太宰のいた山梨- 蘇生の地をたどる/下 今も人々ひきつけ続け 家庭築き作風明るく /山梨
「津島(太宰の本名)さんが手ぬぐいをぶら下げ、喜久乃湯温泉に歩いていく様が思い出されます」甲府市の輿水浜子さん(84)は懐かしげに目を細めた。
太宰治(1909〜48)は1939年1月から8カ月、甲府市御崎町(現朝日5)で妻美知子と新婚生活を送った。輿水さんは家主の娘だ。
太宰は38年秋に御坂峠の天下茶屋に滞在。甲府で中期の代表作「富嶽百景」を書き上げ、39年2月に発表した。太宰は甲府の家の窓辺に腰掛け、富士を眺めていた。
太宰は家賃を勝手口に黙って置いていくので、帳簿を届けるのが少女時代の輿水さんの仕事だった。「お駄賃にビスケットをくれるのは美知子さん。津島さんは猫背で着物に懐手」。
輿水さんの父親は「小説家なんてものはぶっきらぼう。ゆきあっても、ものこきゃしん(物も言わない)」といぶかっていたが、輿水さんは違った様子も覚えている。
「裏から家をのぞくと、1本のバナナを美知子さんと仲むつまじく食べていました。私は玄関先のたたきに大きく『ふうふのいえ』といたずら書きしたんです」
近代文学者の東郷克美・早稲田大名誉教授によると、この時期の太宰は「富嶽百景」「愛と美について」など、再生を主題とした明るい作品を多く著した。ゆえに東郷氏は甲州を「蘇生の地」と呼ぶ。
太宰は39年9月、東京・三鷹に移り住んだが、その後も、妻の実家である甲府市水門町(現朝日1)の石原家を訪れた。ただ、時代は急速に戦時色を帯びていた。
41年に太平洋戦争が勃発。戦局は悪化し、東京も空襲を受けるようになる。45年4月、一家は甲府の石原家に疎開。
しかし、同年7月6日の甲府空襲で焼失した。その後、津軽に疎開して終戦を迎え、46年11月に三鷹に戻った。