>>54
「軸」とか「原理」とか、なにそれ? 
他の人の例でもいいけど、具体的にどんなのを想定してるの? 
マルクス主義に抵抗するのに「原理」で以てするなら、イデオロギーに嵌ってることでは一緒になる罠。
あの手この手の「方法」はあっても、何にでも当て嵌められる便利な「方法論」なんてあるもんか
――ってのが谷沢のスタンスでしょ。
佐藤春夫が菊池寛と批評基準について論争をやったときの言葉を谷沢は引いてたっけ。
「万人を首肯せしむるに足るさうして馬鹿と不正直者とが使つても決して狂はない物差し」
……そんなものがあり得るか、と。
「印象批評は彼自身の全て(勿論、彼の理性もそのなかに這入つてゐる)を一つの物差にする。」
だから『大正期の文芸評論』でも、批評家たち(の文献=テクスト)に即しながらそこに内在する論理を手繰り寄せたんでないの?
今度は谷沢って「批評家」の文献を解剖して、その論理(原理ではない)を明らかにする作業が求められるわけだ。