国家安全保障政策/国家戦略研究スレッドPart2

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2019/05/28(火) 20:17:15.39ID:6xOEVx5m
我国の繁栄と安全を守る国家安全保障政策とこれを実現する国家戦略を研究・提案するスレッドです。

○国家安全保障政策とは
国家の独立と繁栄を維持するために、主に軍事的な脅威などから国家を守る政策。国家は多様な価値観を包含しており政策は必ずしも他の政策・党派と整合するものではない。

○国家戦略とは
国家目的を遂行する最高位の観点から、平戦両時に政治・軍事・経済等の国力を効果的に運用する統一的・総合的・全般的な戦略。安全保障政策を上位構造とするが、政策上の不整合は国家戦略により統合が図られる。階層構造下位の戦域戦略、作戦、戦術の準拠となる。

○戦略の位相
国家戦略を構成する全ての位相(軍事・経済・文化・社会・科学技術etc.)を議論の対象としますが軍事を主たる切り口とし、それ以外の議論は50レスを越える場合は専門スレッドへの移動をお願いします。

「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」

○戦略の階層構造
戦略を構成する全ての階層構造(世界観・政策・国家戦略・戦域戦略・作戦・戦術・技術)を議論の対象としますが、作戦次元以下の議論は50レスを越える場合は専門スレッドへの移動をお願いします。

「本質はdetailにこそ宿る。それは栄光無きものに非ず。」

○戦略と戦史
戦略とは一般的な法則が成り立つような分野ではなく、戦史において淘汰される複雑系・非線形・進化的なプロセスです。議論の根拠たり得る戦史上の事象(古代・中世・近世・近代・現代)を議論の対象とします。

○当スレッドのスタンスと地誌について
当スレッドは明らかにネット右翼(ネトウヨ)スレッドです。対象脅威を尊称で奉る趣味はございません。戦史・兵要地史の一貫性のため歴史的な略称(支那・北朝鮮・南朝鮮・米・英・仏・露・独他)を推称します。

○戦略思想家の格付け
●神様リスト
クラウゼヴィッツ、モルトケ、コーベット、リデル・ハート、マイケル・ハワード、J.C.ワイリー、エドワード・ルトワック、コリン・グレイ
●疫病神リスト
ジョミニ、フォッシュ、フラー、マハン、ドゥーエ、ハマン・カーン、バーナード・ブロディ、クレフェルト、ミアシャイマー

「勝利は既に(戦略次元で)確定している。卿らの上に大神オーディンの(作戦次元以下の)恩寵あらんことを。」

過去スレ:
国家安全保障政策/国家戦略研究スレッド
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/army/1535374656/l50
813JTAC
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2019/12/14(土) 00:28:29.02ID:xjs5Q4CX
>>812
「ミサイルで何をしたいか」が問題です。
野砲との比較で炸薬量当たりのコストはミサイルの方が10-100倍悪い。
コストに見会う目標に叩き込まないと、撃てば撃つほど敗北に近づく。
814JTAC
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2019/12/14(土) 00:31:26.15ID:xjs5Q4CX
北朝鮮への経済制裁効果を見るに、やはり現下の情勢で同盟を考慮せずに核武装を試みるのは自殺行為です。
軍事力以外でも敵を殺す方法がある。
2019/12/14(土) 03:04:42.36ID:rI5+2hw0
>>813
というか持つことによる抑止力だよ都市の一つでも壊滅できる量と質をもってれば侵略しても割に合わないと相手に思わせられる
2019/12/14(土) 08:46:01.23ID:xjs5Q4CX
>>815
「核」は持ってしまうと核同士の対峙が始まります。
核兵器の大半は、じつは相手の核兵器を破壊する用途で持っています。

「抑止力」になる半面、他国の戦略核の「潜在的な標的」にもなる。
一歩間違えれば「民族の滅亡」です。
例えば、北朝鮮の核は「抑止力」になる半面、アメリカのICBMの標的にもなっています。
817JTAC
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2019/12/14(土) 08:52:55.49ID:xjs5Q4CX
さらに世の中には、anti-nuclear manueverで相手が核を持っててもOMGを放ってくる連中もいる。
核兵器と言えども常に対策はある。
818JTAC
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2019/12/14(土) 09:02:36.30ID:xjs5Q4CX
日本の場合、戦略次元(目的 :安全(領土保全、国民保護)と繁栄(経済他))の方法論として考えると、
現段階では「日米安全保障条約」>「核の保有」です。
この同盟自体が潜在的な核シェアリング効果があります。

実際、一時期、沖縄はアメリカの核で溢れかえっていました。(問題発言)
我々は核兵器を保有はしていませんが、「核戦略」の危険なゲームはとっくに始めています。
819JTAC
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2019/12/14(土) 09:18:30.67ID:xjs5Q4CX
イラク戦争も、見方によっては核保有国に対する攻勢作戦とも言える。
(実際にはイラクは核を保有しなかったが)

アメリカの作戦序列を"OMGによるanti-nuclear manuever" と考えると、彼らの作戦のラジカルさに色々と説明がつく。
サダム・フセインが大量破壊兵器の使用を決断する前に政治的意思決定の中枢を破壊する必要があった。
(くどいですが、実際にはイラクは核を保有していなかった。)
2019/12/14(土) 11:14:05.66ID:rI5+2hw0
>>816
いやよく読んで核を持とうなんていってないよ
2019/12/14(土) 11:28:04.80ID:rI5+2hw0
核を持つのは世界情勢的に現実的じゃないってちゃんと書いてるじゃん
822JTAC
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2019/12/15(日) 12:59:23.23ID:C0hjo4bE
何回目かですが、「ミサイル」というハードは、技術次元では優れた先端技術の産物ですが、
戦争の次元を複雑にしていくと、「戦術次元」では敵の対抗策に直面し「作戦次元」では作戦地域の広大さ、敵の規模、ミサイルの兵站とのミスマッチにさらされます。

そこで現代の作戦術では、敵の重心(センター・オブ・グラビティー)の死命を制するHigh Payoff Terget(HPT)に対し計画的に使用します。

「戦略次元」の考慮事項としては、他の火器含めて装備体系全体で最適化し作戦を成立させ、かつ財務省を納得させるコストで態勢を構築します。
823JTAC
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2019/12/15(日) 13:04:29.70ID:C0hjo4bE
そろそろ、財務原案の最後の枠入れの時期やの。
824JTAC
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2019/12/15(日) 13:23:12.59ID:C0hjo4bE
そもそも「火力」というファクター自体が高額なのだ。
今でもWW2の1944年頃の状況をさして火力をあまりに過大評価する向きがある。
確かに、欧州戦線でも太平洋戦線でも1944年の戦場は規模を拡大した陸海空の火力のウェイトが大きかった。
が、それは開戦から四年も経過し、その間、開戦前のGDPの数倍の規模を軍事予算を「火力」に突っこみ続けた結果です。
戦史上、かなり特殊なケースと言っていい。

現代戦では、そこまでやると核戦争に陥る可能性があるし、さらには先方のA2/ADとハイブリド戦は、
火力戦(消耗戦)のトランペットがなる前にさっさと戦争目的を達成して競合状態に回帰することをめざします。

それで、南オセチアもクリミアもウクライナ東部もロシアの実効支配に置かれました。
ゲラシモフの思惑通りです。
825JTAC
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2019/12/15(日) 13:37:00.05ID:C0hjo4bE
量産装備調の国庫債務負担行為で、契約から納入まで「5年」とかあり得んと思う。
(艦船は、まぁ許す)

それって有事の緊急調達とか真面目に考えているのか?
作っている間に戦争終わりますよ。
量産装備は「二国」以内であるべきだ。
そして一朝事あるときは歳で無理矢理にでも何とかする。
それが「兵器」ってもんでしょ。

祖国が蹂躙されてから納入されても手後れです。
利益団体のマネーゲームはたくさんだ。
2019/12/16(月) 09:55:34.61ID:TNp+5czv
そもそも砲兵火力などは、運動中の目標に対しては効果が限定的なのだ。
そして運動しつつ火力を発揮できるのは、機甲くらいなもの。

(注;SBCTは移動しつつの火力発揮が出来ないというのは、先日の軍研のCTC記事でもわかる)
(だから米軍はMDB/MDO戦場下で機動しつつ火力発揮できる新しいおもちゃとしてRSGとか欲しがる訳です。)
827JTAC
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2019/12/17(火) 19:57:39.23ID:MkayryJ5
>>826
作戦次元の火力の優越は、単位時間当たりの投射量に加えて、目標情報収集・分析の情報機能、
1000t単位で弾薬をガシガシ前方に送る兵站機能を含めた「全体」システムのはずですがね。

何故か射撃陣地変換の「部分」を気にして玩具を欲しがる。
某国の牽引砲全廃施策は正気の沙汰とは思えず。
うず高く積まれた弾薬の山脈の横で、カンカン躍りを踊ることにどれほど意味があるのか。
828JTAC
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2019/12/17(火) 20:02:07.82ID:MkayryJ5
自走砲の作戦次元の真価は、作戦地域が「縦深」に動き始めたときに表れる。
ところが「縦深作戦」に関心が全く、全然、皆無に無いのに、何故か自走化してALSをつけたがる。
装甲は無しで。
829JTAC
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2019/12/17(火) 20:25:20.31ID:MkayryJ5
ナポレオン戦争時の機動砲である騎馬砲兵、通称「空飛ぶ砲兵」は、やはり砲兵の夢でイタリア戦役の花形でした。

馬匹も含めると高価で、戦争が大規模化していくと比率はどうしても下がる。

運用もかなり無茶だった。
「もう二百歩、前へ!」
「敵の顔が識別できるんですけど!」
それがどうした。友軍歩兵の突撃を妨げる敵戦列を叩き潰さざるべからず。

そういうスピリットはどっかに置き忘れて。
アウトリーガーで固定して築城するノウハウも失われる。これって何だろう?
砲兵以外の何かだな。
830JTAC
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2019/12/19(木) 22:52:31.43ID:awFZIL+M
「専門家の戦争」

