小説にしかできないこと
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とある時代小説にこんなシーンがあった。
数人のゴロツキが束になって剣豪に襲いかかる。
一瞬のうちに剣豪に打ち倒されて、地面に転がるゴロツキたち。
「安心せい、峰打ちじゃ」剣豪は去ってゆく。
やられたふりをして倒れていたゴロツキが起き上がって、剣豪の背中をぼんやりと見送っている。
この、「やられたふりをして倒れていた」ってところをさらっと書くのは、小説にしかできないね。
映像や漫画でやると、何カットか必要になるから、余計な意味が生まれてしまう。
「説明」こそが小説の持ち味かもしれない。 >>1は要約だよな?
原文を載せてくれないか?
その要約はいまいちだと感じた ついでだからみてみればわかるけど、
http://t0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcT3iFbYcR92H8pgaX15VBrypxb21zxoLrYMGw-nh7v98m7_MnJXc1_PtOPLiw
うちなー(琉球)・アイヌは一番原型の日本列島の民に近い。次が東北・九州。
倭王朝は朝鮮からの渡来人を途用して職工に使ったから、近畿にその性格と血が古来多く注入された可能性が高い。
だから今でも関西人の中には弥生顔が多い。お笑い芸人をジャニーズと比べればすぐわかる。
性格も商業気質を持っているし、したがって狡猾で貪婪なのはそこに付属してきたからだろう。 意地悪して太宰に芥川賞やらず、結局自殺させたのも川端。最後のガス自殺も自業自得 ちなみに、四国は関西の相似というか、吹き溜まり。大江が生前、どれほど村上に嫌がらせしていたか知っている者は多い 川上は、やはり関西人だからなのか、宇野にすさまじい嫌がらせをしてきた。ネットでも酷い。
ほか、綿矢と村上、場合によっては柄谷が各作家にした嫌がらせの量はすさまじい。関西人の性悪。 まあジャネット氏によれば、これらは人種差別なのでよくないらしい。
優生学もあったし。
これらはただの観察だけど自分は確かにそういう傾向あると思うね。微妙な差なんだけど。 小説にしか出来ないことではなく小説に出来ないことの例ですねよくわかります 作家志望のまま10年以上燻っている奴が知人にいるが、そいつの文章にそっくりだ
確かにこんな文章しか書けないんじゃ作家にはなれんわなあw ストーリーもドラマもないベケットみたいな小説こそ、小説でしかできない 自分の批評能力の全てを今の時点で使って予想するが、
今現在、小説と呼ばれている世界、近代小説の後駆として出て来ている世界は、
全て跡形もなく消滅するんじゃないか。歴史の彼方に忘却されて。
今の自分の心から言って、綿矢りさという人物が小説を書いている。
この人物がいた方が幸せかいない方が幸せか。いない方が幸せだったから。
第一に、小説とは心が痛む物、心を傷つける物、習俗に媚びたり、人間を救済するのではなく搾取する物が多過ぎる。
人間に不幸感を与える文化が生き残る世界など有り得ないだろう。人間の為の文化なんだから。
小説を持つ文化と持たない文化があったらはっきり分かるだろうが、持たない文化の方が優れている。
だから、自分の批評能力が語る限りで小説世界は消滅すると思う。今の出版社やそれを買う人々には理解不可能な程。 小説によって虐げられ、傷つけられ、持たざる嫉妬を煽られたり、心を痛めている人々は安心していい。
小説家や小説を販売する事で生計を立てている現実の人物達は、おそらく世界の中での一つの罠なのだ。
偽預言者という聖書の語句もある。嘘をついて人世を誑かす者を、中国語で誨淫譏世と云う。古来から悪徳の名義なのだ。
古代にも同様の、嘘吐きによって銭を儲けたり人々から何らかの財産をせしめる者、詐欺をする者がいたのだろう。
しかし、聖書の句に示される通り人はそれよりも立派な考えの方を遺して来た。同じ事は未来へも言える。
