あんなに闊達自在に自前の文体を発明した吉田健一の「愛読者」らしい人が、
どうして窮屈な死んだスタイル(しかも使い切れてもいない)に拘るんでしょうね。

たとえば石川淳が推薦文などで戯れに漢文体を使ってみせたときには、古い文体に
新しいエネルギーを吹き込みえたから、見事な文人の芸だった。

しかしこの人の擬古文にはいったいどんな意味があるんでしょう。
これを読んで引かない人っていないんじゃないか。正直きもちわるい。

まあ、人それぞれですから、いいんですけど。