前スレで、尾崎の「第七官界彷徨」の後半部分において花田清輝による
代作が行われたのではないか?という推測を述べたのは俺なんだが、
その続きを言う。
尾崎翠の「第七官界彷徨」は昭和6年5月に雑誌「新興芸術研究」に
全文が掲載されたが、編集は板垣鷹穂で、その妻・直子は尾崎翠の
日本女子大での同期生だった。
この直子は雑誌『改造』の昭和7年7月号に掲載された三木清の文芸時評の
文章を、ケーニヒという人の著作からの剽窃であるとして、翌年の
東京朝日新聞の記事で攻撃した当人だった。だが、この三木清と、直子の
夫である板垣鷹穂には接点があった。昭和5年から6年の初頭にかけて、
板垣鷹穂は天人社という出版社の「新芸術論システム」(全20巻)という
企画に携わっており、その中から、中河与一「フォルマリズム芸術論」などが
出版されていたが、編集の中心人物は板垣鷹穂で、出版はされなかったが
三木清の「新興美学の基礎」なども予定されていた、というのだ。
つまり、三木と板垣直子の剽窃問題でのやり取りには伏線があった可能性が
ある。そして、その伏線があったとしても、三木と直接に関わっていたのは
夫の鷹穂であり、直子自身ではなかった。何が言いたいかといえば、直子の
三木を攻撃した文章の実際の書き手は彼女の夫の板垣鷹穂自身ではなかったか、
ということなのだ。さらに、板垣直子はゲオルヒ・グロナウの
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の日本語訳を岩波から1923年に出しているが、
彼女が真の翻訳者だったのか?という疑いがある。何故かと言えば、彼女は
美術評論関係の著作がその後、皆無なのに対して、夫の板垣鷹穂には数々の、
イタリア美術についての著作があり、しかも板垣鷹穂はドイツ語に
堪能だったから。
ちなみに、板垣鷹穂の「現代日本の芸術」によれば、翻訳が出た1923年は関東大震災の年であり、その年のクリスマスを妻・直子は長女出産のために病院で過ごしたそうだ。
俺の推測では、板垣鷹穂は代作ということに余り躊躇しなかった人なのでは
ないか?ということなのだ。天人社については以下を参照。
http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/f61208a58a26767261646ad4aa87ca33