中原米長加藤の三国時代を振り返るスレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
対米長戦
1976.11.11〜1982.7.30 36勝25敗
米長が挑戦者だった方が中原V10の可能性が高かった。 戦績は本人達からしてみたらあまり意味は無いだろうな
中原にしてみたら単なるカモだった過去の人が
(本人からしてみたら急に)自分と拮抗し出して
死闘の末、名人位をもぎ取られたんだから
敗北感とか衝撃は「いや、戦績では勝っているから…」なんて言葉で慰められるもんじゃない
中原、米長が滅茶苦茶加藤を意識した発言が多かったのも
戦った当人たちにしかわからない感覚があったんだろうな 何かのインタビューでひふみんも途中から積極的な棋風になって強くなったと中原も言ってたね 中原の本質は勝負師
気質としては大山に近い、そして大山以上の負けず嫌い
だからこそ勝利を重ね一時代を築けた
加藤、米長はどこかロマンチストでここ一番に弱いイメージ
だけど加藤は勝負師を標榜し
米長は米長哲学を掲げていたのがまた面白いところ 米長加藤は別に強くなってはない
中原が早くに衰えたために結果的に三国時代になっただけ
中原が弱体化し始めた時期とほぼ同じくして、既に衰えてるはずの年齢の二上が棋聖取ってるし >>12 谷川の前にマジで中原米長加藤だけでタイトル争ってた三強時代があったのよ。
三強のタイトル戦(左が保持者、右が挑戦者)
1976名人戦 中原〇ー米長●
1976十段戦 中原〇ー加藤●
1977十段戦 中原〇ー加藤●
1977王位戦 中原〇ー米長●
1977棋王戦 加藤〇ー中原●
1978十段戦 中原〇ー米長●
1978王将戦 中原●ー加藤〇
1978棋王戦 加藤●ー米長〇
1979名人戦 中原〇ー米長●
1979棋聖戦 中原〇ー加藤●
1979王位戦 中原●ー米長〇
1979十段戦 中原〇ー米長●
1979棋王戦 米長●ー中原〇
1980名人戦 中原〇ー米長●
1980棋聖戦 中原●ー米長〇
1980王位戦 米長●ー中原〇
1980十段戦 中原●ー加藤〇
1980棋王戦 中原●ー米長〇
1981十段戦 加藤〇ー米長●
1982名人戦 中原●ー加藤〇
1982十段戦 加藤●ー中原〇
タイトル戦の結果だけではわかりくいが、
この期間だけは、実力 中原>米長 米長>加藤 加藤>中原 というジャンケン状態だった。 VS羽生のNHK杯ってアラフィフのおっさんがガキに倒されたみたいな光景かと思ったらまだ41とかそれぐらいだったんだな
老けすぎでしょ…
今、大山全集並べましたってのは聞いても
中原さんの棋譜並べましたってのは聞かないよね
大山さんの感覚は現代でも参考になっても
中原さんの棋風は古臭くて顧みる価値がないと思われてる? 内藤は?中原から王位を、米長から棋聖奪い取ってたぞ >>26
森内と康光のタイトル戦が少ないように
加藤米長も少ないんだよね >>22
ひふみんは、中原に名人戦で4タテのころは、強迫観念のように、1分将棋になっていた
ひねり飛車先手番も指さなかった
先手では矢倉ばかり
十段戦で3−4で中原に負けたあたりから、先手でひねり飛車もやるようになった
時間の使い方も変わった >>27
大山さんの棋譜がよく並べられるのは全集があるのと、最後までA級だったのが大きいのでは
あとアマチュアにとっては晩年の振り飛車の棋譜が親しみやすいとか、受けの技術が新鮮とか
中原さんも晩年まで強いときは強かったし面白いから自分はよく並べるけど
読みに独特なところがあって分かりにくいんだろうか >>10
それは今になって歴代タイトル獲得者だけ見るからそう思うんだろう。
実際は、一強から三強時代になったのは衰えたからではなく、中原の矢倉に対して加藤と米長が強力な新戦法を発明したからだ。
加藤流3七銀戦法、加藤流袖飛車、米長流急戦矢倉、は今でも定跡として指されてる。 >>27
棋譜並べると凄いけど、真似しにくい感じはある
中盤力が強すぎるんだよな
あと結構バランス型の薄い玉形を好むのでスリルはあるが優れた感覚がないと同じように指せない
ナベが手厚い将棋って言ってたけどそうは思えんのだが・・・ >>18
大山は68歳で20歳の羽生森内康光の3人に勝ってる
28歳の谷川にも勝って名人戦プレーオフに進出
羽生世代が活躍できたのは当時の将棋界のレベルが地盤沈下起こしたおかげなのか? 居飛車の棋譜は劣化が早い
振り飛車の棋譜はそうでもない
矢倉にも相がかりにも横歩にも中原流はあるけど
10年前の時点ですら過去の戦法 >>35
そうなんだよな。中原一強→加藤米長が参加→谷川も参加→55年組も参加
ここまでは中原が衰えたからじゃなく、中原流を打ち破る新手を加藤米長によって見つけられたからなんだよな。
おかげでそのあと谷川も早くから、55年組に至ってはデビューいきなりその新戦法で戦う事ができた。
中原自身は、40代半ば(42,43だったかな)から衰え始めた(脳内の盤面が暗くなった)と言っている。つまり90年代に入ってからだと。
80年代は、中原は衰えておらず、対中原の新戦法に非常に苦労した、それだけだと思う。
ちなみに
中原一強→加藤米長が参加→谷川も参加→55年組も参加→羽生世代が序盤研究をもたらし駆逐
この期間ずっと全員ほぼ矢倉だ。
羽生しかり、森内も当然、力戦で有名な康光も当時はがっつり矢倉を指していた。 中原 ⇒ 突撃しか考えないドスケベ
米長 ⇒ すぐに裸になる変人。でもまあマシな方
加藤 ⇒ 対局中相手が嫌がることを平気でやる大馬鹿者 谷川とか55年組とか森下は戦型特化とか棋風重視とか
表面的なレベルでの個性にとらわれすぎて
コピー将棋とさんざん馬鹿にされてた羽生世代の台頭に遅れをとった
小林健や藤井猛の四間飛車再興の動きでドル箱戦法だった左美濃が粉砕されたのも痛かった
元々振り飛車党だった谷川には逆にプラスに作用したけど
ああ、これは三国解体後の五胡十六国時代の話になるのか 「米長加藤が中原に追いついたんじゃなく中原が弱くなったんだ」と思う理由の1つは
50代後半の大山、50歳間近の二上が加藤米長中原相手にそれぞれ
王将と棋聖を3連覇しているから
中原のレベルがそのままで米長や加藤が追いついたのなら
強いのが3人いるのに高齢の大山や二上が活躍できたことになってしまう
加藤や米長も40歳、30代後半になっていく中で、そんな誰も彼もがパワーアップするわけがない
混戦の原因は何かと考えたときにシンプルな答えは
「30歳過ぎた中原のレベルが落ちたから(2〜5番手の大山米長加藤二上がタイトル取れるようになった)」
中原のレベルが落ちたからこそ他が活躍できた、この後の55年組含めてね
もっと言えば羽生や屋敷の年少タイトルもそうだな >>37
勝負師としては当然だな
非難することじゃない
負けた後難癖つけた大内とかいう屑 米長 ⇒ すぐに裸になる変人。更に突撃以上に女癖悪く、弟子なった中学生(林派)を即姦通 →同衾中を嫁に見つかる >>41
それ、2ちゃんでよく見かけるけど信憑性のあるソースはあるの?
先崎がそれ見てシコってたのもガチなの? >>41
米長 ⇒ すぐに裸になる変人。更に突撃以上に女癖悪く、弟子なった中学生(林派)を即姦通 →同衾中を嫁に見つかる
→米長嫁が林葉父に米長林葉姦淫を通報
→林葉父上京 →将棋会館の階段で林葉を折檻
→林葉父、米長と対決するも敗北。娘を福岡に連れて帰る
→林葉は父と近親相姦と米長言いふらす
→林葉無断失踪→林葉連盟脱退
→林葉、中原との愛人関係暴露
→中原泥沼に沈む →米長歓喜、会長へ 畜生すぎて草
あと、桐谷の恋人NTRも追加で。
これで勝負も強いってエロゲのラスボスかな ※は将棋勝負では永遠のno2ポジションだからそれは違うな 加藤一二三長考伝説
@NHK杯で初手1分無音ののち、考えに考えた初手は?と期待させ、76歩!
A17時半ですので次の手を封じて下さい→封じ手を長考。封じたのは、21時10分!
B相手が封じ手だったがそれは読み筋で、封じる前から封じた時間までと、翌日封じ手披露からの計7時間の長考! >>27
ソフト台頭以前、ナベが自身の将棋の幅を広げようと勉強したのが中原将棋なのは有名な話であり中原将棋に価値が無いことはないかと思う 中原が圧倒的で、加藤や米長など問題ではなかったと思う
三国時代なんて言われたことあるのか?
