ふたわんを蓋椀と解釈したというのは、「ふたわんのゆき」に対して

どうして二椀なのか?という疑問があるから。

そこに疑問を持たない人は、それでおわり。詩の解釈は幅があるからそのまま
そう信じておけばいい。自由だ。

しかし、私はあくまでどうして「ふたわんのゆき」なのかにひっかかる。

蓋と椀でもいいし、茶碗二つでもいい、一つは蓋として使ったと考えている。

雪を二つの茶碗にいれてくっつけて片方の茶碗をはずすと、アイスクリームの形になる。
「ふたわんのゆき」とはそういう趣向を暗示しているのかもしれない。

とにかく、私がいいたいのは、疑問を持てば自分の頭であれこれ想像したり考えてみるといいかも
しれないということだ。誰かの書いた説をうのみにしたら、そこで終わる。