Q. 1945年の終戦までに、他の戦闘機を操縦されたことはありますか?
A. いやいや、ずっと109です。私の所属部隊の装備機が109G型ばかりでした。
 飛行学校にいたときは190も、あの長い鼻も含め各型を操縦しましたがね。実戦は全て109でした。
 最後の年の4月にはもう警報などは発令されず、ちゃんとした空中戦など行われませんでした。
もうレーダー基地も失われていました。西部戦線ではすでに戦争とすらいえない状態だったのです。まったくの混沌でした。
Q. 1944年頃にはおそらくもう、あなたのようなベテランも、精神的にきついかったかと想像します。
そのころまでには仲間を次々と失われて・・・
A.そう、そこなんですよ。私たちはそれをドイツの摩耗と呼んでいました。
 あらゆる兵科のうち最も摩耗の激しかったものは潜水艦乗組員だったのですが、その次が戦闘機パイロットだったのです。
 44年中盤以降の作戦では、毎秒ごとに操縦士が失われていきました。[残ったのは]若者達ばかり。保持すべき空域は広いのに、
操縦士の数はめっきり少なくなりました。北から南はエジプト、北アフリカまで戦線が広がりました。いくらなんでも広すぎです。
 個々には優秀なパイロットがいたとはいえ、結局戦闘機隊というものは消防隊なんです。全ての地域にまんべんなく
配されるわけにはいかない。ドイツ国民の生命を守って戦わなければいけなくなった頃には、ほんの若者、
一度しか109を操縦していない若者さえも戦闘に投入せざるを得なくなった。これは全くの殺人行為でした。

ギュンター・ラル氏講演
http://bf109.exblog.jp/1509807/#1509807_1