>>477
和歌李真下

しかし「市民を盾にするテロ組織の戦力を潰すとなるとどの軍隊でもこういう戦い方になる」という主張は、果たして歴史的に妥当なのでしょうか?
イラク、チェチェン、スリランカなど都市部での戦闘における民間人犠牲が発生した事例は多々あれど、それらの国家が「一定数の民間人死傷は容認される」と公式に述べた例は極めて稀です。
イスラエルのように戦闘員1人に対して民間人2人の死を「妥当」と公式に言い切る態度は例外的としか言いようがありません。

こうした例外主義的な姿勢はとりわけ右派の修正主義シオニズムと宗教シオニズムに根ざした発想と深く関わっているのではないでしょうか。
ベギンやシャミールらによって構築された修正主義シオニズムは、「歴史的権利」を掲げヨルダン川西岸からガザに至る全土を「不可分のユダヤ人国家」と見なしてきました。 一方、宗教シオニズムは神授の土地という神学的論理に基づき、異民族の排除や非対称な支配を正当化する傾向があります。

その結果、国際法や人道的原則に反しても「民族的目標のためであれば例外は許される」という態度が制度として定着してきたのではないでしょうか?
民間人を殺害しても「敵が盾にしたのだから責任はない」とする発想も、この思考の延長線上にあるように見えます。

こうした軍事倫理が国際社会で広く共有されているとは到底言えません。
むしろ、それを公然と採用し続けることでイスラエルは国際的な信頼と正統性を損ない、孤立を深めているのではないでしょうか?