>>515 43年後半のラバウル迂回もハルゼーの提案だそうですし、暴走はいただけないですが、積極的で有能な指揮官だったのでしょうね(最後は元帥ですし~多少お友達関係の忖度はあったらしい)。

ただし、中部太平洋作戦を実施した 5th Freet からの(トラック空襲等の結果を鑑みての)ヤップ他のスキップ提案(だけが理由ではないですが)で、サイパン侵攻が44年10月予定から6月に繰り上がっているそうなので、これはハルゼーの 3rd Freet がレイテ防衛の手薄さを発見してミンダナオ島攻略スキップを提案した(だけが理由ではないですが)結果レイテ侵攻が44年12月予定から10月に繰り上がったのと同じような動きですね。

44年中に硫黄島攻略という案(これは実現しなかった)がスプルーアンスのラインから出ていたとかいう記載もあったような。

ということでハルゼーだけでなく当時の太平洋戦線の米軍(ニミッツやマッカーサー麾下)はスキあらばスケジュール繰り上げを積極的・柔軟に狙って、内ゲバ(ここにはスレ主他が投稿しているブラウンシューズの乱も含まれる)しつつもどんどん蛙飛びに北上してきて、日本側は後手後手に回って(戦術的にはタラワやマリアナやペリリューやレイテで各論的な米側への批判あれども)戦略的には日本側の完全敗北、という書きっぷりだったと思います、太平洋の試練は。