カラコーは、じつは、じゅうようなことをいっている。それは、漱石のことだ。それは、文のもんだいだ。
文のもんだいは、じつは、フランスの、でりだという、あづまひろきがちゅうとはんぱに研究したさっかの、はなしで、
かなりつきつめられたが、未解明のことで、それを、漱石論におとしこんだところに、こうせきがあるのだ。ほんとうに。

文は、きんだいぶんがくが、なおざりにしてしまったけれど、明治のじてんではあった問題意識だったのだ。そして、
デリダのいう、西洋文学のほんしつてき問題点と、にほんの、明治期のそれはかさなる部分がいくらかあったし、じつはじつは、
これまた、おどろくひとはおどろくがおどろかないひとはあきれるぶぶんだが、つは、じつ、
あ、うーんと、いまなにかいたっけ。あ、そうだ。これは、ね、糸井しげさとの文ではありません。だーりんとか、おとこだろって。
ま、それはいいとして、なにがいいたいかというと、かきもとのひとまろが、むかしこれをかんがえていたし、
その「文の問題」が、いまだに、にほんぶんがくに、あとをひいており、高橋げんいちろうが、言ったりもしていたが、わすれられた。

そして、ぼくは、カラコーはみるめがかなりあったなあ、とおもっている。かなりね。じっさい、先に言っているのだから。