「栄光ある孤立―『エホバの顔を避けて』」
松浦寿輝

 「・・わたしは丸谷才一のあらゆる作品の何にもまして『エホバの顔を避けて』を愛さずにはいられない。
/ この異形の長編の著者は、その完成の後、これはもう衆目の一致するところの掛け値なしの傑作と呼ぶほかない長編『笹まくら』を書く。
・・わたしは『エホバの顔を避けて』を偏愛し、『笹まくら』を心から賞嘆してやまない者だが、ただし正直なところ、
第三長編の『たつた一人の反乱』以降、「裏声で歌へ君が代』『女ざかり』『輝く日の宮』『持ち重りする薔薇の花』と続く
 ― 先に述べた表現を繰り返すなら ― 上質な「市民小説」の系譜に属する丸谷の諸作には、あまり心が震えたためしがない。」

「実際、彼自身は『エホバの顔を避けて』を習作でしかないと考え、
彼なりの「近代市民小説」の試みの方を自身の本領として、それに自信と矜持を持っていたようだ。」 

「ところで、因果なことにわたしは、冗談にも雑学にもゴシップにも何の興味も抱けない人間なのである。
そんな男にはひょっとしたら「市民」の資格はないのだろうか。そうかもしれないが、それならそれでいっこう構わない。
本音をいうならわたしは、「市民」も「市民社会」も、けったくその悪い何かだとしか思っていないからである。
事実、『エホバの顔を避けて』には、「文明」的な「社交」を楽しむ「近代的市民」など、ただの一人も登場していないではないか。」