衰えたのは驚くほど早かった いろいろあったのだろう 無い 中原が突出してて、その下を大山 二上 加藤 内藤 米長 らが争ってた 加藤は内藤や米長よりさえなかった
中原と大山が両横綱で、内藤と米長が大関、加藤は関脇程度だった
当初の期待を大いに裏切っていて、もう加藤はだめだという風に思われていたよ
実際にもだめだったけど 才能だけじゃなくて体力もいる
大山も羽生も脳スタミナが凄いって言われてるからね >>48
一応米中戦争なんて言葉あるから
羽生と会長みたいなもんだろうが >米中戦争
こういうのって全部米長が言い出してて、棋界では誰も取り合ってなかったぞ? 内藤はそんなに格の高い存在だったの?
ライバル扱いされてた有吉よりは上だったんだろうけど けっきょく名人9連覇し全盛期だった時の中原から、タイトル奪い取った事有るか?又は防衛した事有るか、なんだよ上記の5人て
有吉 大内 森 桐山らにはそれが無い 三国時代というのは違うな。中原時代に米長や加藤がいただけだろう。中原から名人を取ってるから、桐山先生よりは少し評価が上ってぐらいじゃねえの? 内藤は名人戦出られなかった事が名人至上主義者からマイナスに見られる 米長は加藤嫌いというのをプロレス的に公言していたのか本気で嫌いだったのか
加藤を尊敬していると言っていた高道が王位戦で加藤をストレートで下した時に
それでも尊敬してるかいと嬉しそうに語っていたのを覚えている
翌年米自身が高道にストレート負けするというオチがついたがw >>55
有吉は飛ぶ鳥を落とす勢いだった25歳の中原から棋聖奪取じゃん
一基が更新するまで最年長初タイトル記録だった >>59
加藤と米長はプライベートでの付き合いは皆無で、まともな会話をしたことも無いのだから、そこまで深刻な憎悪の感情に発展のしようがないだろう
対局で顔を合わせる度にイラッとくる、といった意味だろうね >>36
59歳の大山に7番勝負で負けて王将防衛されたりしてるし明らかに衰えだと思うけど、初期の中原は急戦中心で大山を圧倒してるけど大山が59歳の時は天守閣美濃みたいな強力な戦法を使って負けてるからね >>62
なんか米長が加藤をユダ呼ばわりしたみたいな話を聞いたことある、加藤が1人だけスポンサーの変更に反対してて反対しているのはお前だけだみたいな感じで、加藤はキリスト教徒だから完全にアウトだったんだと思うよ >>61
中原が名人になったのは24歳だぞ
1972/6/8 中原が大山から名人奪取
1973/2/5 有吉が中原から棋聖奪取 >>39
三国時代というのに違和感あるのは、米長と加藤が大山を最後まで苦手にしていたからなんだよね。
米長が最年長名人になったり、加藤が五十代でNHK杯優勝してA級復帰したりしたのを思えば、この二人にとって如何に大山が重石であったのかがよくわかる。
1976〜1983は、大山を加えた四強時代という方がまだ腑におちる。当時奨励会だった先崎が「この四人なら奨励会三段に角落ちで勝てる」と回想していた。 >>39
すまそ。重大なミスがあったので書き直し。
三国時代というのに違和感あるのは、米長と加藤が大山を最後まで苦手にしていたからなんだよね。
米長が最年長名人になったり、加藤が五十代でNHK杯優勝してA級復帰したりしたのが大山の死の直後であることを思えば、この二人にとって如何に大山が重石であったのかがよくわかる。
1976〜1983は、大山を加えた四強時代という方がまだ腑におちる。当時奨励会だった先崎が「この四人なら奨励会三段に角落ちで勝てる」と回想していた。 ひふみんも米さんも一期だけ名人とってるのは
大山、中原の後に谷川、羽生というバケモノの台頭のほんの合間に下された
将棋の神様からの温情だったんだと思う
その後、ひふみんは数えきれない敗北を重ねて引退
米さんは言わずと知れた地獄逝き (短期間で見れば好不調の波はあれど)数年以上のスパンで見れば40代後半以降の大山は加齢による衰えが進行してるのは当然の事
50歳前後の大山と60歳前後の大山なら言うまでもなく後者の方が衰えてる
70年代の間はほぼ全ての期間でレーティングトップは中原だった、大山との格付けも済んだはずだった
それが中原が落ち込み始めたタイミングとほぼ同じくして、60歳近い大山がレーティングで1位に立ってる
米長加藤が成長したのではなく中原の衰えの早かったことによるトップのレベルの低下にしか見えないね 年齢的に成長はありえず衰える一方のはずの大山を起点にして考えても
米長加藤の棋力向上による三国時代ではなく、絶対王者だった中原が早くに落ち込んだ事による三国時代だろう 80年代で一番タイトル取ってるのは中原だし、名人も中原が一番多く取っているので
80年代の三国時代でも一応トップは中原ではある
だが70年代の絶対王者だった中原が漢王朝だとすると80年代の中原は三国時代の魏レベルになってしまったね あったとかなかったとか、実際に当時三強時代と言われてただろうが。それが事実じゃないか。
ないと思いたいやつ本人はもう羽生に聞け。「そう言われてましたね、えぇ」というわ。 加藤一二三は中原から名人奪った前後しか目立った活躍してないだろ
1980年代を三国時代と言うなら
中原、谷川、米長 >>70 あなたも少しずれてる。
中原が加藤について「棋風が変わってすごい攻め将棋になって強くなった」と言ってるんだよ。
いわゆる加藤流重戦車と言われて有名だったじゃないか。
三国時代とその前では加藤さんの棋風は変わりましたか?ともう全部羽生に聞けばいいわw
あと米長流急戦矢倉も流行りましたか?も聞いておけ。
中原は、三国時代が過ぎ去った後だけみても1992年までに名人計6期やってんだから。
何が80年代に入って弱くなっただよ。当時の事実に個人意見いらないから。
当時を想像するんじゃなくて当時を振り返るスレなんじゃないのか? >>73 お前も当時を知らんな。
谷川は名人以外のタイトル取れないポッと出の名人と揶揄されてたこともあったろ。
だから谷川を入れたいなら早くても83年からだ。
それまでは三強時代と言われてたんだよ。ここは振り返れりうのない人間が想像で語りすぎだ。
ただ、棋士でもタナトラは中原以外認めないみたいな事言ってたような気はする。 >>26 ここに答えがあったじゃないか。これはいい事実だ。 >>67
さすが羽生世代の先崎。これが「事実」だぞ。
思い出したわ。三強どころか四強か五強かもしれないと確かに言われてた。
四強は大山が入るのか。五強は誰だったのかは全く記憶にない。
中原に挑戦するのはどうせ加藤か米長だろ。
加藤に挑戦するのはどうせ中原か米長だろ。
米長に挑戦するのはどうせ中原か加藤だろ。
そんな時代。そして谷川センセーション。
連投は謝る。 >>75
> >>73 お前も当時を知らんな。
そんな昔をリアルで知る訳ねえだろ
貴様痴呆爺か? >>26
三強というのに違和感があったから数えてみたらその期間は
中原12勝7敗
加藤5勝5敗
米長4勝9敗
普通に中原の一人勝ちじゃん
中原VS加藤も4勝4敗だぞ 三国時代という言い方はなかったように思う
三強という言葉はあったかもしれないけど、あまり普及しなかった
三人というほどはっきりしたものではなく、やはり中原が格上だったと思う
そのあとの谷川がだめだった 天下が取れず、中原に何度も復位を許している
気がついたら有象無象の時代になっていた 中国の三国志も一強二弱だからなぁ
谷川以降のgdgdは研究会全盛時代により
有象無象でも三日天下なら狙えるレベルに到達できる
ルートができちゃったことだと思うなぁ >>69
大山が晩年レーティングで1位だったこともあるのか そりゃすごいわ
(当時はレーティングていう認識はなかったが)中米一の3強時代といっても
大山谷川の新旧に食い込まれてはっきりしない3強だった
84年か85年ごろ将棋世界の企画で新進気鋭の四段陣とトップ棋士の7番勝負
(ただし角落ち)があったが、やはり角落ちは厳しくて大山が1勝しただけだった
大山は単純な棋力だけでない威圧感が凄かったらしいね >>83
A級VS新鋭四段・角落戦なので7番勝負ではなく11番勝負
行われたのは87年(将棋世界1987年1月号〜1987年11月号)
若手のメンバーが強かったのと対照的にA級はピークを過ぎていた棋士も多く
平手でもどうかという声もあったくらいで上手が勝てないのは順当だが
60代の大山の強さが異常としかいいようがない
小林宏も決して弱い若手ではないんだが(後に竜王戦で挑決進出)
