「文学放浪」に多くは語られていないが、吉行の背後にはエイスケの弟子、十返肇がいたことを無視できない。文壇事情にはゴシップを含め異常なほど精通した人物だった。
「原色の街」の雑誌掲載に尽力するが、その結果舟橋聖一の知るところとなり、その推薦で芥川候補に。吉行は新人として表舞台にでる。(舟橋は初対面の吉行を「淳ちゃん」とよんだ)
受賞選評にはエイスケを懐かしむ声が目につく。
佐藤春夫「幸い一しお奮励して乃父の遺業を遂げよという席上一同の期待にそむかざらん事を。」
舟橋聖一「故吉行エイスケとは、新興芸術派時代「近代生活」の同人であった。その子淳之介は病体である。これで元気になって、快方に向いて貰わなければならない。」
丹羽文雄(初候補時)「父君が生きていたら苦笑することだろう。ねちねちした味をもっている。特異な触覚。今はまだ光りも弱いが、何か出て来そうな気がする。」
川端康成はいうまでもない。
吉行が亡父のコネを行使するのを「寝覚めが悪い」としたのも理解できる。


初候補のときの受賞作が堀田「広場の孤独」であったことは吉行に危機感をあたえたろう。戦後派が再浮上してはお先まっくらである。齢若い「戦中派」としては同士をあつめようとする機運が働いて不思議はない。
隠然たる盛名をもつ人誑し、いや人望の魅力の吉行がスカウトに動きだす。庄野『舞踏』安岡『ガラスの靴』小島『小銃』三浦『冥府山水図』近藤『遭難』など処女作で相手をみきわめアプローチを図った。
おどろくのは第二次戦後派の島尾までも市ヶ谷にひっぱり込んだこと。『夢の中の日常』をよめば吉行、安岡らの元祖といえる。発泡酒が第三のビールになったのだ。
のちに「文壇の人事課長」(江藤淳)といわれる所以であろう・・・。