『源氏物語』という乱倫書を形式的に誉めたてる勢派も、長い目で見れば取るに足らない、淘汰されゆく皇族を含む下々の悪風に馴れ親しむ腐敗した者でしかないだろう。
だから文学は、すべきなのだ。文学を通じて、数々の邪道を去れば、その永続していく道の様に立派な世界観を得る事になるだろう。 ギリシア語のエロースの中には、本来、善美が含まれていたのを見て取ればいい。
醜さには悪という側面もある。
だから、エロースつまり優れ方の中にあるものは、本来、アガペーと呼ばれている慈悲と同じものだ。
この真相を知らない人は、片方にかたよって別の理論を示してしまう。だがどちらの極も間違いだ。
それらは同じものごとの追い求めでしかない。あしきものは同時にみにくく、よきものは同時にうつくしい。
小説の中に悪を織り込む人々は彼らのみにくさのためにそうしている。それだけなのだ。 このスレッドの趣旨は形式主義的な小説手法論といった類いだろうが、
今言ったことがわかれば、つぎのことにさとるだろう。
小説の特徴は、単に優れ方の特定のあらわしでしかない。虚構内虚構、つまり
入れ子の様になったものごとの説明法も、おなじことだ。
絵の中に絵描きを描く者はそれを単に手法としてする。小説も劇作と見れば同じにすぎない。
本当に優れ方をもった本は、単に文体とか語り口といった観点ではなく、この優れ方の描写がいいだけなのだ。 すなわち源氏物語こそ日本が誇る一級の作品であり
村上と綿矢が日本文学の明日をになうとわたしは言いたい >>75は成り済まし。おそらく村上春樹が行なっている。いつものパターンだ。
優れたものへの成り済ましは村上春樹がコピーの性質を持っているという一つの証左でしかないだろう。 源氏物語によって心を傷つけられる人がいる、この事実は
その書物が決して「本来の書物」ではないと教えている。
人間の心は完全な状態にはない。
完全な幸福の心は、一体、傷ついたり感傷したりするだろうか。
そういう心は、単に不完全な心を説く、いつわりの文物でしかないのだ。 村上春樹の業を見ていてそこにみにくさを感じるということは、
人間のこころのよさは、「ぬすみ」によっては決して示されないと、その事実は教えている。
「ぬすみ」をみるとき、人は心をきずつけられる。ぬすまれた方は、ぬすむ方をにくむ。
それが名であったり、こころのありかたであったり、物であったりする。
これらどれであれ、ぬすまれる方は成り済ましによって本来のこころのありかたを歪まされてしまう。
ぬすみによっては本来の文物をうみだすことはできない。いつわりの一つにはぬすみがあるのだ。 村上春樹はおのれのおとりかたを、ほかのこころの「ぬすみ」ではたそうとこころがけた人物らしい。
かずかずの実例がそれをおしえている。
このぬすみによってなにもえられないことは、かれの仕事やその評価がのちにはっきり証するだろう。
ぬすみでひとは傷つけられる。そこにはなにもないこと、ほかのもちものをとってきたというわざわいを見てとるからだ。
大江はさきにこのことを、芥川賞の審査の際にいいあてていた。村上はアメリカの小説をぬすんでいるにすぎない、と。 神はすべてを見ておられる
本当の悪人を地獄へおくる 盗人は盗人にふさわしい因果応報にあう
神の手によりて >>83
>>85
>>86それはお前だ。上に書いたことはいつわりではないか。
マサオミへはすでに説明してある。
わたしは数度それを、マサオミの荒らし性を鏡にみせるためにつかったがそれ以外にはまったくつかっていない。 お前ら全員俺のHn泥だから。
ハナレメってのは俺じゃない。あんたら
川上弘美が何もできない無能なりすましの
ジャップ
78 名前:吾輩は名無しである :2012/03/14(水) 23:37:11.68
離れ目マサオミ乙
79 名前:吾輩は名無しである :2012/03/14(水) 23:39:10.77
つくだに=まさおみ=ランドール=川上み=川上ひ
綿矢りさを地獄に送る。人間の心象を意図して傷つける悪魔。 ツハラよ、離れ目を気にしている川上弘美の
HNドロを援護してるお前らとグルの、
俺(将臣)みたいに
石原援護してHN泥の川上弘美に反発してる?