加藤一二三九段−日浦市郎四段
森雞二九段−安西勝一四段
小林健二八段−中田功四段
谷川浩司棋王−村山聖四段
桐山清澄棋聖−長沼洋四段
大山康晴十五世名人−小林宏四段
青野照市八段−中田宏樹四段
南芳一八段−達正光四段
有吉道夫九段−神崎健二四段
内藤國雄九段−佐藤康光四段
中原誠名人−櫛田陽一四段 >>84
詳しい訂正ありがとうございます、記憶だけで書くとやはりまちがいますな
確か小林四段が自戦記を書いていて、これも雑誌が手元にないので不確かですが
茫然自失という感じで何か恐ろしいものの片鱗を見たみたいな印象だったような 中原が手放したあと、名人位は米長、羽生、谷川、佐藤康光、丸山、森内と有象無象の回り持ちとなった
大山の言う「誰かが天下を取っていなければいけない」という状態は、こんにちまで実現していない 大山一強時代は、高度経済成長期に被っているのに朝日名人戦の契約金は据え置きだった。将棋人気が低落したんだよ。河口篤の本によれば、升田名人全盛の頃は将棋欄が今より大きくて有名作家が観戦記を書いていたけど、60年代になって将棋欄が狭くなり内輪で観戦記を書くようになった。
中原一強時代が頓挫したのは営業的には+だった。 じゃあ、結局朝日はその時増額してたほうがよかったって事だな。
そのあとのごたごたを思えば。 結局のところ一強時代はつまらんということか
羽生時代は90年代は谷川がなんだかんだそこそこタイトルを取り合うライバルとして存在していた
2000年代も羽生を中心に回りつつも名人戦の森内、竜王戦の渡辺を中心に他の強豪がけっこういた
藤井聡太一強時代がいずれは暗黒時代と呼ばれる時が来るかもしれないな。対抗馬があまりにも薄い 升田先生の将棋は「面白い」からな
キャラクター的にも興行として成り立った
プロ棋士、トップ棋士が文字通り将棋という競技を切り拓いていた時代
女は挿される側だから将棋は指せない、なんて言っておきながら
女性ファンも多かったという人外
大山先生の「勝ち」と「地位」にのみ拘るという精神性もすげえ好きだが スレタイの3人で永世称号ないのが神武以来の天才加藤なんだよな。将棋は才能よりも努力なのかねえ。 大山時代は、多くの人が打倒大山に期待して裏切られつづける日々だった
中原時代も同じで、多くの人が挑戦者の側を応援し、たいていがっかりさせられた
羽生にはそういう憎たらしいほどの強さや安定感がなく、むしろ羽生を応援する人が多かった
それだけ頼りなく思われていたのだろう >>77
河口老師も4強という言い方をしてたね。
勝浦先生のことを4強に次ぐクラスと書いていた記憶がある。
4強は頭一つ抜けていたのでは。
それに次ぐのは、森、勝浦、大内、内藤あたりか >>64
ユダって言ったのは多分西村 少なくとも米長じゃない
この二人って本当は不仲でないと思う 米長が理事選で石田に負けた時
米長が石田如きに負けるはずがないとキレて途中退出したのが加藤
同様に内藤有吉は不仲でなくて本当に不仲なのは桐山説がある
林葉よりずっと前の中原が加藤に名人取られた時に
升田が「加藤が強くなったのではなく中原が弱くなった。原因は女」
と言っている あの名人戦では中原が当時では全く指す人がいなかった
構えを数局しており変なことするなあと思ったが土居矢倉風だった >>94
なるほどね。
おそらく棋風の変わった加藤流の攻め将棋への対抗策としてそういう構えで挑んだろうね。
「新手を用意できる研究時間を確保していれば昔の構えなど出してくるわけがない」って意味で升田は言ってるっぽいね。
あれだけ大山の記録を更新したがっていた中原だから本番は必死だったから十番までもつれて今でも82年の名人戦が記憶に残るって言ってるんだろうね。 >>94
米長加藤は仲は悪いよ。
若い頃はどっちもプライド丸出しの同族嫌悪
だったが、キャリアで圧倒してからは、加藤
が対局マナーが悪すぎ&天然発言のせい。
米長は自分の手の内に入らない人間を嫌う。
器は小さかったのかも。敵は多かった。
内藤が合わなかったのは桐山の方。有吉は
ナチス礼賛したりむき出しの闘志でちょっと
引かれた。 >>96
有吉がナチス礼賛?は初めて聞いた その話詳しくお願いします 中原誠 2日制4タイトル 1日制1〜2タイトル(年2〜3回)
