民〇党ですが裏アカ発掘されそうです

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2022/07/17(日) 19:28:52.26ID:ToFjx1tY0
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情報がバラバラに増えるだけでいつまでも完結しない!ゆえに何もできん (σ゚∀゚)σエークセレント

アーニャって何の愛称だっけで盛り上がった前スレ
民〇党類ですが一方的にコラボします
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/army/1658024198/

関連スレ
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https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/sports/36360/1657953222/
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http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/sports/36360/1635421778/
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過去ログ
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2022/07/17(日) 19:49:36.71ID:y2MEdPJI0
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後鳥羽が譲位した翌年、年が明けて早々に源頼朝が52年の生涯を閉じる。
彼の死によって鎌倉が大混乱に陥ったのは言うまでもないが、これに京都は無関係だったかというとそうでもなく、当然の事ながらゴタゴタが起きている。
最初に動いたのは土御門通親であった。
先年後鳥羽の譲位を強行したために悪化していた幕府との関係を改善するために通親は頼家を右近衛権少将から左近衛中将に昇進させる事を計画、
そのついでに自らも右近衛大将へと就任しようとしていたのだがそう考えて動いていた矢先に通親の下に頼朝死去の報が入る。
頼朝の死が公表された後では頼家は喪に服すため彼の昇進を延期せざるを得なくなるため、通親は秋を予定していた除目(朝廷の任官儀式)を急遽五か月半ほど前倒して臨時で行い、
自らの右大将就任と頼家の昇進の手続きを取った(これに対してまた定家が「野郎事前に頼朝の死の情報掴んでやがったな」とキレる)。
2022/07/17(日) 19:50:47.90ID:y2MEdPJI0
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さて臨時除目の後で公表された頼朝の死は意外な所に影響を及ぼしていた。以前せっかく京から鎌倉に来たのに即大姫に振られて帰った一条高能が記憶に新しい一条家である。
彼の父親である一条能保は頼朝の同母姉もしくは妹を妻にしていたこともあって頼朝との結びつきが強く源平合戦の頃は戦火を逃れるために鎌倉に在住、
京都守護および行家と義経の捜索のため当時京にいた北条時政と入れ替わる形で京に戻ってからは京における鎌倉幕府の代表者的存在でもあった。、
そして能保の娘は後鳥羽の乳母であるため乳父である能保は後鳥羽への影響力も有している。
能保の嫡男である高能に大姫との縁談が来ていたのもその縁であり、通親はそんな一条家に目を付けて頼朝とのパイプ役として高能を自派閥に取り込みほぼ毎年の勢いでガンガン昇進させていたのだが、
後鳥羽が譲位する前年に能保が、その翌年には高能が相次いで病死する。
幸い高能は子供を五人程残しており、嫡男信能は既に官職にはついていたものの10歳という若さではさすがに頼りなく、
頼朝がいる内は彼が後ろ盾になってくれてはいたが彼が亡くなったとなれば話は違ってくる。利用価値が大幅に下がった一条家を通親が切り捨てる可能性は高いであろう……
……と危機感を抱いたのが一条家と関係が深かった貴族の源隆保と一条家の家人であった後藤基清・中原政経・小野義成の三人である。
2022/07/17(日) 19:53:20.92ID:y2MEdPJI0
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別にこの段階で信能が通親にどうこうされた訳でもないのに被害妄想強くない?という気もするが人間一度生じた疑念という物はそう簡単には収まらずむしろ雪だるま式に加速していく。
彼らは能保の娘婿である西園寺公経と能保の従兄弟で能保の猶子でもある持明院保家を引き入れ通親の襲撃を計画するのだが、
どうやら行動に移す前に情報の一部が漏れたらしく相手が未確認ながらも襲撃の情報を察知した通親は院御所に立てこもり京には不穏な空気が立ち込めるのだが、
二十日ほどして源隆保が兵を集めている旨の事実が明らかになる。

通親が立て籠もってからここまでの間に頼家に対し頼朝の後を継ぎ各国守護の統括を認める宣下が出ているあたり、
恐らく通親は長男が通親の猶子になっている大江広元に連絡を取り、広元以下幕府首脳は通親を支持する見返りとして朝廷から正式に頼家を頼朝の後継とする事を認める宣下を出させたと思われる。
ともあれ源隆保達が主犯と知れたあたりから事態は急速に動き、数日後には後藤ら三人の家人は源頼家の雑色に逮捕され更に数日後には源隆保ら三人が出仕停止、
ついでに何をやったか理由が書かれていないが何故か文覚まで検非違使に逮捕された後に鎌倉から中原親能が上洛して騒動の処理を行い、
これにより不穏な空気が漂っていた京都は平静に帰した。
2022/07/17(日) 19:54:32.31ID:y2MEdPJI0
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一条家の家人三人がいずれも左衛門尉であった事から三左衛門事件と呼ばれるこの逮捕劇だが、
結局この騒動は時期が時期という事と朝廷内での騒動で武力を行使する段階にまで至らなかったからか厳罰に処される者もおらず、
逮捕された家人三人は鎌倉に送られるが受け取り拒否をされてUターンで京都に戻り、以後記録が無い中原以外の二人はその翌年にはあっさり赦免され復帰をしている。
出仕停止された貴族連中もやはり数年後には赦免され、西園寺に至ってはその後朝廷と鎌倉との間で起こる出来事で重要人物として度々名前が出てくる。
ほぼとばっちりに近い形で事件の大元になってしまった一条家は高能の遺児達が幼少な事には変わりがないのでこの後政治の表舞台からは一時姿を消す。
嫡男の信能は数年後後鳥羽による院政においてその近臣として再び姿を見せるのだがそれはもう少し先の話である。

ちなみに文覚は佐渡に送られるも3年で帰ってきたが、翌年また何かやらかしたのか後鳥羽上皇に謀反容疑で対馬に流されてその途中大宰府で客死している。
後白河法皇と頼朝との間で立ち回った怪僧も寿命には勝てなかったが死の際に頼朝公御幼少のみぎりの髑髏を持っていて死後それがとあるガマの油売りの手に渡ったかまでは分からない。
2022/07/17(日) 19:57:02.41ID:bXgid3Db0
>>13
>死の際に頼朝公御幼少のみぎりの髑髏を持っていて死後それがとあるガマの油売りの手に渡ったかまでは分からない。

おいw
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