お前の同一視には無理がありすぎる。
ただあおって俺になりすましているだけだ。
第三者ぶってイコールでつないでも
HNドロが弘美組だとバレている。
俺のストーカーだっていってるし
佃煮ランドールは、石原憎悪でピースの側だろ、
ピースと仲良く会話してるじゃないか。
あんたらの使いだろう、佃煮ランドールとカギは。
カギを応援してるのが佃煮だ。
おまえらブスのキチがいってることと
ちがって 佃煮がピースやカギと
そっくり同じで弘美派だってことは
色々ハーマン椅子のときから証拠あるだろ?
今は似非右翼 石原慎太郎スレ5とかに
佃煮が石原を殺人恐喝してる資料がある。
佃煮はピースと同じ、つまり弘美の手先だ。
盲信によりて平野や村上や綿矢や関西人を誹謗中傷した罪は
未来永劫きえることはなくその罪の印は刺青として身体に刻まれる 村上の野心は潰えるだろう。
私はその野望があしきこころと、いつわりの業にみちているのを見た。
綿矢りさをひきつれてもおなじこと。
綿矢りさには他人の「よさ」を貶める、いつわりの流布によってたくらませる悪性がある。習性なので消えないのだ。
また、源氏物語は世界の民衆によっておそかれはやかれ焼かれる。人類は不幸を増す物を保持したがらない。 >>92それは鏡に写されているお前たちの業に過ぎない。
その罪とやらは、お前が作り出しているのだ。 世界の観察者は作りごとによって模倣をする。
いつわりの流布は遠からず消え去るものだ。
人類は勘違いを長く続けていられない。いつわりの流布には当人の「ぬすみ」を示す効果しかないのだ。 小説の習慣を持つ人々は、世界のよきにつけあしきにつけを記録したのだが、
それらの上に「優れ方」がなかったとき、それらは十分に貴重ではなかった。
そしてこの優れ方が十分ではない時、それはぬすみだった。
小説づくりのたのしみをもつ人は、語りのたくみによって記録をするかぬすみをするかに別れた。
記録をした人だけが小説のまことしさを得た。そうでない者はぬすみによってうそつきになった。
うそつきがにくまれ、おとしめられ、しいたげられたすがたを見た者はそれを理解するだろう。
小説にしかできないことは、まことしさを語ることにすぎない。そして、それは優れ方にこたえて作られる話だ。 人がかきつけた小説のことばのうち、孤独な地の文と、おおぜいの声があった。
おおぜいの声のうち、それらの劇らしさ、はげしさは感情をともなった。
感情にはさまざまあるが、それらのことばの上にすぐれたありさまがある時だけその声はよき感情をみつけだした。
よろこび、たのしみなど私達のしっている幸福のことばはここからきた。
しかし、それらのおとりかたを示した作者は、不幸のまねごとをした。ここから、
私達のもっている悲しみ、悔いなどがあらわれた。
孤独な地の文はそれ自体の語りをもたされるが、どこまでも語りを出なかった。
小説とはその様なもので、人事をかきつけた文章となって配られた。 優れかたのおとったものの私ごとをかきつけた小説は、それ自体として悲喜劇となった。
おとったものを書き付ける者は、小説の代価としてうらみやにくしみを得た。あるいはおとったものの賞賛を得た。
すぐれかたのまさったものの私事をかきつけた小説は、聖書となり重宝された。
すぐれたものを書き付けた者は、小説の代価としてうやまいととうとびを得た。よきにつけあしきにつけ、
これらの小説は、ひとのこころから写し取られた「ひとごと」の物まねとして人々の間に配られたものだった。 こころのよさと、こころのわるさは共に別れていった。
よきこころのもちぬしはその社会をこころよく作った。あしきこころは逆を作った。
よきにつけあしきにつけ、社会がもってきた書物も同じだった。小説がそのなかに入っていた時、
すぐれた心はすぐれた本しかもちこまなかった。
優れたことを語り優れた世に住む者は、世のあしきおとったものの賞賛からはなれた。
そしてこころのとおさから近寄らなかった。こうして、まことしき小説はいつわりの小説とわかれていった。
まことしき小説のすぐれかたは、ひとびとのrealityを実質化した。偶像を厭う心ができあがり、その心を純粋に保った。
こうして、いつわりの書物は去り、それは「おろかもの」の中にとどまることになった。作りごとはまことしさを道として、
文の質をそれをよみとる心とともにまったくことならせていった。よき人のこころはこうしてはぐくまれたものだった。 小説の目的はかくして、すぐれたこころの持ち主を生み出すよすがとなる事だった。
この為に役立ったのは聖書だった。 川上弘美は実際55才で
さといものにころがしのようなカオをした
平安時代のオカメの仮面のような
二重アゴで目がほそくたれさがり
離れている。
しかし俺のHNドロをして
オナニーしてる変質者で
日本というものの本質が弘美なのだ。
