私はだいたい、戦法としても特攻隊というものが好きであった。
人は特攻隊を残酷だというが、残酷なのは戦争自体で、戦争となった以上はあらゆる智能方策を傾けて戦う以外に仕方がない。
特攻隊よりも遥かにみじめに、あの平野、あの海辺、あのジャングルに、まるで泥人形のようにバタバタ死んだ何百万の兵隊があるのだ。
戦争は呪うべし、憎むべし。再び犯すべからず。その戦争の中で、しかし、特攻隊はともかく可憐な花であったと私は思う。

彼らは自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。
否、その大部分が途中に射ち落されてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の栄誉ある姿と見てやりたい。
母も思ったであろう。
恋人のまぼろしも見たであろう。
自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。
彼等は基地では酒飲みで、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。
やむを得ぬ。
死へ向って歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後の若者が、酒をのまずにいられようか。
せめても女と時のまの火を遊ばずにいられようか。
ゴロツキで、バクチ打ちで、死を怖れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼等は愛国の詩人であった。
いのちを人にささげる者を詩人という。
唄う必要はないのである。
詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。
そんな化物はあり得ない。
その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?
 
我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。
軍部の偽懣とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。
 
私は戦争を最も呪う。
だが、特攻隊を永遠に讃美する。
その人間の懊悩苦悶とかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。

 
坂口安吾 『特攻隊に捧ぐ』  (1947(昭和22)年2月1日発行に掲載予定だったが、GHQの検閲により削除された。)
 http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45201_22667.html