十八世紀までに欧州の軍隊は国家に使える「役人」になった。
我々のよく知る専門家(ミリタリープロフェッショナル)の軍隊です。
規則正しく雇用され俸給が支払われ出世の見込みが保障され国家に奉仕した。
さらに「軍人」とこれを管理する「文民」に区分された。

これらは、国家が社会の諸資源に対し統制力を得たことをも意味する。
専門的軍隊の発展は、対外防衛のみならず対内的な抑圧の具でもある。
絶対君主の手中に恐るべき力が入った。
イギリスやアメリカが常備軍を嫌うのはこの苦い経験による。

他方、プロイセンのような四周を敵に包囲された国ではさにあらず。
常備軍なくしてはたちまち滅亡する。
「プロイセン軍の歴史はプロイセン国家の歴史」
(ハンス・デルブリュック)
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2019/12/19(木) 23:01:16.86ID:awFZIL+M
専門的軍隊の発展でリードしたのはユトレヒト諸州同盟・オランダである。
前節のようにバルト海貿易で得た富で、年間を通して軍を武装させることができた。

これによりオランダ陸軍は傭兵には強制できなかった二つのことを可能にした。
「塹壕構築」と「訓練」である。
これがオランダ陸軍に決定的な優位を与えた。
832JTAC
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2019/12/19(木) 23:15:39.13ID:awFZIL+M
オランダ陸軍の司令官・オラニエ公・マウリッツは、「火力」こそが決定的要素であり、
パイクがマスケットを守り、その逆では無いことを理解した初めての指揮官である。

マウリッツは深度十列のマスケット銃手からなる横長の隊形を採用し、これを少数のパイクで騎兵の襲撃から防護した。
マスケット銃手は発射すると回れ右で隊伍の後につき再装填。
最前列は間断なく射撃することができた。

戦闘行為のこのような発展は運動の統制、火力の統制、兵士の自制が必要でそれには「訓練」と「規律」が決定的に重要である。
「規律」は前時代の傭兵や騎士には欠けていた。欧州でも比較的最近の現象である。
833JTAC
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2019/12/19(木) 23:25:58.78ID:awFZIL+M
「規律」は必ずしも新しい考えではなくギリシア人、ローマ人に由来を持つ。
マウリッツは、ライデン大学のユストア・リブシウスの協力によりストア学派哲学を「再発見」した。
自制、自己犠牲、権威への服従。この精神だけがローマ軍を動かせたのである。

ストア派哲学はプロテスタントの実直な生活とよく適合した。
マウリッツの教義はオランダ軍、スウェーデン軍、ブランデンブルグ軍、後のイギリスニューアーミー等、プロテスタント諸派軍に受入れられていった。
834JTAC
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2019/12/20(金) 20:07:34.09ID:U0pfrWOJ
マウリッツはジーゲンに士官学校を創りプロテスタントの若い貴族にオランダ陸軍の教義を教えていった。
マウリッツの弟子の中に、スウェーデン貴族のヤコブ・デラガルディがおり、彼は帰国後、王子の軍事教官になった。

その王子こそが後のスウェーデン王「北方の獅子王」グスタフ・アドルフである。
835JTAC
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2019/12/20(金) 20:27:37.79ID:U0pfrWOJ
中世の「封建騎士の戦争」はスウェーデンを迂回しており王国では一般兵役義務を維持していた。
(「封建騎士」発足の理由は絶えざるヴァイキングの襲撃への対処だが、なんせスウェーデンこそヴァイキングそのものだったので・・・)
グスタフはこれを長期服務軍に発展させた。
兵役は国民の十人に一人で、残りの9人が課税されその一人に供する装備代を負担した。

一方で、国外遠征の場合は徴兵の財政負担は大であり、その土地の傭兵を雇った方が安上がりなことに気がついた。
1632年、グスタフが戦死した際、14万の軍が指揮下にいたが、その90%以上はベルンハルトのような傭兵でもある同盟者であった。

だが、徴兵も傭兵も全てスウェーデン軍の教義を採用しそれによって訓練された。
その有効性は1631年、ブライテンフェルトの戦いで旧教側のオーストリア・バイエルン連合の帝国軍主力を完膚無きまで撃滅することで証明された。

欧州が震撼し勢力図が変わった。
836JTAC
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2019/12/20(金) 20:42:17.70ID:U0pfrWOJ
グスタフ・アドルフは、1632年、ヴァレンシュタインが再編した帝国軍との戦闘で戦死し、スウェーデン軍は徐々に解体されていった。
しかし、スウェーデン軍は戦争遂行の一つの型を示し各国は躍起になってこれを吸収しようとした。

スウェーデンの長期服務兵は王によって支払われ、着せられ、装備を与えられ、王又は代理に指揮された。
供給と兵站は国家の責任と認められ、国土を遥かに離れ重い負担であったとしてもそれは遂行された。
(フランスの策士、リシリュー枢機卿の御寄進がありましたが。カトリックの枢機卿なのにw)
837JTAC
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2019/12/20(金) 20:51:18.03ID:U0pfrWOJ
スウェーデン軍の歩兵は、マスケット銃の軽量化と不断の訓練により発射と装填速度が著しく早くなった。
マウリッツの横隊が深度十列に対し、グスタフの横隊は六列までコンパクト化することができた。
横隊全体による一斉射撃すら可能であった。

騎兵はカラコールから白兵に回帰し、規律正しい集団としいて一斉にサーベルチャージを敢行し中世騎士よりも恐ろしい衝撃を放った。
クロムウェルの鉄騎兵はこの後継である。
838JTAC
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2019/12/20(金) 20:58:55.40ID:U0pfrWOJ
砲兵は、砲身長と射程が必ずしも比例しないという発見により機動力と発射速度が向上した。

最後に最も重要な要素は三兵種を協力して機動させた教義である。
テュレンヌ、ルクセンブルク、マールバラの業績もこの教義基礎とする。
839JTAC
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2019/12/21(土) 21:50:07.53ID:PFSPrjCw
18世紀までに歩兵のマスケット銃は、マッチロック式(火縄銃)からフリントロック式(火打ち石)に改良され
一分間に三発の斉射が可能な深度三列の歩兵隊形となった。
さらに、銃剣の発明により長槍(パイク)無しでポジションを固め騎兵の襲撃を跳ね返し連続射撃を加えることができた。

だが、一旦、隊形が崩れると薄い歩兵の横隊は騎兵に蹂躙される。
サーベルや槍(ランス)で武装した重騎兵(胸甲騎兵、槍騎兵)は依然として重要な兵科であった。
また、トルコ軍との戦闘で必要であった掩護と偵察のための「軽騎兵(ユサール)」は、ハプスブルグ帝国軍を経由し東欧から伝搬した。
一方、機動力をもった火力は「竜騎兵(ドラグーン)」によって提供された。
彼らは軽いマスケット銃を装備しており国内の内乱鎮圧にも使用された。
厨二病的なネーミングは国内向けの威圧効果を狙ったものである。
840JTAC
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2019/12/21(土) 21:56:29.46ID:PFSPrjCw
野砲の改良ではフランスが先行し、砲兵監・ジャン・バティスト・ド・グリボーヴァルにより、
カノン砲は12ポンド砲、8ポンド砲、4ポンド砲
841JTAC
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2019/12/21(土) 22:07:47.78ID:PFSPrjCw
(続)榴弾砲は6インチに標準化された。
(グリボーヴァルシステム)

部品は互換性を持ち、装薬の改良により射程が延伸し、照準器の改良により命中精度が向上し、
砲架の軽量化により戦場の必要な地点に火力を集中できるようになった。

砲兵について最も重要な変化は砲兵自身に起きた。
もはや彼らは「邪悪な専門技術を使う文民集団」とは見なされず、制服を着用し規律を持った軍隊の一兵科となった。

ブリアンヌ士官学校の砲兵候補生にコルシカ出身の優等生がいた。
ナポレオン・ボナパルトである。
842JTAC
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2019/12/22(日) 13:21:51.72ID:7Bo1Q4DL
十八世紀の「専門家の戦争」は、兵器の発達以上にその開発を決定し、生産と補給を調整し、
経費を支払う地位に専任の文民国家官僚が座りコントロールするようになったことが重要である。
グスタフ・アドルフが残した青写真を発展させたのはブルボン朝フランス王国であった。

アンリ四世が暗殺され王家が破産した当時のフランスは、欧州では取るに足らない勢力と見られていたが、
そこに欧州最高の頭脳、辣腕の宰相、リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシーが出現し歴史の歯車が回り始めた。

ハプスブルグ家にオーストリア、スペインから挟撃される戦略的位置にあるフランスは、
三十年戦争当初はスウェーデンを財政支援して代理戦争を戦わせていた。
が、グスタフが戦死したときリシュリューが悟ったことは、ハプスブルグの力が欧州で支配的になるべきでないとするならば、
フランスは軍隊を改良して自ら戦場に出る必要性に直面している、ということであった。
843JTAC
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2019/12/22(日) 13:43:21.03ID:7Bo1Q4DL
ところが、それは恐るべき仕事であった。
ブルボン王家は支配下の雑多な地方に支配権をもっていなかった。
行政組織もなく、ついでに金もなかった。三十年戦争を通して一万二千を越える軍を養うことはできなかった。

軍の運営費は、各連隊長に一括して渡し、各連隊長が部下と装備に支払いを行ったが、
腐敗が凄まじく、俸給は滞り小部隊さえも度々四散した。

上級将校は貴族達であったが、王家に対する忠誠心など皆無で戦場でも内紛を起こした。
ロクロワで最強スペイン軍を粉砕したヒーロー、大コンデ公もスペインに寝返る始末。
ルイ十四世が即位するまで破産、腐敗、無規律がフランス軍のトレード・マークであった。
(よって、リシュリューはスウェーデン宰相アクセル・オクセンシェルナに軍事費を強請られ苦労するわけです。)

このフランス軍が1680年に三十万に達し、その後、全欧州に喧嘩を売って四半世紀も光輝と栄光を欲しいままにする。
意外としか言いようがない奇跡である。
いったい、どのように達成されたのか?
844JTAC
垢版 |
2019/12/22(日) 14:29:51.37ID:7Bo1Q4DL
この革新の鍵は「軍を管理する文民制度の創設」である。
この官僚制(経理部(intendance))は、リシュリュー時代に「査察官制度」として始まった。
彼らは軍を訪問または駐在し、地方から徴税して食料・弾薬の支給を確保し、また王に報告した。

ルイ十四世の時代になると、二人の疲れを知らない官僚、ミッシェル・ル・テリエ、その息子のド・ルヴォワがこれを単一の中央集権的な管理機関に発展させた。

各連隊、さらには現地の住民はこれらの官僚の調達行為を不愉快に思ったが、不平を言っても無駄である。
その後背には精力的かつ非情なルヴォワが控えており、さらにはそれを支持する王がいた。
これらの機構により逆説的に王の支配は有効に主張されるようになった。
845JTAC
垢版 |
2019/12/22(日) 14:56:44.35ID:7Bo1Q4DL
ル・テリエ、ルヴォワの改革は、これまた非情なる重商主義者コルベールによる財政に裏づけられ成功したが、
金はそれ自体では有効性を改良できず、軍の官僚機構による支配力の強化との相乗により達成できたと見るべきであろう。

このフランス軍は、軍全体の監察総監「やかまし屋」ド・マルチネによって歩兵の訓練基準を叩き込まれた。
全ての貴族の将校は、模範連隊である近衛銃士隊において演習し規律を叩き込まれた後、各連隊に送られた。
また、フランスの国境はセバスチャン・ル・ブレストル・ヴォーバンの「要塞制度」により不落の強度で防衛された。
846JTAC
垢版 |
2019/12/22(日) 15:19:14.25ID:7Bo1Q4DL
フランスの軍官僚機構の成功も「当時の基準で」という但し書きがつく。
ヴォーバン曰く「豚のように住み、半分裸で、餓死しそうな」フランス軍の現状を考えると王家が心配だ、と。
(18世紀末に的中します。)
ロココ時代の軍隊は、外見は優雅でも、実態は浅ましく残忍で戦争に巻き込まれる人々にとっては野蛮なものであった。

しかし、フランス軍は、その欠点にも関わらず、欧州がそれまでに見た中で最良最強かつ最大で、また最も優れた国家権力による支配の具でもあった。
それは、四十万にも達し最新の武装が施され、マルチネが定めた一分間当たりの歩調に従い機械のように行軍し
フランス王家に逆らう者達を踏み潰していった。

フランスの軍事制度は全ての欧州の国々に真似られた。
怠れば蹂躙され滅亡あるのみである。
フランスの建築、美術、宮廷儀礼、ファッション、料理なども同様である。

軍隊を財産としていたドイツの小君主達はひたむきなまでの正確さでフランスの模範を真似た。
その中で不毛で貧乏で政治的に重要でないブランデンブルグ選帝公ほど真面目に見事にフランスを真似た者はいない。
彼らは十八世紀の始めに皇帝に対する忠誠によってプロイセン王の称号を得た。
847JTAC
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2019/12/23(月) 10:15:58.79ID:VyKKvg+o
十七世紀初頭のホーエンツォルレン家はまさに弱者で、ブランデンブルグ選帝候領は、
出鱈目な相続によりヴィストラ川からライン川の平原に防衛不可能なほと散在し、
領土内には、世界で最も言うことを聞かないハンザ同盟系都市、不従順なドイツ騎士団系貴族、疑い深い身分制部会の代表者が跋扈していた。
ホーエンツォルレン家が彼らを説得して軍隊の金を出させるのは至難の業と言えた。

後から振り返ると、大選帝候フリードリヒ・ヴィルヘルムは恐ろしく長期的な戦略で軍隊と国家を作ったように見えるが、
実際は時々の必要にせまられた場当たり的な措置であった。
848JTAC
垢版 |
2019/12/23(月) 10:21:21.58ID:VyKKvg+o
某サイトによると、オランダのマウリッツ、フランスのリシュリュー、スウェーデンのオクセンシェルナ。
そして、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム。
この四人で「十七世紀のえげつな四天王」と言うそうです。
(フッフッフッ・・・奴は四天王の中でも最弱の面汚しッ・・・。)
849JTAC
垢版 |
2019/12/23(月) 10:53:25.04ID:VyKKvg+o
1653年。バルト海戦争に選帝候領の北と東が巻き込まれた。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは、現行の全ての貴族等の特権承認と引き換えにわずかな上納金を課して数千の軍隊を集めた。
このとき、うまいこと言いくるめて「課税」という伝統的な賤業を取り上げることに成功した。
ただし、上納金自体は微々たる額である。

1654年。帝国議会(神聖ローマ帝国内では現代の国連に近い)は「帝国内の住民は、君主や修道院防衛のための寄付をしなさい」とお触れを出した。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは、これは「寄付を強制す権利を君主に与えられた」と都合よく解釈し実力をもって「寄付」を徴収した。

ブランデンブルグ・プロイセン軍は、深甚なる領内貴族と都市、身分制部会の「御理解」「御協力」により、ついに四万五千の陸軍に成長した。
もはや、こっちのものであるw。
フランスの経理部と同様、プロイセンでも官僚機構が発達し
租税監督官や地方管区長は
プロイセン軍に対する王の必要を供するため工業、商業への支配を強めた。

これらの措置により孫のフリードリヒ・ヴィルヘルム一世のときにはプロイセン軍は八万に脹れ上がった。
将校は貴族から集められ、特権の確認と引き換えに少なくとも息子の一人を将校団に供することを義務付けられ、
プロイセン王家の従順な柱石となって言った。
フォン・トレスコウ家、フォン・ファルケンシュタイン家、フォン・マントイフェル家、フォン・クライスト家。
どこかで聞いたような名である。
850JTAC
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2019/12/23(月) 12:28:00.54ID:jIrFEpon
十八世紀の軍隊において、かつての傭兵の呑気な友情は厳格な階層構造に変わった。

一方は「将校」(commissioned officers)で王と直接的で個人的な関係にあり、生まれに関わらず軍隊内で貴族的生活様式を採用した。
他方は「兵卒」(other ranks)で懸賞金か強制徴募で募集された。
彼らは「下士官」(non-commissioned officers)という番犬階級で秩序づけられ、やたら鞭打たれて規律付けられた。
戦場でさえ、入念な隊形変換をロボットのように遂行し、敵の射撃に対しても何時間も動かず立っているように訓練された。

戦闘はあまりに破壊的であり、専門兵士を補充するのは困難で十八世紀の将軍は交戦を嫌った。
フリードリヒ大王は「戦争の最高の極意は敵を飢えさせること」
「戦争は戦闘で決する他ないが、それは時宜を得たものであらゆる点で諸君の側が有利でなければならない。」
「得られる好機は敵を供給から遮断するときであり、有利な地形を選択するときである。」
と「高級将校への訓令」で述べている。
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2019/12/23(月) 12:59:25.10ID:je9CxuVG
敵国内で軍事行動するとき、食料と飼料と弾薬を絶えず供給しながら約七万の軍隊を維持するという問題が、将軍の修得すべき第一のもので、
次の戦闘の補給物資が前線に集積されるまで戦闘を開始できなかった。
馬とラバの飼料が運動中の軍の主要な補給品で、一旦、冬営に入ると春の終わりまで動きがとれなかった。
前進速度は軍隊そのものの行軍に加えて、後方の通信線に沿って倉庫が作られる速度と、
補給部隊が基地から倉庫へ、倉庫から前線へと動く時間に制約された。

この時代から、「基地」(base)、「翼側」(franks)、「後方連絡線」(lines of communication(LOC))、「内線と外線」(inrerior and exterior lines)などの表現が登場した。
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2019/12/23(月) 13:12:31.17ID:je9CxuVG
前進軍はせいぜい数日の行軍で敵の要塞に遭遇し、指揮官は迂回するか攻囲するか選択をせまられた。
要塞の攻城には一夏かかるが、迂回を選択した場合はLOCに絶えず脅威を受ける。
要塞を封じるのに十分な兵力を割けば迂回も可能だが、少数の分遣は主力を弱め敵の思うがままになる。

迅速な進軍をできるように軍隊を訓練した大胆な指揮官だけが、
秋雨で道路が不通になる二、三ヶ月以内に決定的成果を望むことができた。
それにしても、一、二の上出来な攻囲戦を行い翌年の戦役開始に好都合な位置を占めることがせきれば幸運だと考えた。

つみ重なる重圧と財政的消耗が相手に講話を結ぶよう強いるまで、
このような小さな成功を積み重ねる方が、戦闘に全てをかけるよりは賢明とおもわれた
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2019/12/23(月) 13:25:51.73ID:je9CxuVG
軍隊は、自己充足した世界であり、独自の慣例、儀式、音楽、服装、習慣をもつ下位文化(サブカルチャー)であった。
「軍隊生活」として知られる単調だが取りつかれたような生活様式は、現代に至るまで各国軍に残っている。
社会のその他の者はほとんど関心を持たない。

何世紀もの間、欧州の無防備な人々を餌食にしてきた狼の群を、
訓練された従順な猟犬状態、ほとんどプードルにしたのは欧州文明の功績と言える。

しかし、このような非常な成功は反作用ももたらした。
欧州の富が発展するにつれて、ブルジョアジーの繁栄と自信も大いに発展した。
彼らは貴族の将校と、社会的な脱落者の兵士による軍事的要素を何の共感もなく見ていた。
良くても自分達に関係の無い専門家集団として、悪ければ嘲笑と軽蔑の対象として。
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2019/12/23(月) 13:38:15.07ID:je9CxuVG
啓蒙運動の人々は、もはや戦争を人類必然の運命とは考えなかった。

