>>551
アムンゼンと同時期に南極を目指した白瀬中尉も、やはりそんなノリで体を鍛え北極点制覇を人生の目標にしていましたしね。

しかし北極点は先に米国のピアリーに踏破されてしまった為、やむなく二人とも南極点に目標を切り替え船と隊員を調達して
南極を目指しました。

とは言え資金も装備も乏しい白瀬隊の南極到達は遅れに遅れ、ようやくアムンゼン隊の母船フラム号が停泊する泊地に白瀬らが
辿り着いた次の日にアムンゼンが南極点に到達していました。

結局白瀬隊は南緯80度の手前でやむなく引き返し、犬ぞり用の樺太犬20頭も全て置き去りにして這う這うの体で日本に帰還
しましたが、同じく南極点を目指していた英国のスコット隊は帰路で全滅してしまったので、アムンゼンは白瀬隊の乏しい装備と
物資で全員生還しえた事の意義を誰よりもよく理解していました。

南極帰還後の白瀬は、後援会が集めた資金も持ち逃げされて莫大な借金を背負い、以後の人生の大半を南極探検のフィルムを
携えた講演旅行で返済する事に費やし、国民的英雄とは程遠い貧乏生活を送りました。

そして昭和期になってアムンゼンが白瀬宅を訪問した際にも、余りの貧乏さに絶句したと言われますが、白瀬の南極探検講演で
感化された少年らも多く、そのうちの何人かは昭和29年の昭和基地設置と越冬隊に深く関与しました。

白瀬が人生を捧げた冒険は決して無駄にはならず、その意義と魂は立派に後世に受け継がれたのです。