>>508
和歌李真下

ところで、いくつか確認させてください。

まずあなたは、「ビンラディン作戦では標的1人に対して最大300人までの民間人死傷が許容された」と述べました。
ですが、それはどこで誰が、いつ、どの作戦に関して明言したのでしょうか?
2011年のネプチューン・スピア作戦では、米軍は空爆ではなく、特殊部隊による精密な潜入を選択しています。
それはまさに民間人の犠牲を回避するためではなかったのですか?

また、仮に犠牲想定があったとして、それがイスラエルによる「戦闘員1人に対して民間人2人の死傷は妥当」とする発言の正当化になると本気でお考えですか?
前例があるから免責されるというなら、それは法と倫理を破壊する危険な相対主義ではありませんか?

次に、コソボ空爆の件ですが、NATOの作戦によって民間人が犠牲になったことは「作戦前から一定の民間人死傷を想定・容認していた」という話ではありませんよね?
むしろNATOは民間人被害を最小限にとどめる方針を繰り返し表明し、誤爆に対しては検証と説明責任を果たしてきました。

イスラエルは明確に「人間の盾がある以上、ある程度の民間人の犠牲はやむを得ない」と事前に述べていましたよね?
その姿勢は「比例性」や「区別原則」を重視する国際人道法に照らして正当なものと言えるのでしょうか?

さらに伺いますが、「敵が民間人を盾にするなら、民間人が死んでも責任は相手にある」との論理は、国際法で認められているのですか?
国際人道法では“クリーンハンズの原則”の適用を明確に否定している点はご自身も認めているはずですが、
ならばなぜ、そこから「民間人死傷の責任はハマスにある」と逆戻りするのですか?

そして最後に伺いたいのですが、
イスラエルの国家としての軍事行動、あるいはその背景にある思想を批判することは“民族差別”なのでしょうか?

もしそうだとするなら、ナチス・ドイツを批判することは“ドイツ民族差別”になりますか?
ならないとすれば、なぜイスラエルだけは「国家批判=民族差別」とみなされるのですか?
そのような二重基準こそが、むしろ国家に対する特権意識や例外主義を助長するのではないですか?
批判を封じるために「差別だ」とレッテルを貼るのは最も非論理的な詭弁ではありませんか?