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一条家の家人三人がいずれも左衛門尉であった事から三左衛門事件と呼ばれるこの逮捕劇だが、
結局この騒動は時期が時期という事と朝廷内での騒動で武力を行使する段階にまで至らなかったからか厳罰に処される者もおらず、
逮捕された家人三人は鎌倉に送られるが受け取り拒否をされてUターンで京都に戻り、以後記録が無い中原以外の二人はその翌年にはあっさり赦免され復帰をしている。
出仕停止された貴族連中もやはり数年後には赦免され、西園寺に至ってはその後朝廷と鎌倉との間で起こる出来事で重要人物として度々名前が出てくる。
ほぼとばっちりに近い形で事件の大元になってしまった一条家は高能の遺児達が幼少な事には変わりがないのでこの後政治の表舞台からは一時姿を消す。
嫡男の信能は数年後後鳥羽による院政においてその近臣として再び姿を見せるのだがそれはもう少し先の話である。

ちなみに文覚は佐渡に送られるも3年で帰ってきたが、翌年また何かやらかしたのか後鳥羽上皇に謀反容疑で対馬に流されてその途中大宰府で客死している。
後白河法皇と頼朝との間で立ち回った怪僧も寿命には勝てなかったが死の際に頼朝公御幼少のみぎりの髑髏を持っていて死後それがとあるガマの油売りの手に渡ったかまでは分からない。