将棋好きの有名人 2
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狐狸庵山人の息子の龍之介氏(フジテレビ社長)が大学時代将棋部だったけ?
モテ会長と角落ち対局してたな。
いかに腕に覚えアリの人相手でも角落ち程度で負けたってのは、
接待将棋にしてもちょっとあざといような気もする。そんなもんか。 将棋ネタなんて話題にならんのもある。世間に「好き」と言えるレベルて
相当好きになってくるだろうし。 宮田麺児@miyatamenji
https://peatix.com/event/3055309
全国の酒蔵で2022年10月まで
大会をしてき ポイントで優勝者を
決める大会を作りました。
1st奈良 梅乃宿酒造
参加募集 子供24人 大人8人
ゲスト棋士 室田女流二段です
https://pbs.twimg.com/media/FCIv_KQVkAMzBPg.jpg >>23
加藤一二三唯一の弟子って書かれてたような、カトリックつながりだな 徳川家康は自身も将棋を相当な腕前で城に強豪を招いては指していた
家康が編み出したのが兜銀戦法と金屏風囲いとある
この兜銀戦法が進化したのが現在の銀冠という形になっていった
また金屏風囲いも壁銀にすることにより現在では金無双となったが金屏風の発展形、つまり金無双の原型が金屏風である
家康は基本的には居飛車を指すがその居飛車にて晩年は兜銀や金屏風を好んで採用したと世話役の日記に記載されている
金屏風は壁銀にせず玉を一路寄れること、端からの逃げ道を重んじた
壁銀にして端からの攻めに強くするより、端から攻められたら早めに二枚の金の下へと玉を早めに逃げて遠退くのを良しと考えていたという
その際、守りの銀(先手なら79銀)は銀の楯、あるいは銀の餌と呼んでいた
相手が銀を取るのに一手を使う分、家康の玉は一路遠くに逃げて追ってきた駒から遠ざかる
あるいは銀を取られた瞬間に反撃に出られると主張していた(早や逃げにより銀を取られた瞬間は自玉は王手にならないため)
囲いを城に見立てていたため、玉座の横の二枚の金は文字通り殿を隠して仕切る屏風であった故に金屏風と名付けられた
もっと詳細を知りたければ図書館で徳川家の文献を読めば対局相手のことや、家康のクセなど面白いことが綴られているので価値あり ここに出てきた有名人で存命の人で対局して欲しい
トーナメント方式でタイトル名は有名人戦
アベマあたりが企画してくれないかな
アマトップレベル将棋力だと言われてる遠藤周作の息子を捲き込んで 新型コロナウイルス専門家として各メディアに頻繁に登場する日本医科大・北村義浩特任教授(60)は、将棋歴50年でアマ八段の超強豪として知られる。
から始まる新竜王関係インタビュー記事が本日出てました >>33
確かにこの記事にも八段と出てるけどアマ竜王3回優勝しないともらえないんじゃなかったっけ
名誉八段なのかな
https://hochi.news/articles/20200916-OHT1T50113.html?page=1
>>32
大野源一先生の弟さんだよね。 田中角栄
ナベツネこと渡邊恒雄
桂三枝(前名前)
長嶋茂雄
昔、王監督は角(角投手)を多く使ってた 相撲の鬼雷砲
30年ぐらい前、初段免状獲得者に名前があった 北浦和の道場に小泉佳穂いきなり登場
https://i.imgur.com/htXyvsd.png
因みに先日の天皇杯準決勝で得点決めた子です 途中で終わったけど「父ちゃんの王将」を連載し、
親交の深い有野芳人の名前をドカベンスーパースターズに出した水島新司 空気階段 鈴木もぐら
「藤井と言えば藤井猛先生でしょうが」とか言ってた 山崎バニラと言う人もいたが
何があったか知らないがかなり辛らつな言葉を吐いて
将棋界と絶縁してたな >>58
将棋界は男尊女卑の社会なのでセクハラされたとか。強い=男性棋士が正義だからな。 >>57
https://www.youtube.com/watch?v=4nC59qPHfQg&t=1684s&ab_channel=%E6%9B%B8%E9%81%93%E3%83%9E%E3%83%B3
これはかなり強い 安部譲二(あべ じょうじ、1937年(昭和12年)5月17日 - 2019年(令和元年)9月2日)
1981年にヤクザから足を洗った。安部の前科は暴行傷害、賭博、麻薬、青少年保護条例違反など日本国内だけで合計14犯、また国外でも複数回の服役を経験し、国外での前科は3犯、国内と国外での刑務所生活は通算8年間に及んだ。
勝浦修は手合い係を務めていた新宿将棋センターで客として通っていた土地のやくざ安部譲二と指導対局を行い、「若先生、どうしたらいくらかでも強くなれますか」と問われ、「もう少し考えることです」とアドバイスを送った。
将棋はアマ有段者の腕前で、1989年には日本将棋連盟が発刊していた『将棋マガジン』誌上で、当時のA級棋士・タイトルホルダーとの二枚落ち自戦記『負けても懲りない十二番』を連載。大山康晴に勝利したときは人目も憚らず涙を流したという[27]。この時の連載は後に『突撃将棋十二番 トップ棋士との二枚落ち奮戦記』として書籍化されている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています