈王六年八月記事にある洪茶丘が奏上した言葉は結局実現しなかった。
忠烈王七年三月記事によれば、高麗へ派遣されたのは蒙古漢人からなる軍3万人ではなく
「帰附せる1万5千」だからね。
一方、高麗は忠烈王六年十一月に「梢工水手1万5千、正軍1万」の動員を報告。
梢工水手の人数は遠征時には1万7千29人に増えてるから「帰附せる1万5千」の内、
2000人は梢工水手だったということ。
つまり高麗軍(軍1万、水夫1万5千)と帰附軍(軍1万3千、水夫2千)の合計4万が「舟師」。
東路軍は陸戦の戦闘力を犠牲にして水軍として海戦能力を大幅に増強させた編成だ。
「舟師四万」≠「蒙・麗・漢四万」なのね。
0288名無し三等兵垢版2018/06/13(水) 14:19:39.41ID:k0R2H5t8
中世の軍隊を近代的な分業で考えるからおかしくなる
0289名無し三等兵垢版2018/06/13(水) 22:25:36.55ID:a18otus/
>>284
>東路軍4万は「舟師」、江南軍10万は「兵」で明確に役割が区別されてるじゃん。

舟師はあくまで特殊部隊だと言いたいらしいが、残念ながら漢字の本場、中国人の
語感はそれとは違うようだ。
明史・日本伝は次のように述べている。

乃命忻都、範文虎等帥舟師十萬征之,至五龍山遭暴風,軍盡沒。
乃(すなは)ち忻都、範文虎等に命じて舟師十万を師して之を征せしむ。五龍山に
至りて暴風に遭い、軍盡く没す。

総兵力十四万を十万と間違えているが、忻都の東路軍も、範文虎の江南軍も、いずれも
「舟師」と見なしていることは明らかだな。
0290名無し三等兵垢版2018/06/13(水) 22:32:53.48ID:a18otus/
>>289
これに対する、壱岐軍議くん改め今津軍議くんの反論はもうわかった。

東路軍四万と、江南軍のうち範文虎軍六万、合わせて十万が「舟師」、江南軍の残り四万
が「本隊」だ!

違うか?
0291名無し三等兵垢版2018/06/14(木) 07:15:56.29ID:wntdI5bk
>>289
史料は後から編纂されるほど改編されて間違った内容になる。
その典型だな。

>>290
いや、東路軍四万が「舟師」、江南軍10万が「軍」だから全て「本体」だ。
元史にそう書いてある。

元史・洪茶丘伝
「十八年,(茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元」
0292名無し三等兵垢版2018/06/14(木) 07:59:28.80ID:wntdI5bk
東路軍の編成について根本的な間違いは抜都魯輕疾舟300艘を揚陸艇としてること。
だから汲水小舟300艘の意味がわからない。
外洋航海用の大船は陸地で真水を調達する必要があるが、接岸できる地形が限られるため
上陸して水を汲むための小舟が必要。
つまり汲水小舟とはもともと上陸用の船なわけで、上陸作戦も当然汲水小舟で行う。

では抜都魯輕疾舟は何かというと、「勇者」という意味なんだから水上戦闘艦だ。
高麗の水上戦闘艦については、日本の史料「内蔵石女等申文」に詳しい記述がある。
刀伊の入寇で女真に拉致され、高麗水軍に救出された女の報告ね。
それによると二重構造で櫓や櫂を使って操船し、投石器を備えていたという。

実はその高麗の水上戦闘艦の特徴に合致する船が蒙古襲来絵詞に描かれてるという指摘が
以前よりあった。
クビライは元寇に高麗水軍を投入したということだ。
当然そのための人員が要る。
抜都魯輕疾舟300艘で水上戦闘を主目的とした部隊が「舟師」なんだよ。
0293名無し三等兵垢版2018/06/15(金) 10:43:27.25ID:hA/4jOCP
>>291
>史料は後から編纂されるほど改編されて間違った内容になる。 その典型だな。

なるほど。明史が江南軍を舟師と呼んだのは「間違い」というわけだな?
それでは同時代の舟師を示そう。
元は弘安の役の十年後の至元二十八年に琉球に対して国書を送った。その国書の
末尾に次の文章がある。
「若不效順、自恃險阻、舟師奄及、恐貽後悔、爾其慎擇之」
「若し順を効(いた)さず、自ら険阻を恃むならば、舟師奄(おお)いて及び、後悔を
貽(のこ)すことを恐る。爾其れ慎みて之を撰べ」

属国の務めを果たさず、海を隔てているから安心と思っているならば、舟師が海を覆って
やって来て後悔するぞ、身の程をわきまえてどちらかを選べ、というのだ。
どこかで聞いたような文句だが、このなかの「舟師」は何を意味するのか?

>つまり汲水小舟とはもともと上陸用の船なわけで、上陸作戦も当然汲水小舟で行う。
>抜都魯輕疾舟300艘で水上戦闘を主目的とした部隊が「舟師」なんだよ。

確認するが、舟師は抜都魯輕疾舟で渡海して、汲水小舟で上陸するのか?
0294名無し三等兵垢版2018/06/15(金) 15:35:31.66ID:S9UgSYqZ
>>293
琉球じゃなく瑠求ね。
沖縄じゃなく台湾。
目と鼻の先だから沿岸水軍がそのまま小舟で侵攻できる。
弘安の役の江南軍とは全く別物。

>確認するが、舟師は抜都魯輕疾舟で渡海して、汲水小舟で上陸するのか?

抜都魯輕疾舟は帆走能力がないから、そのまま日本まで渡海することができない。
千料舟に繋いで曳航したと考えられてる。
0295名無し三等兵垢版2018/06/15(金) 21:18:38.21ID:hA/4jOCP
>>294
>琉球じゃなく瑠求ね。 沖縄じゃなく台湾。

瑠求が沖縄か台湾かは両説ある。

>目と鼻の先だから沿岸水軍がそのまま小舟で侵攻できる。

また小舟か。フビライにすれば「小舟で押し寄せるぞ」では恫喝にならないではないか。
また国書を受け取った瑠求王は、古典しか知らず、もちろん今津軍議君のブログも読んだこと
ないのに、なんで「舟師=小舟」と解釈できたのか?

その古典を見れば、舟師はむかしから普通に使われている言葉だ。
例えば三国志に名高い赤壁の戦いを、後漢書は次のように述べている。
「曹操以舟師伐孫權,權將周瑜敗之於烏林、赤壁.」
「曹操、舟師を以て孫権を伐つも、(孫)権の将・周瑜、烏林、赤壁に於いて之を敗る」

数十万と言われる曹操の軍は小舟に乗って赤壁に押し寄せたのか?
また君によれば舟師は補助部隊であって本隊は別にいるらしいから、曹操軍よりもっと大きな
本隊が別にいたのか?
0296名無し三等兵垢版2018/06/16(土) 10:19:43.72ID:FrFkSPnN
>>294
古典の舟師はまだまだあるぞ。兵典から:
「武コ中,李靖隨河濶、孝恭討輔公祏。賊一軍舟師三萬頓於當塗,柵斷江口,傍江築城,
又遣陸軍二萬據當塗南路,亦造柵自固,並蓄力養鋭,」

武徳年代に、李靖は河濶、孝恭に随って輔公祏を討った。賊の一軍の舟師三万は當塗に
頓(とど)まり、柵で江口を絶ち、江岸に築城した。また他に陸軍二万を派遣して當塗南路
に據り、これ亦柵を造って自らを固め、同様に力を蓄え、鋭を養った.

「舟師」と「陸軍」が対語として用いられている。いずれも目的地に着いたら築城して立て
籠もった。舟師と言い、陸軍と言えども最終的にやることは同じで、違いは舟で行くか、歩いて
行くかと言う移動手段の差に過ぎない。

「舟師」とは舟に乗った軍隊の事であり、普通の軍隊がたまたま舟で移動するものだ、と私が言う
所以である。以前に「渡海遠征軍」と書いたが、大河なども含むから「水上遠征軍」と言った方が
よい。もちろん江南軍も舟師だ。この語を用いず「兵」と書いたのは一文の中で重複を避けた
からだ。だから分かるようにわざわざ「渡海」の語を添えている。

付け加えれば上記の例で、舟師三万と陸軍二万だから、数から言えば舟師のほうが主力だ。
舟師が補助部隊とは限らないことがわかるだろう。
0297名無し三等兵垢版2018/06/16(土) 10:31:54.07ID:FrFkSPnN
>>296
祏は[示石」
0298名無し三等兵垢版2018/06/16(土) 17:02:42.15ID:FrFkSPnN
壱岐軍議君改め今津軍議君が「舟師は小舟で水上戦闘」に粘着しているのは、
ひょっとして「舟=小舟」「船=大船」と思っているからではないか?

新漢語林を見れば「舟も船も同じ。昔、中国では函谷関以西では舟、函谷関以東では
船と言った」とある。つまり古典の時代は舟と船は方言の差に過ぎなかったのだ。

もちろん後世には「舟=小舟、船=大船」という慣用が生じた。高麗史、元史などの
「抜都魯輕疾舟、大船」という用語もこのような慣用を写している。
しかし「舟師」という言葉は古典から来ているから、上記の慣用に囚われないのだ。
だから舟師は「大船に乗った軍隊」でも良いのである。
0299名無し三等兵垢版2018/06/20(水) 09:57:30.06ID:sUhgay1E
>>295
>また小舟か。フビライにすれば「小舟で押し寄せるぞ」では恫喝にならないではないか。

元史瑠求伝
「祥乗小舟至低山下,以其人衆,不親上,令軍官劉閏等二百餘人以小舟十一艘,載軍器,領三嶼人陳W者登岸」

瑠求へは小舟に乗って攻め込んだと元史に明記してあるじゃん。
クビライが「舟師が押し寄せるぞ」と恫喝し、その結果小舟による侵攻が行われたんだから
「舟師=小舟」であることは史料によって証明されてる。

>また君によれば舟師は補助部隊であって本隊は別にいるらしいから、曹操軍よりもっと大きな
本隊が別にいたのか?

舟師が補助部隊なんて書いてないぞ。
一貫して舟師は水上戦闘を主目的とした水軍だと書いてる。

>>298
>だから舟師は「大船に乗った軍隊」でも良いのである。

良くない。
舟師とは水上戦闘艦に乗った水軍のことであって、単に「大船に乗った軍隊」は「兵」。
元史は舟師とそれ以外を明確に区別してる。

元史・洪茶丘伝
「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元」

水軍である東路軍は「舟師四萬」、「大船に乗った軍隊」である江南軍は「兵十萬」だ。
0300名無し三等兵垢版2018/06/20(水) 17:09:33.92ID:umSBOe2j
>>299
>水軍である東路軍は「舟師四萬」、「大船に乗った軍隊」である江南軍は「兵十萬」だ。
>元史は舟師とそれ以外を明確に区別してる。

では「元史張禧伝」はどうするのか?
「時朝廷議徵日本,(張)禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師,
泛海東征。至日本,禧即舍舟,築壘平湖島,約束戰艦,各相去五十步止泊,以避風濤觸擊。」

張禧・・右丞範文虎、左丞李庭同と與に舟師を率い、海に泛びて東征す。

元史は江南軍を舟師と呼んでいるではないか。
0301名無し三等兵垢版2018/06/20(水) 17:18:14.59ID:umSBOe2j
>>300
徵は「徵」の字ね。
辞書にないが「懲」の異字だろう、
0302名無し三等兵垢版2018/06/20(水) 21:53:16.27ID:umSBOe2j
>>300
ごめん、
徵は[懲ー心]の字ね。
ついでに、
擊は「撃」の異字だ。
0304名無し三等兵垢版2018/06/21(木) 23:38:07.61ID:ICCzw5RX
武家はみんな農民から発生だしなあ
0305名無し三等兵垢版2018/06/26(火) 12:16:24.22ID:Hx+HR310
軍事貴族説知らない方を発見した
0306名無し三等兵垢版2018/06/26(火) 14:48:24.12ID:TkvLrnHo
貴族も農民なんだぜそれがトップに上り詰めた
その過程で上り切れなかったのが武士
ただ武力強しお公家さんなんて無力だったw

無知って素敵 特にコメが来てから顕著に!
0307名無し三等兵垢版2018/06/26(火) 17:52:22.28ID:zxh1baeJ
>>306
えっ
貴族の先祖は臣籍降下した皇族だったり昔の貴族だったりだけど……
0309名無し三等兵垢版2018/06/26(火) 20:09:55.64ID:/I/IatDW
皇別氏族や神別氏族は有名やと思うんやがなあ
0310名無し三等兵垢版2018/06/26(火) 21:10:38.06ID:cO/WHph1
それも九州勢の子孫だしなw
0312名無し三等兵垢版2018/06/28(木) 08:19:55.34ID:tCLgr9Sq
農民からいきなり貴族とか無理だぜ
農民から徐々に財を成しだし

渡来系は別ねその渡来系も農民だしなw
0313名無し三等兵垢版2018/06/28(木) 10:10:07.43ID:5Img2A0D
>>300
四年、改水軍総管、益其軍二千五百、令習水戦。
十年、帝遣使錄諸将功、授宣武將軍、水軍萬戸、佩金虎符、丞相伯顔因命禧為水軍先鋒。
十四年、加懷遠大将軍、江陰路達魯花赤、水軍萬戸。

張禧のキャリアはまさに生粋の水軍将軍だな。
率いた兵も水戦の訓練を受けていて、ただ軍を船に乗せただけではない。
「舟師」とは水上戦闘を主目的とした水軍だと完璧に裏付けてる。

「兵十萬」を率いた範文虎は五龍山で台風に遭い、士卒十餘萬を棄てて帰還。
一方、「舟師」を率いた張禧は平湖島で台風に遭い、兵四千を連れて帰還。
やはり範文虎の「兵十萬」と張禧の「舟師」は明確に別物として区別されてるし。
0314名無し三等兵垢版2018/06/29(金) 13:15:47.00ID:WrtwRbu1
>>306
具体的にどの家?
トップに上り詰めたような家ってまさか藤原?
藤原は中臣がルーツで古代からの家なんだけど
0315名無し三等兵垢版2018/06/29(金) 13:17:33.67ID:WrtwRbu1
>>306
てか平安中期だと貴族が入寇と戦ってたりするよ
元寇ほどの規模ではないけど
0316名無し三等兵垢版2018/06/29(金) 23:12:22.89ID:MtJQG3WV
>>313
>一方、「舟師」を率いた張禧は平湖島で台風に遭い、兵四千を連れて帰還。
>やはり範文虎の「兵十萬」と張禧の「舟師」は明確に別物として区別されてるし。

なるほど、君は元史張禧伝の次の文章:

(張禧)與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師、泛海東征、至日本・・

は、張禧が範文虎らと「與に」すなわち共同で率いた江南軍十万のうち、
張禧の部隊四千だけが「舟師」だったことを表している、というのだな。

しかしそれはおかしいではないか。君は元史洪茶丘伝の次の文章;

(洪茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進、・・

については、

>水軍である東路軍は「舟師四萬」、「大船に乗った軍隊」である江南軍は「兵十萬」だ。

と言っていて、東路軍四万はその全軍が舟師であったと言っている。
全く同じ、『主人公「與」総司令官「将or率」舟師』という構文において、
なぜ一方は全軍が舟師、一方は全軍のうち一部が舟師、と解釈されるのか?
0317名無し三等兵垢版2018/07/01(日) 11:26:46.64ID:GCMQxU//
>>299
>クビライが「舟師が押し寄せるぞ」と恫喝し、その結果小舟による侵攻が行われたんだから
「舟師=小舟」であることは史料によって証明されてる。

なるほど、舟師=小舟なんだからフビライは「小舟が押し寄せるぞ」と恫喝したわけだな。

しかし「善隣国宝記」によれば、至元二十年(弘安六年)に日本に対して出された、未着の
国書があり、そのなかでクビライは次のように書いている。
「頃因信使執而不返、我是以有舟師進問之役」
「さき頃は信使を執って返さないことに因り、我は舟師を以て之を進問(咎め)させた。」

これは弘安の役のことを全体的に述べていることは明らかだが、この「舟師」も「小舟」か?
0318名無し三等兵垢版2018/07/01(日) 12:07:55.09ID:IajSa+9Z
舟師にふた通りの意味があるとかでないの?
 船に乗った軍隊
 水上戦闘をする部隊
とか。

ただ、バートルって10人乗りぐらいの船らしいよね。
300隻で3000人ぐらい。20人乗りでも6000人ぐらい。
万単位の兵員数の舟師だと、船に乗った軍隊の意味になるんじゃないかな。
0319名無し三等兵垢版2018/07/01(日) 13:01:52.61ID:naKTWXVN
>>316
>なぜ一方は全軍が舟師、一方は全軍のうち一部が舟師、と解釈されるのか?

解釈も何もないだろ。
洪茶丘伝に書いてあるままを指摘してるだけ。

「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元」

洪茶丘が率いていたのは「舟師四萬」で範文虎が率いていたのは「兵十萬」。
で、範文虎が率いていたのは「兵十萬」は日本に捨てられた。
それは元史日本伝に書いてある。

「五日,文虎等諸將各自擇堅好船乘之,棄士卒十餘萬于山下」

「舟師」を率いて日本へ遠征し、兵四千を連れて帰還した張禧については洪茶丘伝に
何も書かれていない。
洪茶丘伝の記述は弘安の役の全てを網羅する性質のものじゃないからね。

>>317
クビライは範文虎から「諸將未見敵,喪全師以還」と報告されてるからな。
外交上、問題になるのは2ヶ月近く日本軍と実際に交戦した東路軍を中心とする
「舟師」だけじゃん。
0321名無し三等兵垢版2018/07/02(月) 22:55:10.82ID:n6Hb3XWj
それ後付けなんで
とんでも日本史 が流行る軍板w
0322名無し三等兵垢版2018/07/02(月) 23:01:35.86ID:iRxPrIbF
>>319
>「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,」
>洪茶丘が率いていたのは「舟師四萬」

総司令官を無視しては困るな。
総司令官である右丞・欣都は何を将(ひき)いたのか?
0323名無し三等兵垢版2018/07/04(水) 10:44:24.24ID:pIMvrTEp
>>320
武士の起源は農民というのは人間の起源は微生物というてんのと変わらない
0324名無し三等兵垢版2018/07/04(水) 14:20:41.04ID:5M2UgG5l
生まれながらの武士w
0325名無し三等兵垢版2018/07/04(水) 18:04:50.36ID:y/V69TFH
おまいらにずっと質問したかったんだが

北条時宗ってやっぱり右派は無条件礼賛、左派は極悪人扱いなの?
そこのところ是非聞きたい
0326名無し三等兵垢版2018/07/04(水) 18:45:57.04ID:7GGNOTfd
時宗についてはそういう認識だと思うが何で?
0327名無し三等兵垢版2018/07/04(水) 21:46:16.35ID:5mnT6ZRi
時宗といえば八王子のケミカル和尚w
それと箱根駅伝の本山横

つかトンデモ系だが面白いサイトを見付けた!
やっぱ日本人は選ばれたミンジョクなんだよなあw
自分の浅くて広い知識を更に掘り下げてくれている!!
0328名無し三等兵垢版2018/07/05(木) 12:12:38.89ID:Smf0kO8i
>>326
いやさ、正直な所 時宗公 ってそこまで目くじら立てるような存在なのかな? と思うわけよ
彼の態度はまさしく立派だったと自称愛国者である俺も思うけど、その内実ってかなり酷いでしょ
とても「正一位」を追贈されるような人間だったのかな? と思うわけよ

『太平記』を読むと、大塔宮様 や 大楠公 が挙兵した時、彼等を滅ぼすためにかなりの軍勢が集まった
それは何故か? と言えば、高時 が脅威に感じたからだ

ところが元寇についてはどう? 時宗公 は明らかに事態を過小評価していたとしか思えない応対ですよね?
文永の時なんかはほぼほったらかし、偉大な 少弐資能公 や 竹崎季長公 がほぼ独力で国家を守護してる
日本国内でも日頃「大元」と大をつけて置きながら、後醍醐天皇様 の乱の時の本気度の欠片も感じられない

そして弘安の時には慌てて鎭西大将軍という身内を送ったけど、それでもやたらとハッパをかけるだけの
ブラック体質だった事は概略を読んでいるだけでも理解できる
つまり初期対応の失敗、国家の為に戦っている者への労わりの無さ、それがちらほら見られる
どう考えても、右派が礼賛し、左派が憎むようなスゴイ人物とは言えないでしょ
0329名無し三等兵垢版2018/07/05(木) 12:19:25.00ID:Smf0kO8i
>>328です

それと>>299さん? IDが一定になっているわけでないから、直近で>>299さん にしておきますね

別に

>>301さん こと、「壱岐軍議君改め今津軍議君と論議をしている人」に味方をする気はないんだけど
横レスは失礼と思いますが一つよろしいですかね?

私はある意味>>289の『明史』日本伝を取り上げた事に対するあなたの意見には賛成します
やはり一級資料とはいえ『明史』は乾隆四年完成のものですから

ですがその他のあなたの議論について疑問に思ったので是非お聞きしたいのですが、あなたは>>316の反論については
「解釈も何もないだろ。」と具体的に反論をせず、「俺は洪茶丘伝の記述を指摘しているだけ」と仰ってますが、これに
ついての具体的な考えという物はないのでしょうか?

それと「舟」と「師」の意味というのをどの様にお考えなのでしょうか? まさか「師」というのは小さいという意味だ
なんて事は言わないですよね? (続く)
0330名無し三等兵垢版2018/07/05(木) 12:23:58.96ID:Smf0kO8i
(続き)
それから>>301さんにもほぼ同じ内容の見解をお聞きしたい。あなたの結論としては「舟師に意味なんて無い。海軍というだけだ」
って事ですよね? であるなら、わざわざ「舟師」と「兵卒」と分けてる事についてどの様にお考えになっておられるの
でしょうか? 確かに『正史』と言っても完璧ではありません。とくに『元史』は正史上最も劣悪で最低な部類に入る
と言われていますが、それでもたまたま気分で分けたという事なんでしょうか?

それとこの質問は>>299>>301お二人にしたいのですが、『宋史』太祖本紀の一文「冬十月壬辰,曹彬等將舟師、歩騎發江陵,水陸並進。
丁酉,命呉越王錢俶為昇州東南行營招撫制置使。」を読んでどの様な印象をお持ちになるでしょうか? それと
江南軍の
范文虎は賈似道の娘婿で姦臣伝の中の一部にしか出ていない人材、李庭は明らかに監軍的な立場だと思われること、旧南宋軍人
が江南軍の主力という事実と東路軍に明確な違いがあるが、その事実が記述に及ぼす影響についてどの様にお考えでしょうか?

>>318
その事実は当たらずと言えど遠からず、中々鋭い指摘であると私は思います。正史ではないですが、例えば『籌海図編』では
「倭人至福建、乃福人買舟、至海外貼造重底・・・・・舟師皆犯重罪之人也」という記述があります。ですからそんなに的外れ
な意見ではありませんね。
0331名無し三等兵垢版2018/07/05(木) 22:43:36.16ID:0o+Dpxf+
>>330
>あなたの結論としては「舟師に意味なんて無い。海軍というだけだ」って事ですよね?

私がそんなことを言いましたか?
私は「舟師」とは「舟に乗った軍隊」の意味であり、元寇に関して言えば「渡海遠征軍」のことである、
ち言っています。
河も含めて「水上遠征軍」と言えば、史書に出て来る全ての「舟師」に当てはまります。

>であるなら、わざわざ「舟師」と「兵卒」と分けてる事についてどの様にお考えになっておられるの
でしょうか?

洪茶丘伝のことなら「兵卒」ではなく「兵」ですね。江南軍については舟師でなく兵と書いたのは、
漢文の常道として、一つの文章の中での「舟師」の重複を避けただけです。
その証拠に、張禧伝は江南軍のことを「舟師」と呼んでいます。

(張禧)與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師、泛海東征、至日本・・

張禧が江南軍総司令官の範文虎と與(とも)に率いる「舟師」とは、即ち江南軍のことに
他なりません。
0332名無し三等兵垢版2018/07/06(金) 04:25:06.34ID:LlvOUwdD
>>325
極悪人扱いってなんで?
>>328のように元寇への対応について批判は結構見るけど、
普通そういうのは極悪人とは言わないし

まさか元寇を撃退したのが極悪人ってこと?
攻めてきたのあっちなのに?
0334名無し三等兵垢版2018/07/06(金) 11:38:58.48ID:Mn5ryFKN
>>325
モンゴルを平和的とか言ってて時宗を悪人扱いしているレスは
たまに見るけど根拠は分からない
まず国書送ってきたからかなあ?
0335名無し三等兵垢版2018/07/06(金) 14:39:34.38ID:4QusDq2b
時宗は真宗以上に
被差別者を擁護しているからかと
0336名無し三等兵垢版2018/07/07(土) 14:01:18.38ID:YtZLTCMI
>>335
よくわからんけど、被差別者擁護すると悪人扱いされんの?
0337名無し三等兵垢版2018/07/07(土) 15:30:40.14ID:tWxLVjk2
他宗教では差別されたしなあ
0338名無し三等兵垢版2018/07/08(日) 22:30:49.76ID:Hs5Dkous
>>331
>であるなら、わざわざ「舟師」と「兵卒」と分けてる事についてどの様にお考えに

追加。
頼山陽の「日本外史」に次の文章があるそうです。
「元主、我が再び使者を誅するを聞き、則ち憤恚して、大に舟師を発し、漢・胡・韓の兵凡そ十余万人を
合して、范文虎を以てこれに将とし、入寇せしむ」

頼山陽の漢学センスからすれば、東路軍と江南軍を併せた弘安の役の元軍は、ひっくるめて「舟師」と
見なされることがわかります。
この場合の「舟師」の、最も適当な訳語は「渡海遠征軍」でしょう。
0339名無し三等兵垢版2018/07/08(日) 22:58:31.20ID:Hs5Dkous
>>330
>例えば『籌海図編』では
>「倭人至福建、乃福人買舟、至海外貼造重底・・・・・舟師皆犯重罪之人也」という記述があります。

百度百科かなにか(https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9F%E5%B8%88)に次のような
記述があります。
「中国自宋代称掌握海上船只航行的管理、技術人員為舟師。」
中国の宋代より、海上の船隻の航行を掌握する管理・技術人員を舟師と称する。

この場合の舟師は明らかに「船員」の意味です。
「倭人が来たら福建人が倭船を買って、二重底に改造し・・舟師はみな重罪犯人である」
という『籌海図編』の文章の舟師も船員の意味でしょう。

「師」の意味は軍隊、教師、技術者と分れており、「軍隊」の意味から「水上遠征軍」の意味の
舟師が、「技術者」の意味から「船員」の意味の舟師が生じます。
0340名無し三等兵垢版2018/07/10(火) 10:48:24.24ID:Bp7c99Y+
>>322
欣都が将(ひき)いたのは洪茶丘と同じ「舟師四萬」だよ。
0341名無し三等兵垢版2018/07/10(火) 11:28:27.77ID:0+r4oquU
>>340
なるほど、
>欣都が将(ひき)いたのは洪茶丘と同じ「舟師四萬」
なのだね。

それならば張禧伝:
「(張)禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師, 泛海東征。」
「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝し、右丞範文虎、左丞李庭同と與に舟師を率い、
海に泛(うか)びて東征す。」

の場合も、範文虎、李庭同が率いたのは張禧と同じ「舟師」でOKね。
なおこの場合、江南軍総司令官の範文虎が率いたのだから「舟師十万」ということでOKね。
0342名無し三等兵垢版2018/07/10(火) 11:30:14.32ID:Bp7c99Y+
>>329 >>330 >>339
「舟師」は熟語で意味は辞書をひけば簡単に見つかる。

1、舟で戦う軍隊。水軍。
2、船頭。

この時点で「舟師」が「水上遠征軍」の意味なんてのは完全な間違いなんだよ。

『宋史』太祖本紀の一文にある「舟師」も典型的な水軍だろ。
「舟師」は敵の水軍と舟で戦って制水権を獲得するために乗船してるんであって、
普通の軍隊がたまたま舟で移動するものなんかじゃないの。
だから「舟師」には舟で戦うため水戦の技術が必要。
弘安の役で「舟師」を率いた張禧も至元四年に「令習水戦」って水戦の訓練してる。

渡海遠征になると「水上遠征軍」と「舟師」の違いは、より明確になる。
何より船が違う。
「水上遠征軍」のための船は積載量が必要なため大型の帆船となる。
ところが、水戦において風頼みでは話にならないから「舟師」は櫓こぎの船が主力。
「舟師」の船が小舟というのは大型の外洋船との比較であって、漕ぎ手も含めれば
乗員は100人前後になるけどね。

「舟師」を「水上遠征軍」などと主張するのは、何もわかってないということ。
0343名無し三等兵垢版2018/07/10(火) 14:05:20.97ID:0+r4oquU
>>342
0344名無し三等兵垢版2018/07/10(火) 14:21:14.04ID:0+r4oquU
>>342
誰も舟談義などやっていない。漢文の解釈の話をしているのだ。
もう一度聞く。

君の言う、
>欣都が将(ひき)いたのは洪茶丘と同じ「舟師四萬」>>340
が、洪茶丘伝;「(洪茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進」の解釈であるのならば、

張禧伝: 「(張)禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師, 泛海東征。」
「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝し、右丞範文虎、左丞李庭同と與に舟師を率い、
海に泛(うか)びて東征す。」

の場合も、範文虎、李庭同が率いたのは張禧と同じ「舟師」である、ということにならないのか?
またこの場合、江南軍総司令官の範文虎が舟師を率いたのだから「舟師十万」ということにならないのか?

漢文の同じ構文だから同じ解釈でなければおかしい、という話だ。念のため。
0345名無し三等兵垢版2018/07/11(水) 08:47:28.68ID:5imR1Gf1
>>344
同じ構文じゃないだろ。
李庭同って誰だよ?
弘安の役に左丞として参加したのは李庭だ。

漢文の構文では「A與B同」は「AとBは同じ」。
つまり、行中書省平章政事を拝したことが右丞範文虎、左丞李庭と同じだと言ってる。

「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝して右丞範文虎、左丞李庭と同じくし、舟師を率い、
海に泛びて東征す。」

舟師を率いていたのは張禧だけだよ。
0346名無し三等兵垢版2018/07/11(水) 14:27:25.00ID:6xOYCzBd
>>325
そこまで極端な評価だっけ?
評価する所としない所をわけてることの方が多いような
昔は知らないけど
0347名無し三等兵垢版2018/07/11(水) 14:48:27.52ID:zOAIrBcX
>>345
「同」は私も人名と間違えたが、君の漢文解釈も怪しい。「同じくする」なら「〜を同じくする」
と、必ず次に目的語が来る。

「同率」の文例が百度百科の「範文虎」にある。
https://baike.baidu.com/item/%E8%8C%83%E6%96%87%E8%99%8E/63104
「(範文虎)次年6月,与左丞李庭同率江南軍10万、戦船3500艘従慶元(今寧波)入海征日。」

(範文虎)次年6月、左丞李庭と(与)江南軍10萬、戦船3500艘をともに(同)率い、
慶元(今の寧波)より(従)入海して征日す。

「同」は動詞の前について、「ともに〜する」を表す副詞的な働きがあるのだ。
考えて見れば「同行」「同乗」「同慶」などは「ともに行く」「ともに乗る」「ともに慶ぶ」
だったのだ。「同率」も「ともに率いる」だ。

従って張禧伝の文章の読み下しは:
「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝し、右丞範文虎、左丞李庭と(與)
舟師をともに(同)率い、 海に泛(うか)びて東征す。」

張禧、範文虎、李庭が「ともに率いた」のは舟師であり、取りも直さず江南軍10萬である。
0348名無し三等兵垢版2018/07/12(木) 07:23:51.76ID:NA3gHWzb
おまんら!
アンゴルモア元寇合戦記のアニメ始まったぞ!

1話のクオリティたけえwww
0349shouni垢版2018/07/13(金) 11:30:02.39ID:szAlO1YU
ども、お二方とも質問にくわしく御解答いただきありがとうございます
色々ぐちゃぐちゃなので自分は便宜上コテハンでやります

まず>>331さん(ややこしいので>>331さんにします)、>>339 では特に詳しい解答ありがとうございます。
同じ漢字で様々な意味が含まれているというのが、さらに話をややこしくしていますね。

さて少し疑問があるので再度質問します。>>331さんは>>251で簡単に言えば
「列伝は手柄話」と仰っていますね。ですが私が抱いた印象では、>>331さんは
「張禧伝」の記述を重んじているように思いますが。基本的スタンスとして
>>331さんが「張禧伝」を引用するのはどういった理由からでしょうか?
「洪茶丘は所詮洪福源伝の付録」だからでしょうか? それとも
「両者の記述を示し合わせて矛盾の無いような説明を考えて」そういう結果になったからでしょうか?
後者ならすでにそれは列伝を信用している、という事になると思うのですが?
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