第一次世界大戦について語るスレ 6
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1918. 11. 3 キールにて水兵の大反乱 自殺的出撃に反対して反乱を起こしたドイツ戦艦部隊の水兵たちは、一時は平静を 取り戻したかに見えた。 しかし、艦隊が北海岸からキール運河を通ってバルト海側のキールに入港し、反乱 首謀者47名が陸上の海軍監獄に移送されると、水兵の不満はかえって増大した。 上陸した水兵たちは集団で協議を行い、社民党シンパを中心に組合を結成して 収監者の釈放を要求した。 これが拒否されると、海軍練兵場でさらに大規模な集会が計画された。造船所の 職工たちも大勢集まり、集会は「平和とパンを!」と声を合わせて叫びながらキール 市内にあふれ出るデモ行進となった。11月3日のことである。 司令部はデモに参加していない将兵を集めて鎮圧を命じたが、その数はわずかで あり、デモの列は押しとどめようもなかった。 そしてついに鎮圧部隊指揮官は発砲を命じ、銃声を機に激しい乱闘となった。 7人が死亡し、29人が重傷を負った。 翌日、鎮圧のために陸軍部隊が出動を要請された。しかし陸兵ももはや信頼に 足るものではなく、多くが出動命令に従わなかった。 4日、反乱兵と労働者はキール市内を制圧し、労兵レーテ(「ソヴィエト」にあたる ドイツ語)が結成された。社民党と独立社民党は指導者をキールに送り込んで 反乱勢力の掌握を試みたが、もはや様相は「革命」の域に達し、個人や既存の 団体が掌握できる限界を超えていた。 反乱と革命はドイツの諸都市に飛び火した。ドイツ革命の始まりである。 1918. 11. 4 連合軍モンテネグロを奪回 この日、モンテネグロを占領していたオーストリア軍はカッタロで連合軍に降伏し、 セルビア軍アドリア支隊はモンテネグロ全土を奪回した。 1918. 11. 5 空母「カンパニア」沈没 イギリス海軍の空母「カンパニア」はスコットランドのフォース湾に停泊していたが、 この日急な突風にあおられて走錨しながら僚艦に吹き寄せられた。 艦はまず戦艦「ロイヤル・オーク」に、ついで巡洋艦「グローリアス」に衝突し、機関部に 浸水を生じて航行不能となった。 艦はそのまま漂流し、5時間後に沈没した。乗組員は全員付近の艦艇に救助されて 死傷者はなかった。 残骸は今でも搭載した飛行機とともにフォース湾の底にある。 1918. 11. 6 アメリカ軍、セダンに迫る セダン攻略を狙うアメリカ軍は、この日までにミューズ河谷に到達し、セダンを望む 丘を占領することに成功した。 さらにアメリカ軍はミューズ川に架橋し、対岸に橋頭堡を確保した。 しかしここでフォッシュ元帥の連合軍総司令部から指示が届いた。そのままセダンを 占領するのはフランス軍とアメリカ軍の境界を乱すことになるので差し止められたい、 との指示であった。 アメリカ軍はやむなく停止し、戦線の整理を行った。 WWT イギリス大艦隊の死闘 http://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=181106 初回放送 2018年11月6日(火)午後11時00分〜 再放送 2018年11月16日(金)午後6時00分〜 ドイツの海軍は無駄な大型水上艦でなく潜水艦を大量投入してたらWWU、英国を降伏させ得たかも知れないな(かも、だけど) 北海方面にしか行き場が無いから北とドーバーを抑えられたら何も出来ない(このあたり支那がクリソツ) しかし戦艦が海戦の主力として活躍する最初にして最後の大戦は現代のヲタにして見れば魅力的だ いよいよ休戦か・・・ 講和条約まで続くのかなこのスレ? 1918. 11. 7 ヒンデンブルク、フォッシュに休戦申し入れ この日、ドイツ軍参謀総長のヒンデンブルク将軍は連合軍最高司令官のフォッシュ 将軍に対して休戦協議の申し入れを行った。 連合軍側では、ルーデンドルフの辞任などを見て、ドイツがもはや以前の軍事独裁 政権下にはないことを確認し、休戦が申し出られたらこれを承認する旨合意ができて いた。 