要するにオナニーしてる間は
俺のつもりなわけね。
でHNドロでAA戦車で
キレさせて「サイバンダーサイバンダー
弘美=佃煮=ピース=カギ=烏賊=
レイパーの悪行を批判するなら
ミエ子を賛美したことになる」
っていうんだぜ。 >>1がいうのは、語りのかたりらしさという意味では。
話術はこれだけをいいあらわす言葉。 固定なら固定らしく、すぐに名無しになったり他人のハンネ泥したりするなよ
それができないなら半端なハンネなんか付けるな
ということでR あんたが名前を盗作してるんだろ。
トリつけろ詐欺のピースが
つかいすてのコテなんかつけても
だーれも名前だとおもわないし
才能もカオも作品もなんもないじゃないか
ハンパな使い捨ての名前つけてるのは
おまえら。俺は自分の作品の板を
ケイから潰されたから
しかたなく2ch利用してるだけ。
あんたは2chにしかいないゴミ >>109マサオミの言うとおりw
大体、他人へ成り済ましするのは盗癖・虚言癖のある村上1人 只で読んでおいてこの傲慢な態度は、間違いなく村上ゲスゴキ当人。
銭儲けにしか目のないとんでもないゲス。ミニハン・ツクダニとクリソツ 成り済まし犯罪はそのうち天誅下る。時期が遅れる時は余計大きくなるだけ。
中国の歴史を知っている者は名前が神聖な事を知っている筈だ。
孔子曰く、君子に三畏あり。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。
小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎れ、聖人の言を侮る。
さて、村上はどちらだろうか。
大人に狎れ成り済ましをし、その言を侮り、天命を知らずしておのれの便宜の為だけに名をなのらしむ。 小説はいかに無駄を省くか、少ない情報量でイメージを膨らめさせられるかが重要。 文学も音楽も絵画も芸術である。
だが、文学は文章から想像力で絵や音楽もつけられる。
だから、文学は優れている。 文学で扱えるのはあくまでも「絵や音楽を文章で表現したもの」であって「絵や音楽そのもの」ではないよ。
そこのところをきちんと区別しないから「文学は優れている」という間違った判断をしてしまうんだな。
優れているor劣っているという判断はその下のカテゴリーでないと使えない。 >>117
同意。長編小説のほとんどはこの原則に反している。
だから飽きられる。 長編なんかより短編のほうが芸術的価値が高いのは確か。
マラソンみるより、百メートル走みてるほうが芸術的なんだがなあ。 やらせA 就活中
(p)http://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/3/1/31a6f8e6.jpg
やらせB 就職後
(p)http://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/2/b/2b790359.jpg
世論調査もこんな感じで捏造してます
東京にある6つのキー局の内、製作から財務まで一貫して朝鮮人が行ってるテレビ局が1つ
中国共産党から毎年大量の反日工作費が流れているテレビ局が2つ
もろに北朝鮮と繋がっているテレビ局が1つ
年寄はまだまだテレビという外国人に騙され続ける
オレオレ詐欺なんて年寄がどれだけ騙されやすいかという社会実験でしかない
馬鹿はいつまでも騙される
「思考」を中心に据えた藝術作品は小説以外にない。
人間の思考は言葉によってしか捉えられないゆえの当然の結論。
他のあらゆるメディアに転用不可の、真の小説のキーワードが「思考」だ。 芥川賞作家の村田喜代子さんは、「誠実に言葉数を費やす」ことが散文の特徴で、
「最小限の言葉数で語る不誠実な文章を書いてはいけない」って言ってるよ。
よく言われる、説明せずに描写しろ云々は、たぶんこういうことなんだろう でも小説が下手な人は書き足し書き足し重ねたりこまかい直しを繰り返した
りするよりもなるべく簡潔にまとめたほうが 遠藤周作とか長いから詳しいじゃなくて上滑りが続いてる感じだし
約20年前「沈黙」とか愛読してた(愛読してそうだろ?)んだけど 朝吹のキコトアの最初の二行とか要らねえよ(要らないってわけにいかないだろうけど) 127を田中慎称とか小説サラリーマンとかが念頭にあった(遠藤じゃない テレビアニメとかテレビドラマみたいな小説なら誰でも書ける 実際小説ならではの表現を追求してないから小説読む人が減ったんだよな
漫画や映画でいいじゃんって感じで 小説ならではの表現を求めてる人が非常に少ないってのがまずもって問題じゃね。要するに漫画や映画みたいなものが求められてるわけじゃん。 「漫画や映画みたい」を文章だけで書けたら天才だお。(笑) >>134
天才?