20-21歳 大山名人 大山十段 大山王将 大山王位 / 中原聖前 中原聖後
21-22歳 大山名人 大山十段 大山王将 大山王位 / 中原聖前 内藤聖後
22-23歳 大山名人 中原十段 大山王将 大山王位 / 大山聖前 中原聖後
23-24歳 大山名人 中原十段 大山王将 大山王位 / 中原聖前 中原聖後
24-25歳 中原名人 中原十段 中原王将 内藤王位 / 中原聖前 有吉聖後 ※大山49歳無冠
25-26歳 中原名人 大山十段 中原王将 中原王位 / 米長聖前 内藤聖後
26-27歳 中原名人 中原十段 中原王将 中原王位 / 大山聖前 大山聖後
27-28歳 中原名人 中原十段 中原王将 中原王位 / 大山聖前 大山聖後 大内棋王
28-29歳 中原名人 中原十段 中原王将 中原王位 / 大山聖前 大山聖後 加藤棋王
29-30歳 ↓↓↓↓ 中原十段 中原王将 中原王位 / 大山聖前 中原聖後 加藤棋王
30-31歳 中原名人 中原十段 加藤王将 中原王位 / 中原聖前 中原聖後 米長棋王
31-32歳 中原名人 中原十段 大山王将 米長王位 / 中原聖前 中原聖後 中原棋王
32-33歳 中原名人 加藤十段 大山王将 中原王位 / 米長聖前 二上聖後 米長棋王
33-34歳 中原名人 加藤十段 大山王将 中原王位 / 二上聖前 二上聖後 米長棋王 ※大山59歳二上50歳
34-35歳 加藤名人 中原十段 米長王将 内藤王位 / 森雞聖前 中原聖後 米長棋王 35-36歳 谷川名人 中原十段 米長王将 高橋王位 / 森安聖前 米長聖後 米長棋王 中原王座
36-37歳 谷川名人 米長十段 中原王将 加藤王位 / 米長聖前 米長聖後 桐山棋王 中原王座
37-38歳 中原名人 米長十段 中村王将 高橋王位 / 米長聖前 米長聖後 谷川棋王 中原王座
38-39歳 中原名人 福崎十段 中村王将 高橋王位 / 桐山聖前 桐山聖後 高橋棋王 中原王座
39-40歳 中原名人 高橋十段 南芳王将 谷川王位 / 桐山聖前 南芳聖後 谷川棋王 塚田王座
40-41歳 谷川名人 島朗竜王 南芳王将 森雞王位 / 田中聖前 中原聖後 南芳棋王 中原王座
41-42歳 谷川名人 羽生竜王 米長王将 谷川王位 / 中原聖前 中原聖後 南芳棋王 中原王座
42-43歳 中原名人 谷川竜王 南芳王将 谷川王位 / 屋敷聖前 屋敷聖後 羽生棋王 谷川王座
43-44歳 中原名人 谷川竜王 谷川王将 谷川王位 / 南芳聖前 谷川聖後 羽生棋王 福崎王座
44-45歳 中原名人 羽生竜王 谷川王将 郷田王位 / 谷川聖前 谷川聖後 羽生棋王 羽生王座
45-46歳 米長名人 佐藤竜王 谷川王将 羽生王位 / 羽生聖前 羽生聖後 羽生棋王 羽生王座 2日制
中原名人 9連覇(10年連続)15期(16年在位) 21年中16年
中原十段 6連覇11期 14年中11年
中原王将 6連覇7期 13年中7年
中原王位 6連覇8期 9年中8年
通算41期
1日制
中原棋聖 5連覇16期 44回中16回(22年中8年在位)
中原棋王 1期 ※28歳からタイトル戦スタート
中原王座 4連覇6期 7年中6年 ※36歳からタイトル戦スタート(非タイトル時代に10回優勝)
通算23期
7タイトル合計64期 米長邦雄 タイトル19期
2日制タイトル 7期
1日制タイトル 12期
1日制タイトルに強い
加藤一二三 タイトル8期
2日制タイトル 6期
1日制タイトル 2期
2日制タイトルに強い
米長加藤のタイトル戦直接対決は2回
十段戦(2日制)は加藤勝ち 棋王戦(1日制)は米長勝ち
米長は1日制で強いがゆえに、2日制タイトルへの挑戦が多い(2日制タイトルの挑戦権争いは1日制だから)
そして2日制番勝負で中原によく負ける
「羽生に対する佐藤康光型」と言える
(違いとしては米長は1日制だと中原とほぼ互角に戦えたが、佐藤は1日制でも羽生に劣勢=どの舞台でも常に劣勢)
加藤は1日制で不安定ゆえに、2日制タイトルへの挑戦が米長より少ない
しかしいざ2日制の舞台に立つと中原といい勝負ができた
「羽生に対する森内型」と言える