7日にはドイツ側を代表するマティアス・エルツベルガー(中央党、議会内の反戦派と して有名であった)が戦線を越え、フランス側に到着した。 フランス軍はドイツ代表団を汽車に乗せ、パリ郊外コンピエーニュの森に運んだ。 休戦協議はそのまま鉄道の客車の中で行われることとなった。 1918. 11. 7 バイエルン国王ルートヴィヒ三世逃亡 革命の炎は南ドイツのバイエルンにも飛び火した。バイエルンの首都ミュンヒェンの 街路には多数の労働者が集まり、口々に戦争の終結と国王・皇帝の退位を求めた。 7日に至り、ふくれ上がるデモ隊の数に危険を感じたバイエルン国王ルートヴィヒ 三世は、ひそかに王宮を離れてザルツブルク近くの居城のひとつに逃亡した。 ここにバイエルンの王制は実質的に終結した。 >>256 軍事物資を積んでた時点で民間船では無いでしょ ジェーン年鑑に記載されている敵国艦船を撃沈するのは戦時の常識 1918. 11. 8 バイエルン自由国宣言 国王の逃亡を受けて、デモ隊を指導していた独立社民党のクルト・アイスナーは 「バイエルン自由国」の成立を宣言し、自ら首席大臣に就任した。 アイスナーはレーテ勢力を大幅に政権に取り込もうという意思を見せ、ここでの 革命の道行きはドイツの他の州とはいささか異なる方向へ向かうこととなる。 フランスのマクロン大統領が、第1次世界大戦の戦勝記念日関連イベントの場で、第1次大戦 におけるペタン元帥の功績をたたえたところ、右派左派双方から批判を浴びているとの事。 第1次世界大戦の英雄は後のナチス協力者 マクロン仏大統領が称賛し物議 https://www.bbc.com/japanese/46134216 >終戦100周年記念でフランス北部を訪れているマクロン氏はシャルルビル=メジエールで >の演説で、「(第1次世界大戦で)フランスを勝利に導いた司令官たちに敬意を表するのは >正しい」と述べた。 >マクロン氏はペタンについて触れ、ナチス占領下のフランスで「悲惨な選択」をしたが、 >「彼はすばらしい兵士だった」と語った。 エーベルトも良い迷惑だな。自身では共和国樹立の意図はなかったのに 情勢の推移で急きょ宣言を納得せざるを得なくなった。 誰もが責任を投げ出した後で一番損な役回りを引き受けたのに 馬鹿な退役兵どもが騒いだ。 1918. 11. 9 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世退位 キールで始まった労働者と兵士の革命運動は全ドイツに波及していた。社民党の エーベルト党首は、状況収拾のためには皇帝が退位するほかはない、と宰相マックス・ フォン・バーデン大公に迫った。 革命勃発に先立ってベルリンを離れ、大本営のあるベルギーのスパに退避していた 皇帝は退位の要求を拒絶したが、11月9日にマックス大公は独断で皇帝の退位を 宣言した。 ヴィルヘルムは激怒したが、忠誠心篤いヒンデンブルクからも退位と亡命を 勧められ、やむなく翌日にオランダへ亡命した。 1918. 11. 9 ドイツ共和国宣言 皇帝の退位宣言を聞き、労兵レーテは一気に権力の掌握に動き出した。革命の嵐の 中で釈放されていた共産主義者のカール・リープクネヒトは「社会主義共和国」の建国を 宣言すべく、ベルリン中心部のルストガルテンに同志を集めた。 帝国議会議事堂でこの動きを聞いた社民党の副党首シャイデマンは、このままでは レーテ勢力がドイツの主導権を握ってしまう、と危機感を覚え、午後4時に帝国議会 議事堂のバルコニーに出て、「ドイツ共和国」の建国宣言を行った。 リープクネヒトの「社会主義共和国」宣言もほぼ同時に行われたが、帝国議会という、 より政治的に注目を集めた場所で行われたシャイデマンの宣言に覆われて小さな 注目しか集められなかった。 1918. 11. 9 戦艦「ブリタニア」被雷沈没 イギリス海軍の前ド級戦艦「ブリタニア」は、ジブラルタル海峡の西、トラファルガー岬 沖を航行していたところ、11月9日の朝にドイツ潜水艦「UB50」(艦長ハインリヒ・ クーカート中尉)の雷撃を受けた。 