ふむ、半分は当たっているね。
ただし俺は「一般論」という保留を付けた上で、「しがちである」という表現で
断定は避けているだろw
まあこれは俺の個人的な思索の過程であって、別に道中矛盾してようがボロボロであろうが構わない。
失礼ながら既に君のレスはあまり関係ない。

というわけで、さらにボロボロな思索を続ければ、
上に引用された安吾の特攻隊賛美も、国家論とは全く異なる次元でなされている。
ここには「夜長姫」や「桜の森」を書いた安吾と同じ安吾、
つまり死に魅入られた安吾がいるだけだ。
安吾は東京大空襲すら「破壊の巨大な愛情」だとしている。
つまり、地震や天変地異の類と同じ自然現象だとみなしているわけだ。
こうした視点からは、戦争とテロの相違など、出発点から霧散してしまうだろう。
そして、安吾自身は「死 」そのものに魅入られていたので、
俺が上に述べたような「死を超越した概念」を必要としない、
ごくまれな「強者」だった。
生に執着しながらも、なおかつ生き抜くという選択肢を放棄せざるを得なかった者には、
国家や近親者といった「超越的概念」が必要なのであるが、
結局それは弱者の思想に過ぎない。
一方安吾は、純粋に作家的な興味から、空襲に見舞われた東京に止まり続けたが、
真冬に水風呂に入ったりして、いざという時に生き抜く訓練をおさおさ怠らずにいた。
つまり安吾は、自分の生も死も、他人任せでなく、自分でコントロールしていた。
こうした特異な一種の怪物が戦争を見るとき、それは目にも絢な超自然的スペクタクルとなるのである。
これは我々凡人がそうそう近寄れる境地ではない。
一方漱石は凡人なので、逆なことを言っている。
「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
やはり向う三軒両隣にちらちらする唯の人である」