「私は何か」「人間とは何か」。それらの問いは広すぎ、茫漠とし、馬鹿げて
いて、解答など存在しない。
 もし誰かが「机とは何か。なぜそれはここにあるのか」「コップとは何か。
そもそもそれは何なのか」と問いかけるなら、それを聞く者は、彼に精神科を
受診するよう勧めるだろう。あるいは誰かが「神とは何か。それはなぜ存在す
るのか」と今日問うなら、やはりそれを聞く者は、彼の文化に同情と敬意を払
いつつ、彼がその問いを諦めるのを待つだろう。

 そして「人間とは何なのか、私はどこからやって来たのか」という問いも、
それが昼の明るい陽射しの下で声高に問われるなら、やはり精神科の管轄に所
属する。しかしそれが昼の陽射しと生産と交換の最中(さなか)でなく、夕暮れ
から夜の時間に、声になるわずか手前の喉元で出されるなら、人がそれを発す
るのを誰も聞いたことがないのに、人がそれを発しているのを誰もが知ってい
る、ありふれた問いとして、今日でもなお存在する。
 それは哲学の最後の避難所、あるいは哲学と神経症、「存在」と「人間」の
燃え滓のようなものだろうか?