経済学者も、戦争をかつての「商人の戦争」時代のような富の源泉とは考えなかった。
富は商品の自由で妨害のない通商から得られる。イギリスの偉大なアダム・スミスの弟子達はそう教えた。

戦争は間違った法と誤った認識と既得権の結果であり、
もし世界が人間と社会の行動の本性をまことに理解した明察な人々に支配され組織されるならば、戦争は起こる必要が無い。
ヴォルテールや百科全書派の人々はそう教えた。

啓蒙化した人々がそこから解放されようとしている。
そして、いつか、もう間もなく、人類が完全にそこから逃れることができる。

軍隊とは、今なお古い時代遅れの生活様式を引きずる代表者に過ぎない。
そう考えた。
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2019/12/23(月) 13:50:21.95ID:je9CxuVG
しかし、全く別のもう一つの反作用もあった。

堅固に組み上げられた軍隊にまつわる諸制度は、戦争遂行を社会の他の部分から切り離した結果、
社会的、政治的な力にとって不十分な具となった、と見る人々がフランスにはいた。

これらの力は、十八世紀後半の静かな表面下で力を集め始めたもので、
新しい種類の軍事組織、新しい戦争方式にその表現を見出ださねばならない力であった。

これらの代弁者の一人がジャック・ド・ギベール伯あり、
その著作「戦術概論」は同時代の戦争遂行に対する痛烈な攻撃で始まっている。
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2019/12/23(月) 14:08:13.03ID:je9CxuVG
「我々は、十分に召集されてもいず、適切に支払われてもいない軍隊をもって戦端を開く。
勝つにせよ、負けるにせよ双方の側は等しく疲弊する。
国債は増し、信用は低下し、金は消失する。
海軍も陸軍ももはや兵を見つけられなくなる。双方の側の大臣達は交渉の潮時だと感じる。

講話が結ばれる。
二、三の植民地や州の所有権が変わる。
しばしば紛争の原因は未解決のまま残り、どちらの側も廃虚の中に座し、
借金を返すこと、武器を研ぐことに忙殺される。

しかし、次のような国民が欧州に生まれることを仮定してみよ。

その精神においても資源においても政府においても活力のある国民。
厳格な徳と国民的市民軍が一緒になって決定された膨張政策に向かう国民。
その目的を見失わず、いかに安く戦争をするか、いかに勝利によって生活するかを知り、
財政的制約から武器を棄てることを余儀なくされない国民。

そのような国民が、まるで北風が柔らかいアシを揺り動かすように、隣国を屈服させ、
その脆弱な体制を打倒するのを、われわれは見ることになるであろう。」

われわれは。
見ることになるであろう。
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2019/12/23(月) 14:17:24.42ID:je9CxuVG
ギベールは、このような出来事が実際に起こるとは期待していなかった。

「欧州には強力であると同時に新しい国家はもはや存在しないから、このような国民は生まれないだろう。
欧州諸国は同じように成長し互いに堕落させあっている。」
と、悲しげに続けている。

ギベールは、1791年に死んだ。
彼の瞠目すべき預言が、現実になり始めるのを見るには、彼の死は一年ほど早すぎた。

Grande Armee!
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2019/12/25(水) 23:59:14.13ID:EF28SNk/
「革命の戦争」

革命フランスと隣国との間で1792年から1815年まで25年間未曾有の規模で間断なく戦争が続いた。
その結果、君主がいかに勤勉で国民の利益に献身しても、国家は王朝君主の「家産」とは見なされなくなった。
「自由」「民族性」「革命」といった抽象的概念によって、国民の大多数は、
国家の中にいかなる犠牲を払っても惜しくない絶対善の具現化を見ることができるようになった。

この時代を生きたカール・フォン・クラウゼヴィッツが認めたように、戦争は国家政策と別個の活動ではなく、
他の手段をもってする国家政策の実施であった。

国家がその性格を変えれば、政策も変わるだろうし、戦争も変わるだろう。
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2019/12/26(木) 00:10:16.99ID:LdrNPExc
旧体制を破壊し、短期間ではあったがヴィストラ川から大西洋までの新カロリング朝を創建したフランス軍を考えても、
業績の秘密を説明するような新兵器はない。
フリードリヒ大王とほぼ同じである。
しかし、十八世紀から始まっていた変革の内、次の四つは重要である。

第一は、軍を自律的な「師団」に分割したこと。

第二は、自由に動き自由に射撃する斥候兵(軽歩兵、ライフル兵)を採用したこと。

第三は、ある地点の火力の優越のため砲兵を柔軟に使用したこと。

第四は、防御を重視した横隊よりも攻撃における「衝撃」を強調した攻撃縦隊の使用。
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2019/12/26(木) 00:32:15.28ID:LdrNPExc
第一、第二は、マッチロック式からフリントロック式マスケット銃への変換により独立戦闘力が向上し
小集団を前衛、側衛、後衛ととして分遣することにより可能になった。

七年戦争後にフランスのピエール・ド・ブルゼは、全軍をこの線に沿って改編するように推奨した。
ブルゼは「山岳戦の原則」の中で軍を全ての兵種からなる「師団」に分けることを提案した。
各師団は各々の前進経路沿いに運動し、相互に支援しつつ持続的に運動する能力を持つ。
このことにより、運動速度が速くなっただけでなく、新しい柔軟な「機動」を可能にした。

そこでは、攻城と補給という伝統的知識に加え新しい作戦的計算が必要となった。
異なった戦力の部隊が、防御の利によって独立で抵抗できる時間の長さに基づいた計算である。

側道を前進する部隊は、補給線に全面依存しなくても生存でき(つまり、「アレ」ですねw)、運動をさらに迅速にした。
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2019/12/26(木) 00:54:20.84ID:LdrNPExc
主力から離れた「哨戦」が一般的になり専門部隊の必要性が大きくなった。

この才能の持主が大勢いた軍は、欧州南東でトルコとの長い戦役を戦ったハプスブルク帝国の軍隊であった。
クロアチア民兵(パンデュール)、ハンガリー軽騎兵(ユサール)、アルバニア軽騎兵(ストラディオツ)などである。

1741年。女帝マリア・テレジアは、オーストリア継承戦争でプロイセンとフランスの侵略に対しこれらの部隊を有効に使った。
彼女の敵は、帝国軍のはるか前方で独立作戦するこれら部隊を「山賊、人殺し」だと泣き言を言ったが、対抗手段を取らざるを得なかった。
フリードリヒ大王は、全く不本意ながら民間の狩人を召集し猟兵大隊を、軽騎兵を召集し自由大隊を創設した。
が、戦後「脱走兵、放浪者」など悪罵を投げつけ軽蔑の内に解散させた。

小部隊戦のもう一つの学校は北アメリカの森林で、英仏米のいづれも「不正規戦」の価値を認めた。
しばしば狩人独特のカムフラージュを施した軽歩兵が運用され、それは欧州本国軍でも軍の一部になった。
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2019/12/26(木) 01:15:17.44ID:LdrNPExc
第三の砲兵については、グリボーヴァルシステムに加え、
ジャン・デュ・テイユ、ジョゼフ・デュ・テイユ男爵兄弟により運用が分析された。
テイユ兄弟は若きナポレオン・ボナパルトの後援者兼師匠である。

(偉人伝的英雄ナポレオン伝説は戦史としては有害と感じます。
孤高の天才ではなく、ちゃんと学術系列上の裏付がある環境から生まれた天才である、と。)

ティユは「野戦における新しい砲兵用法」の中で敵線に突破口を作り利用するための砲火の集中の方策を示した。
火力と運動の相互依存、正面射より側射の利点を強調したが、常に兵力集中の必要性への留意に回帰した。

「我々は、敵を破ろうとする地点に最大数の軍隊と、できる限り多くの野砲を集めねばならない。
決勝点に我が砲兵を増加しなければならない。
聡明に維持・増加された砲兵が決定的な結果をもたらす。」
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2019/12/26(木) 01:29:51.09ID:LdrNPExc
第四の、攻撃縦隊への願望は、伝統的な戦闘線の対決から起こる不経済な行き詰りから生起した。

十八世紀初期のフランス軍事著述家ド・フォーラルにより論じられた深い攻撃縦隊は、
実はオーストリア継承戦争の段階で既に破綻していたが、
フランス革命初期の戦争でもまだ残っており防御火力でずたずたに引き裂かれ悲惨な末路を辿った。

世紀が進むにつれ攻撃縦隊は修正がなされ、ギベールにより混合隊形(ordre mixte)が導入された。
必要に応じて横隊への展開が可能な小さな大隊縦隊を基礎とする教令がフランス軍の公式となった。
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2019/12/26(木) 01:50:20.47ID:LdrNPExc
革命によりフランス軍は旧体制の教義を一時的に喪失し、一二日しかマスケット銃を操作したことがない新兵だらけになった。
「突撃」という叫びに応じて巨大な攻撃縦隊で進むのみである。

一方で革命軍は旧秩序では否定された「責任」と「機会」を付与された青年将校と下士官の誠の強化を含んでおり、
これは宮廷貴族に人気が無かった砲兵と軽歩兵ではどこよりも当てはまった。
1792年のヴァルミーの戦いでは、旧正規軍の砲兵の連続砲撃がフランス軍に勝利をもたらした。

その後、フランス軍は旧秩序と新秩序の混成として再編成された。
一旧正規大隊が二新義勇大隊とともに旅団に編制され、新しい国民軍の「赤」と「青」にかつての国王軍の「白」が両側から挟まれ、フランス国旗「三色旗」になった。

