>肇和級(2500〜2750トン) - 2隻
>肇和(Chao Ho) - 光緒32年(1906年)、イギリス・アームストロング造船所
>應瑞(Ying Swei) - 光緒32年(1906年)、イギリス・ヴィッカーズ造船所

ニューヨーク造船所で建造した飛鴻(Fei Hung)と「3隻セットで運用する」練習巡洋艦として計画された。
そのために3隻で武装もボイラーもバラバラにした。主導したのは1883年生まれの愛新覚羅溥儀のお父さん。
どこまで本当か知らないが、戦艦7隻だの巡洋艦20隻だの潜水艦だのと最新機材の取得をぶち上げた新生清国海軍はこの練習巡洋艦から始まる予定だった。

>光緒32年(1906年)

3隻の起工は1910年(宣統2年)11月7日、12月12日、1911年6月14日。進水が1911年10月12日、7月14日、1912年5月4日。就役は1912年2月12日、1911年12月2日。工事の進捗で1番艦と2番艦が入れ替わっている。
そして辛亥革命が始まったのが1911年10月10日。愛新覚羅溥儀の退位が1912年2月12日で、日本の清朝と革命軍の仲介案を潰して共和制の中華民国を成立させたのはイギリス、と。
政治的理由でイギリス製の2隻は中華民国に届いたが、商売でやってたアメリカは3番艦をギリシアに転売。

>7隻の防護巡洋艦を調達し、新生清国海軍の中核となりました。

清国海軍の再建とは1895年の敗戦からの5年で、それは義和団の乱で頓挫。1隻は座礁で沈没、仕切り直すも1隻も届かないうちに革命でタイムアップ。
なので、日清戦争敗北後の新造艦は7隻ではなく5隻、座礁事故のあとは4隻が正しいかと。
日露戦争までのタイムラインが史実と同じで、かつ作中でも国民党政府が共産党と戦争やってるなら、中国海軍は史実ほどの規模で維持する理由すら無いので。

>これらの老朽艦艇も日本軍に撃沈される末路は辿らなかったでしょう。

日本が高度経済成長をやって、そのとばっちりが日本経済圏に及ぶなら、石炭で動くフネは早々に解体されるような。