一般論として言えば、死に直面した時、さらにその死が完全な不意打ちではなく、
思考に十分な時間を与えるだけの準備期間があった時、
どんな形であれ、人は個人の死を超越した概念に縋りがちとなる。
その対象が宗教だろうと国家だろうと近親者だろうと、
実はそれほど大した違いはないのではないかと思う。
いずれにしても、既にその者の人生は、「自分の人生」ではなくなってしまっている。
そのこと自体が問題なのであり、そこにどうおとしまえをつけるかということは
「個人の問題」でしかない