ラノベなんかただの漫画じゃん。
ミステリーだの恋愛小説なんて、ただのテレビドラマじゃん。 どうも文章の下手なヤツとは話がすれちがっちゃうな。^^
例えば「第三の男」のラストシーンで、
遠近法の描き方の教科書みたいな画面の、情景の点から点の女が現れて、
その女がずーっと歩き続けて来てどんどん女の姿が大きくなってくるだろ?
あの通りのように、で男と女を逢わせたいと思ったら、それを文章でどう表現するか?だよ。
そーゆーことを言っているんだよ。(笑) >>136
そういう風に書けばいいんだよバカ。
ただの異化なんだよバカ。
バカみたいな小説しか読んでないから書けないんだよバカ。 >>137
じゃあオマエ、そういう風に書いている、その現物出せよ。(笑) 突つ立つてゐる私を見た踊子が直ぐに自分の座布団を外して、裏返しに傍らへ置いた。
「ええ……。」とだけ言つて、私はその上に腰を下ろした。 昔は座布団に腰を下ろすのが普通の言い方?
座布団にあぐらをかく、正座する、が普通じゃないの?
腰を下ろすって、じゃあ足は投げ出して座ったのか?とかと。 俺はデキる、と一言だけ言うのは誰でもできる。
それをどう文学的に深く描写しかつ面白く書けるか。
というごく当たり前の事をここに書かなければならないとは。 んな短い切り取りだけで判断するなよ。(笑)
はやくまさおみが復活して埋め立ててほしい。(笑) 映像化しても漫画にしてもつまらねぇ、魅力を再現出来っこねぇ、そうゆう小説といえば何だろう?って考えたら逆説的にスレタイの答えが出てこないかな?
ちょっと答えてみてくれ。 描写って、ほんとに小説が得意とすることなのかなぁ?
映像がないのを逆手にとった表現っていうのもあるよね
「死の接吻」とか 写真だけのウェディングがはやってるように。文学も簡略化されてるかもしらん。 映像や絵は視覚に直接訴えかけるけど、文章は文字を通して想像に訴えかける。つまり、アプローチがまず違うんだ。 視覚の情報は強いから、うっかり小説を映画化したやつなんかを見ちゃうと
自由イメージだった主人公の顔が俳優とガッチリリンクしてしまうこともあるよなぁ >>150
そもそも、祝祭的な小説はすくない。
さらに人生に、結婚式なんて陳腐な祝祭は必要不可欠ってわけではない。 婚姻届出せばいいだけじゃんね。なまじ祝ってもらってもすぐ別れるんだろうし。 『元東京電力女子サッカー選手「なぜ東電を叩くのか」
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/atom/1301824469/
【社会】「Jヴィレッジ」寄贈が契機 自治体が東電に苦情や多額の寄付要求の連鎖 郡山市30億 柏崎市60億 刈羽村40億
ttp://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1316202161/』
『【労働環境】東電、福島第1原発作業員の食事無償提供を打ち切りに [09/14]
ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1315974439/
忘れ去られていく作業員
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/lifeline/1317126467/
【労働環境】東電、福島第1原発での女性作業員の勤務再開を発表 [03/10]
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1331352299/』 小説には映像みたいな意味での「時間」がないよね
たとえば、あと1分で時限爆弾が爆発するっていう場面を小説でやっても
映像でやるほどにはハラハラしないんじゃないかな
文章を想像の中で映像化するというのも、浮かんでいるのは案外、紙芝居みたいに断片的な映像なのかもしれない ユリシーズや失われた時を求めてを読めばわかるこった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています