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弘安の役の経過は更に一方的なものであり、武士団は20分の1の兵力で正面から元軍と戦い一方的に勝ち続けた
文永の役の後に、再度の侵攻を防ぐために防塁を築いたのは有名な話だが、あれは近隣の村落を守るためのもの(文永の役の際、実際に元軍は無防備な村落を襲い民衆を虐殺している)
事実、最初に元軍が上陸を試みた際に武士団は防塁を背にして正面から交戦している
ここで案の定惨敗した元軍は、志賀島という島に上陸し野戦築城し防戦に入る
このように圧倒的大軍でありながら城まで築き防備を整えた元軍に対して武士団は20分の1の兵力で攻撃を仕掛け、連戦連勝の末に一方的に元軍を船に撤退させる
今度もそのまま逃げ帰ろうとするが、そこに台風が直撃し元軍の船が全て座礁
逃げ場を失った元軍は旧南宋出身者を除き皆殺しにされた(これは、文永の役において元軍が民間人を虐殺したことに対する報復)
元史には「生きて元に帰れたのは3人だけだった」との記述があるほど

つまり、元寇において武士団が敗勢だったというのはそれ自体が真っ赤な嘘
現実には武士団の戦闘能力はモンゴル騎兵を遥かに凌駕しており、事実として武士団は20倍の兵力の敵を一方的に撃破している