新生フランス軍の躍進の秘密は、アンシャンレジームの専門主義と武装国民の情熱の組み合わせにある。
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2019/12/26(木) 01:57:54.07ID:LdrNPExc
その後のフランス革命軍、フランス大陸軍の進撃は、
まず第一に「熱狂的全体主義的である体制」、
第二に「アレクサンダー大王以来の最大の軍事的天才」
これらなしには、あれほど見事には戦わなかったであろうし、
またあれほど長くも戦わなかったであろう。
866JTAC
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2019/12/26(木) 02:24:15.06ID:LdrNPExc
アンシャンレジーム王家は注意深く軍事予算を計算したが、フランス革命政府にとって数は問題ではなかった。
1793年までに義勇兵は尽きていたが、8月23日法により徴兵を布告。
革命軍組織者のラザール・カルノーは1794年までに百万の武装した兵を手に入れた。

「常に一団となって行動せよ。機動も軍事技術もいらない。火力、鋼鉄、愛国心だけでいい。」
「戦争は暴力的状態である。徹底的にそうせよ。」
「我々は最後の最後まで皆殺しにする必要がある。」
戦争はもはや穏やかでも非決定的でもなかった。

人を徴兵できるなら装備や給養もできるはず。
カルノーと愉快な仲間たちはギロチンに基づく計画的戦争経済を作り出した。
すべての収穫は地方の消費分を除き徴用された。
一般人には配給カードでおいしい「平等パン」が配給された。
物資のストックは輸出用に全て徴集され、外国貿易は中央委員会で規制された。
買いだめ闇市取引は死刑である。

兵器・弾薬・制服の生産は国家規模で組織された。
科学者さえも爆発物、弾道の問題解決のため召集された。
研究所がムドンに立てられそこで偵察気球が工夫された。
手旗信号がパリと前線の間で作られた。
初めて科学が国家規模で戦争に応用されたのである。

財政については、前時代にできた「経理部」は力不足で、軍の契約者達は存分に私腹を肥やした。
初めはフランスの、ついで全欧州の納税者達が搾取を受けた。
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2019/12/26(木) 02:36:17.45ID:LdrNPExc
フランス革命の防衛として始まった戦争は、最初は掠奪、ついで征服へと目的が変化した。
ぶっちゃけフランス軍は国内に置けない。外国にいくならどこでも良かった。
それが、イタリア遠征、エジプト遠征、ドイツ、ポーランド、ついにはロシアに行った理由である。

兵士達はナポレオンについていくしかなかった
第一は掠奪の見込み。第二は昇進への期待である。
ナポレオンの軍隊は有効な社会的流動の手段であった。
これが「栄光」の実態である。

時代の浪漫主義的英雄主義の精神は大陸軍において戦利品へのあからさまな関心と共存した。
フランス人が何世代にもわたりノスタルジアをもって振り替えるのも無理はない時代である(苦笑)。
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2019/12/26(木) 02:56:05.73ID:LdrNPExc
ナポレオンは、会戦を個々の戦闘の連続ではなく、全体として捉える能力をもっていた。
彼の能力の本質はすべての軍事作戦が行われる目的を認識する能力である。
(Operational art!)

政治目的が戦略・作戦計画を指示した。
作戦計画は、敵の陣地に決定的地点を見つけ抵抗できない兵力で攻撃することに向けられた。

ナポレオンは、テイユから、また自身の砲兵候補生としての研究から多くを学んだ。
「作戦計画は攻城に似ている。一点に火力を集中せよ。
突破口ができれば均衡は崩れ、すべてのことが使い道が無くなる。」

数で優越した敵への決勝点は、敵兵力を分断する点で各個撃破を可能にした。
イタリアでは度々起りワーテルローでもあわやのところまで追い込んだ。

劣勢の敵には通信が脆弱点で敵に不利な戦いを強制する。
ウルムではオーストリアのマックが屈辱的降伏に追い込まれた。
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2019/12/26(木) 03:07:52.17ID:LdrNPExc
兵力の決定的な集中は、まずは分散から始まった。
非常に幅広い展開で敵にはナポレオンの攻撃地点の見分けがつかない。

1805年。大陸軍の各軍団は、北フランス、ハノーヴァ、オランダに分散して宿営し、
ウルムでオーストリア軍を包囲するように完全なタイミングで集められた。
次いで再び分散し、アウステルリッツで集結してロシア軍とオーストリア軍を撃破した。
さらに北進しつつ勢子のように分散しイエナでプロイセン軍を撃破した。

これらの機動の目的は戦闘を開始するための最良の地点にフランス軍を導くことであった。
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2019/12/26(木) 03:23:03.79ID:LdrNPExc
ナポレオンにとっての戦闘は、必要悪ではなく全会戦のクライマックスと見られた。

前哨斥候兵と射撃に習熟した選抜歩兵が敵の抵抗を混乱させるため主力前方を進んだ。
砲兵は敵線を掃射。
各歩兵縦隊は敵の防御に銃剣をもって執拗に突撃して敵弱点を露出させた。

弱点に対しナポレオンは火力を集中し予備隊を放った。
防御が崩壊したとき、騎兵を放ち敵国民のパニックを助長し、
たて直しの機会を破壊する深い進入を敢行した。
871JTAC
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2019/12/26(木) 21:26:05.11ID:io3mrodK
しかしながら、戦争が継続し徴兵の質が低下するとナポレオンの戦術は正直すぎる乱打戦にすぎなくなった。
1806年以降の徴兵は兵器を発射するのがやっと。他の初歩的技術は行軍間に仲間から習った。

1809年。アスペル・エスリンクでオーストリアのカール大公に最初の敗北を被った。
ワグラムで復讐したがその過程で三万の兵を失った。
1812年。ポロディノでロシアの陣地にまともに突撃して三万人喪失。
ワーテルローでもウェリントンの戦線に拙劣な攻撃を繰返し二万五千を失った。
ウェリントンとの勝敗に関わらず、戦略全体が破綻したのは明白である。
872JTAC
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2019/12/26(木) 22:44:27.41ID:FtB0Y2Z0
ナポレオンも兵站を軽視していたわけではない。後方連絡線の確立には留意した。
が、大陸軍の動きが速すぎ補給縦隊が追いつくのは困難だった。
必然的に現地調達によるしかなく、これがフランス革命の大義を魅力の無いものにした。

軍の規模が10万を越えると、現地調達でも賄えるのは短期間で、それ以降は敵国の倉庫の占領か敵国政府に給養の提供を強制した。
が、戦域がポーランドやイベリア半島に拡大すると補給は解決し難い問題となった。

イベリア半島におけるウェリントンの成功は、フランス軍の補給の困難を知悉した冷酷非情な焦土作戦にあった。

1812年のロシア軍の成功は、フランス軍の補給範囲を遥かに越えたロシア領内への侵攻に耐え、決戦を回避して誘引する忍耐にあった。
冬と飢えが残りの仕事をした。
873JTAC
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2019/12/26(木) 22:57:41.83ID:FtB0Y2Z0
フランス軍の破滅は、ある程度はナポレオン自身の方法論の欠陥による。
フランスの資源に対してあまりにも乱暴な要求を行い、因果応報は早晩ナポレオン自身を襲う運命だった。

が、これはナポレオンの敵の功績を過少評価するものではなく、
カール大公やウェリントンのような古い型の冷静な司令官が得た成功は、
良い補給線と固い規律を強調する十八世紀の戦略、戦術がなお持続的な価値を持つことを示した。

しかし、ナポレオンの方法に直面して十八世紀の決まりきった型に、
考えなしに固執することは破滅的であったことも明らかであった。
十八世紀の戦争を最も有効なものにしたプロイセンほどこれを思い知った国はない。
2019/12/26(木) 23:00:16.09ID:DkgSMoTH
>>388さん、>>390さん、レス有難うございます。
なるほど、やはり比インパルスは比推力と同じ意味なのですね。
これで安心して読み続けられます。
御教示どうも有難うございました。
875JTAC
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2019/12/26(木) 23:06:52.06ID:FtB0Y2Z0
>>874
誤爆?
貴官は友軍に誤爆している!
ただちに座標を再確認せよ!
876JTAC
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2019/12/26(木) 23:19:04.60ID:FtB0Y2Z0
第一次対仏同盟、1801年までのナポレオン諸戦役の観察によって、プロイセン陸軍の若い将校グループは、
彼らが戦争において何か新しいものに直面していることを確信した。
すなわちフランス革命において明白だった民族的エネルギーの解放は、
一時的現象ではなく根本的変化であるということである。

その変化は欧州の政治的・軍事的関係を変え、彼ら自身の国家も
軍事的ばかりでなく政治的な改革で対応しなければならない。
1806年のイエナの破局はその考えの正しさを立証した。

これらの人々とは、ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト、
ヘルマン・フォン・ボイエン、アウグスト・フォン・グナイゼンウ、
そして、カール・フォン・クラウゼヴィッツのことである。

彼らのリーダーのシャルンホルストは、軍再編委員会の長に任命された。
877874
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2019/12/27(金) 01:02:13.47ID:OpMeB/ie
>>875
済みません、御指摘の通り誤爆でした
御迷惑をお掛けしましたこと、お詫び致します
878JTAC
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2019/12/27(金) 12:19:51.99ID:XbAdsjGH
師団組織と軽歩兵採用のようなフランスの隊形や技術を機械的に真似ることでは明らかに不十分であった。
プロイセン陸軍が、軍人以外の国民から軽蔑され鞭でしか秩序づけられない
長期服務の徴兵であるかぎり軍事改革は不可能であった。
陸軍は、自らを国家の守護者と見、社会からもそう見られる真面目で有能で信頼できる愛国者から成り立たねばならない。

しかし、その前提はグナイゼナウがあっさり言ったように
「国民が有効に祖国を守るべきであるとすりならば、
国民にまず祖国を与える」ことである。
祖国とは、ホーエンツォルレン家の単なる世襲財産ではなく、より広く崇高な概念たる「ドイツ」であるべきだ。
879JTAC
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2019/12/27(金) 12:27:50.52ID:XbAdsjGH
これは危険な思想であった。
ホーエンツォルレン家、ハプスブルク家、それに追随する貴族達は、
まさにこの種の思想を抑圧するためにフランスと戦っている。