数分の間をおいて2本の魚雷が命中し、中間砲の弾薬庫に火災が生じた。火炎と 黒煙のために水防作業は不可能となり、総員退艦が命じられた。その後2時間余りの のち、艦は転覆沈没した。主に窒息により、50名が戦死した。 1918. 11. 9 ルドルフ・マイスター、低地シュタイアマルクに全面蜂起を呼びかけ スロヴェニア人民兵組織のリーダー、ルドルフ・マイスター少佐は、自ら「将軍」を 名乗り、全スロヴェニア人地域の南スラヴ国家への帰属を主張して、低地 シュタイアマルクに大規模な民兵組織の蜂起を呼びかけた。 それに対してドイツ人住民も民兵組織の設立を急いだが、マイスターの組織の 成長の方が速く、ドイツ人側は劣勢であった。 マイスターの危険な動きに、ウィーンのオーストリア政府もリュブリャナの スロヴェニア政府も警告を発したが、マイスターの活動はとどまるところを 知らなかった。 こうして見ると、左翼活動家って黎明期から現代まで変わらんな。 社会の不満と混乱に乗じて秩序を壊そうとするけど、その後のより豊かで安定した社会を作るというビジョンは皆無。 現体制を壊せば何とかなる、みたいな無責任な宣伝で、硬着陸で済むところを墜落させている。 社会主義・共産主義の左翼国家で失敗が確定していないのは、共産党王朝・中華帝国こと中華人民共和国くらいか。しかし、彼等の歴史は日本の鎌倉幕府よりまだ短い。 いつまで保つかな? 社会に不満と混乱を産んで左翼に敗北する右翼の方が根本的に悪い >266 ルーデンドルフも上記のマイスター少佐も右翼なのですが…。 トンデモ国家というと、まさに史実のドイツ帝国が ロシア軍が総動員すると、ドイツ軍がベルギー国境線を突破する・・・後世から見ると、さすがに、誰かまずいことに気づけよと >>261 アメリカ外交筋の示唆を受けてマックス宰相が退位問題の再検討に入った段階(10月末) SPD内ではエーベルトは反対してる。 10月31日の閣議では中央党のエルツベルガーが反対してるけど、彼も自発的退位には反対していない。 おそらくこの日、または前日に退位問題での閣僚のコンセンサスが取れた。 キールの水兵反乱がベルリンに伝わったのは翌1日だが、同日にはマックスは大本営の皇帝に退位を薦めてる。 退位問題は既に閣内の多数意見となっているから、 「水兵の反乱によって」ベルギーの皇帝に退位を迫ったというのは必ずしも正確ではないのでは。 (あと蛇足だが、この時点では皇帝退位≠帝政廃止。孫王子のヴィルヘルムがいちおう後継候補) ドイツ革命で帝政から立憲君主制に移行していたらナチスが政権を取ることはなかったのだろうか ムッソリーニが立憲王政のままファシスト国家を建設してるので むしろ完全な前例が出来て政権奪取は容易いと思う ヒトラーの権力的には史実よりは弱体化するかもしれない >>271 なるほど、皇帝の退位はルーデンドルフの更迭と組で、和平への前提条件だったと いうわけですね。 革命はきっかけではあっても、退位の原因ではないと。 1918. 11. 10 エーベルト・グレーナー合意 社民党党首のエーベルトは、極左共産主義勢力の伸長を恐れ、軍部との協力を 模索した。 参謀本部次長として軍部の実質的な指導者であったエーリヒ・グレーナー将軍も 極左勢力の拡大を望まず、この日エーベルトに電話して「軍部は共和国に従う」 旨を確約した。 エーベルトはこの確約を得て一応の体制の安定のめどが立ったと考え、連合軍との 休戦協定締結に向けて動き出した。 軍部は前線からの兵力撤収と動員解除の計画を始めた。 1918. 11. 10 ルーマニア再参戦 この年の春に中央同盟国と講和して戦争から離脱していたルーマニアは、 サロニカ戦線の崩壊とブルガリアの降伏を見て、この日再び中央同盟国に対し 宣戦を布告した。 1918. 11. 10 最後の沈没艦艇 この日、イギリス海軍の掃海艇「アスコット」はイングランド北部東岸沖でUボート 「UB67」の雷撃を受けて沈没した。戦死者51名。