>>150

「地頭の良し悪し」や「知的体力の多寡」には個人差があると思っている。いわゆる「歯ごたえのある良書」を初学者のうちから読みこめるほど頭のいい人間は少ない。君は違うのかもしれないけどね。
相手の「知的体力の多寡」を無視して「自分の好み」だけで本を選択しても、自己満足にしかならない。俺が言いたかったのはそういうこと。

1について。粗製濫造は認める。だが「粗製濫造」であることが、齋藤の著作を全否定する根拠になるかと言えば疑問。君自身、著作のすべてに目を通したわけじゃないでしょう?
2について。「齋藤孝」の名前に釣られて古典を買う人が増えるのは悪いことじゃない。もっと突っ込んだ勉強がしたかったら、Amazonで検索すればいい。専門家の厳密な解釈に基づいた名訳と出会えるでしょう。
それにむしろ、齋藤訳を買うのは加地訳や貝塚訳の論語に挫折した人も多いんじゃない? そういう人は、齋藤訳で概要をつかんで加地訳に再挑戦するきっかけにすればいい。
3について。「意味の限定性」うんぬんの議論については深入りするつもりはない。だがそういうアカデミズムの厳密さを追求した訳を、全ての人間が必要としているわけじゃない。
「日常生活に古典の知恵を生かしたい」、そう考えて『論語』に手を伸ばす人だっているでしょう。古典には複数の翻訳がある。翻訳のスタンスも硬軟さまざまなものがあっていい。

「本はあまり読まないけど文学部に入ってしまった哀れな大学生」の知的体力は、たかが知れてるよ(中には君のような例外もいるかもしれないがね)。
新書一冊、読み込むのに苦労する人も多い。そういう人に、何のステップも踏まずに「歯ごたえのある名著」を勧めても仕方がない。そういうのは『必読書150』にでも任せておけばいい。

ちなみに俺は齋藤孝のファンじゃない。齋藤孝や茂木健一郎のような著者の粗製濫造ぷりには辟易している。
だが初学者向けのいい本を書いているのも事実。「間口の広い」、あるいは「挫折しにくい」、そういう「とっかかり」になりそうな本をいっぱい書いてる。
そういう本を踏み台にして、古典的な著作にすすんでいけばいいんじゃないの?

君のように頭のいい人にとって、齋藤の著作は「悪書」なのかもしれない。だが「踏み台」として、そういう本を必要としている層も確実にいるんだよ。