シャルンホルストと協力者達は、宮廷からも軍内部からも激しい反対に直面した。
ある者は絶望して断念し、クラウゼヴィッツのようにロシア軍で勤務する者もいた。

しかし、1813年。ロシアでナポレオン軍が崩壊してから状況は変わった。
ドイツ中で階級を問わず愛国的情熱が爆発し以前の障壁の多くはうち壊された。
880JTAC
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2019/12/27(金) 12:40:31.96ID:XbAdsjGH
徴兵が導入され、国民服務部隊である後備軍(Landwehr)が作られた。
それは独自の将校を決め、そこでの服務は軍に召集されなかった全ての兵役適齢者に対して強制的であった。

陸軍と後備軍の双方で、初めこそ動きが鈍かったが執拗で勇敢なのべ約60万の兵を戦場に送り込んだ。
彼らは、1813年のライプツィッヒにおけるナポレオンの撃破に、1814年にナポレオンに退位を強要したフランス戦役に、
1815年のナポレオンの最終的な打倒に、遺憾の無い働きを示した。

ナポレオンの侵攻はドイツに武装国民を呼び覚ましていた。
しかし、ドイツ民族は、単一の国家という媒体を通じて現れることができなかったので、
大きな問題は将来に残ったままであった。
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2019/12/28(土) 00:28:33.60ID:NhZVle4G
イギリスは、十八世紀を通じて島国の地位と海軍力によって陸軍はぎりぎりまで縮小されていた。
イギリスの支配階級は、イギリス王国を守るのは、第一に海軍、
次いで田舎のジェントリーが支配下においた在郷軍(Militia)すなわち「合憲的軍隊」に期待した。
(どこかで・・・どこかで聞いた話ですね。)

革命戦争によって必要となった軍隊の拡大(四万→十五万)は疑い深い議会に一歩一歩吟味された。
ジェントリーは将校職購買制度と地方連隊制度の維持によって陸軍への有効な支配を維持した。
イギリス陸軍は社会の階級構造を反映する十八世紀的軍隊であった。

サー・ジョン・ムーア等革新的軍人はフランス軍の制度の柔軟性と独立性を導入しようとした。
が、支配的人物ウェリントン公アーサー・ウェルズリーは変化が必要だとは考えなかった。
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2019/12/28(土) 00:35:55.78ID:NhZVle4G
イギリスが十八世紀的軍隊で持ちこたえたのは、天下無敵のイギリス海軍の優越性によるものだった。
だが、その優越性は十八世紀を通してフランス海軍の挑戦を受けた。

七年戦争におけるイギリス海軍の勝利は、北アメリカ、インドでの植民地競走相手としてのフランスを除去したが
フランス海軍の改善努力により二十年後のアメリカ独立戦争において一連の敗北を喫しアメリカ植民地の反乱制圧を放棄せざるを得なくなった。
883JTAC
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2019/12/28(土) 00:51:22.97ID:NhZVle4G
フランス革命はフランス海軍の指揮体系、補給体系を破壊した。
その間、イギリス海軍は海軍軍政本部のサー・チャールズ・ミドルトンの元、フランスに敗れた欠陥を反省した。

提督サー・チャールズ・ダグラスのフランスのグリボーヴァルシステムに匹敵する砲術の改良により
海上戦においても敵艦船に肉薄して射撃を浴びせ撃滅することが可能になった。

新しい信号体系により戦闘線の硬直性は無限に変化する戦術隊形方策を駆使する能力に転じ、
ロドニー、ジャービス、そしてネルソンは、敵を当惑させる戦術的技量により、
スペイン、オランダ、フランスというイギリスの伝統的な敵対的艦隊を全て次々に撃破し
二十世紀まで続く世界の海に対する支配を確立した。
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2019/12/28(土) 01:04:03.95ID:NhZVle4G
1805年のトラファルガー海戦の後、英仏は互いに相互封鎖を企てたが、
それは(二十世紀のような)「相手国の飢餓」を狙ったものではなく、
「商人の戦争」、交易の破壊により敵国の財政を壊滅させる重商主義的な戦略であると考えられた。

ナポレオンは、フランス実業界の支持を得て、イギリスに対するコルベール流の重商主義的戦争を再現しようと決意。
ベルリン勅令により支配下の全ての土地からイギリスの商品の締め出しを図った。
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2019/12/28(土) 01:50:24.82ID:NhZVle4G
イギリスの反応は、フランスの交易を破壊するためではなく、それを統制することを目指す封鎖を課すことであった。
(「輸出管理」である。どこかで・・どこかで聞いたようなw)

「フランスは勅令でイギリスとの全交易を止めると決意した。
イギリスはイギリス以外にフランスとの交易はさせないと答えたのである。」
中立船は、イギリスが決めた条件でのみフランスとの交易が許された。
アメリカとの摩擦は直に起り、1812年、アメリカと戦争になった。

欧州大陸は、イギリスが全面的に独占していた木綿、染料、砂糖、コーヒーのような植民地の産物を切望していた。
従ってイギリスの封鎖は、密輸により緩和はされたが、耐え難い欠乏を欧州大陸に課した。
その結果、欧州の人々はフランス革命がもたらした政治的利益よりも、
経済的圧迫とフランス支配の腐敗について意識するところとなった。

ナポレオンは自ら課した封鎖を機能させるために、スペイン、ポルトガル、イタリアを大陸体制に取り込んだが、
この体制は逆に地中海にまでイギリスへの支持を産み出した。
ロシアがイギリスとの通商を再開したとき、ナポレオンには武力で服従させる以外の方法が無かった。
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2019/12/28(土) 02:01:29.28ID:NhZVle4G
イギリス経済もうまくいってるわけではなかった。
供給過剰危機が起り、倉庫に売れない商品溢れ、労働者は解雇され反乱と機械の打ち壊し運動が頻発した。

イギリス陸軍は、いかなる外戦よりも忙殺される任務に出動させられた。
同じイギリス人の鎮圧である。

ナポレオンのイベリア半島への侵略で、フランスのスペイン、ポルトガルの市場が開かれたことで、
イギリス経済はかろうじて生き延びた。
アメリカ合州国はイギリス製品をボイコットし、南アメリカへの輸出が倍以上に膨れあがった。
この交易パターンは第二次世界大戦まで続く。
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2019/12/28(土) 02:08:03.85ID:NhZVle4G
革命とナポレオン時代の軍事的出来事の背景で、二つの相対する経済体制の闘争が起こっていた。
後者の闘争は前者に劣らず決定的で、戦争の将来に一層重大であった。
戦争は全体的になりはじめたのである。

軍隊の対立ではなく、国民の対立になりつつあった。
「革命の戦争」は終わり「民族(国民)の戦争」へとパラダイムが変わりつつあった。
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2019/12/28(土) 02:17:02.41ID:NhZVle4G
次章の「民族の戦争」について、手元のハワード本の訳者・奥村大作氏もタイトルに苦慮している。
ニュアンス的には「国民(nations)」に近い。
訳者はマッツィーニを論拠に「国民」よりも「民族」を是とした。
(自分には何のことやら。
が、ドイツやイタリアのような、まだ国家として未統一で
しかも次のパラダイムで主導的な例もあり、
感覚的に民族(国家)くらいで良いのかな、とも)
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2019/12/30(月) 02:19:47.57ID:vy1z0QMY
「民族(国民・国家)の戦争」

欧州の支配階級は25年ぶりに権力の座に戻ってきた。不安のうちに。
彼らの関心は、政治的・社会的均衡の回復である。
ナポレオン戦争が、欧州の国際体制の打倒にとっていかなる価値をもっても
その体制を維持しようと考える政治家には無価値である。

各国の陸軍は社会から隔絶された貴族将校と長期服務軍という十八世紀の形態に戻ろうとした。
イギリス、ロシア、オーストリアは問題なく戻った。
プロイセンの場合、シャルンホルストの後備軍制度は全面的には廃止にならなかったが
改革者達(グナイゼナウ、クラウゼヴィッツ等)は左遷若しくは退役に追いやられた。
フランスの場合は、実態として徴兵を貧民階級に限定して七年の長期服務として骨抜きにした。
これらの軍は対外戦争よりも国内の反乱鎮圧に忙殺された。

この時代、最も尊敬された戦略家は、古い型の戦争と新しい型の戦争の継続性を強調した人々であった。
ナポレオンとフリードリヒ大王の「専門性」を結び付け、
将来も有効であると確信をもって期待された基本的原則を示した。
スイスのアントワーヌ・ド・ジョミニなどである。
彼らの著述では、ナポレオン戦争では十八世紀の戦争と同じように
自軍を防衛しながら敵の翼側、LOCを脅かすとか、決勝点での力の優越を確保するとか
単なる機動の問題になってしまった。
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2019/12/30(月) 02:30:00.68ID:vy1z0QMY
しかし、クラウゼヴィッツは、類似点よりも相違点を分析し説明することに関心を持った。
戦争は、軍事的専門技術の問題と、少なくとも同程度は精神的、政治的諸要因の問題であり、
フランス革命によって引き起こされた諸要因こより戦争の性格は明らかに変わった。

全面的勝利を求めて国家の勝利を求める「絶対戦争」の概念も、欧州が「革命の戦争」を
体験していなかったら抽象的な規範、プラトン的理念にすぎないと一笑にふされたであろう。

敵にとっても味方にとっても危険な民族的熱情の爆発こそ王政復古期の政治家が見たくない
と望んだものであり、事実彼らは三十年間それを阻止した。
が、その間の欧州の平和と技術的発展は、戦争が起きた場合ナポレオン戦争を凌駕するほど
凄まじい規模になることを確実にした。
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2019/12/31(火) 20:14:39.39ID:DkSgfsL1
19世紀中半の蒸気機関の発達により陸海の輸送は変化を見た。
それまでは、如何に頑強な専門的軍隊でさえも数週間の行軍間に甚大な死者を出した。

鉄道の価値を証明した最初の戦争は、北イタリアでのフランスとオーストリアの戦争で
十二万のフランス軍は、従来では二ヶ月かかる距離を十一日で戦場に到着した。
しかし、兵と馬は迅速に移動されたが弾薬、医療品、飼葉、架橋、攻城資材が無くオーストリア軍がそれ以下だったので「戦えた」だけであった。

プロイセン参謀本部は、最大の仮想敵の両国の会戦を深い関心で研究し鉄道部を創設した。
1866年の普奥戦争では失策を犯し降車後の兵站が滞ったが
1870年の普仏戦争では未曾有の能率で機能した。
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2019/12/31(火) 20:28:31.70ID:DkSgfsL1
運動速度は、実は鉄道による利益の一つにすぎなかった。

第一に重要だったのは、鉄道が戦場の軍隊に与える持久力であった。
軍隊はもはや前進倉庫に頼らず国家の経済全体を調整して不断の補給ができるようになった。

第二に軍隊は肉体的に良好な状態で戦場についた。
市民生活から徴集された予備兵であっても良い状態で戦場につくのは重大であった。

第三は良い状態に維持できること。傷病者は基地の病院に移し健康な兵と交代できた。
戦争が長引けば休暇で往来できた。

市民にとって戦場は遠い出来事ではなく、開発の進んだ電信で一層密接になった。
新聞が確立されて野心的になるに従い編集室と特派員の間でも即座の通信をもたらした。
イギリスの民衆は、クリミア半島の会戦を、イベリア半島のウェリントン会戦よりはるかに批判的に見守った。
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2019/12/31(火) 20:36:22.02ID:DkSgfsL1
益々、読み書きができるようになった欧州人は、都市化され政治的自覚を持つようになり
通信革命により軍隊の活動に親密さを持つようになった。

政府は軍隊を一般民衆から引きはなそうとしたが、軍隊と母体の社会は、軍隊を支える諸資源の社会全体への軍事的要請により
今まで以上に緊密にならざるを得なかった。
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2019/12/31(火) 20:52:45.24ID:DkSgfsL1
十八世紀は、戦場に展開できる軍隊の大きさは補給の制約により制限があると見られていた。
十八世紀の指揮官が八万以上の軍隊を動かすことは希だった。
この限界は組織的な(あるいは勝手な)掠奪で補うフランス軍により越えられたが、
1812年のモスクワ遠征ではこの無情な即興にも限界があることを露呈した。

しかしこの限界は鉄道の導入により無くなった。
プロイセン参謀本部のように鉄道で軍隊を動かす管理上の複雑さがいったん習熟されると
軍隊の大きさは、兵役適齢期の人口、徴兵に対する政治的経済的制約、訓練し装備し動員するための管理能力、だけであった。
1870年。プロイセンと北ドイツ連邦は、ナポレオンのロシア遠征の2倍、百二十万をフランスに展開した。
1914までにドイツの数字はさらに倍の三百四十万に達したが、隣国の間でも同様の増加があった。
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2020/01/01(水) 01:35:51.00ID:mn657YEG
プロイセンの軍事的有効性の基礎は義務兵役制度にあり、一度は衰退したがヴィルヘルム一世の即位により新しい力を得た。
王は軍事力の再建を第一の目的と決め議会との正面衝突に突入した。

陸軍大臣アルブレヒト・フォン・ローンは、兵役要件を現役三年予備役四年と再び定めた。
予備役後、訓練された兵は後備軍(独立の地位を失い正規軍統制下)に移った。
組織は管区単位の軍団に管理され軍団司令官は徴兵と予備兵と後備兵の召集、
訓練と装備、動員の速度と能率について責任を負った。

動員にあたっては、正規軍は十分に訓練された予備兵で補充され、動員用装備で装備され、
参謀本部が予め作成した計画に基づき主戦場がどの前線でも計画的に鉄道網で派遣された。
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2020/01/01(水) 01:55:16.51ID:mn657YEG
参謀本部は、十九世紀の偉大な軍事的核心であった。
プロイセン参謀本部はシャルンホルストが創設したが、1857年に参謀総長に就任したモルトケが全面再編した。

大軍を補給し展開する問題は、かなり以前から作戦参謀の任務拡大と参謀将校の全軍への配置を必要とした。
軍の規模の拡大とともに、平時の準備と戦時の指揮統制も問題が非常に増加した。
モルトケは参謀将校を有望な連隊将校から選抜し、自らの監視下に訓練し、これをエリートに変えた。
ドイツ帝国陸軍において参謀将校は新しい種類の社会的能率基準を作った。

フランス第二帝国では、小規模の植民地戦争の限定された教訓や、ナポレオン戦争のロマンチックな英雄主義が盛んであったが、
1870年の普仏戦争で戦争を科学的計算と管理計画と専門技術に基礎をおく体制によっtlて押し潰された。

プロイセンの諸制度、徴兵制、戦略的鉄道網、動員技術、さらに参謀本部は欧州大陸のあらゆる国で真似られた。

これを「管理革命」という。

三十年後、キューバと南アフリカで痛い目にあったイギリス、アメリカもこのモデルを自らの必要性に適合させるに至った。
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2020/01/02(木) 20:52:39.65ID:gn7HDTUy
管理革命とならんで「技術革命」が進行した。
1815年から1914年の間、兵器の技術革命は戦術を変えた。

1870年までの変化で、小銃は施条(rifle)され射程と精度を5倍向上させた。
1840年代に施条されたマスケット銃が発達し、前装ライフルの欠点・装填速度も旧型と同程度になった。
同時にフリントロック式は、より信頼性高い撃発雷管式に変わった。
フランス、イギリス、ロシア、オーストリアは1850年代にこれらでクリミア、イタリアで戦った。

プロイセンは、これらの戦役に不参加だったため、彼らの後装式施条のドライセ銃は未評価であった。
不細工な兵器で前装銃ほど射程もなく銃尾からガスが放出されるため不快でもある。
が、それは前装銃に発射速度で3倍優勢であり、しかも伏射できる圧倒的利点があった。
戦史上、初めて歩兵は自ら標的になることなく数百ヤード先の敵を殺傷できるようになった。

1866年にプロイセン軍があまりにも効果的に利点を活用したため、全ての欧州各国陸軍は自分達の改良型後装銃を入手した。
898JTAC
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2020/01/02(木) 21:02:42.25ID:gn7HDTUy
砲兵でも同じ発達があり、プロイセン陸軍は、フリードリヒ・クルップの新型後装式鋼鉄砲により1870年の戦場を支配した。
緒戦においてドイツ軍はフランス軍の優れたシャスポ式ライフルに阻止されたが、
その射程外からクルップ砲で連打し屈服させた。

かくて、1870年代までに攻撃軍が敵と近接戦闘するのは困難になった。
フランス陣地を攻撃するプロイセン歩兵、プロイセン陣地を攻撃するフランス騎兵は共に恐るべき損害を被った。
プロイセンの勝利は、一部は砲兵により、一部は数の優越によって可能になった包囲作戦によるものである。
1970年以降、この困難さはさらに増大する。
899JTAC
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2020/01/02(木) 21:10:22.13ID:gn7HDTUy
1880年代にリダイト、コルダイト、メリナイト等の高性能火薬が発達し、
瞬間的燃焼により位置を暴露する煙を出さず、発射速度を損なう滓も残さず、歩兵のライフルは千ヤードまで射程を伸ばした。
さらには、19世紀末には水冷式機関銃が出現した。

これらの兵器で守られた陣地をいったいどのように攻撃すべきか?
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2020/01/02(木) 21:21:23.50ID:gn7HDTUy
戦術の著述家達は、十九世紀の終わりに、攻撃側は防御側よりも一層強大な火力によってのみ成功すると述べた。
同時に起こった野砲の発達でこれは可能になるように思われた。

野砲は、射程が伸びたため、五マイル離れた敵から隠れた陣地から射撃し戦闘に参加できた。
さらに無反動砲架は、発射後の射撃位置への回復を不要にし、迅速性、正確性を向上させた。

1918年までには、地歩を取るのは砲兵で、それを保持するのが歩兵になった。
そして地歩の重要性は、砲兵の観測の便宜性で決まった。
901JTAC
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2020/01/02(木) 21:33:31.78ID:gn7HDTUy
最後に、最も誉れ高く、最も古い兵科の騎兵はどうなったか?

急襲と偵察機能は問題なかった。
だが戦闘で決定的衝撃を与えるという歴史的な存在意義に対しては自殺行為であろうと示唆された。
騎兵科は抵抗し1914年になっても欧州の全陸軍はランスとサーベルで武装した常備編制を保持していた。

連続した戦線が作られない東欧州では騎兵は二十世紀でも有効であった。
しかし西欧州では、重騎兵は高価な時代錯誤ということが開戦後、数週間で明白になった。
偵察の役割でさえ、自動車二輪と装甲車にとって代わられた。
902JTAC
垢版 |
2020/01/02(木) 21:51:03.69ID:gn7HDTUy
独特の観察者であったポーランドの銀行家、イワン・ブロッホは、
兵器の性能の注意深い分析に基いた著書「将来戦」を著したが、その中で攻撃が成功するのは今や統計的に不可能であるので
戦争は政策の実行可能な手段では無くなった、と結論した。

軍事指導者達は、もちろん同じ結論は出さなかったが、準備された陣地に対する攻撃は甚大な損害を覚悟すべきである、ということは否定しなかった。
他方、1870年ドイツ軍が行った包囲機動は巨大な兵力を必要とする。

いずれも最大の人的資源をもつ軍隊が優位に立つため、1871年から1914年の間、
各国の参謀本部は、この問題の解決策として競ってより大きな軍隊を要求した。
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2020/01/03(金) 11:19:22.03ID:8uhnK/aZ
最も緊急に実行したのはドイツ参謀本部であった。
ビスマルクのロシアとの同盟政策が放棄され、ロシア帝国内の鉄道網が発達し
欧州での展開兵力が巨大化し、問題は年毎に大きくなっていった。
フランス-ロシアの二正面戦争は避けられそうもない。
問題はどちらの戦線に最初に兵力を集結するか。

セダン型の決定的勝利は西欧州の限定的な区域においてのみ可能と考えられた。
フランスを叩くべし。
だが、フランス国境は強力に要塞化されている。
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2020/01/03(金) 11:28:33.57ID:8uhnK/aZ
ドイツ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンの解決策はよく知られている。
ベルギーを通る広大な包囲機動、これに連動する「明日なき戦闘」(Schlacht ohne Morgen)でフランス軍を殲滅する。
そうなれば、緩慢なロシア軍に対処するため東方に主力を輸送できる。

シュリーフェンは1905年に退官したが、後継者達はこれを実行するため
さらにドイツ軍の規模を増大させる新軍法を通過させた。
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2020/01/03(金) 21:18:43.43ID:8uhnK/aZ
フランス参謀本部は、防御側の力についてドイツ参謀本部ほど懸念を持たなかった。

まず、第一に彼らは1870年の敗北の原因を、ナポレン方式に従い、先手を取り
敵前で勇敢に機動する代わりに陣地で防御しようとした消極性のせいにした。
(諸君にはエラン・ビタールが足りない!)

第二に戦争では精神的なものと物質的なものの比率は3:1だというナポレオンの格言を
肝に銘じており、フランスの軍事指導者、中でもフェルジナンド・フォッシュ将軍は、
攻撃側が火力の決定的優勢を取れる限り、最強の防御でさえ英雄的指揮による
大量攻撃により攻略できる、と信じ続けた。
(諸君にはエラン・ビタールが足りない!)

かくて、彼らは1914年に攻撃によってドイツ軍の動きを粉砕しようと計画した。
攻撃では酷い損害が予期されたが、意志の強い指揮官は決してひつみはしないはずだった。
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2020/01/03(金) 21:30:30.96ID:8uhnK/aZ
1914年以前から、欧州各国は、小型の専門的軍隊ではなく、軍医的有効性は
国民の「人力」と戦略的に適切な「鉄道網」との組み合わせに掛かっていると認めていた。
この二点で優位に立つ国家は、他のことが同等であれば一夜で欧州の地図を
塗りかえるということであった。

人力の利用と福祉が、かつてないほど国家の関心事になった。
出生率は軍事力の指標となり、フランス軍はライバル・ドイツに対する出生率の低下を
深い懸念をもって見守った。
イギリスは、1850年代に対ロシア戦で招集した在郷軍兵士が驚くべき高率で
軍務に不適で不合格だった苦い経験を有していた。

近代陸軍は複雑な組織で、階級の低い兵士にも読み書き算数が要求された。
皮肉屋は将校よりも下士官の読み書きが必要だと主張しかねなかった。
戦場が非常に大きいため、上級将校は全般的な言葉で意図を述べるだけで
後は下級将校に任せるしかなかった。
優秀な将校を多数もつ必要があった。
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2020/01/03(金) 21:42:01.44ID:8uhnK/aZ
将校は、貴族階級からだけでは供給不可能であった。
技術面の理解と、一級の管理能力、これと従来の貴族的な勇気、率先、独立心、
指導性を兼ね備えた正規将校が多数必要であった。

この変化は、フランスでは、革命以降すでに中流階級を将校に取り込んでおり問題なく
受け入れられた。ハプスブルク帝国では貴族制は常に折衷的で柔軟であった。
ロシアでは、大量のユンカーからの士官学校卒業生で埋められた。

ところが、ドイツははるかに柔軟性を欠いていた。
ドイツの将校団と帝室は親密な忠誠関係にあり、プロイセン将校団は、外敵に対する
守護者であると同時に社会秩序の守護者としても自らを考えた。
参謀本部の陸軍拡張は認めるが、自由主義的な中流階級の成り上がりに将校連中が
圧倒され、また社会主義思想にかぶれた青年によって列兵が満たされることを警戒した。
908JTAC
垢版 |
2020/01/03(金) 21:48:16.79ID:8uhnK/aZ
それは杞憂であった。

1820-1830年代の中流の急進主義者は、確かに革命的で1850年代にも反抗したが、
ビスマルクは帝室に対するドイツナショナリズムの普及を通じて毒針を抜き、
1871年には彼らは誰にも負けず、大声で「皇帝万歳」を叫んだ。

プロイセン軍事体制と一体化したドイツ・ブルジョワジーは将校予備役の地位を
せしめて喜び、工業プロレタリアートの間に社会主義が成長するのを
上流階級同様に怯えた。
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垢版 |
2020/01/04(土) 08:53:41.70ID:Z7H1ooRf
ドイツの軍事当局の懸念は、ルールやラインラントで急増する都市人口によって
軍事的人員増を徴集せざるを得なかったことである。
ブランデンブルクやプロイセンの純朴な農民と違い、封建的君主への忠誠心への
伝統を持たない彼らは信頼できるのだろうか?
ドイツの上流階級が心配する革命に対し、社会を防衛するように要求された場合
彼らは信頼できるのだろうか?

プロイセンの将校団が心配したところは、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの
望むところである。二人とも軍事問題に関する熱心な研究者であり鋭い批評家であった。
特にエンゲルスの著作は、彼を十九世紀の第一級の軍事批評家の一人にしている。
それらの著作は、軍事的な専門的問題の把握と、軍事的発展と社会的変化の
根源関係について深い理解を示している。

これらの革命主義者達は、エリートによって鼓舞された反乱が既存の社会秩序を
転覆し得ると信じていた。
軍事力は常に人間世界における変化の具であったし、これからもそうだろう。
また、そのような変化は一定の客観的法則に従ってはじめて生起し得るものだ。

革命的状況は、進展するのに時間が掛かった。しかし軍隊において大衆自身が
火器と戦術の訓練を受け、旧秩序の抑圧の具であった専門的軍人に
とってかわるということは、来るべき革命にとってこの上ない福音であった。
910JTAC
垢版 |
2020/01/04(土) 09:24:47.51ID:Z7H1ooRf
マルクスとエンゲルスが希望し、プロイセン将校団が恐れた事態は、少なくとも
1917年のロシア革命までは起きなかった。その時、ロシアの社会構造は
耐え難い緊張に覆われていた。それに対し、ドイツ陸軍は転覆されはしなかった。
かえって、ドイツでもその他の国でも、一般兵役制度は軍国主義化の有効な手段で
あることが明らかになった。

「軍国主義」は「ファシズム」同様、あまりに一般的で無学な使われ方をされる言葉に
なり注意が必要である。ここでは、「軍国主義」は軍事的下位文化(サブカルチャー)の
価値を社会の支配的価値として認めることを意味する。
(階級秩序、服従、勇気、自己犠牲)
十九世紀末までに欧州は著しく軍国化された。
戦争は、封建的支配階級や専門家小集団の問題とはもはや考えられず、国民全体の
問題と考えられた。

軍国主義的ナショナリズムは、純然たるブルジョア的現象ではなかった。
マルクスが労働者は国家を持たないと書いたとき、
実は初期産業革命の労働者について語ったのである。
彼らは田舎の安定した社会から引き離され、都市に惨めな状態で群がった。
都市は未だ一体感を発展させておらず、彼らを搾取する社会からまさに疎外されていた。

しかし、五十年後、百年後、国家教育、合法的な労働組合、安価な扇情的な新聞が
この状況を一変させた。
労働者階級は、社会主義の刺激と同等以上にナショナリズムの刺激に反応していった。
国境を超える階級統合の訴えは、1914年にひとたび進軍ラッパがなるや雲散霧消した。

国家は、国家を生み出した唯一無二の価値体系の具現化と見なされるようになり、
国家を守り、国家に奉仕する責務はいよいよ大きくなった。
いかに国家の目的が平和的で理想が高尚でも、その最高の運命は戦争であるという
結論をさけることが困難になった。
そして思想家たちはその結論を避けないものが多くなった。
911JTAC
垢版 |
2020/01/04(土) 09:35:40.14ID:Z7H1ooRf
このことは、1914年の驚くべき現象を説明するのに役に立つ。

世界大戦の勃発と同時に、興奮した群衆が欧州のあらゆる大都市の大通りを埋めた。
イギリスの志願兵は、騒ぎが終わる前にフランスに行こうと召集所に群がった。
フランスの士官学校生は、古めかしい正装で戦闘に進軍した。
大学生だったドイツの予備兵がランゲマークで腕を組んで歌いながら進み、
イギリスの機関銃手に射殺された。当時の文学に現れた忘我の意識などもそうである。

兵士の大群はありあまる善良さをもって前進した。
シュリーフェンの不可能な目標を達成するため長い進軍をした。
ジョッフルの攻勢作戦を達成するため不平も言わずに生命を投げ出した。

1914年を通じて欧州の大衆軍を支えた情熱は、二年後にやっと退潮した。
そのときでさえ、イギリスとドイツでは情熱は頑固で不屈な忍耐となって定着した。
912JTAC
垢版 |
2020/01/04(土) 09:41:53.61ID:Z7H1ooRf
この情熱を、ただ支配的エリートの宣伝と操縦のせいにするのは
粗雑で機械論的で歪曲された説明である。

イギリス、フランスでは戦争初期に権力を握っていた伝統的な政治家は
ロイド・ジョージやクレマンソーのような民衆的な人物によって駆逐された。
ドイツのヒンデンブルク、ルーデンドルフの軍事独裁は、祖国戦線という強力な
組織に指示された。この組織の大部分は下層中流階級の指示により成り立っていた。
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