これが第一次世界大戦最後の 沈没艦艇である。 1918. 11. 10 フランス軍ドナウを渡る サロニカ戦線からはるばるベオグラードのドナウ河畔までやってきたデスペレ将軍の フランス軍は、この日ドナウ川を北に渡って、旧ハンガリー領へ侵入を開始した。 厳密に言うとハンガリーとフランスはいまだ戦争状態にあると考えられたからである。 ハンガリー革命政権の首相カーロイ伯はこれを見て驚き、急ぎベオグラードの フランス軍司令部に赴いて新たな休戦協定を締結した(11月13日)。 1918. 11. 11 フランス軍セダンを占領 この日、フランス軍はミューズ川中流域の要衝、セダン(スダン)を占領した。 当地はアメリカ軍の進撃目標ともなっていたが、連合軍最高司令部の裁定により フランス軍分担地域となり、アメリカ軍の突入は中止されて、フランス軍によって 占領された。 占領の日、停戦協定が発効し、西部戦線の戦争は終わった。 1918. 11. 11 休戦協定発効、第一次世界大戦終結 休戦条項はドイツ側に厳しいものであったが、もはやドイツ代表団はこれを受け入れる ほかの選択肢はなかった。 11月10日にはベルリンのエーベルト政府から即時調印の許可が下り、スパの大本営に いたヒンデンブルクからも、「いかなる条件であっても休戦を受諾すべし」との意見が 届いていた。 エルツベルガー委員は翌11日の午前5時、連合軍の代表ととともに休戦協定に 調印した。 ドイツ側調印者はエルツベルガーと外務省のオーベルンドルフ、陸軍のフォン・ ヴィンターフェルト少将、海軍のファンゼロー大佐であった。 連合軍側調印者はフォッシュ最高司令官とイギリス海軍第一海軍卿(海軍本部長)の ウィームズ提督であった。 協定はグリニッジ標準時午前11時に発効するものとされた。 午前11時、第一次世界大戦は終結した。 その長さは4年と3ヶ月2週間に及び、両陣営で980万人以上が戦場に倒れ、800万人 近くに及ぶ民間人が戦争の影響で死亡するに至った、まさにこれは大戦争 Great War であった。 長い間お付き合いくださいましてありがとうございました。これでこの「第一次世界大戦 カレンダー」連載も終了します。 それにしても思うのは、戦争は終わってもいろいろなことが終わらずに続いているのだ ということ、特に東欧圏では、この日はまだ物事の「始まりの終わり」にすぎないのだ ということです。 尻切れトンボに終わった東欧の革命や戦争についてのお話は、皆さんそれぞれの 興味に従ってお調べください。結構ネット上にもいろいろ材料は転がっているものです。 連載が始まる前の、1914年から15年にかけてのできごともまとめてみますかね。 いずれ110年記念にでも連載しようかな。 擬似リアルタイムお疲れ様でした! ほぼROMでしたが楽しませてもらいました (四年後の)クリスマスまでには終わったね、リアルタイムで四年間本当にお疲れさまでした お疲れ様でした 書籍にまとめてどこかの出版社に持ち込めば反応あると思うよ 毎日楽しみにして拝見しておりました。お疲れ様です。 100年前のサラエボを2ヶ月遅れで観光して 帰って来てから読ませて頂いていました。 お疲れ様でした。ありがとうございました。 お疲れ様でした 支払停止までの実際の支払額は191億金マルク程度 戦間期(ドイツの左右の蜂起、ルール占領)や、1904年以降から大戦までの動きをやっても面白そうだね それにしてもこの数年で第一次大戦がらみの和訳増えたなあ 第一次世界大戦終結100周年を記念し、シューティングゲームの中で2分間誰も銃を撃たない時間が発生 https://gigazine.net/news/20181112-100th-anniversary-wwi-cease-fire/ > 2018年11月11日、1914年に開戦した第一次世界大戦の終戦からちょうど100年が >経過しました。この記念すべき日に、第一次世界大戦を題材とするFPS >「バトルフィールド 1」の中で、プレイヤーが敵対行為を止め、銃を撃たずに2分間に >渡って黙祷する時間が発生したということで、話題になっています。 スコットランド大腿の、14年の出征時と、18年の復員時に出征当時の将兵だけで記念 撮影した写真との比較ですと。 https://pbs.twimg.com/media/Dr4muzZV4AAswcI.jpg 残存率5%ぐらいか 病気や負傷で後送されたのもかなりいるだろうから、4年以上も居続けるってのも運がいいんだか悪いんだか 戦死○○名、戦傷××名って統計の数字じゃなく、こうしてビジュアル的に見せられると、 さらに悲惨さが増すな…… 回想録とか見る限り、将校は数カ月に一度は休暇貰って銃後の保養地や本国で羽根を伸ばせたみたいだけど、兵卒はどうだったんだろ? >>301 フランスは反乱騒ぎをきっかけに交代やら休暇やら見直してる というか現代の福利厚生の基礎が第一次世界大戦で出来たと言われてる バルビュスの砲火だったかに書いてたな 敵味方の攻勢や作戦など特段の事情が無い場合は 3日危険な地域の前線にいて3日安定した地域の前線にいて3日後方で過ごすローテーション 動員された農家のおっさんでも無理なくできないと駄目だしな WW2になっても休暇があんまし整備されてなかった日本陸軍・・・ >>304 この正月、任地のガ島にて特別休暇を賜る。 お袋がつくった雑煮が食べたかった。 昭和十八年 元旦 なんてのはヤダな・・・ 100年を誇るイギリス空軍史でも、おそらく唯一の日本人将兵の話ですって。 100年前の英空軍に日本人パイロット 波瀾万丈の生涯、遺族が語る https://this.kiji.is/433151134976312417?c=39546741839462401 > 1914年、第1次大戦が勃発すると英軍インド人部隊に入隊、元々の姓に似た >「オハラ」姓を与えられた。オハラは、映画「風と共に去りぬ」の主人公 >「スカーレット・オハラ」で有名なアイルランド系の名前だ。ハリーがなぜインドで >軍隊に入ったのか、明確なことは分かっていない。当時は日英同盟時代で、日本は >英国と共に連合軍の一員として参戦していた。ジェラルディンさんは「戦争に若者の >血が騒いだのでは」と想像している。 > 最初は「第34シーク教徒工兵隊」に加わった。ターバンを巻いた背の高いシーク >教徒に混じった日本人は奇異だったらしく、すぐに、日本人に背格好も似たネパール >系の「グルカ兵」の部隊の一員になった。その後、英本土の陸軍ミドルセックス連隊に >移った。西部戦線のフランスで塹壕戦などに参加した際の勇敢さと軍功から英国の >勲章を受けた。短期間、部隊のコックを務めていたこともあったらしい。ハリーは >その後、陸軍航空隊に志願、整備士を務めた後、パイロット資格を得た。 > 英空軍博物館のピーター・デビット学芸員は、(中略)英国人と日本人の「ハーフ」 >などではない日本人が英空軍に採用された「恐らく唯一の例だろう」とデビットさんは >話す。 『日本人とドイツ人』(光人社NF文庫/棟田博作家元陸軍伍長。徳島県にあった捕虜収容所の話) ■1914年(大正3年)6月オーストリア皇太子が射殺される。1月後大戦が開始される。 石油がでるバルカン半島進出しようとしたドイツを英仏露で妨害したことが背景。 ■同年8月英が独に宣戦布告。英が日本に参戦を要請。同月日本は独に宣戦布告。 ■陸軍は福岡の第十八師団を中心に青島攻撃軍を派遣。独守備隊は5千、日英軍は3万。 形だけ抵抗したが11月初めには降伏。捕虜は約4千人。ただちに日本国内の 捕虜収容所に送られる。 ■戦争は当初1年で終わるという予想だったため特に新築しなかった。が、予想外に長引き 5年間拘留することになった。敵愾心は双方なかったので、収容所の外での作業なども多く 地元民と交流も多かった。 ■開始当初は恐慌状態だったが2年目の後半から大好況になった。同盟国から 船、弾薬、武器の要請と当事国は輸出の余裕が無かったため、アジアアフリカ諸国から 日本に発注が殺到したため。特に造船は世界3位に躍進した。 (続き) ■独と仏独露の戦争は一進一退だったが1917年米が参戦して均衡が崩れた。 ■1918年8月になると仏はほぼ壊滅状態だったが、独にも余裕が無くなった。 15歳から50歳までの男子人口は3千万人だったので1千万人は動員可能という算段だった。 が、もう全く補充ができなくなった。英は未だ余裕があり、米は全く無傷だった。 ■10月になると独逸各地で反乱が起き命令拒否も目立ってきた。独皇帝はオランダに亡命し ヒンデンブルグ将軍(露西亜を撃破した独の英雄)は、休戦を決意した。 11月に厳しい条件下での休戦条約にサインした。 ■日本は戦勝国の1員としてベルサイユでの講和会議に出席。代表は西園寺、陸海外務省中心 に派遣団を結成。 ■条約は独に厳しい内容。アルザスロレーヌの仏へ割譲、海外権益の放棄、賠償金は 1320億マルクを金か通貨で支払う。拒否すれば戦争再開となるので受諾。 1919年6月ベルサイユ条約締結。 ■日本国内の独逸人捕虜は5年振り帰国した。費用は日本負担となった。 ■独逸国内では社会党と国粋人民党で激しい対立。1925年にはヒンデンブルが大統領に就任。 1932年ヒトラーの国家社会主義独逸労働者党が第一党になる BS10 スターch200 21:00-23:45 白いリボン キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! w hjiurwwaqsdrt ドイツの賠償金支払総額は意外と少ない ケインズが「これ以上は少なすぎ」と言った水準にも達してない というより「過酷な条約」という認識じたいが、ドイツ外務省が 1920年代前半の孤立期に英仏に譲歩を迫る過程で国民を煽った宣伝で、 いざ極右政党が登場して条約の不当性を声高に叫ぶ頃には とっくに協調外交に転じてその手の宣伝をしなくなっていたので困惑した アメリカが起こした大恐慌は賠償金なんかよりはるかに第二次世界大戦の原因として直接的だからね その責任から逃れる為の言い訳としてアメリカやイギリスには良かった 英国は常にウザいなあw 今度もEU脱退wで早く爆タヒして欲しいw ポンド安が何処まで進むか見ものw 英国というより英国支持者wが嫌w 馬鹿っぽいしw >>311 まあしでかしたことの大きさからすればあっけないほど少ないよな ほんとに全部償わせるなんて、物的損害だけでもそれはそれで不可能だがw それでも当のドイツに反省の色はなく支払いを少しでも免れようとのらりくらりとかわし続け、 一方フランスベルギーは債権の強制執行に電柱まで引っこ抜いて持ち去るナニワ金融道 債権者の側からすれば、国土を廃墟にされて復興資金が喉から手が出るほど必要なのに、 今となってはその金色夜叉が再戦の誘因になったと叩かれる不条理 >>314 第二次大戦をほぼ正確に予測してたフランスのフォッシュはドイツを分割するべきだと言ってた 第二次大戦後の処置を見ると下手な賠償よりもそっちの方が正解やったんやろなあと思う そんなこと実際に可能だったのか? ベルサイユ条約だってドイツ政府が受諾したからいいものの、敗北覚悟で飽くまで戦うべしという声も強かった。 ドイツ解体なんて条件突きつけたら戦争再開に踏み切るかもしれないし、そうなったら勝てるのは当然としても、ドイツ全土に大軍を駐留させて軍政でも敷かなきゃ秩序維持もできなくなる。 ルール進駐の泥沼が数十倍になるわけで、そんな負担に耐えられたのか、そんな負担に耐えるだけの見返りがあったのか。 >>316 後知恵として言えば第二次世界大戦の惨禍よりは… オーストリアは分割されたしドイツそのものは19世紀にビスマルクの鉄腕と策謀で構築した人口国家ではあるから、不可能とは言い切れない まああの段階でそんなちゃぶ台ひっくり返す暴挙をあえてするものはいなかったろうが バイエルン独立は可能だろうが 戦後バイエルンは統制が効く状態ではない ただ反ベルリンでは結束していたからそこを利用すればなんとかなる 東プロイセンを独立させてポーランドと連邦国家に! ってまとまる気が全くしないwww >>319 連合国側からしたら まとまらせる必要がない いい感じで混乱してれば脅威にならない 日本人からすると兄弟国のドイツを応援しちゃうよね。 ジークハイル! >>318 バイエルンはカソリックが多いし、プロテスタントのプロイセンからの分離独立の下地はある・・・ がしかし、休戦前のバイエルン王の振る舞いが無責任過ぎて混乱したからなあ泣 結果論だが、バイエルンにあの髭の伍長勤務上等兵が入院していたことを考えると、フランスが身銭切ってでもバイエルンを独立・ドイツと合邦禁止にしておけば、多少は歴史が変わっていた。 戦闘が再開された場合、ライン地域が中立を宣言する可能性はあった ドイツ政府は占領や離脱を危惧していたが、英仏側が考えていたのは中立化・自立化 フォッシュの構想自体は南北ドイツの分断を狙ったものだったが、 実際問題、国家解体に発展する可能性は高くない 1915年にフランスの右派団体が提唱した戦後構想 https://i.imgur.com/7O79FFl.png 個人的にはスイス領土が増えてるのが気にかかる・・・ スイスに「領土やるから受け取れ」と言っても、後難を恐れて断るんじゃないかね? >>326 ロシアに飲み込まれてるフィンランドカワイソス >>327 当時のフィンランドは元々ロシア帝国領やね 戦後独立や 欧州側のトルコ領をブルガリア領にしようというのはまあわかるが何故かアルバニアも分割しようとしてんな >>330 1915年だと実際すでにアルバニア南部はギリシャが実効支配してるし ドイツ貴族の国王はもう亡命してて無政府状態だし >>326 オーストリアもハンガリーも史実よりちょっとでかそう。 1915年なら革命前だし、ラント君主を担ぎ出す君主制が前提なのかなあ? 逆にドイツ側の戦後構想 https://i.imgur.com/WYbYKMS.jpg https://i.imgur.com/heiNeoW.png 西部戦線に関してはわりと温厚な印象 ベルギーは属国化と同時に北フランスの工業地帯併合(東部はドイツに併合して西に遷す)、フランス賠償金100億マルク、ルクセンブルクはドイツ帝国の領邦化etc. フランスは弱体化はするだろうが、国民国家としての存立基盤までは揺るがない感じか。そしてイタリアとオーストロハンガリーにはビタ一文くれてやる気は無いらしいw >>335 >>326 の対独構想よりだいぶ温和じゃね? >>334 これもドイツの右派団体かなんかが構想したの? それならいいけどドイツ政府としての構想なら比較対象の基準としておかしい >>337 なるほどそうかも・・・ 政府内で作成されたけど正式採用に至らなかった素案という位置づけ、モーゲンソープランみたいなもんか ワロタw なんか領土の割に統治が緩い印象 WW1にオーストリアが勝っていたら 歴史は相当変わってそうw >>341 多民族国家帝国の枠組みで無理やりまとめてるからな 当時の5大国中ぶっちで最弱の弱小国、それがオーストリア まああの国も災難だったと思うよ 自国の若頭のタマ近隣の弱小国に取られて、ケジメ取りに行ったら背後のクマがしゃしゃり出てきて、 まあそこまでは想定内として、なぜかいきなり同盟国がクマとカエル食いに襲いかかるというもはや不条理劇の超展開 同盟国狂犬だから仕方ないんだけどw ドイツ以外の欧州にとってつくづくドイツの存在って災厄よね いや自業自得だろ セルビア国内で殺されたならともかく 殺された土地はオーストリアハンガリー帝国国内だし テロ組織を支援したのがセルビア政府だったからといって数日以内に併合されないと侵攻するなんて最後通告は異常 フェルディナント皇太子の自業自得 警察関係者以外の住民の殆どがスラブ系で、治安も悪く、敵性国家との繋がりが強い土地にオープンカーでパレードとか、下僚の状況判断を無視している オーストリアにとっての危険な敵は、ロシアを後ろ盾とする南スラブの民族主義を掲げるセルビア王国なんだが、フェルディナントの主敵はハプスブルク王朝の主流派だったのだろうな… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる