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ロシアとフィンランドの国境地帯、特にロシア側のカレリア地域が1920年代以降、結論から言えば「悲惨」の一言で済まされないほど過酷な歴史を辿っている。これは現在まで続く構造的な問題だ。

まず、ソ連成立直後の1920年代から1930年代。スターリンによる大粛清が吹き荒れる中、この地域は最前線の国境地帯として徹底的な監視下に置かれた。カレリアには元々フィンランド系の住民が多く住んでいたが、彼らは全員「敵性分子」と見なされた。フィン人やカレリア人の知識人・指導層は容赦なく逮捕され、処刑や強制移住の対象となった。国境地帯の人口構成自体をロシア寄りに変えるため、フィンランド系住民を内陸部に追いやり、ロシア系住民を入植させるという民族的な弾圧が行われた。この時期は、政治的な恐怖が日常だったと言える。

次に、第二次世界大戦、特に冬戦争(1939-1940)と継続戦争(1941-1944)だ。この地域はソ連とフィンランドの激しい攻防の主戦場となり、国土は徹底的に破壊された。フィンランドからカレリア地峡を奪った後も、戦後に新しく入植したロシア系住民は、戦争で荒廃しきったインフラのない土地での厳しい生活を強いられた。戦争による破壊の傷跡は深く、復興は容易ではなかった。

そして、ソ連崩壊後も状況は好転しなかった。カレリア共和国はロシアの辺境地域として見捨てられる形となった。かつての基幹産業であった林業や鉱業は市場経済への移行に失敗し衰退。インフラ、特に冬季の暖房や道路などは老朽化したままで、ロシアの欧州部中央地域と比べても貧しく、深刻な地域格差に苦しみ続けている。

つまり、カレリアの悲劇は、単なる戦争の被害というだけでなく、ソ連という国家が「西側とのバッファーゾーン(緩衝地帯)」としてこの地域を位置づけ、その安全保障とイデオロギーのために住民や経済を常に犠牲にしてきた結果だ。その構造的な負担は、ソ連が滅びた現在も解消されず、経済的な困窮という形で残り続けている。この地域は、地政学的な論理に翻弄され続けた典型的な犠牲地と言えるだろう。