(違いとしては加藤からは効率の良さが感じられない、中原からタイトルを取ってもすぐ他に取られがちである) 中原は26-30歳までの4年間、2日制4タイトルを全て獲得している
15回開催中15期(名人戦が一度、開催されていない)
名人9連覇、十段6連覇、王将6連覇、王位6連覇の中心の時期である
(一方で1日制の棋聖戦はトーナメントでコケて挑戦できない状況が続いた)
この頃が全盛期と言える
参考に羽生が2日制4タイトルを全て獲得したのは1995年度の1年のみである
(大山はさすがで8年間、2日制4タイトルを全制覇している)
上記全盛期の前と後の時期、中原24、25歳、31歳の3年間は
2日制4タイトル中3タイトル制覇である(参考に羽生はこのパターンが2年間ある)
この頃も強いが、完成しきる前(?)、そしてほころびが見え始めた時期ということになるだろうか
24歳のときは王位だけ取りきれず(内藤王位 挑決で中原は内藤に敗れた)
25歳のときは50歳大山に十段戦で一撃を食らい(フルセット負け)
ちょっとした取りこぼし程度だから、すでに全盛期だったと見ていいかもしれない
24-30歳を全盛期と見てもいいだろう
31歳のときの負けは、中原時代終わりの始まりといった負けである
王将戦で加藤に1勝4敗と惨敗している
33歳のときには十段戦で加藤にまた1勝4敗で負ける
そして34歳のときには名人戦でも3勝4敗と加藤に競り負けることになる
(中原はこの時期米長にも王位戦で負けているが、フルセット負けであった、そして翌年すぐ取り返している)
王将戦で加藤が中原に勝つ前に、2年連続十段戦で中原加藤の対決があり、どちらも中原がフルセットで勝利した
すでに加藤に苦戦する兆項はあった
加藤が2日制中原を攻略し始めたことで、中原時代は終わった
2日制でイマイチ?な米長ではなく、加藤が成し遂げたことが1つのポイントと言える
30歳過ぎた中原が弱くなり出したことと、そのタイミングで加藤が出てきたことの両面から見ると分かりやすい
中原が落ちだした時期と、加藤が安定し挑戦権獲得が増えた時期が重なっている 中原加藤の2日制タイトル戦 中原の4勝3敗
名人戦 ○中原(25歳)4−0加藤(33歳) ※例外
十段戦 ○中原(29歳)4−3加藤(37歳)
十段戦 ○中原(30歳)4−3加藤(38歳)
王将戦 ●中原(31歳)1−4加藤(39歳)
十段戦 ●中原(33歳)1−4加藤(40歳)
名人戦 ●中原(34歳)3−4加藤(42歳)
十段戦 ○中原(35歳)4−2加藤(42歳)
中原米長の2日制タイトル戦 中原の13勝4敗
王将戦 ○中原(26歳)4−2米長(30歳)
王位戦 ○中原(27歳)4−2米長(31歳)
王将戦 ○中原(27歳)4−3米長(31歳)
名人戦 ○中原(28歳)4−3米長(31歳) ※中原16世名人資格
王位戦 ○中原(30歳)4−2米長(34歳)
十段戦 ○中原(31歳)4−3米長(35歳)
名人戦 ○中原(31歳)4−2米長(35歳)
王位戦 ●中原(32歳)3−4米長(36歳)
十段戦 ○中原(32歳)4−1米長(36歳)
名人戦 ○中原(32歳)4−1米長(36歳)
王位戦 ○中原(32歳)4−0米長(37歳)
十段戦 ●中原(37歳)3−4米長(41歳)
王将戦 ○中原(37歳)4−1米長(41歳)
十段戦 ●中原(38歳)3−4米長(42歳)
名人戦 ○中原(39歳)4−2米長(44歳)
名人戦 ○中原(43歳)4−1米長(47歳)
名人戦 ●中原(45歳)0−4米長(49歳) ※例外
米長加藤の2日制タイトル戦 加藤の1勝
十段戦 ○加藤(41歳)4−2●米長(38歳) 中原加藤の2日制対決は、最初こそ中原の圧勝だったが(例外)
それ以外は中原が勝つにしても際どい勝負が多く
中原が負けるときは一気に持って行かれているケースが2回ある
サンプルが少なめなので難しいが、中原米長と比べると分かりやすくなる
中原米長の2日制対決は、最後こそ中原の完敗だったが(例外)
それ以外は中原が負けるにしてもフルセットで競り負けるパターンばかりである
2-4や1-4といったケースはない
加藤は対中原でだんだんいい勝負となっていったが
米長は対中原で最初は接戦が多かったのに、だんだんと完敗が目立つようになっている
2日制番勝負への登場自体は米長が加藤よりだいぶ多い
これは2日制タイトル挑戦権争いが1日制で行われるからである
1日制での安定感は明確に米長>加藤なのだろう
いざ2日制に挑戦すれば強いのが加藤、数撃てば当たるで頑張るのが米長である
前者は森内渡辺的であり、後者はやや羽生的なところがある
羽生は米長以上に数を撃てる(1日制で安定して勝てる)が
2日制で森内や渡辺が登場すると分が悪かった >>87
河口俊彦か川口篤か、どっちかに統一してくれ。 加藤は当初の期待をおおいに裏切って、最後まで大した実績を残せなかったが
丈夫で長持ちしたというのだけが意外な実績だったかもしれない
加藤は将棋界では嫌悪されていたよ
気ちがいに同情するのは、親族に気ちがいがいない人たちだけだと言う言葉があるから >>97
愛読書「マインカンプ」
後ナチスが好きとかではないと否定 名人1期、生涯獲得総タイトル7期の加藤猫に時代なんかねえだろ
三国時代? どんだけタイトル挑戦したのか知らんけど総タイトル7期が全て
強いていうなら加藤暗黒期間 加藤猫が名人1期とったあと将棋界は羽生登場まで混乱期に突入
中原も衰えたとはいえ名人戦に絞り生き延びた
そこに米長、谷川が跳梁跋扈
三国時代と名付けるなら、この時期
中原、米長、谷川三国時代 中原は30歳以降に女遊びに嵌った影響がモロに出てる
若かりし頃の中原は誰よりも研究熱心だと言われていたのに 自慢話を臆面もなく話すあたりは、明らかに異常者だと思う
自慢高慢バカがする 謙遜するという最低限の教養も常識もない
敵側に回って盤を見るなども、異常な行為だと思う 誰もそんなことはしない
いい歳をしてカトリックに入信するなども、まともな日本人としていかがなものか 若い頃のひふみんは将棋の勉強は本当にしてなかったというからな
沢山の定跡を生み出したのは勉強してないので自分で考えるしかなかったから
本人はひたすら美しい手を追求していた 中原は20代で素手にトルコ王と呼ばれていたらしいね
囃子婆に翻弄され醜態晒して晩節を穢し泥まみれになり、悲惨な晩年を過ごすのは自業自得 加藤は将棋棋士としては1.5流くらいだが、挙動不審の奇妙な言動はもはや病的
将棋界の格落ち長嶋茂雄と言える 中原加藤米長の盤外批判をしても強かった事には変わりないんだよなぁ
まぁあれだ、昭和40年代はリアルタイムでは巨人阪神中日の三強だと言われていたけど(広島大洋燕は万年Bクラス)、
後の世代から見ると巨人V9だから三強だったのが信じられなくてしょうがないんだろうな。
阪神の花形満が星飛雄馬のライバルな訳ないって思っちゃうんだろうな。 最終的に優勝する巨人が中原
昔から強いのに優勝少ない阪神が加藤
後から出てきて阪神と2位争いはじめだした中日が米長 漫画版の聖の青春だと
名人一期のことスルーされたり
負けて苦い顔してるとこしか顔出なかったり
先崎に「ご機嫌で聖歌うたってるときの加藤先生は強い」とか言われてて草 加藤一二三の履歴
師匠を逆破門して師匠変更
20歳で中学の同級生と結婚
ワセダ大学二文中退
40歳頃キリスト教に改宗
野良猫を囲い込んで近隣住民に迷惑をかけ裁判を起こされる
藤井ブームに便乗し約1年間有名タレント並の活動 >>111
それは自由だろ。干からびた残りカスの仏教
に文句言えたもんじゃない。
>>118
一芸枠だね。グラビア表紙で同期の吉永さゆりと
一緒だったのが人生の頂点。大山に完敗して
早くも転落が始まった。まあ勝手に転んだと
言う方が正しい。
他の中学生棋士はそんなことは起こらず、
着実に成長していったので、やはり相当
プライドと慢心があったんだろう。
加藤の何が武器か聞かれて、読む量以外
思い付かないもんな。むしろ「加藤の47
癖」の方が棋士にとって物凄い脅威だっ
たんだよ。大山の番外とは質が違う。 中原、米長とちがって加藤は異常者だった いなくなってよかった
今の将棋界の異常者は福崎文吾 みなが迷惑している
反吐が出そうなつまならい話ばかり
自分はおもしろいと思ってる 関西人の面汚しだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています